牧師室から

牧師室から No.178  2021/9/12

毎週末にぐるっと一周、桑名から員弁まで車でまわって、コロナ禍にあって会堂に来ることのできない方のご自宅に、週報と説教原稿を届けています。それなりに距離はあるのですけど、毎回、新しい発見があって楽しんでいます。たとえば知らなかった裏道を見つけるとか、田んぼに美しい白鷺を見つけて、しばらく眺めるとか、雨の後の日差しが差し込む竹林の美しさ、匂いとか、北勢線の小さな車両が走るカタカタという音も魅力的です。混んでいる421号線を回避して北の外周を上り、員弁川沿いを下ってくるルートは、身近に自然を感じる事ができます。ただし、スピードを抑えて安全運転ですね。肝に銘じます。さて、そんな週末ドライブですが、思いがけない出会いも与えられます。給油の為に立ち寄ったガソリンスタンドで店員さんに声を掛けられました。「あなたはクリスチャンですか?」ビックリしました。反射的に「はい」と答えます。「そのTシャツ、ジーザスと書いてあるから」私は赤いTシャツを着ていて、胸には大きく【Catch Up with Jesus】(イエスさまに追い着く)とプリントされています。「私は牧師で…」と自己紹介すると、その婦人も、桑名市内の教会に通っていて教会学校を担当している、と話してくれました。そして「共に神の福音を桑名に伝道しましょう」と明るく挨拶を交わしました。とても元気づけられました。桑名教会でもステッカーを作って、みんなで車のリアガラスに貼れば、よい伝道になるかも知れません。もちろんオシャレなデザインで。信仰によって私たちは個人の能力や資質を高める恵みを与えられます。でも値打ちある、得難い恵みは、主イエスを仲立ちにしての隣人との「よい」つながりなのです。

牧師室から No.177  2021/9/5

このところ「免疫」という言葉をよく耳にします。この免疫とは細菌やウイルスから肉体を守るシステムのことです。例えば買ってきた肉を冷蔵庫に入れ忘れて放っておくと、腐って食べられなくなります。それは細菌が肉の中のタンパク質を分解するからです。なんだか迷惑な話のように思われます。でもそうやって地球上のすべての生物は命を終えた後、分解されて土に返り、その養分から新たな生命が生みだされます。忘れがちなことですが、私たちも自然の循環の中に存在しているのです。では、なぜ生きている私たちの肉体が腐らないのか、というと「免疫」が働いているからです。免疫とは「自分」と「自分でないもの」を選り分ける仕組みです。肉体の中に入ってきた細菌やウイルスなどの「自分でないもの」を攻撃し破壊します。この免疫には自然免疫と獲得免疫があります。自然免疫は貪食細胞である好中球、好酸球、マクロファージなどの働きで、相手を記憶できませんが、とにかく異物を食べ尽くします。(私はこの自然免疫の仕組みが暴走して、正常な細胞まで食べられてしまう病気にかかっています。)一方、獲得免疫はB細胞やT細胞などの働きで、一度侵入した病原体の情報を記憶し、再び侵入された時にはいち早く攻撃します。いま話題のワクチンは、新型コロナウイルスの情報を獲得免疫に覚えさせる働きをし、罹患してもすぐに免疫が働くので、症状が軽く済むのです。ですからワクチンを打てば安全という訳ではありません。健康を保ち免疫が活発に働ける環境を維持することが必要です。(免疫を活性化させるにはリラックスして笑うことが一番効果的です)【すでに】私たちはこのような仕組みに守られていたのです。神の創造の凄さに驚かされます。

牧師室から No.176  2021/8/29

以前、東京の山手線を使っていた頃のことです。山手線は東京の中心部、一周約三十五キロをまわる緑色の電車です。駅のホームには、ほぼ三分ごとに電車が滑り込んできます。しかも時刻表と数秒も違わずに繰り返されます。二千人もの人間を乗せた三百五十トンの列車が、最高速度九十キロで疾走し、三十の駅に停車しつつ一時間かけて一周します。正直、驚かされます。でも、毎日の生活で使っていると慣れて、少しでも遅れるとイライラするようになります。ある時、私がホームの階段を降りると、やけに沢山の人が溜まっていることに気づきます。理由を駅構内放送が説明します。人身事故があって電車が遅延している、三十分程度動かない。そこにいた人たちは一斉に地下鉄に乗り換えるために移動したり、その場で携帯電話を取りだして連絡し始めます。その雑踏の中で一人の男性が「迷惑だな」とつぶやくのです。私はドキリとしました。それは私も彼と同じように考えていたことに、です。人身事故が起きた、ということは、近くの駅で一つの人間が自らの命を絶った、ということです。その事実を「迷惑」と受け止めてしまう自分の心の貧しさに、動揺したのです。一つの命には、膨大な物語が詰まっています。生まれてから毎日、様々な経験をして、沢山の人と会い、心を動かし動かされ、考え悩み喜び生きていた、その物語を想像し受け止めることができなかった、その心の貧しさに愕然とさせられたのです。
自分の隣にいる誰もが、物語を持っています。でもこの世の雑多に忙殺されて私たちが想像力を失った時、そのすべての物語を消去してしまいます。その一つの命を消し去ってしまうのです。ですから主イエスは、一匹の羊のために喜びなさいと話すのです。

牧師室から No.175  2021/8/22

神学生時代、たびたび神田の古本屋街に行きました。古本屋というと、不要になった本を集めて安く売っているという印象があるのですが、そうではありません。正しい古本屋の主人は高度に専門化したキュレーターです。キュレーターとは収集する資料に関する鑑定や研究を行い、学術的専門知識をもって業務の管理監督を行う専門職、管理職のことです。そもそも年間に発行されている書籍は七万点と言われています。その莫大な書籍の蓄積の中で、何年にもわたって人々の目と手に触れて、愛されて生き残った僅かな数冊が古本として再流通されるのです。その中でも価値あるものを古本屋の主人は知っていて、巧みに手に入れます。工学書専門店、建築書専門店、哲学心理学書専門店、歴史書専門店、絵本専門店、文学書専門店、年代を超えて名著と呼ばれる本を本棚に並べられるのです。そして、それぞれの本の価値によって適正な値段がつけられます。同じような絶版本でもつけられる値段は違います。表紙が焼けて黄色くなっているとか、ページの余白にカキコミがあるとか、そんなことには関係なく価値ある本は高価です。そんな中で興味深いのは古本に紛れて並べられているキリスト教の神学書です。大抵はその価値が知られていないので安い値段がつけられています。キリスト教神学書専門の古本屋では高価で売られているものが半額以下だったりする。牧師や神学生はそんな価値ある神学書を本棚の海の中から探し出します。見つけたときには心の中で狂喜乱舞しつつ表情は冷静にレジに持っていき、会計を済ませるのです。価値を知るものにとっての宝は全ての人にとっての宝ではありません。でも価値を知る者にとっては掛け買いのない宝なのです。

牧師室から No.174  2021/8/15

以前、遣わされていた教会の信徒の婦人の家を訪ねた時のことです。その方のお父さんはもう天に召されていたのですが、お父さんの使っていた聖書を大事に保管していて、私に見せてくれました。革表紙で文語体の、とても小さい手のひらに隠れてしまうほど名刺サイズ、新約聖書だけが記された聖書です。ページをめくると何本も赤鉛筆でラインが引かれています。何度も何度も読んだのでしょう、小口もページの隅も垢汚れています。でも丁寧に使われていたことが解ります。そんな聖書ですが、何枚かページがのど(根元)から綺麗に破かれていていました。嫌いな聖書箇所だったのかな、と眺めていると、婦人はその理由を教えてくれました。この聖書はお父さんが戦争に持っていって、持ち帰ったものでした。そして、失われているページは戦場でタバコの巻紙として使ったと。「薄くて丈夫」と笑いながら話してくれたそうです。砲弾の飛び交う戦場で戦友とタバコを分けあったと。戦争を経験していない私には、戦場は地獄です。さっきまで一本のタバコをまわして吸っていた戦友が、次の瞬間には血まみれになって倒れている。そんな光景を思い浮かべるのです。でも聖書のページをちぎってタバコを巻く姿は微笑ましい日常です。きっとお父さんは「ああ、大事な聖書をちぎってもいいのかなぁ」と考えながら、でも「神さまごめんなさい」と祈りながらちぎっていたのでしょう。
神の創造された人間を、人間が勝手に壊してはいけません。でも人間が機械とか部品のように扱われるとき、もしくは自分から物になってしまうなら、戦争が始まります。ですから私たちは隣にいる人を愛し、自分を愛することで、人間であり続けましょう。

牧師室から No.173  2021/8/8

エルサレムから東に二十キロ、死海の畔にクムランがあります。この地名が世界中に知られるようになったのは、死海写本が発見されたことに拠ります。クムランに隣接する高台の崖の斜面には幾つもの洞窟があり、羊飼いの少年が迷子になった羊を探して偶然この洞窟に入り、古い巻物(聖書の写本)を発見しました。その崖の下に広がる幅二キロほどの平地は乾燥していて、黄土色の岩が一面に広がっています。この場所に第二エルサレム神殿の時代、つまり イエスさまの生きた時代に活動していたエッセネ派の修道院(エッセネ派に属する人々が共同生活をしていた集落)がありました。現在も遺跡の発掘が進んでいて、国立公園に指定されているので、二九シュケル(千円)程の入園料を払えば誰でも入ることができます。
このエッセネ派の人たちが生活していた遺跡には幾つもの施設が発掘されています。図書館、写本をする部屋、食堂、そして目を引くのはいくつもの沐浴槽です。五メーター四方、深さ二メートルに掘られた穴には下りと上りの階段があります。右から入って左から出ていく設計になっていました。水を引く為の水路が崖へと伸びています。水路の側面は石灰と塩水を原料にした白い古代のコンクリートで固められていました。洗礼者ヨハネは、このエッセネ派に属していたという説があります。神の前に立つための準備として身を清める。身体についた塵やホコリを落とすだけではなく、心についた罪も清める。礼拝の前、写本をする前、祈る前、食事の前、彼らは身を清めるのです。
次週の御言葉に「掃除」という言葉が出てきます。これは「片づける」ではなく「清める」なのです。

牧師室から No.172  2021/8/1

最近、コンビニやスーパーでは冷やしうどんとか、冷やし中華とか麺類の種類も多く売られています。プラスチック容器の形も工夫が凝らされていて、どうすれば食べやすく見栄えが良いか考え込まれていて、感心します。軽量で適度の強度があり、温度耐性も広くコストも安いプラスチック容器は便利です。以前に行ったタイでは、屋台で作ったグリーンカレーをビニール袋にそのまま入れて、口を縛って売っていました。人々はそれを買って屋台の近くに座り、紙の器に入れた米に少しずつかけながら、スプーンで食べるのです。でも、昨今の環境負荷が少ない循環型社会の理念をもっとも具体化しているのはインドかもしれません。インドの南の地方の食堂に行くと、まずテーブルの上にバナナの葉が皿として置かれます。次にバケツを持った男の子が近づいてきて、料理をアルマイトのシャモジで掬って、葉っぱの上にベトッと置いていきます。米が置かれ、ジャガイモ、ヨーグルト、魚のフライ、マンゴーの漬物、最後にカレー。油で揚げた薄くてカリカリしたパパドを割って、右手で好みの分量集めて、混ぜてから口に運びます。あと朝に屋台でチャーイを頼むと、素焼きの陶器のコップに入れてくれます。山羊の乳と砂糖の入った甘い紅茶を飲んだあと、コップは地面に投げつけて割り捨てます。屋台のまわりの地面は赤い土の色に染まります。
料理を盛る器は、世界中の地域ごとに形態を変えるのですけれど、もっとも人間の生活に近い道具です。動物は皿を使いません。そう考えると器は人間と動物を分ける境界線にある道具です。そして私たち人間は神の器です。自分という器に神は何を盛られるのか。それにふさわしい器になるように私たちは自分を整えるのです。

牧師室から No.171  2021/7/25

アマチュアの劇団を手伝った時のことです。もちろん私は役者ではなく舞台監督です。音響・照明・大道具などなど、公演日までの作業スケジュールを組みます。スタッフは他にも仕事を持っている方々なので、密に連絡を取り、それぞれの空いている時間をパズルのように組み、作業場の倉庫や公民館、幼稚園のホールを借ります。予算が少ないので、自分たちでできる作業はすべて自分たちで行います。資材の運搬、搬入、作った大道具を保管する場所の確保、部材に使う木材はできるだけ端材が出ないように細部にまで計算し購入します。いつまでにどこまで作るか、作り終わった後、どうやって分割して運搬トラックの荷台に積むか、建て込みの時に舞台上で短時間で組み上げられるか、を何度もシュミレーションをして、何度も設計図を書き直します。常に頓挫した時の為に次善の策を考えておきます。知り合いの工務店で廃棄する資材をタダでもらい、労働力が必要な時は人脈にまかせて人を集め、その数に必要な工具を揃えます。食事のためのケータリングを頼むこともできないので、野外にバーナーを運んで肉や野菜を焼いたり、ご飯を炊いたり、飲み物を準備します。そんなこんなで準備した芝居の上演時間はホンの九十分です。五回公演としても四百五十分。たったそれだけの時間のために、緻密な四ヶ月を費やすのです。
作業をするとき、私たちは事前に十分に準備します。無駄なお金を使わないように、無駄に廃棄するモノを作らないように、無駄な時間を生まないように。しかし設計図に描かれ、できあがったモノは自分の想定内に留まります。逆に、むしろ無駄だと思えたこと、捨てたモノから私たちは多くの知識と経験を得るのです。

牧師室から No.170

少し聞き慣れない言葉かも知れませんが、最近【ウェアラブルデバイス】なるものが普及し始めています。それは手首や頭など身体の一部に「身に着ける」コンピュータのことです。例えば腕時計のように手首に付けていると、歩数、消費カロリー、運動データ、脈拍数、睡眠トラッカーなどの生体情報を計測して記録してくれます。もう少しすると血中酸素濃度や心電図、血糖値、血圧、体温を測定できるようになる、のだそうです。私は大病をしてから使っていて、とても重宝しています。というのは、記録された数値を気に掛けていると、体調を崩す少し前に兆候が現れるからです。事前に用心することができる。【私】が【私】の不調に気づく前に【私】の肉体はSOSを出しているのです。「私は私にもっとも遠い」と書く文筆家もいますが、肯けます。肉体だけではなく心や魂、つまり思考体系や感情はさらに難解です。胸の奥の方にもう一つの世界があって、もう一人の自分が住んでいるような、そんな気さえしてくるのです。自分の事は自分が一番分かっている、訳ではないのです。
さて次週の御言葉でイエスさまは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ福音書9:13)と話されます。この言葉を聞いた者たちは「私たちは罪人ではありません。」と反発します。ここで話されている罪とは、犯罪のことではありません。聖書にあって「罪」という言葉のもう一つの意味は「的外れ」です。つまり神を見ているつもりで別のモノを見ている、それが罪です。彼らは、自分たちは神を知っていると反発しますが、自分のことも分からない【私】が神を知っていると思い込み、主張する在り方が、すでに信仰から外れているのです。

牧師室から No.169

最近の学校の体育会系の部活動では、頻繁に水分補給休憩の時間が設けられるそうです。私が学生だった時代、もう何十年も前ですが、根性論が支配的でした。「頭を使う暇があるなら筋肉を使え」と怒鳴られ遠慮なく拳が飛んできました。もちろん練習中に水を飲むことなど許されていません。筋肉だけではなく根性も鍛えるのが部活です。今にして思えば、よく熱中症で死ななかったな、と思います。それに卒業した先輩が体育館に来て、現役レギュラーを集めていわゆるシゴキを始める、なんてこともありました。今の時代なら即刻パワハラだと批判され学校や顧問が訴えられます。でも当時はそれが当たり前だったのです。ある日、私は体育科の教師に「部活が厳しすぎる」と話しました。弱音を吐いたのです。すると彼は「部活中、緊張感を保っていないと誰かが怪我をする。だから顧問も先輩も敢えて厳しく接している。虐めて苦しめて楽しんでいる訳ではない」と話してくれました。この言葉の意味を、正しく理解したのは社会人になってからです。
巨大な重機が動き回り危険な工具を扱う工事現場では怒声が飛び交います。親方の命令が絶対です。反論も言い訳も聞かれません。それは働く人たちの気質が粗いとか、乱暴だからではなく、緊張感を維持しないと事故が起きるから、であり、死なないための知恵なのです。優しく調子の良い監督が仕切る現場は、雰囲気は良いのですが怪我や事故が多発します。ですから賢い労働者は自分の命を守るために、厳しい監督の下で働こうとするのです。
さて、次週の聖書の御言葉で、主イエスは一人のローマ軍人を褒めます。命をやり取りする戦場で生き抜いてきた彼は、本当の権威とは何か、を知っていたのです。

牧師室から No.168

先週、説教の中でヒメジョオンの話しをしました。なぜその話しに至ったのか、前日譚があります。数週間前に私の散歩コース脇の古い家が取り壊されて、すぐに更地にされました。最近では有り触れた出来事です。でも気になったのは、整地された土壌の色が濃い茶色だったことです。この付近は薄い黄色(赤黄色土)の土壌です。きっと家を建てる前には畑として使っていたのか、と見ていた訳です。案の定すぐに雑草の緑が地面を覆います。養分が多くて肥えた土なのでしょう、背の低い柔らかい草の間から細い茎を長く伸ばして、幾つもの黄色いタンポポやハルジオンの白い花が咲くのです。家に帰ってその事を連れ合いに話しました。すると思いっきり和やかに嘲笑の目を向けられました。「タンポポみたいなのはブタナ、ハルジオンはたぶんヒメジョオン、ハルジオンは関東にしかない」そう指摘するのです。私は植物には疎いのです。タンポポの花が枯れるとツクシになる、と信じていた人間です。花の違いなど分かる訳もありません。でもこのあと少々調べてみて、一概に雑草を呼ばれている草花であっても多くの種類があることを教えられました。
次週の御言葉には「偽善者に警戒しなさい」(マタイ福音書7:15)と記されています。では本物と偽物の違いは何処にあるのでしょうか。見た目は…、偽物の方が本物らしく見えます。偽善者の言葉は耳に心地の良く理解しやすく、もっともらしいのです。この世と繋がる器量に長けているので為政者と結び、権力、財力を持ちます。宣伝公告も上手です。でも偽善者たちに拠って人々が幸いを得ることができるなら、それでも良いようにも思えます。しかしダメです。答は何十年後、何百年後に実る果実によって分かるのです。

牧師室から No.167

先週の週報で聖書箇所と説教題の記載ミスをしました。週報は教会活動の記録であり保存する公文書に類するものです。もう少し慎重に作業するように自省いたします。でも思うのですが、なぜ自分の書いた文章を自分で校正する作業は難しいのでしょうか。幾つか要因が考えられます。一つは達成感です。終わったと満足すると集中力が切れて読み返してもいい加減になる。もう一つは慢心。「間違いがある訳ない」と、どこかで自己過信の罠にはまっている。だから間違いを【見ていて】も【見ていない】のです。とはいえ私だけの欠点という訳でもないようです。ですから世の中に出回っている文章については校正・校閲のプロがしっかり働いています。他人の目でもう一度見てもらう、再確認して指摘・訂正する仕組みが作られているのです。
文章だけでなく、私たちは自分の心の内を見つめることも不得意です。世の中でもっとも解らないのは誰かの心、ではなく自分の心です。ですから自分のことを気兼ねなく話せる友人は何物にも代え難い財産です。もしくは臨床心理士という手段もあります。聞いてもらっているうちに自分が何を考えているのか、見えてくるのです。もう一つ、深い祈りによっても自分の心の内を聴くことができます。静かに心を神に向けるなら、自分が何に怒り悩み苦しんでいるのか、を聖霊の導きによって明らかにされます。自分の心の奥底にある自分を知るなら、抱えている問題は解決します。私たちの苦しみの原因は外にではなく、殆ど自らの内に潜んでいるからです。さて次週の御言葉でイエスさまは「人を裁くな」(マタイ福音書7:1)と話します。神を知り己を知るなら他人を裁く気など失せるのです。

牧師室から(号外)

2021年6月20日主日礼拝について(沖縄慰霊に日を覚えて)
桑名教会は、例年、夏の平和聖日とこの6月23日の前後に、日本キリスト教団名で出された「第二次大戦下における日本キリスト教団の責任についての告白」を礼拝の中で、参加者全員で告白文を読んで来ました。そこで今回、何故、礼拝中に戦責告白を行う様になったのか、以下に歴史的な背景を述べてみます。
沖縄は敗戦後に27年間、アメリカの統治下の中で施政権も奪われ、1972年に本土復帰となりました。1945年4月1日に米軍は、本島中部の北谷、読谷村に上陸し、日本国内で唯一の地上戦を強いられ県民の四分の一の住民が戦禍に倒れ、未曽有の地獄となりました。戦後の県民の願いは、日本国憲法の下で、平和を希求する9条で、米軍基地の縮小・撤退が可能になると多くの沖縄県民が、信じ願って来ました。来年で本土復帰の節目50年を迎えようとしています。現在も普天間基地から辺野古新基地建設へと、日本政府は沖縄県民が、先の県民投票で新基地反対の民意を勝ち取っても、政府は着々と新基地建設工事を進めているのが現状です。
私たちは、キリスト者として、何故この問題に関わり続けるのか、新約聖書の山上の説教の下りが有ります。マタイ5章10節、11節に私たちの教会は、このみ言葉に押し出され、信仰の継承を続けて来ました。単に社会問題に教会が加担しているのでは有りません。
桑名教会では信徒への信仰継承を含め、折につけ先達から繋げて来た出来事を反芻する作業が必要と考え、先の役員会で、6・20日の週報欄に、この事の趣旨を掲載し、聖書から今一度「平和」について考える礼拝を守る事にしました。     (文責:役員会)

牧師室から No.166

六月の定例役員会が行われました。今どきというか、ZoomというWeb会議システムを使い、役員はそれぞれ在宅でパソコンの前に座り参加です。液晶画面越しではありますが、お互いの顔を見ながら、役員会を進めることが出来ました。内心、もう少し難航するかと身構えていたのですが、スムーズに進めることができました。
人と人との会話というと、文字だけ、共有したい情報だけ交換できれば良い、という風潮があります。退職届や恋文もメールや通信で済ませてしまう、そんな在り方です。でもやはり「言葉」だけでは伝わらないことが多いのです。相手の表情とか、目の動きとか、言い回し、強度や抑揚によってニュアンスや意味が補填されるからです。また時間をかけて培ってきた人間関係の蓄積や、信頼やクセが加えられて「会話」は完成します。「行間を読む」という表現がありますが、お互いに相手の言葉にならない言葉を聞き合うところに会話は成立するのです。
さて、次週与えられます御言葉は、神が与えた律法の背後にある「神の思い」を聴く、がテーマです。聖書に記されている律法は、例えば申命記とか民数記を読みますと、延々と記されています。細かく戒律が定められ、守るように課せられています。とはいえ現代の日本に生きる私たちにとって律法は他人事です。太古のユダヤ人だけが守るべき戒律で、私には関わりない、と考えてしまうのです。でもそうでしょうか。イエスさまは【そうではない】と話されます。記された律法の背後には神の御心があり、時代や場所を越えてすべての人に向けられ、心に留めるべき言葉だと話されるのです。私たちも当事者として律法を聴くなら、御心を聴く事ができるのです。

牧師室から No.165

高校生の頃、私はもう洗礼を受けていたのですが、学校でも、友だちの前でも自分がクリスチャンだと公言することはありませんでした。隠していたわけではありません。日曜日にどこに行くのかと問われるなら「教会に行く」と話しますし、夏休みには部活を休んで教会の主催する中高生キャンプに参加していました。ではなぜ、クリスチャンであることを周囲には【控えめに】話していたのか、というと、それは「私」の頭の中に描かれているクリスチャンのイメージと「私」との間に深い隔たりがあったからです。クリスチャンというと、清く正しく美しく、誠実で真摯で公正で、という一般的なイメージがあり、私の心も捕らわれていました。当然、成長し社会に馴染んでいくなら、現実は乖離します。心は悔い嫉妬し憎み裏切りに覆われ、悪事や危険な行動に惹かれるのです。洗礼を受けているのに理想的なクリスチャンになれない。そんな自分の中途半端さに苦しみました。でも、数年経った後、ある牧師から「理想的なクリスチャンはいない、神だけが理想であれば良い」と教えられ、わだかまりが解けました。私たちは罪を負っているから、その罪に打ち勝つために信仰を与えられているのです。クリスチャンであるか否か、の違いは、自分が清いか清くないかではなく、罪を負っていることを自覚しているか否か、の違いなのです。
次週、読まれます御言葉に「あなたがたは地の塩である、世の光である」(マタイ福音書5:13-14)とあります。しかも主イエスは「なりなさい」ではなく「である」と話されます。でもなぜ主イエスは罪を負い、闇に心を捕らわれている私たちを、この世の塩であり光だと話されたのでしょうか。共に聴きましょう。

牧師室から No.164

私たちの桑名教会では、現在、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、日曜日の礼拝、集会を含めて礼拝堂を閉鎖しています。このような状況下にあって、礼拝に参加されている方の広く働きかけ、近況報告を送ってもらうことになりました。早速、お便りをいただきましたので紹介させていただきます。

楽しい楽しいステイホームです。午前中は編物教室で生徒さんとおしゃべり。教室のない日は炊事、掃除、洗濯等一見真面目そうに主婦をやり、時々K-バスでイオンタウンや三省堂(星川の本屋)へ行きます。午後は、ヨム・アム(読む・編む)ヨム・アムを心ゆくまでやります(たまに昼寝)。夕方紫色の鈴鹿山脈とオレンジ色の夕焼空が水田に映って、さかさ富士ならぬ、さかさ山脈が出来るので、あぜ道を散歩します。聖書はあまり読みませんが、お祈りは毎日何度もしています。チョットはひと様のために何かしなくちゃと思いながら、何も出来ていません。【T.H姉】

主の御名を賛美します。自分は感染しないだろうなどと甘い考えをしていたことを反省しています。スマホの操作が十分出来ませんが、先生の説教を聴くことが出来、お姿を拝見し、またお声を聴けて、嬉しく思っています。感染なさった方々が元気になられますようにお祈りしています。どうか一日も早く平安が訪れますようお祈りします。【K.M姉】

コロナ禍の中、毎週の主日礼拝はインターネットのライブ中継で礼拝を守っています。コロナによる長期の外出自粛で在宅時間がながくなり、体を動かさない日が続き、体力、筋力の衰えと巣ごもりによるストレスを自覚します。コロナフレイルに陥らないように出来るだけ体を動かすように心がけて日々暮らしています。毎朝、起床後6時30分からNHKのラジオ体操で体を十分ほぐしてから、その日の活動を始めます。そして、天気の良い日は三密を避け愛犬(チワワ)を自転車の荷台に乗せて新鮮な外気を吸いに、近くの伊坂ダム、山村ダム、海辺にある川越火力発電所前の公園に筋トレを兼ねてサイクリングに出かけます。新緑が映える山村ダムや伊坂ダムを周回しながら鈴鹿山脈の稜線を眺めると気持ちをリフレッシュ出来ます。雨の日は家事の手伝いや庭の手入れをし読書で過ごします。今は歴史小説の司馬遼太郎著「翔が如く」を読んでいます。西郷隆盛が主唱した征韓論で新生日本を根底から揺さぶった激動の時代を史実に基づいて書かれたストーリーで新しい国造りのために苦闘する姿に感銘しています。そして旧約聖書を2章づつ読むのを日課とする晴耕雨読ならず晴転雨読の日々です。今までは日曜日は主日礼拝、水曜日は水曜会で教会へ出かけ隣人との繋がりを1週間の楽しみにしていましたが、コロナによる自粛生活で外出する機会が少なくなり、人間関係が希薄化し人と人とのつながりの大切さを感じます。コロナのワクチン接種が一日も早く行き渡りコロナ感染が終息して桑名教会に連なる方々と共に会堂で礼拝を捧げることが出来ることを願いつつ過ごしています。【Y.N兄】

コロナ巣ごもり中では、あちこち身体にも影響が出てきてませんか?私も驚くくらいです。緊急宣言前に上京しましたが、宣言が更に延長になりました。東京の様子はというと、近くのトンボ公園には、土、日曜となれば人、人、人、夏のプール状態です。同じエリアには、広大な深大寺植物公園もあるというのに(ため息。。。)のびのび元気いっぱい遊べる都心の公園は限られてます。昨年の第一波から都の公園は閉鎖中が多く、子どもは宝だと思えぬコロナ政策も混乱を招いてます。昨年春から、子ども達、又親達もテレワーク、巣ごもり、と厳しさもましておりますけれど、重症化や亡くなった方、そのご家族の哀しみは計り知れないです。感染者、ワクチンの数に一喜一憂する事にも嫌悪感を感じて、数日前にはNOオリンピックの署名にもサインしたところです。おばあは怒ってます!!子どもには、教育と遊び場が必要だと思います。密になっても遊ぶ子の笑顔に不安げな親達の姿…でも親もまた癒やされているんでしょう。私も癒やされております。 子ども、又世界中の多くの人々も「命(ぬち)どう宝」だと新たに祈ります。結局、政治家は本音と建前を使い分けて、自分に都合よく行動する生き物なのです。初の宇宙飛行士の秋山さんの言葉が胸にささります。秋山さんは帰還後にTBSも辞め、漂流しながら農業を。今も福井〜三重で単身晴耕雨読の生活をされています。最近は私も少し見習って、トマトと茄子を12年ぶりに植えました。これも長期滞在のゆえんでしょう。礼拝の配信にも慣れました。いつの間にか教会にいるような繋がりを覚えてます。コロナ禍の中、配信の試みは御苦労もおありでしょう。再び、礼拝に行ける日を心待ちにしてます〜。 【K.Y姉】

ライブ配信で、元気なお声で礼拝をささげておられる姿を拝見できます。喜びを感謝しています。困難なときを皆さんの事、お顔を思いながらともに祈りを合わせています。神様に守られて一人ひとりが健康で平安のうちにありますように祈ります。私も元気に暮らしています。しっかり生きていることが家族に対して福音を伝えているのかなって自分流に考えているところです。ルカによる福音書24章に「上から力を授けられるまでは、 あなたがたは都にとどまっていなさい。」を読んで何事も上から力を授けられるものなのかと思わされました。私の理解は 間違っているかもしれませんがこのように聞きました。いろいろな出来事は神様がすべてご存じで授けて下さるものなんだと今更ながら納得しました。今できることをしっかり取り組んでいこうと思っています。皆様のお祈りに支えられて来たこと本当にありがとうございます。【Y.K姉】

みなさん、お変りございませんか。
コロナウィルスの関係で教会に行けなくなって、そろそろ2ヶ月になりますネ。私は、毎日孫の世話で、あっちこっち車で飛び走っています。私にとって、不要不急の外出はゼロ手をいれてで、いつもマスクは絶対に忘れることは出来ません。健康で役に立っていることは、うれしいことでもあります。健康に感謝しています。私の朝一番の楽しみは、新聞の端から端まで目を通すことです。特に「みんなの声」の発言のページが好きです。次世代の若い人の声にも、年配の人の声にも教えられることがいっぱいだからです。老眼ですが、続けていきたい習慣です。やっとこの地方でも、コロナワクチンの接種がスタートしました。私も6月7日に第1回目の予約がとれ、ホッとしています。それまでマスク、手洗い、うがい、ハミガキをして、コロナにかからないよう注意して、皆さんと元気でお会い出来る日を楽しみにしています。【M.I姉】

これからも、御自身の近況報告をお寄せ下さい。メールでも封書でも結構です。喜びも悲しみの苦しみも共有し、互いに祈りつつ支え合いましょう。

牧師室から No.163

もうしばらく、桑名教会では礼拝堂に集まらない礼拝を続けることになります。桑名市でも猛威を振るっている新型コロナウィルスへの感染防止対策のためです。最近、流行し始めている変異株は、従来株よりも感染力が強いことが分かっています。現時点では楽観視できる状況ではない、という役員会の判断です。しかし、徐々にではありますが出口も見えてきました。それはワクチン接種が始まったことです。このワクチンは従来株にも変異株にも効果があると報告されています。上手くすれば梅雨明け頃にも状況も落ち着いてくるのではないかと考えられます。手洗いうがいマスクをして、免疫力を強める為に軽い運動とリラックスを心掛けましょう。
そのようなわけで、私は主日の朝に一人で講壇に上り礼拝を守っています(正確には一人の役員と)。同じ時間に自宅で礼拝を守っている方々を心に覚えつつ、心が一つになることを祈りつつ式次第を進めています。改めて思わされることですが、やはり礼拝は会堂に集まった信仰者がみんなで作り上げ、神に捧げる【ささげもの】です。讃美と告白の言葉を以て心を捧げます。説教も牧師が一人で聖書を読み、釈義し咀嚼し再言語化して一方的に話すものではありません。会衆席に座っている方々の表情とか仕草とか目の輝きを通して共有する祈りによって導かれて、その場で言葉に命が注がれて説教は生じます。言葉は生き物です。そして神も生きておられます。ですから建物の中に安置することも、言葉の中に閉じ込めることも、測定して数値化することもできません。「知恵ある者や賢い者には隠」(マタイ福音書11:25)されているのです。でも私たちが集まって心を一つにして祈るとき、主イエスは中心に立たれるのです。

牧師室から No.162

情報通信技術が進歩して、世界の裏側のできごとであっても瞬時に伝わってくる時代・世界に私たちは生きています。コロナ禍にあって日本に送られてくるワクチンはベルギーの工場で作られ飛行機に乗せられ十二時間かけて届けられてきます。日本で作られたアニメ映画が全米での興行収入ランキング1位になったそうです。中国から打ち上げられたロケットの残骸がモルディブ沖のインド洋に落ちました。携帯電話やハイブリッド車のバッテリーにはアフリカで採掘されたコバルトが使われています。世界中の誰もがアマゾンを使って買い物をしYouTubeで動画を見ています。経済、文化、科学、産業、農業、貿易、医療、観光、政治に於いて世界の国々の関連は密接に多角的に繋がっています。環境問題に関しては、一つの国の努力や改革だけではどうにもならず、各国が協働して画策しなければ解決できない事態に追い込まれています。
こんな世界にあって、インターネットを覗けば世界中のほぼ全ての言語で聖書を読むことができます。御言葉の註解や資料も調べる事ができます。世界中の隅々に至るまで教会が建てられています。信教の自由が認められていない国でも、教会は地下教会として潜り信仰者は礼拝を守っています。主イエスが福音を伝えなさい、と使徒たちを世界に送り出した時の言葉はすでに実現したように思えるのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ福音書28:19)でも本当にそうでしょうか。私には、まだ始まったばかりに思えます。全世界の人々が心を一つにして主イエスを覚え、祈りを捧げる日まで、私たちは福音を伝え続けなければならないのです。(ロマ10:14)まだまだこれからです。

牧師室から No.161

子どもに心を開いてもらうには、どうすれば良いのでしょうか。まず腰を屈める。何なら地面に腰を下ろして目の高さを、子どもの目の高さまで落としてみる。その高さから子ども目をのぞき込むなら、まず子どもは好意的なサインを出してくれます。例えばジッと見つめ返されたり、手に持っている玩具を差し出してくれます。でも、そこはスタート地点です。次に子どもは関心をもった相手に向かって敵対的なサインを投げかけてきます。例えば「ジジイ」と声を掛けてきたり、鼻の上に乗っているメガネをむしり取ろうとします。それは意地悪をするために行われているのではありません。そうやって相手との心の距離を測っているのです。「この人はボクの話す不快な言葉をどれくらい受け入れてくれるだろうか、どこまで忍耐強くボクの相手をしてくれるか」子どもはジッと冷ややかに観察するのです。どこまで殴れば殴り返してくるか、自分を受け入れてくれるか、信頼できるのか測っているのです。
私たち大人も同じように、無意識に相手との距離を測る行動をしています。言葉とか態度、表情、感情を使って相手にボールを投げるのです。そして受け取ってくれるかを試します。自分自身の心の奥底にあるドロッとした黒いものをその人の前に晒しても、逃げていかないか。裏切らないか、信用しても良いのか。心を開いても大丈夫か。私たちは無意識に相手との距離を測っているのです。
次週与えられる御言葉に「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」(ルカ24:45)とあります。神は私たちの心を開かせるために、私たちと目の高さに下られました。主イエスは生きていた時と同じ姿で復活されたのです。

牧師室から No.160

また私は病が与えられ、病床の天井の壁紙の剥がれかかった数ミリの継ぎ目を、ジッと眺めつつ、十日ほど横になっていました。目で文字を追うこともできず、テレビも音楽も五月蠅く感じられ、ただジッとしていました。心は入院した方々の病が取り去られるように祈り続けていました。なぜ神は桑名教会にこれほどの災厄が与えられるのか、神の御心に逆らうようなことをしていたのか。神の業に信頼することなく傲慢に人の業に頼っていたのか。御言葉と福音を正しくこの世に告白できていなかったのか。信仰を神以外の何かに繋ぐようなことをしていたのか。自問と反省が繰り返されます。そのような中にあって、私の祈りの言葉が、条件付きの祈りになっていることに気づかされました。「神さま、もしあなたの御心であるなら○○さんの病を癒やして下さい。」と祈っているのです。
私は「もし」という言葉をつけて祈っている。「もし、あなたが神であるなら、あなたを愛している信仰者を痛めつけることはないだろう、教会を打ち崩すことはないだろう。もし、あなたが神であるなら。」まるで荒野で主イエスを試した悪魔のように私も祈りの言葉を用いて、神を試していたのです。
私たちの祈りはもっと純粋で無垢な言葉で良いのです。神に信頼し神の前に良い子ではなく駄々をこねるような、そんな言葉で良いのです。「私と神」との関係は「乳飲み子と母」の関係なのです。このような状況にあっても神は桑名教会を導かれます。「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ8:28)それでも神は、伝道は進められています。

牧師室から No.159

日曜日の朝、教会学校に来るだろう子どもたちを、教会の玄関の階段の上の踊り場に立って待っていました。ふと足下に目を落とすと、玄関に脇に置かれている寄せ植えが、綺麗で可愛い花を咲かせています。「春だねえ」と心が明るくなりました。でも、ふと思い起こしてみるに、春になったから花が咲いているのではなく、どんな季節でも、寄せ植えには綺麗な花が咲いていました。申し訳ありません。春になって花が咲いたのではなく、私が今、花に気づいた、のです。
当たり前のことが当たり前に行われていることが当たり前だと、私たちは考えます。でも当たり前のことを当たり前に行うことは当たり前ではなく、その後ろ側には、誰かの目に見えない気遣いと配慮、働きがあります。アピタの棚に沢山の食品が並んでいることも、通勤電車が正確にホームに滑り込んで来るのも、蛇口をひねれば水が流れ出るのも、スイッチを押せば電灯が点くことも、当たり前ではなく日常を継続して維持するための、沢山の人の働きと意気込みがあるのです。聖書に描かれている様々な者たちに関わられる神の姿を読むとき、私たちに、私たちが日常的に目にする他愛のない事柄の背後にある、もっと深い神の思いに気づかされるのです。

牧師室から No.158

イースターおめでとうございます。主イエスは墓に収められた後、三日目の朝に復活し、弟子たちの前に現れました。神は御子、主イエスの十字架と復活のできごとを通して私たちに、私たちの命の在り方を明らかにして下さいました。私たちの命は死に依っても中断されることはなく、神と共に続きます。主イエスは陰府に下られ、死の闇に光を注がれ、死を滅ぼされました。
でも、だからこそ私たちは、この世で与えられた命を大切に丁寧に用いるのです。私たちはこの世から与えられる評価や順序、地位に心を囚われるのではなく、神からの評価、つまり主イエスがこの世にあって為されたこと、それは、如何にこの世にあって、【神を介しての人と人との愛の関わり】を構築できたか、に心を奪われればよいのです。大きな働きは必要ありません。主イエスは、この世にあって目を向けられない者、価値がないと捨てられ、意味がないと無視された者たちの手に直接、触れられたように、私たちも主イエスの道具として、この世にあって用いていただくのです。
そして私たちの命は続きます。ですから躓いても、傲慢になって失敗しても、神の前に悔い改めて、そこからやり直せばよいのです。斯くも私たちは神のように完全ではなく不完全な命なのですから。

牧師室から No.157

私はまだ一度も、洗足木曜日礼拝を桑名教会で守っていなかったことに気づかされました。2019年4月受難週は病室で過ごし、2020年4月は自宅でリハビリに励んでいました。ようやく受難週を桑名教会で守る事ができます。感謝です。記録を調べてみますと入院前に私は2019 年4月18日のための聖書箇所と説教題、讃美歌を用意していました。講壇予定表にはヨハネによる福音書15章18-27節「神の側につきなさい」とあります。あの時、まさか入院加療が長く続くとも休職するとも、思い至ってはいませんでした。「人の思いは千路あれど神の御心だけが為る」です。
さて、では今年の受難週についてです。29日(月)、30日(火)、31日(水)は19時から30分ほど短いメッセージと祈りの時を持ちます。4月1日(木)は16時から礼拝堂でバッハのマタイ受難曲を流します。続けて19時から洗足木曜日礼拝を守ります。もしご都合が合うなら教会までお出かけ下さい。夜間の運転や足下が不如意な方はご自宅で覚えていただければ幸いです。翌日の聖金曜日は教会での集会は持ちません。それぞれの遣わされている場所で、午後三時頃、主イエスの受難を覚えて祈りの時をお持ち下さい。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイ福音書27:46)
受難節にあって主イエスの十字架を見上げる時、神が私たちの罪の縄目を解かれ、解放して下さったことを覚えるのです。その代価の屠られる小羊として主イエスは自らを犠牲として捧げられました。その流された血と汗に応える日々を私たちは生きているのか、私たちは問われるのです。

牧師室から No.156

採血のためにさされる太い注射針は痛くないのだけれど、インフルエンザワクチンの細い注射針はとても痛く感じます。採血は静脈注射でワクチンは皮下注射(筋肉注射の場合もあり)だからかいな、と勝手に納得していたのですけど、そうではなく、やはり太い注射針の方が多くの痛点を刺激するので痛いとのこと。どうやら注射の痛みとは、針を刺す痛みより、注入される薬剤が周囲の細胞が押し広げる痛み、薬剤が染みこむときの痛みを強く感じるのだそうです。だから血を抜くだけならば、それほど痛みを感じない(??)のです。でも痛覚とは不思議なもので、紙で指先を切った時には強い痛みを感じるのですが、鋭利な刃物でザックリ肉を切ってドバドバと血が流れ出ている只中は、熱いと感じるけれど、痛さは感じないのです。そこには理由があります。命が危うい状況になると鎮痛効果のあるβ-エンドルフィンを脳内に大量に分泌されて痛覚を麻痺させ痛さを感じなくなるです。神さまが作った体は良くできています。
肉体的な痛みも辛いのですが、精神的な痛みはそれ以上に辛いのです。裏切られ、おとしめまれ、ないがしろにされ、憎まれる。これまで育んできた関係性という肉が断ち切られる痛みだからです。そして最も鋭く心をえぐる刃物は【無理解】です。なにが悪いのかを理解していない、心境や感情を共有できない相手になにを訴えても無駄です。虚しさというという痛みは長くジワジワと心を締め付け続けるのです。主イエスは十字架上で、肉体の痛みと心の痛みを負われました。群衆だけでなく弟子たちも主イエスに【無理解】という刃を突き立てられるのです。しかし主イエスは十字架の上にとどまり続けられます。それでも希望を捨てないのです。

牧師室から No.155

心理学者ユングは世界各国に存在する模様や神話に共通点が多いことを知り、この事実から、人の心には人類の先祖から遺伝的に伝わる集合的無意識の領域があるのではないかと考え、その要素を元型と名付けます。この元型にはグレートマザー(あらゆる物を育てる母なる存在)、アニマ(男性の中の女性像)、アニムス(女性の中の男性像)、老賢人(成長の最終的到着点)、シャドウ(もう一人の自分)があり、人間の行動や思考にさまざまな形で影響を及ぼしていると考えるのです。例えばグレートマザーという元型にイメージされる母という存在は、女性にとっては成長の究極的な目標とされます。しかし母は二面性を持ちます。一方では子どもを慈しんで育む力、もう一方では束縛し飲み込んで破壊させる恐ろしい力です。グレートマザーは女性だけではなく、男性にも重要な意味を持ちます。すなわち母の束縛から逃れること、自律、精神的な乳離れの際に男性は、自分自身の心の奥sに潜んでいるグレートマザーと対決し克服しなければならないのです。グレートマザーが夢の中に現れる場合、年上の女性、女神、魔女、老婆などの姿を取り、否定的な場面では化け猫、地下の世界、洞窟などとして現れます。この元型の存在を認め、受け入れる時に心は成長するとユングは話すのです。
次週の聖書箇所には、ゼベダイの子ヤコブとヨセフの母親の姿が描かれています。彼女は自分の息子たちに神からの栄誉が与えられるよう、主イエスに懇願します。そして主イエスはその願いを受け入れます。でもその栄誉とは殉教による死、「私の杯」なのです。離反する人間的な望みと信仰の望みが、彼女の言葉の中に現れるのです。

牧師室から No.154

先日「歴史上はじめて地球上の人工物量が生物量を上回った」というニュースが伝えられていました。道路や建築物などの人工物の重量は二十年ごとに倍増していて、現在一兆トンに達し、逆に樹木や植物、動物などの生物量は減り続けているのだそうです。そう言われてみるなら、私たちの生活環境のどこを見渡しても人工物ばかりです。道はどこまでも舗装され、野山は切り開かれて住宅が並び、川はコンクリート堰で固められ、海は高い防波堤で囲われています。そこまで必要だろうか、と疑問に思える場所まで人工物化されています。なぜこうなるのか、というと建設土木工事の多くは着工から遡って十数年前に立案されスケジュールが決められ、さらには十数年後の工事計画を見込んで高額な建設機械が購入されています。資材を生産するプラントも、動かしたり止めたりするなら品質が落ちるので、できるだけコンスタントに供給できる環境を必要とします。勿論、職人の生活を守り技術を向上させるためにも、そして会社の財政を守る為にも仕事が切れないようにする、つまり作り続ける事になるのです。基本的に資本主義経済は自転車操業です。マグロのように泳ぐのをやめると死んでしまいます。同じように「必要だから」ではなく「作り続ける」ことが作る目的になっているのです。
イスラエルの民はもともと遊牧民で、神を礼拝する神殿もテントで作られ、移動する度に解体して持ち運んでいました。でもエルサレムに定住し岩を組んで神殿を建てます。神はそれを厭われます。なぜなら岩の神殿は神を、人間の偏狭な特定の概念の中に固定させるからです。神の存在は頬に触れる風と同じで、留め置けないのです。

牧師室から No.153

以前、ある文筆家がエッセイで文章を書く流儀を紹介していました。まず資料を目一杯集めて、片っ端から読んでメモを取る。次にこのメモを様々な角度から観察し思索する。ここで一旦手を止めて九十分間、布団に入って昼寝をする。この九十分は人間の睡眠サイクルの一周期です。昼寝から目覚めると、頭の中にゴチャゴチャと詰め込めれていた言葉が、綺麗に整理されて並べられているから、おもむろに文章を書き始める、のだそうです。にわかに信じがたい内容でした。つまり寝ている間に【自分の脳】が無意識下で自動的に(勝手に)情報を整頓する作業してくれている、という訳です。でももし、興味がある方は試してみて下さい。かなり上手くいきます。少なくとも私は文章を書くとき、この流儀に倣っています。また、深く悩んで考えなければならない事柄にも使えます。
私たちは自分で意識して考えていることを自分の考えとします。でも意識の見えている部分は氷山の一角で水面下には巨大な無意識が存在している、と心理学者ユングは話します。それは言葉にできない巨大なモヤッとしたものです。その深層心理に私たちは支配されていると。加えて彼は無意識の最も深いところですべての人は繋がっている(原風景)という仮説を立てます。でも私は…すべての人の意識は最も深いところで神と繋がっているように考えます。その神を架け橋にして全ての人は繋がっていると信じています。
次週の聖書箇所に「あなた(ペトロ)に真理を明らかにしたのは神です」という言葉があります。主イエスはペトロに「あなたは自分の目で見て、自分の知能で理解していると考えているけど、実は神があなたに働きかけて解釈させ、理解させて下さっている」と教えるのです。神は私の心の深みからも語り掛けられているのです。

牧師室から No.152

今月中にも新型コロナウイルス感染症の重症化を防ぎ、感染拡大を抑制する為のワクチンの摂取が始まろうとしています。これまでワクチンの開発には数年から数十年の期間が必要だったのです。でも、医学は急速に進歩しています。従来は不活性化したウイルスを培養してワクチンを作っていたのですが、今回は遺伝子組み換え法を使ってウイルスの抗原性に係わっているタンパク(mRNA)だけを細胞に作らせ、それを精製する方法が使われています。この方法だと製造期間を短縮できるだけでなく、感染性のあるウイルスを製造に用いなくて良いので、安全にかつ大量に生産することが可能です。でも覚えておくべきは、そもそもワクチンは直接ウイルスに働くものではない、ということです。ワクチンが体内に入ることによって、もともと自分の体に備わっている免疫が働き、抗体が新しいウイルスに対する反応を記憶します。そして実際にウイルスに感染したとき、抗体に刻まれた記憶が活躍するのです。ですから、ワクチンを打つ時には自分の免疫機能が十分に働く必要があります。毎日の生活の中で、十分な睡眠と十分な栄養管理、あとストレスの低減を心掛けなければなりません。加えて、必ず副反応は起きるのですが(でなけれ効果がないということです)一人一人それぞれ備わっている免疫反応に違いがあるので、人によっては強く出ることがあります。アレルギー体質を持っているなら、少々注意が必要です。
新型コロナウイルス感染症ワクチンについて「遺伝子操作とか副反応が怖いから」という理由で拒否される方があるそうです。私たちは漠然と相手が何者か解らない時、怖いと感じるものです。でも相手を知るなら、怖くは失せます。日常が戻る事を祈りつつ。

牧師室から No.151

次週から教会の暦は受難節に入ります。主イエスの十字架と死を記念するこの期節は日曜日を含んで四十六日、日曜日を除いて四十日間、復活日までの準備をします。この四十という数字は受難を意味する数です。主イエスは四十日四十夜の間、荒野で悪魔からの試みにあわれます。またエジプトを離れたユダヤの民は四十年のあいだ荒野をさまようのです。そして受難節の始めはイースターの六週間前のさらに数日前、毎年水曜日から始まります。古来より教会は、この日は「灰の水曜日」と定め、教会では信徒が自らの悔い改めの告白をし、額に灰で十字架を記されるという礼式を行ってきました。(桑名教会では伝統的に行っていません)この灰の意味は創世記の最初「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり」(創世記2:7)また「ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。」(ヨブ記2:8)とあるように、人間は灰から造られ灰に戻るということ。くわえて懺悔や苦しみ、悲しみの象徴です。
この受難節には贅沢な食事をしない、嗜好品を断つ、日中の断食を行う、結婚式や記念会を行わない、といった何らかの試みを自分に課す習慣があります。以前、教会学校で受難節に我慢することを生徒たちに書いてもらったのですが「チョコレートを食べない」とか「朝寝坊をしない」といった可愛い約束から「ニンジンを隠さない」「弟をいじめない」といったリアルなものまで、色々な言葉が挙がりました。自分自身に何か一つ苦行を課すことによって苦しみを覚え、その度に、その何十倍、何千倍、何万倍もの苦しみを主イエスは味あわれた、と覚える事ができるなら、それも悪くない試みだと思います。

牧師室から No.150

また病院のベッドから「牧師室から」を書いています。1月始めあたりから、少しずつ気管支喘息が始まっていて「まあ、いつもの喘息だろう」と高を括っていたのです。でも診察を受けると血中酸素濃度が低く肺に影があるとのこと。コロナ感染症を疑われ抗原検査とPCR検査を受けて、結果が出るまで一晩、個室に隔離されました。完全防備の看護師さんが必要最小限の頻度で出入りする狭い病室、突然だったので、本も雑誌も何もなく、ただジッと息を殺しているしかない。そこで突然、恐怖に襲われました。私は膠原病で、薬で免疫力を落としているので感染しても仕方がない、でも「私が誰かに移していたら」。この数日間どこに行ったのか、誰と話したのか思い出します。マスクをしていたか、何分くらい話したか、何に触れたか。もし私がPCRで陽性反応が出た場合、教会に連絡して、関係者に検査を受けてもらうのか、どうするか。グルグルと恐れや不安が頭の中を巡るのです。ひたすら祈ります。そのとき「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ14:27)という聖書の言葉が浮かびました。では…この御言葉で心が落ち着いたか、無理です。まったく心は荒れ狂う波に翻弄されたままです。ただ心の中で何度も「恐れることはない。」と繰り返す事しかできませんでした。そして次の日の午後、看護師がマスクとフェイスシールドだけで病室に入ってくる姿を見て、心から安堵しました。
私たちは、信仰によって強くなるのではなく、かえって自分の弱さを明らかにされます。弱くなるのです。でもそんな私たちを主イエスは「すぐに手を伸ばして捕まえ」(マタイ14:31)て下さる。主イエスが、救って下さるのです。

牧師室から No.149

先日、マイナンバーカードの更新の為に役場の受付に行ったのですが、紐付けてある暗証番号とパスワードが思い出せなくて難儀しました。日常的に使うカード番号は繰り返し使うので覚えているのですけど、さすがに五年前に設定した数字と文字、あやふやなのです。私たちが言葉や数字を記憶するためには「繰り返す」という作業が必要です。ノートに鉛筆で線を引く作業と同じです。最初に引いた線は細く薄いのですけど、その線の上を繰り返し何度もなぞっていくと、太く濃くなります。記憶も繰り返す事によって強く固く、消しにくくなるのです。また衝撃的な事件は忘れ難いのですけど、それは最初から太い油性ペンで線を引いているからです。【神に祈る】ことも、同じ内容に同じ言葉であっても繰り返す事が大事です。繰り返し祈るなら、その言葉を聞かれる聖霊と私の関わりが太く強くなりますし、私と神との関わりを濃く固くなります。加えて、自分の祈りが神の前に適切な祈りなのか否か、を知る事が出来ます。私が神に何を望んでいるのか、が明確になるのです。デッサンでも何本も何本も繰り返しなぞるように線を引いているうちに、最も自分の描きたかった線が見えてくるものです。そして望みが明確になればなるほど、祈りの精度も上がるのです。
次週、礼拝で与えられます御言葉の中に描かれているカナンの女は、大声で叫びながら主イエスと弟子たちに付き纏います。彼女は娘が重い病気に掛かり、今にも死んでしまいそうで、主イエスに助けてくれるように頼むのです。でも主イエスは彼女の言葉を取り合わず狭量な態度をとられるのです。でも私たちは此処に真の祈りの姿を聴くことが出来るのです。

牧師室から No.148

先日、宮島コウさんのご自宅で訪問聖餐を守りました。和室に通され、その畳みには炉が切ってありました。以前はこの部屋でお茶を教えられていたとのこと、なにか気が引き締まる雰囲気があります。床の間の前に座りながら、私は小学四年生の頃に住んでいた家の、隣の家にあった小さなお茶室のことを思い出していました。四畳半の真ん中に炉が切ってあって、入り口は屈まないと出入りできない造りでした。中柱は太い曲がり木で表面は艶々しています。床の間には掛け軸が掛けられ茶道具が置かれています。レコード盤位の黒枠の丸窓からは外の苔むした岩の緑が見えていました。その頃の記憶を辿ってみるに、趣味の茶室にしてはそれなりに整っていたように思います。私は時々おじさんに声を掛けられて、まだ半ズボンの男の子(ガキ)だったのですが、茶室にあげられていました。お茶は苦かったけど、お菓子は甘くて美味しかったのです。おじさん曰く「お茶はもともと女のものではなく男の嗜み」だそうで、「お点前よりも、音を聞いて匂いを嗅いで味わいなさい」と教えてくれました。印象深かった言葉があります。「作法は茶道の長い歴史に培われた、立ち居振る舞いが綺麗に見えて所作に無駄がない最も洗練された【形】なんだよ」と。
歴史の荒波に長く磨かれ続けた結実としての作法を軽んじ、無作法である事に自由さを感じるのであれば、それは未熟です。本当の自由とは形に嵌まらないことではなく、形を完成させることです。主イエスは「律法と預言者を廃止するためではなく、完成させるために来た」と話します。主イエスは律法に何を加えることで、律法を完成させたのでしょう。共に聴きましょう。

牧師室から No.147

何かを新しいこと始めるためには、それなりの力が必要です。例えばタンスを動かそうとするとき、動かそうとする側の底を少し持ち上げて雑巾とか毛布を挟んで、反対側から強く押します。ある程度の力を掛けると、すうっと軽くなってタンスは滑らかに動き出します。物理学では、物体を動かすときには動摩擦力と静止摩擦力が作用し、静止摩擦力の最大値は動摩擦力より大きいから、と説明します。竈に組み上げた薪も種火がつくまでは苦労しますが、いったん火が着くとすべての薪が炭化し尽くすまで燃え続けるのです。何事も、動かす時には少し大きな力が必要ですが、いったん動き始めると少ない力で前に進むようになります。私たちの心も何かを始める時には起動力が必要です。新しい仕事を始める、新しい誰かと話してみる、毎朝散歩を始める、毎朝聖書を一章ずつ読む。そんなとき、ほんの少しの「よっこいしょ」が必要です。でもいったん動き始めれば、それまで抱いていた不安や心配などすっかり忘れるほどに、物事は前に進み始めるのです。
信仰は、この「よっこいしょ」の力を与えてくれます。アブラハムがカルデアのウルからカナンへと歩き出したように、モーセがミディアンの地からエジプトに戻ったように、預言者エリヤはカルメル山に登り、ダビデはヘブロンで油を注がれるのです。十二人の弟子たちは、生業を手放して主イエスに従いました。私たちも同様です。一人で始めようとするのではなく、イエスさまも隣で一緒に押して下さっている事を覚えるなら、最もよい時機によい具合で物事は動き始めます。でも動き始めてからも方向が合っているか時々検証が必要です。祈りつつ押し出しましょう。

牧師室から No.146

次週の主日に与えられる御言葉の中で、主イエスのもと多くの民衆が集まり「ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ福音書4:23)と記されています。そのまま素直に読むなら、人々は主イエスに病気や患いを癒やしてもらうことが目的で、主イエスのもとに集まったとわかります。でもこの先にある言葉が大事なのです。「大勢の群衆が来てイエスに従った」(マタイ福音書4:25)。もし病気に掛かり病院に行き治療を受けて治ったなら、もう病院には通うことはありません。病気を治してくれた先生に感謝はしますが、支持者になったり信奉者になったり、そんなことにはならないのです。
でも主イエスに病を癒やされた人たちは、そののち、主イエスに従います。弟子として主イエスとの関係が継続するのです。主イエスが人々の病を癒やしたという奇蹟物語について、「眉唾だ」とか「いかさまだ」と批判する方がいます。とはいえ人間には不可能なことも神には可能なので、主イエスが癒しを行われた、と信じる方が自然だと、私は考えます。しかし聖書に記されている奇蹟物語の「肝」はそこではありません。主イエスの行われた奇跡は【天の国の先取り】です。
天国を先に味わうこと、です。彼らは主イエスに従いました。病を負い煩いの中にある者たちは、汚れた者として忌み嫌われ、目を逸らされ、何らかの罪を犯したから神に罰せられたと非難され、共同体から排除されていました。でも病を癒やされたあと、彼らは新しい共同体に招かれるのです。つまり彼らにとって病の癒やしは救いの中間地点であり共同体に引き戻されることが救いの到達点なのです。主イエスの奇蹟は現象ではなく過程です。目を引く表層ではなく隠れた深遠を聴くのです。

牧師室から No.145

2021年の始めにあたり祈りを捧げます。全世界の国々の為政者たちが神を覚え、それぞれの国家において愛のわざを実現しますように。国と国とが威力を誇示し合うことによって均衡が保たれるのではなく。国と国、民族と民族がともに神を覚え、愛を以て相手と関わり信頼し、自律をもって協調し、手を差し伸べ合い歩む、本当の平和が実現しますように。戦争、民族紛争、侵略、弾圧によって住処を追われ居所を失った方々の生活に回復が与えられますように。日本の社会にあって広く深く人々の心に神の御言葉が浸透し、その魂を潤しますように。神の光によって孤独の闇が打ち砕かれ、人々が神を介して互いにつながり、互いの言葉を聴き、互いの言葉によって育まれますように。桑名教会がその働きに用いられますように。主の御身体としてのこの世の役割を忠実に全うし、一人でも多くの方を主イエスに繋ぐ業のうちに用いられますよう祈ります。私たち一人一人の日々が神の守りの内にあり、豊かに神からの祝福が与えられますように。コロナ感染症拡大の最中にあって働かれている医療従事者の方々、そのサポートをされている方々を覚えます。健康が守られますように。治療を受けられている方の不安が拭われ、癒やしが与えられますように祈ります。
新しい年に新しい希望を与えられ、これから私たちは新しい日常を歩みます。でもそれは孤独な歩みではありません。私たちには、共に祈り合う神の家族が近くにいて、主イエスが私たち一人ひとりの魂の傍らにいつもいて下さいます。一人で解決できることが私たちの誇りではなく協働できる、同じ神を信じる仲間がいることこそ誇りなのですから。

牧師室から No.144

「100%の料金払ったら普通に泊まれるらしい。」というツイートが13万いいねを集めた、という記事を読みました。国のGoToトラベル政策の停止によって旅行のキャンセルが相次いでいるけれど、そもそも旅行が禁止されている訳ではない。温泉旅館の主人がツイッターに投稿した言葉です。彼は当たり前のことを言っているのに、当たり前として受けとめられなくなる。そこに怖さを感じます。日本という社会集団にあって「雰囲気」とか「空気」は個々の行動を支配します。同調圧力とも言われます。国を導くリーダーたちは新聞やテレビの言葉を使って「みんなは右を向いているよ」と発信します。なんとなく右を向かなければならないような雰囲気を世間に作るのです。この戦前戦中からの手法が、最近、顕著化しているように思います。
本来、リーダーたちのするべき事は、国民一人一人が正しく判断するための偏りのない情報を提供すること。その情報を検討し判断できる知性、想像力、共感力を育てる教育を行き渡らせることです。加えて自分の幸福だけではなく隣にいる【誰か】の幸福も熟慮して自己の行動を抑制・促進する。つまり主イエスの教える「愛」を実践する信仰を根付かせる、ならば、社会は成熟します。でもそのためには何百年単位の時間が掛かります。ですから次の世代のことを考えて、環境負荷が低く継続可能な社会インフラを組み立てていく取り組みが必要になるのです。近視眼的な利権を尊重するのではなく、次の世代が安心して学べる環境を構築する。それが一つの国を治めるリーダーの役割であり器量です。次週の御言葉に記されているヘロデ大王は、自己の利益のために次の世代を犠牲にし、道を外れるのです。共に聞きましょう。

牧師室から No.143

クリスマスツリーの先端に飾る大きな星には意味があります。これは「ベツレヘムの星」といって、クリスマスの物語に登場する占星術の博士たちが遙か東方から追いかけ、主イエスの寝かされている馬小屋の上にとどまった、あの星です。この占星術の博士について、文語訳と口語訳聖書では「博士」と訳されていたのですけど、新共同訳聖書では「占星術の学者たち」となっています。もっと昔の翻訳では「王」と訳されていた時期もありました。では彼らは何者なのでしょうか。聖書には「マゴス」と記されています。それは魔術師・占い師・占星術師の意味です。身近な表現では、手品を意味するマジックの語幹がこのマギ(magi)というラテン語です。もう少し深く読みますとギリシャ語のマゴスという言葉は、ペルシャの宗教の中で祭司の職に就き天文学ないしは占星術に携わっていた一部族の名前に遡ります。ですから、東方(ペルシャ)出身の天文学者、夢を解き明かす者、占い師がマギと呼ばれていたのです。彼らの人数について福音書には明記されていないのですが、黄金・乳香・没薬を携えていたことから三人と描かれることが多いのです。そして教会の伝承では、それぞれに名前がついています。黄金を捧げたメルキオール、乳香を捧げたバルタザール、没薬を捧げたガスパールです。この三つの捧げ物にもそれぞれ意味があると考えられています。それらは主イエスの生涯を表していて、黄金は王権を、乳香は祭司を、没薬は受難(十字架による死)をそれぞれ暗示しています。そして彼らは主イエスの下に訪れた日が誕生から十三日目とされ、公現日となります。主イエスが異邦人に自らを表した最初の日として祝われるのです。

牧師室から No.142

次週、私たちは共に降誕日の礼拝を守ります。例年、礼拝の後に祝会の時が設けられ、暖かい部屋の中で美味しい食事をいただきながら、楽しい催しが企画されます。でも今年は開催を断念することになりました。せっかくのクリスマスのお祝いなのに、と残念に思われるかも知れませんが今年は「一途に御子の誕生を覚える感謝の礼拝」として原点に回帰する思いで共に礼拝を捧げましょう。そもそもクリスマスとは主イエスを拝む礼拝のことです。そして最初のクリスマスは馬小屋の中でもたれた、小さな小さな礼拝でした。
この馬小屋ですが、私たちの思い浮かべる建屋ではなく、郊外の広い洞窟のような場所だったと考えられています。当時、遊牧民や行商人は自分たちの商品であり財産である家畜を連れて、町から町を移動していました。でも彼らが町中に入るとき、家畜を連れていくことはできません。雨風を防ぐことができて、野獣や盗賊に襲われたとしても少人数で守る事のできる場所に家畜たちを集めておいたのです。羊や牛、山羊、馬は勿論、それにラクダもここには預けられていたかもしれません。この沢山の家畜が集められている薄暗い洞窟の中、あまり衛生的とは思えない場所で、主イエスはお生まれになりました。でも、若く貧しい夫婦にとって、この馬小屋は天国のように感じられたと思います。砂漠気候のこの地域では、昼は暑いけれど夜にはかなり冷え込みます。でも洞窟の中は家畜たちの体温と発酵した古い飼い葉の熱によって温度も湿度も快適に保たれていたことでしょう。そして新しい飼い葉はどんなベッドよりも柔らかいのです。神は彼らを祝福し幼子イエスを与え希望の光を彼らの心に灯しました。これが最初のクリスマスなのです。

牧師室から No.141

以前、献血をするために常設の献血ルームに行ったときのことです。行ったことのある方はご存じだと思いますが、すぐに血を抜かれるわけではありません。まず医師からの問診を受け、検査のために5ccほど採血されます。その成分や比重が計られ規準を満たしていれば、ようやくベッドに寝かされて腕の血管に太い献血針が刺されるという流れです。その採血検査のとき、私の前に並んでいた若い青年の血が採血管に取られたのですが、明らかに深赤色が白濁しているのです。彼自身も動揺したようで「最近カップラーメンばかり食べてたからかな?」と途惑っていました。私たちの体は食事によって得られる栄養素によって作られています。だからバランスの良い食品を適切な量、摂取するのが理想です。でもつい、嗜好や味覚を満足させるためとか、手間を掛けたくないから、と、インスタントやジャンクフードに手を伸ばしてしまうのです。その結果、体調を崩すことになります。
そして、身体を維持するためは適切な栄養素が必要なように、私たちの心も良い言葉を必要とします。もし自分の嗜好や関心から好きな言葉ばかりを読み聴くなら、思考や語彙が偏ります。偏見、思い込み、独りよがりな発想に心が支配される、つまり心が不健康になるのです。聖書に描かれている洗礼者ヨハネは、最後の預言者と呼ばれる人物です。預言者の働きは世の人の不都合な事実を指摘する事です。彼はヘロデ王の心が神と民衆から逸れて、私利私欲に向かっている事を指摘したことで糾弾され牢に繋がれます。その言葉は苦く口当たりは悪いのですけど、でも人々の心と魂を健康に保つために与えられる神からの栄養素であり薬剤だったのです。

牧師室から No.140

クリスマスが近づいています。今年も桑名教会では証し集を編纂し発行します。今年はコロナ禍の中で教会に集まりにくい状況を配慮し、多くの方に一言ずつ言葉をいただく、という企画になりました。私たちは直接、会うことができなくても言葉と祈りで繋がっています。少し寂しいけど、冬を越えて春になればまた会えます。それまでの辛抱です。
投稿していただいた文章ですが、本当に一つ一つの言葉が、美味しく炊き上がったお米のようにキラキラしていて、読んでいて本当に嬉しくなるし、慰めをいただいています。それに、文章にはそれぞれ個性が現れるものだと再認識させられています。センテンスの長さや句読点の打ち方で文章のテンポが作られます。せっかちな人は小刻みになるし、考え込む人は単語を重ねる傾向があります。言い回しやテニオハの使い方からは性格の柔らかさや生真面目さが窺えます。たまに雑文で、とか拙文で、と謙遜される方がおられますが、その特長こそが神が私たち一人一人に与えられた持ち味です。親しい方から頂いた手紙が、内容を読む前にその方の文章だとすぐに分かるように、文章にはその人の表情が映し出されるものですし、内容よりも嬉しく感じられるものなのです。
ヨハネによる福音書は、神の言葉として主イエスがこの世に与えられた、と記しています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ福音書1:1)私たちは直接、神に会うことはできません。でも主イエスという神からの手紙を通して、その存在を知ることができます。また主イエスと人々との関わり、その眼差しを通して神が私たちに与えている愛の深さを感じる事ができるのです。

牧師室から No.139

次週から教会の暦はアドベントに入ります。このアドベント(待降節)とはクリスマスの期節に先立つ4週間で準備の時として設けられています。現代のキリスト教会にあって、たぶん最もメジャーな礼拝はクリスマスなのですが、その起源は遅く、紀元三世紀頃だと言われています。復活祭や聖霊降臨祭は教会の始めから覚えられていたにも関わらず、です。そこには理由があります。教会はペンテコステの出来事を通して始められてから三百年は、ずっと過酷な迫害に晒されていました。エルサレム神殿の権威、つまりユダヤ教から異端視され、異邦人伝道が進んでからはローマ帝国の激しい弾圧を受けます。しかし、多くの殉教者を天へと送り出しながらも教会は荒波を乗り越え、ついにローマ帝国の国教(313ミラノ勅令)に定められます。その後、教会に少々余裕が出てきてから主イエスの生涯に対して関心が向きクリスマスが祝われるようになりました。でも信徒たちの当初の関心は、現代のように主イエスの誕生の物語に向いていた訳ではありません。彼らは主イエスの復活、聖霊降臨に続いて、主イエスの再臨を覚える為に誕生の物語を引き合いに出すのです。幼子イエスの命が暗黒の世界に光として与えられたように、この世の暗闇を照らす光として主イエスは再臨される。それがクリスマスの当初の意味です。
このアドベントとは「到来する」という意味の言葉です。「冒険」という意味のアドベンチャーの語源でもあります。つまり「ものすごい経験」「予期せぬ出来事」の予兆がアドベントなのです。私たちはアドベントに【神が肉体を持たれ、世の終わりに再臨する】予測不能の出来事を共に経験していくのです。

牧師室から No.138

地球の裏側で起こっている出来事を、まるで自分自身の目で見て、耳で聞いているかのように知ることができる、そんな時代を私たちは生きています。例えばインターネットを通じて、アメリカで行われている大統領選挙がリアルタイムに伝えられています。赤いプラカードと青いプラカードを掲げた人たちが罵声を浴びせ合い、肩から斜めに下げた自動小銃を誇示しながら威嚇しあっている。そんな映像を見ていると、まるで私自身がデモの中で一緒に叫んでいるかのように思えてきます。ヨーロッパではコロナウイルス感染症が再拡大し、ICUのベットに寝かされ人工呼吸器をつけられた患者を、防護服を着込んだ医療スタッフが囲んでいます。その寝かされた患者と同じ視点で、私も病室の簡素な天井を見上げてしまうのです。でも私はそこにいません。そこにいるような気になっているだけ、です。
十誡の第二戒に「あなたはいかなる像も造ってはならない。」と定められています。この言葉を遵守するなら、絵画も写真も映画も禁忌事項です。著しく時代錯誤な戒めのように思えます。でも神は「解っていないのに解ったように振る舞う」私たちの心の在り方を知っていて、こう命じたのだと気づかされます。
世界各国から送られてくる映像(偶像)を見ていると、まるで自分が神の如く地上を見下ろしているかのような感覚を覚えます。「私」の力で過ちを正し、傷つく者を立ち上がらせ、慰め、問題を解決することができるような。でも、それはまやかしです。私たちは手の届く範囲の世界にしか触れる事ができません。でも、だから神は私たちに、手の届く世界に対して忠実に、真摯に敬虔に関わる事を求めておられるのです。

牧師室から No.137

少し前に「倍返し」というセリフで有名になったドラマが放映されていました。権力や地位を笠に着て理不尽を強いる敵対者に、誠意と公正さを以て立ち向かう主人公と仲間たち、主人公が何度も危機に追い込まれながらも乗り切り、最後の最後で敵を駆逐する。その勧善懲悪な筋書きに溜飲を下げる「スカッとする」のです。敵という存在は自分を攻撃する者であり、倒れれば喜ばしい相手です。でも主イエスは「敵を愛しなさい」と話されます。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と話すのです。
この御言葉はキリスト教信仰をまだ与えられていない方々にも広く知られています。でも、肯定的に知られているのではなく、嘲笑の対象として覚えられているのです。私も子供の頃、教会に通っていると知った者たちから、「右の頬を…」とからかわれました。つまりこの言葉は、人間愛に満ちた素晴らしく美しい心構え、として知られている訳ではなく、一般には「不可能なこと」「愚かなこと」として覚えられている、のです。嘲笑する者たちはさらに続けます。敵対的な目を向ける者に対して自分の弱みを見せるなら、さらに激しく攻撃を受けることになる。はったりでも良いから自分を強く見せて、相手を怯ませなければ、付け込まれるし食い物にされる。この世は自然淘汰が自然律なのだから、敵は徹底的に叩きのめして、二度と立ち上がる事のできない所まで落とすべき。先に殴ったほうが勝ち、なにが正しいか論理的かではない。そう訴えるのです。私たちも、それが生きている世界の現実のように思えます。では何故主イエスは「敵を愛しなさい」と命じられたのでしょうか。そもそも「愛する」とは何か、次週、共に聞きましょう。

牧師室から No.136

次週の礼拝は幼児祝福合同礼拝として守ります。それは一般の七五三に相当する祝福式として覚えられます。教会に集う信徒が皆で、教会に繋がる子どもたちの成長に感謝し、子どもたちの日々に、神さまからの恵みが豊かに与えられるよう祈ります。また式の中で子どもたちは一人一人、牧師から祝福を受けます。
子どもの祝福について、なにか大人から見ると、自分とは関係の無い事柄とも思えるのですが、そうではありません。私たちは、目指すべき信仰の姿勢を子どもの信仰の中に見いだす事ができる、と主イエスは話されています。「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。」(マタイ福音書19:13-15)
主イエスは、子ども時代の信仰が素直で無垢で、素晴らしいから、大人もその信仰に学びなさい、と諭した訳ではありません。母親たちが連れてきて、主イエスが抱き上げた子どもたちは乳幼児だと考えられています(諸説ありますが)。彼らは自分では、なにもできません。空腹を満たす為には、泣いて母親に乳を願うしかないのです。同じように、自分の力ではなく、逆に自分の力の一切を手放して神に願う姿勢に、主イエスは本当の信仰の在り方を見るのです。完成された信仰とは完璧に理論武装された、行いにも非の打ち所のない姿勢の到達する境地(高み)ではありません。成熟した信仰とは、力みの抜けた「心の貧しい」者の信仰なのです。

牧師室から No.135

次週の礼拝は召天者記念礼拝として守ります。「召天者」とは、先に神さまの下に帰られた方々のことです。そして「記念」とは「この世に残された私たちが(先に天に召された)その方と神さまとのこの世での歩みを思い起こし(想起し)、心を新たにする」という意味合いとなります。この礼拝の様子を言い表している讃美歌が544番です。「あまつ(天つ)みたみ(み民)も、地にあるものも、父、子、御霊の神を讃えよ、御霊の神を讃えよ。」つまり「天に帰られた方も地上に残る私たちも一緒に神を讃えよう」という意味の歌詞です。天に帰られた方と私たちは、今は住むところを違えています。会うことも、言葉を交わすこともできません。でも一つの礼拝の中で一緒に神さまに心を向ける事ができる。共に礼拝を捧げる私たちは心を一つに重ねることができるのです。そして、私自身が神に召されて天に帰ったとき、私たちは、今度は天で、地上に残されている方々と共に神に礼拝を捧げるのです。
一つ、覚えなければならないことは「全ての者は残らず神の下に帰る」という原則です。「この人は地上での素行が悪かったから天に帰れない」ことはありません。神がそんな選別をされるなら、誰一人として天には帰れないでしょう。では、この世にあって奔放に神を覚えず生きるのが良いのか、というと、それは恥ずかしい生き方です。「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」(ヨハネの手紙Ⅰ2:28)と聖書に書かれています。神の前で恥じ入らない為に、私たちは罪を避け、身を正して誠実に生きるのです。

牧師室から No.134

次週の礼拝から教会暦の節が変わります。ペンテコステから始まった聖霊降臨節が終わり降誕前節となります。降誕前節とはその名の通り主イエスの降誕を覚える期間のことです。クリスマスまでの九週間続き、後半の四週間は待降節(アドベント)として覚えます。この降誕前節の期間に礼拝に於いて私たちは「神の創造と救済の意志を学びながら御子降誕を迎える準備を」します。なぜ御子の降誕を覚える為に「神の創造と救済の意志」を学ぶ必要があるのか、というと、ここに、主イエスがこの世に遣わされた理由があるからです。
神はこの世を創造されアダムに命と霊を与えます。しかしアダムは神に背き、食べてはいけないと命じられていた【善悪の知識の木】の果実を食べます。神はアダムとエバに皮の衣を作って着せ、エデンの園から追放します。こうしてアダムは地上を彷徨う者となるのです。私たちがこの世を生きる上で背負う苦しみは、このアダムの罪に起因します。故郷を追放された者の悲しみ、帰る場所のない不安感を常に抱きつつ生きることとなるのです。その欠乏を払拭するために、私たちはこの世のモノで魂を埋めようとします。ある者は名声を求め、ある者は権力を求め、ある者は支配力を求めある者は知識を求め、またある者は財力を求めるのです。しかし埋められる筈もなく苛立ち、互いに奪い争い合います。この歪みからこの世の悲惨が生じます。
その罪を拭うために神はこの世に御子イエスを遣わされます。主イエスは肉体を以てこの世に現れ、自らを犠牲として十字架上に捧げ、神と人との和解の架け橋となられました。その主イエスの誕生を覚える礼拝を私たちはクリスマスとして祝うのです。

牧師室から No.133

次週18日の桑名教会の主日礼拝は、金城学院大学学長・宗教総主事として務められている小室尚子牧師を説教者・講師として招きます。主日礼拝に引き続き「子どもの教育とキリスト教」と題して講演をいただきます。毎年行っている秋の特別伝道礼拝ですが、今年はコロナ禍の最中という制約があり、役員会では、そもそも実施するか否か、から議論がなされました。結論として、工夫を凝らした形での開催となりました。礼拝堂では会場の座席の間隔を空け、受付では来場者の手のアルコール消毒、マスクの装着をお願いします。またインターネットを使って同時配信を行います。チラシには配信ページのQRコードを印刷しました。スマートホンのカメラアプリでコードを写すと自動的にYouTubeの桑名教会ページが開き、視聴することができます。もし可能であるなら配信を視聴している方からのチャットの書き込みにも対応し、質問を受け付けることも考えています。せっかく、日本の教育現場の第一線で活躍されている小室先生を招くことができるのに、手放しで多くの人を礼拝堂に招くことができない状況は残念です。とはいえ開催できるだけでも、充分に意味があることだと考えます。
講演の表題から読み取れるように、講演の中心的な対象は子育て中、もしくは子育てをサポートしている方々に向けられています。でも、もっと幅広く全ての方を対象にして「人間として幸いに生きていく為に必要なコトはなにか」という自己の人格形成にとっての根本課題がもう一つの主題となっていますので、どなたでもご参加ください。できるだけ短い時間で凝縮した内容をお届けしたいと願っていますので、お支え、お祈りにお覚えいただければ幸いです。

牧師室から No.132

携帯電話に話しかけると即座に答えてくれます。例えば「明日の天気を教えて」と話しかけると、「明日は暑くなるでしょう、最高気温は26度です。」と親しく答え返してくれます。まるで執事が携帯電話の中に控えているようです。でもこの声の主は生きていません。プログラムコードが私の質問の声を認識して文字列に変換し、意味を解析して解答を類推し音声出力された音、それが正体です。人の声のようですが、人の声ではありません。でも私は、あたかも人に話しかけられている様に感じてしまうのです。
人は命の模造品を作ることはできますが、命そのものを作る事はできません。例えば穀物や家畜の交配に手を加えて新しい品種を作ること、つまり既にある生命システムに手を加えることはできますが、何もないところから命を創り出すことはできません。薪に火を灯すことは可能ですが、何もない空間に「火」を生じさせることはできないのです。それができるのは、この世を創造された神だけです。神というと私たちは、何か親しく話しかける事のできる人物のような何か、を思い浮かべますが、神の本質は無から有を生じさせる「存在」(ἐγώ εἰμί)です。私たちは神が存在する、という事しか認識できません。(でも主イエスという言葉と業、聖霊の導きを通して神を御心を知る事ができます。)その神は混沌の中に光を起こし、秩序と法則を組み上げられ、この世界を始められました。
次週与えられる御言葉に描かれているラザロは、主イエスによって完全に死んだ後に生き返ります。無(死)から有(命)が生じた。ユダヤ人たちは、主イエスが奇蹟をどんな手段で行ったか、に関心がある訳ではなく、主イエスがやってしまった事に憤るのです。人間業では為し得てはいけないこと。神の領域を侵す行為だからです。

牧師室から No.131

名駅の中央コンコースから桜通口に抜けると、JRゲートタワーのエントランスが広がります。地下6階、地上46階、高さ210mの巨大建造物です。建物の躯体にはCFT構造が取り入れられています。角形の鋼管に超高強度コンクリートを充填した柱を軸に一体型のフレームを組むことによって、しなやかな鉄骨と強固なコンクリートの利点を活かし、欠点を補い合う事ができます。建物の中に入って感じる天井の高さ、空間の広さと明るさは、耐久性を保ちつつも極限まで細く設計された柱と梁によるものです。また同調粘性マスダンパーが横揺れを吸収し、震度7の地震に対しても、計算上は安全性が確保されています。延べ床面積26万㎡、1日42万人が利用する一つの巨大な都市です。
少し離れた所からこの建物を眺める度に、私は、考古学の資料の頁に描かれていたバビロン空中庭園のイラストを思い出します。この空中庭園をモデルにして創世記に記されているバベルの塔の物語が編まれた、という説があります。人々は神に近づこうと力を合わせ塔を積み上げていきます。再び神がノアの時にように洪水を起こしても生き残れるように、彼らは高い山より高く焼きレンガを組み、アスファルトで固めるのです。神の力を克服したい、という欲望は共有され、人々が集まり協力し強い一体感が生じます。高揚感に湧くのです。でも、神はそれを良しとはされません。人々の言葉を乱されます。意思の疎通が途絶え、建設途中の塔は放棄され人々は方々に散っていくのです。【知恵とは神を覚える】ことです。沢山の知識を蓄積し、技術を高め、通信網を拡充しても、魂について無知であるなら無意味です。神を覚えることで、私は私(魂)を知ることになるのです。

牧師室から No.130

「欲しいと思った本は、見つけたときに借金してでも買いなさい」と、神学校時代の先輩に教えられました。然り、本は一度手放すと二度と目の前に現れません。10年位経ってから突然古本屋で再会するとか、ネットの検索でヒットする、なんて運命的な再会もあります。でもやはり一目惚れして気分が乗っているときに、すぐに手に取って一気に読むのが、幸いな本との関係だと思います。そして、新しい出会いを求めて本屋を巡る散策の時間は何事にも代え難いものです。最近では本屋も、以前より個性を前面に出す時代になっています。消費者の嗜好の多様化に合わせて、明確に傾向の揃った本を集めて棚に並べる、少し広いスペースを空けて椅子を置き、読む事ができる。なかにはテーブルが置かれコーヒーを飲める店なんかもあります。手に入れたい傾向の本が沢山集められているなら、たとえ人里離れた場所にあっても、足を伸ばす人がいる、集客ある、経営も成り立つのです。
人は自分の興味の対象に心を向けます。求めるモノの為なら他人の目も顧みず、寝食も惜しまず、金に糸目をつけず、手に入れようとします。主イエスは私たちに、その様にあなたの信仰を求めなさい、と話します。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイ福音書13:44)主イエスに天国への道筋を求め続けるなら、必ず答は与えられます。でも主イエスに、それ以外の【何か】を求めようとしているのが、私たちなのかも知れません。主イエスは天の国の所在ではなく、エルサレムの解放を期待したユダヤ人たちの手で十字架に掛けられるのです。

牧師室から No.129

むかしむかし、私は教会付属の幼稚園に通っていて、クリスマスの降誕劇で羊の役をすることになりました。母は他の羊役の子供たちと同じように私に白いタイツを買って履かせました。私は、始めて履いたタイツが嬉しかったのか、それとも羊の役が嬉しかったのか、降誕劇の前日のリハーサルの時に、白いタイツを履いたまま礼拝堂の舞台の上を四つん這いで走り廻りました。そしてタイツの膝を汚すだけなら、まだ洗えばリカバーできたのかも知れませんが、事も有ろうに大きな穴を空けて、母に、ものすごい剣幕で叱られました。幼稚園の頃の他の出来事を殆ど覚えていないのですけど、あの鬼の形相だけは深く記憶に刻まれています。
羊はパレスチナで最も頻繁に見られる動物です。ヨブ記の最初にヨブが蓄えていた資産として「羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり」(ヨブ1:3)とあり、羊の数が突出して多い事からも分かります。草食で繁殖力が強く、紀元前七千年頃には既に家畜化されていました。羊の飼育は畑作と並んでありふれた仕事であり、羊飼いに導かれる羊たちの姿は日常の風景でした。旧約聖書では(つまり当時のユダヤの共通理解では)「羊飼い」は王、特に神を表す称号として用いられています。羊飼いは自分の羊を守り、何百頭の群れであっても一匹一匹を名前で呼び、また呼ばれた羊もその声に応えます。迷い出た羊を群れに戻し、野獣が襲ってきたら身を挺して戦います。それが理想の王の姿であり、神と人との理想的な関係とされていました。「牧師」という名称もラテン語のpastor(羊飼い)に由来します。つくづく人間わざでは無理な仕事だなぁ、と痛感するこの頃です。

牧師室から No.128

日本を離れて海外の地に降り立つと、得も言われぬ開放感を覚えるのです。それは日本という国の枠組みから外に飛び出すことができた、という感覚でしょうか、束縛から解放されたような「自由」を感じるのです。でも正しくは、日本国発行のパスポートを所持している時点で、海外にいても日本にがっちり縛られています。というか、日本という共同体に守られています。私は以前、インドで盗難に遭い、身ぐるみ剥がされたときに強く感じました。リュックの中身は全て奪われましたが、四十リットルのバックパックは残されていました。その隠しポケットに納めてあったパスポートとトラベラーズチェックのレシートは無事でした。取りあえず無賃乗車で汽車に乗り近くの都市に向かい領事館を訪ね、一週間ばかりお世話になりました。三日くらい何も食べていなかったので、領事館の待合室で出されたカップヌードルを食べたとき、安心して涙が出ました。
私たちは無自覚に様々な共同体に属しています、その風習やら認識、ルールを当たり前の事として受け入れています。一番身近な共同体は家族でしょうか。学校、会社、地域、国家といった幾つもの枠組みの内側にいるのだけど、あまり意識していません。でも一歩、外に出たとき、始めて自分が束縛されていたこと、同時に守られていた事に気づくのです。教会という交わりは私たちを束縛します。ときどき面倒に思えることもあります。でも同時に私たちの魂は教会という関わりの内で守られています。なぜなら教会の交わりは主義主張や利害関係によって集まった組織ではなく、主イエスによって集められた交わりだからです。私たちの魂は、この場所に帰属するのです。

牧師室から No.127

以前、小さな地方劇団で舞台照明の手伝いをしたことがあります。台本を読んで演出家のイメージを聞いて、点灯と消灯のタイミングを決めます。次に場面ごとに合わせた光を舞台に置いていきます。単純に光を当てれば良いという訳ではありません。場面の解釈や役者の演技、また演出家の表現したいイメージ、観客の視線がどこに向くかを想定して、光の範囲や強さ柔らかさや堅さ、角度、配色を決めます。ここから後は予算と技量です。まず光源のレンズをフレネルにするか凸レンスにするか、それともパーカンにするか。何ワットを何本、どの位置から光を落とすか。光の筋を見せるか隠すか、入念にプランを組みます。そしてリハーサルの前日、灯体を舞台に仕込みます。でも舞台照明の面白さは、ここから始まります。リハーサル中、ひたすら演者のセリフの間合いを覚えます。言葉の語尾が短い人、長い人、切るように話す人、ふわっと落とす人、それぞれによって調光機のスライドボリュームを落とす早さが変わるからです。光が「すっ」と消えるか「すぅー」と消えるかによって、セリフの聞こえ方や印象が変わります、灯体のフィラメントが白黄色から橙色に移り、淡く虚ろに消えていく、とても微妙な光の塩梅ですが、それを捉える事ができる程に人の感覚は鋭敏なのです。
私たちは光の中にあるとき、ことさら光を感じません。でも、闇の中にあるなら、微妙な光にも鋭敏になります。そしてどんな小さな光であっても、光そのものの存在が私たちの心を支え、希望となります。主イエスは「わたしは世の光である。」と話されます。私たちは戸惑い、迷い、混乱し行く道を失います。でも神は私たちに主イエスという光を与えて下さるのです。

牧師室から No.126

先日、常滑に行き、日常使いのマグカップを買いました。やきもの散歩道は夏休みの時期なのに人数はまばらです。狭い路地をすれ違う人も、みんなマスクを着けていて息苦しそうです。でも、つかの間の外出を楽しんでいる様子でした。
なぜ、わざわざ常滑まで行き、マグカップを買う理由は何だろうと自問します。奥様に連れられて、という側面も大きいのですが、やはり常滑のギャラリーで手に馴染むカップを見つけると、少々値が張っても(程度問題ですが)自分から手に入れたいと思うのです。いつも私が購入する日常品は九割方ユニクロだったり無印良品だったり、店頭に並んでいる量産品です。安いし使い易いし丈夫だからです。逆に一点物は値段が高いし、若干引っかかるような触感があるし、乱暴に扱うとすぐに欠けてしまいます。でも引きつけられる魅力があります。一つは、お店ごと、作家さんごと、作品ごとに、一つとして同じものがないこと。さらに決定的な理由は、日頃、忘れがちな、作家の作品に対する思いが伝わってくる感覚を取り戻させてくれるから、なのだと思います。唯一の作品の背後に広がる、創作されていく過程、物語に、想像力を掻き立てられるのです。
次週、与えられます御言葉は「姦淫の女」の物語です。一人の罪を犯した女性が主イエスの前につれて来られます。群衆は彼女を律法に照らして、石で打ち殺そうとします。でも主イエスは彼らに「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と話します。すると彼らは一人、また一人とその場を立ち去っていくのです。主イエスの言葉によって、彼らは罪を裁く者から罪の当事者に変えられるのです。

牧師室から No.125

以前は豊富な情報に精通し記憶している人が「頭が良い」と評価されていた様に思います。沢山の言葉を暗記し記録・分類できること。それは社会組織に於いて得難い能力でした。例えば資料を見なくても過去の議事録や範例を直ぐに引用できる。過去に行った手法を提示する事ができる。英語やドイツ語、フランス語といった多言語に通じていれば、国内の情報だけでなく他国の情報、例えば政治情勢や経済指標を知ることができたのです。でも最近ではインターネットが普及し、誰でもが安易に情報を手に入れられる時代になりました。どんな国の言葉でも自動的に逐次翻訳してくれます。加えて著作権や特許権、広告収入など、情報そのものが売買されています。本屋の棚に並べられている大量の書籍が週替わりで入れ替えられるように、情報は世の中に溢れ、氾濫しています。
このような現代あって求められている能力は情報リテラシー(読解記述力)だと言われています。つまり情報のゴミ箱の中から必要な紙片を濾し別ける能力。それが事実か虚偽か正しい情報か見定める能力です。情報そのものよりも、情報を使いこなす力が必要とされているのです。そのために私たちは考えるためのモノサシを持たなければなりません。誰から何と言われても惑わされず「考える為の規準」を持つ必要があるのです。
次週の御言葉の場面に描かれるニコデモは他の議員たちに、まず自分で見て考えることを勧めます。律法の言葉を杓子定規にひけらかすのではなく、神が何を求められているのかを聞く耳を持つように、と勧めるのです。誰が何を言っているかではなく、何が自分にとって大切なのか。何より神が何を求められているのか、なのです。

牧師室から No.124

梅雨が明けました。天日でカラッと渇かした洗濯物の肌触りは、やはり気持ちの良いモノです。でも今年の夏は、心持ち生活習慣を自制する必要に迫られています。コロナウイルス感染症の予防のためです。私たちは三月から始まった第一波を経験し症状の傾向を知りました。これまでの人類の出会った事のないタイプのウィルスであり、ほとんどの人が体内に免疫抗体を持っていないこと。罹患してからの発病率は低いけれど重症化すると厄介であること、をです。でも日本に於いては、世界各国に比べてかなり恵まれた状況にあります。私たちは玄関で靴を脱いで家に入るので、生活空間を清潔に保つ事ができます。清潔な水を豊富に使って手を洗えますし、帰宅して直ぐにシャワーを浴びることもできます。何より衣服を頻繁に洗濯できます。天日に干せば太陽光に含まれる紫外線でウィルスは不活性化します。医療体制も整っています。食料も充分に市場に供給されています。とは言え気を引き締めて、この嵐の通りすぎる事を、心静かに穏やかに待ちましょう。このような災厄の時、すべからく世には誹謗中傷、差別、偏見、利益誘導、扇動の言葉が飛び交います。惑わされず神から与えられた知恵と礼節をもって、祈りつつ応じましょう。「焦らず呑気に確実に、です。
教会では主日礼拝の式次第を若干変更して時間を短縮します。礼拝堂に入るときには、受付のアルコールを使って手の消毒をして下さい。アルコール過敏症の方は洗面所での手洗いをお願いいたします。体調が優れない時はインターネット礼拝中継を活用し自宅で礼拝をお守り下さい。なにかありましたら、牧師が完全防備をして訪問しますので、気兼ねなく連絡ください。

牧師室から No.123

旧新約聖書の物語の中にパンは何度も描かれています。でも、このパンは、私たちの思い描くふっくらとした柔らかいパンではありません。聖書に描かれているパンは基本的にパン種(イースト菌)を入れず発酵させないで焼いた種なしパンです。まず全粒粉に水を加え耳朶程度の堅さに捏ねて生地を作ります。それを15センチ程度に広げて円形の鉄板で焼きます。ある程度火が通ったところで鉄板から剥がして直火で熱を加えます、すると真ん中から膨らみます。なぜユダヤ人は種なしパンを尊重したのか、逆に、イースト菌で膨らましたパンを嫌ったか、というと、全粒粉の生地をイースト菌で膨らませる行程は穀物を腐らせることと同じ、と考えたからです。腐らせる、つまり不浄だとして嫌ったのです。あともう一つ、イスラエルの民がエジプトを出るとき用意したパンは種なしパンです。エジプトで一般的に食べられていたイースト菌を使ったふっくらとした美味しいパンとの訣別はエジプトでの食習慣との訣別であり、エジプトの文化、日常との訣別を意味するのです。(現実的な解釈では、荒野を移動する遊牧民族のユダヤ人にとって種なしパンは保存が効き携帯することもでき有利です。対して農耕民族で移動する必要のないエジプト人は発酵に時間を掛けることができ、美味しい柔らかいパンを食べていたのです。)
主イエスは御自分の事を「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」(ヨハネ6:51)と話します。そして、目の前に置かれているパンを取り祈りながら裂き、弟子たちに分け与えられます。このパンが種なしパンだと分かると、その平べったいパンを裂く主イエスの細かい手の動きが見えてきます。

牧師室から No.122

パウロがテント造りという技能を持っていた事は、良く知られています。彼はコリントに滞在している間、アキラとプリスキラ夫婦の家に住み込み、共にテント作りをしていた、と聖書に記されています(使徒18:3)。でもパウロは、祭司になるべく生まれ故郷のアジア州タルソスから、ユダヤ教のラビ(宗教指導者であり学者)になるべくエルサレムに留学した、いわば若い頃から回心するまで一貫して学者肌の人物です。そのどちらがパウロの本来の職業なのかというと、そのどちらもパウロの職業なのです。古くからユダヤ人は子供の頃から、親から引き継ぐ仕事の他に、生計を立てるための技量を一つ教え込まれていた、と知られています。たとえ住んでいる国を追われ財産を没収されても、行き着いた土地で直ぐに生計を立てる必要があったからです。また財産を携帯できるダイヤモンドや金にする、という事も彼らの知恵です。また知識や学問も他人に奪われる事のない財産として有益です。つまりパウロにとってラビは仕事で、テント張りは生業なのです。昨今、仕事と生業の線引きが曖昧になっている様に思います。自分の好きな仕事が生業になると簡単に考えてしまうのです。でも本来、食い扶持を稼ぐとは額に汗して、泥にまみれることです。楽園を追放されたアダムに神は「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。(創世記3:19)と話すのです。
さて次週の御言葉で主イエスは群衆に「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ福音書6:27)と勧めます。私たちには、パンを得る為に必要な生業(なりわい)と、自分自身の命をこの世にあって有意義に用いるための仕事が必要です。そして私たちが神と共に働く仕事の報酬は永遠の命なのです。

牧師室から No.121

実際に距離や時間が同じであっても、行きよりも帰りの方が短かったと感じる現象を「帰宅効果」とか「RTEリターン・トリップ・エフェクト」と呼ぶのだそうです。直感的には、“行きの道を一度経験しているから帰りの道は短く感じる”、つまり“慣れ”によるものだと考えがちです。でも、そうではないらしいのです。科学者が実験した結果では、行きと違うルートで帰っても、帰りの方が短く感じるのだそうです。ではなぜ、私たちは帰り道の方が短いと感じるのでしょうか。それは、行きは多くの事を頭の中で考えているから、帰りは考えないから、なのだそうです。私たちは目的に向かうとき様々な事を考えます。例えば「約束の時間に間に合うか」とか「忘れ物はないか」とか「そもそもこの道順で良いのか」とか、「家の鍵は閉めてきたか」とか、そして心配し不安を覚えるのです。となると心がストレスを感じて、時間が普段より長く感じられることとなる。逆に帰り道は何もストレスが掛かりません、だから短く感じるのです。
次週、与えられた御言葉の場面で、弟子たちは危機的な状況に置かれます。彼らはゲネサレト湖の沖に舟を出すのですが、そこで突然の強い風と波に襲われ、必死に舟にしがみつきます。とても時間が長く感じられたと、そう思います。そこに主イエスが水の上を進んで近づいてこられるのです。弟子たちは自分たちの置かれている状況を忘れて、必死になって主イエスを舟に乗せようとします。でもそうしている間に、いつのまにか舟は目的地に着いているのです。私たちも心の内に主イエスを覚え、招こうと願うなら、いつまにか目的地にたどり着くこととなるのです。

牧師室から No.120

このところ「ロックダウン」という言葉を頻繁に聞きます。でも国によって対応に違いがある事に驚かされます。アメリカのように束縛が緩い国もあれば中国やベトナム、インドのように厳しく規制する国があります。またスウェーデンのように全く閉鎖しない国もあります。国家が国民を支配する、という意識を持っているか否か、その強弱が顕在化した様にも思えます。ロックダウンを強制する、という事は、国民の自律や自由意思を尊重しない、という事です。でも国民は、強制された方が自分で何も考えなくても良いので、楽だったりします。つまり、自分で判断も責任も取らなくてよいのです。逆に自発的な国民の意思に任せるという姿勢は、個人の尊厳を尊重している様ですが、しかし、事前に時間とお金を掛けて個人が正しく正確に判断するための教育が施されていなければならず、そうでなければ無責任で理想主義的な主張に墜ちます。正確な判断に必要な正しい情報も、平等に広く共有されていなければなりません。旧約聖書に記された律法は強制的です。まだ人々が幼かったので、規則が必要だったのです。でも新約に記された福音は自由意思です。自分で自分と神との関係に於いて何が正しいのかを考え聴き、自分が何処に帰属するのかを自分で決断するのです。
次週、第三週の礼拝の主題は「死から命へ」(ヨハネ5:24)です。主イエスは御自分を信じ、御自分をこの世に遣わした父なる神を信じるものは「死から命に移される」と話されます。拘束され、みじろぐ事もできない死から、縄を解かれ自由にされる、神はそのために私たちを教育される、必要な御言葉を与えられます。私たちが自律するために神は私たちと関わられるのです。

牧師室から No.119

この主日から、私、辻秀治が正式に桑名教会の牧会に復職します。本当にご迷惑をお掛けいたしました。加えて、これまで覚えてお祈りいただき心から感謝いたします。なにより神が回復を与えて下さったこと、感謝です。これからは、あまり気張らずボチボチと、でも丁寧に桑名教会に仕える所存です。引き続きお祈りでお支えいただければ幸いです。病気を与えられること、について、それは誰にとっても突然の出来事です。突然、日常が中断されます。自分一人で行っていたことが行えなくなり、誰かの手を借りなければ何も前に進まなくなります。肉体的な落ち込みもさることながら、ポキッと心が折れます。自分の何が悪かったのか、と自問自答を繰り返し、他者に迷惑を掛けたこと、これから掛けること、について自責の念に駆られます。それだけではなく、神に向けて不平をこぼし、近くにいる誰かの些細な言葉や仕草に苛立つのです。でも徐々に、傲慢で横暴な自我が鉄槌のようなモノで砕かれ粉々にされ、跡形もなくなります。そもそも「自分で自分を支えている」という日常の方が異常だったのだと気づかされ始めると、楽になります。誰かに助けを借りても良い、支えてくれる人が近くいる【いた】ことに気づかされるのです。そうなると、肉体の痛みや不快感、煩わしさも不思議と薄れてきます。何より眠れるようになります。眠れるようになれば回復します。私たちの肉体と魂は一つなのです。
次週、与えられます御言葉には「一人の父親」の姿が描かれています。彼の息子が重い病に犯された時、彼の日常は中断します。そして彼は父として、愛する我が子のために主イエスの下に向かいます。それは彼にとって大きな決断を伴う行動でした。でも主イエスは彼の思いを受けとめられるのです。

牧師室から No.118

確か、まだ私が小学生だった頃のことです。私は雑誌に載っていた数字パズルを一生懸命に解いていました。数字がずらっと並んでいて一定の法則に従って計算していく、といったものです。でも、なかなか先に進みません。その時、近くにいた兄が肩越しにパズルを眺めて「馬鹿だなぁ、最初の数字から問題を解こうとするから時間が掛かるんだよ、後ろから解くの」と、瞬く間に答を導き出しました。「私たちの脳は左から右への動きを好む傾向がある」と言われます。そう言われてみればテレビゲームのスーパーマリオは左から右に動きます。ピアノの鍵盤も左から右に流れます。数式や文章も左から右に読み進めます。私たちは左側が過去、正面が現在、そして右側に未来を置く傾向があるそうです。そして一般に人は過去と現在から未来を推測するものですが、兄が見せた手法は逆でした。想定した未来から現在と過去を推測したのです。旧約聖書に描かれている預言者と呼ばれる人々も、未来から現在を眺める、という思考をします。「予言」は現在から未来を予想することですが、「預言」は未来から現在を眺めることです。もしかするとアラビア語もヘブライ語もアラム語も書字方向は右から左です。なにか関連があるのかもしれません。
さて来週の御言葉は「シカルの井戸」と呼ばれる箇所です。主イエスは一人のサマリアの婦人と出会います。この出会いから主イエスは、御自分の十字架に架かられる日が近いことを悟るのです。主イエスも預言者と同じように、未来に起こる自らの十字架の出来事から現在を眺めて話しをされます。そう考えると腑に落ちる主イエスの言葉が、聖書には多く残されています。

牧師室から No.117

多くの人は「教会」と聞くと、先端に十字架が掲げられた高い鐘楼を持つ建物、を思い浮かべるようです。例えばドイツのケルン大聖堂やニューヨークのリバーサイド・チャーチのような典型的な教会建築様式の礼拝堂の外観です。では教会とは建築物を指す言葉なのか、というと、そうではありません。主イエスはペトロに話します。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ福音書16:18 )主イエスから委託を受けたペトロは第一代目のローマ教皇となりキリスト教は始まります。この時、主イエスの話された「教会」という言葉はエクレシア(ekklesia)で、その意味は「民の集会」「共同体」です。つまり「教会」とは目に見える建物を指す言葉ではなく、目に見えない人と人の繋がり、結びつきを指し示す言葉なのです。
だから例えば建物がなくても、心根を同じくした人が集まり主イエスに心を向けて礼拝を捧げるなら、普通の家の一室でも、ビルの事務所でも、公園の広場でも、そこに教会が生じます。教会とは恒常的な固い物質ではなく、やわらかい有機的な現象であり、様式や組織はその教会が植えられた土地の風土や環境に合わせて、柔軟に変化します。正しくは、私たちには聖書の御言葉という基準(Kanon)が与えられているので、この軸がブレなければ外周は多少変化しても良いのです。
そして教会はこの世にあって、復活された主イエスの肉体としての役割を果たします。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(ロマ書12:05)主イエスが何をされたのか、を聖書・聖霊に聴き教会は実行するのです。

牧師室から No.115

少し時事ネタになります。このコロナ禍の中、様々なメディアが大阪府吉村知事の言葉が取り上げています。その中で耳の残っているのは「政治家は使い捨てで良い」という発言です。政治や経済のリーダーたちが自己保身、自己顕示、利益誘導、党同伐異に終始している時勢に対して、自己犠牲的な潔さという、まったく逆の価値観を彼は投げかけるのです。
洗礼者ヨハネも同じような言葉を残しています。彼は遠目に歩く主イエスを見て、自分の弟子たちに「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と話します。当時の世界にあって、洗礼者ヨハネは多くの人々から絶大な信望や名誉を受けていました。預言者としてユダヤ人社会だけではなく、地中海社会の端々にまで広く名前を知られていたのです。しかし彼は自分の役割を、次へ継ぐための橋渡しに過ぎないと自認しています。「自分は使い捨てで良い」と考えているのです。
「生きている」とは新陳代謝を繰り返すことです。人体の細胞は定期的に新しいモノに刷新され、役割を終えた細胞は分解され体外に捨てられます。自然環境系にしても社会組織にしても同様です。生きているシステムでは新陳代謝が繰り返され、使い終えられた部分は捨てられます。では使い捨てられた部分は無価値で無意味なのか、というと、そうではありません。それらは時を跨いで全体の基調としての役割を担います。古い切り株から新しい木の芽が生えるように、クジラの屍が周りに多様な魚たちが集まり新しい生態系が形成されるように、使い捨てられた部分は、次の世代が成長する場としての新しい役割として用いられるのです。神は何ものも、ひと刻も無駄にはされません。すべてを生かされます。

牧師室から No.114

書斎の机の上の小物入れの中に、随分昔から小さなチャック付きのビニール袋が取り残されています。郵便切手が入るくらいの小さい袋の中に、黄色いポストイットが入っていて「2002からしだね」と書かれています。1ミリにも満たない黒いツブツブが十数粒、底の方に溜まっています。机を整理する度に袋を指でつまんで、「捨ててしまおうか」と考えます。でも「からしだね」という言葉に負けて断念するのです。では本当に、この黒いツブツブが、「からしだね」なのか、というと、実は記憶が曖昧です。CSのお話しで使った記憶はあります。もしかしたらベコニアの種か、バジルの種だったかもしれません。曖昧です。調べる方法が一つあります。土に植えて水を掛けじっと待つ。それだけです。もし緑色の芽が出てくれば、屑ではなく種だった、ということです。育てて花が咲けば、何の種だったか分かります。
私たちが「生きている」モノの本質を見抜く手段は、時間を掛けて付き合って、その関係性の中に結実した結果を確かめることしかありません。お互いの得手不得手を噛み合わせる時間的な余裕が必要なのです。
さてある時、使徒のフィリポは主イエスに「主よ、わたしたちに御父(へと向かう道)をお示しください。」と願います。この問いかけに主イエスは「私が道です」と答えます。フィリポは、この言葉の意味を理解できません。でも彼は逸れず離れず、主イエスの後を従い続けます。理解できない言葉、納得できない態度を背負ったまま、それでも主イエスを信じ続けるのです。早急に答を求めるのではなく、信じて関わりの中に自分の身を置くこと、一見、非効率に見えますが、その関係性の中に真理が明らかになります。

牧師室から No.113

次週五月三十一日の主日は「教会の誕生日」として覚えられている聖霊降臨日、ペンテコステです。イエス様は復活された後、四十日にわたって弟子たちに現れ、天に帰られます(今年の暦ではイースターが4/12、昇天日が5/21)それから十日の後(5/31)、弟子たち一人ひとりに聖霊が下ります。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:1-4)この日を境に、弟子たちはユダヤ以外の国々に散らされ、主イエスが話した福音の言葉を全世界に伝える働き、伝道へと向かいます。そして、私たちが今。集っている桑名教会も、彼ら使徒たちの伝道の延長線上に建てられました。さらに、この伝道は、世界のすべての人に福音(良い知らせGoodNews)を伝え切る時まで、今も、これからも続きます。
この聖霊について聖書は、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」と話します。聖霊というと私たちは、なにか正体の掴めない朧のような存在を思い浮かべるのですが、そうではなく、聖霊は私たちと関わる一人の人格的な存在です。
そして聖霊は私たちにとって、援助者・弁護者・助け手です。例えば、私たちたちが聖書を読むとき、聖霊は私たちの耳元で囁き、言葉の背後にある御心を明らかにしてくれます。私たちが倒れたときには手を差し伸べてくださり、道に迷ったときには、遠くに輝く光として、行く道を示してくださるのです。

牧師室から No.112

伊豆諸島に御蔵島という小さな島があります。人口は三百人程、根付きのイルカが住み深い原生林に覆われている、自然の豊かな島です。この島には一つの特徴があります。それは豊富な水源に恵まれている、という事です。私はコンクリートの品質試験指導でこの島に滞在したのですが、島の至る所にパイプが出ていて、澄んだ水が湧き出していました。驚きました。一般に孤島という環境では、水は貴重な資源です。その頃、私の住んでいた三宅島では高価な水道水もカルキが強く白濁していました。生活用水は天水桶に溜められた水を使っていました。でも、この島では大量に水が湧き出しています。地面は潤い、緑の樹木の根株から生命力が湧き上がっているように感じられました。岩を覆う苔もビロードのように滑らかで、瑞々しく透きとおっていました。「命の源としての水」の存在を実感させられる出来事でした。
聖書の描くパレスチナの地でも、水は貴重な資源でした。年間の降水量は六百ミリ程、エルサレムから南の地方は殆ど岩と砂に覆われた砂漠です。炎天下を歩くとすぐに汗が蒸発し舌が喉に張り付きます。動物たちは水無川を掘り、檉柳の木陰で休みます。乾燥した風が砂を運び、薄く地表を覆います。そんな、あたかも人間の命を拒絶しているかのような地で、預言者たちは、「渇く」という言葉を度々使います。この「渇く」という言葉は、単に「喉が渇く」という意味ではなく、命の源が枯渇し、砂の塵に戻っていく、そのような心象を表す言葉です。
イエスさまは人々に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と話されます。私たちもイエスさまの御許に集うなら命の水を与えられるのです。

牧師室から No.111

先月の中頃から、桑名教会では主日礼拝のインターネット中継を始めました。昨今のコロナ禍の対応から「礼拝堂に集まらない礼拝」の施策の一つとして実施しているものです。当初、比較的容易に配信を始められるだろうと考えていました。桑名教会には光回線が引かれているし、配信するための機材もあります。でも手をつけてみると試行錯誤の連続でした。映像は滑らかなで明瞭、音声は切れがあってノイズが少なく、音圧があった方が聞きやくなります。でも品質を上げれば上げるほど、機材に負担が掛かりフリーズしやすくなります。データ量も増えて通信回線が不安定になります。つまり許容範囲内で最良という、落としどころを見極めていく「手作業」が必要となったのです。幸いなことに安心して視聴できる程度にまでは調整できました。でも、ここに至って、あらためて納得させられました。やはり礼拝は会堂に集って、目と目を会わせながら、間接的ではなく直接的な交わりの中で献げるものだ、ということです。一日も早くコロナ禍が過ぎ去るよう、祈ります。
さて、次週十七日の礼拝についてです。主イエスは「もはや譬えによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」と話します。この「はっきり」とは「公然と」「確信を以て」という言葉です。使徒たちは主イエスの復活の後、聖霊を受け「目を懲らさなければ見えず、そばだてなければ聞こえない」のではなく「まるで目の前にその姿を仰ぐ」ように神の存在を捉え、確信をもって公然と、すべての人に福音を伝え始めます。私たちも、主イエスを覚え深く祈りに落ちる時、聖霊を介して神との直接的な交わりが与えられます。そこに平和が在ります。

牧師室から No.110

辻秀治です。今週からまた「牧師室から」に文章を載せさせて頂きます。牧会への正式な復職は七月からになるのですが、ストレッチをする様に少しずつ、牧師としての仕事を再開していきます。よろしくお願いいたします。
思えば、昨年の四月に膠原病を患い休職し、ほぼ一年が過ぎました。入院した当初、私は楽観的でした。入院も数週間程度で収まるだろうと考えていました。でも、ゆっくりと病状は悪化し始めました。ベッドから立ち上がることが難しくなり、虚ろに病室の天井を眺める日々が始まりました。大量の投薬の影響で筋肉が落ち、皮膚がミイラの様にカサカサに渇き、髪がバサバサと抜けます。シャワーを浴びるために裸になり、鏡に映った自分を見たとき、そのシルエットがまるで餓鬼のようで、恐ろしくなりました。もし御心ならば回復が与えられるだろう、筋肉も脂肪もまた付くだろう、今は祈りつつ心を静かに待とう、深く心に刻みます。でも常に激しい焦燥感に襲われ続けました。
そんな時に、私の心を支えてくれたのは、いつか教会に戻る、という望みと、多くの人が祈ってくれている、という励ましの言葉でした。
退院したあと、少しずつリハビリを重ねました。今では体力も戻り、血液検査の数値も、概ね元に戻りました。髪の毛も生え替わりました(笑)。神さまはもう少し私に福音伝道を手伝わせて下さるようです。教会員の皆さま、役員会、地区教区の教職の方々には、多大な迷惑を掛けました。感謝します。次週からはこれまで通り、次の主日の説教箇所の予告を載せます。お読みいただければ幸いです。

牧師室から №61

私が高校性の頃、しばしばラジオでFEN (Far East Network)を聞いていましたAMモノラル810KHz、いまだに周波数を覚えています。このラジオ局は駐留米軍によって運用され、その名の通り、極東放送と呼ばれていました。アメリカの最新のポップス、ロック、カントリーソングが流され、陽気なDJの会話を(英語で早口なので、殆ど何を話しているのか分からなかったのですが)「世界にはこんなに楽しそうな国があるんだ」とドキドキしながら聞いていました。そして何より放送局の名前です。「極東放送」つまりアメリカから見ると「日本は世界の東の果ての国、世界の果てだと」気づかされました。
では世界の中心は何処にあるのか、というと、こんな言葉があります。「エルサレムを歩く事は、世界を歩くことに等しい」
エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教、三教あわせておよそ三十五億人の信者が「聖地」と讃えていて、城壁で囲まれた旧市街は三教の祈りの場、住居となっています。
このエルサレムから主イエスの伝道は始まり、使徒たちは此処から送り出されて、全世界に御言葉を伝えました。そしてエルサレムから見て地球の反対側、地の果て、日本にも御言葉は伝えられ、今、私たちは信仰者として立てられています。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ福音書28:19)と主イエスは命じられます。この日本に二千年かけてたどり着いた主イエスの御言葉を、私たちはこの日本で、どの様に生かすのか、どうやって社会の隅々まで行き渡らせるのか。そして終着地点だからこそ、逆に送られてきた波を、此処から送り返す。その役割が与えられています。この日本から全世界に向かって伝道を始める、のです。

牧師室から №60

日雇いの工事現場には「ケガと弁当は自分持ち」という言葉があります。現場は常に危険と隣り合わせです。以前、私が港で砂利の運搬をしている時に、荷船の係留ロープが切れて、吹っ飛んで来たことがあります。直撃だったら即死です。また高所作業している時に足場板のフックが錆びていて外れたこともありました。現場に出たら常に緊張していること。危険を予期し慎重でいること。不必要な場所には踏み入れない。頭上に注意する。装備工具の点検・管理は常にしておく。鉄則です。
でも、そういう危険な現場だからこそ、生まれてくるのは仲間との連帯感です。おじさん同士ですからドライなものですが、一度同じ現場を経験すると、次からはお互いに相手の安全に気遣ったり、アイコンタクトを取ったり、現場状況の情報を交換し合う様になります。お互いに命懸け(まで行かなくても怪我はしたくない)なので、助け合って作業にあたるのです。
次週、私たちに与えられました御言葉に描かれている百人隊長の置かれていた現実は、もっと過酷なものです。彼らはローマ兵です。戦争という現場で兵士たちは力を合わせて敵と戦います。一人の兵がしくじったり手を抜くなら、また、誰かが隊長の命令に不信を抱いたり刃向かうなら、仲間全員の命が危険にさらされます。統括する百人隊長も自分の命令が兵士たちの命の明暗を分けます。彼の決定は、その瞬間、瞬間が命懸けです。そして隊長は兵士、一人ひとりを自分の家族として愛します。「『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。」(ルカ7:8)という言葉の背景には、隊長の命令に兵士が強制的に従っているのではなく、絶対的な信頼感から、主体的に従っている、という関係性があるのです。

牧師室から №59

いつも「牧師室から」では次週の礼拝説教の予告を載せているのですが、今日は辻牧師の現状について報告させて頂きます。まず、教会員、役員の方々には多大な御心配をおかけしました。いつもお祈りに覚えていただきましたこと、支えていただきましたこと感謝いたします。闘病中、祈りに支えられました。
良いお知らせです。5月17日(金)に退院する事となりました。順調に回復すれば26日(日)は礼拝説教奉仕、聖礼典を行います。ただ今後、通院し四ヶ月程、投薬治療が続くので完全復帰とはなりません。水曜会、祈祷会等の定期集会は、もう少々休みをいただきます。
辻牧師が罹患している病気はEGPA(好酸球性多発血管炎肉芽腫症)と呼ばれる膠原病です。とても珍しい病気なので発症メカニズムはまだ解明されていません。でも治療法は確立しています。大量のステロイド薬を投薬して血管炎を抑え込んでから、少しずつ減薬していく(少しずつ身体を騙していく)のです。でも急激に投薬量を下げるとショック症状が起こること、ホルモンバランスが崩れなるなどの強い副作用が現れます。寛解まで三ヶ月、再発防止まで考えると1年程治療は続きます。
現在、体力・気力共に元気が余っているのですが、免疫力が弱っていて病院の外には出られない、軟禁状況が続いています。
ステロイドの副作用で、免疫力が下がり、筋肉量が減り、骨が弱くなっています。他、糖尿病になり易くなったり、顔が丸くなる可能性もあります(笑)。ただし、ステロイドが減薬されれば副作用は改善されます。
あと一つお願いがあります。まだ免疫力が弱いので、辻牧師と直接、話す時は2㍍程度離れてマスクを着用してください。教会の入口に消毒液を置きますので、お使いください。ご協力頂ければ幸いです。

牧師室から №58

私が神学校に入った年の夏の事です。私は夏休みを利用して、長野県の山間の村の小さなお寺を訪ねました。以前、そのお寺の住職と親しくさせて頂いていた縁があり「草刈りと建物の修理を手伝えば寝床と食事は出すよ」という条件で、十日ほど滞在させて頂きました。本格的な作業は来週から村の人たちを集めて始める、ということだったので、それまでの何日か、私は夏のパリッとした風の通る本堂で、持ってきた、古本屋で買ったばかりのバルトと格闘して過ごしました。(見事に負けましたけど…)。そして週が代わり、朝早くから村の男たちが、それぞれ使い慣れた大工道具を携え集まり始めます。住職の指示で本堂や渡り廊下の修繕箇所を直し始ました。それは村では何世代も続けている作業なので、みんな手慣れたものです。十時頃になると庫裡の台所に村の婦人方が集まり、ご飯を炊き始めます。彼女たちは楽しそうにお喋りしながら、筑前煮や卵焼き、唐揚げ、が次々と皿に盛られ、おにぎりが握られていきます。昼になり、男たちは作業の手を止め、集まって昼飯が始まります。一つの作業を共有し、同じ釜の飯をいただく。このおにぎりの温かさ、おいしさ。多摩の団地生まれの私は、はじめて触れた地域共同体の交わりを羨ましく感じました。
でも、此処にある交わりは横に一本の交わりです。なぜなら仏教は人の生き方を説くものであり、「神」という概念を持たないからです。私たちの教会には、横の交わりに加えて縦の交わりが与えられています。つまり肉体と魂の両方を満たす交わりです。さらに聖徒の交わり、つまり歴史の奥行きが加えられ、この世を包括する交わりが形成されます。キリスト教信仰は民族や地域、時代を越えて世の全ての人を一つとします。

牧師室から №57

先週、私たちは共にイースターの礼拝を捧げました。神は愛する独り子、主イエスを十字架上で犠牲として捧げられ、罪の虜であった私たちは、贖いだされました。そして私たちは復活された主イエスの御手によって立ち上がらせられ、天の国に招かれる者とされた、のです。この時、私たちは救われました。
さて、この説教の中で私は主イエスが復活された時、肉体を以て現れたことについて、主イエスが弟子達に直接「神が約束されていた神と人との和解の成就」を伝えるため、と話しました。手と手で触れあい、目と目で相手を確認し合う相手との人格的な関係性の上に交わされた言葉でなければ意味を持たないから、と。なので主イエスはその目的を達成された後、天に昇られました。モーセやエリヤと同じく肉体は消失しました。
今日は主イエスが肉体を持たれた、別の意味について話します。それは弟子達と共に食事を頂くことです。でも只の食事ではありません。主イエスは一つのパンを手に取り祈りを捧げ、分けて配ります。そして共に食べる。同じ匂いを嗅ぎ、触感を感じ、味わう。その感覚を通して全ての者は一つにされます。
「同じ釜の飯をたべる」という言葉があります。土木工事の現場では食事は唯一の楽しみです。みんなで食べます。でもこの食事は栄養の摂取という目的以外の意味があります。みんなで一つの作業を分担・協力して成し遂げたあと、汗を拭きながら集まり、一つの釜から飯を取り一つの鍋から汁を掬う。一つのテーブルを囲んで一緒に食事をする、一つの達成感を共にする。この時に強い連帯感と信頼感が生まれます。危険な現場にあって事故なく作業を進めるための知恵がここにあります。

牧師室から №56

「写真家の仕事は加える事ではなく削る事だ」と、写真雑誌のコラムで読んだ覚えがあります。撮りたい被写体の持つ様々な要素を削っていき、最後の最後に残った部分に焦点を合わせてフィルムに落とす。例えば写真家ロバート・キャパの有名な「D-day」という作品があります。白黒でピントは曖昧、ぶれていて一見すると何が写っているか解りません。でも、じっと見ていると、ライフルを握った兵士の瞳が見えてきます。表情の機微を見ることはできないのですが、自分の命が瀬戸際に置かれている不安、苛立ち、死への恐怖が見えてくるのです。
私たちに与えられた信仰は、私たちに目の前で展開している物事の何処に焦点を合わせれば良いのか、を教えてくれます。
主イエスが十字架にかけられ後、過越祭が終わり、エルサレムに滞在していた多くの人々はそれぞれの家路につきます。その流れの中を、トボトボと力なく進む二人の信仰者がいます。彼らは主イエスがエルサレムで民衆に熱狂的に迎えられる時、その場にいました。主イエスが人々に語り掛ける言葉には力があり、真理があり愛が満ちていました。でも事態は急転します。彼らの目の前で主イエスは十字架に掛けられるのです。彼らはエマオへと続く道を歩きながら、起こった出来事について話し合います。そこに一人の男の人が近づいて来て、何の事を話しているのか、と尋ねます。「あなたはエルサレムにいて、あの騒ぎの事を知らないのですか」彼らの一人クレオパは驚き、でも、その男に丁寧に主イエスがどんな方であったのか、何を話され、何を為されたのか、十字架に架かった経緯を説明し始めるのです。そして彼は自ら伝えた言葉の内に真理を悟ります。

牧師室から №55

小学校の校庭で友だちと遊んでいたときの事です。私たちはどこからか細やかに聞こえる子猫の鳴き声に気づきました。その声は途切れなく続いているのですが、姿を見つけることができません。草陰にも排水溝の中にもいません。その時、友だちの一人が木の上で脅えて丸まっている黒い子猫を見つけました。職員室に行って事情を話すと、すぐに用務員さんが長い脚立を持ってきて木に登りはじめます。彼は子猫に手を差し出しました。しかし子猫は抵抗するのです。その手を引っ掻き齧り付き、ついに捕らえられ木から下ろされました。腕の中の子猫は安堵するのではなく、激しく用務員さんの手を振りほどき、跳ねるように地面に着地し、そのまま全力で逃げて行きました。
この出来事はイースターの意味を示唆的に表しています。
神が創造したアダムとエバは神に離反し園を追放されます。故郷に帰る道を閉ざされた彼らは望郷の思いを抱きつつ、この世で生きることになります。そして彼らの子孫もいつか天に帰る事を望みつつ、この世を歩むのです。しかし神との断絶は続いているので死の後も天に帰ることはできず、いつかメシアが現れ神との和解が成立する時まで、陰府に寝かされ続けます。
そしてついにメシアが現れます。メシアは自らを犠牲となり、十字架に架かり、死に陰府に下ります。肉体を持ったまま陰府には下れないからです。そして陰府に暗黒の陰府を光で照らし寝かされている全ての者たちは天に送ります。そのあと肉体を以てこの世に現れます。今生きている者たちに直接、神との和解を伝えるためです。最後に天に上げられます。これから生きる者たちを天に迎えるためです。復活は天への道の復旧です。

牧師室から №54

この「牧師室から」も一年間書き続けることができ、今回で一巡りしました。たった六百字されど六百字。この文字数のコラムでどうやって信仰のエッセンスを薫らせるか、次週の主日礼拝説教に少しでも興味を持ってもらえるかガイドになるか。なにより多様な御言葉について新しい視点と発見を与えられるか、を考えて書いてきました。少しでもお目汚しになっていたなら、幸いです。
さて、そんな大切な「牧師室から」を「病室から」書いています。今まで病名が確定できてなかったので、教会員の皆さまに報告することが出来ませんでしたが、私の病名が確定しました。好酸球性多発血管炎性肉芽腫症(EGPA)で指定難病です。難病と言っても原因が解明されていないから難病で、治療方法は確立していますし、新薬も開発されていますし伝染もしません。ご安心下さい。簡単に言うと血液の免疫機能障害です。
イエス様は「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。」(マタイ12:26)と話されましたが、それが私の身体の中で起こっている、という事です。敵が特定できたので、少々時間は掛かりますが後は治療するだけです。お祈り感謝です。

牧師室から №53

伊豆諸島の八丈島には直径三十㎝ほどの饅頭のような玉石を積み上げた玉石垣という石垣があります。数十mに渡って整然と苔むした玉石が並べられている情景は感慨深いものがあります。この島は昔から定期的に台風が上陸する地域で、暴風雨から住居を守る為に家の周りを頑丈な玉石垣で巡らし椿や椎の常緑広葉樹を植えて防風林としてきました。この玉石は横間が浦という海岸から運ばれたもので、島に流された流人たちが玉石一つを運ぶと握り飯一つをもらえる、流人が島に馴染むまでの公共事業としての役割があった、と言われています。
この玉石垣は特殊な六方積みという手法で作られています。一つの石の周りに均等に六つの同じサイズの石を組むことによって支点に掛かる荷重を均等に分散させ頑丈に石が組み上げられます。でも切石を組んで石垣を積むときには、全く逆の発想になります。まず隅の親石を据えて、その親石に縦面と横面に組み上げられる切石の全ての荷重を集中させるように組み上げていくのです。するとアーチ構造のように石と石とが自重で他の石に食い込み強固な構造体となります。隅の親石は全ての荷重を支える支点であり起点です。神の救いも主イエスを隅の親石として、此処を起点として組み上げられます。

牧師室から №52

私が子供の頃住んでいた東京多摩地区の日野市にはまだ大きな雑木林が幾つもあり、学校から帰った後の遊び場になっていました。夏には蝉を捕り秋にはドングリを拾い、小川ではザリガニを釣り仲間と建設現場やゴミの集積所から集めてきた廃材を使って秘密基地を作る、そんな普通の小学生の生活を送っていました。でも、未だに強く思い出すのはある日の秋の夕方の出来事です。その雑木林の奥に小さな祠がありました。いつもきれいに掃き清められていて、榊も紙垂も時々清酒も備えられていたので、今にして思えば、誰かが定期的に世話をしていたのだろうと思えます。その場所は仲間内でも何か神聖な場所として捉えられていて、近づかない、汚さない、悪戯しないという不文律が出来ていました。そんなある日、もう日が沈みかけてきて、家に帰ろうとなりました。私はみんなと別れて一人帰り道、その祠の前を通りました。その時、風が吹きました。「サラサラ」と鳴っていた葉擦れの音が突然「ザザザー、ザザザー」と大きく響き、その音が、沢山の人が会話する声に聞こえました。何を話しているのか、その声は解りませんが、でも確かに何人もの人が会話する声を、私は聴きました。未だにあの音は何だったのかと、時々思うのです。
人は音を聞いて、その音が雑音か音声かを識別し、音声であるならその内容を形態素解析し、個々の単語や文節を自分の経験や知識、感覚を使って理解します。加えて同じ経験を長い時間共有している者同士の方が、使う単語のニュアンスを多く共有しているので、会話による相互理解度が高くなります。
さてタボル山でペトロは深い霧の中からどんな声を聴いたのでしょうか。彼の信仰は何を見、何を聴いたのでしょうか

牧師室から №51

古典物理学ですが、ニュートンの運動法則の三番目に「作用・反作用の法則」があります。例えばロケットは燃焼室に液体水素と液体酸素を送り込み反応させ三千度もの燃焼ガスを作り地面に噴射し、その反動を推進力にして宇宙に飛び出します。「後ろに何かを捨てないと、前には進めない」という、なにか少し格好の良いセリフとしても使える物理法則です。
でも私たちは捨てられません。捨てられたら楽なのに、と思いつつも、多くのモノを背負って生きています。社会的な責任とか立場とか、血縁とか仕事とか、資産とか習慣とか風習とか。受け継いだもの、努力と忍耐を重ねて今まで積み上げてきたもの。また簡単に手放してしまったなら、周辺に多大な迷惑を掛ける事となります。傷つく人や悲しむ人を作ってしまうのです。
ですから信仰も、何処か中途半端な感覚に留まってしまうのです。この世の思い煩いに心を揺らされて、祈りに集中する事が出来ない。右足に教会を履いて左足にはこの世を履いているようなアンバランスな感覚を受けている。いっそ人里離れた修道院にでも入って、世俗との関わりを一切遮断して生きることができるなら、もっと信仰深く熱心にイエスさまの後を従うことが出来るのだけど、と思いつつ現実に埋没していくのです。
ではイエスさまは弟子達に、全てを断ち切ってから自分に従いなさい、と話したのでしょうか。イエスさまは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と弟子達に話されます。病気が治ったら従います、とか、聖書が完全に分かったら従います、とか、信仰に自信がついたら…ではありません。柵をも蟠りをも引きずったまま「そのままで従いなさい」と話されているのです。

牧師室から №50

引越をするとき、本棚とかテーブルを一度バラして木板状にしてまとめ、運び、また現地で組み立てるという作業をする事があります。この時、木ねじやボルトなどの金具を無くさない方法は、その金具を元々刺さっていた穴に戻して借り止めしておくことです。そうすれば金具が無くなる事も無いし、どのネジで何処を締めれば良いのか分からなく為る事もありません。空いたネジ穴をそのまま空けておくのではなく、詰めておけば、別の何かに占有されることはないのです。
さて、次主日に与えられます御言葉には悪霊を追い出されるイエスさまの姿が描かれています。多くの群衆はその姿を見て驚嘆しその業が神から与えられた良い業であるとして受け入れます。しかしその一方でイエスさまを悪霊の頭であると断言する者たちも表れます。悪霊の力で悪霊を追い出している、と彼らはイエスさまを非難するのです。でも、どんな権威と業でその人の心が清められたのか、イエスさまにとって、どちらでも良い事なのです。その後のことが大事だからです。
私たちは「自分の中心には自分がいる」と考えます。自律し主張し判断する、それが自分だと考えるのです。でも自分の思い描いている「自分」という存在は、とても曖昧なのです。他者との関係性や時代の主義主張、思想、環境によって簡単に着色されてしまいます。そうして、自分が誰なのか分からなくなり、この世に振り回されるのです。しまいには、この世に心を奪われて神を仰げなくなる。イエスさまは清められた心を空白のままに空けておくのではなく、そこに聖霊が住まわれる様に祈り求めなさいと話されます。そうすれば、この世の様々な価値観から解放され自由にされる、と話すのです。

牧師室から №49

以前、ある婦人の家を訪ねたときの事です。「では帰りますね」と私はお祈りをしました。その祈りに続けて彼女が祈り始めました。その祈りは教会員そして求道者、全員の名前を挙げた祈りでした。暗唱であることからそれが毎日の祈りだと分かりました。私は「教会はこの祈りに支えられていた」と思わされました。2018年の桑名礼拝を共に守られた方、教会に繋がっている方々の名前です。一人ひとりを覚えてお祈り下さい。

新井陽子、池田洋子、石川雅己、石川淳子、石丸万理子、伊藤研司、伊藤隆之、伊東千代子、伊藤真理子、伊藤いづみ、井上したふ、今村佳代子、宇佐美佐代子、大森恵、大森啓、岡智子、岡島伸明、岡本志ゆう子、小澤悦子、掛樋裕理、加藤明子、加藤陽子、加藤勲、角田由美子、兼古節子、神鳥蓉子、北岡美佐子、北岡美智子、北川瑠夏、國枝洋子、倉地喜美子、小粥トミエ、後藤豊、坂井真佐子、坂本重勝、坂本千尋、佐々木牧夫、佐々木尚子、佐脇朋子、清水桃子、清水博、瀬尾緑、相馬弘徳、祖父江江美子、祖父江洋子、塩津基樹、高井淳一、寺尾雅子、富谷千里、内藤明子、中村浩、中村友理、西澤久美子、西裕、西村善久、沼育子、野澤正史、野澤万喜子、長谷川清、長谷川ミヨ子、平野照子、平屋敷恒子、二川敏子、三浦小浪、水谷カヲル、水谷富子、宮島コウ、宮林まゆみ、南吉衞、村田美奈子、望月悦子、望月和昶、森信子、森勅子、安田義人、安田香織、矢田喜代子、山本一雄、山本めぐみ、脇山陽子、渡邊信子、和波春子、近藤雅一、鈴木勇人、鈴木安菜、伊藤たま子、伊藤由美子、岡田なるみ、熊谷望祈、李鍾徳、鈴木孝二、小寺甫明、清水直人、清水容子、武村理雪、箕田和江、橋本文子、邑田百子、成島弘一郎、安政動、安宥毎、大村徹、石原潤、石原郁子、川崎住代、辻久子、平石昌子、康路加、李春、李敏子、劉湘雲、鈴木和子、石原愼、赤塚妙子、水谷真理、後藤共子、日紫喜勇、日紫喜求、渡辺克寛、渡辺実香、日紫喜望、山本収、山本久代、加納眞理子、岡田昌也、岡田知也、岡田芳郎、後藤恵、浜田与志子、伊藤由美子、伊藤菊裡子、石原瞭、武田徹、太田一郎、土井えみ子、武田洋子、安藤哲雄、安藤ゆり、伊那均志、今村洋一、伊藤ひかり、坂井セバスチャン、坂井なお子、遠藤栄子、遠藤幹子、中村将也、山岡亜希、花村光、伊藤綾俊、山岡浩司、山岡聖恵、赤尾恵。 (計153名)

牧師室から №48

先日、教会の前をスケートボードに乗って通り過ぎていく中学生(たぶん)がいました。彼はバックパックを背負い耳にはヘットホンを掛け、スマートホンの画面をフリックしながら、目の前を右から左へスーと平行移動して行ったのです。私は「よくバランスを崩さないな」と感心して眺めていました。その時、ふと「私でも乗れるかな」という考えが浮びました。でも瞬時に、その思いは「無理」という言葉に打ち消されました。
でもなぜ私はすぐに「無理」と考えたのでしょうか。もし本当にスケートボートに乗りたいのなら、十分に時間を掛けて準備をすればどうにかなる、かもしれなかったのです。トレーニングを重ねれば一年後か二年後には乗れるようになっていた、かもしれません。それどころか天才的な能力が開花してスケートボードに選手として2020年のオリンピック競技に出場する事になっていた、かもしれなかったのです。でも私は始める前に「無理」と考え、すべての可能性を放棄しました。
五千人の空腹を覚えている群衆を前にして、イエス様は弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と話されます。弟子たちはどう考えたのか。弟子たちの頭には瞬時に「無理」という言葉が浮かんだのだと思います。「先生、私たちは沢山の食べ物を持っていません、こんなに多くの者たちの空腹を満たす事など不可能です。」ではイエス様は、何故こんな無茶な事を弟子たちに命じられたのでしょうか。それは弟子たちに「人にできない事でも神にはできる」と、教えるためです。「私」が何をどれだけ持っているか、ではなく「神が望まれるなら為されないことはない」のです。否定からではなく肯定から考え始めること。失敗してもやり直せば良いのです

牧師室から №47

2019/2/17
屋根は建物の野外と室内を隔てる重要な部分です。でも単に雨風を防ぎ日射を避けられれば良いというわけではなく室内空間を快適な環境に保つ工夫が必要です。以前、トタン張り屋根の部屋で生活したことがあります。この部屋では雨が降ると会話ができない程うるさく音が響きました。さらに日中になると日射で屋根が暖まり夜になっても室内はオーブン状態でした。もう一つ、台風が上陸したとき、生きた心地がしませんでした。トタンが風に煽られてバタバタギシギシと踊るからです。
日本の多彩な自然環境にあって木造家屋の屋根は高度に進化してきました。大量の雨が降り季節が代わり、定期的に地震や台風に襲われる為です。でも聖書に描かれているパレスチナの地域は砂漠気候なので、そこまで屋根に対して神経質になる必要はありません。降雨が少なく台風もなく、昼間の激しい日射を避けられれば十分だからです。ですから一般庶民の住宅は四隅に日干し煉瓦や石を積み囲み、屋根は渡した板の上に棕櫚の葉を被せるだけの簡素な様式だっただろうと考えられています。また礼拝施設や公共施設など人が集まる広い部屋でも、せいぜい板張り屋根や瓦張り屋根が用いられる程度でした。
さて次週の御言葉の場面です。数人の男たちが一人の中風を患っている人を主イエスの前に運ぶために、部屋の屋根に上り、屋根に張ってある瓦をはがし始めた、と書かれています。彼らは屋根に大きな穴を開けます。それは家の中も外も主イエスを一目見ようと押し寄せて来た群衆に埋め尽くされていて近づけなかったためです。彼らは非常識な手段を取ります。でも主イエスはそれを良しとされました。誰になんと言われようとも、思われようとも、彼らは一番大事な事を優先したからです。

牧師室から №46

2019/2/10
建物を建てるとき、まず最初に行われるのは敷地の測量です。地面の傾斜や勾配、境界線を計り測量図に落としこみます。そうして建築図面が書かれ建築作業工程表が組まれて施工が始まります。その最初の作業は整地です。基礎を打つ前に重機を使って地面を1.5m程度掘り返し、全体の土壌を混ぜた後に振動ローラーを使って押し戻し、土壌の土性を均一にします。そうしないと、折角ベタ基礎を打っても不同沈下が生じ建物が傾いてしまうからです。さらに軟弱な地盤や傾斜地、マンションなどの高層建築を建てる場合はコンクリートパイル(髙強度PC杭)を地面に打ち込む杭基礎工事が加えられます。上物を建てた後には隠れてしまう基礎ですが、適切に作られていなければ、どんなに堅牢な建築物が組まれても脆い物になるのです。

私たちの信仰も同様です。その基礎が堅牢でなければ、どんなに尊い働きをしたとしても、この世の評価や賞賛の重みが加えられるほどに傾いてしまうのです。信仰が捻れ歪むのです。
では信仰の基礎とはなにか、というと、信仰が自分自身の魂に深く根を張っている、ということです。でもそれは難しい事ではありません。毎日少しでも聖書を読むこと。いつも祈る事、自分にとって都合の良いこと、悪いこと全てに感謝の祈りを捧げる事です。聖書にはこう書かれています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(1テモテ5:18)さらには愛を以てトナリビトに声をかける事。自分の凝り固まった考えを相手に押し付けるのではなく、相手の言葉にならない声に耳を傾けること。私たちは主に習い、見えない所こそ丁寧に関わっていくのです。

牧師室から №45

2019/2/3
私たちが集中を継続できる時間は個人差はありますが、ほぼ九十分だと言われています。ですから九十分間活動して休憩をとって、また作業を再開するというサイクルが一番効率の良い働き方なのだそうです。
「休む」という事について、どちらかと言うと私たちは否定的な印象を持っています。怠けているとか、サボっているとか、その様な印象です。でも私たちの脳は、自覚的に何かを考えている時も、ボーとしている時(アイドリング状態)も、同じように活発に働いています。逆にボーとしている時に、無意識下で自律的にそれまで取り込んだ情報を整理したり分類したりという作業をしているのだそうです。「私が何かを考えていない時に、私は何かを考えている。」という、少々分かり難い複雑な事を、私たちは毎日当たり前の様に行っているのです。

さて、休むということについて。聖書は安息日について厳格な規定を定めています。「あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作の時にも、収穫の時にも、仕事をやめねばならない。」(出エジプト34:21)。また家畜も安息日には休ませなければならないと、聖書には定められています。何故、安息日が定められているのか、というと、それは神が天地創造に於いて七日目に休まれたからです。神は七日目に休息され、その日を聖別し祝福されました。ですから私たちも日曜日は、この世の働きの手を止めて、神に属する者として神から聖別され祝福を受ける、つまり礼拝を捧げるのです。礼拝という休息に於いて私たちは自らの内に神を招き委ねるのです。そうすれば私に内にあって働かれます。私たちの負っているこの世の課題も聖霊に拠って整理され分類されるのです。

牧師室から №44

2019/1/27
最近のワイン売り場には、多種多様なワインが並べられています。そして、それぞれに趣向を凝らしたラベルが貼られています。そのデザインを見ているだけでも十分に楽しめるのですが、さらに面白いのは産地の多様性です。以前はフランスのボルドーとかドイツのモーゼル、いわゆるヨーロッパ圏のワインが一般的でした。でも最近はカリフォルニア、オーストラリア、チリ、アルゼンチン、南アフリカ、日本といったワイン後進国から出荷されたワインが安く流通し始めています。でも安いからと侮るなかれチリ産の赤フルボディはとても美味しいです。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」とイエス様は話されます。何故、新しい葡萄酒は新しい革袋に入れなければならないのか、というと、新しい葡萄酒はまだ葡萄の糖分がアルコール発酵し切ってないので活発に炭酸ガスを発生させます。なので密閉した革袋は新しいものでないと強度が得られず革袋は破けます。当然、中に入っている葡萄酒は地面にこぼれ落ち、駄目になってしまうのです。では新しい革袋なら強度があって万全かというと、そうでありません。新しい革袋にはまだ強い革の匂いが残っています。中に入れた葡萄酒にも匂いが移ります。ですから瓶で時間を掛けて良い具合に寝かせた後の発酵を終えた葡萄酒は古い革袋に入れるのです。そうすることによって、葡萄酒の良い香りは保たれるからです。
ルカ福音書5章33節以下には主イエスの伝道の初めの出来事が記されています。人々は主イエスの言葉を新しい教えだと受け取りますが、そうでは無いのです。イエス様は形骸化したユダヤ教の礼拝を改新されるのではなく、本来の意味を回復されたのです。残すべき物は残し変えるべき物は変える、です。

牧師室から №43

2019/1/20

インドのアウランガーバードから北西へ二十㎞ほど行った所にエローラ石窟寺院群という遺跡があります。五世紀から十世紀の間に作られた、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の複合寺院群で三十四の石窟によって構成されています。この第十六窟にカイラサナータ寺院があります。この巨大な寺院は石を積み上げて作られたものではなく、当時の石工がノミやタガネを槌で叩き1枚の岩をくり抜いて、つまり彫り物として作られた寺院です。その入り口に掲げられた看板には、「この建物は百年、三世代の石工によって完成された」と記されていました。私がこの寺院を前にして感じたのは、時の重みでした。一人の子どもが毎日、父親の仕事場、まだ掘り始められたばかりの一枚岩に弁当を届けます。やがて、この子どもも父の隣でノミを打ち始めます。カンカンと甲高くも重い音が心地よく響く現場に彼は毎日通い働き、そのうちに妻を迎え、彼にも子どもが与えられます。そうして、その子どもも父の仕事場であるこの石窟に弁当を届けます。最初にノミを打ち込んだ石工の孫が老齢になり仕事を終えた時に、この寺院は完成したのです。

私たちは目に見えて手に取る事ができる物、量を数値化できる事柄を信頼し価値を見いだします。つまり目の前の巨大な石窟寺院をみて驚嘆するのです。でも私たちが本当に目を留めるべきは背後にある物語なのだと、そう思わされました。主イエスは二枚のレプトン銅貨を捧げた寡婦を見て、この女性が最も多く捧げた、と弟子たちに話されました。目に見えて計ることの出来る価値ではなく、目に見えない本当の価値を見るセンスを、私たちは信仰によって与えられるのです。

牧師室から №42

2019/1/13

親心子知らず、子の心親知らず。という諺があります。近しい相手との親密な関係性が築かれると、かえって互いの心を計り難くなる、という意味です。何故そんな事になるのか、というと、関係が緊密であるが故に、相手と自分の心理境界線が曖昧になり、相手を自分と同一の存在だと誤解してしまうからです。となると相手も自分と同じ意見、同じ趣向、同じ価値観で行動していると思い込む事となる。でも人はそれぞれが独立した一己の存在です。同じではありません。個々人が相互理解を進めるためには会話を交わすとか、共に活動するというプロセスが必要です。でも親しさと思い込み、相手に対する甘えがそのプロセスを阻害してしまうのです。結果、自分と相手の間に大きな意見の相違が生じたとしても補正が利かなくなってしまいます。故に問題が起きた時には手遅れになっているのです。
そもそも神はこの世を創るときに「人々」を創造されたのではなく「アダム」を創造されたと聖書には書かれています。神は一人ひとりを独立した存在として創造されました。意見も違い価値観も違って当然、私たちはバラバラで良いのです。でも、それを踏まえて神は私たちに一致する手段を託されました。それが「愛」です(所有や従属、強制ではなく)。人と人は同一の考えを持つことが前提ではなく意見を交わし合い最も良い解決を模索するのです。その根底に愛と信頼を置くのです。

牧師室から №41

2019/1/6

主の年(AnnoDomini) 2019年が始まりました。私たちは共に、主の招きを受けた者たちとして堅実に礼拝を守り、主の働かれる伝道の歩みに用いられてまいりましょう。

さて沢山の物の中から求めているモノを見つける作業は結構、面倒です。年末の片付けをしていて、金具を締めるボルトが一本必要になりました。そこでまとめてあったボルトの中から、径とピッチと長さがちょうど良いモノを探したのです。でもなかなか見つかりません。ホームセンターに行こうかと諦めかけた時に、工具箱の底に落ちていたボルトがちょうど合うものだったので、事なきを得ました。必要ないと脇に寄せられたモノでも、別の状況ではそれがなければ成り立たなくなる、そんな事態は度々あります。全て存在や出来事には意味があるのです。

次聖日に与えられる御言葉に描かれているシモン・ペトロはゲネサレト湖の漁師です。当時の一般的な習慣では親の職業を子が継ぐ事になっていたので、ペトロの父も漁師であり、彼自身も子どもの頃から湖に出て仕事を手伝っていたと考えられます。不安定な舟の上から重い投網を投げる作業を繰り返すその腕や足腰は太く引き締まり、顔は真っ黒に日焼けしていたことでしょう。そのペトロに主イエスは従うように、と声を掛け、後には伝道者としての働きを託します。聖書に描かれるペトロは学識もなく話術も稚拙、社交性も乏しい人物です。人を教え導く役割は不適任に思えるのです。でもペトロじゃなければダメだったのです。伝道は相手を折伏する働きではなく自分の心が見た事実をそのままに伝える働きです。素直で正直なペトロは神に用いられ、彼を土台にして後に教会が建つのです。

牧師室から №40

2018/12/30

もうすぐ2018年が終わり2019年が始まります。でも物理的には一年の切り替わる瞬間に、何か大きなイベントが起こるわけではなく日常は淡々と継続します。時の歯車は遅延・前倒なく規則的に神の創られた自然律に従って刻まれます。とはいえ精神的には、私たちにとって年始は気持ちを切り替える好機です。ですから「書き初め」に新年の抱負を記したり、おせち料理に願いを託したり、新年に希望を馳せるのです。

ちなみに教会の暦に於いて一月一日は「イエスの命名日」となります。律法には「産まれた男児は八日目に割礼を受けなければならない」と定められています。ヨセフとマリアは赤子を抱えて祭司の所に行きます。そこで割礼が施され名前が付けられます。(ルカ2:21)新生児の死亡率が高かった時代にあって、この日から主イエスは人として数えられるのです。

時の転機について、聖書の出来事に於ける最も大きな転機は、やはり洗礼者ヨハネによる主イエスへの洗礼です。何故ならこの出来事を通して神はこの世との関わり方を変えられたからです。それまで神は預言者の口を通して御自分の思いをこの世に示しました。でも主イエスの伝道を始められて以降は直接この世と関わり触れられました。神はこの世を御自分の下に導くご計画を、私たちの成長に合わせて段階的に進められているように感じます。まだ柔らかい物しか食べられない者には柔らかい物を与え、固い物でも大丈夫となれば固い物を用意されるのです。神は私たちを成長させます。成長は変化です。時に変化は心と体を疲弊させますが、留まっていては勿体ないのです。

牧師室から №39

2018/12/23

現在、エジプトからイスラエルへ陸路で抜ける経路は一つしかありません。それはアカバ湾に面した国境の町、ターバを通ってイスラエルのエイラトに上る道です。私も今まで幾つかの国境越えを経験していますが、この国境にある出入国管理施設の右と左の差異には驚かされました。エジプト側はのんびりしていて、古いライフルを肩から掛けた軍人が笑い掛けてくるような雰囲気でしたが、イスラエル側に入ると途端に最新式の自動小銃を身体の正面に斜めがけした軍人が、引き金に指を掛けた状態で睨み付けてきました。これは中々に萎縮します。

もともとエジプト・イスラエル間には地中海側にもう一つの国境がありました。それはガザを経てイスラエルに入る経路です。産まれたばかりの主イエスを連れてエジプトに下ったヨセフとマリアは地中海沿いのルート、ガザ経由でエジプトに逃れたと考えられています。でも現在は紛争地域なので通行不能です。さらに主イエスを拝みに来た東方の占星術師たちも現在では主イエスにまみえることは不可能です。シリアからは、トルコ経由もレバノン経由も国境が閉鎖されているからです。

宇宙から見た地球には線は引かれていません。でも地図上には何本もの線が縦横無尽に引かれています。海の上にも線が引かれ空中にも線が引かれています。為政者たちは「あなたの資産を守る為に線を引いている」と主張します。でも本当にそうなのでしょうか。身分や経済の格差が生じている社会では、その格差を維持し既得権益を守るために、国粋主義が台頭し線引きされる線が濃く太くなる傾向があります。そして現在も同様の状況になりつつあります。平和を共に祈りましょう。

牧師室から №38

2018/12/16
キャッチャーのミット目がけてボールを投げるとき、どうすればコントロールが付くのか。小学校の頃、草野球のコーチにコツを教えてもらいました。それはボールが手を離れる瞬間に腕の力を抜く、という事でした。投球のモーションのあいだ、ずっと身体に力を入れているのではなく動きに緩急をつける。軸足を定めた後、反対の足を浮かしたときにまず力を抜き、そこから身体を前傾に倒しつつ、一気に腕を振り上げ、身体をねじりながら腕の筋肉に力を加えつつ振り下ろす。しかし指からボールが離れる半秒前に腕の力を抜く。するとボールは綺麗にミットの中に収まるのです。最初から最後まで力業で押し通すのではなく惰性に身を任せる事も大事。弛緩も必要。この姿勢は何事にも当てはまると思います。次週与えられる御言葉に描かれるマリアは主イエスの母として、おそらく世界で一番有名で尊敬されている女性です。でも彼女は自分から主体的に行動して世界を変えたとか、努力して未知なる物質や法則を発見したとか、そんな功績をなにも持っていません。逆に田舎の娘マリアを聖母マリアとして崇高の域まで押し上げている要因は、彼女が否定せず侮らず、天使の告知をただ素直に受け入れた事に依ります。マリアは神の言葉を受け入れるのです。ではマリアのその後の人生は安泰だったのかというと、そうではありません。過酷そのものです。世間の批判を振り切るように許婚のヨセフと共にベツレヘムに上り、その後命を狙われエジプトに逃れ、数年後にナザレに帰ってきて後にその息子イエスは十字架に掛けられ亡骸を受け取る事となるのです。しかし主はいつもマリアと共におられるのです。

牧師室から №37

2018/12/9
演劇を手伝っていたことがあります。演劇というと水物代表の様な仕事ですが、職業として演劇に携わっている人たちはみな強い意思と高い技術を持った堅実な方々ばかりでした。特に意外だったのは、派手ではなく地味な仕事だという事です。加えて待ち時間が長い。集団芸術ですからそれぞれが勝手に動いてはうまく進みません。演出、制作、役者、舞台、照明、音響、大道具、それぞれの分隊が歩調を合わせて演出家が差し示す方向に進んでいく。でも集中力を切らすことなく(途中で飽きてしまう事なく)各自がオリジナルの作風・流儀を作品に加味していきます。通常、演出家が製作や役者に声を掛ける所から始まり、そこから一年程の準備期間を経て公演に辿り着くこととなります。でも組み立てた芝居も本番は二時間ほどです。その二時間の為に何十人が一年以上を労するのです。
主イエスがこの地上にあって生きた時間は三十年ほどですが公生涯を過ごされた期間は最後の三年ほどです。でもたぶん正しく神の子として人々に認識されたのは十字架上で息を引き取るその瞬間だけでした(マルコ福音書15:39)。この一瞬が地上に現されるために費やされた準備の期間は如何ほどだったのか、神の為される事は私たちの想像を遙かに超えます。

牧師室から №36

2018/12/2

旧約聖書・新約聖書の「約」という字は「約束」を意味します。つまり聖書とは神と人との約束を記した書物という事です。その約束はとてもシンプルです。神はアブラハムとモーセに現れ話します。「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。」(出エジプト6:7)この約束を覚える為にユダヤ教の礼拝では犠牲が捧げられます。祭司は神殿に捧げられた初子の雄牛を真っ二つに裂き左右に置きます。人々はその間を通って神殿に進みます。こうして「もし私が神との契約を破ることがあれば、この雄牛の様に真っ二つに裂かれても構わない」という意思表明をするのです。この初子の雄牛は自分の身代わり、自分の命と同等の価値となります。
しかしユダヤの民は何度も何度も神との約束を反故にします。彼らは神ではなく王の民となり偶像を礼拝するのです。その度に神は預言者を介して人々に働きかけますが、人々は目を覆い耳を塞ぎます。そこで神は最後の手段(決定打)として主イエスをこの世に送られます。罪なき完全な犠牲の捧げ物として主イエスは十字架に架かり真っ二つに引き裂かれます。この主イエスの十字架を通って神と人は再契約(新約)を交わすのです。

「約束は守られる」と当然の様に信じている私たちは聖書に記されている「契約」という概念に疎いのかもしれません。馴れ合いと妥協「和を以て尊しとなす」が基調となっている日本という社会にあって約束や契約の意味合いは希薄なのです。しかし神は先に約束を守られました。アブラハムからの救いの約束は主イエスを通して成就したのです。私たちはその声に応じるか否か問われています。

牧師室から №35

2018/11/25

次週から教会の暦はアドベント(待降節)に入ります。桑名教会では礼拝堂に備えられたクリスマスクランツの蝋燭に毎週一つずつ灯を加えます。そしてクリスマスには四つの灯が点ります。玄関にはクリスマスツリーが置かれ今年は教会学校の子どもたちが焼いたクッキーで飾られます。この様にして私たちは四週の時期にイエス・キリストの降誕を迎える為の準備をします。でもこの時期、私たちはもっと大切な準備をします。目に見える準備ではなく目に見えない準備です。私たちは一人ひとり、それぞれの魂に主イエスを招く【準備】をするのです。

クリスマスとは(Christ)クライストのミサ(mass)に由来する言葉です。神の子がこの世に与えられたこと、この世に神が直接触れて下さった事に私たちは感謝を捧げる礼拝、それがクリスマスです。でも手放しに喜ばしい事なのかというと、そうでもないのです。神が目の前に来られるなら、この世に本物の神が明らかになります。つまり私たちは、もう各種偶像を追いかけることが出来なくなる。その結果、地位も名誉も財産も知恵も技術(という偶像)も、全て無価値な塵芥に変わるのです。(それらから解放される)クリスマスを祝うという事は、この世の全ての価値観が逆転する事を受け入れ喜ぶ事です。だから私たちは覚悟を以て準備をする必要があるのです。でも私たちより前に神は始められました。アドベント(advent)と同じ語源を持つ単語があります。それは「冒険」(adventure)です。「危険を伴うことを敢えてする」。冒険し挑戦するなら私たちを次の場所に到達します。「すべてが改まる時」私たちは神と共にワクワクする冒険へと共に進み出しましょう。

牧師室から №34

2018/11/18

私たちはそれぞれが自分にとっての寛げる場所を持っているのではないか、と思います。例えば自宅リビングの気に入った椅子とか、行き付けの喫茶店の窓際の席とか、近所の公園のテラスとか。私は、毎日の通勤の車の座席が一番くつろげます。誤解のないように付け加えるなら、家にも仕事場にも居場所がない、という訳ではありません。ただ鍋の中で丸くなるネコのように狭い空間に収まる方が落ち着くのです。

さて次週の御言葉に記されている楽園という言葉について、新約聖書はこの言葉を天国とは違う意味合いで使っています。そもそも「天国」という単語は273回使われているのに「楽園」は3回しか使われない事からも、この二つの単語の差異は歴然としています。ではどう違うのか。「天国」は空の上に浮かんだ光に包まれた場所、神の国というイメージです。それに対して「楽園」は公園もしくは庭園のイメージであり、究極的にはアダムとエバが追い出されたエデンとなります。つまり楽園とは、罪を負う前のヒトが神の保護下に置かれたまま不安も心配もなく、空腹も困難も苦しみもなく、幸いに寛いで生きる事のできる場所、ということです。アダムとエバは神に逆らい、知恵の実を食べてしまったが故に楽園を追放されます。ヒトはこうして神に逆らい背き目を逸らす傾向、つまり罪を負うこととなります。この罪によってヒトは様々な苦難や悲惨、隔絶、つまり痛みを負うことになりました。しかし神は悔い改め主イエスの方に振り向く者を、楽園に導かれます。全てのヒトは天国に招かれますが楽園を味わうことが出来るのは主イエスの弟子である信仰者だけなのです。

牧師室から №33

2018/11/11

主イエスが話された復活について、私たちは主イエスご自身が十字架に架かり三日目に復活された姿から想像する事ができます。主イエスは復活された後、弟子たちの所に現れます。エルサレムの部屋の一室に現れ、エマオへ下る道の途中で現れ、ガリラヤ湖の湖畔で現れるのです。その姿を見た弟子たちは、その方が主イエスだと分かったと、聖書には書かれています。

「見て」その人が誰だか分かる。私たちはそれをいとも簡単に行っていますが、私たち人間にとって、とても難しい事なのだそうです。私たちの脳には人の顔を見分けるためだけに働く部位があり、最初に記憶するのは母親で成長するに従って百五十人程度の人を認識する事ができるようになるのだそうです。因みにポケモンというゲームに出てくるキャラクターの数が百五十一匹(第一世代)というのも、もしかしたら何か関連があるのかも、と勝手に考えたりします。最近ではAIを使って個々人の顔の部分の特徴や目の動きや表情筋の動きを読み取って、その人が誰であるかを識別する技術が開発されていますが、それも絶対的ではなく限定的です。完全に相手が誰であるか分かるという事は、私と相手とが全人格的な関係を保っていた期間の記憶と感覚を、目の前にいるその人と照らし合わせてお互いにお互いを確認することです。

つまり復活された主イエスを見た人たちの誰もが、その方が主イエスだと分かったという事は、お互いにお互いが分かったという事であり、私たちも同じように死の後、私が私として何も損なわれないし関係も保たれるという事なのです。

牧師室から №32

2018/11/04

「神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と洗礼者ヨハネは洗礼を受けるために集まった者たちに話します。自分たちこそアブラハムの後継者であり神に選ばれた民族だと信じていたユダヤの民にとって、この言葉は衝撃的でした。しかし彼らは反発するのではなく、受け入れるのです。そして多く者がイスラエル中や近隣の国々からヨルダン川で洗礼を授けるヨハネの下に集まり全身を浸され浄められます。でもなぜ自尊心の高いユダヤの民は砕かれ悔い改めに導かれたのでしょうか。それは彼らがその時代に退廃的な雰囲気を感じていたからです。国家としてのイスラエルは事実上ローマ帝国の属国とされ抜け殻のようになり、王も祭司長もローマの傀儡であり神殿の権威は形骸化し世俗化しています。駐屯したローマ軍によって治安は守られ、インフラも整備されます。国家間の貿易網の一端を担わされ、多くの異邦人が流入します。生活の水準は飛躍的に向上しましたがユダヤの民は神を見失うのです。

では彼らは砕かれ悔い改めて救われたのかというと、そうではありません。悔い改めによって空っぽになった心に聖霊を招かなければならない。空っぽの心をそのままにしておくと「自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く」(マタイ12:45)ようになります。この洗礼者ヨハネの差し示した先に主イエスがいます。空にした自分の魂に主イエスの霊を受け入れる事によって始めて、私たちは救われるのです。

牧師室から №31

2018/10/28

随分昔の事になります。私が営業の仕事に遷されたとき、最初に先輩に命じられた事は靴を買い換えることでした。「顧客は最初に営業の靴を見て、その人を計るから靴はいつも綺麗にしておくように」と教えられたのです。クタクタの靴の方が頑張って働いている観がある、というのは素人の考えで、業績を上げている先輩方は、靴が綺麗でシャツがパリッとしていてネクタイも内側に針金でも入っているのか、と疑わしくなるほどに型崩れしていない、使う言葉も上品でした。お客さんからしてみると、そんな見栄えの良い上質の人間が自分の相手をしてくれることで、自分も上質な人間になったような気がする、信頼できる、そんな心理が働くのだそうです。そして下手なクレームとか値引きを言い出さなくなる。無粋なことを口にして、自分の質を落としたくない、と考えるから、です。

確かに、多様な価値観がひしめき合い混沌としている今の世にあって見た目が9割なのかもしれません。深く付き合う事がなければそれで事足ります。でも聖書的に言うならそれは偶像崇拝に心を奪われている背信者の愚なのです。見てくれが良いに越したことはありません、が、偽装は一夜にして白昼の下に晒されます。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。」(Ⅰコリント4:5)主イエスは全ての人の魂そのものと徹底的に関わられました、さらに彼らの為に自らの命をも捧げられました。私たちも主イエスに倣い敵対者であっても徹底的に関わるのです。そのために神は私たちの魂に小さな火、希望を灯して下さるのです。

牧師室から №30

2018/10/21

東京の下町の銭湯に行ったときの事です。夕方もまだ早かったので、空いていましたけど、地元の方々が幾人か、既に湯船に浸かっていました。私も身体を流した後、湯船に足を浸けてみて、すぐに足を引っ込めました。下町の銭湯は熱いと聞いていましたけど尋常じゃ無い熱さです。でも常連さんたちは、顔を真っ赤にして首まで浸かっています。仕方が無い、私もエイヤッと湯船に浸かりました。先ず体中に激痛が走ったのですが、でも慣れてきて徐々に心地よくなってきました。今では、熱い風呂じゃなきゃ入った気がしない、となっています。

何事もやってみないと先に進まない、というのは、この世の常です。しかし私たちは始める前から尻込みするのです。なぜなら先に進めようとする時、必ず何らかの障害が生じることを知っているからです。今までのやり方、手順、成員、習慣化し効率化され経験値も高い既存の仕組みにノミを打ち込むことは容易ではないし、当然、緩慢な抑圧を受ける事は必至です。しかし、この高いハードルを乗り越えようとする力を信仰は与えてくれます。主イエスが十字架の死から復活された様に、神は0から1を創られる方です。既存の物が何もなくなっても、手元に何も残ってなくても、それでも神は私たちを生かして下さいます。神は私に必要なモノを必要なだけ用意して下さる方です。ですから私たちは明日を恐れることはありません。私たちは、神は畏れますが明日は恐れません。今日を感謝して喜びを以て生きるのです。神は私たちを喜んで生きる者として創造されたのですから。

牧師室から №29

2018/10/14

桑名教会では10月28日(日)秋の伝道礼拝として、康路加こうるかさんを迎えての讃美礼拝「すべての人々に喜びと希望を讃美歌とともに」を行います。今日は、この礼拝のコンセプト(全体を貫く基本的な観点)についてお話しいたします。

まず、この讃美礼拝ですが、「ゴスペル歌手を教会に招いて美しい讃美を聞きましょう」という会ではありません。そもそも礼拝に於いて讃美は聞くものではなく、自らの口を以て歌う為のもの、讃美とは神に向けた私たちの祈り、だからです。私たちが礼拝の中で心を一つにして讃美するとき、その讃美の言葉を用いて一つの祈りを捧げる事ができます。そのとき私たちの中心に主イエスが居られるのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18:20)そして主イエスの臨在を感じた時、私たちの魂は聖霊によって満たされます。ペンテコステの日に聖霊を受けた使徒たちは聖霊に満たされ、幾つもの国の言葉で神の偉大な業を賛美した、と聖書には書かれています。同じように私たちも聖霊に満たされるなら、神の御腕に包まれている自分を確認する事ができます。そこに、私たちの求める魂の救い、神との和解と平和が与えられるのです。

私たちはただ一人で神を知ることはできません。なぜなら、この世の知恵や知識、言葉から神は身を隠されているからです。でも私たちは教会に集い礼拝の中で心を一つにして祈る時、神は自らを明らかにして下さいます。この世に於ける教会の代替できない役割とは「集められた者たちが一つ(同本質)となって祈りを献げる場」であることです。共に讃美しましょう。

牧師室から №28

2018/10/7

腰痛に悩まされている人は多いと聞きます。私自身も時々、「ぐぎっ」となり、立ち上がるにも寝そべるにも動きが取れなくなります。この腰痛を治すには日頃からの運動が最も効果的で腹筋と背筋を鍛えると、かなり改善されます。反対に座り続けるとか、猫背で歩くなら腰回りの筋肉にストレスをかけ、腰痛が引き起こされる事になります。正しい姿勢が肝要です。でもそれは肉体だけでなく心の内面も影響する事柄です。私たちは自信を失ったとき、大きな失敗をしたとき、元気が無くなっている時、心が沈むのです。となると地面ばかりに目を向けてしまう。顔を上げて人の目を見ることが出来なくなります。そうなると、腰痛を含め健康が損なわれる事となるのです。

次週読まれます御言葉の場面でペトロは、ジッと火を見ています。たぶん前屈みになりながら、うつむいて、薪がパチパチと音を立てて燃えている様子を見ているのです。ゲッセマネの園で主イエスは捕らえられ、弟子たちはその場から逃げ出します。でもペトロは主イエスの事が心配になり、夜の闇に紛れて、捕らえられ監禁されているカイアファの邸宅の中庭に入ります。そこには主イエスを捕らえに行って帰ってきた下役たちや邸宅で働く女中たちが集まっていました。彼らは作戦の成功に人心地ついているのです。ペトロは、自分も下役の一人で在るかの様に振る舞いながら、火に当たっていました。でも、大祭司に仕える女中はうつむいていたペトロの顔を下からのぞき込みます。そして「この人はナザレのイエスの弟子だ」と、正体を見抜くのです。しかしペトロはその言葉を強く否定します。此処でも彼は逃げるのです

牧師室から №27

2018/9/30

主イエスが掛けられた十字架による処刑は、ローマの法律の中で最も重罪な犯罪者が受ける刑罰でした。それは国家や皇帝に逆らう犯罪、つまり騒乱罪や内乱罪つまりテロリズムを引き起こした者に対して適用されました。十字架に張り付けられた者は白骨になるまで、そのまま放置され、その様子は町に住む全ての人に晒されます。見せしめの意味合いが強い刑罰です。でも、主イエスは息を引き取ると、すぐに十字架から下ろされました。そして墓に納められるのです。なぜか、それは主イエスの処刑に立ち会った全ての人が、主イエスが何も犯罪を犯していない事実を知っていたからです。

主イエスは真夜中に捕らえられた後、朝になって主イエスは最高法院に引き出されユダヤ人として裁判に掛けられるのです。しかし、偽証人が証言を重ねますが言葉が噛み合うことはなく、主イエスの罪を定める事はできません。そこで彼らは主イエスをローマから派遣されていた総督ピラトの下に連れて行きます。そしてローマの法律で裁かせようと画策するのです。ピラトも主イエスが何の罪も犯していない事を知っていました。でも、このままではユダヤ人たちが本当に内乱を起こすかもしれない。彼は自分の危機管理能力が問われかねない事態に追い込まれるのです。そこでピラトは折れます。「この人の血について、わたしには責任がない。」と言って彼は手を洗います。その結果、主イエスの掛けられた十字架には「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きが掲げられる事となったのです。人の罪の連鎖の果てに行き着いた罪状書きですが、この言葉こそ神の真理を的確に言い表す言葉となるのです。

牧師室から №26

2018/9/23

思いがけず旧友と再会したとき、私たちは握手をしたり、抱き合って喜び合うのです。西洋ではその様な時、接吻をすることで相手に対する親愛の情を表します。では主イエスの生きた世界、つまりユダヤの習慣ではどうか、というと、接吻には3つの意味がありました。一つは親愛の情を表す接吻、二つ目は客人への挨拶、三つ目は尊敬・服従を表す接吻です。この3つめの尊敬・服従を表す接吻は、生徒が教師の手の甲に唇を付けるという形で行われます。ゲッセマネの園でイスカリオテのユダが、その裏切りの合図として主イエスに行った接吻は、この尊敬・服従の接吻です。

イスカリオテのユダは祭司長たちの遣わした者たちと、主イエスを捕らえる段取りの打ち合わせで、彼らに「私が接吻する相手が、その人だ」と伝えます。深夜の暗闇に紛れて主イエスを捕らえに来る者たちに、誰が主イエスか分かるように、ユダはこの合図を決めるのです。でも、もしかしたらユダは、事が起こったときに主イエスがその場から逃げ出すだろうと考えていたのかもしれません。だからユダは、主イエスに逃げられないように、強くその手を握ることができる方法を選んだのではないか。尊敬と服従の態度を示しながら近づいて行き、主イエスの手を取り強く握り、その甲に接吻をするのです。

でも主イエスは、握られた手を振りほどかれません。そのまま、抵抗する事も争われることもなく、そうなることが当然であるかのように、静かに捕らえられるのです。そして弟子たちにも、立ち向かう事を禁じます。このユダの企みも、神のご計画の内にあることだったのです。

牧師室から №25

2018/9/16

イエス様と弟子たちが共に取られた最後の晩餐の食事の献立というと、それはかなり詳しく分かります。なぜなら過越の祭りでいただく食事の作法は、律法に細かく定められているからです。この過越の祭りとはユダヤ歴ニサンの月(第1の月)の14日の日没、つまり15日(この日は私たちの使っているグレゴリオ暦では3月末から4月末の満月の日)から8日間にわたって行われる祭りです。

イスラエルの人々は14日に小羊を神殿に持ち込み(出エジプト12:3)祭司に屠殺と解体をしてもらいます。そしてその肉を調理し、日が沈んで15日(ユダヤでは日没から1日が始まります)に夕食として頂きます。この時、酵母の入っていないパン(マッツァー)と苦菜(マーロール)を添えます。飲み物はワインを大きな器に注ぎ、回し飲みします。残った肉は火で焼き尽くさなければならない、と律法に定められているので(出エジプト12:10)羊一頭から取れる肉が約20㎏をそこにいる者たちで全て食べ尽くすこととなります。ユダヤ人にとって過越の祭りの食事はご馳走であり、年に一度、家族や仲間と共に最も喜びに満たされる宴会の時です。この過越の食事をいただいた弟子たちは、満腹でワインも入り上機嫌だっただろうと思います。

でも、同じ食卓に着いているイエス様とイスカリオテのユダの様子は違うのです。なぜなら二人はこれから先に何が始まるのかを知っていたからです。此処から主の受難が始まります。

牧師室から №24

2018/9/9

イスカリオテのユダについて、私たちは彼を「主イエスを金で売った裏切り者」として覚えます。彼はエルサレム神殿に仕える祭司たちと銀貨三十枚で主イエスを売り渡す約束を交わします。でも、なぜ彼は主イエスを裏切ったのでしょうか。このイスカリオテ、という言葉の意味は「カリオテ出身の人」です。またカリオテは「大きな町」という意味も持つことから、ユダは都会出身の、基礎学力を身につけた知的にも良識的にも洗練された人物だったのではないか、との推測がされています。そもそも、ユダの以外の弟子たちは全員ナザレの田舎者、ペトロに至っては学の無い漁師です。都会育ちで身なりも良いユダの存在はこの群れの中で、別格だったのでしょう。ですから、ユダは金入れを預けられていた、という聖書の記事も納得できます。

腕っ節が強く荒々しいだけで、何となくボンヤリしている弟子たちの中で、彼だけは違うのです。彼は目的意識と自分の行動に対する動機づけができています。たぶん、主イエスの側にいた者たちの中で、彼が最も主イエスの話している言葉を理解していたのだと、思います。でも、だから彼は主イエスを許せなかったのではないか、と、【なぜ愛する先生は世界を変える程の才能を手にしていながら、その力を無駄に浪費するのか、もし私にその力があれば…】期待は失望へ心酔は憎悪へ、ゆっくり変質するのです。

しかし聖書は、ユダの裏切りは彼の身勝手な衝動ではなく、そこに神の御心があると説きます。神は彼の心の闇、憎悪や幼児性をもこの世を救うために用いられたのです。神はこの世の光も闇も統べられる方なのです。

牧師室から №23

2018/9/2

「シンドラーのリスト」(1993)という映画の最後の場面で、リーアム・ニーソン演じるオスカー・シンドラーは、手に持った指輪を見詰め「もっと救い出せた」と涙を流します。「この指輪を賄賂に差し出せば、あと何人のユダヤ人を収容所から引き取る事ができただろう」と彼は嘆くのです。映画の内容は各人で見ていただくとして、この映画から私たちが教えられるメッセージは「自己犠牲をいとわない愛」のあり方です。でも、その背後にもう一つのテーマがあります。それは「人は人を救えるのか」という問いです。シンドラーは幾人ものユダヤ人の命を救います、でも同時にシンドラーも彼らによって荒んだ魂を救われるのです。それは映画の最初の場面のシンドラーの表情と、後半のシンドラーの表情を描き分けることで表現されています。冷酷で嘲りを臭わす彼の目は、慈愛に満ちた目に変えられていきます。人が人を救うのではなく、人と人とは関わり合う中で互いに命を再生する。彼が救ったのではなく彼も救われるのです。

聖書には「人は人を救うことができない」と書かれています。人を救う事ができるのは、ただ神のみです。そのために神は預言者や主イエスをこの世に遣わし福音を伝えました。「あなたはこの世の何ものにも支配されていない、あなたは自由です。」と宣言されました。このメッセージが腑に落ちた人は、今までの姿勢や見方を打ち砕かれます。自分が「井の中の蛙」であり、外界には広い世界があると、気づかされるのです。そして自分の意思と力で井戸から出ようと壁を上り始めるのです。私たちも福音を伝える事に依って主の救いの業に用いられるのです。

牧師室から №22

2018/8/26

最近、二世タレントという人たちが芸能界で多く取り上げられています。でも芸能という特殊な分野だけではなく、会社経営や学問、医学、政治の分野にあっても、身分(ポスト)の世襲化が進んでいるように思われます。この世襲について、なぜか世間では弊害ばかりが強調され批判される傾向があります。例えば世襲は新規参入者を閉め出し自由経済を破綻させる、とか、既得権益を保護し高所得者層を増長させ社会を腐敗させる、とか、富の再分配を阻害して低所得者を更に苦しめる、とか。しかし世襲に依って社会が受ける恩恵も大きいのです。それは社会秩序の維持と経済の安定です。社会構造が変化せず安定している(革命がない)なら、資産家は安心して投資を行うことができ、企業は設備を拡充し研究開発を進めます。その結果、社会のインフラが整えられ、人々の生活も豊かになります。世代が変わるごとに情報が刷新され順応するまで時間が掛かるより、既存の情報が次世代に継ぎ目なく引き渡されたほうが、実は利便性が高いのです。ですから有史以来、国家と経済、宗教、専門職の分野に於いて人間は世襲制度を社会構造に組み込んできました。そうする事によって、社会の安定を維持してきたのです。

しかし、信仰は世襲に依って継承されるものではありません。なぜなら信仰は「神と我との抜き差しならない一対一の人格的関わり」の中で見いだされ成熟するからです。いわば解体と再生が信仰の本質であり、それを主イエスの十字架と復活は象徴しています。躓き悔い改め赦しを受けることによって信仰は成熟するのです。

牧師室から №21

2018/8/19

高度成長期の流行歌スーダラ節は「わかっちゃいるけどやめられない」と歌います。頭ではいけないことだと理解しながらも「ついつい」流され続けてしまう、この歌詞はそんな私たちのあり方を表現しています。何が良い事で何が悪い事か。私たちは教えられなくても解っています。しかし、正しい事を正しいと主張し行動する事は難しいのです。なぜなら、私たちの行動を決定する根拠の大半は善悪の可否ではなく習慣の維持だからです。しかも、善習より悪習の方が優先されます「悪い習慣はすぐに身に着くけど良い習慣を身に着けるには努力が必要」という言葉の通りです。

なぜ私たちは習慣に従うのか。加えて国、学校、会社(教会も含めて)に於いても習慣が支配的になるのか、というと習慣を壊してまで現状を「変える」ことが億劫だからです。いちど習慣化した生活を「変える」には、相応の力が必要です。「変える」為には多くの人々を説得し協力を得なければなりません。その方々に苦労や不便を強いることになります。また結果が上手く行くか行かないか、責任も掛かってきます。今までの経験の蓄積がないので、失敗も生じます。ですから、そのままで良い。「今ある建物を壊して立て直すくらいなら、多少不便でも古くても、そのまま使い続ける方が良い」となるのです。マルコ福音書12:28以下に於いて一人の律法学者は、主イエスの問いに対して的確に答えます。「愛は律法を全うする」と彼は答えるのです。しかし彼らは神の義より習慣に従い主イエスを十字架に掛けます。この習慣を打ち破る力が信仰です。信仰は私たちに「一から始める」力を与えるからです。

牧師室から №20

2018/8/12

先日、教会学校のキャンプがありました。9人もの参加者を与えられ、天候にも恵まれ、子供たちと共に霊肉共に豊かな実りを与えられました。怪我や事故なく終えられたこと、お手伝い下さりお祈りにお覚え下さり感謝です。

次の世代への信仰の継承は教会の責務です。私たちは神様が教会に導き入れた子どもたちを、自らの子どもとして受け入れ、愛し、主イエスに結びつける働きを担わされています。でもそれは労苦ではありません。私たちは、子どもたちの純粋な感性を通して描き出される主イエスの姿を、確認する機会が与えられるからです。今年のキャンプに参加した子どもの感想文にこの様に書かれています。「神さまがどんだけたいせつかがわかりました。どんなことがわかったかというとぼくたちを神さまが大事にしていることがわかりました。」

「私は自らの信仰生活において神を大切にしている」ではなく「ぼくたちを神さまが大事にしている。」という素直な信仰。子どもたちを通して此処に私たちは立ち戻らされるのです。

次週、読まれます御言葉にあって農夫たちは、それが主人から預けられたぶどう園であるにも関わらず、自らの所有物であるかのように権利を主張するのです。そして派遣されてくる僕をことごとく追い返します。そして最後に遣わされてきた主人の一人息子を殺して、ぶどう園を正式に自らの物にしようと画策するのです。なんとも後味の悪い話しです。でもその最悪の結末が「隅の頭石」として救いの初穂となります。その十字架によって全ての者が救いへと入れられるのです。

牧師室からNo.19

2018/8/5

エリコ(Jerico)という町について、この町は世界最古の町と評され、紀元前8000年紀には周囲を壁で覆った集落が作られていた、と言われています。その後もエリコは独立した都市としての機能を温存し維持し続けます。なぜ、それが可能だったのか、というと、エリコは自然の擁壁に守られていただけでなく、四方を堅牢な城壁で囲まれていたからです。その城壁はどんな軍隊を相手にしても、崩されることがなかったと言われています。つまり、このエリコの城壁は、決して崩れず、破壊できないモノの象徴として人々に知られていたのです。でも、この城壁を神は崩されます(ヨシュア記6:1-27)。

モーセがネボ山で天に上げられた後、若きリーダーヨシュア率いるイスラエル軍は山を下りヨルダン川を越え、エルサレムに侵攻する為に兵を進めます。しかしエルサレムに進むには、街道の手前に位置するエリコを陥落させなければならないのです。エリコは進んでくるイスラエルに気づき城門を堅く閉ざします。そこでヨシュアは、主なる神が命じられた通りに行います。イスラエルの民は契約の箱を担ぎ、七人の祭司が、七つの角笛をもって、主の箱の前を行き、六日間町の周囲を一回まわり、七日目だけは七回るのです。そして最後に民が鬨の声を上げ、角笛の音が響き渡ったとき、堅牢な城壁が崩れ落ちるのです。この様にしてエリコはイスラエルのものとなり、イスラエルはエルサレムに兵を進めます。主イエスは過越も祭りの前に、このエリコを通ってエルサレムに入られます。つまり時がきたのです。

牧師室から №18

2018/7/29

日本語の「こんにちは」に相当するヘブライ語の挨拶は旧約聖書の時代から現代に至るまで一貫して「シャローム」です。この「シャローム」の意味は「平和」です。でもそれは単に戦争や争いとは正反対の状態ではなく「あらゆる面での完全な充足状態を表すものであり人間の至福のあらゆる要素を包含する」状態を意味します。簡単に言うなら「少しの不安もなく満たされている」という事です。でも、その様な平和を人間業で作れるのか、というとそれは不可能です。しかし神業なら可能です。ですからユダヤ人たちにとって「シャローム」は単なる挨拶ではなく「唯一の同じ神を仰ぎ見る礼拝者同士の挨拶」として用いられるのです。

人と人は完全に一致することはありません。反目し対立し争います。それは神が一人一人違う存在として創造されたことに起因します。人間は、この世の何か(政治・国家・思想・経済・概念など)に向かう事によっては一つとされません。幾つものセクトが作られ、セクト同士が争う所に行き着くこととなる。しかし神はその様な私たちを御自分に向けさせることによって、つまり唯一の神を共に礼拝することによって、人は一つとされます。そこに平和が生まれるのです。母親の腕に抱かれる乳飲み子を包む平和を私たちが得るために私たちは一つの神を覚えるのです。

政治家は自分の手腕として平和であることをアピールします。しかし本当の平和は武力を増強することや外交によって作られるモノではありません。逆に武器を手放し交渉を止め、互いに悔い改め唯一の神に立ち返る所に平和は与えられるのです。

牧師室からNo.17

2018/7/22

キリスト教信仰というと禁欲的で清貧、几帳面というイメージがあるようです。それはそれで悪い事ではないですが、少々誇張してイメージが先行している様にも思えます。「信仰をもつなら生活を制約される」「これはダメ、あれもダメ」と押し付けられる。でもそんな事はありません。

逆に信仰を持つなら私たちは自由になります。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ福音書8:31)と書かれています。

私たちは、その心をこの世に支配されています。例えば子供の頃「学校で良い成績を取らないとダメ」「お行儀を良くしなさい」との教育を受け、社会に順応するための価値観を植え付けられました。大人になってからは「和を以て尊しとなす」という雰囲気の中で働き、自律的な個人であるより社会組織を維持するための構成員である事を望まれます。徐々に自分の頭で考え、心で感じる感覚が奪われていく。何時の間にかこの世に隷属し魂の自由を奪われているのです。

イエス様が話された真理とは、神を知ることです。唯一の神を自らの神とし、覚え畏れ礼拝すること。天の国に帰属すること神に隷属すること。イエス様は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。」(マタイ福音書6:24)と話されます。私たちが神に仕えるなら、私たちはこの世からは解放されます。私たちは自分で善悪を判断できる、だから神に喜ばれる事なら何をしても良いのです。でも一つだけイエス様は「してはいけない事」を私たちに教えます。それは「躓かせる」という事です。

牧師室からNo.16

2018/7/15

弟子たちは、イエス様の後ろについてカファルナウムの町まで移動する際に「誰がいちばん偉いかと議論し合っていた」と聖書には書かれています。「いちばん最初にイエス様が声を掛けたペトロだ」、「いちばん腕力が強いゼベダイの子ヤコブだ」、「いちばん賢いユダだ」と、他愛のない雑談です。でもカファルナウムに着いたとき、イエス様は弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と尋ねるのです、しかも不快そうに。その様子を察した弟子たちは口を閉ざします。その時、弟子たちは、イエス様が自分を差し置いて誰が偉いのかを議論していた事、に腹を立てている、と考えたのです。「私を差し置いて、弟子たちの間で誰がいちばん偉いのか、なんて議論は以ての外だ」と、弟子たちはそう受け止めたのです。

でも、そうではありません。まったく逆です。イエス様はこの様に話されます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」イエス様は弟子たちに「仕えられる者ではなく仕える者になりなさい」その様に教えられるのです。

敬虔である事、謙遜である事は美徳です。でも謙遜が心からのものになるためには神を知る信仰が必要です。神を知るなら私たちはその強大な絶対者の前に敬虔にならざるを得ないからです。神を畏れることが私たちの知恵なのです。

牧師室からNo.15

2018/7/8

「なぜ神は、この世の悲惨や艱難をそのままにされるのか」、神に問いたくなる事があります。なぜこの世では、憎しみと裁く心だけが拭われずに残るのか。弱い者が食い物にされ強いモノは更に力を持つのか。理不尽で身勝手な意見がまかり通るのか。神はなぜ沈黙されるのか、神は失われたのか。でも、そうではありません。神が失われた、と思えるときは私たちが神を見失っているのです。神は永遠で絶対の存在です。たとえ、この世が消え失せても神は存在されるのです。

来週、私たちに与えられている御言葉、マルコ福音書9章14節以下に在って弟子たちは主イエスを見失います。

主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れてタボル山に上られた後の場面です。彼らが山から下りると、残された弟子たちが大勢の群衆に囲まれ、その真ん中で律法学者たちと議論しています。ある父親が悪霊に取り憑かれた息子を残された弟子たちの下に連れてきたのだけれど、彼らはその子を癒すことができなかった。その事件が切っ掛けに律法学者は主イエスを批判し、残された弟子たちは抗議していたのです。その喧噪に包まれた場に来られた主イエスは、即座に、この息子を癒やされます。

残された弟子たちは、山に登った主イエスが帰ってこないのではないか、と疑ったのです。だから悪霊に取り憑かれた息子を自分たちの力で、どうにかしなければと考えた、その結果、癒やしの奇跡は為されなかったのです。これに相似する状況が出エジプト記32章に記されています。並行して読まれると更に多くの気付きが与えられます。

牧師室からNo.14

2018/7/1

今回の「牧師室から」は次週の予告ではなく「祈りについて」書かせていただきます。

祈りについて考える時、先ずその前提となるのは、人間は誰しもが祈る心を持っている、ということです。信仰を持たない方でも「祈っています」という挨拶をされます。でもその祈りとキリスト者の祈りは決定的な違いは、私たちが「祈る方向を知っている」という事です。私たちは主イエスに向い祈り、その背後におられる神に向けて祈りを献げるのです。

そして祈りとは、私たちから神に一方的に突きつける要求ではありません。P.T.フォーサイスは著書「祈りの精神」の中で「祈りとは啓示の雰囲気である」と話します。私たちは、祈りを聴いて下さる方に向かって祈ります。そしてその方は、私たちが祈りの言葉を唇に乗せる前に、その祈りを聴いて下さっているのです。祈りを献げる時、主イエスが「アッバ父よ」と祈ったように、私たちも神を「自分を愛してくれている父親」だと思って会話を交わすように祈りを献げるのです。

では礼拝の時に会衆の前で献げる祈りについてはどうか、というと、それは個人的な祈りとは性格を異にする祈りです。なぜなら会衆全員がその一つの祈りを自分の祈りとして献げるからです。とは言え、内容は個人の祈りと変わりません。神への感謝の言葉を献げれば良いのです。(言葉を整えたい場合は主の祈り、祈祷文を参考にしましょう)肝腎な事は会衆全員に聞こえるか、です。何を祈っているのか聞き取れないのでは自分の祈りには出来ません。また安心して神に心を向けて祈る為に、記述してきたメモを読むこともまた正しい祈りの姿です。愚直に神に心を向ける、手段は問われません。

牧師室からNo.13

2018/6/24

「この世は神の奇跡に満ちている」と気がついた人は幸いな人です。でも逆に「自分には神はどんな好機も与えられない」と拗ねている人は、もう少し神に信頼する必要があるのかもしれません。神に信頼し体重を預けてみるなら(エイヤ!って)自分が支えられていると肌で感じることができ、さらに支えられている力の源が、この世に由来するものではないと気づかされるからです。奇跡とは好機が与えられる事ではなく、神がこの世に触れられたことの目に見え、心が感じ取れる現象です。つまり、神の存在を受け容れる事のできない者にとって奇跡は廉価な好機ですが、神を知る者にとっては神の臨在を確認できる、救いそのものとなるのです。神が側にいて下さると分かる、このこと以上の救いはないからです。

「この世は神の奇跡に満ちている」つまり、この世の全ての出来事は偶然ではなく神の必然です。神はサイコロを振られません。そして神は、それらの奇跡を通して命の源から切り離された私たちをもう一度ご自分に繋ぎ治そうとされています。私たちは奇跡を通して神の憐れみと愛を知るのです。

次週与えられる御言葉、マルコ八章は四千人の給食の奇跡に続く箇所です。主イエスは七つのパンと数匹の小魚だけで、そこに集う多くの人の飢えを満たしました。弟子たちは驚き主イエスを敬うのですが、この奇跡の背後に語られている神の御声を聴くことはできないのです。しかし主イエスは弟子たちを見限る事なく教えます。ご自分の命をも用いて、彼らを導くのです。

牧師室からNo.12

2018/6/17

次週24日の礼拝には、マルコによる福音書6章14節以下の御言葉が与えられています。この聖書の物語はオスカー・ワイルの「サロメ」という戯曲のモチーフとして取り上げられていますし、その戯曲はリヒャルト・シュトラウスによってオペラ化され上演されていますので、聖書の物語としてより、藝術作品として覚えられているように思います。

しかし当然、聖書の記述の中には、サロメが預言者ヨハネを誘惑するような場面はありませんし、妖艶な踊りでヘロデ・アンティパスを魅了する場面も記されていません。それに最も有名な場面、ヨハネの首が乗せられた銀の盆をもって歌うサロメも出てきません。そもそも「サロメ」という名前自体が聖書には記されていません。(ヨセフスの「ユダヤ古代史」にはサロメという名前が記されています)オペラとしての「サロメ」は「自分の父であり叔父であるヘロデに預言者ヨハネの生首を要求する美少女」という醜聞的な題材が刺激的であるが故に、聖書の本来の主題から引き離されて作られた創作です。つまり御言葉の、一つの解釈ではなく単なる娯楽作品だという事です。

では、聖書の主題は何処にあるのか、というと、その焦点はヘロデ・アンティパスの苦悩に当てられています。つまり、預言者ヨハネを尊び畏れつつも、自らの手で葬らざるを得ない状況に追い込まれていくヘロデの苦悩です。彼は、この世の因縁を断ち切ることが出来ず、神の言葉であるヨハネを葬るのです。しかしヨハネの死は、主イエスに時機の到来を知らせる号砲となり、主イエスのエルサレムへの道を開くこととなります。

牧師室から №11

2018/6/10

カウンセリングの世界では「自分の身内や恋人のカウンセリングは出来ない」と言われます。なぜならカウンセリングにおいてカウンセラーとクライアントが交わす契約の中では、そこで話された事についての守秘義務が課せられるのですが、身内という関係性の中では困難です。家庭内に秘密を持ち込む事は難しいからです。それに、カウンセラーはクライアントを客観的に観察しなければならないのですが、身内ではどうしても先入観や偏見が入り込みますし、そこに「情」が絡むならもうカウンセリングはもう成り立たちません。

信仰の事柄にあっても同様です。イエス様は「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)と話されます。子どもの様に素直で純真であること、つまり先入観や偏見なしに相手と関わる事のできる者、自分の目で見て自分の頭で考え自分の心で受け止めるものが、天国を得ると話されるのです。

次週の礼拝で読まれますマルコ福音書6章では、イエス様が故郷に帰られ、その町の会堂で教えられた時の姿が描かれています。イエス様はそこでも教えられ癒されるのですが、でも他の町の様にはいかないのです。なぜか。それは町の人がイエス様の家族を知っていたし、イエス様の子どものころの事を知っていたからです。町の人たちはイエス様を通して神を見る事ができません。なぜなら彼らはメシアを見るのではなく、イエスという自分が子供の頃から知っている一人の人を見てしまった、その先入観と偏見が彼らの目を曇らせ、彼らと神との関係は断絶したままとなったのです。

牧師室から №10

2018/6/3

聖書の中には四十日四十夜という表現が幾度も出てきます。それは人が神からの試練を受ける場面で用いられる言葉で、その期間、人は一人で荒野を彷徨い寡黙に耐え堪えます。孤独の内に自らと対峙し、自らを滅し新しくされるのです。

旧約聖書ではノアの箱船の物語の中で、洪水を起こした雨が降り続いた期間がこの四十日四十夜です。彼らは窓を閉め切った箱船の中で、ただひたすら雨が止むのを待ち続けます。モーセが十戒を受け取るためにホレブの山に登りそこに留まった期間もこの四十日四十夜です。これはモーセの試練と言うより、山の麓でモーセの帰りを待ったユダヤの民にとっての試練の期間でしょう。彼らはモーセを待ちきれずに金の子牛を作り偶像崇拝を始めてしまいました。また、預言者エリヤはバアルの預言者四百五十人を相手に勝ちますが、イゼベルの恨みを買い、命を狙われ逃げます。彼は「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」と主に懇願しますが、主は彼に食べ物を与え生かし立ち上がらせるのです。そして彼は四十日四十夜の間、荒野を歩き神に山ホレブに辿り着きます。そして、主イエスは洗礼を受けた後、四十日四十夜に渡って荒野を彷徨い悪霊の誘惑を受けます。しかし主イエスは悪霊に打ち勝たれ、この世に福音を伝える業を始められます。

「一人になる時」は私たちにとって大切な恵みです。安易な解決に逃げず諦めず、神を信じて、その試練を耐え抜いたなら、神は必ず次の道を開かれます。

牧師室から №9

2018/5/27

先週、私たちはペンテコステの礼拝と共に祝いました。主イエスが天に昇られた後、神は聖霊を使徒たちに送り、使徒たちはこの聖霊の力に押し出されて、全世界に生きる全ての人々に福音を伝えるための伝道を始めました。この聖霊と神と主イエスは一つの存在の三つの側面です。そして聖霊は私たちを正しい理解へと導き真理を明らかにして下さいます。
平易に言うなら聖霊は私たちにとって山岳ガイドのような存在です。山岳ガイドはその山の道を熟知し、移り変わる天候を経験から予測し、どこで休憩を取るか、どこが安全でどこが危険か、登山者たちの体力や心の有様をも計りつつ、片時も離れる事なく登山者たちを山の頂へと導くのです。
私たちはこの聖霊の導きによって、正しく神の方向へと進むことができます。しかし聖霊を見失うなら道に迷ってしまいます。そして魂を恐れや不安に支配されてしまう。その苦しみを解消するために奪い害し欺く事となるのです。
悪霊とは私たちの目や耳から聖霊の姿や声を隠してしまう者の事です。しかも耳元で誘惑の言葉を囁くのです。しかし悪霊は主イエスの敵ではありません。聖書には主イエスが「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」(マルコ福音書1:29-39)と書かれています。主イエスは悪霊が住まう魂から悪霊を追い出し、誘惑の言葉を話す口を開かせません。
悪霊の干渉に脅かされず、常に聖霊からの光を受とめるために、私たちは共に礼拝を守り聖書に聴くのです。

牧師室から №8

2018/5/20

イエス様はナザレからヨルダン川を下り、洗礼者ヨハネの元に行きます。そして洗礼を授けてくれるように願い出ます。しかし洗礼者ヨハネは、この申し出を断ります。なぜなら彼は目の前に立っている、この方こそ、神の子でありメシアだと、神から悟らされていたからです。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」洗礼者ヨハネは思い止まらせようとします。しかしイエス様は「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言って洗礼をお受けになるのです。イエス様はヨルダン川に全身を沈められ、洗礼をお受けになります。そして水の中から上がられるとすぐ「天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」と聖書には書かれています。
イエス様がこの時に見た情景を思い浮かべるなら、それはこの世にあって最も美しい光景だと思えるのです。
鳥は地面に着地する時、それまで身体の内側にしまい込んできた羽根を全て風に向かって立てます。そうして翼を大きく広げ、風を受けとめ、一気に速度を落とし、地面に降り立つのです。私たちはこの瞬間に、躍動的で最も美しい鳥の姿を見る事ができます。そして雨上がりの空を覆っている厚い雲の間から一条の光が差し込む光景、ヤコブの梯子と呼ばれる光の筋もまた、神々しく美しい地上の姿です。
洗礼を受けること、それは私が神に手を差し出すのではなく、神から差し出される手を掴み、ギュッと握ることです。その時、闇に満たされていた魂に光が差し込み、本当の平安と知恵が与えられます。知恵とは神を知ることです。

牧師室から №7

2018/5/13

次週主日の20日はペンテコステ礼拝をまもります。このペンテコステとはユダヤ教に於いて過越祭の50日後に祝われる祭日であり、春に得られる最初の収穫に感謝する農業祭です。なぜこの日がキリスト教の祝祭日になったのか、というと、このペンテコステの日に使徒たちに聖霊が降ったからです。
主イエスは復活され四十日に渡って弟子たちと共に過ごされ後、天に昇られます。それから十日後、使徒と主イエスの母、兄弟たち、従っていた女性たちが集まって祈っていると、その部屋の中に激しい風の様な音が響きわたります。そして天から炎のような舌が一人ひとりの上に分かれて降ります。使徒たちはその聖霊を受け満たされて、様々な国の言葉で語り始めるのです。
その時、エルサレムには地中海の全域に離散して生活していたユダヤ人たちが祭りを祝うために上って来ていました。彼らは使徒たちがそれぞれ自分たちの地域の言葉で福音を語っているのを聞いて驚きます。ペトロは彼らに、主イエスの十字架と復活の意味について説くのです。「主イエスは復活された、私たちの罪は拭われた」と伝えます。その言葉を聞き信じた多くの者たちは洗礼を受け、使徒たちのグループに加わりました。
この使徒の働きによって全世界に教会が作られ、今日の教会へと信仰は継承されました。ですから私たちは、このペンテコステを私たちの教会の誕生日として祝うのです。

牧師室から №6

2018/5/6

エジプトのカイロにギザの大ピラミッドと呼ばれる巨大な建造物が在ります。これは紀元前2650年頃にエジプト第四王朝のファラオ、クフ王の墳墓として建てられたと伝えられています。その高さは150㍍ほど、一つ2.5トンの石灰岩を270万個積み上げて作られています。実際見上げてみると、まるで丘のようなその形象は圧巻の一言に尽きます。なぜこのような巨大な墓が作られたか、一説には農閑期の公共事業だった、とも言われていますが、それでもファラオの執念、つまり自らの命が永遠に続く願いを具現化した構造物である事は否定できないのだと思います。
永遠の命について、たぶん誰も自らが永遠に生き続ける事を望んではいないと思います。なぜなら、私たちのこの世の命は喜びと同等に苦痛もあると知っているからです。しかし私たちは、やはり恐れを抱くのです。自分がこの世に生きた記憶と記録、関係性、資産を手放すことを。それより自らの存在が霧散する事を耐えがたく感じるのです。
しかし主イエスは永遠の命に至る道を示されます。つまり、その道を行くなら、あなたは死に依っても何も損なわれないと話されます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」では、この御言葉は何を私たちに明らかにしているでしょうか。次週、共に聴きましょう。

牧師室から №5

2018/4/29

次週の礼拝にはヨハネ福音書16:12-24が与えられます。この時、主イエスは自らに十字架での苦難が迫った事を悟り、最後の言葉を弟子たちに残されます。つまり遺言を残されるのです。特に16章では、ご自身が去った後の教会に於いてあなた方は迫害に晒されると話します。しかし、その迫害は偶発的な出来事ではなく、この世の利害や関連の結果でもない。逆にその迫害こそ、“神がこの世を救う計画の始め”だと話されるのです。その迫害によって天への望みが壊されるのではないから、失望せず光を失わないように、信仰に留まり続けること。さらに「その苦しみは産みの苦しみであり苦しみは必ず喜びに変わる」と約束されるのです。加えて主イエスは弟子たちに、ご自分が天に戻られた後にもあなた方を孤立させない「真理の霊」をあなた方の間に遣わす、と話されます。
私たちはその方を「聖霊」と呼びます。聖霊という存在について、目に見えるモノを尊重する物質主義の価値観に首までどっぷり浸かって生きる私たちは「霊」という言葉に違和感や拒絶感を覚えるのです。なにかペテンに掛けられるような、誤魔化されているような不快感をおぼえてしまう。でも、そうではありません。主イエスが話される「聖霊」とは、私たちの内に与えられる主イエスの霊です。彼は私たちに神の御言葉を咀嚼して与えます。私たちは聖霊の助け無しに聖書を読むことも祈り事もできません。私たちの信仰を支え助ける方として、聖霊は働くのです。

牧師室から №4

2018/4/22

先週、桑名教会定期総会が行われ、すべての議案が協議され承認、可決されました。新しい2018年度を主と共に、また教会に集う皆様と共に歩めること、心より感謝します。

さて、その中で、私たちの教会は今年度の主題聖句を詩篇23篇の言葉「主は我が牧者なり」としました。この御言葉について、若干の説明をさせていただきます。先ずこの牧者ですが、「牧場で牛や馬の世話をする人」という意味の言葉です。でも、この詩篇の言い表しているところの牧者とは「羊飼い」の事です。つまり、神は私たちにとって羊飼いの様な存在であると、この詩は謳うのです。
羊飼いは自分の羊を一匹一匹覚えて、その名前を呼んで柵から連れ出します。羊も自分の羊飼いの声を知っていて、呼ぶ声に従います。そして羊は羊飼いに導かれて牧場に辿り着き草を食み、水場で水を飲みます。羊は試みられることも労苦する事も無く、すべて必要なモノを必要なだけ与えられます。しかしその関係は牧歌的なだけではありません。羊飼いは羊を盗むために忍び寄る盗人と命がけで闘い、野の獣を追い払います。群れからはぐれた羊を探し、崖に向かう群れを鞭で押しとどめ、毒草を食もうとする羊を杖で叩くのです。その様にして羊は守られ、夕べにはまた家へと帰るのです。
詩篇の歌い手は、この詩の中に、神からの恵みと祝福だけではなく、私たちが与えられる痛みの意味をも織り込みます。私たちが与えられる痛みもまた主の愛の業であると、謳うのです。
次週(4/29)の礼拝では「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」という御言葉が与えられています。私たちはどこに“帰属する民”なのか、共に御言葉に聴いていきたいと思います。

牧師室から №3

2018/4/15

次週22日の主日礼拝には、ヨハネ福音書13:31-35の御言葉が与えられています。この場面は最後の晩餐の最中であり、弟子の一人ユダが主イエスを裏切り、その場から出ていった後の事です。
ユダが裏切った事について、その場にいた他の弟子たちは何が起こったのか気付けないのです。しかし主イエスだけはユダの心を知り、それでもユダを送り出されます。この時、主イエスは自らの受難が始まった事を悟るのです。
そして弟子たちに新しい掟を教えます。それは「互いに愛し合いなさい」という言葉です。その言葉によってモーセの十戒は補完されます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(MAT05:17)
言葉は愛を加えることによって完成します。逆に愛の無い言葉は不完全です。その言葉は相手を損なうものとなります。では、どうやって言葉に愛を加えるのか、共に聞きましょう。

牧師室から №2

2018/4/8

今週の礼拝後から、役員会の承認を経て、受付に説教全文を印刷して置くことになりました。この説教プリントの目的は二つあります。一つは説教中に聞き漏らしたこと、聞き取りにくかったこと、よく解らなかった事を読み返す為です。もう一つは持ち帰って、ご家族、ご友人、関心のある方に手渡していただくためです。是非、伝道のアイテムとしてもご活用ください。
只、説教全文と言っても、講壇の上で即興でアレンジした言葉は反映されませんので、完全版という訳ではありません。それに、そもそも礼拝説教とは、聖日の礼拝という場で話し手と聞き手が共に神を見上げ祈る場にあって、即時的に与えられる恵みです。印刷された説教を残滓とまで言いませんが、あくまでもガイド程度の感覚で読んでいただければ幸いです。
もう一つ、この「牧師室から」に関してです。この貴重な囲み欄をどの様に使うか、ですが、教会として可及的速やかに意思の疎通を図らなければならない課題が与えられない限り、次週礼拝に与えられる聖書箇所の黙想を載せたいと考えています。映画や芝居の予告編のように、です。多少、右往左往すると思いますが、のんびりとお付き合いいただければ幸いです。

牧師室から №1  2018/4/1

主の平和がありますように。
はじめまして、私の名前は辻 秀治(つじ しゅうじ)ともうします。出身地は東京都日野市、キリスト者の両親に連れられ、幼い頃から日本キリスト教団日野台教会に通いました。その後、教会学校や中高科のキャンプで育てられ、社会人経験を経た後、東京神学大学に入ります。学部三年に辻順子(今は鳴海教会牧師)と結婚、神学生時代は千歳船橋教会、伝道師となってからは藤沢教会で奉仕させていただきました。按手を受け牧師となって下谷教会の招聘を受け七年間主任教師、主任を順子牧師と交代し計十三年勤めました。
前任地の下谷教会を辞するにあたって、三宅島伝道所での復興伝道の召命が与えられ、三年間単身三宅島で生活しました。三宅島では1983年の噴火で会堂・牧師館が焼失し、四十年近く、月に一度本土から牧師を迎えて礼拝を献げる、という状況が続いていました。更に2000年の噴火で全島避難が行われ教会員の殆どが離島されました。そこで、神は私に「三宅島で毎週の礼拝を守ること」という平易な召命を与えられました。とはいえ、信徒四人の群れ、礼拝出席も自分を含めて二人から四人ですので生活は自分で整えなければなりません。でも神は、ただ召命を与えるだけではなく、揃いで生活の手段も与えて下さる方です。幸いにも大型自動車、建設機械、コンクリート技士、コンクリート診断士の免許が与えられ、月曜日から土曜日まで建築会社で作業員の一人として働く事が許され、日曜日には旧民宿かまかわの広間で礼拝を守り説教奉仕をさせていただきました。住居も本土には祈りに覚えて下さる仲間も与えられ「主の山に備えあり」でした。
三宅島の人口は現在2600人ほどと言われています。ですから殆どみんな顔なじみです。「島の噂話はツイッターより早い」という環境下で「キリスト教の牧師」という私の立場は直ぐに知れ渡りました。では浄土宗が強く海を神格化するお祭り共同体の島の風土の中で、私は排斥されたのか、というと、そうではありませんでした。逆に世間ではキリスト教は信頼されていること(キチッとしている、品が良いと言う印象)を実感させられました。でも、それが逆に教会の敷居を高くしているとも思わされました。(島での伝道に付いては追々お話しします。)自分の行ける範囲に教会があり、会堂があり礼拝を献げられることを「当たりまえ?」と思われるかもしれませんが、それこそが神からの最高の恵みなのだと実感させられました。
さて、私は次の召命に従って桑名教会での牧会を勤めさせていただきます。神の家族として、共に祈り支え励まし合い、主を礼拝しましょう。よろしくお願いいたします。人の思いは断たれても、主の為さる事は必ず為ります。大丈夫です。