牧師室から

牧師室から №55

小学校の校庭で友だちと遊んでいたときの事です。私たちはどこからか細やかに聞こえる子猫の鳴き声に気づきました。その声は途切れなく続いているのですが、姿を見つけることができません。草陰にも排水溝の中にもいません。その時、友だちの一人が木の上で脅えて丸まっている黒い子猫を見つけました。職員室に行って事情を話すと、すぐに用務員さんが長い脚立を持ってきて木に登りはじめます。彼は子猫に手を差し出しました。しかし子猫は抵抗するのです。その手を引っ掻き齧り付き、ついに捕らえられ木から下ろされました。腕の中の子猫は安堵するのではなく、激しく用務員さんの手を振りほどき、跳ねるように地面に着地し、そのまま全力で逃げて行きました。
この出来事はイースターの意味を示唆的に表しています。
神が創造したアダムとエバは神に離反し園を追放されます。故郷に帰る道を閉ざされた彼らは望郷の思いを抱きつつ、この世で生きることになります。そして彼らの子孫もいつか天に帰る事を望みつつ、この世を歩むのです。しかし神との断絶は続いているので死の後も天に帰ることはできず、いつかメシアが現れ神との和解が成立する時まで、陰府に寝かされ続けます。
そしてついにメシアが現れます。メシアは自らを犠牲となり、十字架に架かり、死に陰府に下ります。肉体を持ったまま陰府には下れないからです。そして陰府に暗黒の陰府を光で照らし寝かされている全ての者たちは天に送ります。そのあと肉体を以てこの世に現れます。今生きている者たちに直接、神との和解を伝えるためです。最後に天に上げられます。これから生きる者たちを天に迎えるためです。復活は天への道の復旧です。

牧師室から №54

この「牧師室から」も一年間書き続けることができ、今回で一巡りしました。たった六百字されど六百字。この文字数のコラムでどうやって信仰のエッセンスを薫らせるか、次週の主日礼拝説教に少しでも興味を持ってもらえるかガイドになるか。なにより多様な御言葉について新しい視点と発見を与えられるか、を考えて書いてきました。少しでもお目汚しになっていたなら、幸いです。
さて、そんな大切な「牧師室から」を「病室から」書いています。今まで病名が確定できてなかったので、教会員の皆さまに報告することが出来ませんでしたが、私の病名が確定しました。好酸球性多発血管炎性肉芽腫症(EGPA)で指定難病です。難病と言っても原因が解明されていないから難病で、治療方法は確立していますし、新薬も開発されていますし伝染もしません。ご安心下さい。簡単に言うと血液の免疫機能障害です。
イエス様は「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。」(マタイ12:26)と話されましたが、それが私の身体の中で起こっている、という事です。敵が特定できたので、少々時間は掛かりますが後は治療するだけです。お祈り感謝です。

牧師室から №53

伊豆諸島の八丈島には直径三十㎝ほどの饅頭のような玉石を積み上げた玉石垣という石垣があります。数十mに渡って整然と苔むした玉石が並べられている情景は感慨深いものがあります。この島は昔から定期的に台風が上陸する地域で、暴風雨から住居を守る為に家の周りを頑丈な玉石垣で巡らし椿や椎の常緑広葉樹を植えて防風林としてきました。この玉石は横間が浦という海岸から運ばれたもので、島に流された流人たちが玉石一つを運ぶと握り飯一つをもらえる、流人が島に馴染むまでの公共事業としての役割があった、と言われています。

この玉石垣は特殊な六方積みという手法で作られています。一つの石の周りに均等に六つの同じサイズの石を組むことによって支点に掛かる荷重を均等に分散させ頑丈に石が組み上げられます。でも切石を組んで石垣を積むときには、全く逆の発想になります。まず隅の親石を据えて、その親石に縦面と横面に組み上げられる切石の全ての荷重を集中させるように組み上げていくのです。するとアーチ構造のように石と石とが自重で他の石に食い込み強固な構造体となります。隅の親石は全ての荷重を支える支点であり起点です。神の救いも主イエスを隅の親石として、此処を起点として組み上げられます。

牧師室から №52

私が子供の頃住んでいた東京多摩地区の日野市にはまだ大きな雑木林が幾つもあり、学校から帰った後の遊び場になっていました。夏には蝉を捕り秋にはドングリを拾い、小川ではザリガニを釣り仲間と建設現場やゴミの集積所から集めてきた廃材を使って秘密基地を作る、そんな普通の小学生の生活を送っていました。でも、未だに強く思い出すのはある日の秋の夕方の出来事です。その雑木林の奥に小さな祠がありました。いつもきれいに掃き清められていて、榊も紙垂も時々清酒も備えられていたので、今にして思えば、誰かが定期的に世話をしていたのだろうと思えます。その場所は仲間内でも何か神聖な場所として捉えられていて、近づかない、汚さない、悪戯しないという不文律が出来ていました。そんなある日、もう日が沈みかけてきて、家に帰ろうとなりました。私はみんなと別れて一人帰り道、その祠の前を通りました。その時、風が吹きました。「サラサラ」と鳴っていた葉擦れの音が突然「ザザザー、ザザザー」と大きく響き、その音が、沢山の人が会話する声に聞こえました。何を話しているのか、その声は解りませんが、でも確かに何人もの人が会話する声を、私は聴きました。未だにあの音は何だったのかと、時々思うのです。
人は音を聞いて、その音が雑音か音声かを識別し、音声であるならその内容を形態素解析し、個々の単語や文節を自分の経験や知識、感覚を使って理解します。加えて同じ経験を長い時間共有している者同士の方が、使う単語のニュアンスを多く共有しているので、会話による相互理解度が高くなります。
さてタボル山でペトロは深い霧の中からどんな声を聴いたのでしょうか。彼の信仰は何を見、何を聴いたのでしょうか

牧師室から №51

古典物理学ですが、ニュートンの運動法則の三番目に「作用・反作用の法則」があります。例えばロケットは燃焼室に液体水素と液体酸素を送り込み反応させ三千度もの燃焼ガスを作り地面に噴射し、その反動を推進力にして宇宙に飛び出します。「後ろに何かを捨てないと、前には進めない」という、なにか少し格好の良いセリフとしても使える物理法則です。
でも私たちは捨てられません。捨てられたら楽なのに、と思いつつも、多くのモノを背負って生きています。社会的な責任とか立場とか、血縁とか仕事とか、資産とか習慣とか風習とか。受け継いだもの、努力と忍耐を重ねて今まで積み上げてきたもの。また簡単に手放してしまったなら、周辺に多大な迷惑を掛ける事となります。傷つく人や悲しむ人を作ってしまうのです。
ですから信仰も、何処か中途半端な感覚に留まってしまうのです。この世の思い煩いに心を揺らされて、祈りに集中する事が出来ない。右足に教会を履いて左足にはこの世を履いているようなアンバランスな感覚を受けている。いっそ人里離れた修道院にでも入って、世俗との関わりを一切遮断して生きることができるなら、もっと信仰深く熱心にイエスさまの後を従うことが出来るのだけど、と思いつつ現実に埋没していくのです。
ではイエスさまは弟子達に、全てを断ち切ってから自分に従いなさい、と話したのでしょうか。イエスさまは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と弟子達に話されます。病気が治ったら従います、とか、聖書が完全に分かったら従います、とか、信仰に自信がついたら…ではありません。柵をも蟠りをも引きずったまま「そのままで従いなさい」と話されているのです。

牧師室から №50

引越をするとき、本棚とかテーブルを一度バラして木板状にしてまとめ、運び、また現地で組み立てるという作業をする事があります。この時、木ねじやボルトなどの金具を無くさない方法は、その金具を元々刺さっていた穴に戻して借り止めしておくことです。そうすれば金具が無くなる事も無いし、どのネジで何処を締めれば良いのか分からなく為る事もありません。空いたネジ穴をそのまま空けておくのではなく、詰めておけば、別の何かに占有されることはないのです。
さて、次主日に与えられます御言葉には悪霊を追い出されるイエスさまの姿が描かれています。多くの群衆はその姿を見て驚嘆しその業が神から与えられた良い業であるとして受け入れます。しかしその一方でイエスさまを悪霊の頭であると断言する者たちも表れます。悪霊の力で悪霊を追い出している、と彼らはイエスさまを非難するのです。でも、どんな権威と業でその人の心が清められたのか、イエスさまにとって、どちらでも良い事なのです。その後のことが大事だからです。
私たちは「自分の中心には自分がいる」と考えます。自律し主張し判断する、それが自分だと考えるのです。でも自分の思い描いている「自分」という存在は、とても曖昧なのです。他者との関係性や時代の主義主張、思想、環境によって簡単に着色されてしまいます。そうして、自分が誰なのか分からなくなり、この世に振り回されるのです。しまいには、この世に心を奪われて神を仰げなくなる。イエスさまは清められた心を空白のままに空けておくのではなく、そこに聖霊が住まわれる様に祈り求めなさいと話されます。そうすれば、この世の様々な価値観から解放され自由にされる、と話すのです。

牧師室から №49

以前、ある婦人の家を訪ねたときの事です。「では帰りますね」と私はお祈りをしました。その祈りに続けて彼女が祈り始めました。その祈りは教会員そして求道者、全員の名前を挙げた祈りでした。暗唱であることからそれが毎日の祈りだと分かりました。私は「教会はこの祈りに支えられていた」と思わされました。2018年の桑名礼拝を共に守られた方、教会に繋がっている方々の名前です。一人ひとりを覚えてお祈り下さい。

新井陽子、池田洋子、石川雅己、石川淳子、石丸万理子、伊藤研司、伊藤隆之、伊東千代子、伊藤真理子、伊藤いづみ、井上したふ、今村佳代子、宇佐美佐代子、大森恵、大森啓、岡智子、岡島伸明、岡本志ゆう子、小澤悦子、掛樋裕理、加藤明子、加藤陽子、加藤勲、角田由美子、兼古節子、神鳥蓉子、北岡美佐子、北岡美智子、北川瑠夏、國枝洋子、倉地喜美子、小粥トミエ、後藤豊、坂井真佐子、坂本重勝、坂本千尋、佐々木牧夫、佐々木尚子、佐脇朋子、清水桃子、清水博、瀬尾緑、相馬弘徳、祖父江江美子、祖父江洋子、塩津基樹、高井淳一、寺尾雅子、富谷千里、内藤明子、中村浩、中村友理、西澤久美子、西裕、西村善久、沼育子、野澤正史、野澤万喜子、長谷川清、長谷川ミヨ子、平野照子、平屋敷恒子、二川敏子、三浦小浪、水谷カヲル、水谷富子、宮島コウ、宮林まゆみ、南吉衞、村田美奈子、望月悦子、望月和昶、森信子、森勅子、安田義人、安田香織、矢田喜代子、山本一雄、山本めぐみ、脇山陽子、渡邊信子、和波春子、近藤雅一、鈴木勇人、鈴木安菜、伊藤たま子、伊藤由美子、岡田なるみ、熊谷望祈、李鍾徳、鈴木孝二、小寺甫明、清水直人、清水容子、武村理雪、箕田和江、橋本文子、邑田百子、成島弘一郎、安政動、安宥毎、大村徹、石原潤、石原郁子、川崎住代、辻久子、平石昌子、康路加、李春、李敏子、劉湘雲、鈴木和子、石原愼、赤塚妙子、水谷真理、後藤共子、日紫喜勇、日紫喜求、渡辺克寛、渡辺実香、日紫喜望、山本収、山本久代、加納眞理子、岡田昌也、岡田知也、岡田芳郎、後藤恵、浜田与志子、伊藤由美子、伊藤菊裡子、石原瞭、武田徹、太田一郎、土井えみ子、武田洋子、安藤哲雄、安藤ゆり、伊那均志、今村洋一、伊藤ひかり、坂井セバスチャン、坂井なお子、遠藤栄子、遠藤幹子、中村将也、山岡亜希、花村光、伊藤綾俊、山岡浩司、山岡聖恵、赤尾恵。 (計153名)

牧師室から №48

先日、教会の前をスケートボードに乗って通り過ぎていく中学生(たぶん)がいました。彼はバックパックを背負い耳にはヘットホンを掛け、スマートホンの画面をフリックしながら、目の前を右から左へスーと平行移動して行ったのです。私は「よくバランスを崩さないな」と感心して眺めていました。その時、ふと「私でも乗れるかな」という考えが浮びました。でも瞬時に、その思いは「無理」という言葉に打ち消されました。
でもなぜ私はすぐに「無理」と考えたのでしょうか。もし本当にスケートボートに乗りたいのなら、十分に時間を掛けて準備をすればどうにかなる、かもしれなかったのです。トレーニングを重ねれば一年後か二年後には乗れるようになっていた、かもしれません。それどころか天才的な能力が開花してスケートボードに選手として2020年のオリンピック競技に出場する事になっていた、かもしれなかったのです。でも私は始める前に「無理」と考え、すべての可能性を放棄しました。
五千人の空腹を覚えている群衆を前にして、イエス様は弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と話されます。弟子たちはどう考えたのか。弟子たちの頭には瞬時に「無理」という言葉が浮かんだのだと思います。「先生、私たちは沢山の食べ物を持っていません、こんなに多くの者たちの空腹を満たす事など不可能です。」ではイエス様は、何故こんな無茶な事を弟子たちに命じられたのでしょうか。それは弟子たちに「人にできない事でも神にはできる」と、教えるためです。「私」が何をどれだけ持っているか、ではなく「神が望まれるなら為されないことはない」のです。否定からではなく肯定から考え始めること。失敗してもやり直せば良いのです

牧師室から №47

2019/2/17
屋根は建物の野外と室内を隔てる重要な部分です。でも単に雨風を防ぎ日射を避けられれば良いというわけではなく室内空間を快適な環境に保つ工夫が必要です。以前、トタン張り屋根の部屋で生活したことがあります。この部屋では雨が降ると会話ができない程うるさく音が響きました。さらに日中になると日射で屋根が暖まり夜になっても室内はオーブン状態でした。もう一つ、台風が上陸したとき、生きた心地がしませんでした。トタンが風に煽られてバタバタギシギシと踊るからです。
日本の多彩な自然環境にあって木造家屋の屋根は高度に進化してきました。大量の雨が降り季節が代わり、定期的に地震や台風に襲われる為です。でも聖書に描かれているパレスチナの地域は砂漠気候なので、そこまで屋根に対して神経質になる必要はありません。降雨が少なく台風もなく、昼間の激しい日射を避けられれば十分だからです。ですから一般庶民の住宅は四隅に日干し煉瓦や石を積み囲み、屋根は渡した板の上に棕櫚の葉を被せるだけの簡素な様式だっただろうと考えられています。また礼拝施設や公共施設など人が集まる広い部屋でも、せいぜい板張り屋根や瓦張り屋根が用いられる程度でした。
さて次週の御言葉の場面です。数人の男たちが一人の中風を患っている人を主イエスの前に運ぶために、部屋の屋根に上り、屋根に張ってある瓦をはがし始めた、と書かれています。彼らは屋根に大きな穴を開けます。それは家の中も外も主イエスを一目見ようと押し寄せて来た群衆に埋め尽くされていて近づけなかったためです。彼らは非常識な手段を取ります。でも主イエスはそれを良しとされました。誰になんと言われようとも、思われようとも、彼らは一番大事な事を優先したからです。

牧師室から №46

2019/2/10
建物を建てるとき、まず最初に行われるのは敷地の測量です。地面の傾斜や勾配、境界線を計り測量図に落としこみます。そうして建築図面が書かれ建築作業工程表が組まれて施工が始まります。その最初の作業は整地です。基礎を打つ前に重機を使って地面を1.5m程度掘り返し、全体の土壌を混ぜた後に振動ローラーを使って押し戻し、土壌の土性を均一にします。そうしないと、折角ベタ基礎を打っても不同沈下が生じ建物が傾いてしまうからです。さらに軟弱な地盤や傾斜地、マンションなどの高層建築を建てる場合はコンクリートパイル(髙強度PC杭)を地面に打ち込む杭基礎工事が加えられます。上物を建てた後には隠れてしまう基礎ですが、適切に作られていなければ、どんなに堅牢な建築物が組まれても脆い物になるのです。

私たちの信仰も同様です。その基礎が堅牢でなければ、どんなに尊い働きをしたとしても、この世の評価や賞賛の重みが加えられるほどに傾いてしまうのです。信仰が捻れ歪むのです。
では信仰の基礎とはなにか、というと、信仰が自分自身の魂に深く根を張っている、ということです。でもそれは難しい事ではありません。毎日少しでも聖書を読むこと。いつも祈る事、自分にとって都合の良いこと、悪いこと全てに感謝の祈りを捧げる事です。聖書にはこう書かれています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(1テモテ5:18)さらには愛を以てトナリビトに声をかける事。自分の凝り固まった考えを相手に押し付けるのではなく、相手の言葉にならない声に耳を傾けること。私たちは主に習い、見えない所こそ丁寧に関わっていくのです。

牧師室から №45

2019/2/3
私たちが集中を継続できる時間は個人差はありますが、ほぼ九十分だと言われています。ですから九十分間活動して休憩をとって、また作業を再開するというサイクルが一番効率の良い働き方なのだそうです。
「休む」という事について、どちらかと言うと私たちは否定的な印象を持っています。怠けているとか、サボっているとか、その様な印象です。でも私たちの脳は、自覚的に何かを考えている時も、ボーとしている時(アイドリング状態)も、同じように活発に働いています。逆にボーとしている時に、無意識下で自律的にそれまで取り込んだ情報を整理したり分類したりという作業をしているのだそうです。「私が何かを考えていない時に、私は何かを考えている。」という、少々分かり難い複雑な事を、私たちは毎日当たり前の様に行っているのです。

さて、休むということについて。聖書は安息日について厳格な規定を定めています。「あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作の時にも、収穫の時にも、仕事をやめねばならない。」(出エジプト34:21)。また家畜も安息日には休ませなければならないと、聖書には定められています。何故、安息日が定められているのか、というと、それは神が天地創造に於いて七日目に休まれたからです。神は七日目に休息され、その日を聖別し祝福されました。ですから私たちも日曜日は、この世の働きの手を止めて、神に属する者として神から聖別され祝福を受ける、つまり礼拝を捧げるのです。礼拝という休息に於いて私たちは自らの内に神を招き委ねるのです。そうすれば私に内にあって働かれます。私たちの負っているこの世の課題も聖霊に拠って整理され分類されるのです。

牧師室から №44

2019/1/27
最近のワイン売り場には、多種多様なワインが並べられています。そして、それぞれに趣向を凝らしたラベルが貼られています。そのデザインを見ているだけでも十分に楽しめるのですが、さらに面白いのは産地の多様性です。以前はフランスのボルドーとかドイツのモーゼル、いわゆるヨーロッパ圏のワインが一般的でした。でも最近はカリフォルニア、オーストラリア、チリ、アルゼンチン、南アフリカ、日本といったワイン後進国から出荷されたワインが安く流通し始めています。でも安いからと侮るなかれチリ産の赤フルボディはとても美味しいです。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」とイエス様は話されます。何故、新しい葡萄酒は新しい革袋に入れなければならないのか、というと、新しい葡萄酒はまだ葡萄の糖分がアルコール発酵し切ってないので活発に炭酸ガスを発生させます。なので密閉した革袋は新しいものでないと強度が得られず革袋は破けます。当然、中に入っている葡萄酒は地面にこぼれ落ち、駄目になってしまうのです。では新しい革袋なら強度があって万全かというと、そうでありません。新しい革袋にはまだ強い革の匂いが残っています。中に入れた葡萄酒にも匂いが移ります。ですから瓶で時間を掛けて良い具合に寝かせた後の発酵を終えた葡萄酒は古い革袋に入れるのです。そうすることによって、葡萄酒の良い香りは保たれるからです。
ルカ福音書5章33節以下には主イエスの伝道の初めの出来事が記されています。人々は主イエスの言葉を新しい教えだと受け取りますが、そうでは無いのです。イエス様は形骸化したユダヤ教の礼拝を改新されるのではなく、本来の意味を回復されたのです。残すべき物は残し変えるべき物は変える、です。

牧師室から №43

2019/1/20

インドのアウランガーバードから北西へ二十㎞ほど行った所にエローラ石窟寺院群という遺跡があります。五世紀から十世紀の間に作られた、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の複合寺院群で三十四の石窟によって構成されています。この第十六窟にカイラサナータ寺院があります。この巨大な寺院は石を積み上げて作られたものではなく、当時の石工がノミやタガネを槌で叩き1枚の岩をくり抜いて、つまり彫り物として作られた寺院です。その入り口に掲げられた看板には、「この建物は百年、三世代の石工によって完成された」と記されていました。私がこの寺院を前にして感じたのは、時の重みでした。一人の子どもが毎日、父親の仕事場、まだ掘り始められたばかりの一枚岩に弁当を届けます。やがて、この子どもも父の隣でノミを打ち始めます。カンカンと甲高くも重い音が心地よく響く現場に彼は毎日通い働き、そのうちに妻を迎え、彼にも子どもが与えられます。そうして、その子どもも父の仕事場であるこの石窟に弁当を届けます。最初にノミを打ち込んだ石工の孫が老齢になり仕事を終えた時に、この寺院は完成したのです。

私たちは目に見えて手に取る事ができる物、量を数値化できる事柄を信頼し価値を見いだします。つまり目の前の巨大な石窟寺院をみて驚嘆するのです。でも私たちが本当に目を留めるべきは背後にある物語なのだと、そう思わされました。主イエスは二枚のレプトン銅貨を捧げた寡婦を見て、この女性が最も多く捧げた、と弟子たちに話されました。目に見えて計ることの出来る価値ではなく、目に見えない本当の価値を見るセンスを、私たちは信仰によって与えられるのです。

牧師室から №42

2019/1/13

親心子知らず、子の心親知らず。という諺があります。近しい相手との親密な関係性が築かれると、かえって互いの心を計り難くなる、という意味です。何故そんな事になるのか、というと、関係が緊密であるが故に、相手と自分の心理境界線が曖昧になり、相手を自分と同一の存在だと誤解してしまうからです。となると相手も自分と同じ意見、同じ趣向、同じ価値観で行動していると思い込む事となる。でも人はそれぞれが独立した一己の存在です。同じではありません。個々人が相互理解を進めるためには会話を交わすとか、共に活動するというプロセスが必要です。でも親しさと思い込み、相手に対する甘えがそのプロセスを阻害してしまうのです。結果、自分と相手の間に大きな意見の相違が生じたとしても補正が利かなくなってしまいます。故に問題が起きた時には手遅れになっているのです。
そもそも神はこの世を創るときに「人々」を創造されたのではなく「アダム」を創造されたと聖書には書かれています。神は一人ひとりを独立した存在として創造されました。意見も違い価値観も違って当然、私たちはバラバラで良いのです。でも、それを踏まえて神は私たちに一致する手段を託されました。それが「愛」です(所有や従属、強制ではなく)。人と人は同一の考えを持つことが前提ではなく意見を交わし合い最も良い解決を模索するのです。その根底に愛と信頼を置くのです。

牧師室から №41

2019/1/6

主の年(AnnoDomini) 2019年が始まりました。私たちは共に、主の招きを受けた者たちとして堅実に礼拝を守り、主の働かれる伝道の歩みに用いられてまいりましょう。

さて沢山の物の中から求めているモノを見つける作業は結構、面倒です。年末の片付けをしていて、金具を締めるボルトが一本必要になりました。そこでまとめてあったボルトの中から、径とピッチと長さがちょうど良いモノを探したのです。でもなかなか見つかりません。ホームセンターに行こうかと諦めかけた時に、工具箱の底に落ちていたボルトがちょうど合うものだったので、事なきを得ました。必要ないと脇に寄せられたモノでも、別の状況ではそれがなければ成り立たなくなる、そんな事態は度々あります。全て存在や出来事には意味があるのです。

次聖日に与えられる御言葉に描かれているシモン・ペトロはゲネサレト湖の漁師です。当時の一般的な習慣では親の職業を子が継ぐ事になっていたので、ペトロの父も漁師であり、彼自身も子どもの頃から湖に出て仕事を手伝っていたと考えられます。不安定な舟の上から重い投網を投げる作業を繰り返すその腕や足腰は太く引き締まり、顔は真っ黒に日焼けしていたことでしょう。そのペトロに主イエスは従うように、と声を掛け、後には伝道者としての働きを託します。聖書に描かれるペトロは学識もなく話術も稚拙、社交性も乏しい人物です。人を教え導く役割は不適任に思えるのです。でもペトロじゃなければダメだったのです。伝道は相手を折伏する働きではなく自分の心が見た事実をそのままに伝える働きです。素直で正直なペトロは神に用いられ、彼を土台にして後に教会が建つのです。

牧師室から №40

2018/12/30

もうすぐ2018年が終わり2019年が始まります。でも物理的には一年の切り替わる瞬間に、何か大きなイベントが起こるわけではなく日常は淡々と継続します。時の歯車は遅延・前倒なく規則的に神の創られた自然律に従って刻まれます。とはいえ精神的には、私たちにとって年始は気持ちを切り替える好機です。ですから「書き初め」に新年の抱負を記したり、おせち料理に願いを託したり、新年に希望を馳せるのです。

ちなみに教会の暦に於いて一月一日は「イエスの命名日」となります。律法には「産まれた男児は八日目に割礼を受けなければならない」と定められています。ヨセフとマリアは赤子を抱えて祭司の所に行きます。そこで割礼が施され名前が付けられます。(ルカ2:21)新生児の死亡率が高かった時代にあって、この日から主イエスは人として数えられるのです。

時の転機について、聖書の出来事に於ける最も大きな転機は、やはり洗礼者ヨハネによる主イエスへの洗礼です。何故ならこの出来事を通して神はこの世との関わり方を変えられたからです。それまで神は預言者の口を通して御自分の思いをこの世に示しました。でも主イエスの伝道を始められて以降は直接この世と関わり触れられました。神はこの世を御自分の下に導くご計画を、私たちの成長に合わせて段階的に進められているように感じます。まだ柔らかい物しか食べられない者には柔らかい物を与え、固い物でも大丈夫となれば固い物を用意されるのです。神は私たちを成長させます。成長は変化です。時に変化は心と体を疲弊させますが、留まっていては勿体ないのです。

牧師室から №39

2018/12/23

現在、エジプトからイスラエルへ陸路で抜ける経路は一つしかありません。それはアカバ湾に面した国境の町、ターバを通ってイスラエルのエイラトに上る道です。私も今まで幾つかの国境越えを経験していますが、この国境にある出入国管理施設の右と左の差異には驚かされました。エジプト側はのんびりしていて、古いライフルを肩から掛けた軍人が笑い掛けてくるような雰囲気でしたが、イスラエル側に入ると途端に最新式の自動小銃を身体の正面に斜めがけした軍人が、引き金に指を掛けた状態で睨み付けてきました。これは中々に萎縮します。

もともとエジプト・イスラエル間には地中海側にもう一つの国境がありました。それはガザを経てイスラエルに入る経路です。産まれたばかりの主イエスを連れてエジプトに下ったヨセフとマリアは地中海沿いのルート、ガザ経由でエジプトに逃れたと考えられています。でも現在は紛争地域なので通行不能です。さらに主イエスを拝みに来た東方の占星術師たちも現在では主イエスにまみえることは不可能です。シリアからは、トルコ経由もレバノン経由も国境が閉鎖されているからです。

宇宙から見た地球には線は引かれていません。でも地図上には何本もの線が縦横無尽に引かれています。海の上にも線が引かれ空中にも線が引かれています。為政者たちは「あなたの資産を守る為に線を引いている」と主張します。でも本当にそうなのでしょうか。身分や経済の格差が生じている社会では、その格差を維持し既得権益を守るために、国粋主義が台頭し線引きされる線が濃く太くなる傾向があります。そして現在も同様の状況になりつつあります。平和を共に祈りましょう。

牧師室から №38

2018/12/16
キャッチャーのミット目がけてボールを投げるとき、どうすればコントロールが付くのか。小学校の頃、草野球のコーチにコツを教えてもらいました。それはボールが手を離れる瞬間に腕の力を抜く、という事でした。投球のモーションのあいだ、ずっと身体に力を入れているのではなく動きに緩急をつける。軸足を定めた後、反対の足を浮かしたときにまず力を抜き、そこから身体を前傾に倒しつつ、一気に腕を振り上げ、身体をねじりながら腕の筋肉に力を加えつつ振り下ろす。しかし指からボールが離れる半秒前に腕の力を抜く。するとボールは綺麗にミットの中に収まるのです。最初から最後まで力業で押し通すのではなく惰性に身を任せる事も大事。弛緩も必要。この姿勢は何事にも当てはまると思います。次週与えられる御言葉に描かれるマリアは主イエスの母として、おそらく世界で一番有名で尊敬されている女性です。でも彼女は自分から主体的に行動して世界を変えたとか、努力して未知なる物質や法則を発見したとか、そんな功績をなにも持っていません。逆に田舎の娘マリアを聖母マリアとして崇高の域まで押し上げている要因は、彼女が否定せず侮らず、天使の告知をただ素直に受け入れた事に依ります。マリアは神の言葉を受け入れるのです。ではマリアのその後の人生は安泰だったのかというと、そうではありません。過酷そのものです。世間の批判を振り切るように許婚のヨセフと共にベツレヘムに上り、その後命を狙われエジプトに逃れ、数年後にナザレに帰ってきて後にその息子イエスは十字架に掛けられ亡骸を受け取る事となるのです。しかし主はいつもマリアと共におられるのです。

牧師室から №37

2018/12/9
演劇を手伝っていたことがあります。演劇というと水物代表の様な仕事ですが、職業として演劇に携わっている人たちはみな強い意思と高い技術を持った堅実な方々ばかりでした。特に意外だったのは、派手ではなく地味な仕事だという事です。加えて待ち時間が長い。集団芸術ですからそれぞれが勝手に動いてはうまく進みません。演出、制作、役者、舞台、照明、音響、大道具、それぞれの分隊が歩調を合わせて演出家が差し示す方向に進んでいく。でも集中力を切らすことなく(途中で飽きてしまう事なく)各自がオリジナルの作風・流儀を作品に加味していきます。通常、演出家が製作や役者に声を掛ける所から始まり、そこから一年程の準備期間を経て公演に辿り着くこととなります。でも組み立てた芝居も本番は二時間ほどです。その二時間の為に何十人が一年以上を労するのです。
主イエスがこの地上にあって生きた時間は三十年ほどですが公生涯を過ごされた期間は最後の三年ほどです。でもたぶん正しく神の子として人々に認識されたのは十字架上で息を引き取るその瞬間だけでした(マルコ福音書15:39)。この一瞬が地上に現されるために費やされた準備の期間は如何ほどだったのか、神の為される事は私たちの想像を遙かに超えます。

牧師室から №36

2018/12/2

旧約聖書・新約聖書の「約」という字は「約束」を意味します。つまり聖書とは神と人との約束を記した書物という事です。その約束はとてもシンプルです。神はアブラハムとモーセに現れ話します。「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。」(出エジプト6:7)この約束を覚える為にユダヤ教の礼拝では犠牲が捧げられます。祭司は神殿に捧げられた初子の雄牛を真っ二つに裂き左右に置きます。人々はその間を通って神殿に進みます。こうして「もし私が神との契約を破ることがあれば、この雄牛の様に真っ二つに裂かれても構わない」という意思表明をするのです。この初子の雄牛は自分の身代わり、自分の命と同等の価値となります。
しかしユダヤの民は何度も何度も神との約束を反故にします。彼らは神ではなく王の民となり偶像を礼拝するのです。その度に神は預言者を介して人々に働きかけますが、人々は目を覆い耳を塞ぎます。そこで神は最後の手段(決定打)として主イエスをこの世に送られます。罪なき完全な犠牲の捧げ物として主イエスは十字架に架かり真っ二つに引き裂かれます。この主イエスの十字架を通って神と人は再契約(新約)を交わすのです。

「約束は守られる」と当然の様に信じている私たちは聖書に記されている「契約」という概念に疎いのかもしれません。馴れ合いと妥協「和を以て尊しとなす」が基調となっている日本という社会にあって約束や契約の意味合いは希薄なのです。しかし神は先に約束を守られました。アブラハムからの救いの約束は主イエスを通して成就したのです。私たちはその声に応じるか否か問われています。

牧師室から №35

2018/11/25

次週から教会の暦はアドベント(待降節)に入ります。桑名教会では礼拝堂に備えられたクリスマスクランツの蝋燭に毎週一つずつ灯を加えます。そしてクリスマスには四つの灯が点ります。玄関にはクリスマスツリーが置かれ今年は教会学校の子どもたちが焼いたクッキーで飾られます。この様にして私たちは四週の時期にイエス・キリストの降誕を迎える為の準備をします。でもこの時期、私たちはもっと大切な準備をします。目に見える準備ではなく目に見えない準備です。私たちは一人ひとり、それぞれの魂に主イエスを招く【準備】をするのです。

クリスマスとは(Christ)クライストのミサ(mass)に由来する言葉です。神の子がこの世に与えられたこと、この世に神が直接触れて下さった事に私たちは感謝を捧げる礼拝、それがクリスマスです。でも手放しに喜ばしい事なのかというと、そうでもないのです。神が目の前に来られるなら、この世に本物の神が明らかになります。つまり私たちは、もう各種偶像を追いかけることが出来なくなる。その結果、地位も名誉も財産も知恵も技術(という偶像)も、全て無価値な塵芥に変わるのです。(それらから解放される)クリスマスを祝うという事は、この世の全ての価値観が逆転する事を受け入れ喜ぶ事です。だから私たちは覚悟を以て準備をする必要があるのです。でも私たちより前に神は始められました。アドベント(advent)と同じ語源を持つ単語があります。それは「冒険」(adventure)です。「危険を伴うことを敢えてする」。冒険し挑戦するなら私たちを次の場所に到達します。「すべてが改まる時」私たちは神と共にワクワクする冒険へと共に進み出しましょう。

牧師室から №34

2018/11/18

私たちはそれぞれが自分にとっての寛げる場所を持っているのではないか、と思います。例えば自宅リビングの気に入った椅子とか、行き付けの喫茶店の窓際の席とか、近所の公園のテラスとか。私は、毎日の通勤の車の座席が一番くつろげます。誤解のないように付け加えるなら、家にも仕事場にも居場所がない、という訳ではありません。ただ鍋の中で丸くなるネコのように狭い空間に収まる方が落ち着くのです。

さて次週の御言葉に記されている楽園という言葉について、新約聖書はこの言葉を天国とは違う意味合いで使っています。そもそも「天国」という単語は273回使われているのに「楽園」は3回しか使われない事からも、この二つの単語の差異は歴然としています。ではどう違うのか。「天国」は空の上に浮かんだ光に包まれた場所、神の国というイメージです。それに対して「楽園」は公園もしくは庭園のイメージであり、究極的にはアダムとエバが追い出されたエデンとなります。つまり楽園とは、罪を負う前のヒトが神の保護下に置かれたまま不安も心配もなく、空腹も困難も苦しみもなく、幸いに寛いで生きる事のできる場所、ということです。アダムとエバは神に逆らい、知恵の実を食べてしまったが故に楽園を追放されます。ヒトはこうして神に逆らい背き目を逸らす傾向、つまり罪を負うこととなります。この罪によってヒトは様々な苦難や悲惨、隔絶、つまり痛みを負うことになりました。しかし神は悔い改め主イエスの方に振り向く者を、楽園に導かれます。全てのヒトは天国に招かれますが楽園を味わうことが出来るのは主イエスの弟子である信仰者だけなのです。

牧師室から №33

2018/11/11

主イエスが話された復活について、私たちは主イエスご自身が十字架に架かり三日目に復活された姿から想像する事ができます。主イエスは復活された後、弟子たちの所に現れます。エルサレムの部屋の一室に現れ、エマオへ下る道の途中で現れ、ガリラヤ湖の湖畔で現れるのです。その姿を見た弟子たちは、その方が主イエスだと分かったと、聖書には書かれています。

「見て」その人が誰だか分かる。私たちはそれをいとも簡単に行っていますが、私たち人間にとって、とても難しい事なのだそうです。私たちの脳には人の顔を見分けるためだけに働く部位があり、最初に記憶するのは母親で成長するに従って百五十人程度の人を認識する事ができるようになるのだそうです。因みにポケモンというゲームに出てくるキャラクターの数が百五十一匹(第一世代)というのも、もしかしたら何か関連があるのかも、と勝手に考えたりします。最近ではAIを使って個々人の顔の部分の特徴や目の動きや表情筋の動きを読み取って、その人が誰であるかを識別する技術が開発されていますが、それも絶対的ではなく限定的です。完全に相手が誰であるか分かるという事は、私と相手とが全人格的な関係を保っていた期間の記憶と感覚を、目の前にいるその人と照らし合わせてお互いにお互いを確認することです。

つまり復活された主イエスを見た人たちの誰もが、その方が主イエスだと分かったという事は、お互いにお互いが分かったという事であり、私たちも同じように死の後、私が私として何も損なわれないし関係も保たれるという事なのです。

牧師室から №32

2018/11/04

「神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と洗礼者ヨハネは洗礼を受けるために集まった者たちに話します。自分たちこそアブラハムの後継者であり神に選ばれた民族だと信じていたユダヤの民にとって、この言葉は衝撃的でした。しかし彼らは反発するのではなく、受け入れるのです。そして多く者がイスラエル中や近隣の国々からヨルダン川で洗礼を授けるヨハネの下に集まり全身を浸され浄められます。でもなぜ自尊心の高いユダヤの民は砕かれ悔い改めに導かれたのでしょうか。それは彼らがその時代に退廃的な雰囲気を感じていたからです。国家としてのイスラエルは事実上ローマ帝国の属国とされ抜け殻のようになり、王も祭司長もローマの傀儡であり神殿の権威は形骸化し世俗化しています。駐屯したローマ軍によって治安は守られ、インフラも整備されます。国家間の貿易網の一端を担わされ、多くの異邦人が流入します。生活の水準は飛躍的に向上しましたがユダヤの民は神を見失うのです。

では彼らは砕かれ悔い改めて救われたのかというと、そうではありません。悔い改めによって空っぽになった心に聖霊を招かなければならない。空っぽの心をそのままにしておくと「自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く」(マタイ12:45)ようになります。この洗礼者ヨハネの差し示した先に主イエスがいます。空にした自分の魂に主イエスの霊を受け入れる事によって始めて、私たちは救われるのです。

牧師室から №31

2018/10/28

随分昔の事になります。私が営業の仕事に遷されたとき、最初に先輩に命じられた事は靴を買い換えることでした。「顧客は最初に営業の靴を見て、その人を計るから靴はいつも綺麗にしておくように」と教えられたのです。クタクタの靴の方が頑張って働いている観がある、というのは素人の考えで、業績を上げている先輩方は、靴が綺麗でシャツがパリッとしていてネクタイも内側に針金でも入っているのか、と疑わしくなるほどに型崩れしていない、使う言葉も上品でした。お客さんからしてみると、そんな見栄えの良い上質の人間が自分の相手をしてくれることで、自分も上質な人間になったような気がする、信頼できる、そんな心理が働くのだそうです。そして下手なクレームとか値引きを言い出さなくなる。無粋なことを口にして、自分の質を落としたくない、と考えるから、です。

確かに、多様な価値観がひしめき合い混沌としている今の世にあって見た目が9割なのかもしれません。深く付き合う事がなければそれで事足ります。でも聖書的に言うならそれは偶像崇拝に心を奪われている背信者の愚なのです。見てくれが良いに越したことはありません、が、偽装は一夜にして白昼の下に晒されます。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。」(Ⅰコリント4:5)主イエスは全ての人の魂そのものと徹底的に関わられました、さらに彼らの為に自らの命をも捧げられました。私たちも主イエスに倣い敵対者であっても徹底的に関わるのです。そのために神は私たちの魂に小さな火、希望を灯して下さるのです。

牧師室から №30

2018/10/21

東京の下町の銭湯に行ったときの事です。夕方もまだ早かったので、空いていましたけど、地元の方々が幾人か、既に湯船に浸かっていました。私も身体を流した後、湯船に足を浸けてみて、すぐに足を引っ込めました。下町の銭湯は熱いと聞いていましたけど尋常じゃ無い熱さです。でも常連さんたちは、顔を真っ赤にして首まで浸かっています。仕方が無い、私もエイヤッと湯船に浸かりました。先ず体中に激痛が走ったのですが、でも慣れてきて徐々に心地よくなってきました。今では、熱い風呂じゃなきゃ入った気がしない、となっています。

何事もやってみないと先に進まない、というのは、この世の常です。しかし私たちは始める前から尻込みするのです。なぜなら先に進めようとする時、必ず何らかの障害が生じることを知っているからです。今までのやり方、手順、成員、習慣化し効率化され経験値も高い既存の仕組みにノミを打ち込むことは容易ではないし、当然、緩慢な抑圧を受ける事は必至です。しかし、この高いハードルを乗り越えようとする力を信仰は与えてくれます。主イエスが十字架の死から復活された様に、神は0から1を創られる方です。既存の物が何もなくなっても、手元に何も残ってなくても、それでも神は私たちを生かして下さいます。神は私に必要なモノを必要なだけ用意して下さる方です。ですから私たちは明日を恐れることはありません。私たちは、神は畏れますが明日は恐れません。今日を感謝して喜びを以て生きるのです。神は私たちを喜んで生きる者として創造されたのですから。

牧師室から №29

2018/10/14

桑名教会では10月28日(日)秋の伝道礼拝として、康路加こうるかさんを迎えての讃美礼拝「すべての人々に喜びと希望を讃美歌とともに」を行います。今日は、この礼拝のコンセプト(全体を貫く基本的な観点)についてお話しいたします。

まず、この讃美礼拝ですが、「ゴスペル歌手を教会に招いて美しい讃美を聞きましょう」という会ではありません。そもそも礼拝に於いて讃美は聞くものではなく、自らの口を以て歌う為のもの、讃美とは神に向けた私たちの祈り、だからです。私たちが礼拝の中で心を一つにして讃美するとき、その讃美の言葉を用いて一つの祈りを捧げる事ができます。そのとき私たちの中心に主イエスが居られるのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18:20)そして主イエスの臨在を感じた時、私たちの魂は聖霊によって満たされます。ペンテコステの日に聖霊を受けた使徒たちは聖霊に満たされ、幾つもの国の言葉で神の偉大な業を賛美した、と聖書には書かれています。同じように私たちも聖霊に満たされるなら、神の御腕に包まれている自分を確認する事ができます。そこに、私たちの求める魂の救い、神との和解と平和が与えられるのです。

私たちはただ一人で神を知ることはできません。なぜなら、この世の知恵や知識、言葉から神は身を隠されているからです。でも私たちは教会に集い礼拝の中で心を一つにして祈る時、神は自らを明らかにして下さいます。この世に於ける教会の代替できない役割とは「集められた者たちが一つ(同本質)となって祈りを献げる場」であることです。共に讃美しましょう。

牧師室から №28

2018/10/7

腰痛に悩まされている人は多いと聞きます。私自身も時々、「ぐぎっ」となり、立ち上がるにも寝そべるにも動きが取れなくなります。この腰痛を治すには日頃からの運動が最も効果的で腹筋と背筋を鍛えると、かなり改善されます。反対に座り続けるとか、猫背で歩くなら腰回りの筋肉にストレスをかけ、腰痛が引き起こされる事になります。正しい姿勢が肝要です。でもそれは肉体だけでなく心の内面も影響する事柄です。私たちは自信を失ったとき、大きな失敗をしたとき、元気が無くなっている時、心が沈むのです。となると地面ばかりに目を向けてしまう。顔を上げて人の目を見ることが出来なくなります。そうなると、腰痛を含め健康が損なわれる事となるのです。

次週読まれます御言葉の場面でペトロは、ジッと火を見ています。たぶん前屈みになりながら、うつむいて、薪がパチパチと音を立てて燃えている様子を見ているのです。ゲッセマネの園で主イエスは捕らえられ、弟子たちはその場から逃げ出します。でもペトロは主イエスの事が心配になり、夜の闇に紛れて、捕らえられ監禁されているカイアファの邸宅の中庭に入ります。そこには主イエスを捕らえに行って帰ってきた下役たちや邸宅で働く女中たちが集まっていました。彼らは作戦の成功に人心地ついているのです。ペトロは、自分も下役の一人で在るかの様に振る舞いながら、火に当たっていました。でも、大祭司に仕える女中はうつむいていたペトロの顔を下からのぞき込みます。そして「この人はナザレのイエスの弟子だ」と、正体を見抜くのです。しかしペトロはその言葉を強く否定します。此処でも彼は逃げるのです

牧師室から №27

2018/9/30

主イエスが掛けられた十字架による処刑は、ローマの法律の中で最も重罪な犯罪者が受ける刑罰でした。それは国家や皇帝に逆らう犯罪、つまり騒乱罪や内乱罪つまりテロリズムを引き起こした者に対して適用されました。十字架に張り付けられた者は白骨になるまで、そのまま放置され、その様子は町に住む全ての人に晒されます。見せしめの意味合いが強い刑罰です。でも、主イエスは息を引き取ると、すぐに十字架から下ろされました。そして墓に納められるのです。なぜか、それは主イエスの処刑に立ち会った全ての人が、主イエスが何も犯罪を犯していない事実を知っていたからです。

主イエスは真夜中に捕らえられた後、朝になって主イエスは最高法院に引き出されユダヤ人として裁判に掛けられるのです。しかし、偽証人が証言を重ねますが言葉が噛み合うことはなく、主イエスの罪を定める事はできません。そこで彼らは主イエスをローマから派遣されていた総督ピラトの下に連れて行きます。そしてローマの法律で裁かせようと画策するのです。ピラトも主イエスが何の罪も犯していない事を知っていました。でも、このままではユダヤ人たちが本当に内乱を起こすかもしれない。彼は自分の危機管理能力が問われかねない事態に追い込まれるのです。そこでピラトは折れます。「この人の血について、わたしには責任がない。」と言って彼は手を洗います。その結果、主イエスの掛けられた十字架には「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きが掲げられる事となったのです。人の罪の連鎖の果てに行き着いた罪状書きですが、この言葉こそ神の真理を的確に言い表す言葉となるのです。

牧師室から №26

2018/9/23

思いがけず旧友と再会したとき、私たちは握手をしたり、抱き合って喜び合うのです。西洋ではその様な時、接吻をすることで相手に対する親愛の情を表します。では主イエスの生きた世界、つまりユダヤの習慣ではどうか、というと、接吻には3つの意味がありました。一つは親愛の情を表す接吻、二つ目は客人への挨拶、三つ目は尊敬・服従を表す接吻です。この3つめの尊敬・服従を表す接吻は、生徒が教師の手の甲に唇を付けるという形で行われます。ゲッセマネの園でイスカリオテのユダが、その裏切りの合図として主イエスに行った接吻は、この尊敬・服従の接吻です。

イスカリオテのユダは祭司長たちの遣わした者たちと、主イエスを捕らえる段取りの打ち合わせで、彼らに「私が接吻する相手が、その人だ」と伝えます。深夜の暗闇に紛れて主イエスを捕らえに来る者たちに、誰が主イエスか分かるように、ユダはこの合図を決めるのです。でも、もしかしたらユダは、事が起こったときに主イエスがその場から逃げ出すだろうと考えていたのかもしれません。だからユダは、主イエスに逃げられないように、強くその手を握ることができる方法を選んだのではないか。尊敬と服従の態度を示しながら近づいて行き、主イエスの手を取り強く握り、その甲に接吻をするのです。

でも主イエスは、握られた手を振りほどかれません。そのまま、抵抗する事も争われることもなく、そうなることが当然であるかのように、静かに捕らえられるのです。そして弟子たちにも、立ち向かう事を禁じます。このユダの企みも、神のご計画の内にあることだったのです。

牧師室から №25

2018/9/16

イエス様と弟子たちが共に取られた最後の晩餐の食事の献立というと、それはかなり詳しく分かります。なぜなら過越の祭りでいただく食事の作法は、律法に細かく定められているからです。この過越の祭りとはユダヤ歴ニサンの月(第1の月)の14日の日没、つまり15日(この日は私たちの使っているグレゴリオ暦では3月末から4月末の満月の日)から8日間にわたって行われる祭りです。

イスラエルの人々は14日に小羊を神殿に持ち込み(出エジプト12:3)祭司に屠殺と解体をしてもらいます。そしてその肉を調理し、日が沈んで15日(ユダヤでは日没から1日が始まります)に夕食として頂きます。この時、酵母の入っていないパン(マッツァー)と苦菜(マーロール)を添えます。飲み物はワインを大きな器に注ぎ、回し飲みします。残った肉は火で焼き尽くさなければならない、と律法に定められているので(出エジプト12:10)羊一頭から取れる肉が約20㎏をそこにいる者たちで全て食べ尽くすこととなります。ユダヤ人にとって過越の祭りの食事はご馳走であり、年に一度、家族や仲間と共に最も喜びに満たされる宴会の時です。この過越の食事をいただいた弟子たちは、満腹でワインも入り上機嫌だっただろうと思います。

でも、同じ食卓に着いているイエス様とイスカリオテのユダの様子は違うのです。なぜなら二人はこれから先に何が始まるのかを知っていたからです。此処から主の受難が始まります。

牧師室から №24

2018/9/9

イスカリオテのユダについて、私たちは彼を「主イエスを金で売った裏切り者」として覚えます。彼はエルサレム神殿に仕える祭司たちと銀貨三十枚で主イエスを売り渡す約束を交わします。でも、なぜ彼は主イエスを裏切ったのでしょうか。このイスカリオテ、という言葉の意味は「カリオテ出身の人」です。またカリオテは「大きな町」という意味も持つことから、ユダは都会出身の、基礎学力を身につけた知的にも良識的にも洗練された人物だったのではないか、との推測がされています。そもそも、ユダの以外の弟子たちは全員ナザレの田舎者、ペトロに至っては学の無い漁師です。都会育ちで身なりも良いユダの存在はこの群れの中で、別格だったのでしょう。ですから、ユダは金入れを預けられていた、という聖書の記事も納得できます。

腕っ節が強く荒々しいだけで、何となくボンヤリしている弟子たちの中で、彼だけは違うのです。彼は目的意識と自分の行動に対する動機づけができています。たぶん、主イエスの側にいた者たちの中で、彼が最も主イエスの話している言葉を理解していたのだと、思います。でも、だから彼は主イエスを許せなかったのではないか、と、【なぜ愛する先生は世界を変える程の才能を手にしていながら、その力を無駄に浪費するのか、もし私にその力があれば…】期待は失望へ心酔は憎悪へ、ゆっくり変質するのです。

しかし聖書は、ユダの裏切りは彼の身勝手な衝動ではなく、そこに神の御心があると説きます。神は彼の心の闇、憎悪や幼児性をもこの世を救うために用いられたのです。神はこの世の光も闇も統べられる方なのです。

牧師室から №23

2018/9/2

「シンドラーのリスト」(1993)という映画の最後の場面で、リーアム・ニーソン演じるオスカー・シンドラーは、手に持った指輪を見詰め「もっと救い出せた」と涙を流します。「この指輪を賄賂に差し出せば、あと何人のユダヤ人を収容所から引き取る事ができただろう」と彼は嘆くのです。映画の内容は各人で見ていただくとして、この映画から私たちが教えられるメッセージは「自己犠牲をいとわない愛」のあり方です。でも、その背後にもう一つのテーマがあります。それは「人は人を救えるのか」という問いです。シンドラーは幾人ものユダヤ人の命を救います、でも同時にシンドラーも彼らによって荒んだ魂を救われるのです。それは映画の最初の場面のシンドラーの表情と、後半のシンドラーの表情を描き分けることで表現されています。冷酷で嘲りを臭わす彼の目は、慈愛に満ちた目に変えられていきます。人が人を救うのではなく、人と人とは関わり合う中で互いに命を再生する。彼が救ったのではなく彼も救われるのです。

聖書には「人は人を救うことができない」と書かれています。人を救う事ができるのは、ただ神のみです。そのために神は預言者や主イエスをこの世に遣わし福音を伝えました。「あなたはこの世の何ものにも支配されていない、あなたは自由です。」と宣言されました。このメッセージが腑に落ちた人は、今までの姿勢や見方を打ち砕かれます。自分が「井の中の蛙」であり、外界には広い世界があると、気づかされるのです。そして自分の意思と力で井戸から出ようと壁を上り始めるのです。私たちも福音を伝える事に依って主の救いの業に用いられるのです。

牧師室から №22

2018/8/26

最近、二世タレントという人たちが芸能界で多く取り上げられています。でも芸能という特殊な分野だけではなく、会社経営や学問、医学、政治の分野にあっても、身分(ポスト)の世襲化が進んでいるように思われます。この世襲について、なぜか世間では弊害ばかりが強調され批判される傾向があります。例えば世襲は新規参入者を閉め出し自由経済を破綻させる、とか、既得権益を保護し高所得者層を増長させ社会を腐敗させる、とか、富の再分配を阻害して低所得者を更に苦しめる、とか。しかし世襲に依って社会が受ける恩恵も大きいのです。それは社会秩序の維持と経済の安定です。社会構造が変化せず安定している(革命がない)なら、資産家は安心して投資を行うことができ、企業は設備を拡充し研究開発を進めます。その結果、社会のインフラが整えられ、人々の生活も豊かになります。世代が変わるごとに情報が刷新され順応するまで時間が掛かるより、既存の情報が次世代に継ぎ目なく引き渡されたほうが、実は利便性が高いのです。ですから有史以来、国家と経済、宗教、専門職の分野に於いて人間は世襲制度を社会構造に組み込んできました。そうする事によって、社会の安定を維持してきたのです。

しかし、信仰は世襲に依って継承されるものではありません。なぜなら信仰は「神と我との抜き差しならない一対一の人格的関わり」の中で見いだされ成熟するからです。いわば解体と再生が信仰の本質であり、それを主イエスの十字架と復活は象徴しています。躓き悔い改め赦しを受けることによって信仰は成熟するのです。

牧師室から №21

2018/8/19

高度成長期の流行歌スーダラ節は「わかっちゃいるけどやめられない」と歌います。頭ではいけないことだと理解しながらも「ついつい」流され続けてしまう、この歌詞はそんな私たちのあり方を表現しています。何が良い事で何が悪い事か。私たちは教えられなくても解っています。しかし、正しい事を正しいと主張し行動する事は難しいのです。なぜなら、私たちの行動を決定する根拠の大半は善悪の可否ではなく習慣の維持だからです。しかも、善習より悪習の方が優先されます「悪い習慣はすぐに身に着くけど良い習慣を身に着けるには努力が必要」という言葉の通りです。

なぜ私たちは習慣に従うのか。加えて国、学校、会社(教会も含めて)に於いても習慣が支配的になるのか、というと習慣を壊してまで現状を「変える」ことが億劫だからです。いちど習慣化した生活を「変える」には、相応の力が必要です。「変える」為には多くの人々を説得し協力を得なければなりません。その方々に苦労や不便を強いることになります。また結果が上手く行くか行かないか、責任も掛かってきます。今までの経験の蓄積がないので、失敗も生じます。ですから、そのままで良い。「今ある建物を壊して立て直すくらいなら、多少不便でも古くても、そのまま使い続ける方が良い」となるのです。マルコ福音書12:28以下に於いて一人の律法学者は、主イエスの問いに対して的確に答えます。「愛は律法を全うする」と彼は答えるのです。しかし彼らは神の義より習慣に従い主イエスを十字架に掛けます。この習慣を打ち破る力が信仰です。信仰は私たちに「一から始める」力を与えるからです。

牧師室から №20

2018/8/12

先日、教会学校のキャンプがありました。9人もの参加者を与えられ、天候にも恵まれ、子供たちと共に霊肉共に豊かな実りを与えられました。怪我や事故なく終えられたこと、お手伝い下さりお祈りにお覚え下さり感謝です。

次の世代への信仰の継承は教会の責務です。私たちは神様が教会に導き入れた子どもたちを、自らの子どもとして受け入れ、愛し、主イエスに結びつける働きを担わされています。でもそれは労苦ではありません。私たちは、子どもたちの純粋な感性を通して描き出される主イエスの姿を、確認する機会が与えられるからです。今年のキャンプに参加した子どもの感想文にこの様に書かれています。「神さまがどんだけたいせつかがわかりました。どんなことがわかったかというとぼくたちを神さまが大事にしていることがわかりました。」

「私は自らの信仰生活において神を大切にしている」ではなく「ぼくたちを神さまが大事にしている。」という素直な信仰。子どもたちを通して此処に私たちは立ち戻らされるのです。

次週、読まれます御言葉にあって農夫たちは、それが主人から預けられたぶどう園であるにも関わらず、自らの所有物であるかのように権利を主張するのです。そして派遣されてくる僕をことごとく追い返します。そして最後に遣わされてきた主人の一人息子を殺して、ぶどう園を正式に自らの物にしようと画策するのです。なんとも後味の悪い話しです。でもその最悪の結末が「隅の頭石」として救いの初穂となります。その十字架によって全ての者が救いへと入れられるのです。

牧師室からNo.19

2018/8/5

エリコ(Jerico)という町について、この町は世界最古の町と評され、紀元前8000年紀には周囲を壁で覆った集落が作られていた、と言われています。その後もエリコは独立した都市としての機能を温存し維持し続けます。なぜ、それが可能だったのか、というと、エリコは自然の擁壁に守られていただけでなく、四方を堅牢な城壁で囲まれていたからです。その城壁はどんな軍隊を相手にしても、崩されることがなかったと言われています。つまり、このエリコの城壁は、決して崩れず、破壊できないモノの象徴として人々に知られていたのです。でも、この城壁を神は崩されます(ヨシュア記6:1-27)。

モーセがネボ山で天に上げられた後、若きリーダーヨシュア率いるイスラエル軍は山を下りヨルダン川を越え、エルサレムに侵攻する為に兵を進めます。しかしエルサレムに進むには、街道の手前に位置するエリコを陥落させなければならないのです。エリコは進んでくるイスラエルに気づき城門を堅く閉ざします。そこでヨシュアは、主なる神が命じられた通りに行います。イスラエルの民は契約の箱を担ぎ、七人の祭司が、七つの角笛をもって、主の箱の前を行き、六日間町の周囲を一回まわり、七日目だけは七回るのです。そして最後に民が鬨の声を上げ、角笛の音が響き渡ったとき、堅牢な城壁が崩れ落ちるのです。この様にしてエリコはイスラエルのものとなり、イスラエルはエルサレムに兵を進めます。主イエスは過越も祭りの前に、このエリコを通ってエルサレムに入られます。つまり時がきたのです。

牧師室から №18

2018/7/29

日本語の「こんにちは」に相当するヘブライ語の挨拶は旧約聖書の時代から現代に至るまで一貫して「シャローム」です。この「シャローム」の意味は「平和」です。でもそれは単に戦争や争いとは正反対の状態ではなく「あらゆる面での完全な充足状態を表すものであり人間の至福のあらゆる要素を包含する」状態を意味します。簡単に言うなら「少しの不安もなく満たされている」という事です。でも、その様な平和を人間業で作れるのか、というとそれは不可能です。しかし神業なら可能です。ですからユダヤ人たちにとって「シャローム」は単なる挨拶ではなく「唯一の同じ神を仰ぎ見る礼拝者同士の挨拶」として用いられるのです。

人と人は完全に一致することはありません。反目し対立し争います。それは神が一人一人違う存在として創造されたことに起因します。人間は、この世の何か(政治・国家・思想・経済・概念など)に向かう事によっては一つとされません。幾つものセクトが作られ、セクト同士が争う所に行き着くこととなる。しかし神はその様な私たちを御自分に向けさせることによって、つまり唯一の神を共に礼拝することによって、人は一つとされます。そこに平和が生まれるのです。母親の腕に抱かれる乳飲み子を包む平和を私たちが得るために私たちは一つの神を覚えるのです。

政治家は自分の手腕として平和であることをアピールします。しかし本当の平和は武力を増強することや外交によって作られるモノではありません。逆に武器を手放し交渉を止め、互いに悔い改め唯一の神に立ち返る所に平和は与えられるのです。

牧師室からNo.17

2018/7/22

キリスト教信仰というと禁欲的で清貧、几帳面というイメージがあるようです。それはそれで悪い事ではないですが、少々誇張してイメージが先行している様にも思えます。「信仰をもつなら生活を制約される」「これはダメ、あれもダメ」と押し付けられる。でもそんな事はありません。

逆に信仰を持つなら私たちは自由になります。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ福音書8:31)と書かれています。

私たちは、その心をこの世に支配されています。例えば子供の頃「学校で良い成績を取らないとダメ」「お行儀を良くしなさい」との教育を受け、社会に順応するための価値観を植え付けられました。大人になってからは「和を以て尊しとなす」という雰囲気の中で働き、自律的な個人であるより社会組織を維持するための構成員である事を望まれます。徐々に自分の頭で考え、心で感じる感覚が奪われていく。何時の間にかこの世に隷属し魂の自由を奪われているのです。

イエス様が話された真理とは、神を知ることです。唯一の神を自らの神とし、覚え畏れ礼拝すること。天の国に帰属すること神に隷属すること。イエス様は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。」(マタイ福音書6:24)と話されます。私たちが神に仕えるなら、私たちはこの世からは解放されます。私たちは自分で善悪を判断できる、だから神に喜ばれる事なら何をしても良いのです。でも一つだけイエス様は「してはいけない事」を私たちに教えます。それは「躓かせる」という事です。

牧師室からNo.16

2018/7/15

弟子たちは、イエス様の後ろについてカファルナウムの町まで移動する際に「誰がいちばん偉いかと議論し合っていた」と聖書には書かれています。「いちばん最初にイエス様が声を掛けたペトロだ」、「いちばん腕力が強いゼベダイの子ヤコブだ」、「いちばん賢いユダだ」と、他愛のない雑談です。でもカファルナウムに着いたとき、イエス様は弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と尋ねるのです、しかも不快そうに。その様子を察した弟子たちは口を閉ざします。その時、弟子たちは、イエス様が自分を差し置いて誰が偉いのかを議論していた事、に腹を立てている、と考えたのです。「私を差し置いて、弟子たちの間で誰がいちばん偉いのか、なんて議論は以ての外だ」と、弟子たちはそう受け止めたのです。

でも、そうではありません。まったく逆です。イエス様はこの様に話されます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」イエス様は弟子たちに「仕えられる者ではなく仕える者になりなさい」その様に教えられるのです。

敬虔である事、謙遜である事は美徳です。でも謙遜が心からのものになるためには神を知る信仰が必要です。神を知るなら私たちはその強大な絶対者の前に敬虔にならざるを得ないからです。神を畏れることが私たちの知恵なのです。

牧師室からNo.15

2018/7/8

「なぜ神は、この世の悲惨や艱難をそのままにされるのか」、神に問いたくなる事があります。なぜこの世では、憎しみと裁く心だけが拭われずに残るのか。弱い者が食い物にされ強いモノは更に力を持つのか。理不尽で身勝手な意見がまかり通るのか。神はなぜ沈黙されるのか、神は失われたのか。でも、そうではありません。神が失われた、と思えるときは私たちが神を見失っているのです。神は永遠で絶対の存在です。たとえ、この世が消え失せても神は存在されるのです。

来週、私たちに与えられている御言葉、マルコ福音書9章14節以下に在って弟子たちは主イエスを見失います。

主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れてタボル山に上られた後の場面です。彼らが山から下りると、残された弟子たちが大勢の群衆に囲まれ、その真ん中で律法学者たちと議論しています。ある父親が悪霊に取り憑かれた息子を残された弟子たちの下に連れてきたのだけれど、彼らはその子を癒すことができなかった。その事件が切っ掛けに律法学者は主イエスを批判し、残された弟子たちは抗議していたのです。その喧噪に包まれた場に来られた主イエスは、即座に、この息子を癒やされます。

残された弟子たちは、山に登った主イエスが帰ってこないのではないか、と疑ったのです。だから悪霊に取り憑かれた息子を自分たちの力で、どうにかしなければと考えた、その結果、癒やしの奇跡は為されなかったのです。これに相似する状況が出エジプト記32章に記されています。並行して読まれると更に多くの気付きが与えられます。

牧師室からNo.14

2018/7/1

今回の「牧師室から」は次週の予告ではなく「祈りについて」書かせていただきます。

祈りについて考える時、先ずその前提となるのは、人間は誰しもが祈る心を持っている、ということです。信仰を持たない方でも「祈っています」という挨拶をされます。でもその祈りとキリスト者の祈りは決定的な違いは、私たちが「祈る方向を知っている」という事です。私たちは主イエスに向い祈り、その背後におられる神に向けて祈りを献げるのです。

そして祈りとは、私たちから神に一方的に突きつける要求ではありません。P.T.フォーサイスは著書「祈りの精神」の中で「祈りとは啓示の雰囲気である」と話します。私たちは、祈りを聴いて下さる方に向かって祈ります。そしてその方は、私たちが祈りの言葉を唇に乗せる前に、その祈りを聴いて下さっているのです。祈りを献げる時、主イエスが「アッバ父よ」と祈ったように、私たちも神を「自分を愛してくれている父親」だと思って会話を交わすように祈りを献げるのです。

では礼拝の時に会衆の前で献げる祈りについてはどうか、というと、それは個人的な祈りとは性格を異にする祈りです。なぜなら会衆全員がその一つの祈りを自分の祈りとして献げるからです。とは言え、内容は個人の祈りと変わりません。神への感謝の言葉を献げれば良いのです。(言葉を整えたい場合は主の祈り、祈祷文を参考にしましょう)肝腎な事は会衆全員に聞こえるか、です。何を祈っているのか聞き取れないのでは自分の祈りには出来ません。また安心して神に心を向けて祈る為に、記述してきたメモを読むこともまた正しい祈りの姿です。愚直に神に心を向ける、手段は問われません。

牧師室からNo.13

2018/6/24

「この世は神の奇跡に満ちている」と気がついた人は幸いな人です。でも逆に「自分には神はどんな好機も与えられない」と拗ねている人は、もう少し神に信頼する必要があるのかもしれません。神に信頼し体重を預けてみるなら(エイヤ!って)自分が支えられていると肌で感じることができ、さらに支えられている力の源が、この世に由来するものではないと気づかされるからです。奇跡とは好機が与えられる事ではなく、神がこの世に触れられたことの目に見え、心が感じ取れる現象です。つまり、神の存在を受け容れる事のできない者にとって奇跡は廉価な好機ですが、神を知る者にとっては神の臨在を確認できる、救いそのものとなるのです。神が側にいて下さると分かる、このこと以上の救いはないからです。

「この世は神の奇跡に満ちている」つまり、この世の全ての出来事は偶然ではなく神の必然です。神はサイコロを振られません。そして神は、それらの奇跡を通して命の源から切り離された私たちをもう一度ご自分に繋ぎ治そうとされています。私たちは奇跡を通して神の憐れみと愛を知るのです。

次週与えられる御言葉、マルコ八章は四千人の給食の奇跡に続く箇所です。主イエスは七つのパンと数匹の小魚だけで、そこに集う多くの人の飢えを満たしました。弟子たちは驚き主イエスを敬うのですが、この奇跡の背後に語られている神の御声を聴くことはできないのです。しかし主イエスは弟子たちを見限る事なく教えます。ご自分の命をも用いて、彼らを導くのです。

牧師室からNo.12

2018/6/17

次週24日の礼拝には、マルコによる福音書6章14節以下の御言葉が与えられています。この聖書の物語はオスカー・ワイルの「サロメ」という戯曲のモチーフとして取り上げられていますし、その戯曲はリヒャルト・シュトラウスによってオペラ化され上演されていますので、聖書の物語としてより、藝術作品として覚えられているように思います。

しかし当然、聖書の記述の中には、サロメが預言者ヨハネを誘惑するような場面はありませんし、妖艶な踊りでヘロデ・アンティパスを魅了する場面も記されていません。それに最も有名な場面、ヨハネの首が乗せられた銀の盆をもって歌うサロメも出てきません。そもそも「サロメ」という名前自体が聖書には記されていません。(ヨセフスの「ユダヤ古代史」にはサロメという名前が記されています)オペラとしての「サロメ」は「自分の父であり叔父であるヘロデに預言者ヨハネの生首を要求する美少女」という醜聞的な題材が刺激的であるが故に、聖書の本来の主題から引き離されて作られた創作です。つまり御言葉の、一つの解釈ではなく単なる娯楽作品だという事です。

では、聖書の主題は何処にあるのか、というと、その焦点はヘロデ・アンティパスの苦悩に当てられています。つまり、預言者ヨハネを尊び畏れつつも、自らの手で葬らざるを得ない状況に追い込まれていくヘロデの苦悩です。彼は、この世の因縁を断ち切ることが出来ず、神の言葉であるヨハネを葬るのです。しかしヨハネの死は、主イエスに時機の到来を知らせる号砲となり、主イエスのエルサレムへの道を開くこととなります。

牧師室から №11

2018/6/10

カウンセリングの世界では「自分の身内や恋人のカウンセリングは出来ない」と言われます。なぜならカウンセリングにおいてカウンセラーとクライアントが交わす契約の中では、そこで話された事についての守秘義務が課せられるのですが、身内という関係性の中では困難です。家庭内に秘密を持ち込む事は難しいからです。それに、カウンセラーはクライアントを客観的に観察しなければならないのですが、身内ではどうしても先入観や偏見が入り込みますし、そこに「情」が絡むならもうカウンセリングはもう成り立たちません。

信仰の事柄にあっても同様です。イエス様は「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)と話されます。子どもの様に素直で純真であること、つまり先入観や偏見なしに相手と関わる事のできる者、自分の目で見て自分の頭で考え自分の心で受け止めるものが、天国を得ると話されるのです。

次週の礼拝で読まれますマルコ福音書6章では、イエス様が故郷に帰られ、その町の会堂で教えられた時の姿が描かれています。イエス様はそこでも教えられ癒されるのですが、でも他の町の様にはいかないのです。なぜか。それは町の人がイエス様の家族を知っていたし、イエス様の子どものころの事を知っていたからです。町の人たちはイエス様を通して神を見る事ができません。なぜなら彼らはメシアを見るのではなく、イエスという自分が子供の頃から知っている一人の人を見てしまった、その先入観と偏見が彼らの目を曇らせ、彼らと神との関係は断絶したままとなったのです。

牧師室から №10

2018/6/3

聖書の中には四十日四十夜という表現が幾度も出てきます。それは人が神からの試練を受ける場面で用いられる言葉で、その期間、人は一人で荒野を彷徨い寡黙に耐え堪えます。孤独の内に自らと対峙し、自らを滅し新しくされるのです。

旧約聖書ではノアの箱船の物語の中で、洪水を起こした雨が降り続いた期間がこの四十日四十夜です。彼らは窓を閉め切った箱船の中で、ただひたすら雨が止むのを待ち続けます。モーセが十戒を受け取るためにホレブの山に登りそこに留まった期間もこの四十日四十夜です。これはモーセの試練と言うより、山の麓でモーセの帰りを待ったユダヤの民にとっての試練の期間でしょう。彼らはモーセを待ちきれずに金の子牛を作り偶像崇拝を始めてしまいました。また、預言者エリヤはバアルの預言者四百五十人を相手に勝ちますが、イゼベルの恨みを買い、命を狙われ逃げます。彼は「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」と主に懇願しますが、主は彼に食べ物を与え生かし立ち上がらせるのです。そして彼は四十日四十夜の間、荒野を歩き神に山ホレブに辿り着きます。そして、主イエスは洗礼を受けた後、四十日四十夜に渡って荒野を彷徨い悪霊の誘惑を受けます。しかし主イエスは悪霊に打ち勝たれ、この世に福音を伝える業を始められます。

「一人になる時」は私たちにとって大切な恵みです。安易な解決に逃げず諦めず、神を信じて、その試練を耐え抜いたなら、神は必ず次の道を開かれます。

牧師室から №9

2018/5/27

先週、私たちはペンテコステの礼拝と共に祝いました。主イエスが天に昇られた後、神は聖霊を使徒たちに送り、使徒たちはこの聖霊の力に押し出されて、全世界に生きる全ての人々に福音を伝えるための伝道を始めました。この聖霊と神と主イエスは一つの存在の三つの側面です。そして聖霊は私たちを正しい理解へと導き真理を明らかにして下さいます。

平易に言うなら聖霊は私たちにとって山岳ガイドのような存在です。山岳ガイドはその山の道を熟知し、移り変わる天候を経験から予測し、どこで休憩を取るか、どこが安全でどこが危険か、登山者たちの体力や心の有様をも計りつつ、片時も離れる事なく登山者たちを山の頂へと導くのです。

私たちはこの聖霊の導きによって、正しく神の方向へと進むことができます。しかし聖霊を見失うなら道に迷ってしまいます。そして魂を恐れや不安に支配されてしまう。その苦しみを解消するために奪い害し欺く事となるのです。

悪霊とは私たちの目や耳から聖霊の姿や声を隠してしまう者の事です。しかも耳元で誘惑の言葉を囁くのです。しかし悪霊は主イエスの敵ではありません。聖書には主イエスが「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」(マルコ福音書1:29-39)と書かれています。主イエスは悪霊が住まう魂から悪霊を追い出し、誘惑の言葉を話す口を開かせません。

悪霊の干渉に脅かされず、常に聖霊からの光を受とめるために、私たちは共に礼拝を守り聖書に聴くのです。

牧師室から №8

2018/5/20

イエス様はナザレからヨルダン川を下り、洗礼者ヨハネの元に行きます。そして洗礼を授けてくれるように願い出ます。しかし洗礼者ヨハネは、この申し出を断ります。なぜなら彼は目の前に立っている、この方こそ、神の子でありメシアだと、神から悟らされていたからです。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」洗礼者ヨハネは思い止まらせようとします。しかしイエス様は「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言って洗礼をお受けになるのです。イエス様はヨルダン川に全身を沈められ、洗礼をお受けになります。そして水の中から上がられるとすぐ「天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」と聖書には書かれています。

イエス様がこの時に見た情景を思い浮かべるなら、それはこの世にあって最も美しい光景だと思えるのです。

鳥は地面に着地する時、それまで身体の内側にしまい込んできた羽根を全て風に向かって立てます。そうして翼を大きく広げ、風を受けとめ、一気に速度を落とし、地面に降り立つのです。私たちはこの瞬間に、躍動的で最も美しい鳥の姿を見る事ができます。そして雨上がりの空を覆っている厚い雲の間から一条の光が差し込む光景、ヤコブの梯子と呼ばれる光の筋もまた、神々しく美しい地上の姿です。

洗礼を受けること、それは私が神に手を差し出すのではなく、神から差し出される手を掴み、ギュッと握ることです。その時、闇に満たされていた魂に光が差し込み、本当の平安と知恵が与えられます。知恵とは神を知ることです。

牧師室から №7

2018/5/13

次週主日の20日はペンテコステ礼拝をまもります。このペンテコステとはユダヤ教に於いて過越祭の50日後に祝われる祭日であり、春に得られる最初の収穫に感謝する農業祭です。なぜこの日がキリスト教の祝祭日になったのか、というと、このペンテコステの日に使徒たちに聖霊が降ったからです。

主イエスは復活され四十日に渡って弟子たちと共に過ごされ後、天に昇られます。それから十日後、使徒と主イエスの母、兄弟たち、従っていた女性たちが集まって祈っていると、その部屋の中に激しい風の様な音が響きわたります。そして天から炎のような舌が一人ひとりの上に分かれて降ります。使徒たちはその聖霊を受け満たされて、様々な国の言葉で語り始めるのです。

その時、エルサレムには地中海の全域に離散して生活していたユダヤ人たちが祭りを祝うために上って来ていました。彼らは使徒たちがそれぞれ自分たちの地域の言葉で福音を語っているのを聞いて驚きます。ペトロは彼らに、主イエスの十字架と復活の意味について説くのです。「主イエスは復活された、私たちの罪は拭われた」と伝えます。その言葉を聞き信じた多くの者たちは洗礼を受け、使徒たちのグループに加わりました。

この使徒の働きによって全世界に教会が作られ、今日の教会へと信仰は継承されました。ですから私たちは、このペンテコステを私たちの教会の誕生日として祝うのです。

牧師室から №6

2018/5/6

エジプトのカイロにギザの大ピラミッドと呼ばれる巨大な建造物が在ります。これは紀元前2650年頃にエジプト第四王朝のファラオ、クフ王の墳墓として建てられたと伝えられています。その高さは150㍍ほど、一つ2.5トンの石灰岩を270万個積み上げて作られています。実際見上げてみると、まるで丘のようなその形象は圧巻の一言に尽きます。なぜこのような巨大な墓が作られたか、一説には農閑期の公共事業だった、とも言われていますが、それでもファラオの執念、つまり自らの命が永遠に続く願いを具現化した構造物である事は否定できないのだと思います。

永遠の命について、たぶん誰も自らが永遠に生き続ける事を望んではいないと思います。なぜなら、私たちのこの世の命は喜びと同等に苦痛もあると知っているからです。しかし私たちは、やはり恐れを抱くのです。自分がこの世に生きた記憶と記録、関係性、資産を手放すことを。それより自らの存在が霧散する事を耐えがたく感じるのです。

しかし主イエスは永遠の命に至る道を示されます。つまり、その道を行くなら、あなたは死に依っても何も損なわれないと話されます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」では、この御言葉は何を私たちに明らかにしているでしょうか。次週、共に聴きましょう。

牧師室から №5

2018/4/29

次週の礼拝にはヨハネ福音書16:12-24が与えられます。この時、主イエスは自らに十字架での苦難が迫った事を悟り、最後の言葉を弟子たちに残されます。つまり遺言を残されるのです。特に16章では、ご自身が去った後の教会に於いてあなた方は迫害に晒されると話します。しかし、その迫害は偶発的な出来事ではなく、この世の利害や関連の結果でもない。逆にその迫害こそ、“神がこの世を救う計画の始め”だと話されるのです。その迫害によって天への望みが壊されるのではないから、失望せず光を失わないように、信仰に留まり続けること。さらに「その苦しみは産みの苦しみであり苦しみは必ず喜びに変わる」と約束されるのです。加えて主イエスは弟子たちに、ご自分が天に戻られた後にもあなた方を孤立させない「真理の霊」をあなた方の間に遣わす、と話されます。

私たちはその方を「聖霊」と呼びます。聖霊という存在について、目に見えるモノを尊重する物質主義の価値観に首までどっぷり浸かって生きる私たちは「霊」という言葉に違和感や拒絶感を覚えるのです。なにかペテンに掛けられるような、誤魔化されているような不快感をおぼえてしまう。でも、そうではありません。主イエスが話される「聖霊」とは、私たちの内に与えられる主イエスの霊です。彼は私たちに神の御言葉を咀嚼して与えます。私たちは聖霊の助け無しに聖書を読むことも祈り事もできません。私たちの信仰を支え助ける方として、聖霊は働くのです。

牧師室から №4

2018/4/22

先週、桑名教会定期総会が行われ、すべての議案が協議され承認、可決されました。新しい2018年度を主と共に、また教会に集う皆様と共に歩めること、心より感謝します。

さて、その中で、私たちの教会は今年度の主題聖句を詩篇23篇の言葉「主は我が牧者なり」としました。この御言葉について、若干の説明をさせていただきます。先ずこの牧者ですが、「牧場で牛や馬の世話をする人」という意味の言葉です。でも、この詩篇の言い表しているところの牧者とは「羊飼い」の事です。つまり、神は私たちにとって羊飼いの様な存在であると、この詩は謳うのです。

羊飼いは自分の羊を一匹一匹覚えて、その名前を呼んで柵から連れ出します。羊も自分の羊飼いの声を知っていて、呼ぶ声に従います。そして羊は羊飼いに導かれて牧場に辿り着き草を食み、水場で水を飲みます。羊は試みられることも労苦する事も無く、すべて必要なモノを必要なだけ与えられます。しかしその関係は牧歌的なだけではありません。羊飼いは羊を盗むために忍び寄る盗人と命がけで闘い、野の獣を追い払います。群れからはぐれた羊を探し、崖に向かう群れを鞭で押しとどめ、毒草を食もうとする羊を杖で叩くのです。その様にして羊は守られ、夕べにはまた家へと帰るのです。

詩篇の歌い手は、この詩の中に、神からの恵みと祝福だけではなく、私たちが与えられる痛みの意味をも織り込みます。私たちが与えられる痛みもまた主の愛の業であると、謳うのです。

次週(4/29)の礼拝では「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」という御言葉が与えられています。私たちはどこに“帰属する民”なのか、共に御言葉に聴いていきたいと思います。

牧師室から №3

2018/4/15

次週22日の主日礼拝には、ヨハネ福音書13:31-35の御言葉が与えられています。この場面は最後の晩餐の最中であり、弟子の一人ユダが主イエスを裏切り、その場から出ていった後の事です。

ユダが裏切った事について、その場にいた他の弟子たちは何が起こったのか気付けないのです。しかし主イエスだけはユダの心を知り、それでもユダを送り出されます。この時、主イエスは自らの受難が始まった事を悟るのです。

そして弟子たちに新しい掟を教えます。それは「互いに愛し合いなさい」という言葉です。その言葉によってモーセの十戒は補完されます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(MAT05:17)

言葉は愛を加えることによって完成します。逆に愛の無い言葉は不完全です。その言葉は相手を損なうものとなります。では、どうやって言葉に愛を加えるのか、共に聞きましょう。

牧師室から №2

2018/4/8

今週の礼拝後から、役員会の承認を経て、受付に説教全文を印刷して置くことになりました。この説教プリントの目的は二つあります。一つは説教中に聞き漏らしたこと、聞き取りにくかったこと、よく解らなかった事を読み返す為です。もう一つは持ち帰って、ご家族、ご友人、関心のある方に手渡していただくためです。是非、伝道のアイテムとしてもご活用ください。

只、説教全文と言っても、講壇の上で即興でアレンジした言葉は反映されませんので、完全版という訳ではありません。それに、そもそも礼拝説教とは、聖日の礼拝という場で話し手と聞き手が共に神を見上げ祈る場にあって、即時的に与えられる恵みです。印刷された説教を残滓とまで言いませんが、あくまでもガイド程度の感覚で読んでいただければ幸いです。

もう一つ、この「牧師室から」に関してです。この貴重な囲み欄をどの様に使うか、ですが、教会として可及的速やかに意思の疎通を図らなければならない課題が与えられない限り、次週礼拝に与えられる聖書箇所の黙想を載せたいと考えています。映画や芝居の予告編のように、です。多少、右往左往すると思いますが、のんびりとお付き合いいただければ幸いです。

牧師室から №1

2018/4/1

主の平和がありますように。

はじめまして、私の名前は辻 秀治(つじ しゅうじ)ともうします。出身地は東京都日野市、キリスト者の両親に連れられ、幼い頃から日本キリスト教団日野台教会に通いました。その後、教会学校や中高科のキャンプで育てられ、社会人経験を経た後、東京神学大学に入ります。学部三年に辻順子(今は鳴海教会牧師)と結婚、神学生時代は千歳船橋教会、伝道師となってからは藤沢教会で奉仕させていただきました。按手を受け牧師となって下谷教会の招聘を受け七年間主任教師、主任を順子牧師と交代し計十三年勤めました。

前任地の下谷教会を辞するにあたって、三宅島伝道所での復興伝道の召命が与えられ、三年間単身三宅島で生活しました。三宅島では1983年の噴火で会堂・牧師館が焼失し、四十年近く、月に一度本土から牧師を迎えて礼拝を献げる、という状況が続いていました。更に2000年の噴火で全島避難が行われ教会員の殆どが離島されました。そこで、神は私に「三宅島で毎週の礼拝を守ること」という平易な召命を与えられました。とはいえ、信徒四人の群れ、礼拝出席も自分を含めて二人から四人ですので生活は自分で整えなければなりません。でも神は、ただ召命を与えるだけではなく、揃いで生活の手段も与えて下さる方です。幸いにも大型自動車、建設機械、コンクリート技士、コンクリート診断士の免許が与えられ、月曜日から土曜日まで建築会社で作業員の一人として働く事が許され、日曜日には旧民宿かまかわの広間で礼拝を守り説教奉仕をさせていただきました。住居も本土には祈りに覚えて下さる仲間も与えられ「主の山に備えあり」でした。

三宅島の人口は現在2600人ほどと言われています。ですから殆どみんな顔なじみです。「島の噂話はツイッターより早い」という環境下で「キリスト教の牧師」という私の立場は直ぐに知れ渡りました。では浄土宗が強く海を神格化するお祭り共同体の島の風土の中で、私は排斥されたのか、というと、そうではありませんでした。逆に世間ではキリスト教は信頼されていること(キチッとしている、品が良いと言う印象)を実感させられました。でも、それが逆に教会の敷居を高くしているとも思わされました。(島での伝道に付いては追々お話しします。)自分の行ける範囲に教会があり、会堂があり礼拝を献げられることを「当たりまえ?」と思われるかもしれませんが、それこそが神からの最高の恵みなのだと実感させられました。

さて、私は次の召命に従って桑名教会での牧会を勤めさせていただきます。神の家族として、共に祈り支え励まし合い、主を礼拝しましょう。よろしくお願いいたします。人の思いは断たれても、主の為さる事は必ず為ります。大丈夫です。