牧師室から

牧師室から №8

2018/5/20

イエス様はナザレからヨルダン川を下り、洗礼者ヨハネの元に行きます。そして洗礼を授けてくれるように願い出ます。しかし洗礼者ヨハネは、この申し出を断ります。なぜなら彼は目の前に立っている、この方こそ、神の子でありメシアだと、神から悟らされていたからです。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」洗礼者ヨハネは思い止まらせようとします。しかしイエス様は「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言って洗礼をお受けになるのです。イエス様はヨルダン川に全身を沈められ、洗礼をお受けになります。そして水の中から上がられるとすぐ「天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」と聖書には書かれています。

イエス様がこの時に見た情景を思い浮かべるなら、それはこの世にあって最も美しい光景だと思えるのです。

鳥は地面に着地する時、それまで身体の内側にしまい込んできた羽根を全て風に向かって立てます。そうして翼を大きく広げ、風を受けとめ、一気に速度を落とし、地面に降り立つのです。私たちはこの瞬間に、躍動的で最も美しい鳥の姿を見る事ができます。そして雨上がりの空を覆っている厚い雲の間から一条の光が差し込む光景、ヤコブの梯子と呼ばれる光の筋もまた、神々しく美しい地上の姿です。

洗礼を受けること、それは私が神に手を差し出すのではなく、神から差し出される手を掴み、ギュッと握ることです。その時、闇に満たされていた魂に光が差し込み、本当の平安と知恵が与えられます。知恵とは神を知ることです。

牧師室から №7

2018/5/13

次週主日の20日はペンテコステ礼拝をまもります。このペンテコステとはユダヤ教に於いて過越祭の50日後に祝われる祭日であり、春に得られる最初の収穫に感謝する農業祭です。なぜこの日がキリスト教の祝祭日になったのか、というと、このペンテコステの日に使徒たちに聖霊が降ったからです。

主イエスは復活され四十日に渡って弟子たちと共に過ごされ後、天に昇られます。それから十日後、使徒と主イエスの母、兄弟たち、従っていた女性たちが集まって祈っていると、その部屋の中に激しい風の様な音が響きわたります。そして天から炎のような舌が一人ひとりの上に分かれて降ります。使徒たちはその聖霊を受け満たされて、様々な国の言葉で語り始めるのです。

その時、エルサレムには地中海の全域に離散して生活していたユダヤ人たちが祭りを祝うために上って来ていました。彼らは使徒たちがそれぞれ自分たちの地域の言葉で福音を語っているのを聞いて驚きます。ペトロは彼らに、主イエスの十字架と復活の意味について説くのです。「主イエスは復活された、私たちの罪は拭われた」と伝えます。その言葉を聞き信じた多くの者たちは洗礼を受け、使徒たちのグループに加わりました。

この使徒の働きによって全世界に教会が作られ、今日の教会へと信仰は継承されました。ですから私たちは、このペンテコステを私たちの教会の誕生日として祝うのです。

牧師室から №6

2018/5/6

エジプトのカイロにギザの大ピラミッドと呼ばれる巨大な建造物が在ります。これは紀元前2650年頃にエジプト第四王朝のファラオ、クフ王の墳墓として建てられたと伝えられています。その高さは150㍍ほど、一つ2.5トンの石灰岩を270万個積み上げて作られています。実際見上げてみると、まるで丘のようなその形象は圧巻の一言に尽きます。なぜこのような巨大な墓が作られたか、一説には農閑期の公共事業だった、とも言われていますが、それでもファラオの執念、つまり自らの命が永遠に続く願いを具現化した構造物である事は否定できないのだと思います。

永遠の命について、たぶん誰も自らが永遠に生き続ける事を望んではいないと思います。なぜなら、私たちのこの世の命は喜びと同等に苦痛もあると知っているからです。しかし私たちは、やはり恐れを抱くのです。自分がこの世に生きた記憶と記録、関係性、資産を手放すことを。それより自らの存在が霧散する事を耐えがたく感じるのです。

しかし主イエスは永遠の命に至る道を示されます。つまり、その道を行くなら、あなたは死に依っても何も損なわれないと話されます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」では、この御言葉は何を私たちに明らかにしているでしょうか。次週、共に聴きましょう。

牧師室から №5

2018/4/29

次週の礼拝にはヨハネ福音書16:12-24が与えられます。この時、主イエスは自らに十字架での苦難が迫った事を悟り、最後の言葉を弟子たちに残されます。つまり遺言を残されるのです。特に16章では、ご自身が去った後の教会に於いてあなた方は迫害に晒されると話します。しかし、その迫害は偶発的な出来事ではなく、この世の利害や関連の結果でもない。逆にその迫害こそ、“神がこの世を救う計画の始め”だと話されるのです。その迫害によって天への望みが壊されるのではないから、失望せず光を失わないように、信仰に留まり続けること。さらに「その苦しみは産みの苦しみであり苦しみは必ず喜びに変わる」と約束されるのです。加えて主イエスは弟子たちに、ご自分が天に戻られた後にもあなた方を孤立させない「真理の霊」をあなた方の間に遣わす、と話されます。

私たちはその方を「聖霊」と呼びます。聖霊という存在について、目に見えるモノを尊重する物質主義の価値観に首までどっぷり浸かって生きる私たちは「霊」という言葉に違和感や拒絶感を覚えるのです。なにかペテンに掛けられるような、誤魔化されているような不快感をおぼえてしまう。でも、そうではありません。主イエスが話される「聖霊」とは、私たちの内に与えられる主イエスの霊です。彼は私たちに神の御言葉を咀嚼して与えます。私たちは聖霊の助け無しに聖書を読むことも祈り事もできません。私たちの信仰を支え助ける方として、聖霊は働くのです。

牧師室から №4

2018/4/22

先週、桑名教会定期総会が行われ、すべての議案が協議され承認、可決されました。新しい2018年度を主と共に、また教会に集う皆様と共に歩めること、心より感謝します。

さて、その中で、私たちの教会は今年度の主題聖句を詩篇23篇の言葉「主は我が牧者なり」としました。この御言葉について、若干の説明をさせていただきます。先ずこの牧者ですが、「牧場で牛や馬の世話をする人」という意味の言葉です。でも、この詩篇の言い表しているところの牧者とは「羊飼い」の事です。つまり、神は私たちにとって羊飼いの様な存在であると、この詩は謳うのです。

羊飼いは自分の羊を一匹一匹覚えて、その名前を呼んで柵から連れ出します。羊も自分の羊飼いの声を知っていて、呼ぶ声に従います。そして羊は羊飼いに導かれて牧場に辿り着き草を食み、水場で水を飲みます。羊は試みられることも労苦する事も無く、すべて必要なモノを必要なだけ与えられます。しかしその関係は牧歌的なだけではありません。羊飼いは羊を盗むために忍び寄る盗人と命がけで闘い、野の獣を追い払います。群れからはぐれた羊を探し、崖に向かう群れを鞭で押しとどめ、毒草を食もうとする羊を杖で叩くのです。その様にして羊は守られ、夕べにはまた家へと帰るのです。

詩篇の歌い手は、この詩の中に、神からの恵みと祝福だけではなく、私たちが与えられる痛みの意味をも織り込みます。私たちが与えられる痛みもまた主の愛の業であると、謳うのです。

次週(4/29)の礼拝では「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」という御言葉が与えられています。私たちはどこに“帰属する民”なのか、共に御言葉に聴いていきたいと思います。

牧師室から №3

2018/4/15

次週22日の主日礼拝には、ヨハネ福音書13:31-35の御言葉が与えられています。この場面は最後の晩餐の最中であり、弟子の一人ユダが主イエスを裏切り、その場から出ていった後の事です。

ユダが裏切った事について、その場にいた他の弟子たちは何が起こったのか気付けないのです。しかし主イエスだけはユダの心を知り、それでもユダを送り出されます。この時、主イエスは自らの受難が始まった事を悟るのです。

そして弟子たちに新しい掟を教えます。それは「互いに愛し合いなさい」という言葉です。その言葉によってモーセの十戒は補完されます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(MAT05:17)

言葉は愛を加えることによって完成します。逆に愛の無い言葉は不完全です。その言葉は相手を損なうものとなります。では、どうやって言葉に愛を加えるのか、共に聞きましょう。

牧師室から №2

2018/4/8

今週の礼拝後から、役員会の承認を経て、受付に説教全文を印刷して置くことになりました。この説教プリントの目的は二つあります。一つは説教中に聞き漏らしたこと、聞き取りにくかったこと、よく解らなかった事を読み返す為です。もう一つは持ち帰って、ご家族、ご友人、関心のある方に手渡していただくためです。是非、伝道のアイテムとしてもご活用ください。

只、説教全文と言っても、講壇の上で即興でアレンジした言葉は反映されませんので、完全版という訳ではありません。それに、そもそも礼拝説教とは、聖日の礼拝という場で話し手と聞き手が共に神を見上げ祈る場にあって、即時的に与えられる恵みです。印刷された説教を残滓とまで言いませんが、あくまでもガイド程度の感覚で読んでいただければ幸いです。

もう一つ、この「牧師室から」に関してです。この貴重な囲み欄をどの様に使うか、ですが、教会として可及的速やかに意思の疎通を図らなければならない課題が与えられない限り、次週礼拝に与えられる聖書箇所の黙想を載せたいと考えています。映画や芝居の予告編のように、です。多少、右往左往すると思いますが、のんびりとお付き合いいただければ幸いです。

牧師室から №1

2018/4/1

主の平和がありますように。

はじめまして、私の名前は辻 秀治(つじ しゅうじ)ともうします。出身地は東京都日野市、キリスト者の両親に連れられ、幼い頃から日本キリスト教団日野台教会に通いました。その後、教会学校や中高科のキャンプで育てられ、社会人経験を経た後、東京神学大学に入ります。学部三年に辻順子(今は鳴海教会牧師)と結婚、神学生時代は千歳船橋教会、伝道師となってからは藤沢教会で奉仕させていただきました。按手を受け牧師となって下谷教会の招聘を受け七年間主任教師、主任を順子牧師と交代し計十三年勤めました。

前任地の下谷教会を辞するにあたって、三宅島伝道所での復興伝道の召命が与えられ、三年間単身三宅島で生活しました。三宅島では1983年の噴火で会堂・牧師館が焼失し、四十年近く、月に一度本土から牧師を迎えて礼拝を献げる、という状況が続いていました。更に2000年の噴火で全島避難が行われ教会員の殆どが離島されました。そこで、神は私に「三宅島で毎週の礼拝を守ること」という平易な召命を与えられました。とはいえ、信徒四人の群れ、礼拝出席も自分を含めて二人から四人ですので生活は自分で整えなければなりません。でも神は、ただ召命を与えるだけではなく、揃いで生活の手段も与えて下さる方です。幸いにも大型自動車、建設機械、コンクリート技士、コンクリート診断士の免許が与えられ、月曜日から土曜日まで建築会社で作業員の一人として働く事が許され、日曜日には旧民宿かまかわの広間で礼拝を守り説教奉仕をさせていただきました。住居も本土には祈りに覚えて下さる仲間も与えられ「主の山に備えあり」でした。

三宅島の人口は現在2600人ほどと言われています。ですから殆どみんな顔なじみです。「島の噂話はツイッターより早い」という環境下で「キリスト教の牧師」という私の立場は直ぐに知れ渡りました。では浄土宗が強く海を神格化するお祭り共同体の島の風土の中で、私は排斥されたのか、というと、そうではありませんでした。逆に世間ではキリスト教は信頼されていること(キチッとしている、品が良いと言う印象)を実感させられました。でも、それが逆に教会の敷居を高くしているとも思わされました。(島での伝道に付いては追々お話しします。)自分の行ける範囲に教会があり、会堂があり礼拝を献げられることを「当たりまえ?」と思われるかもしれませんが、それこそが神からの最高の恵みなのだと実感させられました。

さて、私は次の召命に従って桑名教会での牧会を勤めさせていただきます。神の家族として、共に祈り支え励まし合い、主を礼拝しましょう。よろしくお願いいたします。人の思いは断たれても、主の為さる事は必ず為ります。大丈夫です。