牧師室から

牧師室からNo.299 2024/1/21

2024年能登半島地震で被災した中部教区の各教会の状況を報告します。(中部教区報告の要約2024/1/15時点)
【羽咋教会】地震発生時の大きな揺れにより、会堂内が散乱。外壁のタイルが数カ所剥がれた他、擁壁、建物本体に大きな傷は見られません。電気、ガスは正常。現在、断水は解消されています。
【富来伝道所】揺れがより激しかった立地にて、建物内が激しく散乱、冷蔵庫の上にあった電子レンジが落下、ガラス食器も多く割れ、屋外では給湯タンクが外壁の留め金が壊れたため傾きました。
断水が解消しても再使用には時間がかかりそうです。会堂の躯体、外壁、屋根に目に見える損傷はなく、玄関ドア、窓、スライドドア等の立て付けは正常ながら、壁紙の下地(石膏ボード)がずれた数箇所にひび割れが起きました。照明器具、エアコンの落下はなく、室外機から異音のする1台を除き正常に動作しています
【七尾教会】教会堂、牧師館は外壁が剥がれ墜ちるなど損傷。隣接する七尾幼稚園が一時、民間の避難所として用いられました。牧師夫妻は牧師館に残られています。
【輪島教会】教会堂の建物が割けて、玄関部分も崩落。礼拝堂内が外から見える全損壊の危険な状態です。牧師館も隣家の倒壊により、壁に穴が開き、給湯タンクが倒れて漏水。新藤牧師は会堂、牧師館共にきわめて危険な状態のため教会員と共に避難所で過ごされています。

牧師室からNo.298 2024/1/14

私たちの教会の聖餐式では、配餐者によってパンとぶどうジュースが配られ、牧師が祈りを捧げたあと、共にいただきます。このようにして私たちは、主イエスと弟子たちの最後の晩餐での出来事を覚えるのです。主イエスは一つのパンを裂き「取りなさい。これはわたしの体である」と話し弟子たちに配ります。また一つの杯に満たされた葡萄酒を回し飲んだあと「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と教えます。このパンは、主イエスが人類の罪を背負って十字架の上で肉体を割かれ、自らを犠牲として献げられた姿を象徴しています。そして葡萄酒は主イエスの血を象徴しています。しかしその血は、十字架上での苦しみを象徴するものではありません。ユダヤの祭儀では神殿で焼き尽くす献げ物の雄牛を屠ったあと、その血を祭壇に振りかけ汚れを清めていました。つまり私たち信仰者は主イエスの流された血によって罪を清められていることを象徴しているのです。現在、葡萄酒がぶどうジュースに置き換えられている理由は、アルコール依存症の方、車を運転される方への配慮からです。古来、キリスト教徒は「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」(使徒2:46)とあります。私たちも聖餐に与ることで清められ、その生活は整えられるのです。
次週の礼拝ではカナの婚礼の奇跡の聖書箇所が読まれます。主イエスは水がめに満たされた清めの水をぶどう酒に変えられます。それは単に婚礼の席を盛り上げるためではありません。私たちが聖餐式で杯を頂くことと関係のある奇跡なのです。

牧師室からNo.297 2024/1/7

新しい年、主の年2024年が始まりました。年始早々、能登半島地震、羽田空港の事故と続き、心がざわつきました。特に地震の影響で輪島教会では会堂の一部が倒壊しました。富来伝道所、羽咋教会、七尾教会では外壁に亀裂が生じるなどの被害がありました。また各教会の関係者にも被災された方がいます。桑名教会では、これから各教会、教会に集う方々への援助を進めていきますので、お祈りにお覚え下さい。またご協力いただければ幸いです。
災害が起こるたびに私たちは被災した方々のことを心配し、無事であることを祈ります。そして神に疑問符を投げかけるのです。「なぜ神は私たちに試練を与え、試みられるのか」と祈り訴えるのです。しかし、その祈りは適切なのでしょうか。創世記22章の物語にこう記されています。神はアブラハムに「長男イサクをモリヤの地につれて行き、焼き尽くす生贄として捧げなさい」と命じます。イサクはアブラハムが年老いてからようやく与えられた最愛の息子です。そしてアブラハムは、モリヤの地に向かう数日の間、神が何を考えているのかを悩み続けるのです。「なぜ神は私を試みられるのか、私に落ち度があったのか」しかし答えは出ません。横には事情を知らずに父との旅を無邪気に楽しんでいるイサクがいます。そしてアブラハムはモリヤの丘に着き薪を組み、祈りを捧げます。イサクの首にナイフを突き立てようした時、神は彼の手をとめるのです。
神の創造された世界に住むことを許されているにすぎない。それが私たちの存在です。しかし神は私たちに、どんな試練からも困難からも起ち上がり、復活する力を与えて下さいます。神は私たちに生きる力を与えられる方です。

牧師室からNo.296 2023/12/31

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」(イザヤ42:1-9)預言者イザヤは神から救い主の到来の約束を与えられ、ユダヤの王に、そして人々に御言葉を伝えます。しかし、その救い主の姿は、王にとっても人々にとっても異質なものでした。敵対する国との戦争に勝つために人々が求める指導者とは【叫んで人々を鼓舞し、敵を辛辣に呼びつけ、己の意見・主張を巷に声を響かせ、傷ついた者を切り捨てる冷酷さを持ち、弱った者を徹底的に踏みつけ、自らの裁きを行う者、壊し、奪い、脅し、狡猾な、誰の意見も聞かない独裁者】だったからです。そして戦争が終わると独裁者は側近に拠って粛正されます。使い捨てられるのです。しかし、それは救い主ではないとイザヤは伝えます。真実の救い主は完全な裁きをこの世に永遠に残される方です。本当の裁きとは「その人を愛するが故の叱責」です。もちろんその愛とは十字架によって示された自己犠牲を伴う愛です。主イエスが指し示された愛です。
イザヤは「島々は彼の教えを待ち望む。」と記します。この「島々」とは全世界のすべての国々、民族、私たちを意味します。2023年が終わり、2024年が始まろうとしています。私たちはこの世界に神の裁きが実現することを望み、希望を持ちつつこの新しい年を共に歩みましょう。

牧師室からNo.295 2023/12/24

子どもの頃、キリスト教をアメリカの宗教だと漠然と思い込んでいました。教会では英語を教える教室が開かれていたり、教会に来たアメリカ人宣教師から英語で話しかけられて尻込みする、といった経験があったからです。しかし教会学校で聖書を学び始めると、それまでイメージをしていたキリスト教がガラガラと壊れました。イエスさまが歩いている場所はカリフォルニアではなくエルサレムです。希望に満ちた歌詞のゴスペルフォークが歌われていた訳ではなく、預言者は民の背きを嘆き、苦難と迫害を宣言するのです。そして聖書の中心的なテーマは「人の罪」だったのです。しかしその暗闇に目が慣れてくると、ようやく向こうの方に微かな光が見えてきました。人間にとっての本質的な救いの意味を知るのです。
キリスト教はアメリカの宗教ではなく世界のすべての人に与えられた恵みです。イスラエルの片田舎ナザレから始まって、ローマ帝国の国教となり、ルネサンス期の文化と深く繋がり近代文明の基礎となり全世界へと広がります。そしてほんの百年程前、欧米から見て東の外れ(Fer East)の日本にも、神の言葉が伝道されました。日本のキリスト教はまだまだ生まれたばかりの乳飲み子です。ですからキリスト教は外来の宗教という意識がまだ残っています。
エルサレムの真裏に位置する日本に御言葉が伝えられたこと、その始めの出来事が、東方の占星術の学者たちの礼拝です。彼らはそれぞれ携えていた黄金、乳香、没薬を献げます。そして主イエスは初めてユダヤ人ではない異邦人に自らの姿を明らかにします。この世の闇に光を与える救い主として、この世のすべての人のために主イエスはこの世に来られたのです。

牧師室からNo.294 2023/12/17

クリスマスの物語の中に皇帝アウグストゥスが人口調査を行う出来事が記されています。この勅令を受けてヨセフとマリアはヨセフの故郷、ベツレヘムに帰ります。しかしなぜ聖書は、この時代にローマ帝国による人口調査が行われたことを記事にするのでしょうか。それは、闇が最も深かった時代に、神はイエスさまを世に遣わされたと伝えるためです。人口調査を人間が勝手に行うことについて、神は否定的なのです。例えば旧約聖書に記されている最も偉大で優秀なダビデ王も、晩年、人口調査を行う誘惑に抗うことができず将軍ヨアブに命じます。ヨアブは異議を唱えますがダビデは言うことを聞かず、結局イスラエルの民の数は数えられるのです。そして神はそのことを良しとせず、三日の間イスラエルに疫病が蔓延し、ダンからベエル・シェバまでの民のうち七万人が命を落とします。なぜ神は人口調査を嫌われるのか。それは人口調査が徴兵と徴税のために行われるからです。国民を敵と戦わせること、国に税金を納めるために国民を働かせること、人が人を管理すること、人が人の自由を奪い束縛すること、を神は嫌うのです。
神は私たちを一つの独立した、神の前に立ち礼拝を献げることのできる命として創造されました。にも関わらず、私たちは誰かの権利を剥奪したり、自ら権利を放棄してしまうのです。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ福音書4:18)私たちに与えられた救い主は、私たちをこの世の様々な束縛から解放し、自由を得させるための神からのプレゼントなのです。

牧師室からNo.293 2023/12/10

動画共有サイト「YouTube」(ユーチューブ)の日本国内の月間視聴者数が7120万人を越えたとの報道がありました。そう言われてみるなら、最近、キリスト教信仰や聖書に関する知識について「YouTubeでこんなことが話されているけれど本当ですか?」と質問されたり、全国各地の教会で配信されている礼拝説教を見比べて「今週の○○教会の△△先生の話がよかった」なんて話しを耳にするのです。桑名教会の礼拝配信も恒常的に十人ほどの方が即時視聴し、後日、保持された映像を視聴される方は平均20名程、総再生時間も7時間くらいになっています。YouTubeは既に私たちの日常生活に深く入り込んでいます。そしてキリスト教に限らず霊的な関心、格言、自己啓発を扱うチャンネルの人気は特に高いらしく、多くの人の信仰に対する意識や神観念に強く影響を及ぼし始めているようです。教会に出向いて礼拝を守らなくても聖書の話しを聞くことができる。神学者の講義を聴講することができる。それはとても便利なことです。私は、この潮流を肯定的に捉えています。それは、YouTubeを介して身につけた聖書に関する知識、神学、信仰も、行き着くところは主日礼拝に収束していくと確信しているからです。主イエスが霊だけの存在ではなく肉体を持たれたように、信仰は学ぶだけでは不十分です。信仰は二人、三人が集まり心を一つにして祈る礼拝の只中に与えられる、神からの恵みだからです。
次週の御言葉に描かれる洗礼者ヨハネは、やがて来られる救い主を証しするために働きます。人々に教えを説くのではなく、とにかく一人でも多くの人の告解を聴き、ヨルダン川の水で洗い浄めて洗礼を授け、神の前に立つ、礼拝のための準備をさせるのです。

牧師室からNo.292 2023/12/3

以前、教会員に方から地鎮祭をキリスト教式で執り行うことはできないかと相談を受けました。その方の息子さんが新しく家を建てることになったのですが、着工前に行われる地鎮祭に神主を呼びたくないという話です。地鎮祭とは「その地域を守っている神様に土地を使用する許しを請い工事の安全を祈願する」ための儀式です。しかし日本古来の「地鎮」の意味はもっと厳格です。「今は人間の利便性のために樹木を伐採し、地形に手を加えるけれど、使い終わった後には元に戻します」と神様に誓う儀式です。明らかにキリスト教の神観念とは違います。キリスト教式の地鎮祭では、視点は土地建物ではなく人に向きます。「神の創造された世界に生かされていることを感謝し、新しく建てられる家に住む家族に神からの祝福が豊かに与えられることを祈り、工事に携わる者たちの手が神の霊によって浄められるように祈る」礼拝となります。ソロモン王がエルサレム神殿を建てた時、彼はこう祈りました「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(歴代誌下6:18)神は建物と関わられるのではなく、その建物に住まう人々と関わられる方です。
次週の礼拝では「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ福音書5:39-40)という聖句を読みます。私たちは画竜点睛に陥るのではなく中心に神との関係を置くのです

牧師室からNo.291 2023/11/26

次週の礼拝から教会はアドベントに入ります。さて、このクリスマスに読まれる聖句にマタイ福音書1章23節があります。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』」(マタイ福音書1:23)この「インマヌエル」の「インマヌ」は「われらとともにいる」を意味し「エル」は「神」を意味します。インマヌエルが最初に記されるのは旧約聖書のイザヤ書です。預言者イザヤがアハズ王にこのように話します。「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書7:14)預言者イザヤの時代、ユダヤは北のイスラエル王国と、南のユダ王国に分かれていました。そして東の強国アッシリアの圧力が高まる中で、ユダ王国の王アハズはアッシリアに従う選択をするのです。しかしイスラエル王国はアッシリアに敵対するアラム(ダマスカス)と同盟を結びます。兄弟のような関係のイスラエル王国とユダ王国が対峙する事態になるのです。そこで預言者イザヤはアハズ王を訪ね、神の言葉を伝えます。それがインマヌエル預言です。イザヤはアハズに事態を恐れず神に従うこと、そうすればアラムとイスラエル王国からの侵略は成功しないだろうと告げます。この言葉を信じないアハズ王に対して、イザヤは神の言葉が正しいことの証拠として、おとめがみごもりインマヌエルが産まれると伝えます。インマヌエルとは「人に対して明らかにされた神」「人と同じになられた神」「人と共に行かれる方」を言い表す名前です。恐れるべきは敵軍ではなく神であること、苦難の先に希望があることが告げられるのです。

牧師室からNo.290 2023/11/19

以前、国境の町エイラトを通ってエジプトからイスラエルに入った時のことです。エイラトからエルサレムまで上るバスはイスラエルとヨルダンの国境沿いの道を進んで行きます。この時、驚かされたことがありました。車窓から見て、右側と左側の景色がまったく違っていたのです。左手のイスラエル側の地面は緑が濃く、スプリンクラーからは水が撒かれていました。幾つも連なっている畑には野菜が育ち、樹木には黄色い柑橘系の果実が実っています。他方、右手、国境を挟んでヨルダン側の大地は薄茶色に乾き、岩と砂に覆われていたのです。イスラエルでは廃水の八割以上が処理され、灌漑用水に再利用されています。また飲み水の二割は「かつての海水」を脱塩装置で淡水化したものです。イスラエルは豊富な資金力と最新の技術を使って、自国の荒涼とした砂漠を改良していたのです。この時、地面にクッキリとひかれた国境の直線が、現代の世界の在り方を表しているように感じたのです。なぜ人間が地面の上に線を引き、国境を設けるのでしょうか。国境にはフェンスを張り、物見櫓を建て、兵隊たちを置くのでしょうか。どんな国民、民族、人種に属していても、個人と個人は仲良くなれます。しかし国と国とは駆け引きをし、争い合うのです。なぜでしょうか。
イエスさまは「わたしの国はこの世には属していない。」と話されます。この世の支配ではなく、神の支配にのみ帰属していると話されるのです。私たちキリスト者の国籍も天にあります。それは私たちがこの地上を蔑ろにして良い、ということではありません。この世の支配に捕らわれている人に魂の解放を告げる先駆けとしての役割を、私たちは担わされているのです。

牧師室からNo.289 2023/11/12

以前、牧師の集まる修養会に出席した時のことです。主題が「教会音楽」でしたので、教会音楽の歴史や神学に詳しい牧師、オルガニスト、音大の講師など数人が招かれての講演が行われました。その会の中で一人の牧師が話した言葉が、とても印象深く、未だに脳裏に刻まれています。彼は詩編102篇の一節を引用しました。「主はまことにシオンを再建し、栄光のうちに顕現されます。主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られませんでした。後の世代のために、このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」(詩編102:17-19)神の栄光を賛美する為に人間を創造された、と彼は話します。鳥たちの唄、獣の遠吠え、木立が風に吹かれてさざめく声、沢を下る清流の音、乳児の泣き声、すべては神を賛美する声だと話すのです。私には、そんな発想が与えられたことはなかったので、とても驚かせられました。そして神の創造について、自分を中心に神の創造の秩序を見るのではなく、神を中心にした視点があることに気づかされました。現代にあって人間は、自分の生きる目的を自己に内在する欲望や欲求を充足させる為と考えるのです。一昔前は自分の属する家族、民族の伝統、文化を次世代に継承し存続させることを目的にしていました。しかし、そもそも人間は神を賛美するために創造されたのです。礼拝することが人間の生きる目的だと詩編は記すのです。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ福音書3:27)とイエスさまは話されます。生きる目的を見誤らないように、イエスさまは私たちを諭されるのです。

牧師室からNo.288 2023/11/5

私の通っていた幼稚園にホールに「幼きサムエル」の絵が飾られていました。幼い少年がひざまずいて手を合わせ、天を仰いでお祈りをしている絵です。その頃、神さまは願いを叶えてくれる方だと信じていました。だから、悲しいことがあったり、困ったことがあると、いつもお祈りをしていました。けれども小学生になって、友だちから「苦しいときの神頼みなんて無駄だよ」なんて言われて「そうだよね、悲しいことも困ったことも、自分の力で努力して克服するものだな」と考えるようになりました。そして努力して、頑張るなら、願いが叶うと思うようになるのです。目に見える成果を得て、達成感を味わい、褒められて有頂天になります。自分には特別な力があって、何だってできると自惚れるのです。しかし成長して、世界が広がって行くに従って、できないことが増えていきます。望みが叶わないことがあるたびに「努力が足りない、なぜ頑張れないのか」と自分を責めるようになります。友だちと自分を比較して「なぜあの人は上手くできるのに、私にはできなんだろう」と心が劣等感に満たされて、心は闇に覆われます。完全に祈りを忘れるのです。
ティマイの子バルティマイの願いは、主イエスによって叶えられます。しかしそれは彼の救いではなかったのです。では彼の救いとは何だったのか、来週の御言葉から共に聴きましょう。

牧師室からNo.287 2023/10/29

「叱られなくなったら終わりだよ」。幼い頃に言われた言葉が強く心に残っています。たぶん私が何らかの悪さをして、叱られて、拗ねて意固地になり、耳を塞いだときに掛けられた言葉だったのでしょう。小学校の先生だったか、誰の言葉であったかは曖昧です。そして大人になった今でも、この言葉は私に語りかけます。「ほら、また心が硬くなっている、自分の考えを握りしめている、人の言葉がきこえなくなっている。」イエスさまも、心が「頑な」(pwro/w poroo)になった弟子たちを何度も叱ります。しかし彼らは、彼らの目の前でイエスさまが墓に納められたラザロを生き返らせても、イエスさまを神の子として受け入れることができないのです。しかし、それが当然なことだと聖書は教えます。モーセがイスラエルの民を連れてエジプトから逃れ出る時、ファラオはそれを拒みました。しかしそれはファラオの過失ではなく、聖書は「主がファラオの心をかたくなにされた」(出エジプト10:20)からと記すのです。つまり人は創造された時から、自らの力で自らを省みるようには造られていないのです。しかし神は、この高い壁を崩して下さいます。それがイエスさまの十字架です。この十字架は私たちの心を映す鏡です。「ああ、私の心の頑なさがイエスさまを十字架に掛けたのだ」と腑に落ちた時、私たちは初めて自らの頑なさに気づかされるからです。そして、そんな愚かで滅びに向かいつつある私でも神は愛して下さっていると、イエスさまが十字架上で祈られた赦しの言葉「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ福音書23:34)に気づかされるのです。次週はこの神の救いの業について共に聴きましょう。

牧師室からNo.286 2023/10/22

「言(ロゴス)」(logos)。古代ギリシャ哲学者たちは、それを人間の理性だと考えていました。つまり彼らは人間を「ロゴスをもつ動物」と定義していたのです。このロゴスの語根(lo/g- log-)は「拾い集める」「選択する」であり、「散らばっている事柄を一定の秩序や系統に従って取りまとめる」という意味になります。理性、法則、秩序、意味、根拠、理由、原因といったニュアンスを含んだ「言葉」と訳されるのです。そして私たちが社会生活の中で習得した言葉は、私たちの知性、理性を形成します。なぜなら私たちは自分の思考を言葉にすることによって自分の考えを明確にするからです。ですから「言葉は人を作る」という格言があるように、積極的な言葉を使うと人は活動的になり、人を褒める言葉を使うと思いやりのある行動をとるようになります。逆に消極的な言葉を使うと受け身になり、人を非難する言葉を使うなら排他的で独善的な行動を取るようになります。そして言葉のもう一つの重要な役割は、自分の思考や感情を相手に伝えることです。パウロは「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(エフェソ4:29)と勧めています。つまり「相手を成長させる言葉」を使うなら、お互いがよりよく成長することとなり「相手を否定するような言葉」を使うなら、お互いの知性と品性は劣化すると教えるのです。
次週から教会の暦である教会暦は「降誕前節」に入ります。主イエスの再臨と御降臨を覚える期節です。私たちの魂に神の言葉である主イエスを招く準備を始めましょう。

牧師室からNo.285 2023/10/15

水曜会では、昨年の十月から一年掛けて毎週一章ずつ細かく丁寧に、出エジプト記を読み切りました。特に新約聖書に引用されている御言葉や、後の信仰者に及ぼした思想的影響などについて記されている箇所について、とても興味深く読むことができました。出エジプト記というと、ヘブライ人として生まれたモーセがファラオの娘に拾われ王子になる、エジプトが十の災いに襲われる、海が割れる、といった前半の物語部分が有名です。1956年に「十戒」(セシル・B・デミル監督、チャールトン・ヘストン主演)というタイトルで映画化もされました。しかし、今回通読をして改めて感じたことは、後半、十戒の授受と契約の締結、幕屋の建設こそが出エジプト記の核心部分だったということです。つまり私たちは六章に記された「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。」(出エジプト6:7)という言葉から、私たちが洗礼を受ける意味を知ることができます。また幕屋の奥の部屋、神がとどまるために備えられた至聖所の目的から、私たちが聖餐を受ける意味、聖餐とは自らの魂の内に主イエスを招くことだと理解することができます。そして幕屋の庭に置かれている祭壇で焼き尽くされる捧げ物から、主イエスの十字架の意味と、その犠牲によって贖われる私たちの命を知ることができます。私たちは毎主日捧げている礼拝の意味を、幕屋建設の箇所から読み取ることができるのです。私たちの礼拝は、その場の思いつきや一朝一夕で作られている訳ではなく、モーセの時代に既に完成され、私たちは様式を踏襲し、信仰を継承しているに過ぎないのだと、改めて確認させられました。今週からレビ記に入ります。ぜひご参加下さい。

牧師室からNo.284 2023/10/8

三週間ほど前に牧師館の庭の草刈りをしました。草刈り機で表層の草を刈り、熊手で集めてゴミ袋に詰めます。そのあと立鍬で念入りに根を掘り返し、壁際の草は手でむしって根を鎌で掘り出します。庭の奥に生えているジンジャーは強い植物だと書かれていたので、すべての葉を断ちました。そこで終了。いつか暇をみて枇杷と柊の剪定をして冬を迎えれば良いかな、と満足したのです。ところが、今朝、庭を見ると草たちは息を吹き返していました。幾種類もの草本、ドクダミが地面を覆い、ジンジャーは三十センチ程の葉を伸ばしています。草木の生命力、生きる力のたくましさに感嘆しました。私は雑草を刈ることで生命を管理しようと考えていたのです。しかし、そうではなく生命とは共存するものだと改めて思わされました。人と人、国と国とが対立する今の時代にあって、私たちは互いの違いを認め合いながら、共存する方向に心を向けていくためにはどうすれば良いのか。もし自分と違う意見を聞いた時には、すぐに拒絶して排斥するのではなく、知見が広がったと感心して感謝すること。信仰者は神以外に正解を知る方などいないと知っているので、相手の言葉を聴くことができるはずです。
次週の御言葉の中でイエスさまは、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ福音書17:20)と弟子たちに教えられます。私たちは自分の力や能力を使って天の国に辿り着こうと考えます。天の国はどこか遠くにあると考えるのです。しかしそうではありません。天の国は既に「私」の魂の内側にあります。私たちはその天の国と共存すれば良いのです。

牧師室からNo.283 2023/10/1

「つまずき」(skandalon)という言葉の元々の意味は「罠に仕掛けられている木の棒」です。伏せたカゴの内側に餌を入れて、カゴの縁を木の棒で浮かせておきます。そして鳥が餌を食べようとカゴの中に入ったところで、木の棒に括り付けていた紐を引きます。そうやって鳥を捕まえるための木の棒、それが「つまずき」です。聖書の中では擬人化されて使われていて「つまずきとなる者」「不法を行う者ども」と同一視されています。つまり「自分の目的を達成するために神に繋がっている人を神から引き離して自分と繋げようとする者」が「つまずき」であり、それは聖書に記されている悪魔と同等の意味です。聖書における悪魔の定義は「人を誘惑して神から引き離す人格的な存在」だからです。主イエスは「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」(ルカ福音書17:1)と話されます。最大限の叱責の言葉です。この言葉を聞くと、私たちは怯えてしまうのです。私の態度や言葉が誰かをつまずかせたかもしれない、と考えるからです。では、そうならない為にどうすれば良いのか、それは私がイエス様と繋がっていれば良いのです。自分の力で誰かを助けようとか、支えようとするのではなく、イエス様がその人を助けるための道具になること。自分でパンを与えようとするのではなく、イエス様がその人にマナが与えられるように祈ること。自分は神の恵みと祝福を受ける土の器に過ぎないのだと自覚することです。私が誰かを救うことなど不可能です。しかし神はその人を必ず救われるのです。

牧師室からNo.282 2023/9/24

ラザロ(Lazaros)という人物は新約聖書に二回登場します。一箇所目はヨハネ福音書に描かれているマリアとマルタの兄弟として、二箇所目はルカによる福音書に登場する金持ちとラザロの譬え話に登場する貧乏人として、です。そして、どちらのラザロも一つの象徴的な出来事と繋がっています。それは死者の甦りです。ベタニアに住むマルタとマリアの兄弟ラザロは死んで四日の後に主イエスによって甦らされました。一方、金持ちは、物乞いのラザロを甦らせ、警告のために自分の兄弟たちのところに送ってくれ、と神に願うのです。この甦りとは、主イエスの復活とは違う出来事です。一度死んだ者が蘇生すること、です。ベタニアのラザロは甦った後に、キプロス島の初代司教になったという伝承があります。そして、キプロス南東の都市ラルナカにある聖ラザロ教会の地下にはラザロの墓所があります。つまりラザロは甦って福音伝道のために働いた後、もう一度死ぬのです。加えて聖書に描かれている死んだ者が甦るという出来事、つまり蘇生は、主イエスだけが行える奇跡ではありません。預言者エリヤはサレプタの未亡人の息子を甦らせており、その弟子のエリシャはシュネムの婦人の子どもを甦らせています。またパウロは、パウロの説教が長いため居眠りをして三階の窓から落ちた少年を甦らせています。
この甦りの意味は、命の源は神だということです。「わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。」(申命記32:39)ラザロと神の関わりから、私たちの命は神の御手の中にあるという真理、そして信仰を再確認することができます。

牧師室からNo.281 2023/9/17

宗教改革者カルヴァンによって提唱された二重予定説という神学思想があります。彼は創世記に記されたカインとアベルの物語から、神の救済にあずかる者と滅びに至る者は、あらかじめ神によって決められていると説くのです。つまり、この世の善行を積んだかどうかによって、どちらに向かうかを変えることができないというのです。この考え方の根底には、当時のカトリックへの反駁があります。教会に多くの富を寄進した者だけが救われるわけではない、救われるか滅びるかは【神の自由意志】によって決められる、と彼は明らかにしたかったのです。この思想は後の教会で、二元論的な理解に利用されてしまいます。しかし神の救いに於いて大切なことは、人間の能力や知識、感覚では計ることができない、ということです。神のみが裁き、神のみが罪を赦されるのです。
そして近代に至り、二重予定説に対して万人救済論という神学思想が議論されるようになります。晩年のバルトはこの思想に行き着いたと考えられており、モルトマンは明確に論述します。それは、すべての人は最終的には主イエスの復活にあずかる、救いに入れられる、とする考えです。もし、罪ある者は救われないとするならば、すべての者は滅びるしかない。滅びを味わったのは全人類の中で主イエスお一人であり、主イエスが私たちの代わりに十字架に架かり滅びを負われたが故に、私たちは救われたと説くのです。この世の人生の間で回心に至らなかった者も、死の後には神の御腕に抱きかかえられます。では、この世にあって信仰を守らなくても良いのか、というと、そうではありません。だからこそ、私たちは生きている間に信仰を告白するのです。

牧師室からNo.280 2023/9/10

ラムスプリンガ(ドイツ語で「走り廻る」の意味)という儀式があります。それはキリスト教の教派、アーミッシュで行われる通過儀礼です。彼らは、自分たちの共同体で育った男の子が16歳になると意図的に共同体から外に放り出します。ドイツやアメリカの都市で自由な生活を経験させるのです。なぜこのような儀式が行われるのかというと、共同体以外の世界を見せるためです。アーミッシュはとても保守的で、オルドゥヌングと呼ばれる戒律を厳守し、その純粋さを保つために16世紀以降の文明社会から隔離された生活を守っています。例えば移動には馬車しか使いません。怒ってはいけない、喧嘩をしてはいけない、読書は聖書と聖書の参考書のみ許可される、讃美歌以外の音楽を聞いてはいけない、避雷針を立ててはいけない(雷は神の怒りであり避けることは神への反抗となる)、化粧をしてはいけない、保険に加入してはいけない、など、毎週安息日には順番に家で礼拝を守り、皆で畑を耕し、皆で家を建て自給自足の生活をします。しかし子どもたちは思春期を迎えます。親や社会に反抗し自立する時期です。そこで彼らはラムスプリンガを経験させ、一旦共同体の外に出た後、このまま都会に残るか、アーミッシュの共同体に戻るのかを自分の意志で決めさせるのです。統計では9割の子どもたちが家に戻り、その後、自らの意志で洗礼を受け共同体に属している、とあります。
子どもが家に戻り、自分の意志で洗礼を受け共同体の一員になること。その背後には親と共同体の信仰と忍耐、愛があります。子どもが誘惑に落ちないように、毎日祈り待ち続ける信仰の在り方です。そして神も親のような愛で、私たちを待っておられます。

牧師室からNo.279 2023/9/3

父が転勤族だったので、私は子どもの頃に何度か引越しを経験しました。その準備の度に父から言われた言葉は「破って捨てる」でした。必要なものだけを段ボールに入れる。一ヶ月以上使っていないものは捨てる。思い出の品は「ありがとう」と感謝してから捨てる。飾っていたプラモデルは、また新しいのを作れば良いから、と捨てる。雑誌や本は必要なページだけ切り取って捨てる。二枚ある分度器は一枚を捨てる。今になって思えば、父の思惑は荷物が多くなるとそれだけ引越しの労力と費用がかさむから、だったのです。しかし私にとって「破って捨てる」は、一つの人生哲学になりました。大人になって信仰を得て、聖書に触れてロマ書を読んで、パウロの信仰の行き着いた先に同じ思索を発見したとき、私は嬉しくなりました。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ロマ書12:2)この世の物質的なモノ、思想的な言葉に固執するのではなく手放すこと、その後に、日々新しくされることを神に求めなさい、という信仰のありかたです。
次週の御言葉の中で主イエスは「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ福音書14:35)と話されます。心をこの世に捕らわれ、奴隷になっている私たちを解放するために、主イエスは十字架に掛かられ、死んで復活されました。たとえ命を捨てることになっても、新しい命に生かされる。古い命を捨てなければ新しい命は得られません。空っぽになった巣には新しい鳥が住むのです。

牧師室からNo.278 2023/8/27

「世界の軍隊の殆どは、その銃口を侵略者に対してではなく、自国民に向けている」と書くダグラス・ラミスのエッセイを読んで、考えさせられました。日本に住んでいると軍隊は文民統制されていて当然、と思い込んでしまいますが、軍隊は議会や国王と並び立つ権力です。その証拠に議会や国王が統治する力をなくし、国民からの信任を失うなら、軍部は軍事クーデターを起こし国政を掌握して事態を沈静化します。つまり軍隊は自国の国民を暴力によって威圧し、従わせる役割をも担っているのです。ではなぜ、自分に銃口を向けている軍隊を国民は支持するのか、というなら、その役割を他国からの侵略を阻止するためだと思い込まされているからです。日本国憲法は戦争放棄を唱っています。しかし私たちが願い求めるべきことは、もう一歩先にある軍隊の保有禁止です。例えば日本の国防費は6兆円です。全世界の国防費は326兆円です。これだけの資産と人材が自然破壊と殺人のために消費されています。そしてその銃口は他国の誰かではなく、自国民に、つまり私たちに向けられていることを自覚するべきです。
主イエスは「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ福音書26:52)と話されます。私たち信仰者が向かう未来は、日本の完全な武装放棄であり、全世界の武装放棄です。主イエスは、隣人を威圧し支配する生き方ではなく、隣人を信じ、仕え合う生き方を私たちに提示し、それが可能であると明らかにして下さいました。すべての人を主イエスに繋げ、主イエスに倣う者とすること。それがキリストの弟子としてこの世に命を与えられた信仰者としての祈りであり、平和運動であり環境活動です。

牧師室からNo.277 2023/8/20

日曜日を休日とする習慣はキリスト教圏以外でも全世界的に広がっています。その由来は旧約聖書の創世記にあります。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト20:8-11)。この「休む」(Aj…wn)という言葉は「休息を与える」「敵から自由になる」「苦しみから解放される」「心を静かにさせる」という意味です。ですから安息日は日常の仕事を離れて、主なる神の御手に自らを委ねて安らぐ日、聖なる集会の日として定められるのです。「あなたたちがイスラエルの人々を聖なる集会に召集すべき主の祝日は、次のとおりである。六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。どこに住もうとも、これは主のための安息日である」レビ23:2-4)。そして安息日は厳守されました。「安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。」(出エジプト31:14)
この安息日は太陰暦に従っていたので金曜日の日没から土曜日の日没までとなります。そしてキリスト教は毎週礼拝を行うという習慣を踏襲しつつも、主イエスの復活の日、日曜日の朝に礼拝を守るように変わります。礼拝の主題は安息から再臨に変化するのです。

牧師室からNo.276 2023/8/13

私が小学生だった頃、近所に住むヤツシマくんという友だちがいました。毎朝一緒に小学校に通っていました。丸刈りで、身体は小さく、甲高い声で話す、そんな男の子です。彼の家は今にも壊れそうな古い小さな定食屋でした。お客さんが入っているところを見たことがなかったので、流行ってはいなかったと思います。今にして思えば、ヤツシマくんの家にはお父さんもお母さんもいませんでした。お店は老婦が一人で切り盛りしていましたし、運動会の時は私と一緒にご飯を食べていた記憶があります。着ている服はいつも同じで、ズボンもすり切れていました。茶碗の白飯にマヨネーズを掛けて食べ始めた時には少しビックリしました。でもヤツシマくんはいつも明るくて、楽しくて、良いヤツでした。学校が終わると、大学の教員住宅に住んでいたAくん(たしか父親が助教授)、旅館の息子のBくんと四人で自転車に乗って遠くの公園まで遠征したり、できたばかりの大型スーパーを探検に行ったり、毎日、夕方まで飽きることなく遊んでいました。最近、児童虐待とかネグレクトとか、子どもの貧困といった問題を目にする度に、私はヤツシマくんのことを思います。今の社会だったら、彼は保護対象として扱われたのではないか、「かわいそう」とレッテルを貼られたのではないかと考えるのです。でもヤツシマくんは「かわいそう」ではなかったし、仲間はずれでもありませんでした。彼が近くにいると周りの誰もが明るくなる、それがヤツシマくんでした。
不遇に陥ったとき、私たちは神の前に罪深かったために罰を受けていると考えるのです。そうではなく、恵みとして与えられた神に立ち戻るための好機です。祈るなら、意味が明らかになります。

牧師室からNo.275 2023/8/6

「現代人が一日に受け取る情報量は平安時代の一生分、江戸時代の一年分」だそうです。テレビでは複数のチャンネルが二十四時間、番組を流しています。日本で発行されている新聞は、全国紙が五紙、ブロック紙や地方紙は合わせて百二十九紙になります。本屋の棚には月刊誌、週刊誌、情報誌が堆く積まれています。PCやスマートフォンから最新のニュースを読むことができます。インターネットの掲示板には、誰かが投稿した意見や感想の言葉が溢れています。言葉だけではなく映像を撮って投稿することもできます。情報の濁流が洪水のように襲ってきている状況の中に私たちは生きています。そんな中で最近「ファクトチェック」(事実確認)という言葉が注目されています。「社会に広がっている情報・ニュースや言説が事実に基づいているかどうかを調べ、そのプロセスを記事化して、正確な情報を人々と共有する営み」と定義されます。思い込みや嘘、流言を記事として投稿させない、情報操作をさせない仕組みです。情報が多すぎるなら、いっそのこと電源を切ってしまえば良い、耳を塞げば良い、と言われるかもしれません。しかし、それでは解決ができないのです。根本的な原因が別にあるからです。
イエスさまは「目を覚ましていなさい」(ルカ福音書12:37)と話されます。その意味は「眠らない」「常に緊張している」ではありません。「この世の言葉に流されない」です。この世のさまざまな出来事の意味を、自分の知識に照らし合わせるのではなく、心を静かにして神に聴くこと。荒波に恐怖するのではなく、神への信仰を錨として海底の落とすこと。近くにいる人と祈り合うこと。そうすれば心を覆っている霞は晴れ、平安を取り戻すのです。

牧師室からNo.274 2023/7/30

「平静の祈り」ラインホルド・ニーバー
神よ、変えることのできないものを冷静に受け入れる力を与えて下さい。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと、変えるべきものを
見分ける知恵をお与えください。
一日一日を生き、
その時を常に喜びをもって受け入れ、
苦難を平和への道として受け入れさせてください。
これまでの私の考え方を捨て、
主イエスがされたように、
この罪深い世界をありのままに受け入れさせて下さい。
あなたの御心にこの身を委ねるなら、
あなたがすべてを正してくださると信じています。
そうすれば、私はこの人生でそれなりに幸せになれるでしょう。
そして天国のあなたのもとで永遠の幸せを得ることができるでしょう。
アーメン。

私たちは知識を得ることに懸命になりすぎて、知恵を求めることを疎かにしているのです。知識は私たちの生活を便利にしてくれます。さまざまな望みを満たしてくれます。「転ばぬ先の杖」にもなります。しかし同時に知識は人を傲慢にします。神から引き離します。「主を畏れ敬うこと、それが知恵 悪を遠ざけること、それが分別。」(ヨブ28:28)とヨブ記には記されています。この時代にあって私たちが一心不乱に求めるべきものは知識ではなく知恵なのです。

牧師室からNo.273 2023/7/23

夕方になると、近所のこどもたちがスケートボードの練習をし始めます。段差のあるところにジャンプして飛び乗ったり、階段の手すりを滑ったり、かなりアクロバテックな技を練習しています。見ていてハラハラします。少しでもタイミングがズレて足を踏み外したら確実に怪我をするでしょう。骨を折るかもしれません。しかしそんなことは年寄りの杞憂で、若い彼らは技を極めるために果敢に繰り返しチャレンジを続けるのです。私が彼らの姿に目を奪われたのは、私にできないことを彼らがしているからです。スケートボードに乗ること、ではありません。後先考えずに「まず試みる」という取り組み方に対してです。「無謀は若さの特権」という言葉があります。しかしそれは年長者の言い訳のようにも聞こえます。物事を始めようとするとき、失敗することを前提に考えるのではなく、想定したことが上手く行くことをイメージすること。石橋を叩きすぎて壊す、のではなく渡ってみること。頭でっかちにならず人を疑うことから始めず、批判されたり陰口を叩かれても、命まで取られないでしょ、と受けとめられる心的状態は、今の時代にあって貴重です。彼らを見ていて、そんな心構えに気づかされたのです。それに私たちには信仰が与えられています。失敗しても騙されても怪我をしても傷ついても、それすらも神からの意味ある恵みとして受け入れることができる。「忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ロマ5:4)「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリ10:13)と御言葉を口ずさみつつ、信仰者は歩むのです。

牧師室からNo.272 2023/7/16

旅行も一週間を越えるあたりから生活になります。初めて訪れた土地で、泊まる場所を探し、地元のスーパーに入って食料を調達するところまでは、まだ旅です。しかし洗濯を始めるようになると、生活感が入り込んで来ます。そして爪切りで爪を切るようになると、もはや旅ではなくなり、日常と同じく生活になるのです。それでも現代においては、どんな僻地に行こうと宿泊施設があり、飲食店がありコンビニがあります。しかし聖書の時代の旅行事情は快適とは程遠いものでした。宿泊は携行したテントを張り、食事は当然、自炊です。転がっている岩でコンロを組み上げ、集めた薪や、連れてきた家畜の糞を乾かして燃料にします。その上でパンを焼き、野菜や豆を煮込むのです。それら調理や洗濯も含めて家事のすべては女性の仕事でした。では古代に於いて女性の立場は冷遇されていたのかというと、そうではありません。聖書に主イエスが産まれて一週間後に割礼を受けた、と書かれています。それは新生児の生存率が三割に留まっていたからです。そして十三歳でバル・ミツワーという成人式が行われます。そこまで半数の子供が生き残れば良い方だったからです。そんな過酷な環境にあって女性は生活共同体にとって貴重な存在であり、生まれてくる子供は神の祝福と呼ばれます。律法の中で寡婦を保護する規定や姦淫に関する規定が厳しく定められているのは女性を守るためなのです。
ですから主イエスと弟子たちの伝道旅行にも女性たちは同行していた、と考える方が自然です。十二人の弟子たちだけでは日常の生活は成り立たなかったからです。そのような生活に裏打ちされた言葉だったから、人々は主イエスの言葉に耳を傾けたのです。

牧師室からNo.271 2023/7/9

初めて訪れた町で食事をしようとするとき、ひと昔前は、お店のありそうな地域、たとえば駅前や商店街に行き、看板や入り口の前に掲示されているメニューを見て、換気扇から漂ってくる、おいしそうな匂いを嗅いで、入る店を選んでいました。しかし最近では誰もが携帯電話の地図アプリを使って店を探します。「中華料理」と検索すると即座に「近隣には何件あります」と表示され、その下に星印、つまり評価が表示されます。その評価は店を利用した人の投稿を集計した点数です。そして評価の高い店に多くの人が流れるのです。最近、飲食店の評価だけでなく、ありとあらゆるものにランキングがつけられています。電気製品、衣料品、住みたい町、旅行先、学校、会社、彼氏にするならこんなタイプ。不特定多数の人が、自分の意見を投稿し合い、その評価にしたがって自分の行動を決定しています。なるほど、このような仕組みを使えば、自分で失敗する前に、他人の失敗を経験できるので、躓いた痛みを覚えなくて済みます。しかし同時に、痛みを覚える経験や、自分の頭で考え、見て、嗅ぐという機会が奪われているのです。「一億総批評家」という言葉が生み出されてから50年が経ち、さらに情報技術が進み、個人が個人を批判する時代を私たちは生きています。このような雰囲気に流されて、つい私たちもお互いに星印をつけ合ってしまい、生きることに窮屈になるのです。しかし、主イエスは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ福音書7:1-2)と話されます。裁くのではなく受け入れること。量るのではなく愛するなら幸いを得られる、と教えるのです。

牧師室からNo.270 2023/7/2

水曜日の午前に行われている水曜会では、出エジプト記を少しずつ読み進めています。出エジプト記というと、モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出した物語が描かれている書物、として覚えられているかと思います。ナイル川に捨てられたモーセがエジプトの王女に保護されて王子として成長する場面、成長したモーセがすべてを失いミディアンの地に逃れる場面、エジプトに十の災いが降り掛かる場面、追い詰められたイスラエルの民の後ろに広がる海が割れる場面。まるでハリウッド映画のようなスペクタクルの連続に心を躍らされるのです。しかし物語は前半二十章、神がモーセに十戒を授けるところで終わります。そこからは、神とイスラエルの契約の詳細が長々と書き記されるのです。同じような言葉の繰り返しなので読むと飽きてきます。そもそもユダヤ教の幕屋(テント張りの神殿)の作り方なんて、私の信仰に何の関係があるのか、と思えてくるのです。しかし出エジプト記が本当に伝え残そうとしているのは、二十章以下の言葉なのです。逆に二十章以下の言葉を子孫に伝え残すために、物語部分が書かれたと解釈しても間違いではないと私は考えます。そしてイスラエルへの十戒の授与、幕屋での祭儀の様式はキリスト教信仰と礼拝形式に直結しています。モーセが十戒を与えられて、神と交わした契約の再授与が洗礼であり、贖いの捧げ物の完全な形での焼き直しが主イエスの十字架だからです。
私たちは旧約聖書を拠り所して新約聖書を理解するのです。なぜなら神が人を救いへと導く御計画はアダムから始まり、主イエスを通して私たちにまで続き、これからも続いて行くからです。神の御手は歴史に触れられるのです。

牧師室からNo.269 2023/6/25

「喧嘩するほど仲が良い」という諺があります。その意味には諸説あり「喧嘩のギスギスした雰囲気を和らげるため」とする説、「喧嘩と仲直りを繰り返すほどに仲が深まる」とする説、「お互いに遠慮なく言いたいことを言い合える関係性」を言い表す説などがあります。確かに、お互いに自分が欲しい物を相手も欲しがるから、喧嘩なっている訳で、そこには同じ価値観を共有している関係性が読み取れます。それに喧嘩しても最終的に仲直りできるという安心感が、心のどこかにあるから喧嘩できるのです。つまり喧嘩できる相手がいることは幸いなこと、とも言えます。しかし、日本の社会環境において、喧嘩のイメージは野蛮、暴力、粗野といったものです。言い争うのではなく、忖度し空気を読むことが大人の嗜み、そんな雰囲気に支配されています。それに、だれもが妙なプライドを持っているので、相手に言い負かされることを恐れるのです。ですから言いたいことを胸の中に収めるという側面もあります。では、それで良いのでしょうか。そんなことをしていては、せっかく与えられた課題(論点)を良い結果に結ぶことはできません。主張の強い人、思い込みの激しい人、過去の事情に詳しい人、権力を持っている人の意見だけが全体の意見とされてしまうなら、世界はつまらないものに成り果ててしまいます。
教会は違います。なぜなら意見が対立しても、最終的な落としどころ「神は愛である、互いに愛し合う」という掟が与えられているからです。自己犠牲を伴う愛、というルールブックに従って意見をぶつけ合うことができる。議論の終わりには、神から和解を与えられるという信仰に基づいて祈り合うことができるのです。

牧師室からNo.268 2023/6/18

6/23「沖縄慰霊の日」を覚えて、今朝の礼拝の中で日本基督教団戦責告白の言葉を以て、私たちの信仰を告白します。それは太平洋戦争終結から78年が経過した今、改めて不戦の誓いを心に留めて祈り合うためです。なぜ「慰霊の日」を信仰の証しとして覚えるのか。沖縄の平良修牧師の言葉を引用させていただきます。
「神様のいちばんの戒めは、全身全霊で主なる神を愛するということ、そして、隣人をあなたが自分自身のように愛することです。キリスト教会の使命にはキリストを述べ伝える福音宣教、いわゆるクリスチャンを増やしていくことがあります。それは間違いではないのですが、根本は神を愛し、隣人を愛することにあります。伝道だけでは教会の使命は果たせません。福音派、社会派と色分けするのは間違いです。教会はすべてイエス・キリスト派ではないでしょうか。人を大事にすることの中に教会の使命のすべてが入ります。隣人を大事にすることが神を大事にすることなら、殺し合ってはいけない。戦争はその具体的なことです。聖書は「いのちのことば」ですが、この「いのち」は霊的なことだけではなく、肉体的なことでもあります。霊魂だけの人がいないように、肉体だけの人もいません。両方のいのち、人間の総体を大事にしてほしい、それが健全な姿です。伝道とともに、良きわざもしないといけない。力量に応じて選ばないといけない現実はあります。しかしやる必要がないからやらないのではなく、限界があるから選んでいるにすぎません。教会ができない、やろうとしない領域も含めて、『すべてわたしの領域』とイエス様はおっしゃるでしょう。キリスト教会の仕事は山ほどあるのです。」(2018.6.23クリスチャン新聞)

牧師室からNo.267 2023/6/11

聖書に記されている奇跡とは何でしょうか。一般に奇蹟とは常識的に考えられない不思議な事象を言い表す言葉です。対して聖書に記されている奇蹟は、神の御心がこの世の生活に具現化された事象を意味します。例えば主イエスが湖の上を歩いた奇蹟の意味は、水の上を沈まずに歩く能力を誇示すること、ではありません。この世の荒波に揉まれ、不安と恐れに魂を奪われたとしても、主イエスを知るなら、その魂は凪の水面のように穏やかになる、と弟子たちに悟らせるためです。また病人を癒やされる奇蹟は、人はパンだけで生きるのではない、神と繋がり、神から与えられる生命の源である霊的なパンに拠って人は生かされている、と悟らせるためです。
アルバート・アインシュタインの言葉にこうあります。「生き方には二通りしかない。奇蹟はどこにもないという生き方、もう一つは、すべてが奇蹟だという生き方」。彼は無神論者だったとする意見もありますが、それは当時のさまざま宗教団体からの接触を避けるための方便だとも言われています。というのは、彼はユダヤ人ですからユダヤ教信仰の背景で育ちます。しかし、その後カトリックの公立学校で学んでいます。また残された娘に残した手紙には、素粒子同士が引き合う力を愛と表現し「愛は神であり、神は愛だ」と書いています。アインシュタインに限らず、物理学者の多くは神の存在を信じている、と告白しています。宇宙を科学的に究極の状態にまで探求し解析するなら、そこに無作為では生み出されない絶妙なバランスを見いだすことになります。彼らは御心を知るのです。
全ての事象の背後に神の御心が働いていると知るなら、私たちは荒波のようなこの世界にあっても平安を得ることができるのです。

牧師室からNo.266 2023/6/4

私は二十代の頃、バックパックを背負って半年間、低予算でインドを旅行しました。安宿に泊まり、屋台で食事をとり、移動は現地に住む人と同じ列車の二等客室やバスに詰めこまれての移動です。客室に入り込めない時は、車両の連結器や屋根の上に、沢山の人と一緒に乗ることもありました。この時のバックパックの重さは約十五キロです。着替え、生活用品、簡単な調理道具、ナイフ、寝袋、医療品、非常食、鍵、雨具、ガイドブックなど、生きるに必要な最小限のモノだけが収められていました。でも生き残るには十分でした。荷物が少なく身軽な程、遠くまで歩くことができました。危険な時にはすぐに逃げられました。荷物を盗まれたときでも諦めがつきました。(貴重品は腰に撒いてジーパンで隠していました)そんな経験から、人生に於いて荷物は少ない方が良い、と私は学びました。「朽ちず、汚れず、しぼまない」(Ⅰペトロ1:4)資産を天に蓄えなさい、との御言葉を読む度に、この経験を思い出します。持ち物は少なくすること。失っても諦めがつくモノしか所有しないこと。天国に持ち帰れないモノには執着しないこと。現代のように選択肢が潤沢にある時ほど、大事な一つを見抜く目は必要です。
次週の御言葉の場面には、この世の雑事に心を奪われて、神の招きを断ってしまう者たちの姿が描かれています。そして貧しい人、この世に心を束縛されていない者たちが、神の招きを受けるのです。しかし「誰が」招きを受けたか、を御言葉は伝えようとしているのではありません。「すべての人」を神が招かれていた、と伝えているのです。自分の命にとって、今、何が大事か、見極める目を信仰は与えてくれます。静かに祈ることから始めましょう。

牧師室からNo.265 2023/5/28

七十人訳ギリシャ語聖書(LXX)という書物があります。これはヘブライ語で書かれた旧約聖書をギリシャ語に翻訳した聖書です。その歴史は古く、紀元前三世紀の後半、エジプトの国際都市アレクサンドリアにおけるモーセ五書の翻訳から始まり、後の二世紀をかけて全書が翻訳されました。翻訳とは一つに言葉に対応する一つの言葉を当てはめていくだけの単純作業ではありません。一つの文化の諸概念を他の文化に置き換える作業です。ではなぜ、そんな困難な作業を行う必要があったのでしょうか。それはこの時代、アレクサンドリアには多くのユダヤ人たち住んでいたからです。彼らはプトレマイオス一世がパレスチナのガザで行った戦争(BC312)の際、捕虜(奴隷)として捕囚されてきたユダヤ人たちの子孫です。その後、プトレマイオス二世の時代に解放されるのですが、多くはエジプトに残ります。なぜなら彼らは砂漠の中の宗教都市よりも、地中海の爽やかな海風の吹く文化都市の方に魅力を感じたからです。そしてその子孫たちは国際標準語であるギリシャ語を使うようになり、ヘブライ語を読むことができない者たちが増え、そのために翻訳が必要になるのです。「アリステアスの書簡」(旧約偽典)の中に翻訳作業の詳細が記されています。作業はプトレマイオス二世の命令で行われました。エルサレムから七十二人の長老が招かれ、フィロス島に籠もり、七十二日を掛けてモーセ五書の翻訳が完成するのです。
パウロが手紙の中で引用する旧約聖書の言葉の八割は七十人訳からの引用です。つまり七十人訳は異邦人へのキリスト教伝道の強力な道具として使われるのです。そして主イエスが伝道に遣わした弟子たちの数も七十二人です。数字の相関性に興味をそそられます。

牧師室からNo.264 2023/5/21

ペンテコステ(聖霊降臨祭)はキリスト教の三大祝祭日の一つです。しかし他の二つの祝祭日、クリスマス(降誕祭)とイースター(復活祭)に比べて、世間一般の認知度は低いのです。それはクリスマスにはサンタクロースやプレゼント、イースターにはタマゴやウサギ、といったわかりやすい象徴(アイコン)がありますが、ペンテコステにはないから、とも考えられます。しかし、私たちにとっては比較をしてはいけないほどの大切な行事なのです。なぜならペンテコステは「神と信仰者との契約の締結を祝う日」だからです。旧約聖書に遡って説明します。神はシナイ山でモーセに十戒と律法を与えます。モーセは言葉をイスラエルの民に読み聞かせ、民は「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と応えます。そしてモーセは屠った雄牛の血の半分を祭壇に振り撒き、残りの半分を民に振り撒き、契約は締結されました。これが「契約の血」です。この第一の契約によって神とイスラエルの民は結ばれます。しかし雄牛の血は一時凌ぎの代替品であり不完全なのです。ですからユダヤの祭司たちは毎年、生け贄を屠り、民は血を振り撒かけられ続けるのです。しかしそれでも、人の罪は完全に清められません。そして時が来ました。神は主イエスとしてこの世界に来られます。主は完全な犠牲として十字架の上で血を流されます。これが第二の契約、新しい「契約の血」です。神と新しいイスラエルの民は、新しい契約「神を愛し、互いに愛し会うこと」を掟として守ること、によって結ばれ、魂に聖霊を招き新しい命を与えられるのです。
ペンテコステは世俗のイベントではありません。信仰に導かれ救われた私たちの祝祭日です。教会に集う私たちの祭日なのです。

牧師室からNo.263 2023/5/14

伝言ゲームという遊びがあります。十名程のグループに分かれ、それぞれが一列に並び、列の先頭の人にメッセージを伝えます。先頭の人はその言葉を次の人に耳打ちし、その人は次の人に伝え、と最後の人まで繰り返します。そして最後の人は聞いた言葉を発表し、最初に伝えた言葉と同じかどうか、もしくはどの程度違っているかを楽しむのです。私たちは聞いた言葉を正確に誰かに伝えることが苦手です。なぜなら私たちは聞いた言葉を、自分の経験や知識に基づいて理解をし、自分の言葉にして伝達するからです。例えば薔薇という言葉を聞いて、赤い色を思い浮かべる人がいれば、香りを思い浮かべる人もいます。そもそも薔薇を見たことがない人は「花の一種」とだけしか伝えることができないかもしれません。
では二千年来キリスト教の福音を伝えるために全世界に遣わされた伝道者たちは、どうやって何を伝えてきたのでしょうか。言語も歴史背景も文化も、信じている神も異なる人たちに、何を伝えることができたのでしょうか。「愛」を言語化することは困難です。彼らは言葉で説き伏せるのではなく、学校や病院、孤児院などを建て、活動と礼拝を通して「共に生きることの大切さ」「神があなたを愛していること」を非言語的伝達手段、つまり“背中で語り”伝えました。日本におけるキリスト教伝道の歴史もまだ短いのです。日本にキリスト教が伝来したのはザビエルが来日した1549年と言われます。しかし本当の伝道が始まったのは禁教が解かれた1873年からです。つまり日本のキリスト教は150年の歴史しか持っていないのです。ですから日本における伝道は、まだ「キリストの香り」を届けるという段階に入ったばかりだと考えるべきなのです。

牧師室からNo.262 2023/5/7

貨物船が港に入り逆方向に船首を回すと、船を岸壁に係留する作業が始まります。まずは船首と船尾に船員が立ち、先端に重りの付いている細いロープを大きくグルグルと回し、岸壁で待っている作業員たちに向かって投げます。投げ出された重りは大きく弧を描いて岸壁に落ち、それを作業員たちは拾い上げ、数人でロープを掴んで走りだし、引っ張ります。この細いロープの重りの終端には直径十センチほどの太いロープ、ホーサーが括りつけられています。このホーサーを海中から手繰り寄せて、先の輪っかを岸壁のビット(係留柱)に引っ掛けるのです。その後、船はウインチでホーサーを巻き取り、船は岸壁に接岸します。七百トンクラスの小さな貨物船でも間近で見ていると、かなりの迫力です。一見、のどかな作業に見えますが、実はそんなことはありません。命懸けです。特に海が荒れている時は危険です、波やうねりで船が揉まれ、船とピットの間に張られたホーサーには何十トンもの張力が掛かるからです。もしホーサーが切れるなら、直径十センチほどの太いロープが弾けて暴れるように岸壁の上にいる作業員に向かって飛んで来ます。当たってしまうなら一瞬で命が絶たれます。そのことを知っているから作業員は常に緊張しながら作業を進めるのです。このような命懸けの現場では、現場監督の命令は絶対的な権威を持ちます。作業員にとって、監督の言葉に従うことは自分の命を守ることでもあり、仲間の命を守ることでもあるからです。自分の些細な気の緩みが大きな事故に繋がる。それを知っているからです。
聖書の中で使われる権威という言葉を理解するためにも命懸けという前提を押さえる必要があります。信仰も命懸けだからです。

牧師室からNo.261 2023/4/30

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ福音書15:12)と主イエスは話されます。つまり神がモーセに十戒を与え、これを掟としなさいと命じたように、主イエスは私たちに愛を掟としなさいと教えるのです。しかし私たちはこの、愛を掟とする、という言葉に違和感を覚えるのです。なぜなら愛することは自主的であり、魂の衝動だからです。命じられて愛するということはありません。逆に十戒を掟とする、という言葉に対しては違和感を覚えません。なぜなら掟とは社会的な決まりごとであり、従順に能動的に守るべきものだと教えられているからです。では主イエスは、なぜこんなことを話されたのでしょうか。それは、私たちの考える掟の解釈を訂正するためです。つまり聖書に書かれている掟とは、強制的に従わさせられるルールではなく、自主的に守るルールだということです。赤信号に立ち止まるのは規則だからではなく、自分の命を保つためです。神はモーセに、そしてイスラエルの人々に「神から命じられたから律法を守る」のではなく「神を愛するが故に自由意志を以て律法を守りなさい」と教えられたのです。この自由意志という言葉はキリスト教信仰を理解するためのキーワードです。アメリカ福音派の牧師、ジェームス・ドブソンは「神は私たちに自由な選択を与えてくれた。それは、他に選択肢のない愛には意味がないからだ。」と話します。神は私たちに自由意志を与えられました。それは自発的に愛する愛でなければ愛に意味はないからです。自由な魂を以て神を愛する。信仰者はこの世の何ものにも束縛されません。ただ神への愛のみに束縛されるのです。

牧師室からNo.260 2023/4/23

神の導きによって桑名教会定期総会を無事に終えることができました。今年は対面で時間制限を設けずに開催でき、上程された議案について皆で祈りながら神に聴く機会が与えられました。そして交わりの真ん中に主イエスが立たれ、私たちを導いて下さいました。豊かな恵みが与えられたことに感謝します。ただ幾つか気になったことがありましたので補足させて頂きます。
一つ目は礼拝式の中の役員の祈りについてです。この祈りは、すべての教会員の一致した祈りとして神に捧げられます。ですから役員は毎週の礼拝説教を深く聴き、聖書に聴き、教会員の言葉を信仰の証しとして聴き、新来会者に聴き礼拝に繋ぎ、一人で静かに祈り、神に聴きます。その一つ一つの傾聴という働きから、公同の祈りの言葉が与えられます。つまり役員の働きは聴くことです。そして会衆席に座る教会員は講壇の上で祈る役員を、自らの祈りによって支えます。この交わりの只中に主イエスが立って下さり、公同祈祷は教会共同体の祈りとなります。
二つ目は教会史編纂についてです。代々の信仰者は自分が受けた神からの恵みを次の世代に書き残し信仰を継承してきました。申命記には「ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい。」(申命記4:9)と記されています。教会史の編纂は教会の業績や成果を誇るためのものではありません。これまで与えられた信仰の恵みを証す作業です。その目は桑名教会の信仰を継承していく次の世代へと向けられています。信徒と思いを重ね、教会の将来を描きつつ、教会史を紡いでいきたいと思います。

牧師室からNo.259 2023/4/16

土木現場の事務所に行くと、必ず西北の方角、天井の近くに神棚が飾られています。それは土木作業が地形に手を加える仕事だからです。つまり天地自然の理に触れても、神に叱られないように神棚を置いて鎮めるのです。建物を建てる際に執り行われる地鎮祭も同様です。人は地域の守護神から土地を借り受けて使わせていただいている。だから自然環境を保全し、大切に利用しなければならない。そして工事が終わったら、できるだけ元の景観に戻さなければならない。このような自然観、人と自然との共生の在り方は、世界中の殆どの神話に共通したイメージです。そして神棚にはお酒と塩と米が供えられます。この食材は下げた後、食べたり飲んだりしても良い、ということになっているそうです。また、お祭りなどの祭儀では豪華に沢山の食材が並べられ神に献上されます。これは神饌(しんせん)といって、祭りの後には調理され、祭りに参列した人々に振る舞われます。この行為を「神人共食」と言います。それは、神と人間が同じものを食べることによって親密になり、つながりを強くすることによって神のご加護を願う儀式です。これも日本だけなく古代から世界中の宗教儀式で行われてきました。パウロはコリントの宗教文化で行われていた「神人共食」、偶像に供えられた肉について、食べても良いのかと問われます。彼は、食べても良い、けれど「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。」と答えるのです。
偶像は、供えられた肉を食べません。それは生きていないからです。しかし私たちが知っている神は生きておられます。だから主イエスは復活された後、弟子たちと食事をされたのです。

牧師室からNo.258 2023/4/9

Docendo discimus(ドケンド・ディスキムス)という言葉があります。古代ローマの哲学者セネカの格言とされていて、ラテン語で「教えることによって学ぶ」という意味です。要約ですが彼はこう話します。「学校とは、教師が自分の持てる限りの知識と技術を授業において生徒に教え、教師は生徒に教えることによって新たに学びを与えられ、さらに研鑽を重ねる、この循環が生まれる場所である。」次週、与えられます御言葉の場面、エマオ途上の物語の中でも、この循環が生まれます。過越祭のエルサレムで主イエスが十字架に掛けられたあと、二人の弟子は落胆しながらエマオへの帰路につきます。その道すがら、彼らは見知らぬ男と道連れになるのです。二人は彼に、エルサレムで起こった出来事について話しかけます。しかし彼は知らないと答えるのです。そこで弟子たちは主イエスの働きや言葉をガリラヤ伝道の始めから教え始めるのです。そう話しているうちに、彼らは教えることによって主イエスの言葉を深く理解するようになり「主イエスは復活された」と気づくのです。
聖書をもっと深く読みたいと思われる方は、聖書のこと、信仰のことをお知り合いの方に話してみて下さい。必ず新しい発見が与えられます。(教会学校でぜひお話をして下さい♡)

牧師室からNo.257 2023/4/2

今週の受難週についてです。4/3(月)、4(火)、5(水)は18時から30分ほど短い奨励と祈りの時を持ちます。4/6(木)は15時40分から礼拝堂でサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が演奏するバッハ・マタイ受難曲を上映します。3時間15分のプログラムですが、演奏の映像と日本語字幕が付きますので、内容を理解しながら受難曲を十分に味わうことができます。続けて19時から洗足木曜日の礼拝を守ります。主イエスと弟子たちが過越の祭の食卓を囲んだ聖書の記事を覚えます。ご都合が合う方は、教会にお越し下さい。夜間の運転や足下が不安な方はご自宅で、礼拝をお覚えて下さい。翌日の聖金曜日は教会での集会は持ちません。午後三時頃に、それぞれの遣わされている場所で、主イエスの受難を覚えて祈りの時をお持ち下さい。
神は悲惨の底に堕ちていく人間を憐れみ、臓腑が引き千切れんばかりに痛まれる、それが主イエスの十字架の出来事によって明らかにされる神の姿です。それほどまでに、神は私たち一人一人を愛されています。この神の愛を知り、寵愛されている「私」の存在に気づくなら、私と神との関係は回復し、罪の縄目から解かれるのです。

牧師室からNo.256 2023/3/26

聖地巡礼のためにエルサレムを訪れた人々の殆どは、旧市街をヴィア・ドロローサ「苦難の道」の順序に従って廻ります。それは主イエスが十字架を背負って市中を練り歩いた史実に沿って設置されている14留の史跡です。その標識はヘブライ語、アラビア語、ラテン語の文字を焼き入れたタイルで、建物の側壁に埋め込まれています。黄金の門から市街に入り、少し進んだ所に第1留があります。巡礼者は主イエスの苦しみを覚えながら、その歩まれた道を歩き、最後に亡骸が納められた墓のある聖墳墓教会に辿り着くのです。
第1留−ピラトの邸宅で死刑判決を受ける (ヨハネ18:28)。第2留−鞭打たれ、十字架を背負わされる(ヨハネ19:1)。第3留−十字架の重みに耐えかねて最初に倒れる。第4留−母マリアが十字架を背負ったイエスに出会う。第5留−キレネ人シモンがイエスに替わって十字架を背負う(ルカ23:26)。第6留−ベロニカがイエスの顔を拭く(マタイ9:20)。第7留−二度目に倒れる。第8留−悲しむ女性たちを慰める(ルカ23:27)。第9留−三度目に倒れる。第10留−衣服を剥ぎ取られる(マタイ27:35)。第11留−釘で十字架につけられる(ルカ23:33)。第12留−息を引き取られる(マタイ27:45)。第13留−十字架から降ろされ、マリアが亡骸を受けとめる。第14留−墓に納められる(ヨハネ19:38)。
主イエスは私たちが背負うべき十字架を替わりに背負って下さいました。鞭で打たれ、血と汗を流し、群衆に貶まれながらもエルサレムの石畳を歩かれたのです。私たちはこの姿を通して、自らの罪を自覚します。そして罪に絡め取られ、堕ちそうになったときには、この十字架を心の中に覚えるのです。そして救いを祈るのです。

牧師室からNo.255 2023/3/19

片町の「歴史を語る公園」を堀に沿って歩くと、桑名城三之丸掘の見事な石垣を見ることができます。案内板の記事によると、この石垣には桑名城創建の時代、つまり本多忠勝が築いた時代の石材が多く残っているそうです。名古屋城の石垣にあるような、巨大な石材の打込ツギ(割ったり削ったりして石材同士の接触面積を増やして積む方法)も好きなのですが、桑名城の乱積みは(自然石をほとんど加工せずに積む方法)は見事です。崩れないように力を分散させながら、それぞれの石の形を生かして組み上げられている技術に惚れ惚れします。そして石垣の角には算木積みが施されています。これは横長の石材を短辺と長辺を交互に組み上げていく技法です。この角の最下部に、最も大きく強い親石が埋められています。なぜなら全ての石を親石に寄りかかるように組むことによって、荷重が一点に集中し、石同士が隙間なく組み合わされるようになるからです。そんな重要な親石ですが、そのほとんどは土の中にあり、一部分しか見ることはできません。しかし石垣を組む設計者は、石垣の全体重量を計算し、荷重に耐える座屈しない親石を、最初に据えるのです。最も重要で、ここから始まる石、それが親石です。
次週の御言葉の中で主イエスは、ご自身を隅の親石に譬えられます。「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。」(詩編118:23)ユダヤ人たちが捨てた主イエスを用いて、神は御自分の国をこの世に建て直すだろうと、話すのです。私たちの信仰生活に於いても主イエスは隅の親石です。主イエスに全体重を預けていること、主イエスに寄りかかることで私たちが一つとされていることを覚えるのです。

牧師室からNo.254 2023/3/12

先日、芦屋にお住まいの婦人と話す機会がありました。コテコテの関西弁で、紫色のメガネ、ピカピカのスニーカー、派手目な服装です。最初は少し警戒したのですが、自分でボケて自分でツッコミを入れるというセルフ漫才。とても面白い方でした。その会話の中で、関東と関西の会話のクセが話題になりました。関西では相手の言葉に対して、まず一言「チャウ」と否定してから自分の意見を話す。関東では「そうですよね、でも」と肯定してから否定し、自分の意見を話す。この違いについて、どちらがいいのか、となったわけです。「関西はもともと商人が多いから、まどろっこしい会話を嫌う。時は金なり、自分の意見をスパッというんや」だそうです。他方、関東では宮仕えが多いから忖度を優先する。お互いに対立しないように、相手の様子や周囲の雰囲気を見て、小出しに自分の意見を言う、という結論に落ち着きました。私には関東より関西の方が、人と人との心理的な距離が近いように感じられるのです。関西では、お互いに後で和解できるという信頼感があるから殴り合うことができる。関東では対立すると後々まで遺恨が残るから殴り合えない。そんな違いです。しかし殴り合いにも配慮が必要です。激しくやり合う当人同士は良いかも知れませんが、周りにいて会話を聞いている人たちは怯えます、なにより、その議論に入ることができません。彼らの言葉を奪ってしまうのです。上手く議論することができるタラントを与えられている者は、それに伴う責任も与えられているのです。
次週の御言葉のテーマは「聴く」です。自分の言葉を発信することが尊ばれる世界で、神の言葉を聴く尊さを覚えましょう。

牧師室からNo.253 2023/3/5

最近、ChatGPTという人工知能が話題になっています。インターネット上にある、これまでに人類が残してきた膨大な文章を学習し、それに基づいて新しい文章を作成します。例えば私が「ルカによる福音書9章18節から27節までの要約を400文字で書いて下さい。」とChatGPTに質問します。すると五秒ほどで返事が戻ってきます。「ルカによる福音書9章18節から27節には、イエス・キリストが自分が誰であるかを弟子たちに問い、自らがキリストであることを明かす場面が描かれています。また、イエスは自らが死ぬことを予言し、弟子たちに自分に従うことを求め、神の国に入るためには自分を捨て、自分の十字架を背負うことが必要であることを教えました。信仰が強ければどんな難題でも克服できることや、自分たちの弱点を認め、神の力を信じて祈ることが大切であることも教えられました。最後に、イエスは再び来ることを約束し、神の国の到来に向けて行動するように勧めました。この箇所から、自分を捨ててイエスに従うこと、信仰の力、そして神の国の到来に向けて行動することが重要であることが示されています。」これが人工知能が書いた文章です。今後、人間と機械の境界線が曖昧になっていきます。だからこそ私たちは「私とは誰か」を知っておく必要があります。私たちは「神」と「私」との関係を通して「私は誰なのか」を知ることができます。そのために信仰が必要なのです。
次週の聖書箇所で主イエスは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねます。知識や伝聞ではなく、あなたが私を何ものだと考えるか。主イエスは聴くのです。自分の魂で神を捉える時、私は私を知ることができるのです。

牧師室からNo.252 2023/2/26

水道水にも保存期限があります。常温で三日間、冷蔵庫に入れれば十日間は安全に飲むことができます。それは水道水に含まれている残留塩素が雑菌の繁殖を抑えるからです。逆に沸騰したり濾過フィルターを通した水は、塩素が飛んでいるので保存期間が短くなります。またペットボトルの天然水は殺菌されているので、二年から三年、長期間保存できます。ではなぜワインは何十年と保存できるのでしょうか。逆に、寝かしたワインの方が高価で取引されるのです。ワインはぶどうの果汁を発酵させた飲み物です。ワイン酵母がブドウ糖の働きによってエチルアルコールと炭酸ガスに分解される働き、アルコール発酵を使って作られます。つまり果汁の中にワイン酵母がぎゅうぎゅう詰めになって生きているので腐敗菌が入り込めない、だから腐らない。長期保存が可能なのです。ですから古代の地中海文明に於いてワインは、お酒のような嗜好品としてよりも水分を補給するための飲料として飲まれていたのです。
主イエスがワイン酵母のことを知っていたか、どうか知りえませんが、次週の悪霊の譬えは秀逸です。ある人が神に立ち返り、彼の魂から悪霊が出ていきます。悪霊はしばらく砂漠をうろつき、再び住んでいた魂に戻ってきます。すると魂の中はきれいに掃除がされ、整えられています。そこで悪霊は、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで住み着くのです。
私たちの魂が綺麗に清められ整えられていること。それだけ十分、ではありません。魂の内に主イエスを招くこと。ぎゅうぎゅう詰めのワイン酵母のように、魂が聖霊で満たされているなら、私たちの魂は腐敗、つまり罪から守られるのです。

牧師室からNo.251 2023/2/19

日本語の「宗教」という言葉は「仏」の教え、つまり仏教よりも格下の「宗」つまり教理・教義の教えを意味する言葉として存在していました。そして明治初期に英語のReligionの訳語とされました。このReligionはラテン語のreligioから作られた造語です。Re(再び)+ligare(収束または接続)、つまり再び結びつける働きを意味します。神が人を赦し、和解してくださる。人と人とが神に心を向け礼拝することによって再び結び合わされる。それが宗教の本来の意味です。ですから日本と海外では宗教に対する感覚は違います。日本において宗教はたくさんの「学び」の中の一つと受け取られます。他方、海外では「生活」の一部分として捉えられているのです。そして近年、宗教は全世界的に衰退しています。それは人と人とが密接に繋がらなくても生活できる環境が整ったことに起因していると考えられています。「ホテル家族」という言葉があります。家族であっても、個人が自立して生活をするような様式、個人化が進み、人と人との関係が疎遠になったが故に宗教が失われているのです。そして分断は争いを生み、格差を生み、不信が広がり、各地で戦争が勃発しています。幸いとは思えないのです。
主イエスは「人はパンだけで生きるものではない」と話します。この言葉は申命記からの引用です。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:3)私たちはパンのみで生きるのではなく、神の言葉によって生かされます。神との関わり、人との関わりの内に生かされています。本当のReligioを取り戻すこと。それが私たちに課せられた課題だと考えます。

牧師室からNo.250 2023/2/12

「反対を唱える」という行動について、日本の世相においては疎まれる傾向があります。公の場で自分の意見を表明するなら、内容の如何に関わらず、自己主張、自分勝手、わがままと受け取られてしまうのです。このような雰囲気を幼い頃から感じているので、多くの人は、表だった発言を控えるようになる。オブラート包むとか、忖度した言葉が量産されます。でもそれは、日本に限られたことではありません。ドイツのある科学者は「できるだけ注目を集めないことが、よりよい研究結果を得る秘訣」と話します。それは研究の盗用を防ぐ為ではなく、邪魔が入らないようにするためです。著しく社会に有益な技術であっても、注目を集めるなら、途端に人々の欲望に汚され、理不尽な難癖がつけられ、抗議が始まる。科学者に必要な素養は、信念を持って静かに密かに確実に試みを進めることと彼は話すのです。懸命な意見のように感じます。しかし彼のような科学者たちが結果的に原子力爆弾を生み出しました。「静かな大衆」が政治の暴走が容認し、国家は独裁へと向かったのです。前に進めようとする意志も、立ち止まらせようとする言葉も必要です。そして日本にあっては、後者の方が得難いと私は考えます。
次週の御言葉は五千人の給食の場面です。弟子たちは「できません」と主イエスの言葉を拒みます。弟子たちの目は、飢えと不安に怯える人々ではなく、自分たちに向いていたのです。そして彼らのの目は神にも向いていません。「私」がどう考えるか、できる、できない、ではなく目の前にいる隣人にとって有益か、神は何を望まれているかを祈り聴くこと。主イエスはそこに答えを見いだすように促されるのです。

牧師室からNo.249 2023/2/5

三年ぶりに教会協議会が開催されました。私はどんな提案が出されるのかと、少しドキドキしていたのですが、教会の伝道に対して積極的で前向きな意見が多く出されたことに嬉しくなりました。コロナ禍で分断された人と人との関わりが、少しずつ修復されていっているような感触を覚えたからです。教会は主イエスを見上げて祈りを捧げる者たちの群れです。この祈りは縦だけではなく横にも広がります。教会員同士が互いに祈り合う群れへと成長します。この縦と横の交わるところに教会は建っています。私は、日曜日の朝、教会の建物の正面、屋根の上に掲げられている十字架を見上げる度に、この言葉を思い出します。縦と横のバランスが適切であるように調整する役割を、牧師と役員は担っているのです。教会の伝道は「失われた人々を捜し出し、養い、育て上げることによって、神に栄光を帰すこと」を目的とします。群れからはぐれた人を群れに戻すこと。縦と横の祈りの交わりの中に招くことです。この【互いに相手を覚え、祈り合う群れ】という発想を現代社会に取り戻すことは、今、教会に与えられている課題だと私は考えます。
次週、読まれる御言葉には、二つの癒やしの奇蹟が描かれています。主イエスは病を癒やされます。しかしその目的は、癒やし、だけではないのです。当時、病を負う者は悪霊に取り憑かれているとされ、共同体から閉め出されていました。最も顕著な仕打ちは礼拝の参加を許されなかったことです。つまり人と人との関わりだけでなく、神との関わりからも閉め出されていたのです。しかし主イエスは彼らを癒され、治癒したことを祭司に見せることによって、もう一度、彼らを礼拝へ、群れの中に戻るようにされたのです。

牧師室からNo.248  2023/1/29

何カ国もの外国語を話せる人をバイリンガルとか、トライリンガルと呼びます。私の恩師は海外を飛び回っていて、頻繁に欧米をはじめ、アジアも中東にも渡られていました。ある時先生に、「何カ国語くらい話せるのですか」と質問したところ「十二カ国くらいかな、もっとかな」と答えられました。そのときは眉唾だろうと信じなかったのですが、実際に同行して海外に行く機会が与えられて、先生がさまざまな国の方と、さまざま言語で話されている姿を見て、驚きました。なんと、外国の人と冗談まで交わしていたからです。後で先生に「どうすれば外国語が話せるようになれますか。」と質問しました。すると先生は真面目な顔つきで私を見て「頭の中に地面を思い浮かべて、種を植えるんだよ」と話してくれました。「英語の種、中国語の種、ヒンディー語の種、その種を意識して話すうちに、種は芽吹き、幹を伸ばし、枝を広げていく。幾つもの木を育てなさい。言葉は覚えようとしてはダメだよ。」そう教えてくれたのです。私は、学習を反復記憶だと考えていました。何度も繰り返せば覚えることができる。しかし覚えたことは時間と共に忘れてしまうのです。そうではなく、知識を成長させるイメージを持つこと。知識を生き物のように、手を掛けて育てることが肝要だったのです。
次週の御言葉は「良い地に落ちた麦」の譬えです。この譬えを通して主イエスは信仰について教えられます。信仰は学ぶものでも、覚えるのでもありません。神が植えられる信仰の種を、心を柔らかくして受けとめた後、育てるのです。毎週の礼拝で与えられる聖書の御言葉を養分として、賛美を水として、聖霊の光を浴びて、信仰は健やかに育つのです。

牧師室からNo.247  2023/1/22

トルコのセルチェクから地中海の方向に二キロほど離れた所に、エフェソの遺跡があります。パウロが訪れ、後にエフェソの信徒への手紙が送られた教会が建てられていた町です。このエフェソ教会には使徒ヨハネが司教として赴任します。晩年、ヨハネは老いて、自らの力で立ち上がることも、話すことも、殆どできなくなります。しかし信徒たちはヨハネを輿に乗せて会堂の説教壇に運び、説教を聴くのです。ヨハネは講壇から一言「神は愛です」とだけ語ります。その一言によって、会堂に集まったすべての会衆は慰めと神の平安を与えられた、と伝えられています。このエフェソは典型的なローマ建築の町です。屋台が建ち並ぶ市場としても使われたアゴラと呼ばれる集会広場、市民の集会にも使われたすり鉢型の劇場、音楽堂、神殿、サウナ(浴場)、公衆トイレ、そして大通りの突き当たり、町の中心に大きな図書館が建てられています。当時のローマの各都市には必ず図書館があり、所有する蔵書の量を競い合っていました。それは多くの情報、知識を手にしている都市こそ一流だと考えられていたからです。そして、このエフェソの図書館は当時、最大級であったと伝えられています。東はペルシャ、北はガリア(北欧)、西はエジプト、南はイスラエルと世界中の書物を収集し、索引を作り分類し保存していたのです。しかし人々が本当に必要とした言葉は、ヨハネの「神は愛です」という一言だったのです。
私たちは光がなければ見ることはできません。しかし強すぎる光に包まれるなら、逆に廻りを見ることができなくなります。時々、目や耳を閉じて、入ってくる言葉を少なくすること、黙想し祈る時間を持つこと、そうすれば本質が見えてくるのです。

牧師室からNo.246  2023/1/15

新年役員会で【桑名教会のこれから】について話し合う機会が与えられました。普段の役員会ではなかなかできない自由に意見を交わす場です。その中で見えてきたのは、地域における桑名教会の役割とは、という課題です。桑名教会がこの地に置かれている目的とはなんでしょうか。それは、この地において「失われた人々を捜し出し、養い、育て上げることによって、神に栄光を帰すこと」です。「失われた人々」(ルカ19:10)とは、神との関わりからはぐれ、不安の中にある人々、世間から消し去られた人々です。そういった人々を捜し出すことが教会の役割です。そのためにはどうすれば良いのか。地域活動に積極的に参画する、教会マルシェや牧師カフェを開いてみる、などのアイデアが出ました。信徒一人一人が地域で「私はキリスト者です」と誇らしく公言すること、地域に牧師の存在を伝えていくこと、開かれた教会にすることが、その第一歩です。
次に「養い育て上げる」です。「信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われる」(Ⅰテモテ4:6)とあるように、聖書の学びを充実させることです。地域の人たちが礼拝以外の場で聖書に触れ、背後にある神の御心が説かれる機会を提供する。他地区での家庭集会を開く、という提案もありました。そして第三に「神に栄光を帰すこと」(Ⅱコリ4:15)です。これは礼拝によって実現します。自分と神との関わりに没入できる礼拝を組み上げること、喜びの中で神を賛美できる環境を整えることです。
次週の御言葉にあるように、私たちは自分の魂の内にある固定観念を打ち砕くことが不得意です。しかし信頼できる教会の交わりの中で、膝を交えて話し合うことなら、砕き合うことができるのです。

牧師室からNo.245  2023/1/8

伝道について考えてみます。というのは、元旦礼拝で与えられた御言葉「反対を受けるしるしとして定められている」(ルカ福音書2:34)から気づきを与えられたからです。説教の原稿を書いている時には心に引っかからない御言葉でした。この箇所の中心的な主題は、主イエスがどこにでもいる普通の家族の子どもとして誕生したこと、です。このことからシメオンは、神の救いが選ばれた者たち、優秀な者たち、権力者たちに与えられるのではなく、すべての人に与えられると知って、神を賛美するのです。そこでシメオンは主イエスについて預言します。「多くの者が主イエスを拒否する、しかし、主イエスを拒否することによって、彼らは自分たちの隠れた醜い心を自ら曝露することになる」。私は講壇の上で語りながら、自ら語った言葉に納得させられました。いままでの歴史上、そして今の世界、日本においても【主イエスを神の御子】【私の救い主】として受け入れていない人たちが多くいます。でも、それが当然だったのです。なぜなら主イエスは「つまずきの石」(イザヤ8:14)として、拒絶されるために世に来られたからです。つまり私たちの伝え方が悪かったから伝わらなかった、だけではなかったのです。聖書の話しをして「イエスなんて、一人の人間に過ぎないんでしょ、なんで神格化して拝んでいるの?」という言葉が返ってくる。それが福音伝道の始めの一歩で、ここから伝道は始まっていたのです。
では私たちの行う伝道とはなにか、それでも「主イエスはあなたの神です、あなたは神に愛されています」と伝える続けることです。九分九厘、否定されます。それで良いのです。その後、聖霊が直接、その人の心を叩かれるから、です。私たちは切っ掛けでよいのです。

牧師室からNo.244  2023/1/1

キリスト紀元「アンノドミニ(Anno Domini)」2023年が始まりました。この紀元は救い主がこの世に与えられた年から始まります。主イエスは12月25日に産まれた後、ユダヤの慣習に倣って8日目に割礼を受けられました。この日を紀元1年1月1日と定めたのです。そもそも紀元はローマ皇帝の即位日を規準にして数え始めていました。つまり世界の支配者が皇帝から主イエスへと変わったことを意味しているのです。基準点を定める作業は大事です。例えば構造物を建築する場合、施工に入る前に入念な測量が行われ基準点が決められます。その基準点からの距離を測り、図面に落とし込んでいきます。実際に施工を始めると、誤差や不備が出ます。それを補うのはプロの職人の腕です。でも、そもそも基準点が間違っているなら、すべての作業は無意味になってしまうのです。私たちの命の歩みも、どこに基準点を置くのかが大事です。そうすることで、自分がどこにいるのか、これからどの方向に行けば良いか、分かるからです。パウロは「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。」(1コリ3:10)と話します。神を基準点とすること。そうすれば私たちは彷徨うことなく、約束の地に行き着くことができます。さあ新しい年、新しい希望を携えて共に歩みましょう。神はいつも私たちと共におられます。だから敬虔に愚直に、神を畏れつつ神に委ねてまいりましょう。
次週の御言葉は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面です。「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」(ルカ福音書3:15)ここから天と地を繋ぐ主イエスの伝道が始まるのです。

牧師室からNo.243 2022/12/25

私がまだ幼かった頃、母がシュークリームを作ってくれた時のことです。カスタードクリームを作り冷蔵庫に寝かせ(それだけでも手間の掛かる作業です)、それからボールに材料を入れて、泡立て混ぜてシュー生地を練ります。既に台所はバニラエッセンスの甘い香りで満たされています。オーブンを温め、生地を焼き始めます。ちゃんと膨らんでくれるのか。オーブンのガラスの扉をのぞき込み、ドキドキしながら待ちます。あの頃、母は教会付属幼稚園の教師をしていて、日曜日には礼拝奉仕で奏楽をしていました。子どものためにシュークリームを作る時間など、どこにあったのかと、今、自分が同じ位の年齢になってみて、ただ感心しています。昨今では、簡単に手間暇を掛けることなくシュークリームを買うことができます。便利です。シュー生地はパリパリです。でもオーブンの中でシュー生地がゆっくり膨らんでゆく、あのワクワク感は、いつのまにか奪われてしまったように感じるのです。
旧約聖書では「待ち望む」という言葉が多く使われています。イスラエルの人々は救い主を待ち望む、メシアを待ち望み続けます。これが旧約聖書の主題です。では待望のメシアが与えられた後、つまり新約聖書では「待ち望む」は使われないのか、というとそうではありません。今度は神が私たちを待たれるのです。それは私たちの「気づき」を、です。神は私たちが気づくことを「辛抱強く待たれる」のです。
自分自身の魂にキリストを招き入れるための礼拝、それがクリスマスです。招き入れるためにはまず魂の内を整えなければなりません。主イエスを私の救い主として招き入れましょう。

牧師室からNo.242 2022/12/18

先週、日曜日の礼拝が終わった午後、教会周辺の家の郵便受けにチラシを配ってきました。綺麗にデザインして印刷して、丁寧に折って封筒に入れたチラシです。無駄にならないように一枚一枚「来て下さいね」と心の中で声を掛けながら投函していきます。そんなポスティングの作業ですが、ほっとする家に出くわします。玄関のドアにクリスマスリースを飾っている家、そんな家が結構多くありました。最近、花屋やホームセンターでは、季節の飾りとして立派なクリスマスリースが売られています。ですから、もしかしたらキリスト教信仰に興味があって飾っている訳ではないのかも知れません。でも、少なくとも嫌ってはいないだろうと安心して投函できるのです。イエスさまも、御自分の名前を騙って悪霊を追い出していた者について「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と話されました。そして「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(マルコ福音書9:41)と話されます。 
この報いとは神からの救いです。それは「神があなたを愛されている」という福音です。神はこの世を創造された方。混沌の闇に光を与え、無から有を生みだされた方です。その神が直接【私】に関わってくれているなら「たとえわたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る」(詩編22:8)というような状況に追い込まれたとしても、神は必ず打開策が与えられる、と信じることができます。しかも思いもよらない仕方で解決は与えられます。イエスさまの誕生、つまりクリスマスがその証しです。

牧師室からNo.241 2022/12/11

幼稚園の子どもたちに神さまのお話しをしてください、と依頼された時のことです。私はまだ駆け出しの牧師だったので、施設の担当をしている先輩牧師に、どんな話しをすれば良いのですかと質問をしました。彼は「神さまはいつもあなたを見ていますよ、嬉しいときも、悲しいときも、そして悪いことをしたときも。このテーマを中心に話せば良い、あと過去や未来という概念がまだ育っていないから現在の話しをすること」。そう教えてくれました。私が続けて「では小学生には」と質問すると、彼は「小学生になると、対人関係を理解できるようになるから、神さまは祈りを聴いて下さる、と教えればよい」と話しました。私は、なるほどなぁと感心し、今もこの言葉に倣っています。ただ、中高生が相手だとこのアドバイスは使えなくなります。彼らは「どんなに神さまが万能でも、全人類八十億人、すべての人間の言葉を同時に聴くことは不可能だ」と理屈を捏ね出すからです。それに思秋期の感情は不安定です「どんなに祈っても神は願いを聴いてくれない。」と戸惑い、神に失望します。でも私は「あなたの願いがあなたにとって最善で正解かどうか、なぜあなたに分かるの」とは質問しません。なぜなら彼らの心は親離れしたばかりで、まだ神からは親離れできていないからです。大人になり心が神離れすると、ようやく神を自分とは違う存在と認知できるようになります。そこから放蕩息子のように、神に立ち返る経過を踏んで、神の御心の奥深さを知る者へと成長するのです。
次週のテーマは「神にできないことは何一つない」です。この言葉が腑に落ちるのは幼いか成熟した者か、のどちらかです。マリアはまだ幼かったので素直にこの言葉を受け入れるのです。

牧師室からNo.240 2022/12/4

「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」(Ⅰコリント13:13)とパウロは話します。たとえ手にしているすべてを失ったとしても(終末が訪れたとしても)、この三つの事柄だけは失われない。だからあなたがたは、失われるモノに心を奪われるより、失われないモノを求める方が良い。そう話すのです。信仰と愛については「なるほどなぁ」と腑に落ちます。しかし希望については、いまひとつ心に響かないのです。なぜかと考えてみると、私が希望という言葉の意味を、誤解していたからだと気づかされました。たとえば私は第一希望、第二希望という言葉を使います。つまり希望を「自分の努力によって勝ち取ることを望む事柄」と理解していたのです。でもそれは御言葉に記されている希望ではありません。イタリアの作家カルロ・カレットは「楽観主義とは、人間や人間の可能性を信じることであり、希望とは、神と神の全能性を信じることである。」と書きます。本当の希望とは、神の全能性を信じること、神に望みを置き、成就させて下さると信じる祈り、なのです。つまり希望とは神との信頼関係の延長線上にある確信です。「神が必ず為して下さる」と信じることです。希望とは、曖昧な未来を意味する言葉ではないのです。
洗礼者ヨハネの父ザカリアは、神殿の境内で香を焚いている時に天使に出会い、恐れます。その言葉を受け入れることができないのです。なぜなら彼は、すでに高齢になっていて跡継ぎも与えられず希望を失っていたからです。でも、もし私たちが「今日、神は私の人生にどんな変化を与えて下さるのか」とドキドキしながら待つのなら。きっと天使は良き知らせを伝えてくれるのです。

牧師室からNo.239 2022/11/27

「吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。」夏目漱石「我が輩は猫である」の冒頭です。この文章を読むだけで、私たちは東京の谷中辺りに建っている狭い木造住宅の縁側を思い浮かべるのです。焦げ茶色の柱に板張りの床、開け放たれた障子の奥には畳の敷かれた居間があり、丸いちゃぶ台と火鉢が置かれ、練炭の酸い匂いまで感じられます。そして縁側の下から、生まれたばかりの子猫の「にゃぁにゃぁ」という、か細い声が聞こえてくるのです。では英語圏に住む人に読んでもらうために、この文章を訳すとどうなるのでしょうか。
I am a cat. I don’t have a name yet. I have no idea where I was born.意味は理解できます、でも「我が輩」を「I」と訳すなら、自らを「吾輩」と偉ぶる猫の、ふてぶてしい表情を思い浮かべることはできません。それに、火鉢にあたりながらタバコを吹かし、猫を眺めている苦沙弥先生の偏屈そうな口許も見えてはきません。
旧約聖書の原典はヘブライ語で書かれ、新約聖書の原典はギリシャ語で書かれています。ですから私たちが内容を正確に理解するためには、聖書の学びによって言葉を使っていた人々の日常生活を知る必要があります。しかし、まだ十分ではありません。御言葉の一言一言が【神の言葉である主イエス】を指し示していると覚えて読むことが肝要です。御言葉を自分に寄せて読むのではなく、主イエスに寄せて、神からのプレゼントとして読むこと、向かい合うこと。心を静かにして「語りかけて下さい、私は聴きます」と小さな祈りを捧げてから読み始めるなら、神は語り掛けて下さいます。

牧師室からNo.238 2022/11/20

「神の裁き」という言葉に私たちは怯えるのです。例えば預言者オセアの言葉に「裁きの日が来た。決裁の日が来た。イスラエルよ、知れ。お前の不義は甚だしく、敵意が激しいので、預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う。」(ホセア書9:7)とあります。また預言者エゼキエルは「終わりが来る。終わりが来る。終わりの時がお前のために熟す。今や見よ、その時が来る。」(エゼキエル7:6)このような言葉を聞くなら、なにやら暗澹たる気持ちになるのです。この世はいつか終わる、それは理解できます。神がこの世を創造され、始められたのだから終わらせるのも神の業です。でも、それが決裁の日と言われるなら、なんだか焦ってしまうのです。私は十分に神に喜ばれる生き方をしているのか。精算するなら負債しか残らない。そう確信できるからです。しかし、もう一方で聖書は、終わりの日に行われる神の裁きを【救い】だと話します。預言者イザヤは「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。」(イザヤ51:4)と話します。そして申命記の律法には「これらすべてのことがあなたに臨む終わりの日、苦しみの時に、あなたはあなたの神、主のもとに立ち帰り、その声に聞き従う。」(申命記4:30)と記されています。
主イエスは「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハネ福音書3:19)と話します。神以外の何ものかを礼拝することが罪であり、神以外の何ものかを礼拝しなければならないことは既に罰となっているのです。

牧師室からNo.237 2022/11/13

ギリシア語のπαράδεισος(ぱらでぃそす)は日本語で「楽園」と訳されます。この言葉は私たちにも馴染み深く、英語の「パラダイス」(Paradise)として知られています。「悩みや苦しみのない楽しい世界」という意味です。私はこの「ぱらでぃそす」が「パラダイス」の語源なのかな、と考えていました。παράは「〜の側に」、δειは「神への畏れ」、組み合わせると「神の側にいる場所」となるからです。でもそれは愚者の浅知恵でした。改めて調べたなら「ぱらでぃそす」の語源は古代ペルシャで使われたアヴェスター語のpairidaēza(パイリダエーザ)で、意味は「周囲を囲われた」です。「花々が咲く王の庭園」もしくは「動物園」を表す言葉として使われます。では新約聖書に記されている「楽園」のイメージはペルシャの庭園かというと、違います。旧約聖書の創世記に描かれているエデンの園です。人間が原罪に落ちる前の住んでいた、神が創造された庭園です。イザヤは「楽園」をこう描きます。「子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11:6-9)大事な言葉は「主を知る知識で満たされる」です。主なる神を知る場所こそが「楽園」だと、イザヤは話しているのです。
主イエスは十字架の上で、ともに十字架に架けられた罪人の信仰告白を聴き受けます。そして彼に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と話されます。明日ではなく今日、楽園にいるのです。

牧師室からNo.236 2022/11/6

私たちは今朝の礼拝を召天者記念礼拝として守ります。その意味について、少しお話しいたします。この「召天」の意味は「神の下に召される」です。そして「召される」(κλῆσις)は英語ではcalling「呼ばれる」です。神に「そろそろ帰っておいて」と呼ばれる、それが死です。キリスト教信仰において死は、家から外に出て、世の歩みを終えて家に帰るという日常の延長線上にあります。そして【この世の全ての人】は神の下に帰ります。「あの人は神から遠いだろう」と私たちが考えるような人物も、例外なく神の下に帰ります。もし、正しいことをした人物だけが天に帰ることを許されるのなら、天には空き家ばかりが並んでいることになります。なぜなら私たちはだれもが罪を負っているからです。しかし神は、そんな私たちを赦して(この赦しの代償が主イエスの十字架であり、私たちに負いきれない罪の重荷を神ご自身が負って下さいました)招いて下さるのです。
ではなぜ私たちは、先に天に召された方々を覚えて礼拝を捧げるのか。それは死者の、後の世での救済を執り成すためではなく(私たちが心配することなど微塵も必要ありません)、この世に残された私たちの悲しみに、神の慰めが与えられることを願うため、そして、私たち自身が自分の命と死に向き合うためです。
私たちは死の準備のために信仰を持つのではなく、生きるために信仰を持ちます。この世の荒波に激しく揉まれたとしても、信仰という錨があれば流されません。信仰は行く先を照らす灯火となります。そして信仰は教会の交わりの中で聖書を読むことによって与えられます。共に礼拝を守りましょう。

牧師室からNo.235 2022/10/30

先週の礼拝のあと雑談をしていて「結局、資本主義とか共産主義とか、つまり政治って富の分配システムなんだよね」という話しになりました。説教の中で「金持ちの男が豊作で余った作物を自分だけの物にした」という話しから派生した話題です。政治の役割は税金として供出された富(地域の住民が自分の生みだした財産)を広く公平に分かち合うために住民の意見を聴き調整することです。一人の人が、使えきれないほど富を倉に仕舞い込んで腐らせるより、みんなで使ってさらに多くの富を生み出す、もしくは未来に投資した方が良いよね、という発想です。ではなぜ国によって政治体制が違うのか、例えば資本主義、社会主義などがあるのか、というと、それは国の置かれた環境と歴史が違うからです。例えば他民族国家では様々な意見を摺り合わせるために強い権力を持つ指導者が必要になります。土地が貧しく、資源も乏しい国でも、少ない富を分けあって命を維持しなければならないので、強い指導者が必要になります。逆に気候が温暖で農作物も資源も潤沢な国の指導者は、強い権力よりも調整力が求められます。例えば日本では構成する民族が少ないので、この傾向が顕著です。
自分の持っているモノを隣人と分け合うこと。自分の手に入れたモノを誰かに渡すこと、それはとても難しいのです。でも聖書には、自分の分を我慢して相手に渡せと書かれてはいません。次週の御言葉の中で洗礼者ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(ルカ福音書3:14)と話します。自分が必要な分を除いた残り、余剰分を互いに共有し合いなさいと話すのです。

牧師室からNo.234 2022/10/23

地域を活性化させるのは「よそ者とばか者」だと、以前住んでいた島の環境局長(地域創生担当)が話していました。代々の土地に住んでいる人たちは、継承してきた生活様式や癒着した人間関係があるので新しい挑戦を行うことをしません。商売についても、既に固まっている地元の既得権益が幾つもあるので、わざわざ壊してまで(たとえ効率が悪くても)変えようとはしないのです。そもそもどの地域にも必ず、有力者(ご意見番)と言われる方がいます。同じ事業を立ち上げるにしても、その人に声を掛けて了解を取っておくならスムーズに進むし、無視して進めるなら、どこからか理不尽な横槍が入るのです。「よそ者とばか者」には少し前まで「わか者」が加えられていました。しかし最近の若者は積極的に他者に関わるとか、何か楽しいことを自分たちで企画するという発想が乏しいらしく、期待できなくなった、とのことでした。
週報の祈りの課題に「桑名教会周辺地域への伝道を覚えて」という一節を挙げています。それは桑名教会の地域での知名度を上げる、という意味ではありません。なぜなら既に、地域の方々の多くは桑名教会に対して好意的だからです。では桑名教会に求められている地域での役割とは何か、というとそれは福音を伝えることです。そのために「よそ者とばか者」になること、です。キリスト者は天国に国籍を持っているので、この世にあっては常に寄留者、よそ者です。「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。」(Ⅰコリ3:18)と勧められているように、ばか者です。「できない」と諦めるのではなく、みんなで祈って神の御心を聴くことから始めましょう。

牧師室からNo.233 2022/10/16

タイの賃貸マンションにはキッチンが備え付けられていない物件が多い、という話しを聞きます。なぜなら食事は野外に並んでいる屋台を利用するからです。夕方頃、バンコクの町を歩くと揚げ物油の強烈な匂いが漂っています。その匂いを頼りに進むと移動式屋台が所狭しと並んでいる広い場所に辿り着きます。きらびやかな電灯が幾つも灯され、発電機が騒々しく音をたて、沢山の人たちが集まっています。屋台には何だかよくわからない料理、麺類、魚、肉、揚げたパン、発酵した唐辛子ペースト、甘い砂糖のお菓子、果物、様々な物が売られています。そこにプラスチック製の丸テーブルと椅子が置かれ、家族が集まって食事をしています。近所の人たちも加わってワイワイ食事をしている姿を見ると、なんだか幸せな気持ちになります。知り合いのタイの方の家に招かれたことがあるのですが、部屋の中はとてもシンプルでした。キッチンがないのでガスを引いておらず、防火設備はありません。暖かい気候なのでシャワーは電気ヒーターの温水器で事足ります。消費電力の大きい冷蔵庫を置く必要もなく、食品ロスもほとんど生じません。そんな様子を見て、日本人は蓄えすぎる傾向があるのかな、と感じました。冷蔵庫に沢山の食品を溜め込みます。食器棚には皿やコップが溜まり、銀行には貯蓄を積みます。それでも不安で保険までかけるのです。確かに不慮の事態に陥っても安心です。その反面、蓄えすぎている物が重くて身動きが取り難くなっているようにも、思えるのです。
次週の御言葉の中に「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と記されています。とても考えさせられる言葉です。

牧師室からNo.232 2022/10/9

「ティファニーで朝食を」(1961)という映画があります。早朝のニューヨーク。向こうから走ってきたタクシーが建物の前で止まります。ドアが開き、黒いパーティドレスに身を包んだ女性、ホリー・ゴライトリー(オードリーヘプバーン)が降り立ちます。その建物は五番街にあるティファニーです。彼女はショーウインドーを眺めながら、手に持っている紙袋からデニッシュと紙コップのコーヒーを取り出し、ショーウインドーに飾られた宝石を眺めながら、幸せそうに微笑むのです。(黒い大きなサングラスで表情が隠されていても、喜びと満足の感情が伝わってくる素晴らしい演技です)ホリーの生活は豊かではありません。家族もいない、仕事もない。彼女が飼っている猫の“キャット”と同じように、何も持っていない曖昧な毎日です。でも、ティファニーのショーウインドーに飾られている宝石を眺めながら、いつか手に入れる日を夢見つつ、幸せに生きています。そんなホリーに恋人(ポール・バージャク)が現れます。また恋人とは別に、若いブラジルの大富豪との結婚の話しが持ち上がります。夢見ていたすべてを手に入れる機会が与えられるのです。しかしその途端、ホリーの表情は落ち着かなくなります。キラキラした宝石は、憧れだったからキラキラしていたのです。ホリーはそのことに気づき、憧れを捨てポールを選ぶのです。
主イエスはガリラヤの丘で人々に「あなたたちは幸いです」と語り掛けます。では彼らは「そうだ、私たちは幸せだ」と肯くのでしょうか。そうではありません。主イエスの言葉に驚き、疑うのです。主イエスの話す幸せとはなにかを、私たちは聖書の中から共に聞きましょう。

牧師室からNo.231 2022/10/2

山の中にテントを張ってキャンプするとなると、一つ一つの準備に手間がかかるのです。例えばテントを張るにしても、直射日光が当たらず風の通り道ではない場所を見つけること。もし雨が降ってきても、水溜になるとか雨水の通り道ではない場所を探します。景色を一望できる開けた場所が見つかれば、なお良しです。水は炊事場の流し台に汲みに行き、調理するための火も薪から起こします。食材の準備にも手間がかかります。調理の後には炭の片付け、窯の掃除、アルマイト鍋の底にこびり付いた炭をこすって落とす、など。たった一度食事を用意するだけでも、ひと仕事です。でも、そうやって野外の不便な生活を体験するなら、いかに日常の生活で私たちが整えられた環境を与えられているか、を実感できます。忙しい時には近くのコンビニでおにぎりを買ってきて、煩雑に資料を広げたテーブルの上でキーボードを打ちながら頬張る、などという不健康な芸当も、自分の部屋なら可能です。脱いだ衣服は洗濯機に放り込めば三十分で綺麗に洗われ、掃除はロボットがしてくれます。一日の時間のほとんどを仕事に向けることができます。でも私たちは仕事をする為に生きているのか、それとも生きる為に仕事をしているのか、というと、やはり手間と時間をかけて生活することに心を向ける方が良い選択だと思うのです。
ゲッセマネに向かう途中、ペトロは主イエスに「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と宣言します。でも主イエスがペトロに望んでいることは、神のために命を捨てること、ではなかったのです。そうではなくペトロが「生きること」、それだけだったのです。

牧師室からNo.2302022/9/25

今月から水曜会では出エジプト記を読み始めました。その導入として出エジプト記を学ぶ意義を共に考えました。出エジプト記というと、モーセが海の水を左右に割って、その間をイスラエルの民が渡り逃げていく、あの場面を思い浮かべるのではないかと考えます。エジプトで自由を奪われ、賎民として扱われていたイスラエルの民は、モーセに率いられてカナンの地、約束の地、乳と蜜の流れるカナンに帰還するのです。この体験がユダヤ民族の信仰の基軸となります。彼らはどんなに過酷な状況に置かれたとしても唯一の主なる神を信じ、偶像を拝むことなく、律法を守り続けるなら必ず解放されると信じます。神に望みを置きつつ、与えられた信仰を子どもたちに継承していくのです。この信仰に生かされていたからこそ、彼らはバビロン捕囚を経験しても、ローマ帝国によって国土を奪われても、消滅することなく、現在も存続し続けることが可能になったのです。彼らは年に一度、家族や親族で集まり過越の食事をとり、出エジプトを追体験します。マッツァ(種なしパン)、赤ワイン、塩水を用意し、プレートにはゼローア(焼いた羊肉、犠牲の羊の象徴)、マロール(苦菜、エジプトでの苦難を象徴)、ハロセト(果実の練り物、エジプトでのレンガの象徴)、ベイツァー(ゆで卵、神殿崩壊の嘆きの象徴)、カルパス(野菜。塩水に付けて食べる)を並べます。
主イエスの最後の晩餐の食事も、この過越のメニューです。主イエスはパンを裂き、葡萄酒を祝福し弟子たちに渡します。神はイスラエルをエジプトから解放したように、人々を罪から解放し、新しいイスラエルを創造するのです。

牧師室からNo.229 2022/9/18

「1+1=2」と私たちは考えます。でもある教室での教師の質問に、一人の子どもが「大きい1」と答えたそうです。彼は頭の中で粘土を思い浮かべ、両手で粘土をこねて二つの小さな団子を作り、その二つをくっつけて大きな団子を作ります。そして「大きい1」と答えたのです。私はこの記事を読んで、子どもの自由な発想に感心させられました。しかし、もし彼の教師が、彼の頭のなかの物語を想像できなかったら、つまり解答欄に「1」と書かれていなかったら、赤いマジックで×が付けられるのです。もしくは彼の発想を聞いても、他の生徒と同じ解答をしない、という理由で叱るかもしれません。一人の子どもの斬新な発想は、しかしそれを受容できない世界にあっては誤りとされるだけではなく、他の子どもに悪影響を及ぼす悪しき考えとして排除されるのです。特異で逸脱した発想こそ、その社会にあって得難い贈り物であるにもかかわらず、前例主義や責任回避の思考が、豊かな発想を停止させます。私たち信仰者は、神の義だけが唯一の正解、と知っています、だからこの世には多くの解答があって良いと、多様性を受け入れることができます。互いに互いの正解を受け入れ合えるところに神の国、つまり平和が生みだされるのです。
次週はナルドの香油の物語です。私たちはこの物語を、十字架の苦しみと死に向かう主イエスに対する、一人の女性の尊い献身として覚えます。でも本当にそうでしょうか。前後を読むならば、この女性の非常識な行動が原因で、主イエスが十字架に架けられることになった、と読み取ることができるからです。しかし、そこにも神の御心が働いているのです。

牧師室からNo.228 2022/9/4

私は月に一度、定期的に病院に通っています。血液検査をして好酸球の数を調べる為です。増えていればヒヤヒヤ、減っていれば胸を撫で下ろします。私の疾患は血液中の好酸球(白血球の一種)が異常に増えて、免疫が暴走することが原因です。免疫の働きを担当する白血球は外から入ってきた寄生虫、細菌、ウィルスと自分の体細胞を区別し、有害なものを撃退します。しかしこのバランスが崩れると白血球が誤って仲間の細胞まで捕食し始めます。症状が進むと毛細血管の壁に穴が空き血液が漏れて身体の表面に出血斑が現れます。処置をしなければ内臓に影響が及びます。とはいえ免疫が適切なバランスを保たれていれば良いわけで、私は免疫抑制剤を飲み続けているのです。このステロイドは5000分の1グラム単位で調整され、処方されます。そんな微妙な量のホルモン剤が、臓器や脳に作用して体内の様々な機能を維持する働きをします。あらためて神の創造に畏怖を覚えます。
以前、診療を終えた後、薬局で待たされたことがありました。薬剤師が処方箋の内容に疑問があり主治医に問い合わせたためです。たとえ明らかな間違いが解っても、薬剤師は医者の書いた処方箋に逆らうことはできません。結局、医師の勘違いだったのですが、その厳格さに感心させられました。ほんの少しの薬量の間違いで命が失われる、緊張感を感じさせられたのです。
次週の御言葉のテーマは「掟」です。この言葉の原語は「処方箋」という意味でも使われます。神の権威ある処方箋、それは神がモーセに授けた十戒という掟です。律法学者が命懸けで守ろうとした理由はここにあります。

牧師室からNo.227 2022/8/28

私用で東京の高尾に行ってきました。片道四時間半ほど、往復七百キロの運転です。とはいえ名古屋から海老名まで新東名高速道路が繋がっていて快適です。速度制限百二十キロ巡航走行でも安定しています。最近の日本の道路は舗装技術が優秀なので路面はギャップもなく滑らかです。カーブでは回転半径に合わせて傾斜がつけられていて、ハンドルを取られることもありません。雨が降っても水たまりができません。三十年前、仕事で首都高と東名高速を、荷物を満載したロングトラックで行き来していました。路面の溝や段差が幾つもあり、その度にタイヤが跳ねて、暴れるハンドルを力で押さえ込みます。けれど併走している運転手たちは制限時速ギリギリで飛ばします。流れに乗らなければ逆に危険なのでアクセルを踏み続けます。目的地に着くころには、もうグッタリでした。
高速道路を運転しているとき、視点は前に向いています。前の車との距離を測り、後ろや横を走る車を見ます。そうやって周りの状況を予測しながら、自分の車を操作します。周りの景色を眺める余裕は、ほとんどありません。同じように、毎日の生活で頑張っている時、私たちは周りが見えなくなるのです。仕事ができる環境が与えられ、健康が与えられ、意欲も目的も与えられ、すべてが整えられているから、働く事ができているのに、すべて自分の能力や努力の結果だと誤解するのです。上手く行っているということは、たまたま種が豊かな土の上に落ちただけのことです。上手く行かなかったなら、地面が固かっただけです。神を知るならこのような誤解は解かれます。私たちは恵みを知ることができます。感謝を知るのです。次週の御言葉はぶどう園の主人と農夫の話です。

牧師室からNo.226 2022/8/21

ロンリープラネット(Lonely Planet)という旅行ガイドブックがあります。1973年に初版が発刊されて以来、世界中のバックパッカ−の必需品として現在も使われ続けています。先日、本屋の洋書の棚に並べられているのを見つけて、懐かしくて手に取りました。私がインドを旅した時、この本だけが頼みの綱でした。昨今のようにインターネットのない時代、バックパッカーが次に行く町の情報を得るためには、安宿に寝泊まりをしている(夕方になるとロビーや屋上で見ず知らずの者同士が酒盛りを始める)旅行者に話しかけて聞くか、この本を頼りするしか手段はなかったのです。バックパッカーというと世捨て人のようなイメージがあります。でも、聞くと「これから何を始めるか見つけるために旅をしている」と話す人がほとんどでした。仕事をやめて次にどんな仕事に就こうか。高校を卒業して大学で何を専攻しようか。子どもが独立して家を出たから次は何をしようか。次はどの国に住もうか。「私は何をしたいか」を軸にして仕事や学校を選ぶ(住む場所も選ぶ)。私は彼らの自由な在り方に驚かされました。自分の成績や能力に合わせて学校や仕事が決められる。教授から教えを受ける、経営者から労働報酬が与えられる。日本ではそんな姿勢が支配的だからです。私たちは一人一人独立しています。誰かの考えや思惑、社会通念や慣習に忖度するのではなく「私は何がしたいのか」を軸に考えることができる、それが成熟した人間の在り方だと教えられました。そして「私とは誰か」「何を求めているか」を知るためには「神」を知る必要があります。そのための宗教であり信仰なのです。
次週の主日礼拝のテーマは「何をしてほしいのか」です。

牧師室からNo.225 2022/8/14

三十年ほど前の話です。インドのスラムで何人もの男の子たちが働いていました。街中の小さな車の整備工場で、器用にオイルエレメントをオイルで洗ったり、小さい手と身体を使ってエンジンルームに潜り込んでナットを緩めていました。別の男の子は、大きな自転車に三角乗りをして、身長の何倍もあるような荷物を後ろに載せて運んでいます。道端で豆菓子を売っている女の子もいました。子どもを労働力にしてはいけない、教育を受けて成長する時期。その通りです。でもなぜか彼や彼女たちの目はキラキラしていました。ビックリするくらい澄んでいて、嬉しそうに働いていたのです。彼らの父親は何をしているのか、というと仕事をすることなく昼間から街中をフラフラしていました。「子どもが四人いればもう父親は働かなくていいんだよ」甘い紅茶を飲みながら大人の一人が話します。「命をくれてやったんだから当たり前だろ」。でも、その目はドンヨリとして、まるで死んだ者のような目でした。
日本に帰ってきて、夕方、学習塾に向かう子どもたちの目を見て、驚きました。その目がインドのスラムの大人と同じ、あの目、だったからです。日本はインドに比べて経済も衛生環境も優れています。子どもたちは守られています。多くの子どもは学習する機会が与えられ、健康に自由に生活できているはずです。でも、子どもたちの目は輝いてなかったのです。幸いとは何かと、考えさせられました。
次週の礼拝の聖書箇所で主イエスは「子供のように神の国を受け入れる人でなければ」(マルコ福音書10:15)と話します。つまり、神の国は大人には受け入れにくい場所だ、と話されるのです。なぜでしょう。その意味を共に聖書に聴いていきましょう。

牧師室からNo.224 2022/8/7

新型コロナウイルス感染症の第七波が急拡大しています。過去の歴史から予想されることですが、人類社会に現れた新型ウイルスは時間が経つに従って変異し、感染力が強くなり、逆に弱毒化する傾向があります。時間をかけて季節性の風邪やインフルエンザのように常態化していくのです。しかし現在、流行しているオミクロン株の変異種BA.5が同じ傾向に落ち着くのか、まだ見極めの段階なので注意が必要です。基本的な感染予防を行いつつ、人が多く行き交う場所を避けて過ごしましょう。桑名教会ではネジを巻き直し、再度、感染予防対策に取り組みます。手が触れる場所の消毒。換気と空気循環。オミクロン株の感染経路は飛沫感染だけではなくエアロゾル感染、つまり空気感染だと考えられています。礼拝堂での会話、礼拝が終わった後の懇談はできる限り短く切り上げるようにして下さい。いましばらく落ち着いて、嵐の過ぎ去るのを待ちましょう。そして、こういう時のためのネット配信です。体調の優れない方、猛暑で家から出られない方は活用下さい。スマホでも視聴できますので使い方がわからない方は牧師まで連絡して下さい。
あらためて、礼拝堂に集まって皆で礼拝を献げることができることの貴重さを感じます。自分の命、肉体の健康も大切ですが、魂の健康も大切です。毎日三度、食事を取るように、毎週日曜日の礼拝で聖餐卓を囲み、私たちは魂の糧をいただき、生きる力を与えられるのです。次週の礼拝の聖書箇所は「命にあずかる」がテーマです。私たちの日々の生活に於いて何が必要か、何が必要ではないのか、見定める視点を聖書は教えてくれます。

牧師室からNo.223 2022/7/31

南吉衞牧師の葬儀が7月4日、府中の森市民聖苑にて執り行われました。南先生は、しばらく介護施設に入所されていたのですが、6月4日の朝、職員が見回ったときには息を引き取られていたそうです。特別な疾患によってではなく老衰と診断されました。つれ合いの含先生は、コロナ禍にあって頻繁に面会に行くことはできなかったけれど、会って話しができた時間は慰めだったと話されました。葬儀はコロナ禍への配慮から含先生が司式を担い、家族だけで行うことを考えていたそうです。しかし、知り合いの牧師から「それは良くない」と助言され、最低限の人数で執り行われることになりました。当日は35名ほどの方々が集まりました。広島教会の守谷牧師の司式、奏楽は信濃町教会の90歳のご婦人がオルガンを弾かれました。しんみりとした雰囲気ではなく、天に帰られた安らぎを覚えることができる葬儀でした。含先生は挨拶で、南先生が引退してから一度ドイツに行けたことをとても喜んでいた、と話されました。旅先で沢山の人に迷惑をかけたでしょうに、とも。それでも皆から親しまれ愛された南牧師は、やはり神に供えられた牧会者だったと、私は改めて思わされました。

そして、4月7日に召された原崎牧師の納骨式が7月24日、川崎市の春秋苑にて行われました。ご家族に神の慰めが豊かにありますよう祈ります。

教会は神がこの地上に備えられたぶどう畑です。私たちは農夫として先達の信仰を継承し次に繋ぎます。「自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。」(申命記6:12) とあるように私たちは神に仕えるのです。

牧師室からNo.222 2022/7/24

先日の聖書研究祈祷会で映画「WAR ROOM」(邦題:祈りのちから)を鑑賞しました。日本語に訳すと「闘いの部屋」です。なんだか物騒なタイトルですが、戦争映画ではありません。寝室の横にある小さな物置を祈りの部屋にしている老婆の話です。彼女はこれまでの長い人生を、この小さな部屋の中で、一人で祈ることで闘い続けてきました。その闘い方を、家を売却するために呼んだ不動産屋の女性に教える、それだけの物語です。監督・脚本を手がけたアレックス・ケンドリックはアメリカのバプテスト派の牧師です。2015年8月に全米の映画館で公開され、週末興行収入ランキング一位を獲得しました。近年、アメリカというと、メディアでは銃と暴力、所得格差、薬物といった否定的な情報が頻繁に流されます。しかしアメリカ人社会の根っこは、開拓時代から続く、主イエスに従う生き方に憧れるキリスト教信仰にあると、あらためて思わされました。幾つものキラキラとしたセリフがあります。具体的に書くと映画の内容を紹介してしまうので割愛しますが、お勧めの映画です。
次週の御言葉のテーマは「信じる」です。私たちは言葉を投げることは得意ですが、受け取ることは不得手です。話すことは得意ですが聴くことは不得手です。疑うことは得意ですが、信じることは不得手です。しかし主イエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」(マルコ福音書9:25)と話します。「信じる」ことは闘いです。私たちを疑いの闇で包みこみ、迷わせ、隔てようとする、悪霊との闘いです。しかし、聖書の御言葉に聞き、一人で深く祈って戦略を練ること、そうやって闘えば必ず勝利できます。

牧師室からNo.221 2022/7/17

最近のカメラは人工知能が人間の顔を判別し、被写体の目までの距離を測定してピントを合わせてくれます。でも物足りなく感じるのです。以前は写真を撮る前に、入念に撮影プランを練りました。まず必要なざらざら感(粒度)の程度でフィルム感度を決めます。次に使うフィルムによって色調が違うので照明機材や時間、野外か室内か、環境に合わせてフィルムの種類を決めます。そして被写体のどの部分を強調するかによってどの程度、背景をぼかすかを考えます。これによってレンズのf値や焦点距離が変わるので、使うレンズが決まります。最後、撮る直前になって、地面に映る影の濃さから太陽光の強さを見て、絞りとシャッター速度を決めます。脇を締めてカメラを固定し、右目でファインダー越しに被写体の目を見て、左手でレンズのリングを回しピントを合わせ、左目は被写体の動きを追いつつ、フレームに入った瞬間に優しく、ブレないようにシャッターを切ります。家に帰って写真屋に行き、フィルムを現像に出します。二日ほどドキドキしながら待って、ようやく写真を受け取ります。横長の袋に入った何十枚の中から、ピントが合っている1枚の写真を見つけるのです。それは目の奥の水晶体の中で光が乱反射している、生きている写真です。
次週の御言葉を読み解くヒントはピントです。ピントが合っている。細部まで明確に見える。でも逆に見えてしまうなら、それまで想像力で補っていた、美化された虚像は消え去ります。「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。」(1コリント13:12)その時の為に私たちは覚悟を以て信仰生活を歩むのです。

牧師室からNo.220 2022/7/10

以前、ミッション系高校で聖書科非常勤教師をしていた時のことです。授業カリキュラムの関連で将来就きたい職業のアンケートを取りました。すると一位は、いつの時代にもランキングの上位に入るスポーツ選手でした(2000年頃のことです)。その他に警官、消防士、看護師という答えが返ってきました。その理由を尋ねると彼らは「誰かの役に立ちたいから」と話します。その心掛けに少しばかり感心したのですけど、同時に違和感を感じました。そこでもう少し、話しを掘り下げて聞いてみると、彼らの選択動機は【人から褒められるから】だったのです。その学校は私立校で、比較的生活に不自由しない家庭の子どもたちが集っていました。俗にいう「良い子」が集まっていた教室です。彼らは家庭という狭い人間関係の中で、子どもの頃から【親に喜ばれる自分】を演じながら育ってきました。ですから社会に出てからも、誰かの役に立って褒められたい、褒められることが自分の存在価値だと考えるようになっていたのです。ではこの社会に「人に褒められる仕事」という分野があるのか、というと、ありません。純粋に褒められたい、感謝されたいと望むなら、対価を求めず相手に身を捧げなければ成り立たちません。仕事とは賃金を対価に労働やサービスを提供することだからです。彼らは、与えられた仕事を忠実に実行すれば褒美を与えられる、という環境に馴らされ続けられてきたが故に、自発的に新しい仕事を作り出そうとする意欲が育っていなかったのです。
次週、主イエスは弟子たちに「ファリサイ派のパン種に注意しなさい」と話します。私たちも褒められる、感謝されるというパン種に注意しましょう。

牧師室からNo.219 2022/7/3

次週の主日礼拝は三重地区交換講壇が行われ、幸町教会の丸田久子先生をお招きします。私は津教会で礼拝を守ります。このように交換講壇を行う目的の一つは、共に三重地区の伝道を担っている近隣の教会を覚えることです。この三重地区には日本基督教団に属する教会が十七あります。それぞれの教会に牧会者がいて信徒がいて、伝道を担当する地域が与えられています。しかし教会間の距離が離れているので(桑名から尾鷲で百四十四km)なかなか交流を持つことができません。そこで交換講壇の機会を作って、お互いの教会の伝道を覚え、祈りを合わせるのです。
なぜ、近隣教会の伝道を覚える必要があるのでしょうか。毎週日曜日に【自分の】教会に行き、御言葉をいただいて、心が豊かになる、慰められれば十分なのでは、と考えられるかもしれません。しかしそれでは不十分です。復活された主イエスは弟子たちの前に現れて命じます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ福音書28:20)つまり教会が、主イエスの御身体として地上に建てられている目的と役割は、この世のすべての人を主イエスの弟子にすることなのです。私たちは礼拝からこの世へと送り出され、神の存在を告白し「神が【あなた】を愛している」と伝えるのです。しかし単独教会の伝道ではカリスマという偶像を作ってしまう、成果主義に走る、礼拝が趣味教養講座に変質してしまうといった危険性があります。ですから伝道は、教会と教会を線で結び、線と線をつなげて面にすることが大切なのです。

牧師室からNo.218 2022/6/26

「何ひとつ持たないで、私は主の前に立つ。主の恵みがなければ、ただ死ぬ他ない命。あなたが約束する、未来、待ち望む私。」讃美歌21の453番です。この「何ひとつ持たないで」という歌詞に触れるたびに、私は自身の信仰の原点にひき戻されます。その切掛けは、ロバート・ゴルディスの著書「神と人間の書−ヨブ記研究−」でした。二十歳半ばの頃、私は苦難の中にいると苛立っていました(今にして思えば誰もが経験する成長痛です)。その流れでヨブ記に心を引かれ、この本に行き着いたのです。しかし読んでみるなら、自らの愚かさと弱さに気づかされました。ヨブは神から苦難を与えられたことに嘆いていた訳ではなかったのです。苦難によって神への信頼を失い、神から離れようとしている自らの心の弱さを嘆いていたのです。私はこの本から、神は人を苦難から解放される方ではなく、苦難に中に共に埋没して下さる方であると教えられました。そしてヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)と高らかに神を賛美します。私たちはそもそも何も持っていないのです。にも関わらず【何か】(thing)を持っていると誤解し、その【何か】に頼り、その【何か】がないと不安に心を奪われます。何も持っていない自分を受け入れる勇気が、私たちの信仰の種なのです。いつか奪われる【何か】に固執する必要ないのです。
さて次週の御言葉です。主イエスは弟子たちを伝道に送り出します。その際「旅には杖一本のほか何も持たず」(マルコ福音書6:8)と命じます。弟子たちはこの伝道経験を通して、何一つ持たなくても神が全てを用意して下さる、という信仰を与えられるのです。

牧師室からNo.217 2022/6/12

家族伝道は難しいとよく話されます。家族と教会の礼拝を守れない、子どもたち、孫たちに信仰の継承ができない、そんな声です。私は家族だからこそ伝道が難しいと考えています。なぜなら家族は、家という狭い空間で一緒に生活しています。しかし人間は一人一人「他人が入ってくると不快に思う距離感」(対人距離)を持っています。どんなに親しくても3メートル以内に誰かがいると落ち着かないのです。ですから私たちは家族を自分の身体の一部だと誤認することによって脳を誤魔化し、対人距離を感じさせなくしています。考え方も感じ方も同一だと思い込むことによって、距離が近くても心の安定を保っていられるのです。日々を重ねて生活を共にしているからこそ、お互いの違いにも譲歩し調整し、ほとんどの事柄に於いて誤魔化しではなく、一致するようになります。味噌汁の塩加減にも出汁の味にも不快感がなくなるのです。しかし信仰だけは同一に、とはいきません。なぜなら信仰は自分と神との一対一の対話から与えられる恵みだからです。夫が信仰を持っているから、という理由で妻が同じ信仰を持たなければならないのなら、それは拷問です。その逆も同じです。では家族で同じ信仰を持つことは間違っているのでしょうか。そうではありません。家族伝道の第一歩は、まず自分を砕くことから始まります。私と夫は違う人格、私と子どもは違う人格だと認めること。「教会に行きなさい」とか「信仰を持ちなさい」と命じるのではなく、一人の愛する人が主イエスを介して神と繋がるように祈るのです。
次週の御言葉にはペトロの姑が描かれています。彼女は信仰を得ました。主イエスと出会うのです。

牧師室からNo.216 2022/6/5

親に連れられて、私は毎週日曜日の朝、教会に通っていました。物心ついたときから、それが日常だったので、何も疑問を感じることはありませんでした。母親は教会付属の幼稚園で働き、日曜日も教会で礼拝を守っていました。父親は毎日朝早く仕事に出て夜中に帰り、それでも教会の中高科を担当していました。少し大きくなって、学校の友だちから日曜日は家族で遊びに行く日だと聞きました。でも私は羨ましいとは感じませんでした。それは礼拝後の食事が楽しみだったからです。日曜日の主日礼拝、牧師の説教が終わると直ぐに、厨房からバタバタと音が聞こえ始めます。そして昼ご飯の美味しそうな香りが礼拝堂に漂います。礼拝が終わると礼拝堂の長椅子を動かしてテーブルを置いて、毎週、愛餐会が行われました。そうやってみんなで食べるご飯が、私は大好きだったのです。教会バザー、遠足、キャンプ。家族でどこかに行った記憶は数える程しかないけれど(記憶にないだけかも知れません)、教会での楽しかった感覚は沢山残っています。自分の家族だけではなく沢山の人たちとワイワイ楽しむ。それぞれ自分の持っている物を少しずつ持ち寄って分かち合う、そんな教会の雰囲気が私は好きでした。
世の中か豊かになり便利になり、誰もが一人で大抵のことができてしまう世界に私たちは生きています。台所でお弁当を作らなくてもコンビニのおにぎりで事足りてしまう。食事が勉強や仕事の合間の作業になっている。それは悪いことではありません。でもやっぱりみんなで食べた方が美味しいのです。コロナが終わったら教会員とそのご家族と一緒に、礼拝の後にみんなでカレーを食べる。そんな全家族礼拝の様子を想像しつつ、次週の合同礼拝を守ります。

牧師室からNo.215 2022/5/29

ペンテコステは初代教会における聖霊降臨を記念する祝日です。イースターから五十日目の主日にあたります。このペンテコステという言葉の意味は「五十日目」というギリシャ語に由来し、ユダヤ教のシャヴオット(七週の祭り)に対するギリシャ語の呼称です。この七週の祭りは元来イスラエルの春の大麦の収穫祭日でした。「あなたは、小麦の収穫の初穂の時に、七週祭を祝いなさい。年の終わりに、取り入れの祭りを祝いなさい。」(出エジプト34:22)とあるように、古くから祝われていた収穫祭なのです。しかし後期ユダヤ教において新たな意味が加えられます。それはこの日(第三の月の新月)にエジプトから逃れたユダヤの民がシナイ山に入った、とされていたからです。(出エジプト19:3)そしてモーセが十戒を受け取った出来事を記念する、律法授受の祝日としても、祝うようになるのです。このペンテコステの日に、使徒たちに聖霊が降ります。律法に代わって聖霊が授受されるのです。人は律法ではなく聖霊によって救われると、神は明らかにされたのです。
私たちは自分の頭で考え判断し行動していると考えます。そして自分以外の何かが頭の中に入ってくることを嫌がります。例えば小さな子どもは母親の手を振り払って「私がやる!」とコップに牛乳を注ごうとします。同じように私たちも神の手を振り払いながら生きようとしているのです。しかし神は私たちを優しく見守って下さいます。そして、私たちが自分本位な心を砕いて聖霊に聞こうとするなら、適切なアドバイスを受けることができるのです。私たちは律法に従って機械的に判断するのではなく、まず自分を砕き聖霊を受け入れて、愛を規準に判断するのです。

牧師室からNo.214 2022/5/22

最近、一週間が短く感じられると同世代の教会員の方と雑談しました。二十代の頃は一週間がもっと長く感じられたのです。仕事が終わった後、仲間と集まって無駄話をしていても、それでも時間が余っていました。確かに中年になって睡眠時間は増えます。責任に応じて仕事量も増えます。親任せにしていた家事や雑用に割かれる時間も増えるのです。ではそれが原因で、時間が足りなく感じられるのかというと、そうではないのです。心理学では「中年になると時間が短く感じられる問題」を「ジャネの法則」と呼びます。これは「生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢に反比例する」という法則です。つまり一般に五歳の一日は五十歳の十日と等しく感じられるのです。この現象は脳科学の分野でも立証されています。私たちの脳は情報を処理する時間が長いほど、費やす時間を長く感じるのだそうです。ですから逆に周りの世界が見慣れたものになると、脳は取り込んで処理をする情報が少なくて済むために、同じ時間でも短く感じられます。毎日に新しい発見がない。すべての作業が習慣化していて新しい発見や学びの機会がない。ドキドキワクワク、ハラハライライラすることがない。脳に新鮮な情報が届かない、だから一日の時間が短く感じられるのです。
次週の御言葉の中で、主イエスは神に長い祈りを捧げます。長く理解しにくい祈りの言葉です。しかし、だからこそこの言葉の中に主イエスの苦悩と痛みが見えてくるのです。パウロはこう話します。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。」(ロマ書8:26)主イエスは呻かれるのです。

牧師室からNo.213 2022/5/15

つくづく、待つことは難しいのです。先日、久し振りに単行本を買いました。アンディ・ウィアーの「プロジェクト・ヘイル・メアリー」というSF小説です。私はジェイムズ・P・ホーガンの「星を継ぐもの」に出会って以降ハードSFにハマり、安価な文庫本(多くは古本屋で見つけたモノ)を探しては読んでいました。基本的に神学書や辞書、資料として使える本には糸目をつけず即購入するのですが、趣味の本は一度読んでしまうと二度読むことが希なので、極力、散財の我慢を強いていたのです。しかし今回、アンディ・ウィアーの新作が出版されるということで、文庫本まで待てず、高価な単行本を買ってしまいました(ちなみに桑名図書館では貸出中でした)。それだけではありません。なにかと急がしい4月末に一日で上下巻を読み切ってしまいました。「高かったのだからゆっくり読めば良いのに」という思いと「先が知りたい」という思いがせめぎ合い、好奇心が勝ちました。私たちは待つことがとても難しい、もしくは、待つことをクセにしにくい時代に生きています。熱湯を注いで三分待てば空腹を満たせます。レトルトパックのカレーを電子レンジに放り込めば二分で食べられます。でも本来、人類は一日のほとんどの時間を待つことに費やしていたのです。畑に植えた苗が育ち、美しい穂を実らせる日を想像しながら、八十八日待って米を収穫していました。人間も米も生き物です。人と人との関わりに於いて、もう少し「待つ」感覚を思い出すべきではないかと感じます。
次週の聖書の箇所で、主イエスは「しばらくすると」と話します。これは「ほんの少し」の意味です。この言葉を通して弟子たちに待つことの意味をお教えになるのです。

牧師室からNo.212 2022/5/8

ブロッコリーが美味しい季節です。スーパーで見つけると、ついカゴに入れてしまいます。お湯に塩を加えて固ゆでにして、そのまま食べます。そんな食べ方が習慣化したのは三宅島で生活していた時からです。三宅島では緑の野菜が貴重でした。海が荒れると商店の棚からすぐになくなります。そもそも高価です。キャベツ一玉に898円 の値札が付いていた時には驚きました。ですから新鮮なブロッコリーやスナックエンドウが店先に並べられていると、すぐ買って帰るのです。家で固ゆで、小分けにして冷凍します。それでも野菜がないときは、道端に生えている明日葉を摘んで、軽く湯がいて炒めて食べました。アクが強くて独特の苦みがある植物ですが、美味しくて、今でも食べたくなります。でも夏の盛りになると状況が変わります。どこの家も庭でキュウリとトマトを栽培していて、家族では食べきれないほど実ります。お裾分けをいただき、食べきれなかったトマトは、細かくして煮込み、ソースにして冷凍。キュウリは浅漬けにして毎日せっせと消費しました。あの頃、キャベツは表面の葉から芯まで食べていましたし、野菜クズも集めてスープにしていました。今思うに、野菜が手に入りにくい環境だったからこそ、逆に野菜と真剣に向き合っていたように思います。
私たちが健康でいるためには、何を食べるかがとても大事です。新鮮で偏りなく決められた時に適量いただけば、健康を保つことができます。同じように言葉も新鮮で偏りなく交わすことが大切です。そうすれば心の健康を保つことができます。良い言葉とは、自分を成長させ、相手を成長させる言葉です。自分の考えや思いを押し付けるのではなく、一歩引いて、愛を以て語り掛ける言葉です。

牧師室からNo.211 2022/5/1

2022年度の総会が無事に終了しました。思えば、コロナ禍に翻弄され、ようやく対面での開催となりました。総会では、とても多くの方々と忌憚の無い議論を交わすことができました。時間の制約はありましたが、目と目を直接合わせての議論は大事だと、あらためて思わされました。質問し応える、この繰り返しの中で議題は研ぎ澄まされ、本質が浮かび上がってくるのです。それに真剣な掛け合いの間合いから相手の姿勢を知ることができます。言葉を闘わせ相手の懐に入ってみて、初めて信頼関係は作られるのです。個人的にはこの総会を通して桑名教会における牧会のテーマも示されたように感じます。牧会(Pastoral Care)とは教会で行われる「魂への配慮」を意味します。「魂の癒やし」という言葉の方がシックリするかも知れません。牧師は説教や礼拝を行い神と会衆とを繋ぎ、会衆は世の価値観や利害に囚われている魂を解放され浄められます。留意すべきは牧師の働きは繋ぐことであって、人間の魂を解放されるのは神ご自身だということです。ですから牧師の資質は神からのメッセージに自分(ego)という色を混ぜる事なく会衆に届けることができるか。自分(ego)という存在を消すことができるか、です。要するに牧師はバタバタせず落ち着いて、縁側でお茶を飲んでいなければならないのです。そして、牧師は今日も暇そうだから、ちょっと話し掛けてみようか、となる。それが正解なのです。
さて今年度の教会の主題は「新しい掟」です。この世の掟は互いに互いを裁き縛る為に用いられます。しかし神からの掟は人を解放し自由にします。互いに愛し合い支え合う姿勢を掟とすること。この世に隷属せず神に帰属すること、愛を掟とするのです。

牧師室からNo.210 2022/4/24

そろそろ、私が乗っている車(ジーノさん)とのお別れの時が近づいてきたようです。この車は七年前にある方から無料で譲り受けました。走行距離は十万キロを越え、初年度登録からすでに十一年が過ぎていたので、廃車にされる予定だった車です。乗り始めてから調子の悪いところは、可能な限り自分で部品を手に入れて修理をしました。無理な箇所(エンジン本体)は工場に持ち込んで修理してもらいました。最近の車と違いエンジンルームに手が入るし構造がシンプルです。走行音や振動を感じながら、修理をしては調整する、の繰り返しでした。妻からは「新車を買った方が修理代より安いんじゃない」と揶揄されつつも乗り続けることができました。しかしクラシックカーには十八年目の壁という言葉があります。車は壊れると交換部品を部品共販に注文しなければなりません。ですが十八年を越えた型式の部品はほぼ欠品になるのです。もちろんクラシックカーを専門に扱う工場もあります。とはいえ修理代は高額になります。趣味の範疇を超えてしまうのです。
物と人、人と人との関係は、お互いに切磋琢磨しながら培われます。すれ違って対立し、喧嘩することで相手の本音が分かり、また自分自身の本心に気づくことができるからです。でもそれだけでは不十分です。和解を経て、ようやく関係は成長します。そして和解は相手と自分が同等で対等な存在であると認めることから始まります。もし和解できないのなら、相手を見くびっているか、過大評価しているか、のどちらかです。
「私は羊飼い」と主イエスは話されます。私たちと主との関係も、祈りという格闘(創世記32:25)によって培われるものなのです。

牧師室からNo.209 2022/4/17

イースターおめでとうございます。主イエスは復活されました。主イエスは私たちと神との和解の仲介者となって下さいます。私たちは神に直接、祈りの言葉を伝えることはできません。罪深い者の言葉や思いを、聖なる神に差し出すことなどできないからです。しかし主イエスは私たちの祈りや思いを、その罪も含めて御自分の思いとして背負い、神に渡して下さいます。私たちが祈りの最後に「主イエスの御名によってお祈りします」という言葉を加える意味はそこにあります。主イエスはこの世に生きる全ての人々、場所も時間も関係なく、全ての人の罪を全て引き受けて背負って下さったのです。主は私たちの罪を御自分の罪として引き受けられ、復活の光によって焼き尽くされたのです。この主イエスの復活に拠って私たちは新しい命を生きる者となりました。もはや死に支配されない命を与えられたのです。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ロマ書8:11)感謝しつつ共にイースターを祝いましょう。

牧師室からNo.208 2022/4/10

今年の受難週についてです。4月11日(月)、12日(火)、13日(水)は礼拝堂に於いて18時から30分ほど短いメッセージと祈りの時を持ちます。4月14日(木)は16時からバッハのマタイ受難曲を流し、19時から洗足木曜日礼拝を守ります。ご都合がつく方は教会にお越し下さい。教会に来ることができなくても、同じ時間に、それぞれの場所で主イエスの受難と十字架を覚え、祈りの時間を持っていただければ幸いです。翌日の聖金曜日は教会での集会は持ちません。それぞれの遣わされている場所で、午後三時頃、祈りの時を持ちましょう。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイ福音書27:46))
主イエスの受難を覚えるということは、私が自らの手で主イエスを十字架にかけたと確認することです。私たちは自己の信念を優先して隣人を裁きます。これが正しい、神の義はここにあると信じ、主張します。まるで自分が神であるかのように誤解し、隣人を支配し自由を奪うのです。しかし十字架を見ることで、私たちは我に返ります。的外れ(罪)に気づかされ悔い改めに導かれるのです。

牧師室からNo.207 2022/4/3

コンピュータゲームの世界では、自分の代わりにアバター(分身)と呼ばれる身代わりが活躍します。彼は森の中を走り、川を泳ぎ、空を飛びます。私の行くことのできない世界で、私のできないことを代わりに実現してくれるのです。四十年前、私が8bitコンピュータでプログラムを書いてゲームを作っていた頃、アバターは16*16のマス目に塗られたモノクロのドットで描かれていました。それでも幾つかのパターンを連続的にモニターに映し出すと、走ったり、ジャンプしたり、モノを投げたりしているように見えるのです。そんな簡素なグラフィックでしたが、動いている姿を見て感動しました。時は流れて映像表現技術が進み、今ではアバターの見栄えも動きも、実際の人間かと見間違える程です。まるで実際にカメラで撮っているかのようです。さらに数年後には、アバターが私たちと同じような身体を持ち、職場で人間と一緒に働くことになるそうです。アバターが人間の代わりに会社に出社したり、学校の授業を受けたりする、そんな未来が現実になるのです。アバターが私の代わりに働いてくれる、様々な用事をこなしてくれる、それはとても便利です。ではアバターに代替できない「私」はどこにいるのでしょうか。私でなければできないこと、とはなんでしょうか。そう考えると頭を抱えてしまうのです。私という存在自体も代替可能だと思えてしまうからです。
しかし神との関係に立ち返るなら「私」は取り替えが効かない存在だと気づかされます。主イエス、ただひとりの命によって、この世のすべての人間の罪が贖い出されたように、私たちも一人ひとりの命には代替えのできない役割を与えられているのです。

牧師室からNo.206 2022/3/27

メディアではウクライナで続いている戦争について、有識者と呼ばれる方々が意見を戦わせています。ロシアとウクライナの歴史、NATOの軍事境界線、EU諸国のエネルギー、食料供給、地政学的見地、政治的状況、兵器の種類や戦略、はたまたプーチンの家族構成や精神状態まで、様々な知識を披露しています。特に強調されているのは、自由主義国家と専制主義国家の対立という構造です。ロシアは専制主義国家でプーチンは独裁者だから倒さなければならない。人権を無視し民衆の思想や言動をコントロールする暴挙を許してはならない。彼らは強い口調で話します。そして、自由は革命によって流された民衆の血によって勝ち取ってきたものだ。ある程度の犠牲をはらわなければならない。私たちは戦わなければならない。【でも、この主張は間違っています。】なぜなら「ある程度の犠牲」とは一人一人の名前を持つ人間の命だからです。それはロシアとウクライナの兵士、ウクライナ無防備な人々の命です。自分の命を使って主義主張するのならまだしも(神は赦されません)。他人の命をゲームの駒に使うことは許されません(神の創造の秩序に反します)。結局のところ、この戦争の本質は最低の権力闘争です。ゼレンスキーはウクライナの人々を盾にしてプーチンは核ミサイルで脅迫し全世界の人々を盾にして、自己の欲望を満たそうとしている。それ以上でも、それ以下でもありません。
次週の御言葉には、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの姿が描かれています。彼らは主イエスのためなら自らの命を投げ打つ、と宣言します。戦って死ぬことを美徳だと考えているのです。しかし主イエスは彼らの熱情をたしなめます。それは間違いだと話すのです。

牧師室からNo.205 2022/3/20

子どもの頃、お使いを頼まれて、五十円玉を握りしめて豆腐を買いに走った記憶があります。豆腐屋は住んでいた団地の端にあり、毎朝通う通学路に面していて、近くを通るといつも蒸した甘い大豆の香りが漂っていました。私は走りながら握っていた五十円を、何度も強く握りしめて確認しました。こんな些細な記憶を、なんで強く覚えているのかと首を傾げるのです。もしかしたら物を壊すとか、お金を無くするとか、なにか失敗をして叱られた後だったのかも知れません。とにかくその時は、手のひらの中のゴツゴツした冷たく堅い触感に安心を与えられていたのです。
私たちは形のある物を持つことで安心します。自分の手で握りしめることができる物があると安心します。でもそれは私たちの心が、この世界の本当の姿を知っているからかもしれません。すべての形ある物はいつか失われると知っているから。手放したくないと強く握るのです。
ペトロは主イエスの衣服が白く輝き、モーセとエリヤが両側に現れて立ち三人で語り合い始めた様子を見ます。そこで彼は口を挟み「仮小屋を三つ建てましょう」と提案するのです。しかし神は深い雲の中から「これに聴け」と彼を叱ります。「聴く」とは話す人の心と関わることです。メモ帳に書き写して安心するのではなく、心を傾けて一言も聞き漏らさないように集中して聴く。心に刻む。神はペトロに聴く者になりなさいと話されました。信仰者は、そして教会は、形ある物を握りしめて安心するのではなく、御言葉の背後にある形のない物、目に見えない真理と福音を聴き、この世に伝え続けていく役割を担っているのです。

牧師室からNo.204  2022/3/13

高校生の頃、私はバレー部に所属していました。一度も大会を勝ち進んだことのない弱小チームでしたが、練習では緊張感や団結力がありました。今思うに選手経験のあるコーチがいれば、それなりの結果を出せたようにも思えます(負け惜しみ)。対外試合では幾つものことを学びました。それは主に技術面ではなく戦い方についてです。まず試合中は大声を出すこと。相手が怯むくらい元気にメンバー同士で声を掛け合うのです。巧く点数が入れば「ヨッシャ」、打ち込まれても「ドンマイ」「まだまだ」と声を張り上げます。すると徐々にこちらのペースに引き込めるのです。相手のチームが明らかに技術力、体力、資金力ともに勝っていても、気迫と気合いで負けなければ、そこそこ押すことができると教えられました。しかし圧倒的に相手が強い場合は(例えば大学付属高校の部活とか)最初のサーブから崩されるなら、もうお手上げです。あっという間に負けてしまうのです。勝負において、相手が身構える前に圧倒的な戦力差を見せつけることができれば、ほぼ勝利できる、と逆に教えられました。上手く進んでいるときは弱音を吐かず、負けをイメージすることなく一気に突き進む。それがこの世における勝負のセオリーなのです。
次週与えられます御言葉の場面で主イエスは弟子たちに、十字架つまり御自分の死について明らかにされます。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始め」(マルコ福音書8:32)ます。ペトロはこの世での勝負の仕方をわきまえています。ですから弱気になるなら、負けてしまうと身構えるのです。しかし主イエスは世の敗北ではなく神の勝利について話していたのです。

牧師室からNo.203  2022/3/6

以前私が住んでいた三宅島では二年に一度、富賀神社大祭という祭が行われました。三宅島には外周に三十二キロ周回道路があり、島はそれぞれ五つの集落に別れています。祭の始まりは、阿古地域にある富賀神社に治められている神輿に御霊が移されるところから始まります。神輿は阿古地域から担ぎ出され、伊ヶ谷地区、伊豆地区、神着地区、坪田地区と受け渡されて各地域の神社に一泊し、六日間で島を一周します。この受け渡しの儀式では、それぞれの地域から若い男衆が掻き集められて対峙します。二十人程の男衆が肩に載せた神輿を激しく上下させ(揉んで)神輿を渡す地域の男衆を大声で威嚇するのです。祭の間、地域ごとの集会所では婦人たちがご飯やお酒の準備をします。男衆は機嫌良く昼間からくさやと島焼酎を煽ります。ですから時々喧嘩とか乱暴な場面もありますが、この大祭によって地域の結束は深り、島全体の連携も強まるのです。三宅島は離島という閉鎖された自然の厳しい環境に置かれています。人と人とが助け合わせなければ生き抜くことはできません。ですから同じ神を畏れ尊び拝むことによって生活共同体としての繋がりを強めてきたのです。しかしこの家の神、村の神という風習は、人を結びつけると同時に束縛します。仕来りを破るとか、共同体の外に出たなら村八分として扱われます。功罪を併せ持つのです。
次週の御言葉に記されているベルゼブルの意味は「家の神」です。ユダヤ人はヘブライ語の発音が似ている「ハエの神」と揶揄するのでが、本来はカナン地方の土着の宗教で祀られている神です。地域の宗教、家の宗教に対して主イエスが如何に対峙するのか、共に読み進めてまいりましょう。

牧師室からNo.202  2022/2/27

【教会】とは何でしょうか。古代ギリシャ語の「教会」(ἐκκλησίαエクレシア)は「投票権を持つ自由人男子によって構成される市民集会」の意味です。そこから「神に呼び出された者たちの共同体」として使われる言葉「教会」になります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ福音書15:16)とあるように、私たちは自分の意志で群れに加わったのではなく、神に招集された者たちなのです。そして私たちが神を信頼し望みつつ、互いの名前を覚え祈りあう時、地上に神の国、つまり桑名教会が現れます。いましばらく言葉を重ねて祈り合うことはできませんが、それそれが置かれた場所で覚え合い祈りましょう。

牧師室から No.201  2022/2/20

4月の教会総会までのスケジュール。

牧師室から No.200  2022/2/13

【教会役員】とは何でしょうか。使徒言行録六章には地上に創造されたばかりの教会の姿が描かれています。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。『わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。』」(使徒言行録6:1-4)つまり教会役員とは、教会に於いて牧師が「祈りと御言葉の奉仕」に専念できる環境を整える役割ということです。では役員は牧師に仕える立場なのかというと、そうではありません。「わたしたちも数は多いがキリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(ロマ書12:5)とあるように、牧師と役員、信徒は教会の交わりの中で同等です。それぞれが教会の目であり耳であり手足です。逆に牧師は教会から招聘されて就任します。牧師は取り替えが効きますが、信徒は属する教会に留まり続けます。つまり教会の中心的存在は牧師ではなく教会員だということです。では役員とは何かというと、牧師が神と教会を繋ぐ祈りを捧げる者であるように、役員は地上の教会員同士を繋ぐ祈りを捧げる者なのです。ですから主日礼拝に於いて役員は司式と開会祈禱を担い、牧師が説教を担うのです。教会役員の役割は祈ることです。その祈りから与えられる恵みの応答として奉仕を行うのです。

牧師室から No.199 2022/2/6

先日、揖斐川の堤防をウォーキングしていた時のことです。日が沈んで寒くなった夕方、黙々と歩いていたのですけど、遠くから何やら楽しそうな笑い声が聞こえてきます。見ると、運河に続く水門の横に広場に灯が灯っていて、たぶん学校帰りだろう中学生が数名、集まって話しをしています。みんなマスクを着けていましたが、その目は楽しそうに輝いていました。ごく普通の風景なのですけど、久しく見ていなかったなぁと、妙な感慨を覚えました。このところ社会がギスギスしているように感じます。コロナ禍で外出できない、気軽に人と会うことができない、いつ自分が感染してしまうか、感染させてしまうか分からない。そんな緊張感の中で、すれ違う人たちのマスクの隙間から見える表情も硬いのです。私自身の心も堅くなっていたと気づかされました。
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ福音書5:5)と主イエスは話されます。この「柔和」とは「友好的な態度・寛容な姿勢」という意味です。また使徒パウロはこの「柔和」について、「御霊の実」つまり与えられた信仰によって得られる果実だと話します。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテア5:22-23)そして柔和な者は「地を受け継ぐ」と話します。この言葉の意味は「遺産相続」です。でも財産や土地を次の世代に譲渡するという意味ではありません。アブラハムがイサクに、イサクがヤコブに家督を継ぎました。この家督とは神への信仰です。アブラハムは「神は在る、この地で神と共に歩む」という信仰を次の世代に引き継いだのです。心を柔らくしなやかに、私たちも信仰を受け継ぎましょう。

牧師室から No.198 2022/1/30

私が乗っている車の走行距離は十六万キロを超えています。友人から譲り受けて七年目になります。かなり年季が入っていますが良き相棒です。でもここまで乗り込むと、それなりに調子の悪くなる箇所がでてきます。エンジン音や排気音、アクセルペダルやブレーキペダルから伝わる振動の変化に気づくなら、すぐに異常箇所を調べます。これまでマフラー、エンジンのシール、タイミングベルト、ウォーターポンプは工場で取り替えてもらいました。経費節減で外装、電装系とブレーキ系、プラグ、各種オイルは自分で取り替えます。では部品を取り替えれば修理は終了かというと、そうではありません。ここからが肝心です。修理後一週間は運転中ラジオも音楽も切り、神経を研ぎ澄ませてエンジン音、走行音に耳を傾けます。ここまで車が成長してくると、部品はそれぞれ同じように経年劣化しています。絶妙なバランスで全体として機能しています。ですから古い部品を取り外して新しい部品に入れ替えるなら、バランスが崩れます。例えばブレーキパットを新しくするならブレーキホースやキャリパー、ブッシュ、スプリングに余計な負荷が掛かります。もし一つの部品でも壊れるなら事故に繋がるのです。
私たちの教会も同じです。何年も一緒に礼拝を守っていると、それぞれお互いのクセに慣れてしまい、端から聞くとキツい言葉でも、聞き流されてしまうことがあります。でも初めて教会に来た方や、ときどき教会に来られる方がその言葉を聞くなら、ギクリとします。傷つけられた、と感じるのです。難しいことですけど、小さな配慮は必要です。ですから私たちはいつも主イエスの言葉に耳を澄ませ、心を新しくされて、礼拝に望みましょう。

牧師室から No.197 2022/1/23

何事も、自分の手と心を動かしてやってみるなら、おのずと進む道は見えてくるものです。でも、なかなかその一歩目を踏み出すのが億劫だったり、また恐かったりします。このクリスマスに桑名教会では新しい伝道活動として桑名駅東口前でのキャロリングを行いました。ほんの二十分ほどでしたが、近くを歩く人たちが立ち止まり、目を留めて下さいました。でも、ここ数年、なかなかキャロリングを行い難い状況が続いていたのです。それは二十年程前、カルト系の新興宗教が問題を起こして以来、公共施設での宗教活動が敬遠される風潮があったからです。以前、奉仕していた教会の最寄り駅に行き、クリスマス礼拝のポスターを掲示板に貼らせて貰えないか、規定の料金は支払うので、と頼みに行ったことがあります。しかし「特定の宗教団体に許可を出すと、すべての宗教団体に許可を出さなければならなくなるから」と、やんわりと断られました。神社の初詣のポスターは大きく貼られるし、そもそも駅の構内に大きなクリスマスツリーが飾られているのに、なぜ、と首を傾げたのです。でも今回、桑名警察に道路使用許可書の申請に行くと「良いですね、クリスマスらしいですね」とニコニコしながら快く受け取ってくれました。市役所の土木課は「大丈夫です。申請は必要ありません」と、こちらも和やかに対応して下さいました。なんだか少し拍子抜けでした。そして疑念を抱いていた自分を恥じました。
次週の御言葉の中に描かれている重い皮膚病を患った人は、主イエスに「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願います。その信仰心の一途さに対して主イエスは応えられます。信仰とは応答なのです。

牧師室から No.196 2022/1/16

先日、久し振りに銭湯に行ってきました。銭湯も随分と感染対策に神経を使っているようで、お湯はカルキが強く感じられます。でも、お湯が熱く足も伸ばせて、それに冷水浴もできるのでリラックスできます。ちなみに入湯は免疫効果を高める効果が期待できるそうです。さて夜の営業終了間近なので人は少なく、湯船にのんびりと浸かっていた時のことです。若いお父さんが二人の男の子を連れて浴室に入ってきました。まず兄の頭を洗い、愚図る弟を押さえつけながら頭を洗います。そして兄に弟を見るようにと指示し、兄弟を湯船に入れてから自分の体を洗い始めました。二人が入っている湯船は底が三段階に深くなっています。一段目は50センチほど、お湯は弟の腰の辺りです。弟は機嫌を直して手のひらでお湯をパシャパシャしながら、嬉しそうに遊んでいます。そこまでは良かったのです。しかし、すぐに兄は飽きて他の湯船をウロウロし始めました。私は隣の湯船の弟を見て、肝を冷やします。二段目は70センチ、奥は1メーターの深さがあると知っているからです。弟は機嫌良くお湯をパシャパシャしているのですが、ときどきバランスを崩します。その度に、私はすぐに立ち上がれるように身構えるのです。程なくしてお父さんは湯船に浸かることなく、弟を抱え揚げて浴室から出て行きました。ホッとしつつ、私はすっかりのぼせてしまいました。
見えていない者を、見えている者が見る、とはこういうことかと、考えさせられます。イエスさまは御言葉を通して私に語り掛けます。でも私は湯船でお湯をパシャパシャ嬉しそうに叩いているのです。イエスさまはドキドキしながら私を見守っているのです。

牧師室から No.195 2022/1/9

教会の駐車場にペンキでガイドラインを引く予定です。(今まで石丸さんがチョークで線を引いて下さっていました。感謝です。)以前なら専門の施工業者(塗装業)に、それなりの代金を支払って発注するしか手段がありませんでした。でも最近ではホームセンターでパーキングライン野外用塗料を手に入れることができます。塗料を塗るローラーもマスキングテープも下地材も手に入ることができます。ではどのように作業をすれば良いでしょうか。教えてくれる先生はYouTubeです。何十年も塗装の仕事を積み、様々な現場を経験してきた何人ものプロの技術者が、実際の作業を動画に撮って編集し解説を加えて投稿しています。一昔前なら、何かを習おうと思い立つなら、まず先生を探し、教えを請うたのです。楽器や絵画、料理などを教えてくれる教師に師事を受けたのです。でも昨今はYouTubeです。最近の小中学生はサッカーや野球、はたまたスケートボードに至るまでハイレベルな技術をすぐに習得するのだそうです。それは彼らが、日本の一流選手だけでなく、海外の選手の競技を動画で見て、真似ているからだと言われています。感受性が強い彼らは、目で覚えた技をすぐに身体の動きに反映させることができるのです。素晴らしいことです。でも教師と生徒との間に直接的な繋がりがないことを、私は寂しいと感じます。
主イエスの下に集まった十二人の弟子たちは衣食住を共にしました。そうやって主イエスの言葉や所作の細部まで、言葉にできない感情の機微や呼吸まで学ぶのです。彼らは神への信仰を習得するのです。手先の技やこの世の知恵はYouTubeでも学べます。でも人間の魂に必要な命の糧は人から人へ直接、継がれていくのです。

牧師室から No.194  2022/1/2

インドのワーラーナシー旧市街に足を踏み入れると、レンガ作りの建物がひしめき合っていました。幅3メートル程の入り組んだ路地が網目状に走っていて、沢山の人々と荷車が、ときどき牛が行き交います。歴史を感じる石畳はどこもしっとり濡れていて、だれも気にすることなく牛の落とし物を踏んで歩きます。澱んだ人間の体臭と獣臭が沈殿していて、寺院に近づくと、お香のエスニックな香りと石仏に供えるミルク粥の甘く濃い匂いが加わります。ガンジス川の西側には千五百以上の寺院が並び、境内を抜けるとガートが設けられています。ガートとは沐浴場です。人々は寺院でお参りを済ませ、ガートの階段を降りてガンジス川に入り沐浴します。早朝、日が昇る時間に行くと沢山の人が沐浴していました。私も真似てルンギーに着替え、ガンジス川に腰まで水に浸かります。生ぬるい緑色の濁った香ばしく匂う水です。隣の派手な民族衣装を着たおじさんは(カルカッタから来たと話していました)水に入るなり頭まで浸かり浮かび上がり、手で水を掬ってうがいし、勢いよく吐き出しました。「ガンガーの水は神聖だから、飲んでも大丈夫だ」と話します。隣の寺院では火葬が行われていて、生焼きの遺体が目の前を流れてきます。でも神聖な水に身体を浸すなら、浄められるのです。古今東西、どんな文明にあって沐浴は聖と俗を別けるために用いられてきました。身体を水で浄めることによって、この世の汚れを洗い流し、聖の領域に足を踏み入れるのです。昨今、聖と俗を分離する感覚が失われた結果、人々は世俗の欲望に執着するようになったと感じます。正しく聖と俗を別ける感覚は必要だと、私は考えます。

牧師室から No.193 2021/12/26

先週の礼拝後、教会学校のクリスマスの打ち合わせをしました。今年は25日が土曜日なので、この日に子どもたちを集めて礼拝と祝会を行います。ただし、まだコロナ禍シフトなので幾つかの制約の下での開催になります。教師たちが頭を抱えながらアイデアを出しあっている間、私は私が経験したクリスマスお楽しみ会のことを思い起こしていました。厳粛な礼拝があって讃美歌を歌って、温かいシチューを食べて、ワイワイとゲームをして、最後にプレゼント交換をして、寒かった部屋の中がだんだん暖かくなって、大きな窓ガラスが結露して磨りガラスのように曇りました。どんな内容だったか細かくは思い出せないのですが、夕暮れが過ぎた時間に教会で、親から離れてワクワク、ドキドキした印象が強く残っています。なんとなく大人の仲間入りをしたような、そんな感覚です。帰りに教会の玄関の横にある大きな木が、電飾で飾られていて、キラキラと輝いていた様子も覚えています。
子どもたちにとってクリスマスは特別です。それは欲しかったプレゼントを買って貰えるから、だけではなく、夜をイメージすることができるから、だと思います。真夜中の暗闇に突然明るく輝く天使が現れ、羊飼いたちに語り掛けます。三人の博士は夜空に瞬く星を目指して旅を続けます。主イエスは真夜中、馬小屋で産まれます。それにサンタも夜中にやってきます。子どもたちは「今晩は寝ないでサンタの正体を確かめる」と意気込むのです。教会はクリスマスのドキドキを、子どもたちに伝える役割が与えられています。次週は主イエスの少年時代の物語を共に読みます。主イエスも当然、少年時代を経て成長し成人になりました。

牧師室から No.192 2021/12/19

主イエスがお生まれになった場所は、ベツレヘムの町の外れにある家畜小屋でした。家畜小屋と言ってもクリスマスポストカードに描かれているような木造の建屋ではなく、崖の側面のえぐられた、奥行きのある広い横穴だったと考えられています。当時、旅をする人々は、ロバやラクダに荷物を載せて移動していました。私たちが自家用車に荷物を積んで移動する感覚です。でも町中に家畜を持ち込めない規則になっていました。(王や貴族などの例外を除いて)ですから町の外に家畜を預ける駐車場のような家畜小屋が用意されていて、人々は連れてきた家畜を預けたのです。そこには家畜の餌にするための発酵させた藁と、飼い葉桶には飲み水が用意されていました。ベツレヘム付近は砂漠気候なので、昼は暑くても夜はそれなりに冷えます。しかし小屋の中は、家畜の体温と藁の発酵熱によって適度に温度が保たれていました。堆肥の噎ぶような匂いに満たされてはいましたが、暖かく柔らかい藁に、産まれたばかりの主イエスは包まれ寝かされたのです。
この時、ヨセフとマリヤは若く何も持っていませんでした。生まれ故郷を遠く離れて旅をしている彼らには、近くに頼る家族も知り合いもいません。宿屋に泊まることも、十分な食事を手に入れることもできません。誰の目にも留まることはありません。これが世界で最初のクリスマスです。このマリヤとヨセフに与えられた、小さな小さな希望の灯火は徐々に大きくなり、多くの人を巻き込み、この世の罪を焼き尽くす炎となります。そして私たちも、この炎と聖霊によって浄められ、新しくされます。神は私たちの心の最も暗く寂しい場所を、希望の光で照らして下さるのです。

牧師室から No.191 2021/12/12

なぜ私たちは、クリスマスの物語に心を温かくされるのでしょうか。それは主イエスの母マリアの純粋さに心を洗われるからなのだと思います。マリアの生まれ育ったナザレの村はガリラヤ湖と地中海の間にあります。ガリラヤ丘陵地の高台にあり、小麦、葡萄、オリーブを産出する農耕地です。このガリラヤ地方は、旧約聖書の時代にはメソポタミア地域とエジプトを結ぶ経路であり、主イエスの時代では地中海とエルサレムを結ぶ経路でした。ですから戦争が始まると主要な街道には多くの兵隊が行き交いました。そして平和な時代には交易をする商人の旅団が行き交います。しかしナザレの村は街道から外れた場所にあったため、兵士たちに食料を提供する役割は担わされつつも、戦いに巻き込まれることはありませんでした。この「ナザレ」という言葉の意味が「守備の場所」、「見張り」であることからも分かるように、高台から街道を見下ろす位置に置かれ、「世の喧噪から隔離された静寂の場所」、城壁をめぐらさない平和な町だったのです。村は緩やかな斜面の丘陵に囲まれ、オリーブとイトスギの緑が濃く、地質は石灰岩層からなっているために雨水を集めて蓄えることができ、豊かな湧き水を得ることができました。聖都エルサレムから見ると文明も学識もない質素な片田舎ですが、ナザレに住む者たちの生活は豊かで穏やかだったと考えられています。そんな環境でマリアは産まれ、成長し、幼い頃にヨセフの許婚になります。二人は結婚するまで共にこのナザレの村で生活するのです。主イエスもベツレヘムで産まれたあと一時的にエジプトに逃れますが、ユダヤに帰ってきてからは、このナザレで幼少期を過ごします。

牧師室から No.190  2021/12/5

アドベントクランツが礼拝堂の梁から吊されました。毎年、桑名教会では製作準備の日程も決まっていて、アドベントに入る前の週の金曜日の夜に行われます。今年は四人がかりで行われました。私は遠目に眺めていたのですけど、作業は職人芸の域です(夕食を用意して下さった方々にも感謝です)。これ程の直径と重量のあるクランツを、教会員が行き来する頭上に、安全に設置するために、骨組みには自転車のリムを使う工夫がされています。見えない所に軽量で強度がある部品が使われているから安心なのです。教会の設備維持や管理、諸活動の目に見える部分の裏側には、目に見えない沢山の方々の配慮があることを改めて思わされます。そして聖書の中に描かれている人物で、最も偉大な裏方というと、やはりそれは洗礼者ヨハネです。彼は主イエスが伝道活動を始める前に、つまり主イエスが福音の種を地上に蒔く前に、人々の心の畑にゴロゴロと転がっていた石を取り除き、鍬を振り下ろして柔らかくする働きを担いました。そして人々の魂を水で浄めます。それはまるで大きな両口ハンマーで岩を砕くかのような作業でした。彼は洗礼を受けようと集まってきたファリサイ派やサドカイ派の人々を「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」(マタイ福音書3:8)と叫んで叱るのです。強烈な激しい真理の言葉をぶつけ、さらには危機感も抱かさなければ、人々の心は堅い外殻に包まれたままだった、のです。
信仰の骨格を組み上げる御言葉は堅いのです。この世の言葉と激しくぶつかります。でも私たちは主イエスを信頼し委ね、祈りつつであるなら、なんとか御言葉を受け入れることができるのです。

牧師室から No.189  2021/11/28

福音書に記されているクリスマスの物語の中には、幾つもの旧約聖書の御言葉が引用されます。例えばヨセフが思い悩みながらもマリアの懐妊を受け入れた時に、天使が伝えた言葉「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(マタイ福音書1:23)は預言者イザヤの言葉です。「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。」(イザヤ7:14)。また占星術の学者たちに祭司たちが教えた主イエスの出生地ベツレヘムは、預言者ミカの言葉です。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(ミカ書5:1)。もう一つ、ヨセフの家族がエジプトからユダヤに戻るきっかけになった言葉「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。」(マタイ福音書2:20)は預言者ホセアの言葉です。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」(ホセア11:1)取り上げればキリがない程に、主イエスの誕生の物語、一つ一つの出来事の背後に、旧約聖書に記されている預言者たちの言葉があります。つまり主イエスの誕生は、神が預言者たちの口を通して伝えられた約束の成就であり、すでに何千年も前から定められた計画の上に定められていた、ということです。
神はアダムが罪に落ちたときから、主イエスをこの世に遣わして人と和解し、人を天へと引き上げる計画を進められていたのです。神は預言者を仲立ちに、ユダヤの民に救い主の誕生を約束され、その言葉の成就こそ、主イエスの誕生から続く物語なのです。

牧師室から No.188  2021/11/21

次週から教会はアドベントに入ります。今年も礼拝堂には四本のロウソクが立てられた手作りのクランツ飾られます。玄関に置かれたクリスマスツリーにも、きれいにデコレーションが施されます。このアドベントの原語はラテン語のアドヴェントゥス(Adventus)で「到来」という意味です。さらに語源を遡ると、古代後期のローマで使われていた言葉、アパンテシス(ἀπάντησις)に行き着きます。この言葉は「支配者がある都市に到着した際に行われる歓迎儀式を表す国法上の専門用語」として使われていました。皇帝の到着と、皇帝の存在そのものが都市の安全に寄与することの祝う儀式です。人々は都市の大通りを埋め尽くし歓声をあげて皇帝を迎え入れます。その時代の「最高の儀式」を意味したのです。そして教会は、主イエスがこの世界の王として、救い主(メシア)として来られる出来事をアパンテシスという言葉を使って表現します。パウロもテサロニケの教会への手紙の中で、この言葉を使って主イエスの到来を言い表します。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。」(Ⅰテサロニケ4:16-17)
このアパンテシスの基本的な意味は「出会う」「迎える」です。アドベントの期間に私たちがするべきことは「私」の魂の内側に「私」を支配する主イエスという王を迎え入れる、そのための準備です。もし「支配される」という言葉が胸に引っかかるなら、それは好機です。この言葉を受け入れられない時、私たちは自分自身が世界の王であるかのように勘違いしているからです。クリスマスに私たちは自分の命を救う方と出会います。覚悟と喜びをもって望みましょう。

牧師室から No.187  2021/11/24

未来から現在を俯瞰する視点が必要です。先日、第26回気候変動枠組条約締約国会議(COP26)がイギリスのグラスゴーで行われました。世界各国の首脳が集まって、社会構造や経済活動を脱炭素へシフトしていくための幾つかの取り決めがなされたのです。会議の中でイギリスのジョンソン首相は、日本などの先進国に対し2030年までに石炭火力発電を廃止するように求めました。彼が設定したこの実施期限は、思いつきの数字ではありません。多くの環境学者たちは2030年が地球の気候変動のターニングポイントである、と計算予測しています。それまでに温室効果ガス排出を四割以上減らさなければ大気温度や海水温上昇によって地球環境が急速に変化する。臨界点を超えるなら後戻りできなくなる。人類が住めない地域が拡大し、都市機能は破壊され、食料生産量が著しく減る、と警鐘を鳴らしているのです。私たちは2030年から逆算して、今できる事を考えなければなりません。スケジュールを組み、実現できる方法を模索することが急務です。有史以来、人類は能力や支配を拡大する方向で進んできました(GAFAM然り)。でもこれからはダイエットが必要です。コンパクトで効率の良い機構、地域で思想を共有し、エネルギーも労働も食料も自給自足する共同体です。
バベルの塔を天へと伸ばし続けてきた人類は、ここで手を止められるのでしょうか。でも、まずは私たち一人一人が意識を変えることです。まず自分を拡張することが「善い」と評価される価値観から解放されること。あれもこれも一人でできる。あれもこれも一人で知りうる。それが「善い」のではなく、神だけが「善い者」であると知ることです。そうすれば私たちは互いに欠けを補い、助け合い、支え合って生きることができるのです。

牧師室から No.186  2021/11/7

子どもの頃に住んでいた町を、大人になって訪ねてみると、その狭さに驚かされます。ものすごく幅が広かったと記憶していた道が普通の二車線だったり、ようやく行き着いた多摩川への道のりも、徒歩何分で行ける距離なのです。悪ガキ連中と勇気を試す為に飛び越えた用水路には、跨いで渡れてしまいます。でも逆に考えれば、子どもの頃の世界は広大でした。仲間と隣町まで自転車に乗って行くだけでドキドキワクワク、毎日が大冒険の連続です。新しいモノや場所を発見して感動して、でも少し恐くて。行動心理学の記事で、子どもの一時間と大人の一時間では体感感覚が違う、と書かれていました。十六歳の一年はその人の一生の十六分の一、五十四歳の一年は一生の五十四分の一に値するのだそうです。年齢が若ければ若いほど、多くを感じ、多くを知り、多くを吸収する。その一年に経験する出来事の量が多いのです。大人になると世界は狭くなります。車を走らせれば四時間で東京に着きます。携帯の住所録には何百人もの名前が連なっていて、気軽に話すことができます。一日がアッという間に過ぎ去ります。経験を重ね、知恵がついて、騙し騙され駆け引きを覚え、多少ではありますが、生きることも楽になります。けれど(心臓の病でもない限り)あまりドキドキしないのです。
主イエスは「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と話されます。この「子どものように」とは、どういう意味なのでしょうか。子どもも自分本位ですし、愚図ります。自らの欲望に忠実です。大人の方が良識と品行を以て神と関われるのではないか、と思うのです。次週共に聖書に聴きましょう。

牧師室から No.185  2021/10/31

スキューバダイビングの器材を背負うと、タンク一本で40分ほど海中の世界に滞在することができます。何を目的に潜るかによって装備が変わりますが、基本的な器材は、タンク、レギュレーター、ダイビングスーツ、BCD 、マスク、フィン、スノーケル、ウェイト、残圧計、コンパス、時計(ダイコン)など総重量で25キロほどあります。すべてを装着して地上を歩くのは、しんどいです。でも水中では浮力がかかるので重く感じることはありません。逆に自分の体重に合わせたウェイトを腰に巻かないと浮いてしまいます。その重さを調節して、水の中で身体が浮きもしない沈みもしない状態、中性浮力を保たせます。そして自分の肺にタンクからの空気を送り込むと、身体が浮き、息を吐くと沈みます。海の中ではプールで泳ぐようにバタバタ手や足を動かすことはしません。呼気で水深を調節し、その水層に流れるカレント(海流)に乗って移動します。そんな苦労をしつつ潜った海ですが、別世界です。群れで泳ぐカラフルな小魚の群れ、その後ろを悠々と追う大きな魚、水面を仰ぐと亀やエイが空を飛ぶように優雅に泳ぎます。岩陰には美しく流線型のサメがこちらの様子をうかがい、斜面には小エビやイソギンチャク珊瑚が張り付き、横穴には沢山の魚が身を潜めています。いつまでも留まっていたい、と願っても、ボンベが空になる前に戻らなければなりません。減圧症にならないようにゆっくり浮上します。
海から帰り、背負っていたボンベを下ろすたびに、私は聖書に描かれている復活の出来事を思い起こしました。世を離れ、罪の重荷を下ろし一息つく。神の御許に戻った時はきっとこんな感じかと、他愛もなく考えるのです。

牧師室から No.184  2021/10/24

「くさや」という食べ物があります。伊豆諸島の特産品なのですが、島の住人にとっては日常食です。たぶん初めて出会われる方は、皿に盛られて目の前に出されても口に入れることを躊躇される、と思います。なぜなら強烈にクサいのです。その匂いは「ドブ、腐敗臭、公衆トイレ、獣臭」に例えられます。この匂いが最も香るのはコンロで焼いた時です。かなり強烈な異臭がご近所一帯に広がります。匂いで目が痛くなります。でも島の生活に慣れてくると、この匂いがやみつきになります。夕方になって町中に香りが漂い始めると、仕事を早く切り上げて家に帰ろう、と気持ちが急きます。焼酎が飲みたくなります。この「くさや」はムロアジやトビウオを捌いて内臓や血合いを取り除き、何十年(何百年?)も継ぎ足しながら使ってきた「くさや汁」に二日ほど漬け込んで天日で乾かした干物です。発酵液の中の微生物が働いて、魚のタンパク質を分解して旨みに変えるのです。三宅島では市販されているモノもありましたが、個人でその家に引き継がれてきた「くさや汁」(家宝)に漬け込んだモノ(非売品)をお裾分けされることがありました。これが絶品。確かに臭いのですが、奥深い芳醇な臭さと塩味、食味を味わえます。くさやは腐っています。でも人間は、腐敗という自然の仕組みを利用して、穫ってきた魚を長期保存する手段としているだけでなく、豊富な栄養分を残し、しかも美味しく加工してきたのです。
神が造られたこの世界は精巧で繊細です。ときどき私たちの想像を遙かに超えます。でも私たちは、この世界の仕組みを利用して快適に生きています。そして私たち自身のこの身体も心も、神の創られた精巧で緻密な素晴らしい芸術品なのです。

牧師室から No.183  2021/10/17

次週から教会暦は降誕前節となります。後半四週間の待降節を含めて九週間続きます。でももう一つ伝統的な暦の数え方があります。それは前半の四週間を終末前節として、待降節の前週を終末主日とするやり方です。今年(2021年の暦)だと11月21日が終末主日になり、次週10月24日からを終末前第四週として数え始めるのです。なぜ、そんな数え方をするのかと言うなら、教会暦は主イエスの誕生を起点とするからです。この世に光が与えられた日、メシアが与えられて世界が新しく始まった日、とその準備の降誕節(アドベント)から教会暦が始まるのです。ですから最後の週を終末主日、つまり世の終わりを覚える週と定めるのです。桑名教会を含め教団の教会では終末前節という教会暦の数え方を導入するところは少ないのですが、聖書に記されている「終末」を正しく理解するために、私は必要だと考えています。この終末という言葉の意味ですが、一般的には恐ろしい惨事のように受け止められています。地震や地殻変動が起こり空から隕石が落ちてくる。津波が起こり氷河期が始まる、戦争が起こり疫病が発生する。すべての人類が死滅する。でも、それらは恐怖を煽るための根拠もない作り話しです。そもそも終末(τέλος  telos)という言葉の意味は「完成」「成熟」です。つまり神が世界を創造し、モーセに与えた律法(十戒)によって作られた救いの秩序が完成する、それが終末です。そこからキリストの時が始まります。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」(イザヤ11:1)という心象です。救いと解放の時に続くのです。次週から続く五週間の礼拝では、創造から終末までの流れを読んでいきます。

牧師室から No.182  2021/10/10

最近、どこのホームセンターでも防災用品のコーナーが設けられています。結構広いスペースが割かれていて、扱われる商品も便利に洗練された物が増えてきました。キャンプ用品のようにカラフルで普段使いにも耐えられる品物が多く売れているようです。では災害時のために何を蓄えておけばよいのでしょうか。一般的に言われていることは、三日分の食料と水です。災害時に被害が最も大きいのは発生直後です。初動で生き残る事ができれば、その後の生存率が跳ね上がります。でも建物など建造物はそうではありません。例えば地震の被害を受けた木造住宅は初動に耐えたとしても、余震で倒壊するパターンが多いのです。それは建築物の多くは外圧が掛かった時、内部の構造体をわざと破壊することで、衝撃を分散させるように設計されているからです。それに電気やガス、水道といったライフラインは遮断します。復旧まで最短でも三日かかると言われています。最近の傾向では、多くの方は車中泊をして災害後を乗り越えられます。ですからできるだけガソリンはいつも満タンにしておくと良いのです。あと車の中にラジオや懐中電灯など、最小限の防災用品を備えておくのも一手です。ただし、あまり荷物を載せすぎると燃費が悪くなりますので、ほどほどに。
さて次週の聖書の箇所のテーマは「備える」です。聖書は私たちに「世の終わりを覚え備えなさい」と教えます。でも、私たちを脅すために、そう教えている訳ではありません。私たちは「時」に備えることで、今の自分の命にとって本当に必要なモノは何なのか、を知ることができるのです。「この小さなリュックが一つあれば三日は生きられる」ことに気づかされるのです。

牧師室から No.181  2021/10/3

ようやく、非常事態宣言が解除されます。教会もこれまで礼拝堂を閉じてはいなかったのですが、十月からは通常の形式に緩やかに戻していきます。ただし、これからも感染症対策は怠らずに維持し続けます。体調の優れない方、発熱のある方はご自宅で礼拝をお守り下さい。
私たちはもう一年半近く、コロナウイル感染症の影響下で行動規制を受けて生活してきました。桑名教会の礼拝もYouTubeを使った配信が定着しました。家から外に出かけることなく、人と会ったり買い物をしたり、多様な用事を済ませることができる、その手段が増えたことは、コロナの功罪の良い側面だと感じます。でも私たちは、逆に今まであたりまえだと受け止めていたこと、つまり友人と面と向かって話したり食事をすることが、どれほど自分の心にとって大事だったのか、を再認識させられたように感じます。無駄話と思われた会話の中から多くの情報を与えられ、表情や声の調子、目の動きから安心を与えられていたのです。そして礼拝も対面で行われるべきだと再認識させられました。礼拝堂の椅子に座り心を静めて礼拝を捧げることの大切さを、です。プロテスタント信仰では、あまり強調されませんが、礼拝堂は聖域です。聖域とは日常から取り分けられた、聖別された領域です。古くからの礼拝者の方々の多くは、礼拝堂の扉の前で、軽く頭を下げてから入られていました。強要することではありませんが、心の中で一礼してから礼拝堂に入ってみるなら、心が静かになります。お試しください。
次週の聖書箇所のテーマは聖別です。自分の生活の中から神に捧げるために取り分けられたモノについて、です。

牧師室から No.180  2021/9/26

この季節になると美味しい葡萄が店頭に並びます。以前は小粒で濃い紫色の酸っぱいデラウェア種しかなかったように思うのですが、昨今は大粒でカラフルで甘い品種が出まわっています。種が入っていないのはあたりまえ、皮まで食べられるシャインマスカットの甘さと美味しさは衝撃でした。聖書の中で葡萄というと、そのまま食べるのではなく加工された葡萄酒として描かれます。それはあたりまえで、現代のように保冷施設や運送手段が整っていない環境では、誰もが新鮮なまま果物を口にすることなど不可能だったからです(王や貴族を除いては)。ですから長期保存しやすいように、収穫してすぐに圧搾して果汁を取り出し、含まれている多糖類をアルコール発酵させることで葡萄酒にしたのです。でも嗜好品としての用途ではなく食事の時には欠かせない飲み物として、です。中東地域の砂漠気候では、日本のように何処でも清潔で新鮮な水が手に入る訳ではありません。葡萄酒であるなら雑菌の多い溜め水よりも安心して飲むことができるのです。あと果物というとドライフルーツが一般的です。ナツメヤシの実のデーツやイチジクは干して保存食に加工されました。暑く乾燥した気候に痛めつけられて満身創痍になっても、甘ったるい乾しイチジクを一粒噛めば、立ち上がれます。もちろん気分の問題ではなく栄養価も高くビタミンも十分に摂れるのです。
次週読まれます聖書の場面には、一本の青々と葉を茂らせたイチジクの木が描かれます。でもイエスさまはこの木に「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と命じ枯らせてしまいます。なぜイエスさまはそんな乱暴なことをされたのでしょうか。共に聞きましょう。

牧師室から No.179  2021/9/19

公道から工事現場に入るゲートの前に歩道がある場合、交通誘導員が一人、配置されます。また往来のある道路での工事には二人以上の誘導員が配置されます。旗振りと呼ばれる仕事です。私は、彼らが働いている横を通る度に、無意識に頭が下がります。大変な仕事だと知っているからです。以前、私の働いていた建設会社でのことです。品質管理業務やダンプ運搬の仕事にあぶれた作業員は他の現場の旗振りに駆り出されました。みんな嫌がっていたので、一番下っ端の私が手を上げて行く事になります。でもこれがキツい仕事なのです。朝から日が沈むまで道路に立ち続けます。時折、ダンプが近づいてくると誘導し、出ていくときには周辺の車を止めます。運転手の「早くしろよ」の無言の視線に焦りながらも、淡々と安全確保をします。夏の太陽がジリジリ照りつける日中も、滝のような雨が降ってきても、雪が降ってきてもひたすら立ち続けます。あまりにも暇な時に、私は手を前に組んで立っていました。すると、車で前を通った方から匿名で会社にクレームの電話が入りました。「おたくの旗振り、威圧的で気分が悪い」誰も見ていないようで、しっかり見られているのです。工事現場で重機を動かすとかダンプを走らせるとか、測定器で検査するとか、作るとか壊すとか、頭と身体を使って作業していると、時間は短いのです。でもジッとしていると時間が長い。動かずに立っているだけと思われるかも知れませんが、脹ら脛の筋肉はパンパンに張るし、肌は焼けて痛いし、キツい仕事なのです。
この世の仕事に一つとして、たやすいものはありません。「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。」(創世記3:19)と人の命は定められているのです。

牧師室から No.178  2021/9/12

毎週末にぐるっと一周、桑名から員弁まで車でまわって、コロナ禍にあって会堂に来ることのできない方のご自宅に、週報と説教原稿を届けています。それなりに距離はあるのですけど、毎回、新しい発見があって楽しんでいます。たとえば知らなかった裏道を見つけるとか、田んぼに美しい白鷺を見つけて、しばらく眺めるとか、雨の後の日差しが差し込む竹林の美しさ、匂いとか、北勢線の小さな車両が走るカタカタという音も魅力的です。混んでいる421号線を回避して北の外周を上り、員弁川沿いを下ってくるルートは、身近に自然を感じる事ができます。ただし、スピードを抑えて安全運転ですね。肝に銘じます。さて、そんな週末ドライブですが、思いがけない出会いも与えられます。給油の為に立ち寄ったガソリンスタンドで店員さんに声を掛けられました。「あなたはクリスチャンですか?」ビックリしました。反射的に「はい」と答えます。「そのTシャツ、ジーザスと書いてあるから」私は赤いTシャツを着ていて、胸には大きく【Catch Up with Jesus】(イエスさまに追い着く)とプリントされています。「私は牧師で…」と自己紹介すると、その婦人も、桑名市内の教会に通っていて教会学校を担当している、と話してくれました。そして「共に神の福音を桑名に伝道しましょう」と明るく挨拶を交わしました。とても元気づけられました。桑名教会でもステッカーを作って、みんなで車のリアガラスに貼れば、よい伝道になるかも知れません。もちろんオシャレなデザインで。信仰によって私たちは個人の能力や資質を高める恵みを与えられます。でも値打ちある、得難い恵みは、主イエスを仲立ちにしての隣人との「よい」つながりなのです。

牧師室から No.177  2021/9/5

このところ「免疫」という言葉をよく耳にします。この免疫とは細菌やウイルスから肉体を守るシステムのことです。例えば買ってきた肉を冷蔵庫に入れ忘れて放っておくと、腐って食べられなくなります。それは細菌が肉の中のタンパク質を分解するからです。なんだか迷惑な話のように思われます。でもそうやって地球上のすべての生物は命を終えた後、分解されて土に返り、その養分から新たな生命が生みだされます。忘れがちなことですが、私たちも自然の循環の中に存在しているのです。では、なぜ生きている私たちの肉体が腐らないのか、というと「免疫」が働いているからです。免疫とは「自分」と「自分でないもの」を選り分ける仕組みです。肉体の中に入ってきた細菌やウイルスなどの「自分でないもの」を攻撃し破壊します。この免疫には自然免疫と獲得免疫があります。自然免疫は貪食細胞である好中球、好酸球、マクロファージなどの働きで、相手を記憶できませんが、とにかく異物を食べ尽くします。(私はこの自然免疫の仕組みが暴走して、正常な細胞まで食べられてしまう病気にかかっています。)一方、獲得免疫はB細胞やT細胞などの働きで、一度侵入した病原体の情報を記憶し、再び侵入された時にはいち早く攻撃します。いま話題のワクチンは、新型コロナウイルスの情報を獲得免疫に覚えさせる働きをし、罹患してもすぐに免疫が働くので、症状が軽く済むのです。ですからワクチンを打てば安全という訳ではありません。健康を保ち免疫が活発に働ける環境を維持することが必要です。(免疫を活性化させるにはリラックスして笑うことが一番効果的です)【すでに】私たちはこのような仕組みに守られていたのです。神の創造の凄さに驚かされます。

牧師室から No.176  2021/8/29

以前、東京の山手線を使っていた頃のことです。山手線は東京の中心部、一周約三十五キロをまわる緑色の電車です。駅のホームには、ほぼ三分ごとに電車が滑り込んできます。しかも時刻表と数秒も違わずに繰り返されます。二千人もの人間を乗せた三百五十トンの列車が、最高速度九十キロで疾走し、三十の駅に停車しつつ一時間かけて一周します。正直、驚かされます。でも、毎日の生活で使っていると慣れて、少しでも遅れるとイライラするようになります。ある時、私がホームの階段を降りると、やけに沢山の人が溜まっていることに気づきます。理由を駅構内放送が説明します。人身事故があって電車が遅延している、三十分程度動かない。そこにいた人たちは一斉に地下鉄に乗り換えるために移動したり、その場で携帯電話を取りだして連絡し始めます。その雑踏の中で一人の男性が「迷惑だな」とつぶやくのです。私はドキリとしました。それは私も彼と同じように考えていたことに、です。人身事故が起きた、ということは、近くの駅で一つの人間が自らの命を絶った、ということです。その事実を「迷惑」と受け止めてしまう自分の心の貧しさに、動揺したのです。一つの命には、膨大な物語が詰まっています。生まれてから毎日、様々な経験をして、沢山の人と会い、心を動かし動かされ、考え悩み喜び生きていた、その物語を想像し受け止めることができなかった、その心の貧しさに愕然とさせられたのです。
自分の隣にいる誰もが、物語を持っています。でもこの世の雑多に忙殺されて私たちが想像力を失った時、そのすべての物語を消去してしまいます。その一つの命を消し去ってしまうのです。ですから主イエスは、一匹の羊のために喜びなさいと話すのです。

牧師室から No.175  2021/8/22

神学生時代、たびたび神田の古本屋街に行きました。古本屋というと、不要になった本を集めて安く売っているという印象があるのですが、そうではありません。正しい古本屋の主人は高度に専門化したキュレーターです。キュレーターとは収集する資料に関する鑑定や研究を行い、学術的専門知識をもって業務の管理監督を行う専門職、管理職のことです。そもそも年間に発行されている書籍は七万点と言われています。その莫大な書籍の蓄積の中で、何年にもわたって人々の目と手に触れて、愛されて生き残った僅かな数冊が古本として再流通されるのです。その中でも価値あるものを古本屋の主人は知っていて、巧みに手に入れます。工学書専門店、建築書専門店、哲学心理学書専門店、歴史書専門店、絵本専門店、文学書専門店、年代を超えて名著と呼ばれる本を本棚に並べられるのです。そして、それぞれの本の価値によって適正な値段がつけられます。同じような絶版本でもつけられる値段は違います。表紙が焼けて黄色くなっているとか、ページの余白にカキコミがあるとか、そんなことには関係なく価値ある本は高価です。そんな中で興味深いのは古本に紛れて並べられているキリスト教の神学書です。大抵はその価値が知られていないので安い値段がつけられています。キリスト教神学書専門の古本屋では高価で売られているものが半額以下だったりする。牧師や神学生はそんな価値ある神学書を本棚の海の中から探し出します。見つけたときには心の中で狂喜乱舞しつつ表情は冷静にレジに持っていき、会計を済ませるのです。価値を知るものにとっての宝は全ての人にとっての宝ではありません。でも価値を知る者にとっては掛け買いのない宝なのです。

牧師室から No.174  2021/8/15

以前、遣わされていた教会の信徒の婦人の家を訪ねた時のことです。その方のお父さんはもう天に召されていたのですが、使っていた聖書を大事に保管されていました。そして私に見せてくれました。革表紙で文語体の、とても小さい手のひらに隠れてしまうほど名刺サイズ、新約聖書だけが記された聖書です。ページをめくると何本も赤鉛筆でラインが引かれています。何度も何度も読んだのでしょう、小口もページの隅も垢汚れています。でも丁寧に使われていたことが解ります。そんな聖書ですが、何枚かページがのど(根元)から綺麗に破かれていていました。嫌いな聖書箇所だったのかな、と眺めていると、婦人はその理由を教えてくれました。この聖書はお父さんが戦争に持っていって、持ち帰ったものでした。そして、失われているページは戦場でタバコの巻紙として使ったと。「薄くて丈夫」と笑いながら話してくれたそうです。砲弾の飛び交う戦場で戦友とタバコを分けあったと。戦争を経験していない私には、戦場は地獄です。さっきまで一本のタバコをまわして吸っていた戦友が、次の瞬間には血まみれになって倒れている。そんな光景を思い浮かべるのです。でも聖書のページをちぎってタバコを巻く姿は微笑ましい日常です。きっとお父さんは「ああ、大事な聖書をちぎってもいいのかなぁ」と考えながら、でも「神さまごめんなさい」と祈りながらちぎっていたのでしょう。
神の創造された人間を、人間が勝手に壊してはいけません。でも人間が機械とか部品のように扱われるとき、もしくは自分から物になってしまうなら、戦争が始まります。ですから私たちは隣にいる人を愛し、自分を愛することで、人間であり続けましょう。

牧師室から No.173  2021/8/8

エルサレムから東に二十キロ、死海の畔にクムランがあります。この地名が世界中に知られるようになったのは、死海写本が発見されたことに拠ります。クムランに隣接する高台の崖の斜面には幾つもの洞窟があり、羊飼いの少年が迷子になった羊を探して偶然この洞窟に入り、古い巻物(聖書の写本)を発見しました。その崖の下に広がる幅二キロほどの平地は乾燥していて、黄土色の岩が一面に広がっています。この場所に第二エルサレム神殿の時代、つまり イエスさまの生きた時代に活動していたエッセネ派の修道院(エッセネ派に属する人々が共同生活をしていた集落)がありました。現在も遺跡の発掘が進んでいて、国立公園に指定されているので、二九シュケル(千円)程の入園料を払えば誰でも入ることができます。
このエッセネ派の人たちが生活していた遺跡には幾つもの施設が発掘されています。図書館、写本をする部屋、食堂、そして目を引くのはいくつもの沐浴槽です。五メーター四方、深さ二メートルに掘られた穴には下りと上りの階段があります。右から入って左から出ていく設計になっていました。水を引く為の水路が崖へと伸びています。水路の側面は石灰と塩水を原料にした白い古代のコンクリートで固められていました。洗礼者ヨハネは、このエッセネ派に属していたという説があります。神の前に立つための準備として身を清める。身体についた塵やホコリを落とすだけではなく、心についた罪も清める。礼拝の前、写本をする前、祈る前、食事の前、彼らは身を清めるのです。
次週の御言葉に「掃除」という言葉が出てきます。これは「片づける」ではなく「清める」なのです。

牧師室から No.172  2021/8/1

最近、コンビニやスーパーでは冷やしうどんとか、冷やし中華とか麺類の種類も多く売られています。プラスチック容器の形も工夫が凝らされていて、どうすれば食べやすく見栄えが良いか考え込まれていて、感心します。軽量で適度の強度があり、温度耐性も広くコストも安いプラスチック容器は便利です。以前に行ったタイでは、屋台で作ったグリーンカレーをビニール袋にそのまま入れて、口を縛って売っていました。人々はそれを買って屋台の近くに座り、紙の器に入れた米に少しずつかけながら、スプーンで食べるのです。でも、昨今の環境負荷が少ない循環型社会の理念をもっとも具体化しているのはインドかもしれません。インドの南の地方の食堂に行くと、まずテーブルの上にバナナの葉が皿として置かれます。次にバケツを持った男の子が近づいてきて、料理をアルマイトのシャモジで掬って、葉っぱの上にベトッと置いていきます。米が置かれ、ジャガイモ、ヨーグルト、魚のフライ、マンゴーの漬物、最後にカレー。油で揚げた薄くてカリカリしたパパドを割って、右手で好みの分量集めて、混ぜてから口に運びます。あと朝に屋台でチャーイを頼むと、素焼きの陶器のコップに入れてくれます。山羊の乳と砂糖の入った甘い紅茶を飲んだあと、コップは地面に投げつけて割り捨てます。屋台のまわりの地面は赤い土の色に染まります。
料理を盛る器は、世界中の地域ごとに形態を変えるのですけれど、もっとも人間の生活に近い道具です。動物は皿を使いません。そう考えると器は人間と動物を分ける境界線にある道具です。そして私たち人間は神の器です。自分という器に神は何を盛られるのか。それにふさわしい器になるように私たちは自分を整えるのです。

牧師室から No.171  2021/7/25

アマチュアの劇団を手伝った時のことです。もちろん私は役者ではなく舞台監督です。音響・照明・大道具などなど、公演日までの作業スケジュールを組みます。スタッフは他にも仕事を持っている方々なので、密に連絡を取り、それぞれの空いている時間をパズルのように組み、作業場の倉庫や公民館、幼稚園のホールを借ります。予算が少ないので、自分たちでできる作業はすべて自分たちで行います。資材の運搬、搬入、作った大道具を保管する場所の確保、部材に使う木材はできるだけ端材が出ないように細部にまで計算し購入します。いつまでにどこまで作るか、作り終わった後、どうやって分割して運搬トラックの荷台に積むか、建て込みの時に舞台上で短時間で組み上げられるか、を何度もシュミレーションをして、何度も設計図を書き直します。常に頓挫した時の為に次善の策を考えておきます。知り合いの工務店で廃棄する資材をタダでもらい、労働力が必要な時は人脈にまかせて人を集め、その数に必要な工具を揃えます。食事のためのケータリングを頼むこともできないので、野外にバーナーを運んで肉や野菜を焼いたり、ご飯を炊いたり、飲み物を準備します。そんなこんなで準備した芝居の上演時間はホンの九十分です。五回公演としても四百五十分。たったそれだけの時間のために、緻密な四ヶ月を費やすのです。
作業をするとき、私たちは事前に十分に準備します。無駄なお金を使わないように、無駄に廃棄するモノを作らないように、無駄な時間を生まないように。しかし設計図に描かれ、できあがったモノは自分の想定内に留まります。逆に、むしろ無駄だと思えたこと、捨てたモノから私たちは多くの知識と経験を得るのです。

牧師室から No.170

少し聞き慣れない言葉かも知れませんが、最近【ウェアラブルデバイス】なるものが普及し始めています。それは手首や頭など身体の一部に「身に着ける」コンピュータのことです。例えば腕時計のように手首に付けていると、歩数、消費カロリー、運動データ、脈拍数、睡眠トラッカーなどの生体情報を計測して記録してくれます。もう少しすると血中酸素濃度や心電図、血糖値、血圧、体温を測定できるようになる、のだそうです。私は大病をしてから使っていて、とても重宝しています。というのは、記録された数値を気に掛けていると、体調を崩す少し前に兆候が現れるからです。事前に用心することができる。【私】が【私】の不調に気づく前に【私】の肉体はSOSを出しているのです。「私は私にもっとも遠い」と書く文筆家もいますが、肯けます。肉体だけではなく心や魂、つまり思考体系や感情はさらに難解です。胸の奥の方にもう一つの世界があって、もう一人の自分が住んでいるような、そんな気さえしてくるのです。自分の事は自分が一番分かっている、訳ではないのです。
さて次週の御言葉でイエスさまは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ福音書9:13)と話されます。この言葉を聞いた者たちは「私たちは罪人ではありません。」と反発します。ここで話されている罪とは、犯罪のことではありません。聖書にあって「罪」という言葉のもう一つの意味は「的外れ」です。つまり神を見ているつもりで別のモノを見ている、それが罪です。彼らは、自分たちは神を知っていると反発しますが、自分のことも分からない【私】が神を知っていると思い込み、主張する在り方が、すでに信仰から外れているのです。

牧師室から No.169

最近の学校の体育会系の部活動では、頻繁に水分補給休憩の時間が設けられるそうです。私が学生だった時代、もう何十年も前ですが、根性論が支配的でした。「頭を使う暇があるなら筋肉を使え」と怒鳴られ遠慮なく拳が飛んできました。もちろん練習中に水を飲むことなど許されていません。筋肉だけではなく根性も鍛えるのが部活です。今にして思えば、よく熱中症で死ななかったな、と思います。それに卒業した先輩が体育館に来て、現役レギュラーを集めていわゆるシゴキを始める、なんてこともありました。今の時代なら即刻パワハラだと批判され学校や顧問が訴えられます。でも当時はそれが当たり前だったのです。ある日、私は体育科の教師に「部活が厳しすぎる」と話しました。弱音を吐いたのです。すると彼は「部活中、緊張感を保っていないと誰かが怪我をする。だから顧問も先輩も敢えて厳しく接している。虐めて苦しめて楽しんでいる訳ではない」と話してくれました。この言葉の意味を、正しく理解したのは社会人になってからです。
巨大な重機が動き回り危険な工具を扱う工事現場では怒声が飛び交います。親方の命令が絶対です。反論も言い訳も聞かれません。それは働く人たちの気質が粗いとか、乱暴だからではなく、緊張感を維持しないと事故が起きるから、であり、死なないための知恵なのです。優しく調子の良い監督が仕切る現場は、雰囲気は良いのですが怪我や事故が多発します。ですから賢い労働者は自分の命を守るために、厳しい監督の下で働こうとするのです。
さて、次週の聖書の御言葉で、主イエスは一人のローマ軍人を褒めます。命をやり取りする戦場で生き抜いてきた彼は、本当の権威とは何か、を知っていたのです。

牧師室から No.168

先週、説教の中でヒメジョオンの話しをしました。なぜその話しに至ったのか、前日譚があります。数週間前に私の散歩コース脇の古い家が取り壊されて、すぐに更地にされました。最近では有り触れた出来事です。でも気になったのは、整地された土壌の色が濃い茶色だったことです。この付近は薄い黄色(赤黄色土)の土壌です。きっと家を建てる前には畑として使っていたのか、と見ていた訳です。案の定すぐに雑草の緑が地面を覆います。養分が多くて肥えた土なのでしょう、背の低い柔らかい草の間から細い茎を長く伸ばして、幾つもの黄色いタンポポやハルジオンの白い花が咲くのです。家に帰ってその事を連れ合いに話しました。すると思いっきり和やかに嘲笑の目を向けられました。「タンポポみたいなのはブタナ、ハルジオンはたぶんヒメジョオン、ハルジオンは関東にしかない」そう指摘するのです。私は植物には疎いのです。タンポポの花が枯れるとツクシになる、と信じていた人間です。花の違いなど分かる訳もありません。でもこのあと少々調べてみて、一概に雑草を呼ばれている草花であっても多くの種類があることを教えられました。
次週の御言葉には「偽善者に警戒しなさい」(マタイ福音書7:15)と記されています。では本物と偽物の違いは何処にあるのでしょうか。見た目は…、偽物の方が本物らしく見えます。偽善者の言葉は耳に心地の良く理解しやすく、もっともらしいのです。この世と繋がる器量に長けているので為政者と結び、権力、財力を持ちます。宣伝公告も上手です。でも偽善者たちに拠って人々が幸いを得ることができるなら、それでも良いようにも思えます。しかしダメです。答は何十年後、何百年後に実る果実によって分かるのです。

牧師室から No.167

先週の週報で聖書箇所と説教題の記載ミスをしました。週報は教会活動の記録であり保存する公文書に類するものです。もう少し慎重に作業するように自省いたします。でも思うのですが、なぜ自分の書いた文章を自分で校正する作業は難しいのでしょうか。幾つか要因が考えられます。一つは達成感です。終わったと満足すると集中力が切れて読み返してもいい加減になる。もう一つは慢心。「間違いがある訳ない」と、どこかで自己過信の罠にはまっている。だから間違いを【見ていて】も【見ていない】のです。とはいえ私だけの欠点という訳でもないようです。ですから世の中に出回っている文章については校正・校閲のプロがしっかり働いています。他人の目でもう一度見てもらう、再確認して指摘・訂正する仕組みが作られているのです。
文章だけでなく、私たちは自分の心の内を見つめることも不得意です。世の中でもっとも解らないのは誰かの心、ではなく自分の心です。ですから自分のことを気兼ねなく話せる友人は何物にも代え難い財産です。もしくは臨床心理士という手段もあります。聞いてもらっているうちに自分が何を考えているのか、見えてくるのです。もう一つ、深い祈りによっても自分の心の内を聴くことができます。静かに心を神に向けるなら、自分が何に怒り悩み苦しんでいるのか、を聖霊の導きによって明らかにされます。自分の心の奥底にある自分を知るなら、抱えている問題は解決します。私たちの苦しみの原因は外にではなく、殆ど自らの内に潜んでいるからです。さて次週の御言葉でイエスさまは「人を裁くな」(マタイ福音書7:1)と話します。神を知り己を知るなら他人を裁く気など失せるのです。

牧師室から(号外)

2021年6月20日主日礼拝について(沖縄慰霊に日を覚えて)
桑名教会は、例年、夏の平和聖日とこの6月23日の前後に、日本キリスト教団名で出された「第二次大戦下における日本キリスト教団の責任についての告白」を礼拝の中で、参加者全員で告白文を読んで来ました。そこで今回、何故、礼拝中に戦責告白を行う様になったのか、以下に歴史的な背景を述べてみます。
沖縄は敗戦後に27年間、アメリカの統治下の中で施政権も奪われ、1972年に本土復帰となりました。1945年4月1日に米軍は、本島中部の北谷、読谷村に上陸し、日本国内で唯一の地上戦を強いられ県民の四分の一の住民が戦禍に倒れ、未曽有の地獄となりました。戦後の県民の願いは、日本国憲法の下で、平和を希求する9条で、米軍基地の縮小・撤退が可能になると多くの沖縄県民が、信じ願って来ました。来年で本土復帰の節目50年を迎えようとしています。現在も普天間基地から辺野古新基地建設へと、日本政府は沖縄県民が、先の県民投票で新基地反対の民意を勝ち取っても、政府は着々と新基地建設工事を進めているのが現状です。
私たちは、キリスト者として、何故この問題に関わり続けるのか、新約聖書の山上の説教の下りが有ります。マタイ5章10節、11節に私たちの教会は、このみ言葉に押し出され、信仰の継承を続けて来ました。単に社会問題に教会が加担しているのでは有りません。
桑名教会では信徒への信仰継承を含め、折につけ先達から繋げて来た出来事を反芻する作業が必要と考え、先の役員会で、6・20日の週報欄に、この事の趣旨を掲載し、聖書から今一度「平和」について考える礼拝を守る事にしました。     (文責:役員会)

牧師室から No.166

六月の定例役員会が行われました。今どきというか、ZoomというWeb会議システムを使い、役員はそれぞれ在宅でパソコンの前に座り参加です。液晶画面越しではありますが、お互いの顔を見ながら、役員会を進めることが出来ました。内心、もう少し難航するかと身構えていたのですが、スムーズに進めることができました。
人と人との会話というと、文字だけ、共有したい情報だけ交換できれば良い、という風潮があります。退職届や恋文もメールや通信で済ませてしまう、そんな在り方です。でもやはり「言葉」だけでは伝わらないことが多いのです。相手の表情とか、目の動きとか、言い回し、強度や抑揚によってニュアンスや意味が補填されるからです。また時間をかけて培ってきた人間関係の蓄積や、信頼やクセが加えられて「会話」は完成します。「行間を読む」という表現がありますが、お互いに相手の言葉にならない言葉を聞き合うところに会話は成立するのです。
さて、次週与えられます御言葉は、神が与えた律法の背後にある「神の思い」を聴く、がテーマです。聖書に記されている律法は、例えば申命記とか民数記を読みますと、延々と記されています。細かく戒律が定められ、守るように課せられています。とはいえ現代の日本に生きる私たちにとって律法は他人事です。太古のユダヤ人だけが守るべき戒律で、私には関わりない、と考えてしまうのです。でもそうでしょうか。イエスさまは【そうではない】と話されます。記された律法の背後には神の御心があり、時代や場所を越えてすべての人に向けられ、心に留めるべき言葉だと話されるのです。私たちも当事者として律法を聴くなら、御心を聴く事ができるのです。

牧師室から No.165

高校生の頃、私はもう洗礼を受けていたのですが、学校でも、友だちの前でも自分がクリスチャンだと公言することはありませんでした。隠していたわけではありません。日曜日にどこに行くのかと問われるなら「教会に行く」と話しますし、夏休みには部活を休んで教会の主催する中高生キャンプに参加していました。ではなぜ、クリスチャンであることを周囲には【控えめに】話していたのか、というと、それは「私」の頭の中に描かれているクリスチャンのイメージと「私」との間に深い隔たりがあったからです。クリスチャンというと、清く正しく美しく、誠実で真摯で公正で、という一般的なイメージがあり、私の心も捕らわれていました。当然、成長し社会に馴染んでいくなら、現実は乖離します。心は悔い嫉妬し憎み裏切りに覆われ、悪事や危険な行動に惹かれるのです。洗礼を受けているのに理想的なクリスチャンになれない。そんな自分の中途半端さに苦しみました。でも、数年経った後、ある牧師から「理想的なクリスチャンはいない、神だけが理想であれば良い」と教えられ、わだかまりが解けました。私たちは罪を負っているから、その罪に打ち勝つために信仰を与えられているのです。クリスチャンであるか否か、の違いは、自分が清いか清くないかではなく、罪を負っていることを自覚しているか否か、の違いなのです。
次週、読まれます御言葉に「あなたがたは地の塩である、世の光である」(マタイ福音書5:13-14)とあります。しかも主イエスは「なりなさい」ではなく「である」と話されます。でもなぜ主イエスは罪を負い、闇に心を捕らわれている私たちを、この世の塩であり光だと話されたのでしょうか。共に聴きましょう。

牧師室から No.164

私たちの桑名教会では、現在、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、日曜日の礼拝、集会を含めて礼拝堂を閉鎖しています。このような状況下にあって、礼拝に参加されている方の広く働きかけ、近況報告を送ってもらうことになりました。早速、お便りをいただきましたので紹介させていただきます。

楽しい楽しいステイホームです。午前中は編物教室で生徒さんとおしゃべり。教室のない日は炊事、掃除、洗濯等一見真面目そうに主婦をやり、時々K-バスでイオンタウンや三省堂(星川の本屋)へ行きます。午後は、ヨム・アム(読む・編む)ヨム・アムを心ゆくまでやります(たまに昼寝)。夕方紫色の鈴鹿山脈とオレンジ色の夕焼空が水田に映って、さかさ富士ならぬ、さかさ山脈が出来るので、あぜ道を散歩します。聖書はあまり読みませんが、お祈りは毎日何度もしています。チョットはひと様のために何かしなくちゃと思いながら、何も出来ていません。【T.H姉】

主の御名を賛美します。自分は感染しないだろうなどと甘い考えをしていたことを反省しています。スマホの操作が十分出来ませんが、先生の説教を聴くことが出来、お姿を拝見し、またお声を聴けて、嬉しく思っています。感染なさった方々が元気になられますようにお祈りしています。どうか一日も早く平安が訪れますようお祈りします。【K.M姉】

コロナ禍の中、毎週の主日礼拝はインターネットのライブ中継で礼拝を守っています。コロナによる長期の外出自粛で在宅時間がながくなり、体を動かさない日が続き、体力、筋力の衰えと巣ごもりによるストレスを自覚します。コロナフレイルに陥らないように出来るだけ体を動かすように心がけて日々暮らしています。毎朝、起床後6時30分からNHKのラジオ体操で体を十分ほぐしてから、その日の活動を始めます。そして、天気の良い日は三密を避け愛犬(チワワ)を自転車の荷台に乗せて新鮮な外気を吸いに、近くの伊坂ダム、山村ダム、海辺にある川越火力発電所前の公園に筋トレを兼ねてサイクリングに出かけます。新緑が映える山村ダムや伊坂ダムを周回しながら鈴鹿山脈の稜線を眺めると気持ちをリフレッシュ出来ます。雨の日は家事の手伝いや庭の手入れをし読書で過ごします。今は歴史小説の司馬遼太郎著「翔が如く」を読んでいます。西郷隆盛が主唱した征韓論で新生日本を根底から揺さぶった激動の時代を史実に基づいて書かれたストーリーで新しい国造りのために苦闘する姿に感銘しています。そして旧約聖書を2章づつ読むのを日課とする晴耕雨読ならず晴転雨読の日々です。今までは日曜日は主日礼拝、水曜日は水曜会で教会へ出かけ隣人との繋がりを1週間の楽しみにしていましたが、コロナによる自粛生活で外出する機会が少なくなり、人間関係が希薄化し人と人とのつながりの大切さを感じます。コロナのワクチン接種が一日も早く行き渡りコロナ感染が終息して桑名教会に連なる方々と共に会堂で礼拝を捧げることが出来ることを願いつつ過ごしています。【Y.N兄】

コロナ巣ごもり中では、あちこち身体にも影響が出てきてませんか?私も驚くくらいです。緊急宣言前に上京しましたが、宣言が更に延長になりました。東京の様子はというと、近くのトンボ公園には、土、日曜となれば人、人、人、夏のプール状態です。同じエリアには、広大な深大寺植物公園もあるというのに(ため息。。。)のびのび元気いっぱい遊べる都心の公園は限られてます。昨年の第一波から都の公園は閉鎖中が多く、子どもは宝だと思えぬコロナ政策も混乱を招いてます。昨年春から、子ども達、又親達もテレワーク、巣ごもり、と厳しさもましておりますけれど、重症化や亡くなった方、そのご家族の哀しみは計り知れないです。感染者、ワクチンの数に一喜一憂する事にも嫌悪感を感じて、数日前にはNOオリンピックの署名にもサインしたところです。おばあは怒ってます!!子どもには、教育と遊び場が必要だと思います。密になっても遊ぶ子の笑顔に不安げな親達の姿…でも親もまた癒やされているんでしょう。私も癒やされております。 子ども、又世界中の多くの人々も「命(ぬち)どう宝」だと新たに祈ります。結局、政治家は本音と建前を使い分けて、自分に都合よく行動する生き物なのです。初の宇宙飛行士の秋山さんの言葉が胸にささります。秋山さんは帰還後にTBSも辞め、漂流しながら農業を。今も福井〜三重で単身晴耕雨読の生活をされています。最近は私も少し見習って、トマトと茄子を12年ぶりに植えました。これも長期滞在のゆえんでしょう。礼拝の配信にも慣れました。いつの間にか教会にいるような繋がりを覚えてます。コロナ禍の中、配信の試みは御苦労もおありでしょう。再び、礼拝に行ける日を心待ちにしてます〜。 【K.Y姉】

ライブ配信で、元気なお声で礼拝をささげておられる姿を拝見できます。喜びを感謝しています。困難なときを皆さんの事、お顔を思いながらともに祈りを合わせています。神様に守られて一人ひとりが健康で平安のうちにありますように祈ります。私も元気に暮らしています。しっかり生きていることが家族に対して福音を伝えているのかなって自分流に考えているところです。ルカによる福音書24章に「上から力を授けられるまでは、 あなたがたは都にとどまっていなさい。」を読んで何事も上から力を授けられるものなのかと思わされました。私の理解は 間違っているかもしれませんがこのように聞きました。いろいろな出来事は神様がすべてご存じで授けて下さるものなんだと今更ながら納得しました。今できることをしっかり取り組んでいこうと思っています。皆様のお祈りに支えられて来たこと本当にありがとうございます。【Y.K姉】

みなさん、お変りございませんか。
コロナウィルスの関係で教会に行けなくなって、そろそろ2ヶ月になりますネ。私は、毎日孫の世話で、あっちこっち車で飛び走っています。私にとって、不要不急の外出はゼロ手をいれてで、いつもマスクは絶対に忘れることは出来ません。健康で役に立っていることは、うれしいことでもあります。健康に感謝しています。私の朝一番の楽しみは、新聞の端から端まで目を通すことです。特に「みんなの声」の発言のページが好きです。次世代の若い人の声にも、年配の人の声にも教えられることがいっぱいだからです。老眼ですが、続けていきたい習慣です。やっとこの地方でも、コロナワクチンの接種がスタートしました。私も6月7日に第1回目の予約がとれ、ホッとしています。それまでマスク、手洗い、うがい、ハミガキをして、コロナにかからないよう注意して、皆さんと元気でお会い出来る日を楽しみにしています。【M.I姉】

これからも、御自身の近況報告をお寄せ下さい。メールでも封書でも結構です。喜びも悲しみの苦しみも共有し、互いに祈りつつ支え合いましょう。

牧師室から No.163

もうしばらく、桑名教会では礼拝堂に集まらない礼拝を続けることになります。桑名市でも猛威を振るっている新型コロナウィルスへの感染防止対策のためです。最近、流行し始めている変異株は、従来株よりも感染力が強いことが分かっています。現時点では楽観視できる状況ではない、という役員会の判断です。しかし、徐々にではありますが出口も見えてきました。それはワクチン接種が始まったことです。このワクチンは従来株にも変異株にも効果があると報告されています。上手くすれば梅雨明け頃にも状況も落ち着いてくるのではないかと考えられます。手洗いうがいマスクをして、免疫力を強める為に軽い運動とリラックスを心掛けましょう。
そのようなわけで、私は主日の朝に一人で講壇に上り礼拝を守っています(正確には一人の役員と)。同じ時間に自宅で礼拝を守っている方々を心に覚えつつ、心が一つになることを祈りつつ式次第を進めています。改めて思わされることですが、やはり礼拝は会堂に集まった信仰者がみんなで作り上げ、神に捧げる【ささげもの】です。讃美と告白の言葉を以て心を捧げます。説教も牧師が一人で聖書を読み、釈義し咀嚼し再言語化して一方的に話すものではありません。会衆席に座っている方々の表情とか仕草とか目の輝きを通して共有する祈りによって導かれて、その場で言葉に命が注がれて説教は生じます。言葉は生き物です。そして神も生きておられます。ですから建物の中に安置することも、言葉の中に閉じ込めることも、測定して数値化することもできません。「知恵ある者や賢い者には隠」(マタイ福音書11:25)されているのです。でも私たちが集まって心を一つにして祈るとき、主イエスは中心に立たれるのです。

牧師室から No.162

情報通信技術が進歩して、世界の裏側のできごとであっても瞬時に伝わってくる時代・世界に私たちは生きています。コロナ禍にあって日本に送られてくるワクチンはベルギーの工場で作られ飛行機に乗せられ十二時間かけて届けられてきます。日本で作られたアニメ映画が全米での興行収入ランキング1位になったそうです。中国から打ち上げられたロケットの残骸がモルディブ沖のインド洋に落ちました。携帯電話やハイブリッド車のバッテリーにはアフリカで採掘されたコバルトが使われています。世界中の誰もがアマゾンを使って買い物をしYouTubeで動画を見ています。経済、文化、科学、産業、農業、貿易、医療、観光、政治に於いて世界の国々の関連は密接に多角的に繋がっています。環境問題に関しては、一つの国の努力や改革だけではどうにもならず、各国が協働して画策しなければ解決できない事態に追い込まれています。
こんな世界にあって、インターネットを覗けば世界中のほぼ全ての言語で聖書を読むことができます。御言葉の註解や資料も調べる事ができます。世界中の隅々に至るまで教会が建てられています。信教の自由が認められていない国でも、教会は地下教会として潜り信仰者は礼拝を守っています。主イエスが福音を伝えなさい、と使徒たちを世界に送り出した時の言葉はすでに実現したように思えるのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ福音書28:19)でも本当にそうでしょうか。私には、まだ始まったばかりに思えます。全世界の人々が心を一つにして主イエスを覚え、祈りを捧げる日まで、私たちは福音を伝え続けなければならないのです。(ロマ10:14)まだまだこれからです。

牧師室から No.161

子どもに心を開いてもらうには、どうすれば良いのでしょうか。まず腰を屈める。何なら地面に腰を下ろして目の高さを、子どもの目の高さまで落としてみる。その高さから子ども目をのぞき込むなら、まず子どもは好意的なサインを出してくれます。例えばジッと見つめ返されたり、手に持っている玩具を差し出してくれます。でも、そこはスタート地点です。次に子どもは関心をもった相手に向かって敵対的なサインを投げかけてきます。例えば「ジジイ」と声を掛けてきたり、鼻の上に乗っているメガネをむしり取ろうとします。それは意地悪をするために行われているのではありません。そうやって相手との心の距離を測っているのです。「この人はボクの話す不快な言葉をどれくらい受け入れてくれるだろうか、どこまで忍耐強くボクの相手をしてくれるか」子どもはジッと冷ややかに観察するのです。どこまで殴れば殴り返してくるか、自分を受け入れてくれるか、信頼できるのか測っているのです。
私たち大人も同じように、無意識に相手との距離を測る行動をしています。言葉とか態度、表情、感情を使って相手にボールを投げるのです。そして受け取ってくれるかを試します。自分自身の心の奥底にあるドロッとした黒いものをその人の前に晒しても、逃げていかないか。裏切らないか、信用しても良いのか。心を開いても大丈夫か。私たちは無意識に相手との距離を測っているのです。
次週与えられる御言葉に「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」(ルカ24:45)とあります。神は私たちの心を開かせるために、私たちと目の高さに下られました。主イエスは生きていた時と同じ姿で復活されたのです。

牧師室から No.160

また私は病が与えられ、病床の天井の壁紙の剥がれかかった数ミリの継ぎ目を、ジッと眺めつつ、十日ほど横になっていました。目で文字を追うこともできず、テレビも音楽も五月蠅く感じられ、ただジッとしていました。心は入院した方々の病が取り去られるように祈り続けていました。なぜ神は桑名教会にこれほどの災厄が与えられるのか、神の御心に逆らうようなことをしていたのか。神の業に信頼することなく傲慢に人の業に頼っていたのか。御言葉と福音を正しくこの世に告白できていなかったのか。信仰を神以外の何かに繋ぐようなことをしていたのか。自問と反省が繰り返されます。そのような中にあって、私の祈りの言葉が、条件付きの祈りになっていることに気づかされました。「神さま、もしあなたの御心であるなら○○さんの病を癒やして下さい。」と祈っているのです。
私は「もし」という言葉をつけて祈っている。「もし、あなたが神であるなら、あなたを愛している信仰者を痛めつけることはないだろう、教会を打ち崩すことはないだろう。もし、あなたが神であるなら。」まるで荒野で主イエスを試した悪魔のように私も祈りの言葉を用いて、神を試していたのです。
私たちの祈りはもっと純粋で無垢な言葉で良いのです。神に信頼し神の前に良い子ではなく駄々をこねるような、そんな言葉で良いのです。「私と神」との関係は「乳飲み子と母」の関係なのです。このような状況にあっても神は桑名教会を導かれます。「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ8:28)それでも神は、伝道は進められています。

牧師室から No.159

日曜日の朝、教会学校に来るだろう子どもたちを、教会の玄関の階段の上の踊り場に立って待っていました。ふと足下に目を落とすと、玄関に脇に置かれている寄せ植えが、綺麗で可愛い花を咲かせています。「春だねえ」と心が明るくなりました。でも、ふと思い起こしてみるに、春になったから花が咲いているのではなく、どんな季節でも、寄せ植えには綺麗な花が咲いていました。申し訳ありません。春になって花が咲いたのではなく、私が今、花に気づいた、のです。
当たり前のことが当たり前に行われていることが当たり前だと、私たちは考えます。でも当たり前のことを当たり前に行うことは当たり前ではなく、その後ろ側には、誰かの目に見えない気遣いと配慮、働きがあります。アピタの棚に沢山の食品が並んでいることも、通勤電車が正確にホームに滑り込んで来るのも、蛇口をひねれば水が流れ出るのも、スイッチを押せば電灯が点くことも、当たり前ではなく日常を継続して維持するための、沢山の人の働きと意気込みがあるのです。聖書に描かれている様々な者たちに関わられる神の姿を読むとき、私たちに、私たちが日常的に目にする他愛のない事柄の背後にある、もっと深い神の思いに気づかされるのです。

牧師室から No.158

イースターおめでとうございます。主イエスは墓に収められた後、三日目の朝に復活し、弟子たちの前に現れました。神は御子、主イエスの十字架と復活のできごとを通して私たちに、私たちの命の在り方を明らかにして下さいました。私たちの命は死に依っても中断されることはなく、神と共に続きます。主イエスは陰府に下られ、死の闇に光を注がれ、死を滅ぼされました。
でも、だからこそ私たちは、この世で与えられた命を大切に丁寧に用いるのです。私たちはこの世から与えられる評価や順序、地位に心を囚われるのではなく、神からの評価、つまり主イエスがこの世にあって為されたこと、それは、如何にこの世にあって、【神を介しての人と人との愛の関わり】を構築できたか、に心を奪われればよいのです。大きな働きは必要ありません。主イエスは、この世にあって目を向けられない者、価値がないと捨てられ、意味がないと無視された者たちの手に直接、触れられたように、私たちも主イエスの道具として、この世にあって用いていただくのです。
そして私たちの命は続きます。ですから躓いても、傲慢になって失敗しても、神の前に悔い改めて、そこからやり直せばよいのです。斯くも私たちは神のように完全ではなく不完全な命なのですから。

牧師室から No.157

私はまだ一度も、洗足木曜日礼拝を桑名教会で守っていなかったことに気づかされました。2019年4月受難週は病室で過ごし、2020年4月は自宅でリハビリに励んでいました。ようやく受難週を桑名教会で守る事ができます。感謝です。記録を調べてみますと入院前に私は2019 年4月18日のための聖書箇所と説教題、讃美歌を用意していました。講壇予定表にはヨハネによる福音書15章18-27節「神の側につきなさい」とあります。あの時、まさか入院加療が長く続くとも休職するとも、思い至ってはいませんでした。「人の思いは千路あれど神の御心だけが為る」です。
さて、では今年の受難週についてです。29日(月)、30日(火)、31日(水)は19時から30分ほど短いメッセージと祈りの時を持ちます。4月1日(木)は16時から礼拝堂でバッハのマタイ受難曲を流します。続けて19時から洗足木曜日礼拝を守ります。もしご都合が合うなら教会までお出かけ下さい。夜間の運転や足下が不如意な方はご自宅で覚えていただければ幸いです。翌日の聖金曜日は教会での集会は持ちません。それぞれの遣わされている場所で、午後三時頃、主イエスの受難を覚えて祈りの時をお持ち下さい。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイ福音書27:46)
受難節にあって主イエスの十字架を見上げる時、神が私たちの罪の縄目を解かれ、解放して下さったことを覚えるのです。その代価の屠られる小羊として主イエスは自らを犠牲として捧げられました。その流された血と汗に応える日々を私たちは生きているのか、私たちは問われるのです。

牧師室から No.156

採血のためにさされる太い注射針は痛くないのだけれど、インフルエンザワクチンの細い注射針はとても痛く感じます。採血は静脈注射でワクチンは皮下注射(筋肉注射の場合もあり)だからかいな、と勝手に納得していたのですけど、そうではなく、やはり太い注射針の方が多くの痛点を刺激するので痛いとのこと。どうやら注射の痛みとは、針を刺す痛みより、注入される薬剤が周囲の細胞が押し広げる痛み、薬剤が染みこむときの痛みを強く感じるのだそうです。だから血を抜くだけならば、それほど痛みを感じない(??)のです。でも痛覚とは不思議なもので、紙で指先を切った時には強い痛みを感じるのですが、鋭利な刃物でザックリ肉を切ってドバドバと血が流れ出ている只中は、熱いと感じるけれど、痛さは感じないのです。そこには理由があります。命が危うい状況になると鎮痛効果のあるβ-エンドルフィンを脳内に大量に分泌されて痛覚を麻痺させ痛さを感じなくなるです。神さまが作った体は良くできています。
肉体的な痛みも辛いのですが、精神的な痛みはそれ以上に辛いのです。裏切られ、おとしめまれ、ないがしろにされ、憎まれる。これまで育んできた関係性という肉が断ち切られる痛みだからです。そして最も鋭く心をえぐる刃物は【無理解】です。なにが悪いのかを理解していない、心境や感情を共有できない相手になにを訴えても無駄です。虚しさというという痛みは長くジワジワと心を締め付け続けるのです。主イエスは十字架上で、肉体の痛みと心の痛みを負われました。群衆だけでなく弟子たちも主イエスに【無理解】という刃を突き立てられるのです。しかし主イエスは十字架の上にとどまり続けられます。それでも希望を捨てないのです。

牧師室から No.155

心理学者ユングは世界各国に存在する模様や神話に共通点が多いことを知り、この事実から、人の心には人類の先祖から遺伝的に伝わる集合的無意識の領域があるのではないかと考え、その要素を元型と名付けます。この元型にはグレートマザー(あらゆる物を育てる母なる存在)、アニマ(男性の中の女性像)、アニムス(女性の中の男性像)、老賢人(成長の最終的到着点)、シャドウ(もう一人の自分)があり、人間の行動や思考にさまざまな形で影響を及ぼしていると考えるのです。例えばグレートマザーという元型にイメージされる母という存在は、女性にとっては成長の究極的な目標とされます。しかし母は二面性を持ちます。一方では子どもを慈しんで育む力、もう一方では束縛し飲み込んで破壊させる恐ろしい力です。グレートマザーは女性だけではなく、男性にも重要な意味を持ちます。すなわち母の束縛から逃れること、自律、精神的な乳離れの際に男性は、自分自身の心の奥sに潜んでいるグレートマザーと対決し克服しなければならないのです。グレートマザーが夢の中に現れる場合、年上の女性、女神、魔女、老婆などの姿を取り、否定的な場面では化け猫、地下の世界、洞窟などとして現れます。この元型の存在を認め、受け入れる時に心は成長するとユングは話すのです。
次週の聖書箇所には、ゼベダイの子ヤコブとヨセフの母親の姿が描かれています。彼女は自分の息子たちに神からの栄誉が与えられるよう、主イエスに懇願します。そして主イエスはその願いを受け入れます。でもその栄誉とは殉教による死、「私の杯」なのです。離反する人間的な望みと信仰の望みが、彼女の言葉の中に現れるのです。

牧師室から No.154

先日「歴史上はじめて地球上の人工物量が生物量を上回った」というニュースが伝えられていました。道路や建築物などの人工物の重量は二十年ごとに倍増していて、現在一兆トンに達し、逆に樹木や植物、動物などの生物量は減り続けているのだそうです。そう言われてみるなら、私たちの生活環境のどこを見渡しても人工物ばかりです。道はどこまでも舗装され、野山は切り開かれて住宅が並び、川はコンクリート堰で固められ、海は高い防波堤で囲われています。そこまで必要だろうか、と疑問に思える場所まで人工物化されています。なぜこうなるのか、というと建設土木工事の多くは着工から遡って十数年前に立案されスケジュールが決められ、さらには十数年後の工事計画を見込んで高額な建設機械が購入されています。資材を生産するプラントも、動かしたり止めたりするなら品質が落ちるので、できるだけコンスタントに供給できる環境を必要とします。勿論、職人の生活を守り技術を向上させるためにも、そして会社の財政を守る為にも仕事が切れないようにする、つまり作り続ける事になるのです。基本的に資本主義経済は自転車操業です。マグロのように泳ぐのをやめると死んでしまいます。同じように「必要だから」ではなく「作り続ける」ことが作る目的になっているのです。
イスラエルの民はもともと遊牧民で、神を礼拝する神殿もテントで作られ、移動する度に解体して持ち運んでいました。でもエルサレムに定住し岩を組んで神殿を建てます。神はそれを厭われます。なぜなら岩の神殿は神を、人間の偏狭な特定の概念の中に固定させるからです。神の存在は頬に触れる風と同じで、留め置けないのです。

牧師室から No.153

以前、ある文筆家がエッセイで文章を書く流儀を紹介していました。まず資料を目一杯集めて、片っ端から読んでメモを取る。次にこのメモを様々な角度から観察し思索する。ここで一旦手を止めて九十分間、布団に入って昼寝をする。この九十分は人間の睡眠サイクルの一周期です。昼寝から目覚めると、頭の中にゴチャゴチャと詰め込めれていた言葉が、綺麗に整理されて並べられているから、おもむろに文章を書き始める、のだそうです。にわかに信じがたい内容でした。つまり寝ている間に【自分の脳】が無意識下で自動的に(勝手に)情報を整頓する作業してくれている、という訳です。でももし、興味がある方は試してみて下さい。かなり上手くいきます。少なくとも私は文章を書くとき、この流儀に倣っています。また、深く悩んで考えなければならない事柄にも使えます。
私たちは自分で意識して考えていることを自分の考えとします。でも意識の見えている部分は氷山の一角で水面下には巨大な無意識が存在している、と心理学者ユングは話します。それは言葉にできない巨大なモヤッとしたものです。その深層心理に私たちは支配されていると。加えて彼は無意識の最も深いところですべての人は繋がっている(原風景)という仮説を立てます。でも私は…すべての人の意識は最も深いところで神と繋がっているように考えます。その神を架け橋にして全ての人は繋がっていると信じています。
次週の聖書箇所に「あなた(ペトロ)に真理を明らかにしたのは神です」という言葉があります。主イエスはペトロに「あなたは自分の目で見て、自分の知能で理解していると考えているけど、実は神があなたに働きかけて解釈させ、理解させて下さっている」と教えるのです。神は私の心の深みからも語り掛けられているのです。

牧師室から No.152

今月中にも新型コロナウイルス感染症の重症化を防ぎ、感染拡大を抑制する為のワクチンの摂取が始まろうとしています。これまでワクチンの開発には数年から数十年の期間が必要だったのです。でも、医学は急速に進歩しています。従来は不活性化したウイルスを培養してワクチンを作っていたのですが、今回は遺伝子組み換え法を使ってウイルスの抗原性に係わっているタンパク(mRNA)だけを細胞に作らせ、それを精製する方法が使われています。この方法だと製造期間を短縮できるだけでなく、感染性のあるウイルスを製造に用いなくて良いので、安全にかつ大量に生産することが可能です。でも覚えておくべきは、そもそもワクチンは直接ウイルスに働くものではない、ということです。ワクチンが体内に入ることによって、もともと自分の体に備わっている免疫が働き、抗体が新しいウイルスに対する反応を記憶します。そして実際にウイルスに感染したとき、抗体に刻まれた記憶が活躍するのです。ですから、ワクチンを打つ時には自分の免疫機能が十分に働く必要があります。毎日の生活の中で、十分な睡眠と十分な栄養管理、あとストレスの低減を心掛けなければなりません。加えて、必ず副反応は起きるのですが(でなけれ効果がないということです)一人一人それぞれ備わっている免疫反応に違いがあるので、人によっては強く出ることがあります。アレルギー体質を持っているなら、少々注意が必要です。
新型コロナウイルス感染症ワクチンについて「遺伝子操作とか副反応が怖いから」という理由で拒否される方があるそうです。私たちは漠然と相手が何者か解らない時、怖いと感じるものです。でも相手を知るなら、怖くは失せます。日常が戻る事を祈りつつ。

牧師室から No.151

次週から教会の暦は受難節に入ります。主イエスの十字架と死を記念するこの期節は日曜日を含んで四十六日、日曜日を除いて四十日間、復活日までの準備をします。この四十という数字は受難を意味する数です。主イエスは四十日四十夜の間、荒野で悪魔からの試みにあわれます。またエジプトを離れたユダヤの民は四十年のあいだ荒野をさまようのです。そして受難節の始めはイースターの六週間前のさらに数日前、毎年水曜日から始まります。古来より教会は、この日は「灰の水曜日」と定め、教会では信徒が自らの悔い改めの告白をし、額に灰で十字架を記されるという礼式を行ってきました。(桑名教会では伝統的に行っていません)この灰の意味は創世記の最初「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり」(創世記2:7)また「ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。」(ヨブ記2:8)とあるように、人間は灰から造られ灰に戻るということ。くわえて懺悔や苦しみ、悲しみの象徴です。
この受難節には贅沢な食事をしない、嗜好品を断つ、日中の断食を行う、結婚式や記念会を行わない、といった何らかの試みを自分に課す習慣があります。以前、教会学校で受難節に我慢することを生徒たちに書いてもらったのですが「チョコレートを食べない」とか「朝寝坊をしない」といった可愛い約束から「ニンジンを隠さない」「弟をいじめない」といったリアルなものまで、色々な言葉が挙がりました。自分自身に何か一つ苦行を課すことによって苦しみを覚え、その度に、その何十倍、何千倍、何万倍もの苦しみを主イエスは味あわれた、と覚える事ができるなら、それも悪くない試みだと思います。

牧師室から No.150

また病院のベッドから「牧師室から」を書いています。1月始めあたりから、少しずつ気管支喘息が始まっていて「まあ、いつもの喘息だろう」と高を括っていたのです。でも診察を受けると血中酸素濃度が低く肺に影があるとのこと。コロナ感染症を疑われ抗原検査とPCR検査を受けて、結果が出るまで一晩、個室に隔離されました。完全防備の看護師さんが必要最小限の頻度で出入りする狭い病室、突然だったので、本も雑誌も何もなく、ただジッと息を殺しているしかない。そこで突然、恐怖に襲われました。私は膠原病で、薬で免疫力を落としているので感染しても仕方がない、でも「私が誰かに移していたら」。この数日間どこに行ったのか、誰と話したのか思い出します。マスクをしていたか、何分くらい話したか、何に触れたか。もし私がPCRで陽性反応が出た場合、教会に連絡して、関係者に検査を受けてもらうのか、どうするか。グルグルと恐れや不安が頭の中を巡るのです。ひたすら祈ります。そのとき「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ14:27)という聖書の言葉が浮かびました。では…この御言葉で心が落ち着いたか、無理です。まったく心は荒れ狂う波に翻弄されたままです。ただ心の中で何度も「恐れることはない。」と繰り返す事しかできませんでした。そして次の日の午後、看護師がマスクとフェイスシールドだけで病室に入ってくる姿を見て、心から安堵しました。
私たちは、信仰によって強くなるのではなく、かえって自分の弱さを明らかにされます。弱くなるのです。でもそんな私たちを主イエスは「すぐに手を伸ばして捕まえ」(マタイ14:31)て下さる。主イエスが、救って下さるのです。

牧師室から No.149

先日、マイナンバーカードの更新の為に役場の受付に行ったのですが、紐付けてある暗証番号とパスワードが思い出せなくて難儀しました。日常的に使うカード番号は繰り返し使うので覚えているのですけど、さすがに五年前に設定した数字と文字、あやふやなのです。私たちが言葉や数字を記憶するためには「繰り返す」という作業が必要です。ノートに鉛筆で線を引く作業と同じです。最初に引いた線は細く薄いのですけど、その線の上を繰り返し何度もなぞっていくと、太く濃くなります。記憶も繰り返す事によって強く固く、消しにくくなるのです。また衝撃的な事件は忘れ難いのですけど、それは最初から太い油性ペンで線を引いているからです。【神に祈る】ことも、同じ内容に同じ言葉であっても繰り返す事が大事です。繰り返し祈るなら、その言葉を聞かれる聖霊と私の関わりが太く強くなりますし、私と神との関わりを濃く固くなります。加えて、自分の祈りが神の前に適切な祈りなのか否か、を知る事が出来ます。私が神に何を望んでいるのか、が明確になるのです。デッサンでも何本も何本も繰り返しなぞるように線を引いているうちに、最も自分の描きたかった線が見えてくるものです。そして望みが明確になればなるほど、祈りの精度も上がるのです。
次週、礼拝で与えられます御言葉の中に描かれているカナンの女は、大声で叫びながら主イエスと弟子たちに付き纏います。彼女は娘が重い病気に掛かり、今にも死んでしまいそうで、主イエスに助けてくれるように頼むのです。でも主イエスは彼女の言葉を取り合わず狭量な態度をとられるのです。でも私たちは此処に真の祈りの姿を聴くことが出来るのです。

牧師室から No.148

先日、宮島コウさんのご自宅で訪問聖餐を守りました。和室に通され、その畳みには炉が切ってありました。以前はこの部屋でお茶を教えられていたとのこと、なにか気が引き締まる雰囲気があります。床の間の前に座りながら、私は小学四年生の頃に住んでいた家の、隣の家にあった小さなお茶室のことを思い出していました。四畳半の真ん中に炉が切ってあって、入り口は屈まないと出入りできない造りでした。中柱は太い曲がり木で表面は艶々しています。床の間には掛け軸が掛けられ茶道具が置かれています。レコード盤位の黒枠の丸窓からは外の苔むした岩の緑が見えていました。その頃の記憶を辿ってみるに、趣味の茶室にしてはそれなりに整っていたように思います。私は時々おじさんに声を掛けられて、まだ半ズボンの男の子(ガキ)だったのですが、茶室にあげられていました。お茶は苦かったけど、お菓子は甘くて美味しかったのです。おじさん曰く「お茶はもともと女のものではなく男の嗜み」だそうで、「お点前よりも、音を聞いて匂いを嗅いで味わいなさい」と教えてくれました。印象深かった言葉があります。「作法は茶道の長い歴史に培われた、立ち居振る舞いが綺麗に見えて所作に無駄がない最も洗練された【形】なんだよ」と。
歴史の荒波に長く磨かれ続けた結実としての作法を軽んじ、無作法である事に自由さを感じるのであれば、それは未熟です。本当の自由とは形に嵌まらないことではなく、形を完成させることです。主イエスは「律法と預言者を廃止するためではなく、完成させるために来た」と話します。主イエスは律法に何を加えることで、律法を完成させたのでしょう。共に聴きましょう。

牧師室から No.147

何かを新しいこと始めるためには、それなりの力が必要です。例えばタンスを動かそうとするとき、動かそうとする側の底を少し持ち上げて雑巾とか毛布を挟んで、反対側から強く押します。ある程度の力を掛けると、すうっと軽くなってタンスは滑らかに動き出します。物理学では、物体を動かすときには動摩擦力と静止摩擦力が作用し、静止摩擦力の最大値は動摩擦力より大きいから、と説明します。竈に組み上げた薪も種火がつくまでは苦労しますが、いったん火が着くとすべての薪が炭化し尽くすまで燃え続けるのです。何事も、動かす時には少し大きな力が必要ですが、いったん動き始めると少ない力で前に進むようになります。私たちの心も何かを始める時には起動力が必要です。新しい仕事を始める、新しい誰かと話してみる、毎朝散歩を始める、毎朝聖書を一章ずつ読む。そんなとき、ほんの少しの「よっこいしょ」が必要です。でもいったん動き始めれば、それまで抱いていた不安や心配などすっかり忘れるほどに、物事は前に進み始めるのです。
信仰は、この「よっこいしょ」の力を与えてくれます。アブラハムがカルデアのウルからカナンへと歩き出したように、モーセがミディアンの地からエジプトに戻ったように、預言者エリヤはカルメル山に登り、ダビデはヘブロンで油を注がれるのです。十二人の弟子たちは、生業を手放して主イエスに従いました。私たちも同様です。一人で始めようとするのではなく、イエスさまも隣で一緒に押して下さっている事を覚えるなら、最もよい時機によい具合で物事は動き始めます。でも動き始めてからも方向が合っているか時々検証が必要です。祈りつつ押し出しましょう。

牧師室から No.146

次週の主日に与えられる御言葉の中で、主イエスのもと多くの民衆が集まり「ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ福音書4:23)と記されています。そのまま素直に読むなら、人々は主イエスに病気や患いを癒やしてもらうことが目的で、主イエスのもとに集まったとわかります。でもこの先にある言葉が大事なのです。「大勢の群衆が来てイエスに従った」(マタイ福音書4:25)。もし病気に掛かり病院に行き治療を受けて治ったなら、もう病院には通うことはありません。病気を治してくれた先生に感謝はしますが、支持者になったり信奉者になったり、そんなことにはならないのです。
でも主イエスに病を癒やされた人たちは、そののち、主イエスに従います。弟子として主イエスとの関係が継続するのです。主イエスが人々の病を癒やしたという奇蹟物語について、「眉唾だ」とか「いかさまだ」と批判する方がいます。とはいえ人間には不可能なことも神には可能なので、主イエスが癒しを行われた、と信じる方が自然だと、私は考えます。しかし聖書に記されている奇蹟物語の「肝」はそこではありません。主イエスの行われた奇跡は【天の国の先取り】です。
天国を先に味わうこと、です。彼らは主イエスに従いました。病を負い煩いの中にある者たちは、汚れた者として忌み嫌われ、目を逸らされ、何らかの罪を犯したから神に罰せられたと非難され、共同体から排除されていました。でも病を癒やされたあと、彼らは新しい共同体に招かれるのです。つまり彼らにとって病の癒やしは救いの中間地点であり共同体に引き戻されることが救いの到達点なのです。主イエスの奇蹟は現象ではなく過程です。目を引く表層ではなく隠れた深遠を聴くのです。

牧師室からNo.145 2021/1/3

2021年の始めにあたり祈りを捧げます。全世界の国々の為政者たちが神を覚え、それぞれの国家において愛のわざを実現しますように。国と国とが威力を誇示し合うことによって均衡が保たれるのではなく。国と国、民族と民族がともに神を覚え、愛を以て相手と関わり信頼し、自律をもって協調し、手を差し伸べ合い歩む、本当の平和が実現しますように。戦争、民族紛争、侵略、弾圧によって住処を追われ居所を失った方々の生活に回復が与えられますように。日本の社会にあって広く深く人々の心に神の御言葉が浸透し、その魂を潤しますように。神の光によって孤独の闇が打ち砕かれ、人々が神を介して互いにつながり、互いの言葉を聴き、互いの言葉によって育まれますように。桑名教会がその働きに用いられますように。主の御身体としてのこの世の役割を忠実に全うし、一人でも多くの方を主イエスに繋ぐ業のうちに用いられますよう祈ります。私たち一人一人の日々が神の守りの内にあり、豊かに神からの祝福が与えられますように。コロナ感染症拡大の最中にあって働かれている医療従事者の方々、そのサポートをされている方々を覚えます。健康が守られますように。治療を受けられている方の不安が拭われ、癒やしが与えられますように祈ります。
新しい年に新しい希望を与えられ、これから私たちは新しい日常を歩みます。でもそれは孤独な歩みではありません。私たちには、共に祈り合う神の家族が近くにいて、主イエスが私たち一人ひとりの魂の傍らにいつもいて下さいます。一人で解決できることが私たちの誇りではなく協働できる、同じ神を信じる仲間がいることこそ誇りなのですから。

牧師室からNo.144 2020/12/27

「100%の料金払ったら普通に泊まれるらしい。」というツイートが13万いいねを集めた、という記事を読みました。国のGoToトラベル政策の停止によって旅行のキャンセルが相次いでいるけれど、そもそも旅行が禁止されている訳ではない。温泉旅館の主人がツイッターに投稿した言葉です。彼は当たり前のことを言っているのに、当たり前として受けとめられなくなる。そこに怖さを感じます。日本という社会集団にあって「雰囲気」とか「空気」は個々の行動を支配します。同調圧力とも言われます。国を導くリーダーたちは新聞やテレビの言葉を使って「みんなは右を向いているよ」と発信します。なんとなく右を向かなければならないような雰囲気を世間に作るのです。この戦前戦中からの手法が、最近、顕著化しているように思います。
本来、リーダーたちのするべき事は、国民一人一人が正しく判断するための偏りのない情報を提供すること。その情報を検討し判断できる知性、想像力、共感力を育てる教育を行き渡らせることです。加えて自分の幸福だけではなく隣にいる【誰か】の幸福も熟慮して自己の行動を抑制・促進する。つまり主イエスの教える「愛」を実践する信仰を根付かせる、ならば、社会は成熟します。でもそのためには何百年単位の時間が掛かります。ですから次の世代のことを考えて、環境負荷が低く継続可能な社会インフラを組み立てていく取り組みが必要になるのです。近視眼的な利権を尊重するのではなく、次の世代が安心して学べる環境を構築する。それが一つの国を治めるリーダーの役割であり器量です。次週の御言葉に記されているヘロデ大王は、自己の利益のために次の世代を犠牲にし、道を外れるのです。共に聞きましょう。

牧師室からNo.143 2020/12/20

クリスマスツリーの先端に飾る大きな星には意味があります。これは「ベツレヘムの星」といって、クリスマスの物語に登場する占星術の博士たちが遙か東方から追いかけ、主イエスの寝かされている馬小屋の上にとどまった、あの星です。この占星術の博士について、文語訳と口語訳聖書では「博士」と訳されていたのですけど、新共同訳聖書では「占星術の学者たち」となっています。もっと昔の翻訳では「王」と訳されていた時期もありました。では彼らは何者なのでしょうか。聖書には「マゴス」と記されています。それは魔術師・占い師・占星術師の意味です。身近な表現では、手品を意味するマジックの語幹がこのマギ(magi)というラテン語です。もう少し深く読みますとギリシャ語のマゴスという言葉は、ペルシャの宗教の中で祭司の職に就き天文学ないしは占星術に携わっていた一部族の名前に遡ります。ですから、東方(ペルシャ)出身の天文学者、夢を解き明かす者、占い師がマギと呼ばれていたのです。彼らの人数について福音書には明記されていないのですが、黄金・乳香・没薬を携えていたことから三人と描かれることが多いのです。そして教会の伝承では、それぞれに名前がついています。黄金を捧げたメルキオール、乳香を捧げたバルタザール、没薬を捧げたガスパールです。この三つの捧げ物にもそれぞれ意味があると考えられています。それらは主イエスの生涯を表していて、黄金は王権を、乳香は祭司を、没薬は受難(十字架による死)をそれぞれ暗示しています。そして彼らは主イエスの下に訪れた日が誕生から十三日目とされ、公現日となります。主イエスが異邦人に自らを表した最初の日として祝われるのです。

牧師室からNo.142 2020/12/13

次週、私たちは共に降誕日の礼拝を守ります。例年、礼拝の後に祝会の時が設けられ、暖かい部屋の中で美味しい食事をいただきながら、楽しい催しが企画されます。でも今年は開催を断念することになりました。せっかくのクリスマスのお祝いなのに、と残念に思われるかも知れませんが今年は「一途に御子の誕生を覚える感謝の礼拝」として原点に回帰する思いで共に礼拝を捧げましょう。そもそもクリスマスとは主イエスを拝む礼拝のことです。そして最初のクリスマスは馬小屋の中でもたれた、小さな小さな礼拝でした。
この馬小屋ですが、私たちの思い浮かべる建屋ではなく、郊外の広い洞窟のような場所だったと考えられています。当時、遊牧民や行商人は自分たちの商品であり財産である家畜を連れて、町から町を移動していました。でも彼らが町中に入るとき、家畜を連れていくことはできません。雨風を防ぐことができて、野獣や盗賊に襲われたとしても少人数で守る事のできる場所に家畜たちを集めておいたのです。羊や牛、山羊、馬は勿論、それにラクダもここには預けられていたかもしれません。この沢山の家畜が集められている薄暗い洞窟の中、あまり衛生的とは思えない場所で、主イエスはお生まれになりました。でも、若く貧しい夫婦にとって、この馬小屋は天国のように感じられたと思います。砂漠気候のこの地域では、昼は暑いけれど夜にはかなり冷え込みます。でも洞窟の中は家畜たちの体温と発酵した古い飼い葉の熱によって温度も湿度も快適に保たれていたことでしょう。そして新しい飼い葉はどんなベッドよりも柔らかいのです。神は彼らを祝福し幼子イエスを与え希望の光を彼らの心に灯しました。これが最初のクリスマスなのです。

牧師室からNo.141 2020/12/6

以前、献血をするために常設の献血ルームに行ったときのことです。行ったことのある方はご存じだと思いますが、すぐに血を抜かれるわけではありません。まず医師からの問診を受け、検査のために5ccほど採血されます。その成分や比重が計られ規準を満たしていれば、ようやくベッドに寝かされて腕の血管に太い献血針が刺されるという流れです。その採血検査のとき、私の前に並んでいた若い青年の血が採血管に取られたのですが、明らかに深赤色が白濁しているのです。彼自身も動揺したようで「最近カップラーメンばかり食べてたからかな?」と途惑っていました。私たちの体は食事によって得られる栄養素によって作られています。だからバランスの良い食品を適切な量、摂取するのが理想です。でもつい、嗜好や味覚を満足させるためとか、手間を掛けたくないから、と、インスタントやジャンクフードに手を伸ばしてしまうのです。その結果、体調を崩すことになります。
そして、身体を維持するためは適切な栄養素が必要なように、私たちの心も良い言葉を必要とします。もし自分の嗜好や関心から好きな言葉ばかりを読み聴くなら、思考や語彙が偏ります。偏見、思い込み、独りよがりな発想に心が支配される、つまり心が不健康になるのです。聖書に描かれている洗礼者ヨハネは、最後の預言者と呼ばれる人物です。預言者の働きは世の人の不都合な事実を指摘する事です。彼はヘロデ王の心が神と民衆から逸れて、私利私欲に向かっている事を指摘したことで糾弾され牢に繋がれます。その言葉は苦く口当たりは悪いのですけど、でも人々の心と魂を健康に保つために与えられる神からの栄養素であり薬剤だったのです。

牧師室からNo.140 2020/11/29

クリスマスが近づいています。今年も桑名教会では証し集を編纂し発行します。今年はコロナ禍の中で教会に集まりにくい状況を配慮し、多くの方に一言ずつ言葉をいただく、という企画になりました。私たちは直接、会うことができなくても言葉と祈りで繋がっています。少し寂しいけど、冬を越えて春になればまた会えます。それまでの辛抱です。
投稿していただいた文章ですが、本当に一つ一つの言葉が、美味しく炊き上がったお米のようにキラキラしていて、読んでいて本当に嬉しくなるし、慰めをいただいています。それに、文章にはそれぞれ個性が現れるものだと再認識させられています。センテンスの長さや句読点の打ち方で文章のテンポが作られます。せっかちな人は小刻みになるし、考え込む人は単語を重ねる傾向があります。言い回しやテニオハの使い方からは性格の柔らかさや生真面目さが窺えます。たまに雑文で、とか拙文で、と謙遜される方がおられますが、その特長こそが神が私たち一人一人に与えられた持ち味です。親しい方から頂いた手紙が、内容を読む前にその方の文章だとすぐに分かるように、文章にはその人の表情が映し出されるものですし、内容よりも嬉しく感じられるものなのです。
ヨハネによる福音書は、神の言葉として主イエスがこの世に与えられた、と記しています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ福音書1:1)私たちは直接、神に会うことはできません。でも主イエスという神からの手紙を通して、その存在を知ることができます。また主イエスと人々との関わり、その眼差しを通して神が私たちに与えている愛の深さを感じる事ができるのです。

牧師室からNo.139 2020/11/22

次週から教会の暦はアドベントに入ります。このアドベント(待降節)とはクリスマスの期節に先立つ4週間で準備の時として設けられています。現代のキリスト教会にあって、たぶん最もメジャーな礼拝はクリスマスなのですが、その起源は遅く、紀元三世紀頃だと言われています。復活祭や聖霊降臨祭は教会の始めから覚えられていたにも関わらず、です。そこには理由があります。教会はペンテコステの出来事を通して始められてから三百年は、ずっと過酷な迫害に晒されていました。エルサレム神殿の権威、つまりユダヤ教から異端視され、異邦人伝道が進んでからはローマ帝国の激しい弾圧を受けます。しかし、多くの殉教者を天へと送り出しながらも教会は荒波を乗り越え、ついにローマ帝国の国教(313ミラノ勅令)に定められます。その後、教会に少々余裕が出てきてから主イエスの生涯に対して関心が向きクリスマスが祝われるようになりました。でも信徒たちの当初の関心は、現代のように主イエスの誕生の物語に向いていた訳ではありません。彼らは主イエスの復活、聖霊降臨に続いて、主イエスの再臨を覚える為に誕生の物語を引き合いに出すのです。幼子イエスの命が暗黒の世界に光として与えられたように、この世の暗闇を照らす光として主イエスは再臨される。それがクリスマスの当初の意味です。
このアドベントとは「到来する」という意味の言葉です。「冒険」という意味のアドベンチャーの語源でもあります。つまり「ものすごい経験」「予期せぬ出来事」の予兆がアドベントなのです。私たちはアドベントに【神が肉体を持たれ、世の終わりに再臨する】予測不能の出来事を共に経験していくのです。

牧師室からNo.138 2020/11/15

地球の裏側で起こっている出来事を、まるで自分自身の目で見て、耳で聞いているかのように知ることができる、そんな時代を私たちは生きています。例えばインターネットを通じて、アメリカで行われている大統領選挙がリアルタイムに伝えられています。赤いプラカードと青いプラカードを掲げた人たちが罵声を浴びせ合い、肩から斜めに下げた自動小銃を誇示しながら威嚇しあっている。そんな映像を見ていると、まるで私自身がデモの中で一緒に叫んでいるかのように思えてきます。ヨーロッパではコロナウイルス感染症が再拡大し、ICUのベットに寝かされ人工呼吸器をつけられた患者を、防護服を着込んだ医療スタッフが囲んでいます。その寝かされた患者と同じ視点で、私も病室の簡素な天井を見上げてしまうのです。でも私はそこにいません。そこにいるような気になっているだけ、です。
十誡の第二戒に「あなたはいかなる像も造ってはならない。」と定められています。この言葉を遵守するなら、絵画も写真も映画も禁忌事項です。著しく時代錯誤な戒めのように思えます。でも神は「解っていないのに解ったように振る舞う」私たちの心の在り方を知っていて、こう命じたのだと気づかされます。
世界各国から送られてくる映像(偶像)を見ていると、まるで自分が神の如く地上を見下ろしているかのような感覚を覚えます。「私」の力で過ちを正し、傷つく者を立ち上がらせ、慰め、問題を解決することができるような。でも、それはまやかしです。私たちは手の届く範囲の世界にしか触れる事ができません。でも、だから神は私たちに、手の届く世界に対して忠実に、真摯に敬虔に関わる事を求めておられるのです。

牧師室からNo.137 2020/11/8

少し前に「倍返し」というセリフで有名になったドラマが放映されていました。権力や地位を笠に着て理不尽を強いる敵対者に、誠意と公正さを以て立ち向かう主人公と仲間たち、主人公が何度も危機に追い込まれながらも乗り切り、最後の最後で敵を駆逐する。その勧善懲悪な筋書きに溜飲を下げる「スカッとする」のです。敵という存在は自分を攻撃する者であり、倒れれば喜ばしい相手です。でも主イエスは「敵を愛しなさい」と話されます。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と話すのです。
この御言葉はキリスト教信仰をまだ与えられていない方々にも広く知られています。でも、肯定的に知られているのではなく、嘲笑の対象として覚えられているのです。私も子供の頃、教会に通っていると知った者たちから、「右の頬を…」とからかわれました。つまりこの言葉は、人間愛に満ちた素晴らしく美しい心構え、として知られている訳ではなく、一般には「不可能なこと」「愚かなこと」として覚えられている、のです。嘲笑する者たちはさらに続けます。敵対的な目を向ける者に対して自分の弱みを見せるなら、さらに激しく攻撃を受けることになる。はったりでも良いから自分を強く見せて、相手を怯ませなければ、付け込まれるし食い物にされる。この世は自然淘汰が自然律なのだから、敵は徹底的に叩きのめして、二度と立ち上がる事のできない所まで落とすべき。先に殴ったほうが勝ち、なにが正しいか論理的かではない。そう訴えるのです。私たちも、それが生きている世界の現実のように思えます。では何故主イエスは「敵を愛しなさい」と命じられたのでしょうか。そもそも「愛する」とは何か、次週、共に聞きましょう。

牧師室からNo.136 2020/11/1

次週の礼拝は幼児祝福合同礼拝として守ります。それは一般の七五三に相当する祝福式として覚えられます。教会に集う信徒が皆で、教会に繋がる子どもたちの成長に感謝し、子どもたちの日々に、神さまからの恵みが豊かに与えられるよう祈ります。また式の中で子どもたちは一人一人、牧師から祝福を受けます。
子どもの祝福について、なにか大人から見ると、自分とは関係の無い事柄とも思えるのですが、そうではありません。私たちは、目指すべき信仰の姿勢を子どもの信仰の中に見いだす事ができる、と主イエスは話されています。「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。」(マタイ福音書19:13-15)
主イエスは、子ども時代の信仰が素直で無垢で、素晴らしいから、大人もその信仰に学びなさい、と諭した訳ではありません。母親たちが連れてきて、主イエスが抱き上げた子どもたちは乳幼児だと考えられています(諸説ありますが)。彼らは自分では、なにもできません。空腹を満たす為には、泣いて母親に乳を願うしかないのです。同じように、自分の力ではなく、逆に自分の力の一切を手放して神に願う姿勢に、主イエスは本当の信仰の在り方を見るのです。完成された信仰とは完璧に理論武装された、行いにも非の打ち所のない姿勢の到達する境地(高み)ではありません。成熟した信仰とは、力みの抜けた「心の貧しい」者の信仰なのです。

牧師室からNo.135 2020/10/25

次週の礼拝は召天者記念礼拝として守ります。「召天者」とは、先に神さまの下に帰られた方々のことです。そして「記念」とは「この世に残された私たちが(先に天に召された)その方と神さまとのこの世での歩みを思い起こし(想起し)、心を新たにする」という意味合いとなります。この礼拝の様子を言い表している讃美歌が544番です。「あまつ(天つ)みたみ(み民)も、地にあるものも、父、子、御霊の神を讃えよ、御霊の神を讃えよ。」つまり「天に帰られた方も地上に残る私たちも一緒に神を讃えよう」という意味の歌詞です。天に帰られた方と私たちは、今は住むところを違えています。会うことも、言葉を交わすこともできません。でも一つの礼拝の中で一緒に神さまに心を向ける事ができる。共に礼拝を捧げる私たちは心を一つに重ねることができるのです。そして、私自身が神に召されて天に帰ったとき、私たちは、今度は天で、地上に残されている方々と共に神に礼拝を捧げるのです。
一つ、覚えなければならないことは「全ての者は残らず神の下に帰る」という原則です。「この人は地上での素行が悪かったから天に帰れない」ことはありません。神がそんな選別をされるなら、誰一人として天には帰れないでしょう。では、この世にあって奔放に神を覚えず生きるのが良いのか、というと、それは恥ずかしい生き方です。「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」(ヨハネの手紙Ⅰ2:28)と聖書に書かれています。神の前で恥じ入らない為に、私たちは罪を避け、身を正して誠実に生きるのです。

牧師室からNo.134 2020/10/18

次週の礼拝から教会暦の節が変わります。ペンテコステから始まった聖霊降臨節が終わり降誕前節となります。降誕前節とはその名の通り主イエスの降誕を覚える期間のことです。クリスマスまでの九週間続き、後半の四週間は待降節(アドベント)として覚えます。この降誕前節の期間に礼拝に於いて私たちは「神の創造と救済の意志を学びながら御子降誕を迎える準備を」します。なぜ御子の降誕を覚える為に「神の創造と救済の意志」を学ぶ必要があるのか、というと、ここに、主イエスがこの世に遣わされた理由があるからです。
神はこの世を創造されアダムに命と霊を与えます。しかしアダムは神に背き、食べてはいけないと命じられていた【善悪の知識の木】の果実を食べます。神はアダムとエバに皮の衣を作って着せ、エデンの園から追放します。こうしてアダムは地上を彷徨う者となるのです。私たちがこの世を生きる上で背負う苦しみは、このアダムの罪に起因します。故郷を追放された者の悲しみ、帰る場所のない不安感を常に抱きつつ生きることとなるのです。その欠乏を払拭するために、私たちはこの世のモノで魂を埋めようとします。ある者は名声を求め、ある者は権力を求め、ある者は支配力を求めある者は知識を求め、またある者は財力を求めるのです。しかし埋められる筈もなく苛立ち、互いに奪い争い合います。この歪みからこの世の悲惨が生じます。
その罪を拭うために神はこの世に御子イエスを遣わされます。主イエスは肉体を以てこの世に現れ、自らを犠牲として十字架上に捧げ、神と人との和解の架け橋となられました。その主イエスの誕生を覚える礼拝を私たちはクリスマスとして祝うのです。

牧師室からNo.133 2020/10/11

次週18日の桑名教会の主日礼拝は、金城学院大学学長・宗教総主事として務められている小室尚子牧師を説教者・講師として招きます。主日礼拝に引き続き「子どもの教育とキリスト教」と題して講演をいただきます。毎年行っている秋の特別伝道礼拝ですが、今年はコロナ禍の最中という制約があり、役員会では、そもそも実施するか否か、から議論がなされました。結論として、工夫を凝らした形での開催となりました。礼拝堂では会場の座席の間隔を空け、受付では来場者の手のアルコール消毒、マスクの装着をお願いします。またインターネットを使って同時配信を行います。チラシには配信ページのQRコードを印刷しました。スマートホンのカメラアプリでコードを写すと自動的にYouTubeの桑名教会ページが開き、視聴することができます。もし可能であるなら配信を視聴している方からのチャットの書き込みにも対応し、質問を受け付けることも考えています。せっかく、日本の教育現場の第一線で活躍されている小室先生を招くことができるのに、手放しで多くの人を礼拝堂に招くことができない状況は残念です。とはいえ開催できるだけでも、充分に意味があることだと考えます。
講演の表題から読み取れるように、講演の中心的な対象は子育て中、もしくは子育てをサポートしている方々に向けられています。でも、もっと幅広く全ての方を対象にして「人間として幸いに生きていく為に必要なコトはなにか」という自己の人格形成にとっての根本課題がもう一つの主題となっていますので、どなたでもご参加ください。できるだけ短い時間で凝縮した内容をお届けしたいと願っていますので、お支え、お祈りにお覚えいただければ幸いです。

牧師室からNo.132 2020/10/4

携帯電話に話しかけると即座に答えてくれます。例えば「明日の天気を教えて」と話しかけると、「明日は暑くなるでしょう、最高気温は26度です。」と親しく答え返してくれます。まるで執事が携帯電話の中に控えているようです。でもこの声の主は生きていません。プログラムコードが私の質問の声を認識して文字列に変換し、意味を解析して解答を類推し音声出力された音、それが正体です。人の声のようですが、人の声ではありません。でも私は、あたかも人に話しかけられている様に感じてしまうのです。
人は命の模造品を作ることはできますが、命そのものを作る事はできません。例えば穀物や家畜の交配に手を加えて新しい品種を作ること、つまり既にある生命システムに手を加えることはできますが、何もないところから命を創り出すことはできません。薪に火を灯すことは可能ですが、何もない空間に「火」を生じさせることはできないのです。それができるのは、この世を創造された神だけです。神というと私たちは、何か親しく話しかける事のできる人物のような何か、を思い浮かべますが、神の本質は無から有を生じさせる「存在」(ἐγώ εἰμί)です。私たちは神が存在する、という事しか認識できません。(でも主イエスという言葉と業、聖霊の導きを通して神を御心を知る事ができます。)その神は混沌の中に光を起こし、秩序と法則を組み上げられ、この世界を始められました。
次週与えられる御言葉に描かれているラザロは、主イエスによって完全に死んだ後に生き返ります。無(死)から有(命)が生じた。ユダヤ人たちは、主イエスが奇蹟をどんな手段で行ったか、に関心がある訳ではなく、主イエスがやってしまった事に憤るのです。人間業では為し得てはいけないこと。神の領域を侵す行為だからです。

牧師室からNo.131 2020/9/27

名駅の中央コンコースから桜通口に抜けると、JRゲートタワーのエントランスが広がります。地下6階、地上46階、高さ210mの巨大建造物です。建物の躯体にはCFT構造が取り入れられています。角形の鋼管に超高強度コンクリートを充填した柱を軸に一体型のフレームを組むことによって、しなやかな鉄骨と強固なコンクリートの利点を活かし、欠点を補い合う事ができます。建物の中に入って感じる天井の高さ、空間の広さと明るさは、耐久性を保ちつつも極限まで細く設計された柱と梁によるものです。また同調粘性マスダンパーが横揺れを吸収し、震度7の地震に対しても、計算上は安全性が確保されています。延べ床面積26万㎡、1日42万人が利用する一つの巨大な都市です。
少し離れた所からこの建物を眺める度に、私は、考古学の資料の頁に描かれていたバビロン空中庭園のイラストを思い出します。この空中庭園をモデルにして創世記に記されているバベルの塔の物語が編まれた、という説があります。人々は神に近づこうと力を合わせ塔を積み上げていきます。再び神がノアの時にように洪水を起こしても生き残れるように、彼らは高い山より高く焼きレンガを組み、アスファルトで固めるのです。神の力を克服したい、という欲望は共有され、人々が集まり協力し強い一体感が生じます。高揚感に湧くのです。でも、神はそれを良しとはされません。人々の言葉を乱されます。意思の疎通が途絶え、建設途中の塔は放棄され人々は方々に散っていくのです。【知恵とは神を覚える】ことです。沢山の知識を蓄積し、技術を高め、通信網を拡充しても、魂について無知であるなら無意味です。神を覚えることで、私は私(魂)を知ることになるのです。

牧師室からNo.130 2020/9/20

「欲しいと思った本は、見つけたときに借金してでも買いなさい」と、神学校時代の先輩に教えられました。然り、本は一度手放すと二度と目の前に現れません。10年位経ってから突然古本屋で再会するとか、ネットの検索でヒットする、なんて運命的な再会もあります。でもやはり一目惚れして気分が乗っているときに、すぐに手に取って一気に読むのが、幸いな本との関係だと思います。そして、新しい出会いを求めて本屋を巡る散策の時間は何事にも代え難いものです。最近では本屋も、以前より個性を前面に出す時代になっています。消費者の嗜好の多様化に合わせて、明確に傾向の揃った本を集めて棚に並べる、少し広いスペースを空けて椅子を置き、読む事ができる。なかにはテーブルが置かれコーヒーを飲める店なんかもあります。手に入れたい傾向の本が沢山集められているなら、たとえ人里離れた場所にあっても、足を伸ばす人がいる、集客ある、経営も成り立つのです。
人は自分の興味の対象に心を向けます。求めるモノの為なら他人の目も顧みず、寝食も惜しまず、金に糸目をつけず、手に入れようとします。主イエスは私たちに、その様にあなたの信仰を求めなさい、と話します。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイ福音書13:44)主イエスに天国への道筋を求め続けるなら、必ず答は与えられます。でも主イエスに、それ以外の【何か】を求めようとしているのが、私たちなのかも知れません。主イエスは天の国の所在ではなく、エルサレムの解放を期待したユダヤ人たちの手で十字架に掛けられるのです。

牧師室からNo.129 2020/9/13

むかしむかし、私は教会付属の幼稚園に通っていて、クリスマスの降誕劇で羊の役をすることになりました。母は他の羊役の子供たちと同じように私に白いタイツを買って履かせました。私は、始めて履いたタイツが嬉しかったのか、それとも羊の役が嬉しかったのか、降誕劇の前日のリハーサルの時に、白いタイツを履いたまま礼拝堂の舞台の上を四つん這いで走り廻りました。そしてタイツの膝を汚すだけなら、まだ洗えばリカバーできたのかも知れませんが、事も有ろうに大きな穴を空けて、母に、ものすごい剣幕で叱られました。幼稚園の頃の他の出来事を殆ど覚えていないのですけど、あの鬼の形相だけは深く記憶に刻まれています。
羊はパレスチナで最も頻繁に見られる動物です。ヨブ記の最初にヨブが蓄えていた資産として「羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり」(ヨブ1:3)とあり、羊の数が突出して多い事からも分かります。草食で繁殖力が強く、紀元前七千年頃には既に家畜化されていました。羊の飼育は畑作と並んでありふれた仕事であり、羊飼いに導かれる羊たちの姿は日常の風景でした。旧約聖書では(つまり当時のユダヤの共通理解では)「羊飼い」は王、特に神を表す称号として用いられています。羊飼いは自分の羊を守り、何百頭の群れであっても一匹一匹を名前で呼び、また呼ばれた羊もその声に応えます。迷い出た羊を群れに戻し、野獣が襲ってきたら身を挺して戦います。それが理想の王の姿であり、神と人との理想的な関係とされていました。「牧師」という名称もラテン語のpastor(羊飼い)に由来します。つくづく人間わざでは無理な仕事だなぁ、と痛感するこの頃です。

牧師室からNo.128 2020/9/6

日本を離れて海外の地に降り立つと、得も言われぬ開放感を覚えるのです。それは日本という国の枠組みから外に飛び出すことができた、という感覚でしょうか、束縛から解放されたような「自由」を感じるのです。でも正しくは、日本国発行のパスポートを所持している時点で、海外にいても日本にがっちり縛られています。というか、日本という共同体に守られています。私は以前、インドで盗難に遭い、身ぐるみ剥がされたときに強く感じました。リュックの中身は全て奪われましたが、四十リットルのバックパックは残されていました。その隠しポケットに納めてあったパスポートとトラベラーズチェックのレシートは無事でした。取りあえず無賃乗車で汽車に乗り近くの都市に向かい領事館を訪ね、一週間ばかりお世話になりました。三日くらい何も食べていなかったので、領事館の待合室で出されたカップヌードルを食べたとき、安心して涙が出ました。
私たちは無自覚に様々な共同体に属しています、その風習やら認識、ルールを当たり前の事として受け入れています。一番身近な共同体は家族でしょうか。学校、会社、地域、国家といった幾つもの枠組みの内側にいるのだけど、あまり意識していません。でも一歩、外に出たとき、始めて自分が束縛されていたこと、同時に守られていた事に気づくのです。教会という交わりは私たちを束縛します。ときどき面倒に思えることもあります。でも同時に私たちの魂は教会という関わりの内で守られています。なぜなら教会の交わりは主義主張や利害関係によって集まった組織ではなく、主イエスによって集められた交わりだからです。私たちの魂は、この場所に帰属するのです。

牧師室からNo.127 2020/8/30

以前、小さな地方劇団で舞台照明の手伝いをしたことがあります。台本を読んで演出家のイメージを聞いて、点灯と消灯のタイミングを決めます。次に場面ごとに合わせた光を舞台に置いていきます。単純に光を当てれば良いという訳ではありません。場面の解釈や役者の演技、また演出家の表現したいイメージ、観客の視線がどこに向くかを想定して、光の範囲や強さ柔らかさや堅さ、角度、配色を決めます。ここから後は予算と技量です。まず光源のレンズをフレネルにするか凸レンスにするか、それともパーカンにするか。何ワットを何本、どの位置から光を落とすか。光の筋を見せるか隠すか、入念にプランを組みます。そしてリハーサルの前日、灯体を舞台に仕込みます。でも舞台照明の面白さは、ここから始まります。リハーサル中、ひたすら演者のセリフの間合いを覚えます。言葉の語尾が短い人、長い人、切るように話す人、ふわっと落とす人、それぞれによって調光機のスライドボリュームを落とす早さが変わるからです。光が「すっ」と消えるか「すぅー」と消えるかによって、セリフの聞こえ方や印象が変わります、灯体のフィラメントが白黄色から橙色に移り、淡く虚ろに消えていく、とても微妙な光の塩梅ですが、それを捉える事ができる程に人の感覚は鋭敏なのです。
私たちは光の中にあるとき、ことさら光を感じません。でも、闇の中にあるなら、微妙な光にも鋭敏になります。そしてどんな小さな光であっても、光そのものの存在が私たちの心を支え、希望となります。主イエスは「わたしは世の光である。」と話されます。私たちは戸惑い、迷い、混乱し行く道を失います。でも神は私たちに主イエスという光を与えて下さるのです。

牧師室からNo.126 2020/8/23

先日、常滑に行き、日常使いのマグカップを買いました。やきもの散歩道は夏休みの時期なのに人数はまばらです。狭い路地をすれ違う人も、みんなマスクを着けていて息苦しそうです。でも、つかの間の外出を楽しんでいる様子でした。
なぜ、わざわざ常滑まで行き、マグカップを買う理由は何だろうと自問します。奥様に連れられて、という側面も大きいのですが、やはり常滑のギャラリーで手に馴染むカップを見つけると、少々値が張っても(程度問題ですが)自分から手に入れたいと思うのです。いつも私が購入する日常品は九割方ユニクロだったり無印良品だったり、店頭に並んでいる量産品です。安いし使い易いし丈夫だからです。逆に一点物は値段が高いし、若干引っかかるような触感があるし、乱暴に扱うとすぐに欠けてしまいます。でも引きつけられる魅力があります。一つは、お店ごと、作家さんごと、作品ごとに、一つとして同じものがないこと。さらに決定的な理由は、日頃、忘れがちな、作家の作品に対する思いが伝わってくる感覚を取り戻させてくれるから、なのだと思います。唯一の作品の背後に広がる、創作されていく過程、物語に、想像力を掻き立てられるのです。
次週、与えられます御言葉は「姦淫の女」の物語です。一人の罪を犯した女性が主イエスの前につれて来られます。群衆は彼女を律法に照らして、石で打ち殺そうとします。でも主イエスは彼らに「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と話します。すると彼らは一人、また一人とその場を立ち去っていくのです。主イエスの言葉によって、彼らは罪を裁く者から罪の当事者に変えられるのです。

牧師室からNo.125 2020/8/16

以前は豊富な情報に精通し記憶している人が「頭が良い」と評価されていた様に思います。沢山の言葉を暗記し記録・分類できること。それは社会組織に於いて得難い能力でした。例えば資料を見なくても過去の議事録や範例を直ぐに引用できる。過去に行った手法を提示する事ができる。英語やドイツ語、フランス語といった多言語に通じていれば、国内の情報だけでなく他国の情報、例えば政治情勢や経済指標を知ることができたのです。でも最近ではインターネットが普及し、誰でもが安易に情報を手に入れられる時代になりました。どんな国の言葉でも自動的に逐次翻訳してくれます。加えて著作権や特許権、広告収入など、情報そのものが売買されています。本屋の棚に並べられている大量の書籍が週替わりで入れ替えられるように、情報は世の中に溢れ、氾濫しています。
このような現代あって求められている能力は情報リテラシー(読解記述力)だと言われています。つまり情報のゴミ箱の中から必要な紙片を濾し別ける能力。それが事実か虚偽か正しい情報か見定める能力です。情報そのものよりも、情報を使いこなす力が必要とされているのです。そのために私たちは考えるためのモノサシを持たなければなりません。誰から何と言われても惑わされず「考える為の規準」を持つ必要があるのです。
次週の御言葉の場面に描かれるニコデモは他の議員たちに、まず自分で見て考えることを勧めます。律法の言葉を杓子定規にひけらかすのではなく、神が何を求められているのかを聞く耳を持つように、と勧めるのです。誰が何を言っているかではなく、何が自分にとって大切なのか。何より神が何を求められているのか、なのです。

牧師室からNo.124 2020/8/9

梅雨が明けました。天日でカラッと渇かした洗濯物の肌触りは、やはり気持ちの良いモノです。でも今年の夏は、心持ち生活習慣を自制する必要に迫られています。コロナウイルス感染症の予防のためです。私たちは三月から始まった第一波を経験し症状の傾向を知りました。これまでの人類の出会った事のないタイプのウィルスであり、ほとんどの人が体内に免疫抗体を持っていないこと。罹患してからの発病率は低いけれど重症化すると厄介であること、をです。でも日本に於いては、世界各国に比べてかなり恵まれた状況にあります。私たちは玄関で靴を脱いで家に入るので、生活空間を清潔に保つ事ができます。清潔な水を豊富に使って手を洗えますし、帰宅して直ぐにシャワーを浴びることもできます。何より衣服を頻繁に洗濯できます。天日に干せば太陽光に含まれる紫外線でウィルスは不活性化します。医療体制も整っています。食料も充分に市場に供給されています。とは言え気を引き締めて、この嵐の通りすぎる事を、心静かに穏やかに待ちましょう。このような災厄の時、すべからく世には誹謗中傷、差別、偏見、利益誘導、扇動の言葉が飛び交います。惑わされず神から与えられた知恵と礼節をもって、祈りつつ応じましょう。「焦らず呑気に確実に、です。
教会では主日礼拝の式次第を若干変更して時間を短縮します。礼拝堂に入るときには、受付のアルコールを使って手の消毒をして下さい。アルコール過敏症の方は洗面所での手洗いをお願いいたします。体調が優れない時はインターネット礼拝中継を活用し自宅で礼拝をお守り下さい。なにかありましたら、牧師が完全防備をして訪問しますので、気兼ねなく連絡ください。

牧師室からNo.123 2020/8/2

旧新約聖書の物語の中にパンは何度も描かれています。でも、このパンは、私たちの思い描くふっくらとした柔らかいパンではありません。聖書に描かれているパンは基本的にパン種(イースト菌)を入れず発酵させないで焼いた種なしパンです。まず全粒粉に水を加え耳朶程度の堅さに捏ねて生地を作ります。それを15センチ程度に広げて円形の鉄板で焼きます。ある程度火が通ったところで鉄板から剥がして直火で熱を加えます、すると真ん中から膨らみます。なぜユダヤ人は種なしパンを尊重したのか、逆に、イースト菌で膨らましたパンを嫌ったか、というと、全粒粉の生地をイースト菌で膨らませる行程は穀物を腐らせることと同じ、と考えたからです。腐らせる、つまり不浄だとして嫌ったのです。あともう一つ、イスラエルの民がエジプトを出るとき用意したパンは種なしパンです。エジプトで一般的に食べられていたイースト菌を使ったふっくらとした美味しいパンとの訣別はエジプトでの食習慣との訣別であり、エジプトの文化、日常との訣別を意味するのです。(現実的な解釈では、荒野を移動する遊牧民族のユダヤ人にとって種なしパンは保存が効き携帯することもでき有利です。対して農耕民族で移動する必要のないエジプト人は発酵に時間を掛けることができ、美味しい柔らかいパンを食べていたのです。)
主イエスは御自分の事を「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」(ヨハネ6:51)と話します。そして、目の前に置かれているパンを取り祈りながら裂き、弟子たちに分け与えられます。このパンが種なしパンだと分かると、その平べったいパンを裂く主イエスの細かい手の動きが見えてきます。

牧師室からNo.122 2020/7/26

パウロがテント造りという技能を持っていた事は、良く知られています。彼はコリントに滞在している間、アキラとプリスキラ夫婦の家に住み込み、共にテント作りをしていた、と聖書に記されています(使徒18:3)。でもパウロは、祭司になるべく生まれ故郷のアジア州タルソスから、ユダヤ教のラビ(宗教指導者であり学者)になるべくエルサレムに留学した、いわば若い頃から回心するまで一貫して学者肌の人物です。そのどちらがパウロの本来の職業なのかというと、そのどちらもパウロの職業なのです。古くからユダヤ人は子供の頃から、親から引き継ぐ仕事の他に、生計を立てるための技量を一つ教え込まれていた、と知られています。たとえ住んでいる国を追われ財産を没収されても、行き着いた土地で直ぐに生計を立てる必要があったからです。また財産を携帯できるダイヤモンドや金にする、という事も彼らの知恵です。また知識や学問も他人に奪われる事のない財産として有益です。つまりパウロにとってラビは仕事で、テント張りは生業なのです。昨今、仕事と生業の線引きが曖昧になっている様に思います。自分の好きな仕事が生業になると簡単に考えてしまうのです。でも本来、食い扶持を稼ぐとは額に汗して、泥にまみれることです。楽園を追放されたアダムに神は「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。(創世記3:19)と話すのです。
さて次週の御言葉で主イエスは群衆に「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ福音書6:27)と勧めます。私たちには、パンを得る為に必要な生業(なりわい)と、自分自身の命をこの世にあって有意義に用いるための仕事が必要です。そして私たちが神と共に働く仕事の報酬は永遠の命なのです。

牧師室からNo.121 2020/7/19

実際に距離や時間が同じであっても、行きよりも帰りの方が短かったと感じる現象を「帰宅効果」とか「RTEリターン・トリップ・エフェクト」と呼ぶのだそうです。直感的には、“行きの道を一度経験しているから帰りの道は短く感じる”、つまり“慣れ”によるものだと考えがちです。でも、そうではないらしいのです。科学者が実験した結果では、行きと違うルートで帰っても、帰りの方が短く感じるのだそうです。ではなぜ、私たちは帰り道の方が短いと感じるのでしょうか。それは、行きは多くの事を頭の中で考えているから、帰りは考えないから、なのだそうです。私たちは目的に向かうとき様々な事を考えます。例えば「約束の時間に間に合うか」とか「忘れ物はないか」とか「そもそもこの道順で良いのか」とか、「家の鍵は閉めてきたか」とか、そして心配し不安を覚えるのです。となると心がストレスを感じて、時間が普段より長く感じられることとなる。逆に帰り道は何もストレスが掛かりません、だから短く感じるのです。
次週、与えられた御言葉の場面で、弟子たちは危機的な状況に置かれます。彼らはゲネサレト湖の沖に舟を出すのですが、そこで突然の強い風と波に襲われ、必死に舟にしがみつきます。とても時間が長く感じられたと、そう思います。そこに主イエスが水の上を進んで近づいてこられるのです。弟子たちは自分たちの置かれている状況を忘れて、必死になって主イエスを舟に乗せようとします。でもそうしている間に、いつのまにか舟は目的地に着いているのです。私たちも心の内に主イエスを覚え、招こうと願うなら、いつまにか目的地にたどり着くこととなるのです。

牧師室からNo.120 2020/7/12

このところ「ロックダウン」という言葉を頻繁に聞きます。でも国によって対応に違いがある事に驚かされます。アメリカのように束縛が緩い国もあれば中国やベトナム、インドのように厳しく規制する国があります。またスウェーデンのように全く閉鎖しない国もあります。国家が国民を支配する、という意識を持っているか否か、その強弱が顕在化した様にも思えます。ロックダウンを強制する、という事は、国民の自律や自由意思を尊重しない、という事です。でも国民は、強制された方が自分で何も考えなくても良いので、楽だったりします。つまり、自分で判断も責任も取らなくてよいのです。逆に自発的な国民の意思に任せるという姿勢は、個人の尊厳を尊重している様ですが、しかし、事前に時間とお金を掛けて個人が正しく正確に判断するための教育が施されていなければならず、そうでなければ無責任で理想主義的な主張に墜ちます。正確な判断に必要な正しい情報も、平等に広く共有されていなければなりません。旧約聖書に記された律法は強制的です。まだ人々が幼かったので、規則が必要だったのです。でも新約に記された福音は自由意思です。自分で自分と神との関係に於いて何が正しいのかを考え聴き、自分が何処に帰属するのかを自分で決断するのです。
次週、第三週の礼拝の主題は「死から命へ」(ヨハネ5:24)です。主イエスは御自分を信じ、御自分をこの世に遣わした父なる神を信じるものは「死から命に移される」と話されます。拘束され、みじろぐ事もできない死から、縄を解かれ自由にされる、神はそのために私たちを教育される、必要な御言葉を与えられます。私たちが自律するために神は私たちと関わられるのです。

牧師室からNo.119 2020/7/5

この主日から、私、辻秀治が正式に桑名教会の牧会に復職します。本当にご迷惑をお掛けいたしました。加えて、これまで覚えてお祈りいただき心から感謝いたします。なにより神が回復を与えて下さったこと、感謝です。これからは、あまり気張らずボチボチと、でも丁寧に桑名教会に仕える所存です。引き続きお祈りでお支えいただければ幸いです。病気を与えられること、について、それは誰にとっても突然の出来事です。突然、日常が中断されます。自分一人で行っていたことが行えなくなり、誰かの手を借りなければ何も前に進まなくなります。肉体的な落ち込みもさることながら、ポキッと心が折れます。自分の何が悪かったのか、と自問自答を繰り返し、他者に迷惑を掛けたこと、これから掛けること、について自責の念に駆られます。それだけではなく、神に向けて不平をこぼし、近くにいる誰かの些細な言葉や仕草に苛立つのです。でも徐々に、傲慢で横暴な自我が鉄槌のようなモノで砕かれ粉々にされ、跡形もなくなります。そもそも「自分で自分を支えている」という日常の方が異常だったのだと気づかされ始めると、楽になります。誰かに助けを借りても良い、支えてくれる人が近くいる【いた】ことに気づかされるのです。そうなると、肉体の痛みや不快感、煩わしさも不思議と薄れてきます。何より眠れるようになります。眠れるようになれば回復します。私たちの肉体と魂は一つなのです。
次週、与えられます御言葉には「一人の父親」の姿が描かれています。彼の息子が重い病に犯された時、彼の日常は中断します。そして彼は父として、愛する我が子のために主イエスの下に向かいます。それは彼にとって大きな決断を伴う行動でした。でも主イエスは彼の思いを受けとめられるのです。

牧師室からNo.118 2020/6/28

確か、まだ私が小学生だった頃のことです。私は雑誌に載っていた数字パズルを一生懸命に解いていました。数字がずらっと並んでいて一定の法則に従って計算していく、といったものです。でも、なかなか先に進みません。その時、近くにいた兄が肩越しにパズルを眺めて「馬鹿だなぁ、最初の数字から問題を解こうとするから時間が掛かるんだよ、後ろから解くの」と、瞬く間に答を導き出しました。「私たちの脳は左から右への動きを好む傾向がある」と言われます。そう言われてみればテレビゲームのスーパーマリオは左から右に動きます。ピアノの鍵盤も左から右に流れます。数式や文章も左から右に読み進めます。私たちは左側が過去、正面が現在、そして右側に未来を置く傾向があるそうです。そして一般に人は過去と現在から未来を推測するものですが、兄が見せた手法は逆でした。想定した未来から現在と過去を推測したのです。旧約聖書に描かれている預言者と呼ばれる人々も、未来から現在を眺める、という思考をします。「予言」は現在から未来を予想することですが、「預言」は未来から現在を眺めることです。もしかするとアラビア語もヘブライ語もアラム語も書字方向は右から左です。なにか関連があるのかもしれません。
さて来週の御言葉は「シカルの井戸」と呼ばれる箇所です。主イエスは一人のサマリアの婦人と出会います。この出会いから主イエスは、御自分の十字架に架かられる日が近いことを悟るのです。主イエスも預言者と同じように、未来に起こる自らの十字架の出来事から現在を眺めて話しをされます。そう考えると腑に落ちる主イエスの言葉が、聖書には多く残されています。

牧師室からNo.117 2020/6/14

多くの人は「教会」と聞くと、先端に十字架が掲げられた高い鐘楼を持つ建物、を思い浮かべるようです。例えばドイツのケルン大聖堂やニューヨークのリバーサイド・チャーチのような典型的な教会建築様式の礼拝堂の外観です。では教会とは建築物を指す言葉なのか、というと、そうではありません。主イエスはペトロに話します。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ福音書16:18 )主イエスから委託を受けたペトロは第一代目のローマ教皇となりキリスト教は始まります。この時、主イエスの話された「教会」という言葉はエクレシア(ekklesia)で、その意味は「民の集会」「共同体」です。つまり「教会」とは目に見える建物を指す言葉ではなく、目に見えない人と人の繋がり、結びつきを指し示す言葉なのです。
だから例えば建物がなくても、心根を同じくした人が集まり主イエスに心を向けて礼拝を捧げるなら、普通の家の一室でも、ビルの事務所でも、公園の広場でも、そこに教会が生じます。教会とは恒常的な固い物質ではなく、やわらかい有機的な現象であり、様式や組織はその教会が植えられた土地の風土や環境に合わせて、柔軟に変化します。正しくは、私たちには聖書の御言葉という基準(Kanon)が与えられているので、この軸がブレなければ外周は多少変化しても良いのです。
そして教会はこの世にあって、復活された主イエスの肉体としての役割を果たします。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(ロマ書12:05)主イエスが何をされたのか、を聖書・聖霊に聴き教会は実行するのです。

牧師室からNo.115 2020/6/7

少し時事ネタになります。このコロナ禍の中、様々なメディアが大阪府吉村知事の言葉が取り上げています。その中で耳の残っているのは「政治家は使い捨てで良い」という発言です。政治や経済のリーダーたちが自己保身、自己顕示、利益誘導、党同伐異に終始している時勢に対して、自己犠牲的な潔さという、まったく逆の価値観を彼は投げかけるのです。
洗礼者ヨハネも同じような言葉を残しています。彼は遠目に歩く主イエスを見て、自分の弟子たちに「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と話します。当時の世界にあって、洗礼者ヨハネは多くの人々から絶大な信望や名誉を受けていました。預言者としてユダヤ人社会だけではなく、地中海社会の端々にまで広く名前を知られていたのです。しかし彼は自分の役割を、次へ継ぐための橋渡しに過ぎないと自認しています。「自分は使い捨てで良い」と考えているのです。
「生きている」とは新陳代謝を繰り返すことです。人体の細胞は定期的に新しいモノに刷新され、役割を終えた細胞は分解され体外に捨てられます。自然環境系にしても社会組織にしても同様です。生きているシステムでは新陳代謝が繰り返され、使い終えられた部分は捨てられます。では使い捨てられた部分は無価値で無意味なのか、というと、そうではありません。それらは時を跨いで全体の基調としての役割を担います。古い切り株から新しい木の芽が生えるように、クジラの屍が周りに多様な魚たちが集まり新しい生態系が形成されるように、使い捨てられた部分は、次の世代が成長する場としての新しい役割として用いられるのです。神は何ものも、ひと刻も無駄にはされません。すべてを生かされます。

牧師室からNo.114 2020/5/31

書斎の机の上の小物入れの中に、随分昔から小さなチャック付きのビニール袋が取り残されています。郵便切手が入るくらいの小さい袋の中に、黄色いポストイットが入っていて「2002からしだね」と書かれています。1ミリにも満たない黒いツブツブが十数粒、底の方に溜まっています。机を整理する度に袋を指でつまんで、「捨ててしまおうか」と考えます。でも「からしだね」という言葉に負けて断念するのです。では本当に、この黒いツブツブが、「からしだね」なのか、というと、実は記憶が曖昧です。CSのお話しで使った記憶はあります。もしかしたらベコニアの種か、バジルの種だったかもしれません。曖昧です。調べる方法が一つあります。土に植えて水を掛けじっと待つ。それだけです。もし緑色の芽が出てくれば、屑ではなく種だった、ということです。育てて花が咲けば、何の種だったか分かります。
私たちが「生きている」モノの本質を見抜く手段は、時間を掛けて付き合って、その関係性の中に結実した結果を確かめることしかありません。お互いの得手不得手を噛み合わせる時間的な余裕が必要なのです。
さてある時、使徒のフィリポは主イエスに「主よ、わたしたちに御父(へと向かう道)をお示しください。」と願います。この問いかけに主イエスは「私が道です」と答えます。フィリポは、この言葉の意味を理解できません。でも彼は逸れず離れず、主イエスの後を従い続けます。理解できない言葉、納得できない態度を背負ったまま、それでも主イエスを信じ続けるのです。早急に答を求めるのではなく、信じて関わりの中に自分の身を置くこと、一見、非効率に見えますが、その関係性の中に真理が明らかになります。

牧師室からNo.113 2020/5/24

次週五月三十一日の主日は「教会の誕生日」として覚えられている聖霊降臨日、ペンテコステです。イエス様は復活された後、四十日にわたって弟子たちに現れ、天に帰られます(今年の暦ではイースターが4/12、昇天日が5/21)それから十日の後(5/31)、弟子たち一人ひとりに聖霊が下ります。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:1-4)この日を境に、弟子たちはユダヤ以外の国々に散らされ、主イエスが話した福音の言葉を全世界に伝える働き、伝道へと向かいます。そして、私たちが今。集っている桑名教会も、彼ら使徒たちの伝道の延長線上に建てられました。さらに、この伝道は、世界のすべての人に福音(良い知らせGoodNews)を伝え切る時まで、今も、これからも続きます。
この聖霊について聖書は、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」と話します。聖霊というと私たちは、なにか正体の掴めない朧のような存在を思い浮かべるのですが、そうではなく、聖霊は私たちと関わる一人の人格的な存在です。
そして聖霊は私たちにとって、援助者・弁護者・助け手です。例えば、私たちたちが聖書を読むとき、聖霊は私たちの耳元で囁き、言葉の背後にある御心を明らかにしてくれます。私たちが倒れたときには手を差し伸べてくださり、道に迷ったときには、遠くに輝く光として、行く道を示してくださるのです。

牧師室からNo.112 2020/5/17

伊豆諸島に御蔵島という小さな島があります。人口は三百人程、根付きのイルカが住み深い原生林に覆われている、自然の豊かな島です。この島には一つの特徴があります。それは豊富な水源に恵まれている、という事です。私はコンクリートの品質試験指導でこの島に滞在したのですが、島の至る所にパイプが出ていて、澄んだ水が湧き出していました。驚きました。一般に孤島という環境では、水は貴重な資源です。その頃、私の住んでいた三宅島では高価な水道水もカルキが強く白濁していました。生活用水は天水桶に溜められた水を使っていました。でも、この島では大量に水が湧き出しています。地面は潤い、緑の樹木の根株から生命力が湧き上がっているように感じられました。岩を覆う苔もビロードのように滑らかで、瑞々しく透きとおっていました。「命の源としての水」の存在を実感させられる出来事でした。
聖書の描くパレスチナの地でも、水は貴重な資源でした。年間の降水量は六百ミリ程、エルサレムから南の地方は殆ど岩と砂に覆われた砂漠です。炎天下を歩くとすぐに汗が蒸発し舌が喉に張り付きます。動物たちは水無川を掘り、檉柳の木陰で休みます。乾燥した風が砂を運び、薄く地表を覆います。そんな、あたかも人間の命を拒絶しているかのような地で、預言者たちは、「渇く」という言葉を度々使います。この「渇く」という言葉は、単に「喉が渇く」という意味ではなく、命の源が枯渇し、砂の塵に戻っていく、そのような心象を表す言葉です。
イエスさまは人々に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と話されます。私たちもイエスさまの御許に集うなら命の水を与えられるのです。

牧師室からNo.111 2020/5/10

先月の中頃から、桑名教会では主日礼拝のインターネット中継を始めました。昨今のコロナ禍の対応から「礼拝堂に集まらない礼拝」の施策の一つとして実施しているものです。当初、比較的容易に配信を始められるだろうと考えていました。桑名教会には光回線が引かれているし、配信するための機材もあります。でも手をつけてみると試行錯誤の連続でした。映像は滑らかなで明瞭、音声は切れがあってノイズが少なく、音圧があった方が聞きやくなります。でも品質を上げれば上げるほど、機材に負担が掛かりフリーズしやすくなります。データ量も増えて通信回線が不安定になります。つまり許容範囲内で最良という、落としどころを見極めていく「手作業」が必要となったのです。幸いなことに安心して視聴できる程度にまでは調整できました。でも、ここに至って、あらためて納得させられました。やはり礼拝は会堂に集って、目と目を会わせながら、間接的ではなく直接的な交わりの中で献げるものだ、ということです。一日も早くコロナ禍が過ぎ去るよう、祈ります。
さて、次週十七日の礼拝についてです。主イエスは「もはや譬えによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」と話します。この「はっきり」とは「公然と」「確信を以て」という言葉です。使徒たちは主イエスの復活の後、聖霊を受け「目を懲らさなければ見えず、そばだてなければ聞こえない」のではなく「まるで目の前にその姿を仰ぐ」ように神の存在を捉え、確信をもって公然と、すべての人に福音を伝え始めます。私たちも、主イエスを覚え深く祈りに落ちる時、聖霊を介して神との直接的な交わりが与えられます。そこに平和が在ります。

牧師室からNo.110 2020/5/3

辻秀治です。今週からまた「牧師室から」に文章を載せさせて頂きます。牧会への正式な復職は七月からになるのですが、ストレッチをする様に少しずつ、牧師としての仕事を再開していきます。よろしくお願いいたします。
思えば、昨年の四月に膠原病を患い休職し、ほぼ一年が過ぎました。入院した当初、私は楽観的でした。入院も数週間程度で収まるだろうと考えていました。でも、ゆっくりと病状は悪化し始めました。ベッドから立ち上がることが難しくなり、虚ろに病室の天井を眺める日々が始まりました。大量の投薬の影響で筋肉が落ち、皮膚がミイラの様にカサカサに渇き、髪がバサバサと抜けます。シャワーを浴びるために裸になり、鏡に映った自分を見たとき、そのシルエットがまるで餓鬼のようで、恐ろしくなりました。もし御心ならば回復が与えられるだろう、筋肉も脂肪もまた付くだろう、今は祈りつつ心を静かに待とう、深く心に刻みます。でも常に激しい焦燥感に襲われ続けました。
そんな時に、私の心を支えてくれたのは、いつか教会に戻る、という望みと、多くの人が祈ってくれている、という励ましの言葉でした。
退院したあと、少しずつリハビリを重ねました。今では体力も戻り、血液検査の数値も、概ね元に戻りました。髪の毛も生え替わりました(笑)。神さまはもう少し私に福音伝道を手伝わせて下さるようです。教会員の皆さま、役員会、地区教区の教職の方々には、多大な迷惑を掛けました。感謝します。次週からはこれまで通り、次の主日の説教箇所の予告を載せます。お読みいただければ幸いです。

牧師室からNo.61 2019/5/26

私が高校性の頃、しばしばラジオでFEN (Far East Network)を聞いていましたAMモノラル810KHz、いまだに周波数を覚えています。このラジオ局は駐留米軍によって運用され、その名の通り、極東放送と呼ばれていました。アメリカの最新のポップス、ロック、カントリーソングが流され、陽気なDJの会話を(英語で早口なので、殆ど何を話しているのか分からなかったのですが)「世界にはこんなに楽しそうな国があるんだ」とドキドキしながら聞いていました。そして何より放送局の名前です。「極東放送」つまりアメリカから見ると「日本は世界の東の果ての国、世界の果てだと」気づかされました。
では世界の中心は何処にあるのか、というと、こんな言葉があります。「エルサレムを歩く事は、世界を歩くことに等しい」
エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教、三教あわせておよそ三十五億人の信者が「聖地」と讃えていて、城壁で囲まれた旧市街は三教の祈りの場、住居となっています。
このエルサレムから主イエスの伝道は始まり、使徒たちは此処から送り出されて、全世界に御言葉を伝えました。そしてエルサレムから見て地球の反対側、地の果て、日本にも御言葉は伝えられ、今、私たちは信仰者として立てられています。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ福音書28:19)と主イエスは命じられます。この日本に二千年かけてたどり着いた主イエスの御言葉を、私たちはこの日本で、どの様に生かすのか、どうやって社会の隅々まで行き渡らせるのか。そして終着地点だからこそ、逆に送られてきた波を、此処から送り返す。その役割が与えられています。この日本から全世界に向かって伝道を始める、のです。

牧師室からNo.60 2019/5/19

日雇いの工事現場には「ケガと弁当は自分持ち」という言葉があります。現場は常に危険と隣り合わせです。以前、私が港で砂利の運搬をしている時に、荷船の係留ロープが切れて、吹っ飛んで来たことがあります。直撃だったら即死です。また高所作業している時に足場板のフックが錆びていて外れたこともありました。現場に出たら常に緊張していること。危険を予期し慎重でいること。不必要な場所には踏み入れない。頭上に注意する。装備工具の点検・管理は常にしておく。鉄則です。
でも、そういう危険な現場だからこそ、生まれてくるのは仲間との連帯感です。おじさん同士ですからドライなものですが、一度同じ現場を経験すると、次からはお互いに相手の安全に気遣ったり、アイコンタクトを取ったり、現場状況の情報を交換し合う様になります。お互いに命懸け(まで行かなくても怪我はしたくない)なので、助け合って作業にあたるのです。
次週、私たちに与えられました御言葉に描かれている百人隊長の置かれていた現実は、もっと過酷なものです。彼らはローマ兵です。戦争という現場で兵士たちは力を合わせて敵と戦います。一人の兵がしくじったり手を抜くなら、また、誰かが隊長の命令に不信を抱いたり刃向かうなら、仲間全員の命が危険にさらされます。統括する百人隊長も自分の命令が兵士たちの命の明暗を分けます。彼の決定は、その瞬間、瞬間が命懸けです。そして隊長は兵士、一人ひとりを自分の家族として愛します。「『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。」(ルカ7:8)という言葉の背景には、隊長の命令に兵士が強制的に従っているのではなく、絶対的な信頼感から、主体的に従っている、という関係性があるのです。

牧師室からNo.59 2019/5/12

いつも「牧師室から」では次週の礼拝説教の予告を載せているのですが、今日は辻牧師の現状について報告させて頂きます。まず、教会員、役員の方々には多大な御心配をおかけしました。いつもお祈りに覚えていただきましたこと、支えていただきましたこと感謝いたします。闘病中、祈りに支えられました。
良いお知らせです。5月17日(金)に退院する事となりました。順調に回復すれば26日(日)は礼拝説教奉仕、聖礼典を行います。ただ今後、通院し四ヶ月程、投薬治療が続くので完全復帰とはなりません。水曜会、祈祷会等の定期集会は、もう少々休みをいただきます。
辻牧師が罹患している病気はEGPA(好酸球性多発血管炎肉芽腫症)と呼ばれる膠原病です。とても珍しい病気なので発症メカニズムはまだ解明されていません。でも治療法は確立しています。大量のステロイド薬を投薬して血管炎を抑え込んでから、少しずつ減薬していく(少しずつ身体を騙していく)のです。でも急激に投薬量を下げるとショック症状が起こること、ホルモンバランスが崩れなるなどの強い副作用が現れます。寛解まで三ヶ月、再発防止まで考えると1年程治療は続きます。
現在、体力・気力共に元気が余っているのですが、免疫力が弱っていて病院の外には出られない、軟禁状況が続いています。
ステロイドの副作用で、免疫力が下がり、筋肉量が減り、骨が弱くなっています。他、糖尿病になり易くなったり、顔が丸くなる可能性もあります(笑)。ただし、ステロイドが減薬されれば副作用は改善されます。
あと一つお願いがあります。まだ免疫力が弱いので、辻牧師と直接、話す時は2㍍程度離れてマスクを着用してください。教会の入口に消毒液を置きますので、お使いください。ご協力頂ければ幸いです。

牧師室からNo.58 2019/5/5

私が神学校に入った年の夏の事です。私は夏休みを利用して、長野県の山間の村の小さなお寺を訪ねました。以前、そのお寺の住職と親しくさせて頂いていた縁があり「草刈りと建物の修理を手伝えば寝床と食事は出すよ」という条件で、十日ほど滞在させて頂きました。本格的な作業は来週から村の人たちを集めて始める、ということだったので、それまでの何日か、私は夏のパリッとした風の通る本堂で、持ってきた、古本屋で買ったばかりのバルトと格闘して過ごしました。(見事に負けましたけど…)。そして週が代わり、朝早くから村の男たちが、それぞれ使い慣れた大工道具を携え集まり始めます。住職の指示で本堂や渡り廊下の修繕箇所を直し始ました。それは村では何世代も続けている作業なので、みんな手慣れたものです。十時頃になると庫裡の台所に村の婦人方が集まり、ご飯を炊き始めます。彼女たちは楽しそうにお喋りしながら、筑前煮や卵焼き、唐揚げ、が次々と皿に盛られ、おにぎりが握られていきます。昼になり、男たちは作業の手を止め、集まって昼飯が始まります。一つの作業を共有し、同じ釜の飯をいただく。このおにぎりの温かさ、おいしさ。多摩の団地生まれの私は、はじめて触れた地域共同体の交わりを羨ましく感じました。
でも、此処にある交わりは横に一本の交わりです。なぜなら仏教は人の生き方を説くものであり、「神」という概念を持たないからです。私たちの教会には、横の交わりに加えて縦の交わりが与えられています。つまり肉体と魂の両方を満たす交わりです。さらに聖徒の交わり、つまり歴史の奥行きが加えられ、この世を包括する交わりが形成されます。キリスト教信仰は民族や地域、時代を越えて世の全ての人を一つとします。

牧師室からNo.57 2019/4/28

先週、私たちは共にイースターの礼拝を捧げました。神は愛する独り子、主イエスを十字架上で犠牲として捧げられ、罪の虜であった私たちは、贖いだされました。そして私たちは復活された主イエスの御手によって立ち上がらせられ、天の国に招かれる者とされた、のです。この時、私たちは救われました。
さて、この説教の中で私は主イエスが復活された時、肉体を以て現れたことについて、主イエスが弟子達に直接「神が約束されていた神と人との和解の成就」を伝えるため、と話しました。手と手で触れあい、目と目で相手を確認し合う相手との人格的な関係性の上に交わされた言葉でなければ意味を持たないから、と。なので主イエスはその目的を達成された後、天に昇られました。モーセやエリヤと同じく肉体は消失しました。
今日は主イエスが肉体を持たれた、別の意味について話します。それは弟子達と共に食事を頂くことです。でも只の食事ではありません。主イエスは一つのパンを手に取り祈りを捧げ、分けて配ります。そして共に食べる。同じ匂いを嗅ぎ、触感を感じ、味わう。その感覚を通して全ての者は一つにされます。
「同じ釜の飯をたべる」という言葉があります。土木工事の現場では食事は唯一の楽しみです。みんなで食べます。でもこの食事は栄養の摂取という目的以外の意味があります。みんなで一つの作業を分担・協力して成し遂げたあと、汗を拭きながら集まり、一つの釜から飯を取り一つの鍋から汁を掬う。一つのテーブルを囲んで一緒に食事をする、一つの達成感を共にする。この時に強い連帯感と信頼感が生まれます。危険な現場にあって事故なく作業を進めるための知恵がここにあります。

牧師室からNo.56 2019/4/21

「写真家の仕事は加える事ではなく削る事だ」と、写真雑誌のコラムで読んだ覚えがあります。撮りたい被写体の持つ様々な要素を削っていき、最後の最後に残った部分に焦点を合わせてフィルムに落とす。例えば写真家ロバート・キャパの有名な「D-day」という作品があります。白黒でピントは曖昧、ぶれていて一見すると何が写っているか解りません。でも、じっと見ていると、ライフルを握った兵士の瞳が見えてきます。表情の機微を見ることはできないのですが、自分の命が瀬戸際に置かれている不安、苛立ち、死への恐怖が見えてくるのです。
私たちに与えられた信仰は、私たちに目の前で展開している物事の何処に焦点を合わせれば良いのか、を教えてくれます。
主イエスが十字架にかけられ後、過越祭が終わり、エルサレムに滞在していた多くの人々はそれぞれの家路につきます。その流れの中を、トボトボと力なく進む二人の信仰者がいます。彼らは主イエスがエルサレムで民衆に熱狂的に迎えられる時、その場にいました。主イエスが人々に語り掛ける言葉には力があり、真理があり愛が満ちていました。でも事態は急転します。彼らの目の前で主イエスは十字架に掛けられるのです。彼らはエマオへと続く道を歩きながら、起こった出来事について話し合います。そこに一人の男の人が近づいて来て、何の事を話しているのか、と尋ねます。「あなたはエルサレムにいて、あの騒ぎの事を知らないのですか」彼らの一人クレオパは驚き、でも、その男に丁寧に主イエスがどんな方であったのか、何を話され、何を為されたのか、十字架に架かった経緯を説明し始めるのです。そして彼は自ら伝えた言葉の内に真理を悟ります。

牧師室からNo.55 2019/4/14

小学校の校庭で友だちと遊んでいたときの事です。私たちはどこからか細やかに聞こえる子猫の鳴き声に気づきました。その声は途切れなく続いているのですが、姿を見つけることができません。草陰にも排水溝の中にもいません。その時、友だちの一人が木の上で脅えて丸まっている黒い子猫を見つけました。職員室に行って事情を話すと、すぐに用務員さんが長い脚立を持ってきて木に登りはじめます。彼は子猫に手を差し出しました。しかし子猫は抵抗するのです。その手を引っ掻き齧り付き、ついに捕らえられ木から下ろされました。腕の中の子猫は安堵するのではなく、激しく用務員さんの手を振りほどき、跳ねるように地面に着地し、そのまま全力で逃げて行きました。
この出来事はイースターの意味を示唆的に表しています。
神が創造したアダムとエバは神に離反し園を追放されます。故郷に帰る道を閉ざされた彼らは望郷の思いを抱きつつ、この世で生きることになります。そして彼らの子孫もいつか天に帰る事を望みつつ、この世を歩むのです。しかし神との断絶は続いているので死の後も天に帰ることはできず、いつかメシアが現れ神との和解が成立する時まで、陰府に寝かされ続けます。
そしてついにメシアが現れます。メシアは自らを犠牲となり、十字架に架かり、死に陰府に下ります。肉体を持ったまま陰府には下れないからです。そして陰府に暗黒の陰府を光で照らし寝かされている全ての者たちは天に送ります。そのあと肉体を以てこの世に現れます。今生きている者たちに直接、神との和解を伝えるためです。最後に天に上げられます。これから生きる者たちを天に迎えるためです。復活は天への道の復旧です。

牧師室からNo.54 2019/4/7

この「牧師室から」も一年間書き続けることができ、今回で一巡りしました。たった六百字されど六百字。この文字数のコラムでどうやって信仰のエッセンスを薫らせるか、次週の主日礼拝説教に少しでも興味を持ってもらえるかガイドになるか。なにより多様な御言葉について新しい視点と発見を与えられるか、を考えて書いてきました。少しでもお目汚しになっていたなら、幸いです。
さて、そんな大切な「牧師室から」を「病室から」書いています。今まで病名が確定できてなかったので、教会員の皆さまに報告することが出来ませんでしたが、私の病名が確定しました。好酸球性多発血管炎性肉芽腫症(EGPA)で指定難病です。難病と言っても原因が解明されていないから難病で、治療方法は確立していますし、新薬も開発されていますし伝染もしません。ご安心下さい。簡単に言うと血液の免疫機能障害です。
イエス様は「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。」(マタイ12:26)と話されましたが、それが私の身体の中で起こっている、という事です。敵が特定できたので、少々時間は掛かりますが後は治療するだけです。お祈り感謝です。

牧師室からNo.53 2019/3/24

伊豆諸島の八丈島には直径三十㎝ほどの饅頭のような玉石を積み上げた玉石垣という石垣があります。数十mに渡って整然と苔むした玉石が並べられている情景は感慨深いものがあります。この島は昔から定期的に台風が上陸する地域で、暴風雨から住居を守る為に家の周りを頑丈な玉石垣で巡らし椿や椎の常緑広葉樹を植えて防風林としてきました。この玉石は横間が浦という海岸から運ばれたもので、島に流された流人たちが玉石一つを運ぶと握り飯一つをもらえる、流人が島に馴染むまでの公共事業としての役割があった、と言われています。
この玉石垣は特殊な六方積みという手法で作られています。一つの石の周りに均等に六つの同じサイズの石を組むことによって支点に掛かる荷重を均等に分散させ頑丈に石が組み上げられます。でも切石を組んで石垣を積むときには、全く逆の発想になります。まず隅の親石を据えて、その親石に縦面と横面に組み上げられる切石の全ての荷重を集中させるように組み上げていくのです。するとアーチ構造のように石と石とが自重で他の石に食い込み強固な構造体となります。隅の親石は全ての荷重を支える支点であり起点です。神の救いも主イエスを隅の親石として、此処を起点として組み上げられます。

牧師室からNo.52 2017/3/24

私が子供の頃住んでいた東京多摩地区の日野市にはまだ大きな雑木林が幾つもあり、学校から帰った後の遊び場になっていました。夏には蝉を捕り秋にはドングリを拾い、小川ではザリガニを釣り仲間と建設現場やゴミの集積所から集めてきた廃材を使って秘密基地を作る、そんな普通の小学生の生活を送っていました。でも、未だに強く思い出すのはある日の秋の夕方の出来事です。その雑木林の奥に小さな祠がありました。いつもきれいに掃き清められていて、榊も紙垂も時々清酒も備えられていたので、今にして思えば、誰かが定期的に世話をしていたのだろうと思えます。その場所は仲間内でも何か神聖な場所として捉えられていて、近づかない、汚さない、悪戯しないという不文律が出来ていました。そんなある日、もう日が沈みかけてきて、家に帰ろうとなりました。私はみんなと別れて一人帰り道、その祠の前を通りました。その時、風が吹きました。「サラサラ」と鳴っていた葉擦れの音が突然「ザザザー、ザザザー」と大きく響き、その音が、沢山の人が会話する声に聞こえました。何を話しているのか、その声は解りませんが、でも確かに何人もの人が会話する声を、私は聴きました。未だにあの音は何だったのかと、時々思うのです。
人は音を聞いて、その音が雑音か音声かを識別し、音声であるならその内容を形態素解析し、個々の単語や文節を自分の経験や知識、感覚を使って理解します。加えて同じ経験を長い時間共有している者同士の方が、使う単語のニュアンスを多く共有しているので、会話による相互理解度が高くなります。
さてタボル山でペトロは深い霧の中からどんな声を聴いたのでしょうか。彼の信仰は何を見、何を聴いたのでしょうか

牧師室からNo.51 2019/3/17

古典物理学ですが、ニュートンの運動法則の三番目に「作用・反作用の法則」があります。例えばロケットは燃焼室に液体水素と液体酸素を送り込み反応させ三千度もの燃焼ガスを作り地面に噴射し、その反動を推進力にして宇宙に飛び出します。「後ろに何かを捨てないと、前には進めない」という、なにか少し格好の良いセリフとしても使える物理法則です。
でも私たちは捨てられません。捨てられたら楽なのに、と思いつつも、多くのモノを背負って生きています。社会的な責任とか立場とか、血縁とか仕事とか、資産とか習慣とか風習とか。受け継いだもの、努力と忍耐を重ねて今まで積み上げてきたもの。また簡単に手放してしまったなら、周辺に多大な迷惑を掛ける事となります。傷つく人や悲しむ人を作ってしまうのです。
ですから信仰も、何処か中途半端な感覚に留まってしまうのです。この世の思い煩いに心を揺らされて、祈りに集中する事が出来ない。右足に教会を履いて左足にはこの世を履いているようなアンバランスな感覚を受けている。いっそ人里離れた修道院にでも入って、世俗との関わりを一切遮断して生きることができるなら、もっと信仰深く熱心にイエスさまの後を従うことが出来るのだけど、と思いつつ現実に埋没していくのです。
ではイエスさまは弟子達に、全てを断ち切ってから自分に従いなさい、と話したのでしょうか。イエスさまは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と弟子達に話されます。病気が治ったら従います、とか、聖書が完全に分かったら従います、とか、信仰に自信がついたら…ではありません。柵をも蟠りをも引きずったまま「そのままで従いなさい」と話されているのです。

牧師室からNo.50 2019/3/10

引越をするとき、本棚とかテーブルを一度バラして木板状にしてまとめ、運び、また現地で組み立てるという作業をする事があります。この時、木ねじやボルトなどの金具を無くさない方法は、その金具を元々刺さっていた穴に戻して借り止めしておくことです。そうすれば金具が無くなる事も無いし、どのネジで何処を締めれば良いのか分からなく為る事もありません。空いたネジ穴をそのまま空けておくのではなく、詰めておけば、別の何かに占有されることはないのです。
さて、次主日に与えられます御言葉には悪霊を追い出されるイエスさまの姿が描かれています。多くの群衆はその姿を見て驚嘆しその業が神から与えられた良い業であるとして受け入れます。しかしその一方でイエスさまを悪霊の頭であると断言する者たちも表れます。悪霊の力で悪霊を追い出している、と彼らはイエスさまを非難するのです。でも、どんな権威と業でその人の心が清められたのか、イエスさまにとって、どちらでも良い事なのです。その後のことが大事だからです。
私たちは「自分の中心には自分がいる」と考えます。自律し主張し判断する、それが自分だと考えるのです。でも自分の思い描いている「自分」という存在は、とても曖昧なのです。他者との関係性や時代の主義主張、思想、環境によって簡単に着色されてしまいます。そうして、自分が誰なのか分からなくなり、この世に振り回されるのです。しまいには、この世に心を奪われて神を仰げなくなる。イエスさまは清められた心を空白のままに空けておくのではなく、そこに聖霊が住まわれる様に祈り求めなさいと話されます。そうすれば、この世の様々な価値観から解放され自由にされる、と話すのです。

牧師室からNo.49  2019/3/3

以前、ある婦人の家を訪ねたときの事です。「では帰りますね」と私はお祈りをしました。その祈りに続けて彼女が祈り始めました。その祈りは教会員そして求道者、全員の名前を挙げた祈りでした。暗唱であることからそれが毎日の祈りだと分かりました。私は「教会はこの祈りに支えられていた」と思わされました。2018年の桑名礼拝を共に守られた方、教会に繋がっている方々の名前です。一人ひとりを覚えてお祈り下さい。
新井陽子、池田洋子、石川雅己、石川淳子、石丸万理子、伊藤研司、伊藤隆之、伊東千代子、伊藤真理子、伊藤いづみ、井上したふ、今村佳代子、宇佐美佐代子、大森恵、大森啓、岡智子、岡島伸明、岡本志ゆう子、小澤悦子、掛樋裕理、加藤明子、加藤陽子、加藤勲、角田由美子、兼古節子、神鳥蓉子、北岡美佐子、北岡美智子、北川瑠夏、國枝洋子、倉地喜美子、小粥トミエ、後藤豊、坂井真佐子、坂本重勝、坂本千尋、佐々木牧夫、佐々木尚子、佐脇朋子、清水桃子、清水博、瀬尾緑、相馬弘徳、祖父江江美子、祖父江洋子、塩津基樹、高井淳一、寺尾雅子、富谷千里、内藤明子、中村浩、中村友理、西澤久美子、西裕、西村善久、沼育子、野澤正史、野澤万喜子、長谷川清、長谷川ミヨ子、平野照子、平屋敷恒子、二川敏子、三浦小浪、水谷カヲル、水谷富子、宮島コウ、宮林まゆみ、南吉衞、村田美奈子、望月悦子、望月和昶、森信子、森勅子、安田義人、安田香織、矢田喜代子、山本一雄、山本めぐみ、脇山陽子、渡邊信子、和波春子、近藤雅一、鈴木勇人、鈴木安菜、伊藤たま子、伊藤由美子、岡田なるみ、熊谷望祈、李鍾徳、鈴木孝二、小寺甫明、清水直人、清水容子、武村理雪、箕田和江、橋本文子、邑田百子、成島弘一郎、安政動、安宥毎、大村徹、石原潤、石原郁子、川崎住代、辻久子、平石昌子、康路加、李春、李敏子、劉湘雲、鈴木和子、石原愼、赤塚妙子、水谷真理、後藤共子、日紫喜勇、日紫喜求、渡辺克寛、渡辺実香、日紫喜望、山本収、山本久代、加納眞理子、岡田昌也、岡田知也、岡田芳郎、後藤恵、浜田与志子、伊藤由美子、伊藤菊裡子、石原瞭、武田徹、太田一郎、土井えみ子、武田洋子、安藤哲雄、安藤ゆり、伊那均志、今村洋一、伊藤ひかり、坂井セバスチャン、坂井なお子、遠藤栄子、遠藤幹子、中村将也、山岡亜希、花村光、伊藤綾俊、山岡浩司、山岡聖恵、赤尾恵。 (計153名)

牧師室からNo.48 2019/2/24

先日、教会の前をスケートボードに乗って通り過ぎていく中学生(たぶん)がいました。彼はバックパックを背負い耳にはヘットホンを掛け、スマートホンの画面をフリックしながら、目の前を右から左へスーと平行移動して行ったのです。私は「よくバランスを崩さないな」と感心して眺めていました。その時、ふと「私でも乗れるかな」という考えが浮びました。でも瞬時に、その思いは「無理」という言葉に打ち消されました。
でもなぜ私はすぐに「無理」と考えたのでしょうか。もし本当にスケートボートに乗りたいのなら、十分に時間を掛けて準備をすればどうにかなる、かもしれなかったのです。トレーニングを重ねれば一年後か二年後には乗れるようになっていた、かもしれません。それどころか天才的な能力が開花してスケートボードに選手として2020年のオリンピック競技に出場する事になっていた、かもしれなかったのです。でも私は始める前に「無理」と考え、すべての可能性を放棄しました。
五千人の空腹を覚えている群衆を前にして、イエス様は弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と話されます。弟子たちはどう考えたのか。弟子たちの頭には瞬時に「無理」という言葉が浮かんだのだと思います。「先生、私たちは沢山の食べ物を持っていません、こんなに多くの者たちの空腹を満たす事など不可能です。」ではイエス様は、何故こんな無茶な事を弟子たちに命じられたのでしょうか。それは弟子たちに「人にできない事でも神にはできる」と、教えるためです。「私」が何をどれだけ持っているか、ではなく「神が望まれるなら為されないことはない」のです。否定からではなく肯定から考え始めること。失敗してもやり直せば良いのです

牧師室からNo.47 2019/2/17

屋根は建物の野外と室内を隔てる重要な部分です。でも単に雨風を防ぎ日射を避けられれば良いというわけではなく室内空間を快適な環境に保つ工夫が必要です。以前、トタン張り屋根の部屋で生活したことがあります。この部屋では雨が降ると会話ができない程うるさく音が響きました。さらに日中になると日射で屋根が暖まり夜になっても室内はオーブン状態でした。もう一つ、台風が上陸したとき、生きた心地がしませんでした。トタンが風に煽られてバタバタギシギシと踊るからです。
日本の多彩な自然環境にあって木造家屋の屋根は高度に進化してきました。大量の雨が降り季節が代わり、定期的に地震や台風に襲われる為です。でも聖書に描かれているパレスチナの地域は砂漠気候なので、そこまで屋根に対して神経質になる必要はありません。降雨が少なく台風もなく、昼間の激しい日射を避けられれば十分だからです。ですから一般庶民の住宅は四隅に日干し煉瓦や石を積み囲み、屋根は渡した板の上に棕櫚の葉を被せるだけの簡素な様式だっただろうと考えられています。また礼拝施設や公共施設など人が集まる広い部屋でも、せいぜい板張り屋根や瓦張り屋根が用いられる程度でした。
さて次週の御言葉の場面です。数人の男たちが一人の中風を患っている人を主イエスの前に運ぶために、部屋の屋根に上り、屋根に張ってある瓦をはがし始めた、と書かれています。彼らは屋根に大きな穴を開けます。それは家の中も外も主イエスを一目見ようと押し寄せて来た群衆に埋め尽くされていて近づけなかったためです。彼らは非常識な手段を取ります。でも主イエスはそれを良しとされました。誰になんと言われようとも、思われようとも、彼らは一番大事な事を優先したからです。

牧師室からNo.46 2019/2/10

建物を建てるとき、まず最初に行われるのは敷地の測量です。地面の傾斜や勾配、境界線を計り測量図に落としこみます。そうして建築図面が書かれ建築作業工程表が組まれて施工が始まります。その最初の作業は整地です。基礎を打つ前に重機を使って地面を1.5m程度掘り返し、全体の土壌を混ぜた後に振動ローラーを使って押し戻し、土壌の土性を均一にします。そうしないと、折角ベタ基礎を打っても不同沈下が生じ建物が傾いてしまうからです。さらに軟弱な地盤や傾斜地、マンションなどの高層建築を建てる場合はコンクリートパイル(髙強度PC杭)を地面に打ち込む杭基礎工事が加えられます。上物を建てた後には隠れてしまう基礎ですが、適切に作られていなければ、どんなに堅牢な建築物が組まれても脆い物になるのです。
私たちの信仰も同様です。その基礎が堅牢でなければ、どんなに尊い働きをしたとしても、この世の評価や賞賛の重みが加えられるほどに傾いてしまうのです。信仰が捻れ歪むのです。
では信仰の基礎とはなにか、というと、信仰が自分自身の魂に深く根を張っている、ということです。でもそれは難しい事ではありません。毎日少しでも聖書を読むこと。いつも祈る事、自分にとって都合の良いこと、悪いこと全てに感謝の祈りを捧げる事です。聖書にはこう書かれています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(1テモテ5:18)さらには愛を以てトナリビトに声をかける事。自分の凝り固まった考えを相手に押し付けるのではなく、相手の言葉にならない声に耳を傾けること。私たちは主に習い、見えない所こそ丁寧に関わっていくのです。

牧師室からNo.45 2019/2/3

私たちが集中を継続できる時間は個人差はありますが、ほぼ九十分だと言われています。ですから九十分間活動して休憩をとって、また作業を再開するというサイクルが一番効率の良い働き方なのだそうです。
「休む」という事について、どちらかと言うと私たちは否定的な印象を持っています。怠けているとか、サボっているとか、その様な印象です。でも私たちの脳は、自覚的に何かを考えている時も、ボーとしている時(アイドリング状態)も、同じように活発に働いています。逆にボーとしている時に、無意識下で自律的にそれまで取り込んだ情報を整理したり分類したりという作業をしているのだそうです。「私が何かを考えていない時に、私は何かを考えている。」という、少々分かり難い複雑な事を、私たちは毎日当たり前の様に行っているのです。
さて、休むということについて。聖書は安息日について厳格な規定を定めています。「あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作の時にも、収穫の時にも、仕事をやめねばならない。」(出エジプト34:21)。また家畜も安息日には休ませなければならないと、聖書には定められています。何故、安息日が定められているのか、というと、それは神が天地創造に於いて七日目に休まれたからです。神は七日目に休息され、その日を聖別し祝福されました。ですから私たちも日曜日は、この世の働きの手を止めて、神に属する者として神から聖別され祝福を受ける、つまり礼拝を捧げるのです。礼拝という休息に於いて私たちは自らの内に神を招き委ねるのです。そうすれば私に内にあって働かれます。私たちの負っているこの世の課題も聖霊に拠って整理され分類されるのです。

牧師室からNo.44 2019/1/27

最近のワイン売り場には、多種多様なワインが並べられています。そして、それぞれに趣向を凝らしたラベルが貼られています。そのデザインを見ているだけでも十分に楽しめるのですが、さらに面白いのは産地の多様性です。以前はフランスのボルドーとかドイツのモーゼル、いわゆるヨーロッパ圏のワインが一般的でした。でも最近はカリフォルニア、オーストラリア、チリ、アルゼンチン、南アフリカ、日本といったワイン後進国から出荷されたワインが安く流通し始めています。でも安いからと侮るなかれチリ産の赤フルボディはとても美味しいです。
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」とイエス様は話されます。何故、新しい葡萄酒は新しい革袋に入れなければならないのか、というと、新しい葡萄酒はまだ葡萄の糖分がアルコール発酵し切ってないので活発に炭酸ガスを発生させます。なので密閉した革袋は新しいものでないと強度が得られず革袋は破けます。当然、中に入っている葡萄酒は地面にこぼれ落ち、駄目になってしまうのです。では新しい革袋なら強度があって万全かというと、そうでありません。新しい革袋にはまだ強い革の匂いが残っています。中に入れた葡萄酒にも匂いが移ります。ですから瓶で時間を掛けて良い具合に寝かせた後の発酵を終えた葡萄酒は古い革袋に入れるのです。そうすることによって、葡萄酒の良い香りは保たれるからです。
ルカ福音書5章33節以下には主イエスの伝道の初めの出来事が記されています。人々は主イエスの言葉を新しい教えだと受け取りますが、そうでは無いのです。イエス様は形骸化したユダヤ教の礼拝を改新されるのではなく、本来の意味を回復されたのです。残すべき物は残し変えるべき物は変える、です。

牧師室からNo.43 2019/1/20

インドのアウランガーバードから北西へ二十㎞ほど行った所にエローラ石窟寺院群という遺跡があります。五世紀から十世紀の間に作られた、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の複合寺院群で三十四の石窟によって構成されています。この第十六窟にカイラサナータ寺院があります。この巨大な寺院は石を積み上げて作られたものではなく、当時の石工がノミやタガネを槌で叩き1枚の岩をくり抜いて、つまり彫り物として作られた寺院です。その入り口に掲げられた看板には、「この建物は百年、三世代の石工によって完成された」と記されていました。私がこの寺院を前にして感じたのは、時の重みでした。一人の子どもが毎日、父親の仕事場、まだ掘り始められたばかりの一枚岩に弁当を届けます。やがて、この子どもも父の隣でノミを打ち始めます。カンカンと甲高くも重い音が心地よく響く現場に彼は毎日通い働き、そのうちに妻を迎え、彼にも子どもが与えられます。そうして、その子どもも父の仕事場であるこの石窟に弁当を届けます。最初にノミを打ち込んだ石工の孫が老齢になり仕事を終えた時に、この寺院は完成したのです。
私たちは目に見えて手に取る事ができる物、量を数値化できる事柄を信頼し価値を見いだします。つまり目の前の巨大な石窟寺院をみて驚嘆するのです。でも私たちが本当に目を留めるべきは背後にある物語なのだと、そう思わされました。主イエスは二枚のレプトン銅貨を捧げた寡婦を見て、この女性が最も多く捧げた、と弟子たちに話されました。目に見えて計ることの出来る価値ではなく、目に見えない本当の価値を見るセンスを、私たちは信仰によって与えられるのです。

牧師室からNo.42 2019/1/13

親心子知らず、子の心親知らず。という諺があります。近しい相手との親密な関係性が築かれると、かえって互いの心を計り難くなる、という意味です。何故そんな事になるのか、というと、関係が緊密であるが故に、相手と自分の心理境界線が曖昧になり、相手を自分と同一の存在だと誤解してしまうからです。となると相手も自分と同じ意見、同じ趣向、同じ価値観で行動していると思い込む事となる。でも人はそれぞれが独立した一己の存在です。同じではありません。個々人が相互理解を進めるためには会話を交わすとか、共に活動するというプロセスが必要です。でも親しさと思い込み、相手に対する甘えがそのプロセスを阻害してしまうのです。結果、自分と相手の間に大きな意見の相違が生じたとしても補正が利かなくなってしまいます。故に問題が起きた時には手遅れになっているのです。
そもそも神はこの世を創るときに「人々」を創造されたのではなく「アダム」を創造されたと聖書には書かれています。神は一人ひとりを独立した存在として創造されました。意見も違い価値観も違って当然、私たちはバラバラで良いのです。でも、それを踏まえて神は私たちに一致する手段を託されました。それが「愛」です(所有や従属、強制ではなく)。人と人は同一の考えを持つことが前提ではなく意見を交わし合い最も良い解決を模索するのです。その根底に愛と信頼を置くのです。

牧師室からNo.41 2019/1/6

主の年(AnnoDomini) 2019年が始まりました。私たちは共に、主の招きを受けた者たちとして堅実に礼拝を守り、主の働かれる伝道の歩みに用いられてまいりましょう。
さて沢山の物の中から求めているモノを見つける作業は結構、面倒です。年末の片付けをしていて、金具を締めるボルトが一本必要になりました。そこでまとめてあったボルトの中から、径とピッチと長さがちょうど良いモノを探したのです。でもなかなか見つかりません。ホームセンターに行こうかと諦めかけた時に、工具箱の底に落ちていたボルトがちょうど合うものだったので、事なきを得ました。必要ないと脇に寄せられたモノでも、別の状況ではそれがなければ成り立たなくなる、そんな事態は度々あります。全て存在や出来事には意味があるのです。
次聖日に与えられる御言葉に描かれているシモン・ペトロはゲネサレト湖の漁師です。当時の一般的な習慣では親の職業を子が継ぐ事になっていたので、ペトロの父も漁師であり、彼自身も子どもの頃から湖に出て仕事を手伝っていたと考えられます。不安定な舟の上から重い投網を投げる作業を繰り返すその腕や足腰は太く引き締まり、顔は真っ黒に日焼けしていたことでしょう。そのペトロに主イエスは従うように、と声を掛け、後には伝道者としての働きを託します。聖書に描かれるペトロは学識もなく話術も稚拙、社交性も乏しい人物です。人を教え導く役割は不適任に思えるのです。でもペトロじゃなければダメだったのです。伝道は相手を折伏する働きではなく自分の心が見た事実をそのままに伝える働きです。素直で正直なペトロは神に用いられ、彼を土台にして後に教会が建つのです。

牧師室からNo.40 2018/12/30

もうすぐ2018年が終わり2019年が始まります。でも物理的には一年の切り替わる瞬間に、何か大きなイベントが起こるわけではなく日常は淡々と継続します。時の歯車は遅延・前倒なく規則的に神の創られた自然律に従って刻まれます。とはいえ精神的には、私たちにとって年始は気持ちを切り替える好機です。ですから「書き初め」に新年の抱負を記したり、おせち料理に願いを託したり、新年に希望を馳せるのです。
ちなみに教会の暦に於いて一月一日は「イエスの命名日」となります。律法には「産まれた男児は八日目に割礼を受けなければならない」と定められています。ヨセフとマリアは赤子を抱えて祭司の所に行きます。そこで割礼が施され名前が付けられます。(ルカ2:21)新生児の死亡率が高かった時代にあって、この日から主イエスは人として数えられるのです。
時の転機について、聖書の出来事に於ける最も大きな転機は、やはり洗礼者ヨハネによる主イエスへの洗礼です。何故ならこの出来事を通して神はこの世との関わり方を変えられたからです。それまで神は預言者の口を通して御自分の思いをこの世に示しました。でも主イエスの伝道を始められて以降は直接この世と関わり触れられました。神はこの世を御自分の下に導くご計画を、私たちの成長に合わせて段階的に進められているように感じます。まだ柔らかい物しか食べられない者には柔らかい物を与え、固い物でも大丈夫となれば固い物を用意されるのです。神は私たちを成長させます。成長は変化です。時に変化は心と体を疲弊させますが、留まっていては勿体ないのです。

牧師室からNo.39 2018/12/23

現在、エジプトからイスラエルへ陸路で抜ける経路は一つしかありません。それはアカバ湾に面した国境の町、ターバを通ってイスラエルのエイラトに上る道です。私も今まで幾つかの国境越えを経験していますが、この国境にある出入国管理施設の右と左の差異には驚かされました。エジプト側はのんびりしていて、古いライフルを肩から掛けた軍人が笑い掛けてくるような雰囲気でしたが、イスラエル側に入ると途端に最新式の自動小銃を身体の正面に斜めがけした軍人が、引き金に指を掛けた状態で睨み付けてきました。これは中々に萎縮します。
もともとエジプト・イスラエル間には地中海側にもう一つの国境がありました。それはガザを経てイスラエルに入る経路です。産まれたばかりの主イエスを連れてエジプトに下ったヨセフとマリアは地中海沿いのルート、ガザ経由でエジプトに逃れたと考えられています。でも現在は紛争地域なので通行不能です。さらに主イエスを拝みに来た東方の占星術師たちも現在では主イエスにまみえることは不可能です。シリアからは、トルコ経由もレバノン経由も国境が閉鎖されているからです。
宇宙から見た地球には線は引かれていません。でも地図上には何本もの線が縦横無尽に引かれています。海の上にも線が引かれ空中にも線が引かれています。為政者たちは「あなたの資産を守る為に線を引いている」と主張します。でも本当にそうなのでしょうか。身分や経済の格差が生じている社会では、その格差を維持し既得権益を守るために、国粋主義が台頭し線引きされる線が濃く太くなる傾向があります。そして現在も同様の状況になりつつあります。平和を共に祈りましょう。

牧師室からNo.38 2018/12/16

キャッチャーのミット目がけてボールを投げるとき、どうすればコントロールが付くのか。小学校の頃、草野球のコーチにコツを教えてもらいました。それはボールが手を離れる瞬間に腕の力を抜く、という事でした。投球のモーションのあいだ、ずっと身体に力を入れているのではなく動きに緩急をつける。軸足を定めた後、反対の足を浮かしたときにまず力を抜き、そこから身体を前傾に倒しつつ、一気に腕を振り上げ、身体をねじりながら腕の筋肉に力を加えつつ振り下ろす。しかし指からボールが離れる半秒前に腕の力を抜く。するとボールは綺麗にミットの中に収まるのです。最初から最後まで力業で押し通すのではなく惰性に身を任せる事も大事。弛緩も必要。この姿勢は何事にも当てはまると思います。次週与えられる御言葉に描かれるマリアは主イエスの母として、おそらく世界で一番有名で尊敬されている女性です。でも彼女は自分から主体的に行動して世界を変えたとか、努力して未知なる物質や法則を発見したとか、そんな功績をなにも持っていません。逆に田舎の娘マリアを聖母マリアとして崇高の域まで押し上げている要因は、彼女が否定せず侮らず、天使の告知をただ素直に受け入れた事に依ります。マリアは神の言葉を受け入れるのです。ではマリアのその後の人生は安泰だったのかというと、そうではありません。過酷そのものです。世間の批判を振り切るように許婚のヨセフと共にベツレヘムに上り、その後命を狙われエジプトに逃れ、数年後にナザレに帰ってきて後にその息子イエスは十字架に掛けられ亡骸を受け取る事となるのです。しかし主はいつもマリアと共におられるのです。

牧師室からNo.37 2018/12/9

演劇を手伝っていたことがあります。演劇というと水物代表の様な仕事ですが、職業として演劇に携わっている人たちはみな強い意思と高い技術を持った堅実な方々ばかりでした。特に意外だったのは、派手ではなく地味な仕事だという事です。加えて待ち時間が長い。集団芸術ですからそれぞれが勝手に動いてはうまく進みません。演出、制作、役者、舞台、照明、音響、大道具、それぞれの分隊が歩調を合わせて演出家が差し示す方向に進んでいく。でも集中力を切らすことなく(途中で飽きてしまう事なく)各自がオリジナルの作風・流儀を作品に加味していきます。通常、演出家が製作や役者に声を掛ける所から始まり、そこから一年程の準備期間を経て公演に辿り着くこととなります。でも組み立てた芝居も本番は二時間ほどです。その二時間の為に何十人が一年以上を労するのです。
主イエスがこの地上にあって生きた時間は三十年ほどですが公生涯を過ごされた期間は最後の三年ほどです。でもたぶん正しく神の子として人々に認識されたのは十字架上で息を引き取るその瞬間だけでした(マルコ福音書15:39)。この一瞬が地上に現されるために費やされた準備の期間は如何ほどだったのか、神の為される事は私たちの想像を遙かに超えます。

牧師室からNo.36 2018/12/2

旧約聖書・新約聖書の「約」という字は「約束」を意味します。つまり聖書とは神と人との約束を記した書物という事です。その約束はとてもシンプルです。神はアブラハムとモーセに現れ話します。「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。」(出エジプト6:7)この約束を覚える為にユダヤ教の礼拝では犠牲が捧げられます。祭司は神殿に捧げられた初子の雄牛を真っ二つに裂き左右に置きます。人々はその間を通って神殿に進みます。こうして「もし私が神との契約を破ることがあれば、この雄牛の様に真っ二つに裂かれても構わない」という意思表明をするのです。この初子の雄牛は自分の身代わり、自分の命と同等の価値となります。
しかしユダヤの民は何度も何度も神との約束を反故にします。彼らは神ではなく王の民となり偶像を礼拝するのです。その度に神は預言者を介して人々に働きかけますが、人々は目を覆い耳を塞ぎます。そこで神は最後の手段(決定打)として主イエスをこの世に送られます。罪なき完全な犠牲の捧げ物として主イエスは十字架に架かり真っ二つに引き裂かれます。この主イエスの十字架を通って神と人は再契約(新約)を交わすのです。
「約束は守られる」と当然の様に信じている私たちは聖書に記されている「契約」という概念に疎いのかもしれません。馴れ合いと妥協「和を以て尊しとなす」が基調となっている日本という社会にあって約束や契約の意味合いは希薄なのです。しかし神は先に約束を守られました。アブラハムからの救いの約束は主イエスを通して成就したのです。私たちはその声に応じるか否か問われています。

牧師室からNo.35   2018/11/25

次週から教会の暦はアドベント(待降節)に入ります。桑名教会では礼拝堂に備えられたクリスマスクランツの蝋燭に毎週一つずつ灯を加えます。そしてクリスマスには四つの灯が点ります。玄関にはクリスマスツリーが置かれ今年は教会学校の子どもたちが焼いたクッキーで飾られます。この様にして私たちは四週の時期にイエス・キリストの降誕を迎える為の準備をします。でもこの時期、私たちはもっと大切な準備をします。目に見える準備ではなく目に見えない準備です。私たちは一人ひとり、それぞれの魂に主イエスを招く【準備】をするのです。
クリスマスとは(Christ)クライストのミサ(mass)に由来する言葉です。神の子がこの世に与えられたこと、この世に神が直接触れて下さった事に私たちは感謝を捧げる礼拝、それがクリスマスです。でも手放しに喜ばしい事なのかというと、そうでもないのです。神が目の前に来られるなら、この世に本物の神が明らかになります。つまり私たちは、もう各種偶像を追いかけることが出来なくなる。その結果、地位も名誉も財産も知恵も技術(という偶像)も、全て無価値な塵芥に変わるのです。(それらから解放される)クリスマスを祝うという事は、この世の全ての価値観が逆転する事を受け入れ喜ぶ事です。だから私たちは覚悟を以て準備をする必要があるのです。でも私たちより前に神は始められました。アドベント(advent)と同じ語源を持つ単語があります。それは「冒険」(adventure)です。「危険を伴うことを敢えてする」。冒険し挑戦するなら私たちを次の場所に到達します。「すべてが改まる時」私たちは神と共にワクワクする冒険へと共に進み出しましょう。

牧師室からNo.34   2018/11/18

私たちはそれぞれが自分にとっての寛げる場所を持っているのではないか、と思います。例えば自宅リビングの気に入った椅子とか、行き付けの喫茶店の窓際の席とか、近所の公園のテラスとか。私は、毎日の通勤の車の座席が一番くつろげます。誤解のないように付け加えるなら、家にも仕事場にも居場所がない、という訳ではありません。ただ鍋の中で丸くなるネコのように狭い空間に収まる方が落ち着くのです。
さて次週の御言葉に記されている楽園という言葉について、新約聖書はこの言葉を天国とは違う意味合いで使っています。そもそも「天国」という単語は273回使われているのに「楽園」は3回しか使われない事からも、この二つの単語の差異は歴然としています。ではどう違うのか。「天国」は空の上に浮かんだ光に包まれた場所、神の国というイメージです。それに対して「楽園」は公園もしくは庭園のイメージであり、究極的にはアダムとエバが追い出されたエデンとなります。つまり楽園とは、罪を負う前のヒトが神の保護下に置かれたまま不安も心配もなく、空腹も困難も苦しみもなく、幸いに寛いで生きる事のできる場所、ということです。アダムとエバは神に逆らい、知恵の実を食べてしまったが故に楽園を追放されます。ヒトはこうして神に逆らい背き目を逸らす傾向、つまり罪を負うこととなります。この罪によってヒトは様々な苦難や悲惨、隔絶、つまり痛みを負うことになりました。しかし神は悔い改め主イエスの方に振り向く者を、楽園に導かれます。全てのヒトは天国に招かれますが楽園を味わうことが出来るのは主イエスの弟子である信仰者だけなのです。

牧師室からNo.33   2018/11/11

主イエスが話された復活について、私たちは主イエスご自身が十字架に架かり三日目に復活された姿から想像する事ができます。主イエスは復活された後、弟子たちの所に現れます。エルサレムの部屋の一室に現れ、エマオへ下る道の途中で現れ、ガリラヤ湖の湖畔で現れるのです。その姿を見た弟子たちは、その方が主イエスだと分かったと、聖書には書かれています。
「見て」その人が誰だか分かる。私たちはそれをいとも簡単に行っていますが、私たち人間にとって、とても難しい事なのだそうです。私たちの脳には人の顔を見分けるためだけに働く部位があり、最初に記憶するのは母親で成長するに従って百五十人程度の人を認識する事ができるようになるのだそうです。因みにポケモンというゲームに出てくるキャラクターの数が百五十一匹(第一世代)というのも、もしかしたら何か関連があるのかも、と勝手に考えたりします。最近ではAIを使って個々人の顔の部分の特徴や目の動きや表情筋の動きを読み取って、その人が誰であるかを識別する技術が開発されていますが、それも絶対的ではなく限定的です。完全に相手が誰であるか分かるという事は、私と相手とが全人格的な関係を保っていた期間の記憶と感覚を、目の前にいるその人と照らし合わせてお互いにお互いを確認することです。
つまり復活された主イエスを見た人たちの誰もが、その方が主イエスだと分かったという事は、お互いにお互いが分かったという事であり、私たちも同じように死の後、私が私として何も損なわれないし関係も保たれるという事なのです。

牧師室からNo.32   2018/11/04

「神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と洗礼者ヨハネは洗礼を受けるために集まった者たちに話します。自分たちこそアブラハムの後継者であり神に選ばれた民族だと信じていたユダヤの民にとって、この言葉は衝撃的でした。しかし彼らは反発するのではなく、受け入れるのです。そして多く者がイスラエル中や近隣の国々からヨルダン川で洗礼を授けるヨハネの下に集まり全身を浸され浄められます。でもなぜ自尊心の高いユダヤの民は砕かれ悔い改めに導かれたのでしょうか。それは彼らがその時代に退廃的な雰囲気を感じていたからです。国家としてのイスラエルは事実上ローマ帝国の属国とされ抜け殻のようになり、王も祭司長もローマの傀儡であり神殿の権威は形骸化し世俗化しています。駐屯したローマ軍によって治安は守られ、インフラも整備されます。国家間の貿易網の一端を担わされ、多くの異邦人が流入します。生活の水準は飛躍的に向上しましたがユダヤの民は神を見失うのです。
では彼らは砕かれ悔い改めて救われたのかというと、そうではありません。悔い改めによって空っぽになった心に聖霊を招かなければならない。空っぽの心をそのままにしておくと「自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く」(マタイ12:45)ようになります。この洗礼者ヨハネの差し示した先に主イエスがいます。空にした自分の魂に主イエスの霊を受け入れる事によって始めて、私たちは救われるのです。

牧師室からNo.31   2018/10/28

随分昔の事になります。私が営業の仕事に遷されたとき、最初に先輩に命じられた事は靴を買い換えることでした。「顧客は最初に営業の靴を見て、その人を計るから靴はいつも綺麗にしておくように」と教えられたのです。クタクタの靴の方が頑張って働いている観がある、というのは素人の考えで、業績を上げている先輩方は、靴が綺麗でシャツがパリッとしていてネクタイも内側に針金でも入っているのか、と疑わしくなるほどに型崩れしていない、使う言葉も上品でした。お客さんからしてみると、そんな見栄えの良い上質の人間が自分の相手をしてくれることで、自分も上質な人間になったような気がする、信頼できる、そんな心理が働くのだそうです。そして下手なクレームとか値引きを言い出さなくなる。無粋なことを口にして、自分の質を落としたくない、と考えるから、です。
確かに、多様な価値観がひしめき合い混沌としている今の世にあって見た目が9割なのかもしれません。深く付き合う事がなければそれで事足ります。でも聖書的に言うならそれは偶像崇拝に心を奪われている背信者の愚なのです。見てくれが良いに越したことはありません、が、偽装は一夜にして白昼の下に晒されます。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。」(Ⅰコリント4:5)主イエスは全ての人の魂そのものと徹底的に関わられました、さらに彼らの為に自らの命をも捧げられました。私たちも主イエスに倣い敵対者であっても徹底的に関わるのです。そのために神は私たちの魂に小さな火、希望を灯して下さるのです。

牧師室からNo.30   2018/10/21

東京の下町の銭湯に行ったときの事です。夕方もまだ早かったので、空いていましたけど、地元の方々が幾人か、既に湯船に浸かっていました。私も身体を流した後、湯船に足を浸けてみて、すぐに足を引っ込めました。下町の銭湯は熱いと聞いていましたけど尋常じゃ無い熱さです。でも常連さんたちは、顔を真っ赤にして首まで浸かっています。仕方が無い、私もエイヤッと湯船に浸かりました。先ず体中に激痛が走ったのですが、でも慣れてきて徐々に心地よくなってきました。今では、熱い風呂じゃなきゃ入った気がしない、となっています。
何事もやってみないと先に進まない、というのは、この世の常です。しかし私たちは始める前から尻込みするのです。なぜなら先に進めようとする時、必ず何らかの障害が生じることを知っているからです。今までのやり方、手順、成員、習慣化し効率化され経験値も高い既存の仕組みにノミを打ち込むことは容易ではないし、当然、緩慢な抑圧を受ける事は必至です。しかし、この高いハードルを乗り越えようとする力を信仰は与えてくれます。主イエスが十字架の死から復活された様に、神は0から1を創られる方です。既存の物が何もなくなっても、手元に何も残ってなくても、それでも神は私たちを生かして下さいます。神は私に必要なモノを必要なだけ用意して下さる方です。ですから私たちは明日を恐れることはありません。私たちは、神は畏れますが明日は恐れません。今日を感謝して喜びを以て生きるのです。神は私たちを喜んで生きる者として創造されたのですから。

牧師室からNo.29   2018/10/14

桑名教会では10月28日(日)秋の伝道礼拝として、康路加こうるかさんを迎えての讃美礼拝「すべての人々に喜びと希望を讃美歌とともに」を行います。今日は、この礼拝のコンセプト(全体を貫く基本的な観点)についてお話しいたします。
まず、この讃美礼拝ですが、「ゴスペル歌手を教会に招いて美しい讃美を聞きましょう」という会ではありません。そもそも礼拝に於いて讃美は聞くものではなく、自らの口を以て歌う為のもの、讃美とは神に向けた私たちの祈り、だからです。私たちが礼拝の中で心を一つにして讃美するとき、その讃美の言葉を用いて一つの祈りを捧げる事ができます。そのとき私たちの中心に主イエスが居られるのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18:20)そして主イエスの臨在を感じた時、私たちの魂は聖霊によって満たされます。ペンテコステの日に聖霊を受けた使徒たちは聖霊に満たされ、幾つもの国の言葉で神の偉大な業を賛美した、と聖書には書かれています。同じように私たちも聖霊に満たされるなら、神の御腕に包まれている自分を確認する事ができます。そこに、私たちの求める魂の救い、神との和解と平和が与えられるのです。
私たちはただ一人で神を知ることはできません。なぜなら、この世の知恵や知識、言葉から神は身を隠されているからです。でも私たちは教会に集い礼拝の中で心を一つにして祈る時、神は自らを明らかにして下さいます。この世に於ける教会の代替できない役割とは「集められた者たちが一つ(同本質)となって祈りを献げる場」であることです。共に讃美しましょう。

牧師室からNo.28   2018/10/7

腰痛に悩まされている人は多いと聞きます。私自身も時々、「ぐぎっ」となり、立ち上がるにも寝そべるにも動きが取れなくなります。この腰痛を治すには日頃からの運動が最も効果的で腹筋と背筋を鍛えると、かなり改善されます。反対に座り続けるとか、猫背で歩くなら腰回りの筋肉にストレスをかけ、腰痛が引き起こされる事になります。正しい姿勢が肝要です。でもそれは肉体だけでなく心の内面も影響する事柄です。私たちは自信を失ったとき、大きな失敗をしたとき、元気が無くなっている時、心が沈むのです。となると地面ばかりに目を向けてしまう。顔を上げて人の目を見ることが出来なくなります。そうなると、腰痛を含め健康が損なわれる事となるのです。
次週読まれます御言葉の場面でペトロは、ジッと火を見ています。たぶん前屈みになりながら、うつむいて、薪がパチパチと音を立てて燃えている様子を見ているのです。ゲッセマネの園で主イエスは捕らえられ、弟子たちはその場から逃げ出します。でもペトロは主イエスの事が心配になり、夜の闇に紛れて、捕らえられ監禁されているカイアファの邸宅の中庭に入ります。そこには主イエスを捕らえに行って帰ってきた下役たちや邸宅で働く女中たちが集まっていました。彼らは作戦の成功に人心地ついているのです。ペトロは、自分も下役の一人で在るかの様に振る舞いながら、火に当たっていました。でも、大祭司に仕える女中はうつむいていたペトロの顔を下からのぞき込みます。そして「この人はナザレのイエスの弟子だ」と、正体を見抜くのです。しかしペトロはその言葉を強く否定します。此処でも彼は逃げるのです

牧師室からNo.27   2018/9/30

主イエスが掛けられた十字架による処刑は、ローマの法律の中で最も重罪な犯罪者が受ける刑罰でした。それは国家や皇帝に逆らう犯罪、つまり騒乱罪や内乱罪つまりテロリズムを引き起こした者に対して適用されました。十字架に張り付けられた者は白骨になるまで、そのまま放置され、その様子は町に住む全ての人に晒されます。見せしめの意味合いが強い刑罰です。でも、主イエスは息を引き取ると、すぐに十字架から下ろされました。そして墓に納められるのです。なぜか、それは主イエスの処刑に立ち会った全ての人が、主イエスが何も犯罪を犯していない事実を知っていたからです。
主イエスは真夜中に捕らえられた後、朝になって主イエスは最高法院に引き出されユダヤ人として裁判に掛けられるのです。しかし、偽証人が証言を重ねますが言葉が噛み合うことはなく、主イエスの罪を定める事はできません。そこで彼らは主イエスをローマから派遣されていた総督ピラトの下に連れて行きます。そしてローマの法律で裁かせようと画策するのです。ピラトも主イエスが何の罪も犯していない事を知っていました。でも、このままではユダヤ人たちが本当に内乱を起こすかもしれない。彼は自分の危機管理能力が問われかねない事態に追い込まれるのです。そこでピラトは折れます。「この人の血について、わたしには責任がない。」と言って彼は手を洗います。その結果、主イエスの掛けられた十字架には「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きが掲げられる事となったのです。人の罪の連鎖の果てに行き着いた罪状書きですが、この言葉こそ神の真理を的確に言い表す言葉となるのです。

牧師室からNo.26   2018/9/23

思いがけず旧友と再会したとき、私たちは握手をしたり、抱き合って喜び合うのです。西洋ではその様な時、接吻をすることで相手に対する親愛の情を表します。では主イエスの生きた世界、つまりユダヤの習慣ではどうか、というと、接吻には3つの意味がありました。一つは親愛の情を表す接吻、二つ目は客人への挨拶、三つ目は尊敬・服従を表す接吻です。この3つめの尊敬・服従を表す接吻は、生徒が教師の手の甲に唇を付けるという形で行われます。ゲッセマネの園でイスカリオテのユダが、その裏切りの合図として主イエスに行った接吻は、この尊敬・服従の接吻です。
イスカリオテのユダは祭司長たちの遣わした者たちと、主イエスを捕らえる段取りの打ち合わせで、彼らに「私が接吻する相手が、その人だ」と伝えます。深夜の暗闇に紛れて主イエスを捕らえに来る者たちに、誰が主イエスか分かるように、ユダはこの合図を決めるのです。でも、もしかしたらユダは、事が起こったときに主イエスがその場から逃げ出すだろうと考えていたのかもしれません。だからユダは、主イエスに逃げられないように、強くその手を握ることができる方法を選んだのではないか。尊敬と服従の態度を示しながら近づいて行き、主イエスの手を取り強く握り、その甲に接吻をするのです。
でも主イエスは、握られた手を振りほどかれません。そのまま、抵抗する事も争われることもなく、そうなることが当然であるかのように、静かに捕らえられるのです。そして弟子たちにも、立ち向かう事を禁じます。このユダの企みも、神のご計画の内にあることだったのです。

牧師室からNo.25   2018/9/16

イエス様と弟子たちが共に取られた最後の晩餐の食事の献立というと、それはかなり詳しく分かります。なぜなら過越の祭りでいただく食事の作法は、律法に細かく定められているからです。この過越の祭りとはユダヤ歴ニサンの月(第1の月)の14日の日没、つまり15日(この日は私たちの使っているグレゴリオ暦では3月末から4月末の満月の日)から8日間にわたって行われる祭りです。
イスラエルの人々は14日に小羊を神殿に持ち込み(出エジプト12:3)祭司に屠殺と解体をしてもらいます。そしてその肉を調理し、日が沈んで15日(ユダヤでは日没から1日が始まります)に夕食として頂きます。この時、酵母の入っていないパン(マッツァー)と苦菜(マーロール)を添えます。飲み物はワインを大きな器に注ぎ、回し飲みします。残った肉は火で焼き尽くさなければならない、と律法に定められているので(出エジプト12:10)羊一頭から取れる肉が約20㎏をそこにいる者たちで全て食べ尽くすこととなります。ユダヤ人にとって過越の祭りの食事はご馳走であり、年に一度、家族や仲間と共に最も喜びに満たされる宴会の時です。この過越の食事をいただいた弟子たちは、満腹でワインも入り上機嫌だっただろうと思います。
でも、同じ食卓に着いているイエス様とイスカリオテのユダの様子は違うのです。なぜなら二人はこれから先に何が始まるのかを知っていたからです。此処から主の受難が始まります。

牧師室からNo.24   2018/9/9

イスカリオテのユダについて、私たちは彼を「主イエスを金で売った裏切り者」として覚えます。彼はエルサレム神殿に仕える祭司たちと銀貨三十枚で主イエスを売り渡す約束を交わします。でも、なぜ彼は主イエスを裏切ったのでしょうか。このイスカリオテ、という言葉の意味は「カリオテ出身の人」です。またカリオテは「大きな町」という意味も持つことから、ユダは都会出身の、基礎学力を身につけた知的にも良識的にも洗練された人物だったのではないか、との推測がされています。そもそも、ユダの以外の弟子たちは全員ナザレの田舎者、ペトロに至っては学の無い漁師です。都会育ちで身なりも良いユダの存在はこの群れの中で、別格だったのでしょう。ですから、ユダは金入れを預けられていた、という聖書の記事も納得できます。
腕っ節が強く荒々しいだけで、何となくボンヤリしている弟子たちの中で、彼だけは違うのです。彼は目的意識と自分の行動に対する動機づけができています。たぶん、主イエスの側にいた者たちの中で、彼が最も主イエスの話している言葉を理解していたのだと、思います。でも、だから彼は主イエスを許せなかったのではないか、と、【なぜ愛する先生は世界を変える程の才能を手にしていながら、その力を無駄に浪費するのか、もし私にその力があれば…】期待は失望へ心酔は憎悪へ、ゆっくり変質するのです。
しかし聖書は、ユダの裏切りは彼の身勝手な衝動ではなく、そこに神の御心があると説きます。神は彼の心の闇、憎悪や幼児性をもこの世を救うために用いられたのです。神はこの世の光も闇も統べられる方なのです。

牧師室からNo.23   2018/9/2

「シンドラーのリスト」(1993)という映画の最後の場面で、リーアム・ニーソン演じるオスカー・シンドラーは、手に持った指輪を見詰め「もっと救い出せた」と涙を流します。「この指輪を賄賂に差し出せば、あと何人のユダヤ人を収容所から引き取る事ができただろう」と彼は嘆くのです。映画の内容は各人で見ていただくとして、この映画から私たちが教えられるメッセージは「自己犠牲をいとわない愛」のあり方です。でも、その背後にもう一つのテーマがあります。それは「人は人を救えるのか」という問いです。シンドラーは幾人ものユダヤ人の命を救います、でも同時にシンドラーも彼らによって荒んだ魂を救われるのです。それは映画の最初の場面のシンドラーの表情と、後半のシンドラーの表情を描き分けることで表現されています。冷酷で嘲りを臭わす彼の目は、慈愛に満ちた目に変えられていきます。人が人を救うのではなく、人と人とは関わり合う中で互いに命を再生する。彼が救ったのではなく彼も救われるのです。
聖書には「人は人を救うことができない」と書かれています。人を救う事ができるのは、ただ神のみです。そのために神は預言者や主イエスをこの世に遣わし福音を伝えました。「あなたはこの世の何ものにも支配されていない、あなたは自由です。」と宣言されました。このメッセージが腑に落ちた人は、今までの姿勢や見方を打ち砕かれます。自分が「井の中の蛙」であり、外界には広い世界があると、気づかされるのです。そして自分の意思と力で井戸から出ようと壁を上り始めるのです。私たちも福音を伝える事に依って主の救いの業に用いられるのです。

牧師室からNo.22   2018/8/26

最近、二世タレントという人たちが芸能界で多く取り上げられています。でも芸能という特殊な分野だけではなく、会社経営や学問、医学、政治の分野にあっても、身分(ポスト)の世襲化が進んでいるように思われます。この世襲について、なぜか世間では弊害ばかりが強調され批判される傾向があります。例えば世襲は新規参入者を閉め出し自由経済を破綻させる、とか、既得権益を保護し高所得者層を増長させ社会を腐敗させる、とか、富の再分配を阻害して低所得者を更に苦しめる、とか。しかし世襲に依って社会が受ける恩恵も大きいのです。それは社会秩序の維持と経済の安定です。社会構造が変化せず安定している(革命がない)なら、資産家は安心して投資を行うことができ、企業は設備を拡充し研究開発を進めます。その結果、社会のインフラが整えられ、人々の生活も豊かになります。世代が変わるごとに情報が刷新され順応するまで時間が掛かるより、既存の情報が次世代に継ぎ目なく引き渡されたほうが、実は利便性が高いのです。ですから有史以来、国家と経済、宗教、専門職の分野に於いて人間は世襲制度を社会構造に組み込んできました。そうする事によって、社会の安定を維持してきたのです。
しかし、信仰は世襲に依って継承されるものではありません。なぜなら信仰は「神と我との抜き差しならない一対一の人格的関わり」の中で見いだされ成熟するからです。いわば解体と再生が信仰の本質であり、それを主イエスの十字架と復活は象徴しています。躓き悔い改め赦しを受けることによって信仰は成熟するのです。

牧師室からNo.21   2018/8/19

高度成長期の流行歌スーダラ節は「わかっちゃいるけどやめられない」と歌います。頭ではいけないことだと理解しながらも「ついつい」流され続けてしまう、この歌詞はそんな私たちのあり方を表現しています。何が良い事で何が悪い事か。私たちは教えられなくても解っています。しかし、正しい事を正しいと主張し行動する事は難しいのです。なぜなら、私たちの行動を決定する根拠の大半は善悪の可否ではなく習慣の維持だからです。しかも、善習より悪習の方が優先されます「悪い習慣はすぐに身に着くけど良い習慣を身に着けるには努力が必要」という言葉の通りです。
なぜ私たちは習慣に従うのか。加えて国、学校、会社(教会も含めて)に於いても習慣が支配的になるのか、というと習慣を壊してまで現状を「変える」ことが億劫だからです。いちど習慣化した生活を「変える」には、相応の力が必要です。「変える」為には多くの人々を説得し協力を得なければなりません。その方々に苦労や不便を強いることになります。また結果が上手く行くか行かないか、責任も掛かってきます。今までの経験の蓄積がないので、失敗も生じます。ですから、そのままで良い。「今ある建物を壊して立て直すくらいなら、多少不便でも古くても、そのまま使い続ける方が良い」となるのです。マルコ福音書12:28以下に於いて一人の律法学者は、主イエスの問いに対して的確に答えます。「愛は律法を全うする」と彼は答えるのです。しかし彼らは神の義より習慣に従い主イエスを十字架に掛けます。この習慣を打ち破る力が信仰です。信仰は私たちに「一から始める」力を与えるからです。

牧師室からNo.20   2018/8/12

先日、教会学校のキャンプがありました。9人もの参加者を与えられ、天候にも恵まれ、子供たちと共に霊肉共に豊かな実りを与えられました。怪我や事故なく終えられたこと、お手伝い下さりお祈りにお覚え下さり感謝です。
次の世代への信仰の継承は教会の責務です。私たちは神様が教会に導き入れた子どもたちを、自らの子どもとして受け入れ、愛し、主イエスに結びつける働きを担わされています。でもそれは労苦ではありません。私たちは、子どもたちの純粋な感性を通して描き出される主イエスの姿を、確認する機会が与えられるからです。今年のキャンプに参加した子どもの感想文にこの様に書かれています。「神さまがどんだけたいせつかがわかりました。どんなことがわかったかというとぼくたちを神さまが大事にしていることがわかりました。」
「私は自らの信仰生活において神を大切にしている」ではなく「ぼくたちを神さまが大事にしている。」という素直な信仰。子どもたちを通して此処に私たちは立ち戻らされるのです。
次週、読まれます御言葉にあって農夫たちは、それが主人から預けられたぶどう園であるにも関わらず、自らの所有物であるかのように権利を主張するのです。そして派遣されてくる僕をことごとく追い返します。そして最後に遣わされてきた主人の一人息子を殺して、ぶどう園を正式に自らの物にしようと画策するのです。なんとも後味の悪い話しです。でもその最悪の結末が「隅の頭石」として救いの初穂となります。その十字架によって全ての者が救いへと入れられるのです。

牧師室からNo.19   2018/8/5

エリコ(Jerico)という町について、この町は世界最古の町と評され、紀元前8000年紀には周囲を壁で覆った集落が作られていた、と言われています。その後もエリコは独立した都市としての機能を温存し維持し続けます。なぜ、それが可能だったのか、というと、エリコは自然の擁壁に守られていただけでなく、四方を堅牢な城壁で囲まれていたからです。その城壁はどんな軍隊を相手にしても、崩されることがなかったと言われています。つまり、このエリコの城壁は、決して崩れず、破壊できないモノの象徴として人々に知られていたのです。でも、この城壁を神は崩されます(ヨシュア記6:1-27)。
モーセがネボ山で天に上げられた後、若きリーダーヨシュア率いるイスラエル軍は山を下りヨルダン川を越え、エルサレムに侵攻する為に兵を進めます。しかしエルサレムに進むには、街道の手前に位置するエリコを陥落させなければならないのです。エリコは進んでくるイスラエルに気づき城門を堅く閉ざします。そこでヨシュアは、主なる神が命じられた通りに行います。イスラエルの民は契約の箱を担ぎ、七人の祭司が、七つの角笛をもって、主の箱の前を行き、六日間町の周囲を一回まわり、七日目だけは七回るのです。そして最後に民が鬨の声を上げ、角笛の音が響き渡ったとき、堅牢な城壁が崩れ落ちるのです。この様にしてエリコはイスラエルのものとなり、イスラエルはエルサレムに兵を進めます。主イエスは過越も祭りの前に、このエリコを通ってエルサレムに入られます。つまり時がきたのです。

牧師室からNo.18   2018/7/29

日本語の「こんにちは」に相当するヘブライ語の挨拶は旧約聖書の時代から現代に至るまで一貫して「シャローム」です。この「シャローム」の意味は「平和」です。でもそれは単に戦争や争いとは正反対の状態ではなく「あらゆる面での完全な充足状態を表すものであり人間の至福のあらゆる要素を包含する」状態を意味します。簡単に言うなら「少しの不安もなく満たされている」という事です。でも、その様な平和を人間業で作れるのか、というとそれは不可能です。しかし神業なら可能です。ですからユダヤ人たちにとって「シャローム」は単なる挨拶ではなく「唯一の同じ神を仰ぎ見る礼拝者同士の挨拶」として用いられるのです。
人と人は完全に一致することはありません。反目し対立し争います。それは神が一人一人違う存在として創造されたことに起因します。人間は、この世の何か(政治・国家・思想・経済・概念など)に向かう事によっては一つとされません。幾つものセクトが作られ、セクト同士が争う所に行き着くこととなる。しかし神はその様な私たちを御自分に向けさせることによって、つまり唯一の神を共に礼拝することによって、人は一つとされます。そこに平和が生まれるのです。母親の腕に抱かれる乳飲み子を包む平和を私たちが得るために私たちは一つの神を覚えるのです。
政治家は自分の手腕として平和であることをアピールします。しかし本当の平和は武力を増強することや外交によって作られるモノではありません。逆に武器を手放し交渉を止め、互いに悔い改め唯一の神に立ち返る所に平和は与えられるのです。

牧師室からNo.17 2018/7/22

キリスト教信仰というと禁欲的で清貧、几帳面というイメージがあるようです。それはそれで悪い事ではないですが、少々誇張してイメージが先行している様にも思えます。「信仰をもつなら生活を制約される」「これはダメ、あれもダメ」と押し付けられる。でもそんな事はありません。
逆に信仰を持つなら私たちは自由になります。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ福音書8:31)と書かれています。
私たちは、その心をこの世に支配されています。例えば子供の頃「学校で良い成績を取らないとダメ」「お行儀を良くしなさい」との教育を受け、社会に順応するための価値観を植え付けられました。大人になってからは「和を以て尊しとなす」という雰囲気の中で働き、自律的な個人であるより社会組織を維持するための構成員である事を望まれます。徐々に自分の頭で考え、心で感じる感覚が奪われていく。何時の間にかこの世に隷属し魂の自由を奪われているのです。
イエス様が話された真理とは、神を知ることです。唯一の神を自らの神とし、覚え畏れ礼拝すること。天の国に帰属すること神に隷属すること。イエス様は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。」(マタイ福音書6:24)と話されます。私たちが神に仕えるなら、私たちはこの世からは解放されます。私たちは自分で善悪を判断できる、だから神に喜ばれる事なら何をしても良いのです。でも一つだけイエス様は「してはいけない事」を私たちに教えます。それは「躓かせる」という事です。

牧師室からNo.16 2018/7/15

弟子たちは、イエス様の後ろについてカファルナウムの町まで移動する際に「誰がいちばん偉いかと議論し合っていた」と聖書には書かれています。「いちばん最初にイエス様が声を掛けたペトロだ」、「いちばん腕力が強いゼベダイの子ヤコブだ」、「いちばん賢いユダだ」と、他愛のない雑談です。でもカファルナウムに着いたとき、イエス様は弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と尋ねるのです、しかも不快そうに。その様子を察した弟子たちは口を閉ざします。その時、弟子たちは、イエス様が自分を差し置いて誰が偉いのかを議論していた事、に腹を立てている、と考えたのです。「私を差し置いて、弟子たちの間で誰がいちばん偉いのか、なんて議論は以ての外だ」と、弟子たちはそう受け止めたのです。
でも、そうではありません。まったく逆です。イエス様はこの様に話されます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」イエス様は弟子たちに「仕えられる者ではなく仕える者になりなさい」その様に教えられるのです。
敬虔である事、謙遜である事は美徳です。でも謙遜が心からのものになるためには神を知る信仰が必要です。神を知るなら私たちはその強大な絶対者の前に敬虔にならざるを得ないからです。神を畏れることが私たちの知恵なのです。

牧師室からNo.15 2018/7/8

「なぜ神は、この世の悲惨や艱難をそのままにされるのか」、神に問いたくなる事があります。なぜこの世では、憎しみと裁く心だけが拭われずに残るのか。弱い者が食い物にされ強いモノは更に力を持つのか。理不尽で身勝手な意見がまかり通るのか。神はなぜ沈黙されるのか、神は失われたのか。でも、そうではありません。神が失われた、と思えるときは私たちが神を見失っているのです。神は永遠で絶対の存在です。たとえ、この世が消え失せても神は存在されるのです。
来週、私たちに与えられている御言葉、マルコ福音書9章14節以下に在って弟子たちは主イエスを見失います。
主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れてタボル山に上られた後の場面です。彼らが山から下りると、残された弟子たちが大勢の群衆に囲まれ、その真ん中で律法学者たちと議論しています。ある父親が悪霊に取り憑かれた息子を残された弟子たちの下に連れてきたのだけれど、彼らはその子を癒すことができなかった。その事件が切っ掛けに律法学者は主イエスを批判し、残された弟子たちは抗議していたのです。その喧噪に包まれた場に来られた主イエスは、即座に、この息子を癒やされます。
残された弟子たちは、山に登った主イエスが帰ってこないのではないか、と疑ったのです。だから悪霊に取り憑かれた息子を自分たちの力で、どうにかしなければと考えた、その結果、癒やしの奇跡は為されなかったのです。これに相似する状況が出エジプト記32章に記されています。並行して読まれると更に多くの気付きが与えられます。

牧師室からNo.14 2018/7/1

今回の「牧師室から」は次週の予告ではなく「祈りについて」書かせていただきます。
祈りについて考える時、先ずその前提となるのは、人間は誰しもが祈る心を持っている、ということです。信仰を持たない方でも「祈っています」という挨拶をされます。でもその祈りとキリスト者の祈りは決定的な違いは、私たちが「祈る方向を知っている」という事です。私たちは主イエスに向い祈り、その背後におられる神に向けて祈りを献げるのです。
そして祈りとは、私たちから神に一方的に突きつける要求ではありません。P.T.フォーサイスは著書「祈りの精神」の中で「祈りとは啓示の雰囲気である」と話します。私たちは、祈りを聴いて下さる方に向かって祈ります。そしてその方は、私たちが祈りの言葉を唇に乗せる前に、その祈りを聴いて下さっているのです。祈りを献げる時、主イエスが「アッバ父よ」と祈ったように、私たちも神を「自分を愛してくれている父親」だと思って会話を交わすように祈りを献げるのです。
では礼拝の時に会衆の前で献げる祈りについてはどうか、というと、それは個人的な祈りとは性格を異にする祈りです。なぜなら会衆全員がその一つの祈りを自分の祈りとして献げるからです。とは言え、内容は個人の祈りと変わりません。神への感謝の言葉を献げれば良いのです。(言葉を整えたい場合は主の祈り、祈祷文を参考にしましょう)肝腎な事は会衆全員に聞こえるか、です。何を祈っているのか聞き取れないのでは自分の祈りには出来ません。また安心して神に心を向けて祈る為に、記述してきたメモを読むこともまた正しい祈りの姿です。愚直に神に心を向ける、手段は問われません。

牧師室からNo.13 2018/6/24

「この世は神の奇跡に満ちている」と気がついた人は幸いな人です。でも逆に「自分には神はどんな好機も与えられない」と拗ねている人は、もう少し神に信頼する必要があるのかもしれません。神に信頼し体重を預けてみるなら(エイヤ!って)自分が支えられていると肌で感じることができ、さらに支えられている力の源が、この世に由来するものではないと気づかされるからです。奇跡とは好機が与えられる事ではなく、神がこの世に触れられたことの目に見え、心が感じ取れる現象です。つまり、神の存在を受け容れる事のできない者にとって奇跡は廉価な好機ですが、神を知る者にとっては神の臨在を確認できる、救いそのものとなるのです。神が側にいて下さると分かる、このこと以上の救いはないからです。
「この世は神の奇跡に満ちている」つまり、この世の全ての出来事は偶然ではなく神の必然です。神はサイコロを振られません。そして神は、それらの奇跡を通して命の源から切り離された私たちをもう一度ご自分に繋ぎ治そうとされています。私たちは奇跡を通して神の憐れみと愛を知るのです。
次週与えられる御言葉、マルコ八章は四千人の給食の奇跡に続く箇所です。主イエスは七つのパンと数匹の小魚だけで、そこに集う多くの人の飢えを満たしました。弟子たちは驚き主イエスを敬うのですが、この奇跡の背後に語られている神の御声を聴くことはできないのです。しかし主イエスは弟子たちを見限る事なく教えます。ご自分の命をも用いて、彼らを導くのです。

牧師室からNo.12 2018/6/17

次週24日の礼拝には、マルコによる福音書6章14節以下の御言葉が与えられています。この聖書の物語はオスカー・ワイルの「サロメ」という戯曲のモチーフとして取り上げられていますし、その戯曲はリヒャルト・シュトラウスによってオペラ化され上演されていますので、聖書の物語としてより、藝術作品として覚えられているように思います。
しかし当然、聖書の記述の中には、サロメが預言者ヨハネを誘惑するような場面はありませんし、妖艶な踊りでヘロデ・アンティパスを魅了する場面も記されていません。それに最も有名な場面、ヨハネの首が乗せられた銀の盆をもって歌うサロメも出てきません。そもそも「サロメ」という名前自体が聖書には記されていません。(ヨセフスの「ユダヤ古代史」にはサロメという名前が記されています)オペラとしての「サロメ」は「自分の父であり叔父であるヘロデに預言者ヨハネの生首を要求する美少女」という醜聞的な題材が刺激的であるが故に、聖書の本来の主題から引き離されて作られた創作です。つまり御言葉の、一つの解釈ではなく単なる娯楽作品だという事です。
では、聖書の主題は何処にあるのか、というと、その焦点はヘロデ・アンティパスの苦悩に当てられています。つまり、預言者ヨハネを尊び畏れつつも、自らの手で葬らざるを得ない状況に追い込まれていくヘロデの苦悩です。彼は、この世の因縁を断ち切ることが出来ず、神の言葉であるヨハネを葬るのです。しかしヨハネの死は、主イエスに時機の到来を知らせる号砲となり、主イエスのエルサレムへの道を開くこととなります。

牧師室からNo.11 2018/6/10

カウンセリングの世界では「自分の身内や恋人のカウンセリングは出来ない」と言われます。なぜならカウンセリングにおいてカウンセラーとクライアントが交わす契約の中では、そこで話された事についての守秘義務が課せられるのですが、身内という関係性の中では困難です。家庭内に秘密を持ち込む事は難しいからです。それに、カウンセラーはクライアントを客観的に観察しなければならないのですが、身内ではどうしても先入観や偏見が入り込みますし、そこに「情」が絡むならもうカウンセリングはもう成り立たちません。
信仰の事柄にあっても同様です。イエス様は「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)と話されます。子どもの様に素直で純真であること、つまり先入観や偏見なしに相手と関わる事のできる者、自分の目で見て自分の頭で考え自分の心で受け止めるものが、天国を得ると話されるのです。
次週の礼拝で読まれますマルコ福音書6章では、イエス様が故郷に帰られ、その町の会堂で教えられた時の姿が描かれています。イエス様はそこでも教えられ癒されるのですが、でも他の町の様にはいかないのです。なぜか。それは町の人がイエス様の家族を知っていたし、イエス様の子どものころの事を知っていたからです。町の人たちはイエス様を通して神を見る事ができません。なぜなら彼らはメシアを見るのではなく、イエスという自分が子供の頃から知っている一人の人を見てしまった、その先入観と偏見が彼らの目を曇らせ、彼らと神との関係は断絶したままとなったのです。

牧師室からNo.10 2018/6/3

聖書の中には四十日四十夜という表現が幾度も出てきます。それは人が神からの試練を受ける場面で用いられる言葉で、その期間、人は一人で荒野を彷徨い寡黙に耐え堪えます。孤独の内に自らと対峙し、自らを滅し新しくされるのです。
旧約聖書ではノアの箱船の物語の中で、洪水を起こした雨が降り続いた期間がこの四十日四十夜です。彼らは窓を閉め切った箱船の中で、ただひたすら雨が止むのを待ち続けます。モーセが十戒を受け取るためにホレブの山に登りそこに留まった期間もこの四十日四十夜です。これはモーセの試練と言うより、山の麓でモーセの帰りを待ったユダヤの民にとっての試練の期間でしょう。彼らはモーセを待ちきれずに金の子牛を作り偶像崇拝を始めてしまいました。また、預言者エリヤはバアルの預言者四百五十人を相手に勝ちますが、イゼベルの恨みを買い、命を狙われ逃げます。彼は「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」と主に懇願しますが、主は彼に食べ物を与え生かし立ち上がらせるのです。そして彼は四十日四十夜の間、荒野を歩き神に山ホレブに辿り着きます。そして、主イエスは洗礼を受けた後、四十日四十夜に渡って荒野を彷徨い悪霊の誘惑を受けます。しかし主イエスは悪霊に打ち勝たれ、この世に福音を伝える業を始められます。
「一人になる時」は私たちにとって大切な恵みです。安易な解決に逃げず諦めず、神を信じて、その試練を耐え抜いたなら、神は必ず次の道を開かれます。

牧師室からNo.9 2018/5/27

先週、私たちはペンテコステの礼拝と共に祝いました。主イエスが天に昇られた後、神は聖霊を使徒たちに送り、使徒たちはこの聖霊の力に押し出されて、全世界に生きる全ての人々に福音を伝えるための伝道を始めました。この聖霊と神と主イエスは一つの存在の三つの側面です。そして聖霊は私たちを正しい理解へと導き真理を明らかにして下さいます。
平易に言うなら聖霊は私たちにとって山岳ガイドのような存在です。山岳ガイドはその山の道を熟知し、移り変わる天候を経験から予測し、どこで休憩を取るか、どこが安全でどこが危険か、登山者たちの体力や心の有様をも計りつつ、片時も離れる事なく登山者たちを山の頂へと導くのです。
私たちはこの聖霊の導きによって、正しく神の方向へと進むことができます。しかし聖霊を見失うなら道に迷ってしまいます。そして魂を恐れや不安に支配されてしまう。その苦しみを解消するために奪い害し欺く事となるのです。
悪霊とは私たちの目や耳から聖霊の姿や声を隠してしまう者の事です。しかも耳元で誘惑の言葉を囁くのです。しかし悪霊は主イエスの敵ではありません。聖書には主イエスが「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」(マルコ福音書1:29-39)と書かれています。主イエスは悪霊が住まう魂から悪霊を追い出し、誘惑の言葉を話す口を開かせません。
悪霊の干渉に脅かされず、常に聖霊からの光を受とめるために、私たちは共に礼拝を守り聖書に聴くのです。

牧師室からNo.8   2018/5/20

イエス様はナザレからヨルダン川を下り、洗礼者ヨハネの元に行きます。そして洗礼を授けてくれるように願い出ます。しかし洗礼者ヨハネは、この申し出を断ります。なぜなら彼は目の前に立っている、この方こそ、神の子でありメシアだと、神から悟らされていたからです。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」洗礼者ヨハネは思い止まらせようとします。しかしイエス様は「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言って洗礼をお受けになるのです。イエス様はヨルダン川に全身を沈められ、洗礼をお受けになります。そして水の中から上がられるとすぐ「天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」と聖書には書かれています。
イエス様がこの時に見た情景を思い浮かべるなら、それはこの世にあって最も美しい光景だと思えるのです。
鳥は地面に着地する時、それまで身体の内側にしまい込んできた羽根を全て風に向かって立てます。そうして翼を大きく広げ、風を受けとめ、一気に速度を落とし、地面に降り立つのです。私たちはこの瞬間に、躍動的で最も美しい鳥の姿を見る事ができます。そして雨上がりの空を覆っている厚い雲の間から一条の光が差し込む光景、ヤコブの梯子と呼ばれる光の筋もまた、神々しく美しい地上の姿です。
洗礼を受けること、それは私が神に手を差し出すのではなく、神から差し出される手を掴み、ギュッと握ることです。その時、闇に満たされていた魂に光が差し込み、本当の平安と知恵が与えられます。知恵とは神を知ることです。

牧師室からNo.7   2018/5/13

次週主日の20日はペンテコステ礼拝をまもります。このペンテコステとはユダヤ教に於いて過越祭の50日後に祝われる祭日であり、春に得られる最初の収穫に感謝する農業祭です。なぜこの日がキリスト教の祝祭日になったのか、というと、このペンテコステの日に使徒たちに聖霊が降ったからです。
主イエスは復活され四十日に渡って弟子たちと共に過ごされ後、天に昇られます。それから十日後、使徒と主イエスの母、兄弟たち、従っていた女性たちが集まって祈っていると、その部屋の中に激しい風の様な音が響きわたります。そして天から炎のような舌が一人ひとりの上に分かれて降ります。使徒たちはその聖霊を受け満たされて、様々な国の言葉で語り始めるのです。
その時、エルサレムには地中海の全域に離散して生活していたユダヤ人たちが祭りを祝うために上って来ていました。彼らは使徒たちがそれぞれ自分たちの地域の言葉で福音を語っているのを聞いて驚きます。ペトロは彼らに、主イエスの十字架と復活の意味について説くのです。「主イエスは復活された、私たちの罪は拭われた」と伝えます。その言葉を聞き信じた多くの者たちは洗礼を受け、使徒たちのグループに加わりました。
この使徒の働きによって全世界に教会が作られ、今日の教会へと信仰は継承されました。ですから私たちは、このペンテコステを私たちの教会の誕生日として祝うのです。

牧師室からNo.6 2018/5/6

エジプトのカイロにギザの大ピラミッドと呼ばれる巨大な建造物が在ります。これは紀元前2650年頃にエジプト第四王朝のファラオ、クフ王の墳墓として建てられたと伝えられています。その高さは150㍍ほど、一つ2.5トンの石灰岩を270万個積み上げて作られています。実際見上げてみると、まるで丘のようなその形象は圧巻の一言に尽きます。なぜこのような巨大な墓が作られたか、一説には農閑期の公共事業だった、とも言われていますが、それでもファラオの執念、つまり自らの命が永遠に続く願いを具現化した構造物である事は否定できないのだと思います。
永遠の命について、たぶん誰も自らが永遠に生き続ける事を望んではいないと思います。なぜなら、私たちのこの世の命は喜びと同等に苦痛もあると知っているからです。しかし私たちは、やはり恐れを抱くのです。自分がこの世に生きた記憶と記録、関係性、資産を手放すことを。それより自らの存在が霧散する事を耐えがたく感じるのです。
しかし主イエスは永遠の命に至る道を示されます。つまり、その道を行くなら、あなたは死に依っても何も損なわれないと話されます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」では、この御言葉は何を私たちに明らかにしているでしょうか。次週、共に聴きましょう。

牧師室からNo.5 2018/4/29

次週の礼拝にはヨハネ福音書16:12-24が与えられます。この時、主イエスは自らに十字架での苦難が迫った事を悟り、最後の言葉を弟子たちに残されます。つまり遺言を残されるのです。特に16章では、ご自身が去った後の教会に於いてあなた方は迫害に晒されると話します。しかし、その迫害は偶発的な出来事ではなく、この世の利害や関連の結果でもない。逆にその迫害こそ、“神がこの世を救う計画の始め”だと話されるのです。その迫害によって天への望みが壊されるのではないから、失望せず光を失わないように、信仰に留まり続けること。さらに「その苦しみは産みの苦しみであり苦しみは必ず喜びに変わる」と約束されるのです。加えて主イエスは弟子たちに、ご自分が天に戻られた後にもあなた方を孤立させない「真理の霊」をあなた方の間に遣わす、と話されます。
私たちはその方を「聖霊」と呼びます。聖霊という存在について、目に見えるモノを尊重する物質主義の価値観に首までどっぷり浸かって生きる私たちは「霊」という言葉に違和感や拒絶感を覚えるのです。なにかペテンに掛けられるような、誤魔化されているような不快感をおぼえてしまう。でも、そうではありません。主イエスが話される「聖霊」とは、私たちの内に与えられる主イエスの霊です。彼は私たちに神の御言葉を咀嚼して与えます。私たちは聖霊の助け無しに聖書を読むことも祈り事もできません。私たちの信仰を支え助ける方として、聖霊は働くのです。

牧師室からNo.4 2018/4/22

先週、桑名教会定期総会が行われ、すべての議案が協議され承認、可決されました。新しい2018年度を主と共に、また教会に集う皆様と共に歩めること、心より感謝します。

さて、その中で、私たちの教会は今年度の主題聖句を詩篇23篇の言葉「主は我が牧者なり」としました。この御言葉について、若干の説明をさせていただきます。先ずこの牧者ですが、「牧場で牛や馬の世話をする人」という意味の言葉です。でも、この詩篇の言い表しているところの牧者とは「羊飼い」の事です。つまり、神は私たちにとって羊飼いの様な存在であると、この詩は謳うのです。
羊飼いは自分の羊を一匹一匹覚えて、その名前を呼んで柵から連れ出します。羊も自分の羊飼いの声を知っていて、呼ぶ声に従います。そして羊は羊飼いに導かれて牧場に辿り着き草を食み、水場で水を飲みます。羊は試みられることも労苦する事も無く、すべて必要なモノを必要なだけ与えられます。しかしその関係は牧歌的なだけではありません。羊飼いは羊を盗むために忍び寄る盗人と命がけで闘い、野の獣を追い払います。群れからはぐれた羊を探し、崖に向かう群れを鞭で押しとどめ、毒草を食もうとする羊を杖で叩くのです。その様にして羊は守られ、夕べにはまた家へと帰るのです。
詩篇の歌い手は、この詩の中に、神からの恵みと祝福だけではなく、私たちが与えられる痛みの意味をも織り込みます。私たちが与えられる痛みもまた主の愛の業であると、謳うのです。
次週(4/29)の礼拝では「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」という御言葉が与えられています。私たちはどこに“帰属する民”なのか、共に御言葉に聴いていきたいと思います。

牧師室からNo.3 2018/4/15

次週22日の主日礼拝には、ヨハネ福音書13:31-35の御言葉が与えられています。この場面は最後の晩餐の最中であり、弟子の一人ユダが主イエスを裏切り、その場から出ていった後の事です。
ユダが裏切った事について、その場にいた他の弟子たちは何が起こったのか気付けないのです。しかし主イエスだけはユダの心を知り、それでもユダを送り出されます。この時、主イエスは自らの受難が始まった事を悟るのです。
そして弟子たちに新しい掟を教えます。それは「互いに愛し合いなさい」という言葉です。その言葉によってモーセの十戒は補完されます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(MAT05:17)
言葉は愛を加えることによって完成します。逆に愛の無い言葉は不完全です。その言葉は相手を損なうものとなります。では、どうやって言葉に愛を加えるのか、共に聞きましょう。

牧師室からNo.2 2018/4/8

今週の礼拝後から、役員会の承認を経て、受付に説教全文を印刷して置くことになりました。この説教プリントの目的は二つあります。一つは説教中に聞き漏らしたこと、聞き取りにくかったこと、よく解らなかった事を読み返す為です。もう一つは持ち帰って、ご家族、ご友人、関心のある方に手渡していただくためです。是非、伝道のアイテムとしてもご活用ください。
只、説教全文と言っても、講壇の上で即興でアレンジした言葉は反映されませんので、完全版という訳ではありません。それに、そもそも礼拝説教とは、聖日の礼拝という場で話し手と聞き手が共に神を見上げ祈る場にあって、即時的に与えられる恵みです。印刷された説教を残滓とまで言いませんが、あくまでもガイド程度の感覚で読んでいただければ幸いです。
もう一つ、この「牧師室から」に関してです。この貴重な囲み欄をどの様に使うか、ですが、教会として可及的速やかに意思の疎通を図らなければならない課題が与えられない限り、次週礼拝に与えられる聖書箇所の黙想を載せたいと考えています。映画や芝居の予告編のように、です。多少、右往左往すると思いますが、のんびりとお付き合いいただければ幸いです。

牧師室からNo.1  2018/4/1

主の平和がありますように。
はじめまして、私の名前は辻 秀治(つじ しゅうじ)ともうします。出身地は東京都日野市、キリスト者の両親に連れられ、幼い頃から日本キリスト教団日野台教会に通いました。その後、教会学校や中高科のキャンプで育てられ、社会人経験を経た後、東京神学大学に入ります。学部三年に辻順子(今は鳴海教会牧師)と結婚、神学生時代は千歳船橋教会、伝道師となってからは藤沢教会で奉仕させていただきました。按手を受け牧師となって下谷教会の招聘を受け七年間主任教師、主任を順子牧師と交代し計十三年勤めました。
前任地の下谷教会を辞するにあたって、三宅島伝道所での復興伝道の召命が与えられ、三年間単身三宅島で生活しました。三宅島では1983年の噴火で会堂・牧師館が焼失し、四十年近く、月に一度本土から牧師を迎えて礼拝を献げる、という状況が続いていました。更に2000年の噴火で全島避難が行われ教会員の殆どが離島されました。そこで、神は私に「三宅島で毎週の礼拝を守ること」という平易な召命を与えられました。とはいえ、信徒四人の群れ、礼拝出席も自分を含めて二人から四人ですので生活は自分で整えなければなりません。でも神は、ただ召命を与えるだけではなく、揃いで生活の手段も与えて下さる方です。幸いにも大型自動車、建設機械、コンクリート技士、コンクリート診断士の免許が与えられ、月曜日から土曜日まで建築会社で作業員の一人として働く事が許され、日曜日には旧民宿かまかわの広間で礼拝を守り説教奉仕をさせていただきました。住居も本土には祈りに覚えて下さる仲間も与えられ「主の山に備えあり」でした。
三宅島の人口は現在2600人ほどと言われています。ですから殆どみんな顔なじみです。「島の噂話はツイッターより早い」という環境下で「キリスト教の牧師」という私の立場は直ぐに知れ渡りました。では浄土宗が強く海を神格化するお祭り共同体の島の風土の中で、私は排斥されたのか、というと、そうではありませんでした。逆に世間ではキリスト教は信頼されていること(キチッとしている、品が良いと言う印象)を実感させられました。でも、それが逆に教会の敷居を高くしているとも思わされました。(島での伝道に付いては追々お話しします。)自分の行ける範囲に教会があり、会堂があり礼拝を献げられることを「当たりまえ?」と思われるかもしれませんが、それこそが神からの最高の恵みなのだと実感させられました。
さて、私は次の召命に従って桑名教会での牧会を勤めさせていただきます。神の家族として、共に祈り支え励まし合い、主を礼拝しましょう。よろしくお願いいたします。人の思いは断たれても、主の為さる事は必ず為ります。大丈夫です。