礼拝説教原稿

2022年4月

「十字架に向かう道」2022/4/3

マルコによる福音書10:32-45

玉子の殻を割ろうとする度に力加減がわからず、なんだかドキドキするのです。軽くシンクの角に打ち付けた位ではヒビも入らないし、強くぶつけるなら、グシャッと割れてしまいます。そんな硬い卵の殻ですけれど、産まれ出ようとするヒナはクチバシで叩き簡単に穴を開けます。殻を割って外に出るのです。でもそれは、ヒナの筋力が強いからではありません。卵の殻はアーチ構造といって外側からの力には強く、内側からの力には脆くできているからです。ですから、産まれたばかりのヒナの力でも割ることができるのです。神さまが創った自然の仕組みには本当に驚かされます。
そして私たちの心も、この卵と同じように殻で覆われています。例えば誰でも自分では気づくことができない、ちょっと歪んだ考え方のクセを持っています。例えば先入観、決めつけ偏見などです。そして、そのクセに気がついた親や友人や教師は指摘してくれるのです。でも私たちは、その言葉や思いを、すぐに受け入れることができません。どんなに丁寧に指摘されたとしても、心を包む殻が言葉を弾いてしまからです。冷静に考えてみるなら、嫌われることも厭わず、注意をしてくれる人が近くにいること自体、得難いことです。でもその忠告や指摘の言葉を受け入れることは難しいのです。
しかし、その悪癖が原因で大きな失敗を経験するなら、自分自身の心で悔いるなら、この殻は簡単に割れます。そして以前に指摘された言葉の意味を理解することができるのです。
いっそのこと、心の殻などなければ良いのにと、思います。すべての人の心が柔らかければ、この社会から差別も偏見も確執も思い込みもなくなります。独裁者や政治家は国民の声を聴き、国民同士はわかり合い。国と国は利害を共有するでしょう。お互いにお互いの殻を割ろうと暴力的に手を上げたり、尖った言葉をぶつけあう必要もありません。そんな世界こそ平和であるように思われます。しかしそれでは駄目なのです。神は私たちを御自分にかたどって創造された(創世記1:27)と聖書にあります。つまり神は私たちを無条件に隷属する奴隷として創造されたのではなく、一人一人を独立した、神からも自由な個人として創造されたのです。その神の御心と信頼に私たちは応えるのです。私たちは、自分のクチバシで殻に穴を空けなければならないのです。殻を割って外に出て自由にならなければならないのです。でもそこには痛みがあります。苦しみや恐れもあります。しかし主イエスは私たちの先だって、その痛みを負って下さるのです。
今朝、与えられました御言葉には、その主イエスの姿が描かれています。私たちは如何にして自分の殻を割れば良いのか、そのために神は何をされたのか、共に御言葉に聴いてまいりましょう。
さて、主イエスは弟子たちと共にガリラヤからエルサレムに向かわれます。「イエスは先頭に立って進んで行かれた。」(マルコ福音書10:32)と聖書は記します。その主イエスの様子を見て、弟子たちは「驚き」、従う者たちは「恐れ」ます。
この「従う者たち」の「恐れ」は純粋に恐れること、不安になることです。彼らは先に進む主イエスの姿を見て、王が兵士たちの先頭に進み始めた、と考えるのです。それは戦争が始まる合図です。王は馬に乗って兵士たちの先頭を進み、敵陣に向かう。それがこの時代の戦い方だったからです。これから主イエスが王としてエルサレムに進んでいく。その進軍の列にローマ帝国やユダヤの王族に不満を持つ者たちが加わる。そして戦いが始まる。彼らは革命を期待しながらも、国が戦乱で乱れることを恐れるのです。
しかし主イエスを神の子だと知っている弟子たちは別の理解をします。この弟子たちの「驚く」という言葉は「神に打たれる」という意味であり神の前に圧倒されることです。これまで弟子たちは意気揚々と主イエスの前を歩いていたのです。弟子たちは主イエスが多くの人々と触れあえるように心を配り、主イエスの先を歩いて、主イエスが働きやすいように働いていました。でもエルサレムに上られる主イエスは、弟子たちの前を歩かれます。その力強く歩く後ろ姿を見て、弟子たちは圧倒されるのです。そしてついに神がこの世で御心(ご計画)を実行される時が来たのだと気づくのです。もう自分たちの出番ではない。自分たちがお手伝いすることができない場所、遙か先に主イエスは向かわれていると気付くのです。
こう見てみると、弟子たちの抱いた驚き、そして恐れは的を射ているのです。彼らは主イエスがエルサレムに上り理由を、この世の戦いを戦うためではなく、つまりローマ帝国との戦いではなく、神がこの世を裁かれる戦い、つまり預言者たちが話し、聖書に記されている、この世の終わりの時の戦いだと、そう理解したからです。そして弟子たちは恐れながらも、しかしそれでも主イエスに従おうと、心を熱くするのです。神と共に戦えるならこの命など惜しくもない。そのように決意を固めるのです。
そこで主イエスは十二人の弟子だけを集めて、もう一度、これから起こることを話します。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(マルコ福音書10:33-34)
主イエスは御自分がエルサレムで異邦人、つまりローマ兵の手によって殺されると話します。しかし三日後に復活すると話すのです。この言葉を聞いて弟子たちは、主イエスがエルサレムで戦うけれど捕らえられて殺される、しかし、そのあと復活し、神の力でこの世を裁き、悪を滅ぼすのだろうと理解します。であるなら、自分たちも共に戦って命を失っても大丈夫、主イエスと共に復活して、新しくなった世界であらためて生きれば良い。弟子たちは、まだ半信半疑ながらも、神に裁かれ浄められた新しい世界に希望を抱き、心を奮い立たせるのです。死の恐れに心を奪われないように身構えるのです。
そんな雰囲気の中で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て主イエスに進言します。
「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(マルコ福音書10:35-37)
右と左とは、右大臣と左大臣という言葉があるように要職という意味です。私たちは誰よりも勇敢に命を投げ出します、先生のために死にます。ですから天国に上った後、新しい国で私たちを要職に就かせて下さい、と彼らは願い出るのです。そこで主イエスは彼らに尋ねます「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(マルコ福音書10:38)この言葉に二人は、さらに心を熱くします。なぜなら主イエスが、自分たちに対する忠誠心を計られていると誤解するからです。
この「杯」とは旧約聖書で比喩的に表現される苦難の杯(詩編75:9)を意味します。毒が入っていると杯をそれと知って飲み干す。つまりそれが苦難であっても自分に定められた運命に従うという意味です。そして「洗礼」という言葉にはそもそも「溺死する」という意味があります。そこから、全身を水に浸されて古い自分が一度死んで、新しい命が与えられる。炎と聖霊で完全に浄められる、つまり教会で言うところの「洗礼」を意味する言葉になるのです。
しかし、ここで主イエスが話す洗礼は教会で用いられている洗礼ではありません。それは苦難の洪水に飲み込まれて溺死する。完全に神に見放された死を味わうことを意味するのです。ヤコブとヨハネは主イエスから、私がこれから受ける痛みと苦しみをお前たちも受けてくれるのか、と尋ねられている、そう勘違いするのです。彼らはさらに心を熱くして「できます」と答えるのです。
しかし、このやり取りと聞いていた他の弟子たちは、腹を立て始めるのです。なぜなら彼らもヤコブやヨハネと同じように考えていたからです。この弟子たちの中で一番の活躍をして主イエスに認められたい。そうすれば後の国で王である主イエスに起用される。彼らもそう考えていたのです。だから抜け駆けして主イエスから確約を取ろうとするヤコブやヨハネに腹を立てるのです。
では主イエスは、このような弟子たちの熱意、忠誠心を喜んだのか、というと、そうではありません。主イエスは彼らに話します。
「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになるしかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」(マルコ福音書10:39-40)
十字架の後、弟子たちはこの世に教会を建てます。そして伝道を進めます。その働きの中で迫害の苦しみを受けるのです。そしてヨハネを除いてすべての使徒は殉教したと言い伝えられています。ヤコブはヘロデ・アグリッパ王に剣で刺されて殉教します。ヨハネは殉教はしませんがパトモス島にながされるなどの激しい迫害を受けます。確かに苦しみを受けることになっているのです。
確かに後に、あなたがたは、この杯と洗礼の意味を理解するだろう。しかし今、あなたがたちは何も理解していない。神の裁き、終わりの時、神の戦いについて誤解している。そう話すのです。
そして「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マルコ福音書10:41-42)と話します。そして「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ福音書10:43)と話すのです。
主イエスはこの世の王になって、この世の全ての人々を支配し、その考え方や信仰を変えようとは考えていないのです。祭司やファリサイ派の人々、律法学者、王、貴族、ユダヤ人、ローマ人の心を覆っている、硬い殻に外から力を加えて壊すためにエルサレムに上られる訳ではないのです。ではどのようにされるのか、主イエスは自らの命を用いて、彼らに立ち上がれない程の大きな失敗を経験させるのです。彼らは自らの手で、罪なき神の小羊である主イエスを殺します。ゴルゴダの丘で十字架にかけて殺すのです。自分たちのエゴや利益、見栄、傲慢、偏見や無知のために、神の救いの手を振り払ってしまうのです。しかし、その深い後悔に心を痛めた者たちは悔い改めます。そして自分の心を包んでいる殻を、自分で割るのです。そんな彼らを主イエスは赦されます。主イエスは復活されて悔い改めた者たちを赦されるのです。
私たちも失敗を経験しなければなりません。失敗はしようとしてするモノではない。その通りです。しかし目を逸らさず自分を見つめるなら、罪を自覚できます。「私」がこの手で主イエスを十字架に架けたと気づくのです。そして悔い改めるなら、私たちは殻を割ることができます。自由になります。
自由とはこの世の支配から解放されることではありません。自分を包む殻を割ることです。そして新しい世界に新しく生まれることです。主イエスはそのために十字架に架かられました。感謝しつつレントを歩みましょう。