礼拝説教原稿

2022年3月

「一人称の信仰」2022/3/20

マルコによる福音書8:27-33

近くで見るとよく分からないけれど、少し離れて遠くから見直すなら見えてくるものがあります。このあいだ教会の駐車場のライン引きをしました。敷地の端から正確に距離を測り、養生テープを貼っていきます。そうしてから、テープとテープの間を白いペンキで塗っていく、という作業です。ですからテープが歪み無く真っ直ぐに引かれていれば、ラインも真っ直ぐに美しく引くことができます。養生テープを両端から引っ張って真っ直ぐに貼っていくのですけど、五メーターの長さです歪ませないためには、慎重さが必要です。貼った後、少し離れた所に立って見直します。すると所々微妙に均等でない部分があることに気づかされるのです。巻き尺で測るとズレています。人間の目分量に感心させられます。巻き尺でミリ単位で正確に計って位置を定めることも大切ですが、最終的には遠くから離れて見直してバランスを取って張り直しました。これまで、どんな仕事でも、仕上げには職人の勘が頼りになる、という場面を沢山見てきましたけれど、こういうことなのだと思います。初心者は近くから見るのです、でも経験を積んだ職人は遠くから眺めるのです。
今朝与えられました御言葉に戻ります、ここには主イエスと弟子たち、特にペトロとの会話が記されています。しかしよく読んでみるなら微妙に噛み合っていないことがわかります。神の視点から語る主イエスと、人間の視点から答えるペトロのズレを読むことができるのです。でも主イエスはペトロがズレていることを叱るために、このような問答を仕掛けたわけではありません。主イエスは彼に、人の目の限界を悟らせ、神の目に信頼するように教えるのです、そして後に、主イエスが十字架に架かって復活した時、ペトロは主イエスの話した言葉の意味を悟るのです。今朝の御言葉を共に読み進めてまいりましょう。
さて、今朝の御言葉の場面は、フィリポ・カイサリア地方に向かう道です。ガリラヤ湖の北、ヘルモン山の麓です。この地域は標高が高く地下水も湧き出るので、気候は温暖で優しい、王や貴族が別荘を建てる避暑地、そのような場所です。
しかし、エルサレムから遠く離れていること、そしてメソポタミヤやローマの文明の影響を強く受けている地域で、異教の神々が祀られた神殿が幾つも建てられていたと言われています。
主イエスと弟子はそんな土地に向かいます。その道の途中、近くに弟子のほか誰もいない場所で、主イエスは弟子たち訪ねるのです。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(マルコ福音書8:27)と聖書には記されています。
弟子たちは口々に答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(マルコ福音書8:28)弟子たちは主イエスの言葉を聞いて、主イエスが自信を失っていると受け取るのです。世論の支持率を見ながら政策を決める政治家のように、主イエスがこれからどうしようか迷っている。そのように弟子たちは受け止めるのです。ですから弟子たちは主イエスに気持ちを高揚させよう、力づけようとご機嫌取りを始めます。「先生はあの洗礼者ヨハネよりも、エリヤよりも、どんな預言者よりも素晴らしい方です」と答えるのです。弟子たちは基本的に優しく忠実です。誰よりも主イエスを信頼し、どうしたら支えれるか、彼らなりに真剣に応じるのです。
しかし、主イエスの表情は曇ったままです。そしてさらに弟子たちに尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(マルコ福音書8:29)この言葉を受けて弟子たちは、今度は主イエスが自分たちの忠誠心を試している、と受け止めるのです。世間の風評に流されるのではなく、あなたたちは私を信じているのか、私に従ってくる決意があるのか、そう聞いているように受け取るのです。
そこでペトロが答えます。彼は自分を弟子たちの中で一番弟子、つまりリーダーです。ここは私が先生を元気づけなければと彼は奮起します。そして「あなたは、メシアです。」(マルコ福音書8:29)と答えるのです。原文では「あなたはキリストです」(Cristo/ß Christos)となります。この「キリスト」とは「油注がれた者」という意味です。つまりこの世から神のために取り分けられた方、この世に終わりが訪れる時に現れる救い主を意味します。ペトロは自分の頭で考えられる最大限の褒め言葉を使って主イエスを讃えるのです。「世間が何と言おうが、先生を批判しようが、私たちは、そして私は先生に従っていきます。安心して下さい。」それがペトロのこの告白の心の内です。
ではペトロの言葉を聞いて、主イエスは喜んだのでしょうか、自信を取り戻したのでしょうか、というとそうではないのです。「するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」(マルコ福音書8:30)と聖書は記します。
この「戒める」はとてもキツい言葉です。「厳しく戒めた」の方が正確です。主イエスは「いやいや、君たち、それは言い過ぎだよ」と照れたとか、気恥ずかしさを隠すような態度など、まったく見せません。逆に真剣に弟子たちを戒めるのです。
この主イエスの態度と言葉を聞いて、弟子たちは我に返ります。今までの、仲間うちの軽い雑談のような雰囲気は一転します「主イエスは本当に、御自分がメシアであることを隠しているようだ」と考えるのです。目の前にいる主イエスが偉い先生とか神から遣わされた預言者とか、そんなこの世の存在ではなく、神が直接この世に使わした神の子だと、御自分のことを話されていたことに驚くのです。
それから主イエスは真剣な表情を変えずに、話し始められます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(マルコ福音書8:31)とあります。
主イエスはこれからのことを弟子たちに話し始めます。私は殺される。そして三日目に復活すると話すのです。
主イエスは御自分がメシアであることを暗に態度で示されたばかりか、メシアとしての主イエスが後に殺されるだろう、と弟子たちに話すのです。弟子たちはこの言葉を、これは預言の言葉ではなく、将来、揺るぎなく実現する事実だと受け止めるのです。
ペトロも主イエスの言葉の重さを頭では理解します。しかし心は拒否する、受け入れることができないのです。主イエスはメシアだった。神の子だった。その話すことは必ず実現する。つまり主イエスは長老、祭司長、律法学者たちに殺される。そう理解するのですけど、そんなことがあってはならないと考えるのです。
そしてペトロは主イエスを脇にお連れして、動揺している他の弟子たちから引き話して、二人だけでいさめます。「先生、そんなことを言ってはいけません。そんなことはありえません。他の弟子たちも動揺しているではないですか。」
主イエスは振り返って不安そうな表情をしている弟子たちを見ます。そしてペトロを叱るのです。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ福音書8:33)サタンとは人と神との関係を邪魔する者のことです。主イエスはペトロに、あなたの心はサタンに支配されている、そう話すのです。神の計画、主イエスの言葉よりも弟子たちの不安を慰めること、自分の考えと感情を優先している。と厳しく叱るのです。
でもこの時、主イエスはペトロを嫌ったのか、というと、そうではないと、私には思えるのです。主イエスも自分から進んで十字架に架かりたいわけではないのです。誰よりもその痛みや苦しみ、そして、今目の前にいる弟子たちでさえ逃げ出す事まで知っているのです。主イエスもできれば十字架を回避したい思いを持っているのです。主イエスが十字架に架かる前の晩、ゲッセマネの園で汗が血の様に滴るまで深く祈られます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ福音書14:36)と祈るのです。
ペトロのこの時の言葉は、主イエスにとって悪霊の囁く誘惑の言葉になるのです。ペトロにとっては、主イエスへの信頼と尊敬と、すべての愛を以て投げかけている言葉なのですけど、主イエスにとっては、御自身の身を天国と地上の間で引き裂こうとする言葉になるのです。
主イエスは最初から気落ちして、弟子たちに尋ねたわけではありません。人々は私のことを何者だと言っているか、あなたがたは私のことを何者だと告白するのか、と聞いた理由は、誰が何と言おうとも、あなたがたがどう考えようと、主イエスがメシアである事実を明らかにしておくこと、です。ガリラヤでの宣教が進み、多くの人々を教え諭し、癒やし、立ち上がらせたあと、これから主イエスは一気にエルサレムに上り、メシアとして神がこの世の全ての人を救う計画の中に用いられていくのです。この伝道の折り返し地点で、主イエスは弟子たちに話さなければならないのです。御自分がメシアであること、しかしその神の子を長老、祭司長、律法学者たちは排斥するのだと、弟子たちは自分たちの目で見なければならないのです。
この「排斥」(apodokimazo)とは捨てる、拒絶するという意味です。長老、祭司長、律法学者たちだけではなく、この世のすべての人々は主イエスを捨てるのです。預言者としてではなく、教師としてではなく、神の子として排斥するのです。この世の人々が神を捨てる、その様子が目に見える姿で具現化する。それが十字架のなのだと主イエスはこの時、弟子たちに教えるのです。
ペトロは主イエスと別れたくない。離れたくない、という一途な思いで主イエスを引きとめます。しかしそれは人間の願望であり願いなのです。神の計画を妨げるなら、それが人の目から見て、どんなに慈愛に満ちた言葉であっても悪霊の誘惑の言葉に等しくなるのです。神は永遠を見渡して、人を救うための一本の線を引かれるのです。しかし人は足下の線だけしか見ることができません。それが人の限界なのです。
しかし主イエスは弟子たちを、この人の限界から引き上げて下さいます。十字架の死の後に、復活されるのです。人間には限界があるけれど、神と共にいるなら、その限界を超越できると、そう教えるのです。
私たちも迷うことがあります。目の前に悲惨なできごとが起こると「なぜ神はこの世を見棄てられるのか、なぜ私を見棄てられるのか」と嘆くのです。
しかし神が私たちを捨てたのではなく、その前に、私たちが神を捨てて【いた】のです。そして神の視点を失い、目先の正義や利益や理解、判断を優先する。そして闇の淵を歩くことになるのです。しかし私たちが神に心を向け悔い改めて祈るなら、神は復活して私たちの傍らに寄り添って下さいます。そして私たちに神の視点を与えて下さるのです。祈りには即効性はありませんが、必ず聞かれます。ともに祈り会いましょう。

「たとえ闇が深くとも」2022/3/13

マルコによる福音書3:20-27
以前働いていた頃のことです。働いていた営業所から一週間ほど離れて、他の営業所の手伝いに行くよう命じられました。その営業所でも基本的に同じ仕事をしているのですけれど、行ってみると使う機械の型式が違っていたり、手持ちで使う道具も手順も違うのです。でもとても新鮮でした。新しいアイデアをもらったり、逆にこちらからアドバイスしたり、学びが多いのです。でも一番新鮮だったのはその営業所で働いている人たちとの人間関係です。私は、外から来た助っ人という立場なので、とても気が楽だったのです。
仕事場という狭い環境では、ほぼ毎日、いつも同じメンバーで顔を合わせます。どうしても人間関係が濃くなります。上手く行っているときは良いのですけど、もし意見が噛み合わず気まずくなるなら仕事に支障が生じます。さらに深刻な対立に陥って仕事から外されるなら、お互いに死活問題になります。ですからそうならないように、一人一人の役割(縄張り)がなんとなく決まっています。それぞれが相手の縄張りに入らないように、距離を取りながら、場の雰囲気を読みながら、与えられる膨大な仕事を協働して消化していくのです。
ではそんな人間関係に疲れを覚えるだけなのか、というと、そうではありません。関係が良好なとき、仕事の成果が出ているときは、そのチームの中に自分がいる、という居心地の良さを感じるのです。自分も仲間として認められている、居場所を与えられていることに安心するのです。
そのような人の心の在り方は、仕事場のような利益共同体だけではなく家族とか地域という生活共同体に於いても同様です。もっと広く国家という枠組みでも同様です。人間とは不思議なもので、縛られるなら窮屈さとストレスを覚えるのですけど、逆に縛られていないと不安を覚えるのです。
例えば聖書に描かれているユダヤ人たちは律法という戒律に縛られていました。毎日の生活の中でやって良いこと悪いことが細かく定められていて、毎日、朝、午後、夕方と三回、祈りの時間が定められていました。安息日にはすべての者が仕事の手を休めて会堂に行き礼拝を捧げます。そこですべての男性は聖書朗読をします。そのために彼らは子どもの頃から聖書を読む訓練をするのです。ではユダヤ人たちは嫌々律法に縛られていたのかというと、そうではありません。彼らは喜んで縛られていたのです。律法に縛られていることに安心し、そんな自分たちを誇りに思っていたのです。
では神は、その様な在り方を良しとされたのでしょうか。そうではありません。神の子である主イエスは人々を束縛から解放する為に活動されます。神は人が自由であることを望むのです。主イエスは、ユダヤ人たちが自主的に入っている檻の鍵を外し、扉を開き、外ヘと導きます。しかし人々はそんな主イエスに抵抗します。このまま檻の中に居続けていた方が幸せだと抵抗します。そして主イエスを十字架に掛けて殺すのです。
今朝与えられました御言葉から、私たちは主イエスの業に抵抗する者たちの姿を見ることができます。主イエスは何と戦って十字架に掛けられたのか、その痛みの意味をともに聴いていきましょう。
さて、場面はカファルナウムの町です。そこにはペトロの家があり、ペトロの妻とその母が住んでいました。少し前の箇所に、妻の母親(つまりペトロにとってはしゅうとめ)の病気を主イエスは癒やされた出来事が記されています(マルコ福音書1:30)。またコリント人への手紙にはペトロの妻は後にペトロの伝道旅行に同行していた、とあります(一コリント9:5)。つまり二人とも、この時には、主イエスを助ける信徒としての働きをしていたと考えることが自然です。そして彼女たちはガリラヤ地方の伝道からカファルナウムに帰ってきた主イエスと弟子たちを迎え入れ、料理を作りもてなすのです。主イエスと弟子たちは、長旅から自分の【家】に帰ってきて、やれやれと荷物を下ろした、そんな場面です。家庭的な雰囲気です。
しかしすぐに、主イエスは料理を口にすることができない程に忙しくなります。「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」(マルコ福音書3:20)主イエスが帰ってきたことを聞きつけた町の人や、カファルナウムで主イエスの帰りを待っていた人々が次々と集まってきたからです。
その人々の中に、遠くからわざわざ訪ねてきた二つのグループがありました。一つは主イエスの身内の者たちです。この身内とはナザレに住んでいる主イエスの母や兄弟も含めた親戚たちのことです。彼らはナザレで主イエスの噂を聞くのです。「あの男は気が変になっている」(マルコ福音書3:21)と聖書に記されています。この「気が変になる」(existemi)は「正気を失う」とか「恍惚状態になる」という意味です。ユダヤ教の文化では恍惚状態になって神の御心を推し測るとか、占うという行いはもっとも嫌われていました。信仰は熱狂的で曖昧なものではなく、聖書に記され、律法に明らかにされているように、理知的に理解でき、冷静に判断できるもの、でなければならなかったのです。ですから自分たちの身内、自分の【家】から、怪しげな、いかがわしい者が出ることは恥なのです。彼らは自分たちの恥を拭う為に、主イエスを取り押さえて、ナザレに連れて帰ろうとするのです。
もう一つのグループはエルサレムから下ってきた律法学者たちです。彼らはわざわざエルサレムからカファルナウムまでかなりの距離を下ってきます。その目的は、主イエスの言動を監視するためです。
彼らはエルサレムで主イエスの噂を聞いて様子を見に来るのです。彼ら主イエスを洗礼者ヨハネの弟子だと考えていました。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことは一般的に知られていたからです。でも実際に主イエスを見て、主イエスが病を負う人の病を癒やし悪霊を追い出す姿を見て恐れるのです。律法学者たちは「『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」(マルコ福音書3:22)とあります。
ベブゼブルとは「蠅の王」という意味です。元々はペリシテ人の町、エクロンの神バアル・ゼブル、これは「高貴な家の神」という意味なのですけど、発音の似たヘブライ語で言い換えて揶揄してベブゼブル、排泄物やゴミにたかる神、となった訳です。しかしそうやってユダヤ人の祭司や律法学者が、土着の信仰としてベブゼブルへの信心を馬鹿にしたとしても、やはり土着の偶像崇拝への信仰は強いのです。民衆の多くは、ベブゼブルの偶像を家の守り神として飾っていたのです。
現代でも家の中に神棚があったり仏壇があったり、玄関に魔除けも御札やしめ縄が貼られている家があります。その感覚と同じです。その家に属する者たちの無病息災、商売繁盛、開運祈願を願う思いはいつの時代にあっても変わりません。家を守る神、住んでいる地域を守る神、このような偶像崇拝は家、つまり自分の属する共同体のメンバーを守る象徴として信仰の対象にされるのです。
ですから律法学者たちは、主イエスが悪霊を追い出す姿を見て、ベブゼブル(家の神)の力を使って癒やしの業を行っていると批判するのです。主イエスを偶像礼拝者として、主なる神を冒涜する者として批判するのです。
そこで主イエスは反論します。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。『どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。』」(マルコ福音書3:23-26)
今まで私は、この「イエスは彼らを」の「彼ら」を律法学者たちのことだと読んでいました。けれど、何度もの読むうちに、この「彼ら」は律法学者たちだけを相手にしているのではなく、身内の者たちにも掛けた言葉なのだと気づかされました。主イエスがここで話す言葉の中心は「家」(oikia)です。主イエスは彼らに「家」というこの世の共同体の中での問題を解決する為に働いている訳ではないと話すのです。癒しの目的はその人の病気が治ることにあるのではなく、癒やされた人が神に立ち返ることにある、と話すのです。そして神の共同体に導くために働いていると話すのです。
さらに主イエスは「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(マルコ福音書3:27)と話します。
主イエスがこの世に来られた目的は、この世の自分の属する共同体に縛られている人々を解放すること、自由にすることです。ではどうするか。ますこの世に束縛されている人々を解放します。でも人々は束縛を解かれるなら不安になるのです。そこで主イエスは彼らを新しい束縛、つまり神の束縛によって新しく縛るのです。例えば主イエスはユダヤ人を律法という束縛から解放しました、その後で、新しい掟を授けて、その掟に縛られるようにされたのです。ではこの新しい掟とはなにか、というと、それは「互いに愛し合うこと」です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ福音書13:34)とあるように、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する、その愛に束縛されなさいと、そう話されるのです。
身内の者たちは、主イエスを自分と同じ家に属する者としてしか見ることができないのです。律法学者たちは主イエスの癒やしの業に目を奪われて、癒やしの本質、主イエスを通して働いている神の御手を見ることができないのです。
もし彼らが、癒やされた人の喜びや感謝に目を向けることができれば、主イエスと癒やされた人との間に生まれた愛という関係に目を向けることができれば、彼らも主イエスの背後に神の姿を認めることができたはずです。律法学者たちはエルサレム神殿という宗教共同体から外に出ることができたはずです。身内の者たちもナザレという生活共同体から外に出ることできたはずなのです。
さて、私たちは果たして自由でしょうか。私たちもこの世を生きている限り様々な共同体の一員として所属しています。では主イエスは私たちに、この世の共同体から外に出て、私に従いなさい、と話すのでしょうか。主イエスは漁師をしていたペトロに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ福音書1:17)と声を掛けます。そしてペトロは「すぐに網を捨てて従」(マルコ福音書1:18)うのです。
でも先ほど読みました御言葉にペトロの妻と姑の姿を読み取ることができます。つまり「すべてを捨てて」とは、この世の共同体との関係を断つということではなく、この世の共同体を包括する、その上にある神の共同体に自分が属していると知ること、なのです。私とあなたという関係の間に二人を繋いでいる神の存在を確認することなのです。それが神の家族という共同体なのです。
主イエスは、この世の罪という暗闇に身を隠そうと望む者たちを解放する為に、十字架に架かれました。暗闇から外に出る時に感じ痛みを、代わりに負って下さったのです。そして復活されました。外に出ても命は終わらない、まだ先があると明らかにして下さったのです。感謝しつつ、魂の自由を共に得ましょう。

「悪霊の誘惑」2022/3/6

マルコによる福音書1:12-15

今朝、この礼拝から教会の暦である教会暦は受難節になります。先週の水曜日、この日は灰の水曜日と呼ばれるのですが、そこから主イエスが十字架に掛けられ、墓に納められた受難日まで、日曜日を除く四十日間を私たちは主イエスの十字架の受難を覚える時節となります。
では「キリストの受難」とはどのような苦しみを指すのでしょうか。私たちは「受難」というと、十字架上に磔にされた主イエスの姿を思いうかべるのです。犯罪者と共にゴルゴダの丘で十字架に掛けられる主イエス。血と汗を流され、痛みと渇きと苦しみの中で死んでいった主イエスの姿です。
しかしキリストの受難とはなにか、とあらためて考えてみるならば、十字架に架かられた、その瞬間の出来事だけを指しているわけではないと分かります。なぜなら、肉体的な痛みが受難とするなら、主イエスの隣の十字架に掛けられた犯罪者たちであっても、同じ痛みを味わっているからです。これまでの歴史の中でも、数え切れない程多くの人々が同じような経験をしています。では主イエスは無罪だったのに、祭司や律法学者たちの謀った策略に落ちた、その悔しさ無念さが受難なのでしょうか。主イエスに従ってきた弟子たちは尻尾を巻いて逃げだし、イスカリオテのユダは祭司たちに銀貨十枚をもらい裏切ります。誉め称えたエルサレムの人々も手のひらを返して、蔑みの声を上げ、主イエスに唾を吐きかけます。このような精神的な苦痛が、キリストの苦難の意味なのでしょうか。これも違います。謀略や裏切りなどはこの世にあっては日常です。屈辱的な扱いも、誰もが経験していることです。
この「受難」(pathema)という言葉の原語の意味は「その人の身に起こること」です。そこから「罪に駆り立てられる」という意味に使われるようになりました。つまり「受難」について私たちは「激しい精神的に肉体的苦痛」という意味に捕らえがちなのですが、もっと意味は深いのです。「罪」とは「的外れ」を意味します。つまり人が神以外のなにかを神として拝むこと、「罰」とは人が神以外のなにかを強制的に拝ませられることです。
つまり「神から引き離そうとする誘惑」こそがキリストの受難の本来の意味なのです。主イエスは神の御子であり神御自身です。つまり神と一つであった方が、神から引き離されて地上に遣わされること、その派遣自体がキリストの受難なのです。
神は自分の御身体を裂いて、主イエスを切り離して地上へと遣わされました。自らの一部を罪のただ中に投げ込まれたのです。神は十字架上で痛みを負われた、ではなく地上に遣わされた時点で既に痛みと困難を負われているのです。
そう理解しますと、今朝の箇所の意味が見えてきます。共に読み進めましょう。
さて、今朝与えられました御言葉はマタイによる福音書の最初の場面です。主イエスはガリラヤのナザレから出て(マルコ福音書1:9)洗礼者ヨハネのもとに行き、ヨルダン川の水に浸されて洗礼を受けます。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(マルコ福音書1:10)と聖書には記されています。このようにして主イエスの公生涯が始まります。つまり公にこの世に福音を伝える伝道活動を始められるのです。でもそれは同時に神の子が神から離れてこの世に来られた、ということを意味するのです。
その象徴的な出来事が、荒野で悪霊からの誘惑を受けられる、という出来事です。「それから、”霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(マルコ福音書1:12-13)と聖書には記されています。主イエスは荒野に退かれます。そこで悪霊からの誘惑を受けるのです。この誘惑の内容についてはマタイ福音書(4:1-11)やルカ福音書(4:1-13)に詳しく記されています。悪霊は主イエスに「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイ福音書4:3)と話します。しかし主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ福音書4:4)と応えます。次に悪霊は主イエスを神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ福音書4:6)と話します。
しかし主イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(マタイ福音書4:7)と応えられます。さらに悪霊は主イエスを高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタイ福音書4:9)と話します。しかし主イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(マタイ福音書4:10)と話し、悪霊は退くのです。
悪霊の誘惑は巧みです。主イエスを「神から離れても、あなたは一人ですべて巧くやることができる。いや、あなたは神よりも巧くやることができる」と誘惑するのです。しかし主イエスはそのような言葉をことごとく退けます。悪霊の誘惑には乗らないのです。
そしてマルコ福音書には、マタイ福音書やルカ福音書にはない言葉が記されています。それが「その間、野獣と一緒におられたが」(マルコ福音書1:13)という言葉です。野獣と一緒にいる、という言葉で思い浮かべるのは、イザヤ書十一章です。この世に救い主が王として来られた時の様子を、預言者イザヤはこのように記します。
「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11:6-9)それはアダムが追放される前のエデンの様子であり、人が罪を負う前の世界の姿です。主イエスが退かれた荒野は天の国だったということです。
荒野とは、人も動物も住むのに適さない土地です。草木は生えず、岩がゴロゴロと転がっています。強烈な日差しが照りつけ汗は乾燥し、喉に舌が張り付きます。私たちからするなら、荒野に留まるということは苦しみのただ中に置かれるということは最大の受難のように感じられるのです。
しかし荒野であっても、そこに神が共にいるなら、エデンが現れると、聖書は明らかにします。本当の受難とは肉体的な困難、暑さや乾燥ではなく悪霊の囁きに心を惑わされることなのです。「神から離れなさい、あなた一人ですべて上手くできる」そう話す言葉です。
こんな荒れた地を離れて世に戻るなら、渇きを癒やし飢えを凌ぎ、病気や怪我からも守られる、権力や財力や知恵を用いて苦しみから逃れなさいと、その誘惑こそがキリストの味わわれた受難なのです。
そして主イエスは悪魔の誘惑の言葉をすべて退けます。主イエスは、この四十日四十夜にわたる悪霊の誘惑に打ち勝たれます。主イエスは神から離れることなく、四十日四十夜、神と共にあって幸いの中に置かれるのです。
しかし主イエスは荒野に留まることをしません。荒野を出てガリラヤに向かい神の福音を宣べ伝え始められます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マタイ福音書1:15)と話されるのです。
主イエスは荒野というエデンを出て、つまり神の国から離れて、敢えてこの世に帰って来られます。なぜ主イエスが神から離れるという苦難の中に身を投じたのか、その理由は、ただ一つ、私たちを救うためです。私たちをこの闇の世界からもう一度光の中に引き上げるためです。神から離れている自分の魂に気づき、悔い改め、もう一度神の下に戻ること。天の国に属する者になりなさい、その準備ができた主イエスは伝えるのです。
主イエスの受難とは、神の子であり神と一体であった主イエスが神から引き離されてこの地上に来られたことです。そして主イエスは十字架に架かり、目に見える形でその肉体を引き裂かれます。人はその痛みと流された血を見て、自分自身も神から引き剥がされていることに気づきます。エデンから離れたところに住んでいること、受難の中に置かれていることを知るのです。
さて、では私たちは自分の魂が神から離れていることを痛みとして感じているのでしょうか。あまり感じていないように思います。教会の礼拝を守らなくても生きていける。自分の好きなときに、適当に礼拝を守れればそれでいい。信仰がなくても礼拝を守らなくても十分だと考えたりするのです。それは私たちが現代の社会にあって信仰を持つ自由を与えられ、礼拝を守る自由を与えられているからだと、そのような見方もできます。蛇口をひねれば水が出る環境に慣れてしまって水が貴重であることを忘れているのです。
例えば初代教会の信徒は、ローマ皇帝から「私が神だ」私を礼拝しなさい。と命じられました。それを断るなら、迫害を受けて殺されるのです。そのような状況に陥って、彼らはキリストの受難の本当の意味を知ることとなります。
神と一つになること、礼拝を守れることはあたり前のことではない。礼拝を取り上げられた時に初めて気づかされるのです。パウロはコロサイの教会に宛てた手紙にこのように記します。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1:24) 
例えば今日、この時からキリスト教に対する国家の弾圧が始まって教会で礼拝を守ることを禁止されたならどうでしょうか。もしくは社会情勢が変化して奴隷として扱われるようになったとすればどうでしょうか「あなたは国家の所有物であって人格はないのだから、神を礼拝する必要はない」と言われれば、どうでしょうか。その時初めて私たちは、主イエスが受けた受難の痛みと同じ痛みを感じることができるのかもしれません。
人類は長い時間と多くの犠牲の血を流して、礼拝を守る自由と信仰の自由を勝ち取ってきました。主イエスの受難を覚えるとき、私たちはその遺産の上にあぐらをかくのではなく、継承して行かなければならないと、あらためて考えさせられるのです。
主イエスは十字架に架かり身を裂かれる姿を私たちに見せて、私たち自身も天の国と地上との間で、今この時、身を裂かれているのだと気づかせて下さいました。しかし主イエスは復活されて、私たちの傍らに戻って下さいました。私たちはこの世にあっても、祈りと礼拝によって主イエスとの交わりに引き戻されるとき、神と共になる。つまりエデンに戻ことができると。教えられているのです。