礼拝説教原稿
2022年2月
「嵐のただ中にいても」2022/2/27
マルコによる福音書4:35-41
近くの公園で子どもたちが「たか鬼」をして遊んでいました。寒さなんかまったく気にならないようで、元気に走り回っています。たか鬼のルールは簡単です。一人が鬼になって、他の子どもは捕まらないように逃げ回ります。でも滑り台とかベンチとか、高い場所は安全地帯なので、乗っかっている間は鬼に捕まえられません。そこで鬼は大きな声で十を数えます。鬼がゼロまで数える前に子どもたちは他の高い所に移らなければなりません。子どもたちは楽しそうに走り回っていました。
そんな姿を見ながら、私たちにとっては教会が「たか鬼」安全地帯になっているのかもしれないと、考えていたのです。教会に来て会堂に入れば平安が与えられます。心を静かに祈ることができます。美しい旋律の讃美歌を歌うことができて、聖書の御言葉によって悔い改めへと導かれ、赦しと平安が与えらます。自分の話を静かに聴いてくれて、同じ価値観を共有できる友がいて、一緒に何気ない話しができます。悲しみも喜びも、共に祈り合うことができます。何よりも、神の前にあって自分が一人の価値ある命だと確認できます。教会の外の世界では、社会という機械のなかの一つの部品のように扱われたり、十分に機能しないとか、壊れたなら取り替えるよ、と脅されながら息をしているのです。けれど教会という交わりの中に置かれている間は、私たちは一人一人は神が愛されている大事な命であると教えられます。そのままで神は私を愛してくれていると礼拝の中で宣言され、正しい命の認識に立ち戻され、安心を与えられるのです。
しかし、私たちはずっと教会のまじわりの中に留まり続けていることはできません。鬼が十を数える前に高い場所から降りなければならないように、私たちは礼拝から、また日常に出かけなければならないからです。また安全地帯に戻って来られる時まで、日常を歩まなければならないのです。
では私たちは、教会から一歩外に出るなら怯え続けなければならないのか、というと、そうではありません。なぜなら主イエスはいつも側におられるからです。しかし私たちは見失ってしまうのです。そして恐れに心を襲われるのです。
今朝の御言葉から私たちは、私たちの側にいつもおられる主イエスの姿を知ることができます。そして教会の交わりの外にある社会の中にあって、私たちを守られている主イエスの、そして神の御腕を見ることができます。共に読み進めましょう。
今朝、与えられました御言葉の場面は、ガリラヤ湖の湖畔です。主イエスは弟子たちに湖の沖に舟を出させて、そこから岸にいる人々に話しをされました。集まって来た人々は、水辺や岸壁に座って話しを聞きます。中には自分の舟に人を乗せ、主イエスの舟の近くに寄せて話しを聞く者たちもいるのです。
そして夕方になります。主イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」(マルコ福音書4:35)と話します。夜になる前に集まっている人たちを家に帰すため、そして御自分も休まれるために人々から離れようとされた、と考えることがもっとも自然でしょう。しかし弟子たちはその言葉に恐れを抱くのです。なぜなら主イエスが向かおうと話すガリラヤ湖の向こう岸は、ユダヤ人ではないゲラサ人の住む土地だったからです。このあとマルコ福音書五章ではゲラサ人レギオンと主イエスの物語が描かれています。そこにゲラサ人が豚を飼っていたという記述があります。律法に定められているように、ユダヤ人にとって豚は汚れている、つまり不浄な動物なので、触れることすらタブーです。まして食べることなどもってのほかです。つまりユダヤ人にとってゲラサ人は豚を食べる、野蛮な、関わるべきではない者たちと考えられていた、ということです。しかし主イエスはそのゲラサ人の住む、ガリラヤ湖の対岸に渡ろうと弟子たちに話したのです。
それだけではなく、時は夕方です。これから日が沈み始めます。舟に乗っている弟子たちうち、ペトロを含む四人はガリラヤ湖の漁師です。彼らは熟練した操舵技術を持っています、湖の水流についても熟知しています。でも同時に湖の恐さも知っています。夜中の湖の沖合に気軽に漕ぎ出せるほど、湖は人間に対して優しくはないことを彼らは知っているのです。けれども弟子たちは主イエスに言われた通り沖に舟を漕ぎ出します。自分の教師の求めに従うことが弟子の役割なのです。「ほかの舟も一緒であった。」とあります。舟の上から主イエスの言葉を聞いていた人たちの舟も、始めのうちは主イエスを乗せた舟に従うのです。でも彼らはすぐに危険だと判断して引き返したと、そう考えられます。結果的に、主イエスは人々から離れて、ゆっくり休むことができることになります。そして主イエスは舟の艫の方で、横になるのです。
さてそんな中、ペトロたちの不安は的中します。日が沈み、辺りが暗くなってから、風が強く吹き始めるのです。波が高く立ち、舟はうねりに揉まれ身動きがとれなくなります。弟子たちは、このままでは舟が沈んでしまう、湖に投げ出されて波にのまれて死んでしまうと恐れるのです。今の時代のように対岸に電灯の光が見える訳でもなく、月が出ていなければ辺りは真っ暗です。舟の構造は堅牢ではありません。墨のように重くて黒い波に襲われるなら、簡単に砕けしてしまうのです。
では、そんな混乱の最中、主イエスはどうしているのかというと、「艫の方で枕をして眠っておられ」(マルコ福音書4:35)るのです。艫の方とは、舟の船尾のことです。そこには櫓を漕ぐ人が座るためのクッションのようなものが置かれていたのですけれど、主イエスは、それを枕に寝ているのです。
弟子たちは主イエスを起こそうとします。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(マルコ福音書4:38)と聖書にありますが、主イエスの寝ていたのは舵を切る、櫓を漕ぐ人が座る場所です。つまり弟子たちは、寝ている主イエスを【退かして】、櫓を漕いで、なんとか舟が沈まないように舟の姿勢を保とうと考えるのです。この弟子たちの声には主イエスに対する苛立ちと焦りが見えてきます。「そんなところで寝てないで、邪魔だからどいて下さい」という態度の言葉を弟子たちは主イエスに投げかけたのです。
そして主イエスは起きて立ち上がります。「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。」(マルコ福音書4:39)と聖書には記されています。主イエスの言葉に従い、すぐに風も波も静かになります。湖は凪になるのです。
主イエスは弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(マルコ福音書4:40)と話しします。弟子たちは主イエスを畏れて「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」(マルコ福音書4:40)とお互いに話し合うのです。
この時に弟子たちが主イエスに抱いた【畏れ】と、主イエスが「向こう岸に向かおう」と話したときに弟子たちの抱いた【恐れは】は同じ言葉ですけれど意味は違います。
最初の「恐れ」(deilos)は「臆病な、怖がる」という意味の恐れです。でも奇蹟を行った後の主イエスを見た弟子たちの「畏れ」(phobos)「恐れおののく、畏敬を抱く」の畏れです。まったく違う二つの「おそれ」を聖書は記しているのです。
ではなぜ、主イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」(マルコ福音書4:35)と話したのでしょうか。それは人々から離れるため、休憩を取るためでしょうか。でも私は、弟子たちに「おそれ」の本質を教えるためだと、そう考えるのです。
主イエスはこれまで弟子たちに、そして集まってくる人々に、癒やしと平安、福音を伝えてきました。そして一緒にお互いのことを思い合いながら心を神に向けるところに神の国が現れる、あなたがたは神の国を求めなさい、そこに帰属しなさいと教えるのです。そのようにして、散らされたイスラエルという羊をもう一度御自分の下、つまり神の国に集める(詩編23)、その牧者としての役割を主イエスは行われるのです。
しかし神の国は、この世にあって成長する過程にあり、完成してはいないのです。人々は神の国に導かれ、その交わりの中に入れられ、憩いを与えられても、また社会に出ていかなければならないのです。そこはゲラサ人のように、同じ信仰をもっていない者たちの住む場所であり、日が差さない暗闇であり、波が立つ嵐の湖なのです。そして、主イエスを見ると寝ているのです。神に祈っても何も応えてくれない。神は沈黙されたままなのです。人々は主イエスを脇に【退かして】自分で櫓を手にとって、なんとかして舟が沈没しないようと考えるのですが、どうにもなりません。しかし、主イエスは起きて立ち上がり、人々が想像すらできないようなやり方、完全に人間の業を超越した仕方で解決されるのです。
主イエスはこの経験を通して弟子たちに、「この世を【恐れ】るのではなく神を【畏れ】なさい」と教えられるのです。マタイによる福音書にはこうあります「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ福音書10:28)またイザヤ書にはこうあります「まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。」(イザヤ書33:22)
神を畏れなさい。そうすればあなたがたはこの世の恐れからは解放される。主イエスはこれからこの世界に教会を建てていく弟子たちに教えるのです。
私たちもこの礼拝が終わったら、世に漕ぎ出して行かなければなりません。外の世界は風が強く波は高く、闇に包まれています。そして世に出るなら、まるで主イエスは眠っているように感じられるのです。沈黙されているように感じるのです。しかし、そんなことはありません。主イエスはこの世の理などに影響されることなく私たちの想像することもできない仕方で、すべてを正しく解かれるのです。私たちはこの世を恐れることなく、主イエスを脇に退けようとするのではなく、主イエスがすべてを良い方に進めてくれると信じ、その主イエスを畏れ信頼するのです。
この教会も、この世の荒波に揉まれている舟です。しかし、目の前に困難が見えたり、転覆しそうになったとしても、私たちは恐れる必要はありません。恐れるのではなく、神に信頼し、神を畏れ頼るのです。大声で祈り、主イエスを起こすのです。さすれば主イエスは嵐を治めて下さいます。
「非常識な行動でも」2022/2/20
マルコによる福音書2:1-12
先週、教会の隣の家屋の解体作業が行われました。もうだれも住んでいなかった家屋を取り壊されて更地になりました。作業にあたっていたチームはトルコから来られた方々で、とても手際よく、一週間ですっかり終わりました。最近は廃材の分別が厳しく決められているので、ただ壊せば良いというわけではありません。ユンボという重機の先に蟹の手のようなアタッチメント(グラップル)をつけて、建屋の部材を器用に分解しながら木材、金属、コンクリートに分別し、それぞれをトラックのバケットに積んでいきます。集められた部材は廃棄されるのではなく、リサイクル施設で粉砕して再利用されます。彼らの作業は慎重で丁寧でした。ホースで水を掛けながらゆっくり崩して行きます。けれど、それなりに粉塵は舞います。それに重機が動く度に地面が地震のように大きく揺れるのです。別に文句を言うために話しているのではありません。私はそんな作業を見ながら、もし私が部屋にいるときに家屋の天井が剥がされたなら、さぞかし沢山の粉塵が舞うだろうなぁ、と考えていたのです。
それは、今朝与えられた御言葉の場面です。家の中にいた人たちは我慢ならなかっただろう、と想像できます。しかし、主イエスは、そんな迷惑な行動をした者たちに、信仰を見( horao)るのです。この言葉は「目で見る」よりも「見抜く」という意味です。ではこの時、主イエスが見抜かれた信仰とはなんだったのか、共に御言葉に聴いていきましょう。
さて、今朝の御言葉の場面で、主イエスはカファルナウムを拠点にして方々の街や村を回り、弟子たちと共に福音を伝える働きを行っていました。そして、再びカファルナウム帰ってきた時のことです。町の人々に主イエスと弟子たちがペトロの家に入ってことを知り、集まってくるのです。聖書には「大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。」(マルコ福音書2:2)と、その様子が記されています。家の中に入ることのできた人々はギュウギュウ詰めになって、土間に座ります。そして主イエスは彼らに向かって、天の国について、救いについて、福音を話し聞かせるのです。人々も喜んで聞いていたことでしょう。そんな最中に、突然、屋根からガタゴトという音が響きます。そして屋根に穴が空けられるのです。少々この状況を想像しやすいように、この時代の家屋の構造を話します。
当時のパレスチナの家屋の構造は、とてもシンプルでした。幾つもの岩を積み、隙間を漆喰や藁を混ぜた泥で埋めます。そうやって四方に高い壁を立ち上げます。次に壁の上面の縁に木材の梁を何本か渡します。その梁の上を棕櫚などの植物の葉で覆い泥を塗って乾かします。それを何度か繰り返すと、丈夫で十分に強度がある屋根になります。日本のように頻繁に雨が降る地域ですと瓦を引く必要があるのですけど、パレスチナ地域は乾燥しているので、あまり防水性は求められないのです。
こんな構造を抑えて、この御言葉の場面を想像するなら「屋根に穴を空ける」という行いが如何に常識外れか理解できます。梁の間の天板を剥がすな、室内にはバラバラと土の塊が落ち、土埃が舞い立ちます。壁面には小さな明かり取りの窓しかないので、部屋の中には昼間でも薄暗いのです。そこに屋根の穴から一条の光が一直線に差し込むのです。人々は寿司酢目状態で人々が座っていました。ですから逃げ出すこともままなりません。パニック状態に陥るのです。
そんな混乱も最中、屋根から担架がゆっくりと、四方を縄で吊されて降りて来ます。部屋の中にいた人々は、すぐに悟ります。主イエスに病を癒やしていただきたい、でも近づくことができないと考えた者たちが、突飛な行動を起こした、迷惑なことをしている、そう理解するのです。そして怒ります。屋根の上にいる男たちに罵声を浴びせ始めるのです。
さて、そんな喧噪の最中にあって、説教を中断された主イエスはどんな表情をしていたのか、というと、屋根にいる四人の男たちと、吊されている一人の男の姿を見ながら、ただ一人、微笑んでいるのです。そして担架で吊されて降りてきた人に「子よ、あなたの罪は赦される」(マルコ福音書2:5)と話されます。正確には「赦す」が完了形なので「子よ、あなたの罪は赦された」です。どういうことでしょうか。人々は、この主イエスの言葉に首を傾げたことでしょう。何を言っているのか理解できなかったからです。
この時代、ユダヤの人々は病について、悪霊の仕業だと考えていました。その人や、その両親、家族が悪霊にそそのかされて神から離れた結果、神からの罰として病が与えられる、そのように考えられていたのです。ですから、この中風の男は、罪を負っているから、病を患っていると、その場にいる全ての人々は考えていたのです。けれど主イエスは中風の人に触れることも、その病を治すことなく、つまり、まだ中風が治った訳でもないのに「あなたの罪が赦された」と話されたのです。
主イエスはなぜこんな矛盾を為されたのでしょうか。でも矛盾ではないのです。主イエスの話す「罪の赦し」とは、人が神に立ち返ることです。神と人の断絶した関係が繕い直されることです。病が治ることではなく、放蕩息子が回心して父である神の家に帰ること、それが神の赦しなのです。
この中風を患った人は担架に乗せられて、四人の仲間に縄で支えられて、優しく屋根から下ろされました。この四人の仲間は、彼の病が主イエスの力によって癒やされると信じています。ですから、多くの人から罵声を浴びせかけられ、非難されることを覚悟した上で、この強硬に及ぶのです。そして主イエスは彼らの行いを見て、信仰を見抜かれました。この四人の男と中風の男との関係のただ中に、主イエスは天の国を見るのです。四人の男たちは自分たちのためにではなく、愛する者のために進んで犠牲になります。愛する者が救われる希望を抱いて、彼を神(主イエス)の下に連れて行く。そして担架に乗せられた中風の人は、ただ四人の男たちを信頼して、彼らに身を委ねるのです。この関係性こそが天の国そのものなのです。
天板が剥がされ、モウモウと土埃が舞い、人々は混乱し、怒りと憤りに満ちたその部屋の中で、主イエスは地上に現れた天の国を見ていたのです。そして、この中風の男に「赦された」と宣言されたのです。中風の男は既に天の国を味わっているし、四人の男たちも、その関係性の中で天の国を味わっていたからです。つまり彼らは神との正しい関係に立ち返ることができたのです。
この様子を見ていたカファルナウムの人々は、なぜ主イエスが喜んでいるのか、なぜ主イエスが「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言されたのか、まったく理解できませんでした。しかし、この一部始終を見ていた律法学者たちは違いました。彼らは明確に【心の中】で主イエスを非難するのです。聖書にはこのように記されています。「ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』」(マルコ福音書2:6-7)
神の他に人の罪を赦すことができるものはいない(出エジプト34:7)。その通りです。しかし彼らが主イエスを批判した理由は、別のところにありました。それは病の癒やしについてです。
律法学者たちの下にも、いつも多くの病を負った者たちが来ていたのです。病を負った者たちは律法学者にと問い掛けるのです。「私はどんな罪を犯したから病を負ったのでしょうか。どうすれば神は赦してくれるのでしょうか。どうすれば神からの罰は免除されるのでしょうか。」。病を負った我が子を抱きかかえた母親は「私がどんな罪を犯したから、この子は病を負ったのでしょうか。どうすれば、この子は助かるのでしょうか。」と律法学者に問い掛けるのです。しかし、彼らにはどうする事もできません。彼らはただ「会堂に行き、祭司に願い、神に贖罪の捧げものを捧げなさい」と話し「共に神の赦しを求めて祈りましょう」と言うことしかできないのです。彼らがどんなに強く必死に祈っても神は応えてくれません。病は癒やされることなく、やがて力尽きて死んでいきます。目の前で死んで行く者たちの姿を見続けているうちに、感覚が鈍ってくるのです。心が空しくなるのです。
その律法学者たちの前で主イエスは「子よ、あなたの罪は赦された」と大声で宣言するのです。その姿を見て律法学者たちは憤るのです。「赦された」と言うだけなら誰でもできる。と【心の中で】つぶやくのです。でもこの言葉を彼らは人々の前で、口に出して言うことはできません。なぜなら彼らも自分たちを頼って訪ねてきた病を負った者たちに「罪が赦されるように神に祈りましょう」と声を掛けていたからです。祈っても無駄だ、意味がない、神は沈黙されている、と心で思いながらも、彼らは病を負った者に慰めの言葉を語りかけ続けていたからです。彼らは悪人ではありません。心から病が取り去られるように願っていますし、人々の幸いを必死に祈っているのです。でも同時に自分の無力さに打ちひしがれているのです。
主イエスは彼らの心を見抜きます。彼らの憤慨を、ではなく、彼らの失望、無力感、悲しみを見抜かれるのです。そして彼らに、彼らが本当にすべきことは何か、を明らかにされます。「イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。『なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に言われた。『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』」(マルコ福音書2:8-11)
律法学者たちにするべきことは病を負った人と一緒に、心を一つに合わせて神に祈ることだったのです。その時、祈りの交わりのただ中に、既に天の国が来ていたのです。しかし律法学者たちは気づくことができませんでした。なぜなら彼らは、病気が治る、という結果だけに心を奪われていたから、です。
主イエスは、この世にあって天の国を手にすること、つまり神に心を向け期待し、お互いに祈り合うことのできる仲間が与えられるほうが、病が癒やされることよりも遙かに尊いと話されます。そして治療は人の力で為されるのではなく、神の一方的な恵みの業であることを教える為に、神の子である主イエスは中風の者を完全に癒やされ、立ち上がらされたのです。「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。」(マルコ福音書2:12)と聖書には記されています。
主イエスは天国を麦の種に譬え、成長し実りをつけるまでの過程だと話します。私たちの目は麦の穂がつける実りにばかり目を奪われるのです。しかし実りは神のものであって、私たちのものではありません。麦の穂が成長する様に私たちが互いに互いのことを覚えて祈るなら、その交わりの中心に主イエスが立たれ、そこに天の国が現れるのです。
私たち信仰者の使命は、この地上に天の国を実現することです。それぞれが相手の名前を呼び合いながら、神に希望を望みつつ祈りあう関係を、この教会に於いて実現していきましょう。
「心に蒔かれる種」2022/2/13
マルコによる福音書4: 1-9
先日教会の駐車場の掃除をしたときのことです。正面階段の横に大きな鉢植えが置かれていて、これを動かそうとしたのですけど持ち上がりません。大きな鉢ですけれどプラスチック製で、そこまで重そうではありません。聞いてみると、この植物の名前はシマトネリコ、と言うそうです。なんだかかわいい名前です。そこで体勢を変えて、腰を入れて思いっ切り引っ張りあげると、ようやくバリバリと音を立てて鉢植えが持ち上がりました。見ると鉢の底の穴から根が伸びていて、アスファルト舗装表面の細かい穴(細孔)の奥にまで根を伸ばし、ガッチリ噛んいました。地面が土なら、さもあらん、ですが、植物の生命力の強さに感心させられました。植物は地面に根を張って水分や養分を吸い上げて成長します。土壌という無生物と植物という生物は、まったく性質が異なります。でもその二つが一つになって、一つの命が創られているのです。
今朝、与えられました御言葉の中で、主イエスは種を蒔く人の譬えを話されます。主イエスは御自分の言葉を聞こうと集まってきた人たちに、御言葉をどのようにして聴き、自分の心に受け止めれば良いのかを教えるのです。でもそこで終わりではありません。この御言葉の核心はそこから続く出来事です。つまり、蒔かれた御言葉があなたがたの心に根を張って、ガッチリ噛むなら、その御言葉はあなたを土壌にして恵みを実らせます。その実りが新しい種になり、さらに誰かの心に蒔かれ恵みを実らせるのです。その連鎖によってこの地上に天の国が広がると、主イエスは話されるのです。つまり天の国の成長が、この御言葉の核心なのです。共に御言葉に聴いて行きましょう。
さて、この御言葉の場面は、主イエスがガリラヤで伝道を進められていた時のことです。主イエスの下には多くの人たちが集まってきましたが、一つ問題が生じていました。それは主イエスが重い皮膚病の人を癒やした、という噂を聞いた病を負った人々が、自分も癒やしてもらおうと主イエスの下に集まってきた、ということです。そのために主イエスはゆっくりと人々に教えを伝えることができなくなってしまうのです。
そこで主イエスは弟子たちに舟を用意するように頼み、沖に出て、舟の上から人々に話しをするようになります。このようにすれば、病を負った者たちが近づいて来られないからです。治療のことを手当、といいます。つまり病気を負った者に手を当てる、ことで治療が行われるのですけど、主イエスは手を当てられない距離に離れ、人々に自らの言葉だけを伝えるようにされたのです。
主イエスは人々の病を治療する為にだけ、この世に遣わされたわけではありません。その働きはこの世に生きる私たち人間と神との、分断された関係を繕い直すことです。その手段は神からの言葉を伝える、ということです。神は私たちを一つの独立した人格として創造されました。ですから神は私たちに命令や強制・強要をされません。人は、神の言葉、つまり御言葉を聞き、自分の心と頭を使って受け止めて、自分の意志で行動に移すのです。では、その御言葉をどのように受け止めれば良いのか、主イエスは譬えを用いて教えられます。
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(マルコ福音書4:3-8)
農夫が種を蒔くために畑に向かいます。肩から斜めにかけた袋に沢山の種を入れているのですけど、畑に行く途中に、その幾つかが堅い道端に落ちるのです。落ちた種はカラスに見つけられて食べられてしまいます。
この種とは主イエスの御言葉です。そして地面は私たちの心です。この道端に落ちた種とは、堅くなってしまった私たちの心に弾かれた、主イエスの御言葉です。
私たちは、ときどき心に余裕がなくなるのです。困った問題を抱えたとき、追い詰められて焦っているとき、悲しいとき、苦しいとき、心は堅くなって、誰からの言葉も跳ね返します。大抵、トラブルの切掛けは自分の外から与えられるのですけれど、その困窮が深くなる原因のほとんどは、自分の内にあります。つまり私たちは「こうしなければならない」「こうでなければ恥ずかしい」「みんなこうしている」という思い込みで問題に対処する傾向があるからです。
すると当然、考えつく発想も選択肢も狭まり、解決は遠のきます。そんな時こそ誰かに話して助言を求めるならば、八割方は解決するか、少なくとも方向性が見えてくるのですけれど、それができません。なぜなら自尊心や羞恥心、冷やかされることを嫌うからです。そうやって悪循環に落ちるのです。
折角、神が御言葉を与えて下さっても、その言葉を弾いてしまう。そして弾かれた種はカラスの餌になります。受け入れることはできないのです。
そして農夫はようやく畑に着きます。この当時の農法は、畑に畝を立てるのではなく、地面に均一に種を蒔いていきます。ですから種は様々な場所に落ちます。ある種は石だらけで土の少ないところに落ちます。土が浅いのですぐに目を出しますが、日が昇るとすぐに枯れてしまうのです。
この石だらけで土の少ない地面とは、知的な好奇心や自分の興味から御言葉を聞く者の心です。御言葉は知恵に満ちています。彼らは哲学や心理学、社会学、歴史や物語としての興味から御言葉に飛びつくのです。しかし、そのようなアプローチで御言葉に関わろうとするなら、御言葉は単なる聖書研究になってしまいます。学びになってしまうのです。そして関心を失うと、彼は勝手に卒業と考えて、御言葉から離れるのです。
実に教会は、その二千年の歴史の中で、何度も御言葉に対して、石だらけで土の少ない地面になってしまった、という経験を重ねてきました。御言葉を神格化したり、逆に細かく研究して解釈する試みを行うのです。それは御言葉を自分たちの命から切り離して、神秘的にではなく知性的に、主体的にではなく客観的に扱おうとする試みでした。でもその結果、教会は命を失い、恵みに実をつける前に枯れてしまうのです。そこで、そのような過ちを再び繰り返さないために、現在の教会は洗礼と聖餐という聖礼典を大切に守っています。自分の心で捉え、頭で納得するだけでなく、自分の言葉で公に告白すること。主イエスの流された血と、引き裂かれた肉に拠って私は救われた、と頭で理解し、納得するだけではなく、実際に自分の体と命を用いて食感と味覚を用いて味わうのです。
次の種は茨の中に落ちます。最初はしっかり成長するのですけど、茨に遮られてそれ以上、伸びることができず実を結びません。
種が蒔かれた彼の心には信仰が根付き始めるのです。しかし成長し茎が伸び、葉が茂るとその姿が目立つようになります。この世の目に晒されるのです。すると様々な試みが与えられるようになります。彼はこの世の人間関係や親族、自らの富、世の権威・権力、世間の風評・意見、批判・評価に心を奪われるようになり、天から降り注ぐ太陽の光は遮られます。そしで成長が止まり、実をつけることはできないのです。
特に日本の社会に生きる私たちは、この種のように実をつけるに至らない在り方を、何度も見てきているように思います。この社会にあって、同調圧力は強く働いています。隣の人の行いを見て自分の行いを決める、という傾向です。自分がどう考え、どう行動するかは、二の次になってしまうのです。しかし信仰は、自分と神との直接的な命のやり取りです。この世の誰の手も借りられないし、自分の頭で考えて心で感じるしか自分の心に御言葉を、そして信仰を根付かせる手段はありません。それに絡みつく茨を取り除こうとするなら、その細かい棘が手や腕や足に絡みつき、皮膚に突き刺さります。血が流れ痛みを覚えるのです。しかし、その痛みを負わなければ神からの光は得られないと、私たちは肝に銘じる必要があるのです。
さて、良い土地に落ちた種は、しっかり地面に根を張って、茎を伸ばし、葉を広げ成長し、やがて実を結びます。あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなります。
では、私たちが自らの心を耕し蒔かれた御言葉の種が育ち、やがて与えられる実とはなんでしょうか。それは知識でも富でも健康でも、信頼でも品格でも権威でもありません。
「アーメン」「ああ」「確かに」「その通り」神がおられること、その確信を与えられるのです。逆に、私たちは信仰を得ることによって、この地上で苦労して手に入れてきたすべての物や事を失います。正確には地上で得てきたそれらは、神の栄光に比べるなら、無価値だと気付かされるのです。つまり、たとえすべて失ったとしても、まったく惜しくない、なぜなら神が新しく与えて下さるから、と信じる信仰が与えられるのです。ヨブ記にはこのように記されています。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)私たちの心にまかれた種がつける実りとは、この神への絶対的な信頼と確信です。そして、その実りから得られた種は、私たちを苗床にして、さらに多くの人の心に蒔かれるのです。
では、そうすれば私たちは、自分の心を耕して、柔らかくし、御言葉を受け、実りを得ることができるのでしょうか。例えば私たちは、最愛の人から送られてきた手紙を小説や参考書、辞書や取扱説明書のようには読まないのです。言葉や行間、文字の向こう側にいる、手紙を書いた人の姿を思いうかべて、言葉にならない思いを汲み取り、心を躍らせるのです。そして私たちは聖書の御言葉も、自分に送られてきた手紙のように読むのです。主イエスの御言葉は、神が私たち一人一人に送った手紙です。私たちはその御言葉の背後に、主イエスの姿を思い浮かべながら神の愛を信じつつ読むのです。私たちはガリラヤの草原で、エルサレム神殿の境内で、オリーブ山で弟子たちに語られた主イエスの姿を思い浮かべるのです。弟子たちと関われた主イエスが今、私にも話し掛けられていると覚えて、読むのです。そして主イエスは自らが十字架につけられる痛みを厭わずに書いた手紙だと言うことも、私たちは心に捉えなければならないのです。
そのようにして、私たちが受け止めることができた御言葉は、私たちの心の中で成長します。勘違いしていけないことは、私たちの態度や力量によって成長は早められたり、遅延するものではない、ということです。神が育てられるのです。御言葉は私たちの心に根を張り、私たちと一つになるのです。
神は私たちの心に種を蒔き、育て、実りを与えて下さいます。そして実りは新しい種となり、この世の多くの人の心に蒔かれます。神はこうして、世に天の国が創造されます。私たちは神がこの世界に天の国を創造されている、その業に用いられるのです。そんな大それたこと、と思われるかもしれません、でも「私はできない」いうことも神はなさいます。私たちは大地に広がる土の役割を担えば十分なのです。共に感謝し歩みましょう。
「自分の心を動かして」2022/2/6
マルコによる福音書4:21-34
お腹が空いている時に、アピタに買い物にいくと、余計なお惣菜を一品多く買ってしまいます。そして結局、食べ切ることができず残して冷蔵庫に片づけることになります。でも、お腹が空いていないときに買い物に行くなら、焦ることなく冷静に判断し、必要なものを必要な分だけ買うことができるのです。人は、お腹が満たされているなら、心も落ち着くものです。そして、この【満たされてこと】が天国とは何かを考える上での、一つのキーワードとなります。
天国とは、頭上の空間を表す言葉ではありません。天国とは、すべての事柄が必要十分に神から恵みとして与えられていて、すべてが満たされている状態、のことだからです。
世間で広く認識されている感覚では、この天国について、人がこの世の歩みを終えた後、つまり死の後に辿り着く国として受け止められています。確かにそれでも間違いではありません。なぜなら、この世に生きる誰もが、この世の命を終えた後には、神の御前に迎えられ、天国に招かれるからです。
主イエスの時代のユダヤ人たちも同じように考えていました。つまりこの世の終わり、終末が来たとき、それまで陰府(シェモール)に寝かされていた者たちと共に、人々はメシア(救世主)に立ち上がらされ、神に招き入れられ天国に入るのです。でもその時、目に見える世界はまったく滅びる、消え去ると考えられていました。洗礼者ヨハネでさえも、そのように考えていました。ですから彼は、終末が来る前に悔い改めなさいと、人々に話します。その言葉を聞いて恐れた人々は、世界が滅びる前に水による洗礼を受けて、少しでも自分の罪を軽くしておこうと、洗礼者ヨハネの下に殺到したのです。
しかし、主イエスは、そう教えませんでした。人はこの世の命のただ中にあっても天国を先取りできる、と教えたのです。そして終末とは戦争とは災害のことではなく、あなたたちと神との関係、この世と神との関係が刷新されることだと、教えられるのです。主イエスの言葉を受け取り、福音伝道に赴いた使徒パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中でこう書きます。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(二コリント5:17)この主イエスの言葉を聞いたユダヤ人たちは腰を抜かすほど驚くのです。そして主イエスの教えを新しい教えとして受け止めたのです。
では聖書では、天国とはどのような場所としてイメージされていたのでしょうか。預言者イザヤはこのように話します。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。(イザヤ書11:6-9)天国では狼も豹も獅子も小羊や子山羊と共に住む、とあります。毒蛇も蝮も幼子と戯れます。それは猛獣も蛇も満腹で満たされているので、他の動物を攻撃することも捕食することもないのです。そもそもアダムが追放されたエデンの園こそが、天の国そのものです。この園に於いては、食べ物も生きる場所も、必要のすべてが神から与えられていて、アダムとエバも含め、すべての生き物は満たされているのです。
そしてもう一つ、大事なことが新約聖書に記されています。それは主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、荒野に退かれ、四十日間サタンの誘惑を受けられた、という記事の中にあります。聖書はこう書き表します。主イエスは「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(マルコ福音書1:13)この「野獣と一緒におられた」という言葉の意味は「天使が守っていたから野獣に襲われなかった」ではなく「野獣たちは主イエスと共に満たされていた」という意味です。つまり主イエスは荒野という過酷で荒れ果てた地上に天国を創造されるのです。主イエスは天国を先取りして味見して、この天国の幸いを、世へと伝え始められるのです。「時は満ち」た(マルコ福音書1:15)と宣言し、二匹の魚と五つのパン(マルコ福音書6:42)で人々を満たすのです。人々と天国の幸いを分かち合われるのです。
さて、私たちは【既に】神によって満たされています。【既に】この世に天国は来ているのです。
また使徒パウロの言葉を引きますが。彼は「わたしの恵みはあなたに十分である。」(二コリント12:9)と話します。これが主イエスの話す福音の言葉であり、今朝与えられました御言葉にある「ともし火」(マルコ福音書4:21)です。今朝与えられました御言葉を共に読み進めます。
「また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」(マルコ福音書4:21-23)
天国はすでに与えられている。その真理は升の下に隠すために与えられている訳ではなく、全ての人に明らかにされるために与えられている。そして「聞く耳のある者は聞きなさい。」と主イエスは話されるのです。天国は全ての人に明らかにされています。聞く耳を持つモノには、誰にでも明らかにされるのです。
しかし、この世にあって、ともし火は隠されるのです。なぜなら人々が「足りない」と感じている方が都合の良い者たちが多くいるからです。お腹を空かした人がいないとパンは売れません。消費者に、足りない、満たされていないと信じ込ませなければ商品は売れません。商売だけでなく教育の現場でも同じです。教師は、あなたの知識は足りない、もっと勉強して賢くなりなさいと教えます。十分に社会経済は肥大化しているのに、まだ足りない、十分ではない、もっと働け、という言葉が響きます。加えて国家の為政者たちも、人々が飢えている方が支配しやすいのです。彼らは、私たちがあなたの欠けを埋めてあげよう、満たしてあげよう、と語り掛けことができるからです。
主イエスは話します。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マルコ福音書4:24-25)
「あなたは欠けている」というこの世の言葉に惑わされないように、あなたたちは「聞く耳」を持たなければならない、と主イエスは話されます。
私たちがもし「自分は足りていない」という秤で自分自身を量るなら、持っている物まで奪われるのです。しかし「自分は足りている」という秤で自分自身を量るなら、私たちは神からさらに与えられ、満たされるのです。
でも私たちはどのようにすれば、この世にあって天の国を得ることができるのでしょうか。自分が神に愛されている、全て与えられている、十分だと、足りていると、知ることができるのでしょうか。
主イエスは譬えを用いて、弟子たちに教えます。「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。』」(マルコ福音書4:26-29)この神の国とは、先ほど話した様に天の国のことです。聖書に記されている天の国(βασιλεία τῶν οὐρανῶν)と神の国(βασιλεία τοῦ θεοῦ)の意味は同じと考えて差し支えありません。「神」と直接表現することは畏れ多いので、「神」を「天」と柔らかく表現しているだけです。そして人は天の国がどのように成長するか知らない、と主イエスは話します。
現代に生きる私たちは、なんとなく、種がどうやって土の中で芽をだすか、分かっているような気がしています。でもそうでしょうか。少しばかり遺伝子を操作できて品質を改良することはできます。それに土壌の成分、水分、栄養、温度、日射量などの環境を整えることはできます。しかし肝心な種、そのものを作ることはできません。畑に種を蒔く事はできますが、その種はいつのまにか芽を出し、茎を伸ばし、葉を広げ、人の手を介すことなく成長するのです。
この世にあって天の国もおなじように、人の手を介すことなく成長します。私たちに手をだせることは、この地上に、そして私自身の心の中に、主イエスの福音の御言葉という種を蒔くことだけです。私たちにも少々の環境を整えることは、できるかもしれません。でも肝に銘じるべきは、私たちがどんなに焦っても、騒いでも、頑張っても、天国が大きくなるわけではない、ということです。逆に水をやりすぎると根が腐り、肥料をやり過ぎると根が焼けます、太陽にあてすぎると葉が痛みます。私たちは蒔いた種をいつも気に掛け、神が絶妙な塩梅で種を成長させる、その様子を見届けるのです。そしてもう一つ、この言葉から聞かなければならないことは、収穫は私たちの取り分ではなく、すべて神に捧げられる、ということです。
主イエスはさらに、天の国を芥子種に譬えられます「更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ福音書4:30-32)地上にあって福音の種は、芥子種のように、本当に小さな粒なのです。そこになにか意味や力や価値があるようには思えないのです。しかし芥子種は大きく成長します。やがて空の鳥が巣を作るほどに大きく枝を張るのです。天の国は必ずこの世にあって広がるのです。
そして、この世にあって教会とは、天の国を先取る場所です。私たちは、満たされていない、足りていない、という思いを引きずって教会の扉を入り、礼拝を通して神と出会い、すでに与えられている恵みを確認させられるのです。真理に気づいた者たちは、神に感謝し祈り、讃美します。その喜びを、礼拝堂に集う者たちと共に分かち合うのです。
イギリスの小説家トーマス・ハーディは「宗教の中心的な目的は、人を天国に入れることではなく、彼に天国を得させることです。」(The main object of religion is not to get a man into heaven, but to get heaven into him.)と話します。教会の目的は頭上の天国を切望し神を仰ぐことではありません。私たちは目の前にいる主イエスに従い、この世に天国をまち望むのです。
教会がもし、「あなたの信仰は足りないからもっと強くしなさい」とか「聖書の学びが足りない」とか「奉仕が足りない」と話すなら、それは主イエスの身体としての教会ではありません。私たちは全てを神からすでに十分に与えられていて、それでも溢れ出る恵みを教会に集う友と共に奉仕として用いるのです。教会は「足りない」という秤を捨てなければなりません。そしてその秤を捨てて「足りている」という秤を持つなら、教会に集う私たちの力ではなく、神が教会を育てて下さいます。芥子だねのように、大きな木に成長するのです。
そして信仰者である私たちは「我に神からの恵みは足れり」という言葉を日々告白しつつ、共に歩みましょう。
礼拝説教原稿
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