礼拝説教原稿
2021年12月
「きらめく星を追い求め」2021/12/26
マタイによる福音書2:1-12
今の時期、夜空を見上げると沢山の星が輝いています。そして誰もが、夜空を見上げれば同じ星を見ることができます。それは桑名とか、日本だけではなく、世界中、どの地域に行っても、夜空を見上げれば同じ星を見ることができるのです。例えば海外に行って、夜に空を見上げますと、天空上の位置は違いますが、でも同じ形の星座を探すことができます。あたり前のことですが、驚くべきことです。
そして神は、この夜空に瞬く星を使って、この世に御子イエスキリストの誕生の知らせを伝えました。それはすべての人々に、もれなく救い主の誕生を告げ知らせるためです。でも、そのメッセージを正しく受け取って、産まれたばかりの救い主を拝むことができた者たちは、ほんの僅かなのです。その者たちが、先ほど読みました御言葉の中に描かれている「占星術の学者たち」です。彼らは御子イエスを見つけて、拝んで喜ぶのです。
占星術の学者たちから、神の御子の誕生のニュースを聞いた人たちであっても、御子に出会うことができなかったのです。彼らも夜空を見上げれば、星の瞬きを見ることができたのに、彼らは空を見上げなかったのです。
私たちに与えられる神からの恵みも、これと同じです。神はこの世界のすべての人に【もれなく】主イエスを明らかにされました。誰にでも分かる姿で、誰もが、主イエスを知ることができます。しかし恵みに預かる者は僅かなのです。
なぜでしょうか。そして如何すれば、私たちは、この恵みに預かる事ができるのでしょうか。今朝与えられた御言葉から、共に聴いて行きます。
さて、今朝与えられた御言葉は、神の御子主イエスがこの世に送られた、クリスマスの物語です。主イエスはエルサレムから南に十キロほど離れた街、ベツレヘムに産まれます。その主イエスを探し求めて「占星術の学者たち」(マタイ福音書2:1)がエルサレムにやってきます。彼らについて聖書には「東の方からエルサレムに来」た(マタイ福音書2:1)と漠然と書かれています。
ユダヤから見て東というと、バビロンでありアッシリアでありペルシアです。昔(六百年前)ユダヤを滅ぼして、人々を奴隷として連れて行った国、主なる神を信仰しない異邦人の国です。そしてこの占星術(magos)とは、その名の通り「占い」です。そもそもこのマゴスという言葉は、マジックの語源です。でも昨今の占いとは違い、彼らの仕事は天文学に近かったと考えられています。
彼らは天体の動きを観察し、過去から蓄積された膨大な記録と重ね合わせます。そうやって、これから起こるだろう洪水や嵐、飢饉、地震、疫病、などの自然災害を予測し、種まきや収穫時期などの農耕、政治と密接に関連していた祭儀に使う暦を作ります。王も役人も彼らの言葉に従って政治を行います。商人も農民も同様です。ですから彼らの社会的な身分は高かったのです。
そんな占星術の学者たちがラクダに乗って、従者を連れてはるばるエルサレムの街を訪れるのです。普段はあまり見かけない高価な衣装を着た身分の高そうな異邦人は、それなりの人口(三万人ほど)を抱えていたエルサレムの街中でも目立ったことでしょう。
そして彼らは人々に尋ねるのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ福音書2:2)その様子はすぐにヘロデ(ヘロデ大王)の耳に入ります。そこでヘロデは彼らを自分の王宮に招き入れます。でも歓迎して招いたというより、騒ぎが大きくなる前に人々の目から彼らを隠すのです。
さて聖書には、占星術の学者たちの言葉を聴いて「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」(マタイ福音書2:3)と記されています。なぜ、ヘロデは不安をいだいたのでしょうか。それはヘロデが彼らの(占い)の言葉を信じたからです。そして新しく現れるだろうユダヤの王によって、自ら築いた王座が脅かされることを恐れたのです。ヘロデはそれまでの人生をかけて、苦労して就くことができた王座に執着していました。だから彼はこれまで、少しでも王座が奪われる雰囲気を嗅ぎ取ると、それが側近であっても自分の息子たちや親族であっても容赦なく処刑しました。語呂合わせで「ヘロデの息子(ヒオス)よりヘロデの豚(ヒロス)の方が長く生き残れる」という言葉が残っている程です。
ヘロデだけではなくエルサレムの市民も不安を感じます。この時、ユダヤはローマ帝国の属国になっていました。ローマは共和制から帝政に代わり、アウグストゥスが初代皇帝として立ったばかりです。ユダヤを含めて地中海周辺地域の国々は、有史以来何百年も常に戦争を繰り返していました。しかし、ようやくローマがすべての国を制覇し属国にするのです。その結果、戦争のないパクス・ロマーナ(ローマによる平和)が実現しました。国家間の戦争や民族間の紛争がなくなり、統一した言語や貨幣、法律が定められます。文明は飛躍的に発展し、繁栄するのです。しかし、こうして作られ平和は、やはり作られた平和なのです。属国になった国々にはローマの駐屯軍が置かれ、治安を守るのですが、同時にローマに反逆する者たちは捕らえられました。もし、属国の王や貴族たちに、少しでも反乱の兆しが見られた時には、すぐにローマ軍が動き、国ごと滅ぼされるのです。
しかしユダヤのヘロデ大王とローマ帝国との関係は良好なのです。彼は純粋なユダヤ人ではなくエドム人です。にも関わらず、彼は先の戦でローマ軍と共に戦い戦果をあげます。そしてローマを後ろ盾にしてユダヤの王としての権力を手に入れたのです。
ユダヤの人々は、新しい王など現れずにこのまま、繁栄と安定が続くことを求めるのです。救い主など迷惑なのです。
そこでヘロデは祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただします。彼らは、聖書に記されている預言者たちの言葉を引いて「ユダヤのベツレヘム」(マタイ福音書2:6)と答えます。
この言葉を聞いたヘロデはひそかに占星術の学者たち呼び寄せて、星の現れた正確な時期を確かめます。このひそかに(lathra)という言葉は「小声で」という意味です。ヘロデは「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(マタイ福音書2:8)と話します。そう話しながらも、ヘロデに拝む気など微塵もないのです。この時、ヘロデは新しく生まれたユダヤの王が成長する前に、力をつける前に、影響力を持つ前に、乳飲み子のうちに、ひそかに、この世から消し去ってしまおうと企むのです。
さて、占星術の学者たちはエルサレムの街の外に出ます。そして再び星を追います。彼らは新しく産まれる王について、ユダヤの新しい王なのだから、ヘロデ王の子どもとしてか、それとも祭司の子どもとしてか、それとも学者の子どもとしてか、少なくともユダヤで一番大きく栄えている街で生まれたのだろうと考えていたのです。だから彼らは三つの贈り物を携えていました。王の象徴である黄金、祭司が祭儀で使う乳香、そして賢人(医者)が沈静・鎮痛剤として治療のために使う没薬です。しかし彼らの予想は外れます。エルサレムではなかったのです。でも彼らはさらに南に進み続け、ベツレヘムに入るのです。
「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」(マタイ福音書2:9)と聖書には記されています。彼らはついにヨセフとマリア、そして産まれたばかりに主イエスを見つけます。彼らは喜びに包まれ主イエスの前に額づいて拝み、持参した贈り物を捧げます。
しかし、彼らはヘロデのところ、つまりエルサレムに立ち寄らず、そのまま自分たちの国に帰っていきます。それは「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあった」(マタイ福音書2:12)からです。神は主イエスはヘロデの手から守られるのです。
この世に与えられた救い主を探し当てて、喜び救いを得たのは、異邦人の占星術の学者たちでした。ではなぜ占星術の学者たちは、救い主に会えたのでしょうか。
それは、彼らの占いの力ではありません。レビ記に記された律法は、きつく占いを否定します。「あなたたちは血を含んだ肉を食べてはならない。占いや呪術を行ってはならない。(レビ記19:26)さらに律法には、占い師の命を絶たなければならないと定められています(申命記13:6)。では彼らに主なる神への信仰があったからか、というと、それも違います。彼らは主なる神を信仰しない異邦人です。では彼らが沢山の贈り物を携えることが出来るほど、裕福だったからか、というと、そうではありません。彼らは自分たちの財力、影響力を使って導かれた訳ではないからです。それに彼らの知力に拠ってでもありません。彼らの予想したエルサレムに主イエスは居なかったのです。
神が彼らを導き、彼らは星を目指して愚直に進みました。立ち止まらずに探し続けました。そこに主イエスを見いだす事ができたのです。
では私たちは、如何すれば彼らのように主イエスと出会うことができるのでしょうか。してはいけないことは明かです。ヘロデのように、自分の力で自分や隣にいる誰かを救うことができる、とは考えないことです。私たちは自分で自分を背負う事はできません。それにエルサレムの人々のように、この世の繁栄に心を奪われたり、根拠のない噂話や批判、流言に惑わされないことです。そして祭司長たちや律法学者たちのように、聖書を閉じたままにしないことです。ちゃんと聖書を開いて、読んで、探して、神が自分に語り掛けてくださる言葉を見つけることです。そして占星術の学者たちのように、輝く星を追って、神からの救いを探し続けることです。そうすれば必ず神は、私たち一人一人にふさわしい救いを、与えて下さるのです。
この世界のすべての人は、夜空を見上げるだけで、すぐに瞬く星を見ることができます。同じように、この世のすべての人は、心の目を神に向ければ神からの救いに預かることができます。しかし、心の目が自分に向いていたり、地上に向いているなら、つまり内側とか、下を向いているかぎりは、それに預かれないのです。そして私たちが空を見上げたなら、神は私たち一人一人に、追うべき星を備えて下さいます。でも、見つけただけで満足しては行けません。その星を追って前に進まなければなりません。探さなければなりません。探すための地図として、聖書が与えられています。聖書を持っているだけで、救われたと勘違いしてはいけません。聖書は開かなければ意味はないのです。
私たちは、追い求め続けましょう。立ち止まることも、いい加減なところで満足することもなく。主イエスを仰ぎ見るために進みましょう。そして私たちには、共に歩む仲間が与えられています。それがこの教会です。共に肩を貸し、支え合いながら、前に進みましょう。
疑いの闇を晴らす光 2021/12/24
ルカによる福音書2:1-20
主イエスの誕生を告げる天使たちの声が、先ほど読みました聖書の御言葉に記されています。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ福音書2:14)詩文ですので、少し分かりにくいのですけど、少し噛み砕きますと、こうなります「神に最大の栄誉が与えられ、地上には平和がもたらされ、人々がその平和に預かるように」。天使たちは、この世に生まれた主イエスを、地上に平和をもたらす者として讃えるのです、では、天使たちが話すこの平和とはなんでしょうか。私たちは今晩、この事を御言葉の中から聴いていきたいと思います。
さて、私は先ほどルカによる福音書の記事を読みました。ここに主イエスの誕生の物語が記されています。その物語を福音書記者ルカはローマ皇帝アウグストゥスが行った人口調査の出来事から始めます。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。」(ルカ福音書2:1-2)
なぜ福音書記者ルカは、主イエスの誕生の物語を、ここから始めたのでしょうか。皇帝アウグストゥスは初代ローマ皇帝です。正式な名前をガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスと言います。彼はローマの独裁官ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の後継者であり、ローマの政治体制を共和制から帝政に変えた人物です。なんとなく私たちは独裁者というと悪いイメージを持つのですか、ローマはこの時、必要に迫られて切り替わるのです。アウグストゥスの活躍によってローマは地中海社会すべての支配を確立しました。その結果、領土が広がりすぎてしい議会政治では立ちゆかなります。そこですべての権力を只一人で掌握する独裁者が必要になるのです。それまで地中海周辺の国々では常に国家間や民族間の戦いが続いていて、その度に民衆は巻き込まれ苦しんでいたのですが。ローマ帝国が殆どすべての民族、国家を属州として吸収した結果、争いはなくなるのです。この時からPax Romana(ローマによる平和)が始まるのです。
この出来事を現代に例えるなら、すべての国家(日本もアメリカも中国もロシアもEUも)が統一されて、国家間の戦争はなくなり、言葉も通貨も法律も一つにまとめられた、ということです。有史以来、人類は常に戦争を繰り返し、啀み合い、憎み合い、殺し合ってきたのです。しかしローマ帝国によって、つまり人間はようやく自分たちの文明と英知によって、この地上から戦争を消し去ることに成功したのです。
そしてローマ皇帝アウグストゥスが行った人口調査、はローマ帝国の世界制覇の象徴的な出来事でした(国土が広すぎて、40年を費やしたと言われています)。人々はローマの覇権を福音と呼んで喜びました。そして、この偉業を成し遂げたアウグストゥスを神の子、と呼びました。彼の父、カエサルは暗殺された後神格化されていたからです。(とはいえアウグストゥス自身は謙虚です、自分を神だとは思っていませんでした)。
さて、このように人間が、世界が初めて自分たちの力で手に入れた平和を祝っている最中に、神はまったく違う場所でこの世に現れたのです。つまり神は、ベツレヘムの町の外れにある馬小屋で産まれました。本当の福音、この世に平和をもたらす者は、人々から喜ばれ祝福され、賞賛される訳ではなく、誰にも気づかれない場所で、ひっそりと、この世に現れるのです。
そして、この喜びの知らせを受けた者たちは、先ほど読みました御言葉にあるように、羊飼いたちでした。彼らは当時の社会にあって人々から貶まれていました。彼らは獣臭く、顔は日焼けと垢汚れで真っ黒で汚いのです。そして一年に一度、羊の毛を刈る春にだけ町の近くに降りてきます。殆ど話すこともしない。おおよそ文明からはかけ離れた野蛮な者たちだと扱われていました。それに彼らは野獣を殺したり、襲われて死んだ羊を片づけるために死体に触れました。それはユダヤ教信仰にとっては汚れた行いでした。もちろん会堂で毎週行われる礼拝を守ることなどできません。彼らは神からも嫌われているとされていたのです。
さて、真夜中、火を焚いて羊の群れの番をしている彼らを光が包みます。空から天使が現れます。彼らは恐れます。そして天使は羊飼いたちに、話し掛けます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ福音書2:10-12)
天使は羊飼いたちに、救い主の誕生を知らせます。そして、その救い主がこの地上に平和をもたらす者であると、と告げるのです。
羊飼いたちはすぐにヘツレヘムに向かい、ヘツレヘムの町の外れの馬小屋の中に生まれたばかりの赤子を見つけます。彼らは、天使の話してくれたことが真実だったと喜びます「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知ら」(ルカ福音書2:17)るのです。
では人々は羊飼いたちの話しを信じたのでしょうか。信じる筈がないのです。信じられる訳がありません。羊飼いたちは神の救いの外にいて礼拝も守らない、汚れていて野蛮で言葉も読めない、そんな者たちの言葉を信じるわけがないのです。ただマリアだけが「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡ら」(ルカ福音書2:19)せた、と聖書には記されています。
神はなぜ主イエスを、平和をもたらす者、と宣言されたのでしょうか。皇帝アウグストゥスの偉業の方が余程、地上に平和をもたらせたように思えます。しかし、それは本当の平和ではないのです。人と人とがお互いにお互いを縛りあい、動けなくなるなら、確かに争いはなくなります。しかし、それは本当の平和ではありません。主イエスは本当の平和をもたらします。それは人と人とがお互いを認め合い、相手を自分自身のように慈しみ合うことによって得られる平和です。主イエスは十字架に架かり、自らを犠牲として捧げ、愛することの本当の姿を、この世に明らかにしました。互いに愛しあいさない、そこに平和があると話されるのです。そして、自分の力や努力で相手を愛そうとするのではなく、私に従いなさい、と話されます。主イエスに従うなら、私たちは変えられるのです。
神は羊飼いたちの口を通して、この世に御子の誕生を告げました。私たちが目から隠されたところ、私たちが目を背けるところ、私たちの心が避けようとするところに、神は宝を隠されるのです。このクリスマスの時、街はイルミネーションで飾られます。夜中の闇に隠された救いに私たちも目を向けましょう。そしてそれぞれの心の闇の奥底にも、神は私を救う宝が隠れています。神は私たちに「恐れるな」と話し掛けられています。恐れず、目を向けましょう。
「神、我らと主にいます」2021/12/19
ルカによる福音書1:39-56
クリスマスおめでとうございます。神は私たちに御子イエス・キリストをお与えになり、神が私たちと共におられることをお示しになりました。このようにして、神はこの世界に光をお与えになられました。その光とは「信じる」という光です。先ほど読まれました聖書の御言葉にこうあります。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ福音書1:45)。この世界に神の御心が実現すると「信じた」者は幸いだと聖書は記しているのです。
でも、ここに書かれている「信じる」という言葉の意味合いは、私たちが日常的に使う「信じる」と少し異なります。私たちは「信じる」という言葉を「私はあなたを信じている」というように使います。私が主人で相手が雇い人というような関係性です。しかし聖書に記されている「信じる」(pisteuo)は「任せる」「委ねる」という意味合いの言葉です。私が雇い人で相手が主人というような関係性です。たとえば乳飲み子が母親の腕に抱きかかえられるように、自分の全てを相手に委ねている状態。それが「信じる」です。ですから聖書に記されている「信じる」は、自分の望む、都合の良い結果を相手に求めることではありません。五百円を賽銭箱に投げ込んで願いごとをするのは、取り引きであって信じることではありません。信じるとは、それがどんな結果になるとしても、その過程も含めてすべてを相手に委ねることです。
聖書は全ての人に、このように神を信じ、お互いに信じ合いなさいと教えます。そうすることによってこの地上の平和が与えられます。今朝、私たちは、クリスマスの物語に記されている主イエスの母マリアの信仰から、神を信じるとは、そして、私たちが互いに信じあうとはどういうことか、を共に聴きたいと思います。
さて、今朝の御言葉の場面はナザレの町から始まります。このナザレの村にマリアという少女が住んでいました。「ナザレ」という町の名前は「見張り」という意味です。エルサレムから見て北側にあるガリラヤの丘陵地の高台にあり、オリーブや葡萄、小麦を産出する農耕地でした。眼下に広がる平地には幾つかの町があり、街道が通っていますが、少し離れた場所にあるナザレは「世の喧噪から隔離された静寂の場所」、「周囲に城壁をめぐらさない平和な町」だったと考えられています。そんな牧歌的な町でマリアは育ちました。
そしてマリアにはヨセフという幼い頃に定められた許婚がいました。時が来て、マリアが子どもを産むことのできる年齢になったら、結婚して家庭を持つことが定められていたのです。しかしある時、マリアの前に天使が現れ、彼女に語り掛けます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ福音書1:28)「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(ルカ福音書1:29)と聖書は記します。
天使は続けてマリアに伝えます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ福音書1:30-33)
まだ若く結婚もしていない自分に子どもが与えられる、そう伝えられたマリアは「いったい何のことなのか」と考え込みます。そこで天使は話します。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(ルカ福音書1:35-37)
マリアは「神にできないことは何一つない」(ルカ福音書1:37)と話す天使の言葉を信じます。そして天使に答えます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ福音書1:38)この「はしため」(doule)という言葉は「奴隷」とか「従属」という意味です。マリアは、強大な神がちっぽけな自分に声を掛けてくれた、そのことが腑に落ちるのです。そして心の中を支配していた疑いとか迷いとか不安とか、そんな考えがすべて消え去ってしまうのです。マリアは神に自分の全てを委ねるのです。
でもこの時代では、まだ結婚していない女性が子どもを身籠もることに対して寛容ではありませんでした。ユダヤの律法では、姦淫の罪を犯した女性は町の人々から石を投げられて処刑されると定められていました。それに許婚のヨセフは子供の頃からの知り合いで、お互いに信頼し、信頼されてもいました。彼を裏切ることにもなります。自分の家族も裏切る事になります。でも、もっと単純に、新しい命を自分の身に宿すことに対する恐れがマリアの頭の中に過ぎったとしても、それは当然でしょう。
しかし、そんな自分の疑いや迷い、戸惑いの暗く深い闇がすべて消し去られる程に、神の光は眩しいのです。マリアの心は喜びに包まれるのです。
そしてマリアは天使が話してくれたことを確かめるために、エリザベトの家に一人向かいます。マリアはエリザベトが今まで子どもを授かったことがなかった、と知っていました、そして、もう子どもを授かることが不可能なほど高齢になっていることも知っていました。でも天使の言葉の通りであるなら、なんと素晴らしいことなのか。マリアはエリサベトと一緒に、天使から与えられた喜びを分かち合う為に、彼女が住む山里に向かうのです。
さて、マリアはエリサベトの夫ザカリアの住む家に入って「シャローム」(平和がありますように)と挨拶をします。その挨拶を聴いたとき、エリサベトは胎内の子が踊るのを感じます。そして、エリサベトは喜びに満たされて神を讃えます。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ福音書1:42-45)
そしてマリアも、天使の話してくれたことが確かだったことに感動します。喜びに満たされて神に祈ります。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」(ルカ福音書1:47-55)
このマリアの讃美の言葉は「マグニフィカト」と呼ばれ、様々な楽曲で歌われています。「あがめ」(megalu)という言葉がマグニフィカトです。私たちも百万倍を「メガ」と言い表しますし、それに、とても大きいことを「メガ」と表現します。それはこの言葉が語源になっています。
マリアは神が、自分の頭では思いつかない、想像することもできない程に大きな存在であることに気づきます。その神が、片田舎に住む、ちっぽけで身分も低い、何もできない、何の価値も見いだせない自分に目を留められた、。直接、関わってくれた、そのことに感動するのです。それにマリアは神の存在と御心を、自分の能力や教養、知識によって、気づいたわけではありません。「わたしの魂は主をあがめ」(ルカ福音書1:47-50)とあるように、マリアの魂が喜びに満たされ、神を受け入れるのです。信じるという事は、始めに話したように、相手に自分のすべてを委ねる事です。いろいろ考えて理屈をこねて自分を納得させることではありません。続けて、マリアは神がどのような方であるのかを唱います。
「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」(ルカ福音書1:51-55)神の眼差しが私に及んだように、誰もが目を向けることのない、低い所にまでおよび、誰一人として欠けることなく神の守りの内に置かれている。そして思い上がる者、権力を持つ者をその座から引きずり下ろす。マリアはそのように、神の言葉を受け止めるのです。
マリアはエリサベトの家に三ヶ月滞在し、ナザレに帰ります。マリアはその時、すでに身籠もっていましたが、許婚のヨセフはマリアを受け入れて、自分の妻として迎え入れます。そしてマリアはイエスを産みます。このイエスが、後に救い主として地上のすべての人を、それは私たちも含めてですが、神と繋げることになります。私たちは神の言葉であり神御自身である主イエスを通して、神の存在を知ることができるのです。
私たちは、この聖書に記されているマリアの物語に疑いの目を向けます。自分の経験や常識、知識に照らし合わせて、こんなことは有り得ないと考えるのです。そしてマリアの物語に様々な憶測を挟み込もうとします。しかし、それが正しいのです。受け入れることができない、自分が認めたことしか信じることができない、それが私たちだからです。そもそもマリア自身も自分の身に起こった出来事を受け入れることは出来ませんでした。だけどマリアの魂に「神にできないことは何一つない。」という言葉が落ちたとき、マリアは神を受け入れるのです。信じる者に変えられるのです。この受け入れることが「信じる」ことです。そもそもこの地上にあって、自分の望む結果が実現するのではなく、神の思いがこの世に実現するのです。私たちは受け入れることしかできないのです。
神は私たちを愛されています。私たち一人一人を最愛の子どもとして、最良の恵みを与えて下さいます。そして、このように神を信じることのできた者は、自分自身を信じることができます。厄介で曖昧な自分をそのまま受け入れることができるのです。同じように隣にいる人も、信じることができるようになります。クリスマスに与えられる光とは「信じる」という光です。神を信じ、私たちも互いに受け入れあうこと、そこに希望が与えられます。
「受け入れる準備」2021/12/12
マルコによる福音書1:1-8
ロウソクが三つ灯りました。私たちは共にアドベント三週目の礼拝を捧げています。このアドベントの期間に、私たちはクリスマスの出来事について、つまり主イエスがこの世に遣わされた意味について、聖書の中から聴いていきます。今朝、私たちは与えられた御言葉から「主イエスの誕生によって、私たちは回心に導かれる」ということについて聞いていきたいと考えます。
さて今、この手元にある週報ですが、これは毎週、印刷されて礼拝の前に用意されています。そこには毎週の式次第の他に、今週や次週の予定、当番、報告、次週の説教の予習になるような短いコラムを載せています。もしかしたら前週の週報を原本にして、ちょこっと数字を書き換えるだけだから、そんなに難しいことではないだろう、と思われるかもしれません。それに、もし記載ミスがあっても礼拝前や後にアナウンスして訂正すれば良いだろう、と。実は、そんな簡単なものでもないのです。なぜなら週報は宗教法人桑名教会の公文書として、教会総会記録と一緒に保管しなければならない、と定められていて、できるだけ間違いがないことが望ましいからです。ですから私が作ったあと、メールで教会書記の方に送り校正をしてもらっています。すると必ず文章に誤字脱字や記載漏れが見つかります。なんでミスなどするのか、と呆れられるかもしれません。もちろん、私がボンヤリであることが一番の原因ですが、弁明するなら、自分で自分の書いた文章の間違いを見つけることは、誰でも難しいのです。そもそも人は自分自身を見つめることが不得手です。私たちは、外側から、つまり誰かに指摘されることで、正しく自分に気づくことができるのです。
では、他の日常的な事柄でも、週報の校正のように、それぞれが指摘し合えばミスが少なくなるし過ちを避けることができる。この世の中も良くなるのでは、と思えます。しかしそうは上手く行かないのです、なぜなら私たちは、誰かから指摘されることを最も嫌がるからです。指摘されることを「ダメ出し」と言いますけど、自分がダメ、つまり否定されるように感じてしまうからです。さらに自尊心が高い人とか、自分は完全だ、なんでも解っている、と頭と心が堅くなっている人にとっては、たとえそれが親切な指摘であっても自分に対する批判に聞こえてしまうのです。そして、指摘する方も、嫌われるんじゃ割りに合いません。相手に立ち入ることを止めてしまいます。
でももし、目の前を歩いている人が、そのまま進むと崖の下に落ちる、怪我をする、という状況ならば、たとえ相手に耳を塞がれようとも、拒まれようとも「危ない止まれ」と声を掛けでしょう。それが愛する者であるなら、なおさら大きな声で指摘するのだと、そう思います。
今朝、読まれました御言葉に描かれている洗礼者ヨハネの言葉は、この「大きな声」なのです。「そのまま進むと、崖におちるぞ」と彼は人々に声を掛けるのです。たとえ嫌われても、疎まれても、暴力を振るわれても、洗礼者ヨハネは叫び続けます。その声に促されて、自分が危機的な場所に立っていたことに気づいた者たちは、後ずさりして振り返ります。ではそこに洗礼者ヨハネが立っているのか、というと、そうではありません。主イエスが立っているのです。そして主イエスは、自分が危ういところにいたと気が付いた者たちを正しく安全な場所に導かれます。自分に従う者を神の方に導くのです。
私たちも、誰かから指摘されることは不得手なのです。でもそれが私たちを愛し、私たちを命懸けで危険から救おうとする神の声だと知るなら、耳を傾けるのではないでしょうか。今朝の御言葉こそ、そんな神の言葉なのです。
さて、今朝与えられました御言葉は、マルコ福音書の一番始めの箇所です。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(マルコ福音書1:1)と書かれています。この「福音」(euaggelion)とは「良い知らせがもたらされる」という意味の言葉です。そしてこの「良い知らせ」とは「罪の赦し」です。
私たち人間は、アダムが神に背きエデンを追い出されて以来、神に離反するという罪を負います。つまり罪とは「神の力など借りなくても自分だけで生きていける」という「心の動き」です。人は、流れに逆らわなければ自然に罪に落ちていきます。その結果、人の魂は根を切られ帰属する場所を見失い、迷子になります。心の空白をこの世の何かで埋めようとします。偶像を拝むようになるのです。しかし主イエスは、私たちと神との間に立って、その関係を繋ぎ直し、和解させてくださいます。主イエスに心を向けることによって私たちは帰る場所を見いだすことができるのです。平安を与えられ、この世にあって先に進む希望が与えられるのです。では私たちは、ただ主イエスに出会えば全て解決するのか、というと、そうではありません。
マルコによる福音書には、その福音の始めの出来事として、洗礼者ヨハネの物語が記します。まず洗礼者ヨハネの言葉を受け止めて、私たちが砕かれて、自分に気づいて、整えられなければならない、それからでなければ、主イエスの伝える「良い知らせ」を、得ることはできないのです。福音書記者は洗礼者ヨハネのこの世での役割について、預言者イザヤの言葉を用いて言い表します。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(マルコ福音書1:2-3)
イザヤ書はこのように続けます。「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書40:5-8)
洗礼者ヨハネも預言者イザヤの言葉と同じように、人々に神の前にあっての悔い改めを求めます。回心するように、と話すのです。人々は洗礼者ヨハネの言葉を聴くために緑豊かな高台のエルサレムから、死海付近の乾燥した荒野に降りて行きます。そして、目の前に広がる、枯れた草花を眺めながら、この言葉を聴くのです。ユダヤの大地が緑色に染まるのは雨期の短い時期だけです。五月になると東からの乾燥した強い風が吹き草は枯れ、花はドライフラワーのように干涸らびます。あなたたちの命もこの草のよう儚いとイザヤは話すのです。
しかし「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」と洗礼者ヨハネは話します。滅びゆく世にあっても神は永遠におられる。この世が変化しようとも神の言葉は枯れない。だから、この世の悪から離れ、この世の言葉を捨て、心に大切に抱いているそれぞれの偶像を捨て、神の言葉を受け入れる準備をしなさいと、人々を諭すのです。
そして洗礼者ヨハネは、悔い改めた人々を浄めるために、全身をヨルダン川に浸します。洗い清めるのです。しかし洗礼者ヨハネは、自分が授ける洗礼は、後から来ることになっている神の言葉を受け入れるための準備だと知っていました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」(マルコ福音書1:7)そう話すのです。
洗礼者ヨハネは、自分が、目の前にいるこの人々を救うのではない、と知っていました。これから来られる方が、この人々を救うのです。だけれども、彼は必死に悔い改めを求め続けます。そして歯に衣を着せないヨハネの言葉は、悔い改めることのできない者たちの反感を買います。洗礼者ヨハネは、疎まれるとか嫌われる、という程度ではなく、石を投げられて迫害される、命を狙われるようになるのです。それでも彼は、神から与えられた召命に従って、預かった言葉を話すのです。
ある時、洗礼者ヨハネの洗礼を受けるためにファリサイ派やサドカイ派の人々がエルサレムから下ってきます。洗礼者ヨハネは彼らを「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」(マタイ福音書3:7)と叱りつけます。なぜなら、洗礼者ヨハネが求めていることは、形だけの贖罪ではなく心から自らの罪を認め、偽善や優越感を粉々に砕いて自分の命に向き合い、悔い改め、神に立ち返ることだったからです。
また、洗礼者ヨハネの言葉はガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスにまで及びます。ヘロデは兄の妻ヘロディアを奪い自分の妻としていました。そのことをヨハネは叱責するのです。それまでヘロデは耳に痛いと感じながらも、洗礼者ヨハネの言葉を尊重して、自分への批判には耳を傾けていたのです。でも妻ヘロディアに対する批判は、受け入れることができないのです。ヨハネは牢に入れられ、首を落とされ処刑されるのです。
洗礼者ヨハネは「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」(マルコ1:6)と聖書は記します。柔らかい衣服ではなく、堅く強ばった重いラクダの毛衣を来て人里離れた荒野に住み、髪は伸び髭は顔を覆っている。荒れ野にいるいなごと野蜜を食べ禁欲的な生活をしながら、誰に気兼ねすることなく、忖度なく、ただ神から与えられた叱責の言葉を人々の伝えるのです。殴りつけるような、誰もが縮み揚がってしまうような言葉で裁きを伝えるのです。でも、その言葉が純粋で、真実で、自らの命を惜しむことなく「私」に危機的な状況を伝えてくれている、と腑に落ちた者たちは、それまでの自分をバラバラに解体して、空っぽになって、洗礼者ヨハネから水の洗礼を受けました。自分の罪に向き合うのです。
そして悔い改めた者たちは、後に来る方、主イエスに出会うのです。主イエスは彼らに水による洗礼を授けることはしません。主イエスは自ら犠牲の小羊として十字架にかかり、復活し、水ではなく聖霊と火によって自分に従う者たちの罪を完全に浄めるのです。
もし私たちの隣人が神に背を向けていることに、気づいたなら、もしくは過ちに捕らわれていることに気付いたなら、私たちはそれを指摘するのです。でもその言葉は、自分の思いや考え、立場からであってはなりません。神の前に何が義であるかを深く祈り聴き、言葉をかける、その人のためなら自らの命も惜しくはない、という愛と覚悟をもって、言葉をかけるのです。私は嫌われ疎まれる、と覚悟しなければなりません。そしてもう一つ心に留めなければならないことは、私が相手を正すのではなく、主イエスがその方の魂に触れてくださると信じることです。そしてもし、その人が言葉を受け入れられたなら、お互いに信仰の成熟が与えられるのです。
でも私は洗礼者ヨハネのように、強くない。疎まれたくないし嫌われたくもない、声を掛けられない、と思われるかもしれません。それがあたり前です。でも、それでも相手のために命懸けで祈ることはできるはずです。祈りに即効性はありませんが、必ず神は応えてくださいます。共に、私を悔い改めと回心に導かれる主イエスに感謝し、クリスマスを祝いましょう。
「神の言葉と共に生きる」2021/12/5
マルコによる福音書7:1-13
ロウソクが二つ灯りました。私たちは、共にアドベント二週目の礼拝を捧げています。このアドベントの期間に、私たちはクリスマスの出来事について、つまり主イエスがこの世に遣わされた意味について、聖書の中から答を聴いていきます。今朝は与えられた御言葉の中から、「主イエスの誕生によって神と人との関係は回復された」ということを聞いていきたいと考えます。
さて、このところ、何度か市役所に通って教会の納骨堂の書類を整えているのですけど、納骨に関しての法律が幾つも定められていることに驚かされました。百年前であるなら、人が亡くなって葬儀が執り行われた後、そのまま家族や近所の人々の手で墓地に運ばれ、墓に納められていたのですけど、現代では亡骸を自分たちの手で運ぶことは許されていません。また埋葬にしても書類申請が必要になります。少し調べてみますと、日本の法律の数は戦後すぐから増え続け、現在では千九百本、政省令や憲法を含めると八千本にもなるそうです。しかもそれぞれが複雑に絡み合って収拾がつかなくなっていると言われています。でも、なぜこのような規則の数が増えていくのか、というと、それは社会が大きくなり、人と人との関わりの距離が離れたからです。人と人との関係性が薄れ、お互いの信頼関係が失われると、決まり事の数は増えていきます。家と家の間に立てられた壁と同じです。関係が良好な時は壁を建てる必要などないのです。それぞれが騙すことも奪うこともなく、相手を自分のことのように考え、受け入れ合うなら壁などいりません。でも関係が悪くなってくると、壁は厚くなり高くなるのです。そして規則は一度定めると撤廃することは難しいことも、その要因です。
ユダヤの社会にあっても同じです。最初、モーセが神から与えられた十戒は、その名の通り十の戒めです。これを基礎にしてモーセ五書にある律法が定められ、時代が進むと律法の解釈や言い伝えも加えられます。しかも、ユダヤ人の歴史は長いのです。彼らは異邦人の侵略によって国土を奪われて、奴隷として連れて行かれても、その土地で自分たちの共同体を作り律法や習慣、礼拝を守り生活しました。アブラハムの時代から四千年間変わらず、親から子へ子から孫へ伝承され続けるのです。
申命記にこう記されています。「あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(申命記11:18-20)
しかし、このようにして蓄積された、大切な律法は、時と共に形骸化します。そもそも神は羊飼いのように、律法という杖と鞭でユダヤ人たちを集め導きました。ユダヤの民が群れをはぐれて、災難に見舞われないように、野の獣の餌食にならないように。日々が幸いであるように。しかしいつしかユダヤの民は杖と鞭で打たれることに慣れてしまうのです。自分の頭で考え、心で感じることを止めて、律法という檻の中に入っていれば安全だと、過ちを犯さなくて済むと考えるようになるのです。彼らは自ら檻の中に閉じこもり、異邦人との関わりを断つようになります。
そもそも律法の最も重要な掟は、主イエスが話したように「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」そして「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ福音書22:37-39)です。愛することとは関わることです。外側に向かって出ていくことです。しかしユダヤ人たちは律法を愛するためではなく裁くために使うようになるのです。つまり内向きに使うようになっていたのです。
ユダヤ人たちが律法の解釈や言い伝えの数を書き加えていき、増やし続けた根本的な原因は、彼らの心が神から離れたことにあります。今朝読んだ預言者イザヤの言葉のように「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マルコによる福音書7:6)のです。そこで神は主イエスをこの世に遣わしたのです。主イエスを仲保者として、神と人との関係を再構築されるのです。
今朝、与えられました御言葉に描かれている主イエスは「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たち」(マルコ福音書7:1)を激しく叱ります。彼らを偽善者(マルコ福音書7:6)と呼び、「神の掟を捨てて」(マルコ福音書7:8)、「蔑ろにして」(マルコ福音書7:9)、「無にしている」(マルコ福音書7:13)と叱るのです。でも私たちは、主イエスが彼らを叱りつけると同じように、私たちも叱りつけられている、と、この言葉を受け止めなければなりません。私たちも、神の寛容と信頼に甘えて、神を畏れなくなっているからです。信仰の内側に留まっていれば、教会の内側に留まっていれば安全だと考えるようになるからです。自分たちだけは神を知っている。この傲慢の行き着く先は、聖書の御言葉でお互いを裁き合う関係性です。気を抜くと、教会の中にも、このような偽善が生まれることになります。そうならないように、神は主イエスをこの世に遣わし、私たちも主イエスによって砕かれるのです。共に主イエスの言葉を、自分に語り掛けられている言葉として聴きましょう。
さて、今朝の御言葉は、主イエスがガリラヤで伝道を進めている頃の話しです。主イエスの噂を聞きつけ、エルサレムからファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが主イエスを訪ねて来るのです。
でも彼らの目的は主イエスを神の子として、崇める為ではありません。ガリラヤで多くの人に教えを説き、病人を癒やし、五千人もの飢えた者たちを満腹にした、そんな奇蹟を行ったイエスが預言者であるのかどうか、品定めに来たのです。正しくは自分たちのやり方に沿っている人物なのか評価しに来たのです。そしてその評価基準は彼らの律法です。彼らは主イエスと弟子の後について歩き、その言葉と行いに目を光らせます。そして、弟子の一人が手を洗わないで食事の席につくのを見て、ついに口を開くのです。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」(マルコ福音書7:5)と彼らは主イエスを注意します。
「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」(マルコ福音書7:3-4)とマルコは注釈を加えますが、食事の前に手を洗うことは、ユダヤ人にとって最も基本的な作法でした。この言葉を聴いて主イエスは彼らを叱ります。
「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(マルコ福音書7:6-8)これはイザヤ書二十九章の言葉です。
「災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。『誰が我らを見るものか 誰が我らに気づくものか』と。お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか 『彼がわたしを造ったのではない』と。陶器が、陶工に言いうるのか『彼には分別がない』と。」(イザヤ書29:15-16)
主イエスはイザヤの言葉を引いて、律法学者たちの過ちを明らかにします。あなたたちは「主を避けてその謀を深く隠す者」だと話すのです。人々に神の律法を教え、従わせ、自らも神の律法を重んじているように振る舞いながら、彼らの本心は律法の戒律を使って、人々を自分たちの権威に従わせることなのです。「誰が我らを見るものか、我らに気づくものか」と彼らは神を軽んじています。神への畏れを失っている。そもそも彼らは神の羊として囲いの中にはいっていません。ですから主イエスは彼らを偽善者と呼び捨てるのです。
さらに主イエスは続けます。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、『あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です』と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。」(マルコ福音書7:9-12)
この「コルバン」(korban)ヘブライ語で「捧げ物」「供え物」という意味の言葉です。この時代、息子は父と母を扶養する義務がありました。でもこの義務を免れるために、自分の財産や家畜を「これはコルバンです」つまり神殿に捧げるものです、と祭司の前で宣言するのです。そうやって父と母を養うことを免れる手段が横行していたのです。彼らは両親に「私はあなた方も大事だけれど、神の方が大事なのだ。あなた方も、私にそう教えたではないか」と偽りを話すのです。もちろん息子たちはコルバンと宣言しても、そのすべてを神殿に捧げるわけではなかったのですが、一部であっても捧げられるなら、神殿の祭司たちにしても懐が潤います、なので、そんな誤魔化であっても祭司たちは奨励したのです。
主イエスはこの在り方を批判します。「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」(マルコ福音書7:13)と話すのです。
ユダヤ人たちは同胞のユダヤ人の生活にも律法の戒律を雁字搦めに課して動けないようにしました。確かに檻の中に入っていれば犯罪は犯せません。でも神は人を自由な存在として創造されたのです。人は誰かに強いられて悪事を避けるのではなく、私と神との関係に立って、自らの心と頭を用いて判断するのです。
さらに彼らは神をも神殿の中に閉じ込めようとしました。しかし当然、神は神殿の中に留まることはありません。ソロモンはエルサレム神殿を建てた時に、このように祈ります「神は果たして地上にお住いになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(Ⅰ列王記8:27 )しかし後のユダヤ人たちは、このソロモン王の思いも無にするのです。
私たちは主イエスを信頼しているでしょうか。聖書に記された主イエスの言葉を、信頼し愛する方から送られてくる手紙の言葉のように受け止めて、聴いているでしょうか。神は私たちと信頼し合い、愛しあうために、私たちと同じ肉体をもってこの世にお生まれになりました。主イエスの誕生を祝うクリスマスに、私たちは、神を近くに感じる時としましょう。
礼拝説教原稿
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