礼拝説教原稿

2021年11月

「神の言葉が現れる」2011/11/28

マルコによる福音書13:21-37

礼拝堂に備えられたアドベントクランツにロウソクが灯ると、私たちはクリスマスが近いことに気づかされます。これからの四週間を私たちはアドベントとして守ります。このアドベントとは「到来」を意味する言葉で、やって来る主イエスを迎え入れる準備の期間を意味します。でもなぜ四週間も長い期間、アドベントは設けられているのでしょうか。例えばクリスマスツリーを納屋から出すとか、庭に電飾を飾るとか、プレゼントを選ぶとか、そんな準備のためでしょうか。違います。このアドベントに私たちは主イエスを「私」の王として、自分自身の心の中心に迎え入れるのです。その「覚悟」のために用意された四週間なのです。
なぜ覚悟が必要なのでしょうか。教会にとってのクリスマスは、単に二千年前にお生まれになった「ナザレのイエス」という偉い人の誕生日会ではありません。一つは、主イエスの誕生によってこの世の人々に「神は愛である」という神の真理が明らかにされた、そのことに感謝する礼拝です。そしてもう一つは【これが今日の主題ですが】二千年前、神の子である主イエスがこの世に来られた時のことを覚え、やがて再び主イエスがこの世に来られる時のことを覚えるための礼拝です。この主イエスの再臨に受け入れるための「覚悟」が私たちには必要なのです。
主イエスの再臨とはなんでしょうか。主イエスは十字架の死を味わった後に復活されました。でもそれだけではなく、天に帰った後に再びこの世に現れる、と話されます。その再臨の時、地上に生きる人々は、この世の支配を解かれて神の支配に入れられます。主イエスはこのように話されます。先ほど読まれました箇所です。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(マルコによる福音書13:24-26)またパウロはこの主の言葉を、つまり再臨を、テサロニケの教会に送った手紙の中で、このように記します。「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」(Ⅰテサロニケ1:10)
キリスト者は、いつか来る主イエスの再臨の日を覚えてつねに備え、終わりの時、つまり神の前に立つことが許された時に恥じ入ることのないように、毎日の一時一時を慈しみながら信仰生活を歩むのです。使徒ヨハネは信仰者の在り方について、このように話します「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」(Ⅰヨハネ2:28)
主イエスが再臨する、つまり、この世に神が触れられるなら世界はガラリと変わります。闇の支配が終わり光の支配が始まり、私たちは闇からの支配から光の支配に移籍させらます。それは幸いなことです。でも、だからこそ私たちには覚悟が必要になるのです。なぜなら私たちは、少なくとも私は、自分が、温々と居心地の良い闇の中に安住していると知っているからです。誤魔化しや自己保身に明け暮れて、神の召命に従いきれていないことを知っているからです。しかし、定められた時に、主イエスはいつか再臨します。ですから覚悟が必要になるのです。
今朝与えられました御言葉のなかで、主イエスの再臨の前に起こる出来事について弟子たちに話します。私たちも共に聴きましょう。

さて、この聖書の箇所は「オリーブ山の説教」と呼ばれています。主イエスはエルサレム神殿の境内で多くの人に福音を説かれます。そして夕方になり、主イエスは弟子たちと共にベタニアの家へ帰ります。さて彼らがベツレヘムの神殿の境内を出ようとする時、弟子の一人が振り返り、神殿の外壁に積み上げられた石を眺めるのです。そして「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」(マルコによる福音書13:1)と彼は感嘆の声を上げます。この弟子が見上げている建物は、ヘロデ大王によって改修されたばかりのエルサレム神殿です。当時の最新の建築技術が用いられ、高さは四十六メートルほど、だいたい十五階建てマンション位の高さです。一つ一つの切り出された石は長さ十二メートル、高さ四メートル、幅六メートル程で「外壁は強固な白い石で建てられていた」と記した聖書外資料があります。今でもエルサレムの嘆きの壁に行くと、地下にこれらの石を見ることができます。この一人の弟子の言葉に促されて、弟子たちは皆、振り返りエルサレムの神殿を眺め、感心するのです。
しかし主イエスは、神殿を見上げて「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(マルコによる福音書13:2)と、静かに話されます。この言葉を聴いて弟子たちは言葉を失います。主イエスは今まで、弟子たちの前で一度も嘘や冗談など、話されたことなどなかったからです。その言葉は真実で、その行いは迷いなく適切だったからです。
そのあと、彼らは黄金の門からエルサレムの外に出て、オリーブ山の峰に続く坂道を上ります。オリーブ山を超えた向こう側にベタニアの村があるからです。オリーブ山を登り切ったところで、主イエスは岩に腰掛け休まれます。そして眼下に広がるエルサレムの町を眺めます。そこで、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ついに痺れを切らして、主イエスに近づき、ひそかに尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(マルコによる福音書13:4)
弟子たちは、主イエスが話した、エルサレム神殿の崩壊がいつ起こるのか、主イエスの後を歩きながら、ずっと聴きたかったのです。どんな天変地異が起こるのか、どんな大きな戦争が起きるのか、眼下に広がっているエルサレムの立派な町、この何百年もの歴史がある美しく強固な町が、瓦礫と岩が転がるだけの更地になるなど彼らには想像できないのです。その時、自分たちも生き残ることができるか、わからない。彼らの心は恐れに奪われるのです。
そこで彼らはひそかに主イエスに尋ねた、と聖書には記されています。この「ひそかに」(idios)という言葉は「自分たちだけに」「仲間うちだけで」という意味です。誰でも隠されている事柄には興味があるのです。誰も知らないことを知っている。そのような他人に対する優位性は魅力的です。彼らは主イエスの話す未来についての予言を従っている自分たちだけの特権として受けようとします。しかしそんな浅ましい思いは、彼らの想像を遙かに超える言葉に拠って砕かれます。
主イエスは答えます。「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」(マルコ福音書13:21-25)
主イエスは再臨の前に起こることを弟子たちに教えます。その時、偽メシアや偽預言者が現れ、人々を惑わす。戦争の噂が起こり国と国とが対立して立ちあがる。地震が起こり、災害に見舞われ飢饉がある。でもそれはまだ本当の苦しみの前の、いわば産みの苦しみに過ぎない。政治的、社会的激変など及びもつかないような、人の想像力を遙かに超える変化が地上に起こり、完全な闇がおとずれると話すのです。
その後で人の子が、つまり主イエスが再臨されます。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マルコ福音書13:25-26)主イエスは再びこの世に現れ、地上に天使を遣わし、民を集める、と話されるのです。
主イエスは弟子たちに 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(マルコ福音書13:28-29)と教えます。あなたがたは、いつも、いつ再臨の時が来ても良いように備えていなさい。誘惑する者たち、偽預言者たち言葉に惑わされることなく。戦争が起きても、震災や災害に見舞われても、それはまだ終わりではない、だから脅えることはない。エルサレム神殿が崩されエルサレムの町が瓦礫になっても、まだ終わりではない。脅える事も恐れることもない。「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ福音書13:30-31)と主イエスは【約束】されます。この世のすべてが失われても、それらはいつか失われるだろうけれど「わたしの言葉は決して滅びない。」、この約束は決して反故にされないのです。
主イエスは「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコ福音書13:32)と話します。ここで主イエスは何度も続けて「目を覚ましていなさい」と話します。この世の危機に惑わせられて、右往左往するのではなく忍耐強く信仰に留まるように、と勧めるのです。そして最も本質的な危機、つまりすべての人々の魂が神を離れ、光を失い、本当の闇に襲う時には、主イエスは再臨されます。「これが終わりか」と思える時が来ても、まだ終わりではないのです。その先があると、主イエスは話されるのです。

主イエスは私たちを恐がらせるために、こんなことを話したのではありません。主イエスは私たちに真理を教えられるのです。私たちは、この世の力や自分の知識が完全で、永遠に続くもののように誤解をします。明日は今日と同じだと考えるのです。でもそんなことはありません。目に見える物はすべて消え去ります。人と人との関わりもいつかは断たれます。私たちの肉体もいつかは動かなくなります。しかし私たちと神との関わりは断たれません。そう主イエスは約束されています。
私たちは、今日一日を唯一の一日として大切に生きるのです。加えて、私たちがこの世の終わりだと思える事態に陥ったとしても、それは終わりではありません。まだその先があります。落ち着いて対処すれば良い。そして心が疲れたときにはその場から逃げても良いのです。主イエスは「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」(マルコ福音書13:14)と話しています。このクリスマスに、私たちは共に主イエスの再臨を覚えましょう。

「善い人」という誘惑 2021/11/21

マルコによる福音書10:17-31

旧約聖書の創世記にバベルの塔の物語が記されています。それはノアとその家族が洪水から生き残った後の話しです。一度、神によって滅ぼされた人間はノアの子孫たちによって、また地上に増えていきます。そして彼らは「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創世記11:4)と話し合い大きな町を作り始めます。彼らは石の代わりにレンガを、漆喰の代わりにアスファルトを使って、町を城壁で囲み、高い塔を建てます。彼らの目的は二つあります。一つは名を上げること、もう一つは地上に散らされないことです。
名を上げるとは、自分たちの力でどこまでできるのか、神に与えられた自分たちの能力を試すことです。自分たちの知恵と技術を使って、また地上に洪水が襲ってきても、崩されることのない強固な城壁で町を覆い、沈まない高い塔を建てるのです。そのようにして、彼らはどんな災害に襲われても、地上に散らされないように、つまり生き残れるように準備するのです。
塔が巨大になるに従って、より多くの人々が仕事に加わっていくようになります。レンガを焼く者、アスファルトを溶かす者、運ぶ者、測量する者、設計図を引く者、号令をかける者、食事を作る者。彼らの目の前の塔は、どんどん高くなっていきます。その塔を見て彼らは誇らしくなるのです。今まで誰も到達したことのない、前人未踏のプロジェクトに自分が関わっていること、もっともっと塔を高く天へとのばしたい。多くの人が一つの目的のために力を合わせ、知恵を出しあい、心を一つにして懸命に働くのです。
しかし神は、地上の人間を見て、彼らの欲望を砕きます。人々の言葉を乱し、人と人とが協力して作業にあたれないようにされます。塔の建設は中断し、人々は地上に散っていくのです。
でもなぜ神は、そんな理不尽なことをされたのでしょうか。それは人々の心が傲りに捕らえられ、神から離れ始めたからです。
塔を立てる前、人々の心には神への畏れがあったのです。洪水を起こし、地上のありとあらゆる物を押し流された神のへの畏れです。しかし町の城壁が堅固になり、塔が天上へと伸びていくに従って、神への畏れは失われ始めます。神などいなくても自分たちの力だけで、どうにかできる、と考えるようになるのです。
さらに彼らは天に近づこうとします。技術や知識をもっと洗練することを望み、神に触れようとするのです。そのようにして彼らの目が天にしか向かなくなったとき、彼らは地上にいる、自分の同胞、隣にいる人に目を向けなくなります。そして、隣にいる人も自分と同じことを考えている。自分の隣にいる者、その誰もが塔を天へと高く伸ばそうと望んでいると決めつけるようになるのです。互いに自分の力を誇り合い、互いに相手を批判するようになるのです。そこで神は言葉を乱し、人間にとって大切なことは何か、を気づかせようとされたのです。
神は天地を創造された始めに「人間」を創造されたのではなく「アダム」を創造した、と聖書には書かれています。つまり一人一人が違うことを考え、違う望みを抱くように、神は人間を創造されました。だから人間は、違う個人がお互いの良い所も悪い所も認め合って、慈しみ合う関係をこの世界に広げていくのです。人は絶対的な存在である神を覚えることで、正しく自分自身を知り、隣人に目を向けることができる。その交わりの中で助け合い、愛し会いながら生きるところに、私たちの幸いがあるのです。神は人を幸いに引き戻そうとされるのです。
神が主イエスをこの世に遣わしたことも、これと同じです。預言者エレミアが話すように(エレミヤ6:21)、主イエスは躓きの石としてこの世に与えられました。主イエスは人が心の中に積み上げてしまったバベルの塔を崩されます。「神を愛し、隣人を愛しなさい」と主イエスは人々を諭されるのです。でも、それを自分の力で行えるほど、私たちは強くはありません。だから主イエスは「私に倣いなさい」と話されます。「私に従いなさい」(マルコ福音書10:21)と声を掛けてくださるのです。

さて、今朝、与えられました御言葉は一人の青年と主イエスの会話が記されています。主イエスは彼に「私に従いなさい」(マルコ福音書10:21)と声を掛けます。でも彼は、その召命に応えることができません。そんな彼に主イエスは慈しみの目を向けられます。この物語を通して、私たちが「主イエスに従う」とはどういうことか、を聴くことができます。共に読み進めます。

「イエスが旅に出ようとされると」(マルコ福音書10:17)と御言葉の最初に記されています。この旅は、もちろん物見遊山ではなくエルサレムに上る旅です。この少し前の箇所になりますが、主イエスは弟子たちに、そこで自分はこれから行くエルサレムで十字架に架けられる、そして三日目に復活すると話しています。弟子たちは、この言葉をどのように受け止めたのか、たぶん弟子たちは、主イエスが十字架にかけられる姿を思い描けなかったでしょうし、まして復活するなど、まだ信じ切れていなかったのだと思います。でも主イエスの意気込みに対して弟子たちも漠然とした緊張感を共有していました。これから何が起こるか分からない。けれど、エルサレムでは祭司たちやファリサイ派の者たち、それにローマ兵とも戦うことになるだろう。命を失う危険がある、と彼らは覚悟を決めているのです。ヨハネによる福音書にこうあります。「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った。」(ヨハネ福音書11:16)彼らは死を意識しているのです。
その腰を折るように、一人の青年が現れます。彼は身なりもよく、見るからに裕福な青年です。そして彼は主イエスの前に跪いて尋ねます。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(マルコ福音書10:17)彼が主イエスに問い掛けた「永遠の命」とは、永遠に生きること、ではありません。永遠に存在される方は神のみです、その神にもっと近づくには、どうすれば良いのか。神に認められるためにはどうすれば良いのか、もっと「善い」者になるには如何したらよいのか、と主イエスに尋ねたのです。
主イエスは彼に「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」(マルコ福音書10:19)と応えます。するとこの青年は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(マルコ福音書10:20)と答えるのです。
ここで主イエスは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」とだけ話していますが、ここでは主イエスと青年は、十戒の六項目だけのことを論点にしている訳ではありません。出エジプト記二十章から申命記まで続く律法の言葉、そのすべての戒律を見ているのです。主イエスは「そのすべてを守りなさい」と話し、青年は「そんなことは子供の頃からすべて守ってきた」と応えたのです。
彼は、売り言葉に買い言葉で、こんなことを話した訳ではありません。彼には誰よりも努力し、誠実に聖書に向き合ってきた、という自負があるのです。生活の中で律法を実践しているだけでなく、さらに聖書を学び、礼拝と祈りを欠かさず、会堂では誰よりも熱心に奉仕をし、律法に定められている通り、困っている同胞を助け、困窮している者に積極的に施してきたのです。そして彼は、主イエスの前に跪き、今よりもさらに高みに向かには如何すればよいのか、と質問するのです。如何すれば、もっと神に喜ばれることができるのか、もっと「善いこと」ができるのか、「善い者」になれるのか。そう問い掛けるのです。
主イエスは彼に悲しい目を向けて「慈しんだ」(マルコ福音書10:21)と聖書には記されています。
主イエスは彼が真面目で誠実で、律法に記された戒律を守ってきた、誰よりも努力してきたことを知っているのです。でもその努力はまったく的外れなのです。彼は「善い」と書かれたレンガを自分の心の中に積み上げ、バベルの塔を建てていたのです。この「慈しむ」(agapao)は「愛する」の他に「惜しむ」という意味を持ちます。主イエスは彼を「残念に思う」のです。
しかし主イエスは彼を愛します。彼を愛して、彼の心の中に建てられたバベルを崩されるのです。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」(マルコ福音書10:21-22)
青年は沢山の財産を持っていました。そして彼は、主イエスの言葉によって、沢山の財産を持っていたから律法の言葉を余すことなく守り、学び、施すことができていたことに気づかされるのです。自分の今までの努力と節制は、神を満足させるためのものではなく、ただ自分を満足させるためだけの行いだった、と、気づかされるのです。
この様子を見ていた弟子たちは驚きます。「それでは、だれが救われるのだろうか」(マルコ福音書10:26)と互いに言い合うのです。弟子たちもこの青年と同じように、この世で善いことを行う者が、神の国に招かれる、と考えていたからです。そこで主イエスは「人間にできることではないが、神にはできる。」(マルコ福音書10:27)と話します。人間は努力や力が認められて神に国に入れられるのではなく、神が一方的に人を招くのだ、と話すのです。
この言葉に、ペトロは改めて驚きます。自分が今までしてきたこと、努力してきたこと、苦労して主イエスに従ってきたことが、無駄だったのではないか、と恐くなるのです。そこでペトロは主イエスに「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(マルコ福音書10:28)と話します。「私たちはあなたに従うために財産や仕事を捨てただけではなく、これからあなたと共にエルサレムに上って、この命も捨てようとしている。」このように私たちにやっていることは無駄ではないですよね、私たちの独りよがりではないですよね。とペトロは主イエスに念を押すのです。
主イエスはペトロに「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ福音書10:29-30)と話します。そして、この言葉は主イエスの十字架の後に実現します。
ペトロは、主イエスの復活の後、伝道者として世界に福音を伝えます。彼の言葉はこの地上に幾つもの教会を建て、キリストに従う者たち、つまり神の家族の繋がりは世界中に広がるのです。教会に繋がる者たちは神につながり、永遠の命に繋がるのです。しかし、それは今ではなく、後になって分かる。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ福音書10:31)と話すのです。

主イエスは青年の心の内に建てられたバベルを崩すだけではなく、瓦礫の中からもう一度彼を立ち上がらせようとされました。主イエスは彼に「私に従いなさい」(マルコ福音書10:21)と声を掛けるのです。瓦礫の山を捨てて、私に従いなさい。そうすればあなたが求めている本当の命が与えられる。そう話すのです。
「私に従いなさい」と私たちにも主イエスは声を掛けられています。私たちは自分の努力で「善い人」になることはできません。「善いこと」もできません。神だけが善い方だからです。では私たちは悪の闇に落ちるしかないのか、というとそうではありません。「主イエスに従う」のです。主イエスに倣うこと。そうすれば私たちは正しい道のりを進むことになり、神の国に辿り着くこととなるのです。

「こどものように」(子供の祝福合同礼拝)

ルカによる福音書18:15-17 2021/11/14

「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ福音書18:17)とイエスさまは弟子たちに話しました。私はこの御言葉を読んで、じゃあ「子どものように」ってどういうことなんだろう、とずっと考えていました。
子どものように素直、子どものように正直、子どものようにまっすぐ。でも、子どもも我が儘だったり、嘘をついちゃうし、ずるいことをすることもします。そんな悪さをして、お母さんに見つかると、あとでシコタマ怒られますが。
じゃあ、子どもは大人の手を借りないと生活できない、親や社会に保護されている、ということでしょうか。といっても、大人だって一人では生きられません。他の人の手を借りて、みんなで力を合わせなければ生活することはできません。
それとも、大人は沢山お金ももっています。それに学校で勉強したから沢山のことを知っています。働いた分だけ技術や能力を手に入れています。子どもはまだ持っているものが少ない。ではイエスさまは、子どものように何も持っていない人が天の国に入ることができる、と話したのでしょうか。そうではありません。この世の富や知恵に心を奪われ目を奪われると、神さまに心を向けられなくなる、神さまに目を向けられなくなって神さまから離れてしまいますよ、と話されたのです。この世の財産や知識を沢山持っているとか持っていないとか、そんなことは関係ないようです。

では「子どものように」とはどういうことでしょうか。私はお祈りしながら、ずっと考え続けました。すると神さまはヒントを与えてくれました。それはこの「受け入れる人」という言葉です。この「受け入れる」という言葉はどういう意味か、というと。「訪れた友人を喜んで、歓迎して向かい入れること」です。たとえば皆さんが学校帰りに「今日、うちに遊びに来なよ」と友だちを家に招く、何をして遊ぶか、わくわくする。つまり「喜んで迎え入れる」という意味の言葉です。
そう「心から、手放しで喜ぶ」こと。「目をキラキラさせて喜ぶ」それが「子どものように」という言葉の意味だと、私は気づかされました。そして私は、そう言えば大人になるにしたがって、「目をキラキラさせて喜ぶ」ことがなくなったな、と気付かされました。子供の頃は目をキラキラさせて遊んでいたのに。
でも、この「喜ぶ」も、あたらしい玩具を手に入れたから嬉しい、というような喜びではありません。もっと心から嬉しくて感動する、そんな喜びです。ではそれはどんな喜びなのでしょうか。今日は一冊の絵本を用意しました。

絵①「ふるびたくま」
絵②「ある日、ずっとクララのお気に入りだったくまが鏡の前に立ち、悲しげに自分の姿をみつめていました。」
絵③「かつては真っ白だった毛はぼろくつ下のようにうすよごれ、背中のほころびからはつめものが飛びだしています。目は片方がゆるくなってしまいましたし、鼻もときどき落っこちて、ベットの下にころがってしまうありさまでした。」
「もうすぐ、ぼくはおんぼろになってしまう」くまはいいました。
「すりきれた、おんぼろのくまだ」
絵④すりきれたおんぼろたちがどうなるのか、くまはなんども見てきました。だれも欲しがらないそれらのものたちは、ぞうきんにされたり、
絵⑤暗い、クモのいる物置に放り込まれたり
絵⑥ガレージセールに出されて、10セントで売られたりするのです。
絵⑦「クララはもうすぐぼくなんかいらなくなる。誰だっていらないさ」
くまはいい、ちゃんとついているほうの目からこぼれた涙をぬぐいました。
絵⑧それからくまは、それ以上すりきれてしまわないように、できるだけしずかに、動かずにいることにしました。
「きょうはどこにいく? なにしてあそぶ?」
クララにきかれても、
「きょうはうちのなかで休んでいるよ」
と、こたえるのでした。
絵⑨クララが眠っているあいだも、くまはベットをぬけだして、ソファーで眠ろうとしました。そのほうがすりきれないと思ったからです。
でも、それはさびしく寒いことでしたし、ほかの動物たちは、そんなくまを笑いものにしました。
絵⑩「すりきれぐまのおんぼろぐまよ、じきにすっかり毛もぬけるだろう」
そんなふうにうたいながら、動物たちは、ふかふかと厚くやわらかい、かがやくばかりに新しい自分たちの毛を見せびらかすのでした。
絵⑪クララはくまをとくべつかわいがっていましたし、どこにでもつれていき、寝るときもくまだけを抱いて寝ましたから、ほかの動物たちはやきもちをやいていたのです。
「クララはお前を屋根裏にとじこめるだろうよ」
パンダはいいました。
「そうしたらお前はコケだらけになるな」
絵⑫「おまえはゴミ捨て場に捨てられるだろうよ」
さるはいいました。
「そうしたらカモメに目玉をつつかれちゃうな」
みんな笑いました。
絵⑬くまはうす暗いソファーのすみににげこんで、たったいまきかされたおそろしいことどもが、じきに自分の身におこるのだ、と、たまらない気持ちでかんがえるのでした。
絵⑭まさにつぎの日、くまのおそれていたことがおこりました。クララがくまをおいて、どこかへでかけてしまったのです。
絵⑮帰ってくると、クララは部屋にとじこもり、ドアにかぎまでかけてしまいました。くまが呼んでもこたえません。くまは廊下のすみで、ぐったりとうなだれて、
「きっとクララは新しいお気に入りをみつけちゃったんだ」
とつぶやきました。
絵⑯裏口からひっそり外にでて、くまは、捨てられるのを待ちました。
絵⑰つぎにきがついたとき、くまはクララのベットの中にいました。まっ白にきれいに洗われ、ほころびはつくろわれ、目も鼻もきっちりとぬいつけられて。
ベットカバーの上には、クララからの小さな包みがおいてあります。そえられたカードには、こうかいてありました。
「大好きなくまちゃんへ。あたしがいつでもあなたをぎゅうっと抱きしめて眠れるように、夜はこれをきてください」
絵⑱なかには、くまにちょうどぴったりの大きさの、赤いフレンネルのスーツが入っていました。毛皮のようにあたたかく、耳入れもちゃんと二つついたスーツです。
絵⑲くまは午前中、ずっと鏡をながめては、自分の姿にほれぼれしました。
絵⑳ソファーの動物たちはそんなくまをみて、うらやましさのあまり、ため息をつきました。
絵㉑「きっとそのうち」
くまはみんなにいいました。
「きみたちもうんと愛されて、赤いスーツをつくってもらえるかもね」
絵㉒おわり

イエスさまは子どもたちを呼び寄せて「神の国はこのような者たちのものである。」と話してくれました。子どものように屈託なく喜ぶことができる、そこに神の国が現れるのです。どんなことにも喜びなさい、感謝しなさい、笑いなさい、そうすれば神さまが、必ず、すべてを幸いで満たしてくれます。
でも大人になると、なかなか手放しで喜ぶこと、笑うことが難しいと感じるかもしれません。悪や罪にまみれて、心がボロボロになって、すり切れてしまっているからです。そんな私たちにパウロはロマ書の中でこう話します。「主イエス・キリストを身にまといなさい。」(ロマ書13:14)くまがクララから赤い、かっこういいスーツをもらって着せてもらったように、私たちも神から主イエスというスーツを頂いています。キリスト者は自分が素晴らしいからキリスト者にされている訳ではありません。逆に自分はボロボロだと知っていて、それでも、キリストを着てキリスト者になるのです。
神がキリストを与えて下さったことを私たちは喜びましょう。そして神の国をワクワクしながら受け入れましょう。最後にロマ書から一節読みます。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ロマ書12:15-18)

「神は生きている」2021/11/7

マルコによる福音書12:18-27

今朝、私たちはこの礼拝を召天者記念礼拝として守っています。この礼拝を通して私たちは、この世の歩みを終えて天に帰られたご家族、ご近親の方、そして友人が、神の御許で安らぎの内に置かれていることを覚え、神に感謝を捧げます。加えて私たち自身にも、復活の希望が与えられます。私たちもこの世での歩みを終えたなら天に招かれます。ここにいる誰もが遍く、この世の旅路を終えても帰るべき場所が用意されている。そのことを覚え、感謝を捧げるのです。
では、この天に帰る、復活するという出来事は確かなのか、証明できるのか、と問われるなら、私は「証明できません」としか答えられません。なぜなら私はもちろん、この世に生きる誰一人として、死んだ後にもう一度こちらの世界に帰ってくることはできないからです。でも私は復活を信じていますし、私たちの属する教会も二千年間、復活を世界に告白し続けています。なぜなら、神が主イエスとしてこの世に来られて、十字架に掛かられ死んだ後、三日目に復活された、と書かれた聖書の言葉を信じているからです。私たちは、遠くに住む最愛の方から送られてきた手紙の言葉を信じるように、聖書の言葉を信じているのです。
神は私たち人間がどんな手段を用いても確認することができない復活という出来事を、主イエスの復活という、この世界の理を超えるやり方で明らかにして下さいました。人は死の向こう側から帰ってくる事はできません。でも人間にできない事も神にはできます。使徒パウロはコリントの教会に送った手紙の中でこのように話します。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(1コリント15:20)私たちの命は死によっても中断されないのです。
でもなぜ神は私たちに主イエスを通して、復活を明らかにされたのでしょうか。それは神が、この地上に生きる私たちが、死の後に帰る場所を見失い迷い、混乱し不安に打ちひしがれている姿を見て、憐れまれたからです。もう、この世にあって帰る場所ないと、不安と共に放浪し続けることはない。帰る場所があるから安心してこの世の命を全うしなさいと、神は復活を通して教えて下さったのです。
そしてもう一つ大事なことを聴くことができます。それは神が私たちを大切な、愛する子どもとして関わり続けて下さる、ということです。愛するとは、相手を自分の一部として大切に思い、関わり続けることです。そして神は、肉体の死という出来事に捕らわれることなく、私たち一人一人を愛されます。わたしたちは死の後に消え去るわけではありません。壊れたり使えなくなったモノのように破棄されるのではなく、神は私たちが壊れても、動かなくなっても、自分の大切な存在として自分の側に置いてくださいます。共にいて下さるのです。神は生きていて、いつも私たち一人一人と関わって下さっている。それが、この聖書に書かれていることのすべてです。
では復活した後に私たちはどうなるのか。今朝、与えられました御言葉の中で主イエスはそのことについて話されます。共に聴いてまいりましょう。

さて、今朝与えられました御言葉の最初に「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。」(マルコ福音書12:18)と記されています。このサドカイ派とは、ユダヤ教の一つの教派です。主イエスの生活していたユダヤでは、当時、ユダヤ教には他にファリサイ派、エッセネ派と呼ばれるグループがあったと考えられています。それぞれ同じ聖書(今で言うところの旧約聖書)を読んでいるのですけど、その解釈が違っていました。このサドカイ派は祭司ザドクの考えに共感したものたちの集まりで、主に祭司たちや貴族、王族と言ったユダヤ社会の指導者層に支持されたグループでした。彼らは聖書の中のモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)だけを聖典として重んじました。そして伝統的に守られ継承されてきたユダヤの祭儀を忠実に守ってきました。一方ファリサイ派の者たちは、預言書や諸書と呼ばれる旧約聖書の他の文章や、古くからの言い伝え、を重んじていました。そして彼らは、ユダヤの民衆から支持されたグループでした。このサドカイ派とファリサイ派の聖書解釈の最も大きな対立点が、死後の復活についてでした。サドカイ派は復活を信じていません。しかしファリサイ派は復活を信じていたのです。
なぜこのような解釈の違いが起きたのかというと、サドカイ派の者たちが聖典として用いているモーセ五書の中に、復活について書かれた記事はないと考えたからです。そもそも復活などあったなら、死んだ後にまだ人が生きるとするなら、聖書に書かれている律法の言葉は成り立たなくなると話すのです。そして彼らは主イエスもファリサイ派と同じように復活がある、と話す言葉を聞いて、これをやり込めて、黙らせようとするのです。
サドカイ派の者たちは、いつもファリサイ派を言い負かしている、同じやり方で、主イエスに質問します。最初、彼らは、主イエスを「先生」と呼びかけますが、それは彼らが主イエスを尊敬しているから、ではなく、警戒感を緩めされる為です。彼らは狡猾に主イエスに近づくのです。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。」(マルコ福音書12:19)
これはレビラート婚と呼ばれる規定です。なぜこのように定められていたのか、というと、それはこの時代、その家の長男の長男に家の財産が継承される慣習になっていたからです。もし長男が死んでその妻が他の家に嫁ぐなら、財産もその家に渡ってしまうことになります。このような事態を防ぐ為であったといわれています。それに夫を失った婦人が家を追い出される事態を防ぐためとも考えられています。つまり、当時の厳格な家父長制度を維持するためには必要な規定だったわけです。サドカイ派の者たちは、この規定を利用して、一人の婦人の例を取り上げます。ひとりの婦人がいて、彼女の夫は七人とも次々に皆死んでしまい、子どものないまま彼女は残るのです。では復活の時に、彼女は誰の妻となるのか、と彼らは主イエスに質問するのです。
主イエスは彼らに、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」と答えます。この「思い違い」(planao)とは「迷う」という意味です。つまり人間の限られた見識で、聖書の言葉や神の力を計ろうとするから、神から離れて真理から迷い出てしまうのだ、と、そう話されるのです。彼らは神を自分の力や創造力の延長線上に置いている、のです。
そして主イエスは地上の結婚は天の御国の中まで延長しないと話されます。私たちが天に招かれた後、天使(aggelos)のようになる、と話されます。私たちはこの世との関係を離れて、神との関係に戻るのです。では私たちが天に召されたあと、この世のあって関わっていた最愛の者たちとの関係も断たれてしまうのか、というと、そうではありません。そもそも、この世にあって私たち同士を繋げてる絆は、私たちが自分の力で繋げたものはないからです。自分の家族、親や子、連れ合い、友だち、それらは神が御業によって繋げられた絆であり、神が私たちに与えてくださった恵みです。この世の力や人の力で引き離されたとしても(マタイ福音書19:06参照)神によって繋がれ続けるのです。
さらに主イエスはサドカイ派の人々の「思い違い」を正されます。「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。」(マルコ福音書12:26)これは出エジプト記の三章一節以下に記されている物語です。
神はモーセの前に現れた後、自らの名前を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と話します。つまり神は、天上にいるアブラハム、イサク、ヤコブ、と共にあり、地上にいるあなた(モーセ)とも、共にいる、と話されるのです。そして主イエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(マルコ福音書12:27)と話します。つまり、人にとって「死」とは神との関係を断たれていることなのです。人はこの地上で生きていても、神との関わりを失うなら、その魂は水が断たれた花のように枯れてしまいます。この世にあって自らの神の如くすべてを支配できるかのように誤解し、すべてを自分の手の内に入れることを求めようになります。奪い争い憎み嫉むようになる。それが本当の死です。逆に神との関係の内に生きているのであるなら、人は死を味わうことがない、つまり人は永遠に存在する神との関係に於いて、永遠の命に招かれるのです。
主イエスはサドカイ派の人々に、あなた方が聖典としているモーセ五書の中にも、きちんと復活について明らかにされている、と話します。彼らに神を信頼し、この世を超越される神の力を信じるようにと諭すのです。教えるだけに留まらず、主イエスは自らの十字架の死の後に復活され、弟子たちの前に現れます。自らの言葉を完結されるのです。

私たちの命は、死に依って中断されることはありません。神との関わりは続きますし、私たちの存在は、決して損なわれることはありません。かえって死に依って私たちはこの世の罪の束縛から解放され、自由にされます。それがどのような在り方なのかは、私たちの限られた知恵では計ることはできません。でも神は、私たちを愛してくれているのですから、私たちは神に委ねれば良いのです。
神を信じなら、私たちはこの世を安心して生きられます。帰る家のない旅は、旅ではなく放浪です。しかし私たちには最後には帰る場所が用意されています。だから安心してこの世の旅路を神と共に歩むのです。神は生きています。そして神と共に歩む私たちも生きるのです。