礼拝説教原稿

2021年10月

「世界のすべてが美しい」2021/10/31

マルコによる福音書7:14-23

台所でつまみ食いをすることは行儀が悪いと教えられています。とはいえ天ぷらは揚がったばかりが一番美味しいのです。以前、順子さんが台所でサツマイモの天ぷらを揚げていた時に、揚げたそばから手を出して摘まんでいて、サツマイモがすべてなくなりました。そのことに気づかれて「私の分がない」と強く叱られました。でも、これと同じことを主イエスの時代のユダヤで行ったなら、私は行儀が悪いと叱られる程度ではなく、律法に背き神に背いた者、として断罪されることになりました。なぜならユダヤ人たちの習慣では、食事の前には手を洗わなければならない、と定められていたからです。彼らは聖書に記された律法の言葉をそのように解釈し、習慣化していたのです。しかも手を洗うといっても、パシャパシャと適当に水をかける程度ではダメです。肘から下、指先、爪の間までを丁寧に洗うことが定められていました。あと口のうがいもします。そうやって手の「けがれ」を取り払ってから、食事を頂かなければならなかったのです。
この「汚れ」(koinoo)ですが、元来は「共有する」とか「日常の」という意味の言葉です。つまり食事をする前には、自分の手に付着しているこの世の汚れを完全に取り除き、日常ではない特別な状態、つまり神の前に「浄め」(hagios)られた手、聖別してから、食事の席につかなければならないと、そう定められていたのです。
また、料理に出される肉についても、食べてよい動物と食べてはいけない動物が細かく定められていました。(興味のある方は申命記十四章かレビ記十一章をお読み下さい。)長くなるので読みませんが、ざっくり説明すると、完全にひづめが割れていて反芻する動物は清いので食べて良い、それ以外の動物肉は食べてはいけません。汚れた動物の死骸にも触れてはいけません。水の中に生きる動物では、鰭と鱗のある魚は食べても良いけれど、それ以外は汚れています。鳥は猛禽類とコウモリは食べてはいけません、それ以外は食べられます。昆虫については、イナゴ以外は食べてはいけません。この規定に従うならば、私たちの身近な所で考えますと、まず豚肉は食べられません。たこ焼きもイカとかウニとかもだめです。あの香ばしくて美味しいウナギの蒲焼きも、食べるなら汚れに染まることになります。あと食べてよい肉であっても、祭司が決められたやり方で捌いて、血は一滴も残さず地面に流してからでないと食べられません。
でもなぜ、このような規定が聖書に定められているのか、というと、それによってユダヤ人の健康が守られるためです。なぜ食事の前に入念に手を洗うのか、簡単です。病気にかからないためです。このコロナ禍で、どうして日本の被害が世界各国と比較して緩いのか、について、日本には浄水が豊富にあり、日常的に手洗いうがいが習慣化していたからだ、という見解があります。また土足で家に入らないことも、その要因として取り上げられています。ちなみにユダヤ人にも草履を脱いで足を洗ってから、家の中に入る習慣がありました。主イエスは弟子たちの足を洗いました。それは日常の風景なのですけど。ただ足を洗う役割は奴隷の仕事であり、尊敬されていた教師が生徒の足を洗うことはしません。主イエスは突拍子もないことをして、印象深く弟子たちにお互い愛し合う手段を教えたのです。
そして清い動物、汚れた動物ですが、これもユダヤ人の健康を守るための規定です。今でこそ豚肉は安全に食べられますが、一昔前までは十分に火を通すようにと教えられました、それは豚肉の中に潜む細菌や寄生虫による健康被害を避けるためです。またウナギですが、ウナギの血液には毒があります。十分に加熱すると毒性を失うので、食べることができますが、調理方法が確立する以前には、食べてはいけない魚だったのです。その他にも生き物の血を介して引き起こされる感染症が多くあります。
聖書に記された律法は、人が心身共に健康的に良く生きるにはどうすれば、という知恵の何百年もの時間を掛けた集積です。そして、この知恵をより多くの人に行き渡らせるために「汚れている」という表現が使われるのです。「食べてはいけない」よりも「汚れている」という言葉の方が強い抑止力を持つからです。例えば「入ってはいけません」という看板を掲げるよりも「入ったら呪われる」という看板を置いた方が、効果があります。虚偽なので推奨はしませんが。
しかしファリサイ派の人々は、この知恵を間違った形で使います。彼らは自分たちを高めて相手を貶めるために、律法を使うのです。律法に従っている私たちは清い、律法を守れないお前たちは汚れている、と話すのです。
先ほど読まれました御言葉より少し前の箇所ですが七章に始めに、このように記されています。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。」(マルコ福音書7:1-2)主イエスの弟子たちのなかにも、私のように行儀のわるい者がいたのでしょう、手を洗わずに食事の席について、パンに手を伸ばすのです。その様子をファリサイ派の者が目敏く見つけ、鬼の首を取ったかのように、主イエスを批判し始めます。「あなたの弟子は律法を犯している」そう批判するのです。ここから、今朝与えられました御言葉につながっていきます。
この騒動が収まったあと、主イエスは群衆を呼び寄せて話されます。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(マルコ福音書7:14)
主イエスは、この世界には何一つ汚れている食べ物などはない、汚れている動物もいない、と人々に話します。ファリサイ派の人々は、汚れはこの世界から、自分の中に入ってくると話しているけれど、この世界には何一つ汚れているものなどない、すべて美しい、と話すのです。なぜ、この世にあるモノはすべて清いのでしょうか。それは、この世にあるものはすべて、神に「良い」と言われたものだからです。創世記の始めにこのようにあります。「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。」(創世記1:21)この「良し」(bwøf)とされた、という言葉は、神さまが見て太鼓判を押されたのです。動物にしても植物にしても虫も微生物も細菌もウィルスも、神がこの地上での役割をそれぞれに与えて創造して、良しとされたものです。ただ私たち人間にとっては、それらの被造物の存在が、都合が悪い場面があります。そんな時に「神さまはなぜ、こんなものを創造されたのか」と文句を言うわけです。でもそれは根本的な間違です。人はこの世界に間借りさせてもらっている存在なのです。
神が創った世界に人は置かれていて、この世界にあるすべてのものを使うが許されているだけなのです。この命すら借りものです。人はこの世界を多少リフォームして住みやすくすることは許されていますけど、自分たちが世界をすべてを始めから、作りかえることも可能だと勘違いするのです。しかし環境条件や基本的な間取りを変えることは許されていないのです。
主イエスはこの勘違いについて、人々に教えます。「人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」と話されます。この勘違いが生じる原因こそが、汚れを生みだし、それは人の内面から出て、この世を汚す、と話されるのです。
このあと主イエスは人々を離れて、弟子たちと共に家に入ります。でも弟子たちも、まだ主イエスの言葉を納得していません。そこで主イエスは話します。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」(マルコ福音書7:18-19)主イエスは人がトイレに流す排泄物を「清い」と話します。そして、そんな悪臭を放つ排泄物よりも、人の中から出てくるモノの方が、よっぽど臭い、と話すのです。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ福音書7:20-23)
神はこの世界のすべてを美しいものとして創造されるのです。しかし、人は我が儘なのです。自分の都合に合わせて、これは良い、これは悪いと選り分けます。そして良いとするものを独占し、悪いとするものを避けようとします。それは食べ物だけの話しではありません。この人は悪い、この人は良い、と他人を評価します。人は心の中で他人を嫉み、焦り、謀り、惑わし、嘘をつき、干渉します。そのようにして人は神に与えられた世界を拒むのです。アダムが神に逆らい、園の真ん中にある木の果実を口にしたように、エデンから外に出ようとする。そこに罪が生じるのです。
神が創造し私たちに託した美しい世界のすべてを受け入れることができない。そこに罪があり、この神から背こうとする罪を起点として様々な悪が生じるのです。

私たちキリスト者であるなら「人を裁くな」という主イエスの言葉を知っているはずです。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。(マタイ福音書7:1-2)しかし、この御言葉が与えられているにも関わらず、私たちは人を裁いてしまいます。ファリサイ派の人々が律法を盾にとって人々を裁き、自分の財力や知識、身分を見せつけ、神ではなく自分たちに従うように仕向けたように、私たちも自分たちの信仰を盾にこの世を批判し計るならば、彼らと同じ過ちを犯すことになります。私たちは裁く為に信仰を与えられている訳ではなく、受け入れるために信仰が与えられています。相手を無視したり軽視するためはなく、自らを滅しても相手を愛するために信仰が与えられているのです。
神は私たちに、何々してはいけない、と命令する事はありません。そうではなく神は、自分と神との関係に立ち返って、つまり創造の時に立ち返って、自分の頭と心で考えなさい、と話します。そのために神は人を自分の似姿に創造されたのです。たとえば、未熟な教育者は生徒に対して「何々してはいけない」と命じるのです。しかし本物の教育者は、生徒の好きなようにさせます。基本的な安全は確保しつつですけど。そして失敗を経験させる。生徒自身が失敗した経験から自分の頭と心で、なぜいけなかったのか、を理解させるためです。それは忍耐を必要とするやり方ですが、忍耐よりも信頼が必要です。主イエスも私たちに対して、良い教師として関わってくださいます。私たちが過ちを犯したとしても、私自身がそのことに気づくまで、忍耐深く、私たちに愛想を尽かすのではなく、関わって下さいます。自らが十字架に架けられることになっても、痛みも死も厭われずに、それでも私たちが気づき、悔い改める時を信頼して待ち続けられるのです。主イエスにとって私たちは皆が生徒です。私たちの年齢に関係なく、主イエス良い教師として私たちに関わって下さいます。この主イエスを覚え、共にしたがってまいりましょう。

「創造の秩序」2021/10/24

マルコによる福音書10:2-12

何気なく口にした言葉で、相手を傷つけてしまうことがあります。私自身、相手を傷つけたことに気づかないまま、そんなことを話したことすらも忘れてしまっていた、なんてこともあります。でも相手の方は心ない言葉に、ずっと心に痛みを負い続けるのです。
もし私が、自分の口にした軽率な言葉で相手を傷つけてしまった、と気づくならば謝罪できます。そうすれば許してもらえるかもしれません。その後で相手の心の痛みに寄り添うことができるかもしれません、それに私自身も、自分の軽率さに気づかされるでしょう。でも私が、相手を傷つけたことに気付かないなら。関係は断たれたまま、わだかまりを覚えつつ、苦々しさだけが残り続けるのです。
私たちの負っている罪も同じです。神がこの世界を創造されたときに創れたアダムが背負った罪を、私たち人間はずっと負い続けています。神に背くこと、それが罪です。もし私たちが自らの罪を自覚するなら、私たちはもう一度、神との関わりを回復しようと心を動かし、それまでの軽率な行為を恥じて、神に赦しを求めることができます。そして、自らの罪を自覚し苦しむものを神は赦されます。主イエスは、「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」(ヨハネ福音書12:47)と話されるように、悔い改める者を赦される方だからです。そうすれば、神との関係は回復し、天の国を見いだすことができるのです。
しかし罪を自覚することができなければ、私たちは罪の内に留まり続けます。何が悪いのか、どうすれば良いのか分からない。葛藤することも、苦しむこともできないまま、神との関係は断たれます。罪を自覚できない者たちは、なぜそうなるのか分からないまま苦しみ、自分を責め、他人やなにかの所為にすることで自分を慰めます。そして自分に関わるすべての者をも苦しめることになるのです。
そこで神は、この世の人々が罪を自覚できるように、まずユダヤ人にモーセを通して律法を与えます。ユダヤ人たちは律法を通して自らの罪を自覚します。しかし彼らには、まだ赦しが与えられません。神は、いつか救い主が現れてあなたがたの罪を赦すから、それまでは希望を捨てずに律法を守り信仰に留まりなさい、と、預言者の口を通して伝えるのです。しかし彼らは救い主を待てません。自らの罪の重さに耐え続けることができないのです。
彼らは自分たちに都合の良いように律法を解釈するようになります、さらには、そのことを指摘する預言者に石を投げ、追い出すのです。(マタイ福音書23:37)。
そしてついに時が来て、神はこの世に生きる人々に赦しを与える為に、主イエスとしてこの世に現れます。主イエスは祭司や律法学者たちの誤魔化しや誤解を訂正し、律法の本来の意味を明らかにします。ですから主イエスの言葉は、祭司や律法学者たち、また人々にとってとても痛い言葉となります。もし主イエスの話す言葉を認めてしまうなら、自分自身の心の奥に隠してきた闇が暴かれてしまうからです。今まで適当に折り合いをつけていたことバレてしまう。自分の悪事や怠惰を他人から指摘されるとか、批判されることは、それほど痛くはありません。でも自分で自分の罪に向き合いつづけることは痛いのです。耐え切れない痛みなのです。
ユダヤ人たちは主イエスを迫害します。自らの心の痛みから目を背ける為に、罪を明らかにする主イエスを消し去ろうと考え、十字架に掛けるのです。そして主イエスは肉を裂かれ血を流し、痛みと苦しみと辱めを受けて命を絶たれるのです。
しかし、それこそが神の御心なのです。十字架に架かった主イエスの痛み、苦しみ見て、つまり罪なき神の小羊が犠牲として捧げられた姿を見て「本来、私が自らの罪に向き合った時に負わなければならない痛みを、主イエスは代わりに負って下さった」と気づいた人は、自らの罪を直視し、悔い改めるのです。そして後の時代にあっても、主イエスの十字架の意味を聖書の中から読み取り、その傷みが「私の罪の痛みだと」気づいた者も、悔い改め、罪を赦され神の国を継ぐ者とされるのです。
今朝、私たちに与えられました御言葉も、私たちにとって、とても痛い言葉です。ここで主イエスは夫婦が離縁するという事柄について話されていますが、そこだけに留まらず、夫婦の在り方についても問われますし、人間そのものの在り方についても問われています。でも主イエスは、私たちが自らの罪を自覚させるために、そして、私たちが神と和解する道を備える為に、話されるのです。

さて、ファリサイ派の人たちが来て、主イエスに尋ねます「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(マルコ福音書10:2)彼らが主イエスを試すために、このような質問をした、と聖書は記します。彼は申命記に書かれた律法の言葉について質問するのです。
「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない。」(申命記24:1)
当時のユダヤ人たち、そしてファリサイ派の人々の間では、この妻が行った「恥ずべき事」の程度について議論されていました。そして、まだ正解が出ていませんでした。ある律法学者は妻が不貞を働いた場合であるとし、また他の律法学者は夫が他の女性を妻にしたい時である、と話します。また妻が食べものを焦がした時と解釈する学者もいたそうです。つまりファリサイ派の人々は、離婚の条件をどのように設定すれば良いのか、と主イエスに尋ねるのです。もし主イエスが厳しく判断を下すなら、主イエスに従っている男性は「男性の威厳が保てない」と不快になります。緩く判断するなら主イエスに従っている女性は「女性の心が分からない」と不快になります。古今東西、男女関係、夫婦関係は繊細なのです。できれば夫婦喧嘩は避けたい、と言うのが本音です。かれらはそこを突いて答えにくい質問をして、主イエスに不信感を持たせ、従う者たちの間に不和を起こそうとした。罠に掛けようとするのです。
ではこの問いに主イエスはなんと答えたのでしょうか。主イエスはこの問いに対して、このモーセがこの律法が定めた意味に立ち返ることで答えられます。そもそもこの律法は、夫婦の離婚の条件を示したのではなく、安易に離婚しないように。夫婦とは何かをもう一度冷静にお互い話し合うためにモーセは定めたのだ、と話すのです。もし夫が妻と離縁を望む時には、まず律法に定められているように、夫は妻の「恥ずべき事」を明らかにしなければなりません。それも町の広場に行って(当時の裁判所)、長老や町の人々の前で明らかにしなければならないのです。しかし鍋を焦がすことと同等の過ちは夫にもあるでしょうし、妻以外の女性に好意を向けることは、夫にもあるのです。まずお互いに目を止めなさい、と。そして次に、この律法は夫と妻に平等の離婚のリスクを負わせます。妻が夫と離婚した後に他の男性と結婚して、その男性が死んだり、離縁したとしても、もう元の夫の所に戻ることは出来ない。また夫は気に入らないことがあって、妻を離縁したなら、もう二度と復縁はできない。その様に定めることによって、夫婦が一時的な感情の行き違いや、喧嘩によって別れることを思いとどまらせようとする。「あなたたちの心が頑固なので」(マルコ福音書10:5)モーセはこのように書いた、と主イエスは話すのです。そして離縁状を書けば姦淫の罪を神が赦すわけではない、どちらにしても神の前では罪だ、と主イエスは話すのです。
なぜ離縁する事が罪なのか。神の御心に背くことなのか。主イエスは、聖書に書かれた結婚の在り方を話されます。つまり結婚とはそれぞれの男女の好みや利害が一致するとか、自分たちの都合で結びついたのではなく、そこに神の御手が働いていて、神によって二つの者が一つにされている、そう話されるのです。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ福音書10:6-9)
夫婦は神が結びつけた交わりです。神は天地創造の昔から人を男と女とに創り、これを「神が結び合わせてくださった」とあります。ここに「二人は一体である」と書かれています。自分自身を眺めても、良いところも悪いところもあります。しかし例えば不器用だからといって、手を切り離す事は出来ないのです。性格だって良いところと悪いところがあるけれど、それらを合わせて自分自身なのです。それを切り離すことはできません。夫婦という関係も同様です。私たちに話す正しい関わりとは、お互いに相手を自分自身として受け止めあうこと、自分にとって都合の良い時も、反対に悪い時も関わり続けること補いあうこと。それこそが本来あるべき神の創造の秩序だと話されるのです。
でも夫婦関係だけでなく人間関係も本来、このようなものです。私たちは目の前にいる人を神が創られ、自分の前に置かれた一つの命としてかかわっていくのです。自分の勝手な思いで自分の心から切り離すのではなく、良い所も悪い所もお互いに受け止める。怪我をしたら手当をするように、自分の綻びも相手の綻びも、お互いに修繕していく。怪我が治るには時間が掛かります。同じように修繕にも時間が掛かるかも知れません、でも、関わり続けること。それが聖書に記されている愛という関係性です。
確かにこの言葉は、厳しい言葉です。私の身近にも離婚を経験した者がいます。牧師であっても離婚を経験したものもいます。では私たちはこの言葉の表面だけをなぞって、ファリサイ派たちのように、つまり律法主義者のように誰かを批判する道具に使うことは、神の前に正しいことではありません。他の女性、男性に目を向けるといった幼い理由ではなく、日常的に精神的肉体的なDVを受けて別れるケース、親や親戚との関係が悪くて離婚を余儀なくされるケースも私たちは知っています。また、罪を犯さないために最初から結婚などしない方が良い、と考えるなら、それもまた神の創造の秩序に背くことになるでしょう。あとお互いにいがみ合っているけれど世間体を覚えて離婚できないとか、そんなケースも、神の創造の秩序には反しているのです。神がお互いにお互いを助け手として、恵みとして与えて下さったパートナーを受け入れていない、もしくは拒絶しているわけですから。

夫婦、もしくは男女という関係性は、私たちの日常で特に身近なことなので、罪の在り方が顕著に表れます。けれど日々の生活の中の様々な事柄についても、そこに神の御手を見失った時、やはり私たちは罪を犯しているのです。
でも自らの罪を自覚できたなら、その痛みを覚えるなら、私たちは先に進む事ができます。もし躓きを覚えたなら、物事が上手く進まなくなったなら、何が自分の命にとって大事かを見失ったなら、神の創造の業がどうだったのか、戻ればよいのです。そこを出発点として、もう一度自分を見直す。ハズレていたら悔い改めて、やり直せば良いのです。主イエスが復活されたように、私たちも悔い改め立ち返るなら新しい命を与えられるのです。

「つねに備えなさい」2021/10/17

マタイによる福音書25:1-13

先日、調べのものがあって、桑名市の図書館に行ってきました。コロナ禍の影響でしばらく閉館されていたのですけど、十月に入ってようやく開館しました。わりあい混んでいて、若い高校生くらいの学生が多くいました。四階に予約制の持ち込み学習スペースがあるのですが、すべての席が埋まっていて、みんな真剣な表情で勉強していました。机の上にはビッシリ書き込まれたノート、色とりどりの付箋が貼られた参考書が置かれています。その様子を見て、大学受験の追い込みのシーズンである事に気付かされました。あと二ヶ月だから頑張ろうね、と勝手にエールを送りました。
彼らは志望する大学に試験に合格するために、懸命に勉強しています。それはすばらしい努力だと思います。けれど彼らにとってのゴールは大学に合格することではありません。なんとなく勘違いしてしまうのですが、合格はゴールではなくスタートです。それに、大学に入ってからの学びは高校までの学びとは違います。高校までの学びは、与えられた課題を与えられた通りに消化すれば評価されます。しかし大学ではだれも課題を与えてくれません。興味のあること、知りたいことを自分で調べ探求していきます。でもそれは、受験のための強いられた勉強とは違って楽しい勉強です。彼らにとって受験はリハーサルで、大学に入ってからが本番なのです。
私たちの信仰生活も同じです。信仰を与えられて心静かに礼拝を捧げる、平安が与えられるなら、私たちはそこで満足します。でもそれは信仰のゴールではありません。信仰が与えられたことによって与えられる本当の恵み、本編は、そこから始まります。今朝、与えられた御言葉を通して主イエスは、このことを私たちに教えられています。

さて、十人のおとめの譬えについて理解する上で背景となるのは、当時のユダヤでの結婚式の風習です。花婿は仲間を連れ立って町中を行列して花嫁の家に向かいます。花嫁の家では婚礼の祝宴に招かれている客たちが接待を受けながら、花婿が来るのを花嫁と一緒に待ちます。花婿が家の近くまで来ると、花嫁の家の者たちはともし火を明るく灯して、花婿の行列を歓迎して招き入れます。そして花婿と花嫁と客たちは祝いの行列を作って花嫁の家を出発します。花婿は花嫁をラクダに乗せて街中を練り歩き、結婚を公なものとします。そして花婿の父の家まで行き、本格的な祝宴を始めるのです。
この譬えに記されている十人のおとめたちは、花婿を出迎えるためにともし火を灯す役割を与えられていました。「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。」(マタイ福音書25:1-5)
十人のおとめたちは花婿が来るのを、準備万端で待っていました。このともし火(lampas)とは文字通りオイルランプです。急須のような形をしていて、灯油はオリーブオイル、灯心は麻を撚ったものが使われていた、と考えられています。
しかし、予定外の事態が生じます。肝心の花婿の行列がなかなか来ないのです。夜が更けてあたりは暗くなります。おとめたちは待っている間に眠り込んでしまうのです。そして「花婿が来た」という声が響きます。おとめたちはすぐに起きて自分たちのともし火の、炭になった灯心の先を切り取って調えます。そうすることで火が大きくなり、明るくなるからです。でもその時、娘たちは自分たちのランプに残っている灯油が少なくなっていることに気付きます。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった、と聖書には記されています。愚かなおとめたちはランプに継ぎ足すための油を用意していませんでした。一方、賢いおとめたちは油を壺に入れて用意していたのです。
愚かなおとめたちは賢いおとめたちに願います。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」(マタイ福音書25:8)しかし、賢いおとめたちは願いを断ります。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」(マタイ福音書25:9)愚かなおとめたちは、すぐに油を売っている店に走ります。でももう夜は更けているのです。そう簡単には手に入りません。そしてようやく彼女たちが油を手に入れて戻ったときには婚礼の行列はすでに花嫁の家を出て、花婿の父の家に入っていました。家の門は堅く閉ざされます。五人の賢いおとめたちは他の客と共に婚宴の席に招かれますが、五人の愚かなおとめたちは、真夜中の暗い門の外に閉め出されるのです。「その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。」(マタイ福音書25:12)愚かな娘たちは門の外で「開けて下さい」と叫びます。しかし主人は「わたしはお前たちを知らない」と答えるのです。
なんとも後味の悪い物語です。なぜ、賢いおとめたちは愚かなおとめたちに油を分けてあげないのか。なぜ主人は愚かなおとめたちを暗い門の外に閉め出して、祝宴に招いてくれないのか。主イエスは「五つのパンと二匹の魚」(マタイ福音書14:19)で人々を満たされました。それに悔い改めた者を赦される方(マタイ福音書12:41)ではないのか、と私たちは考えます。主イエスの話す救いのイメージと、この譬えは乖離しているのです。
では、この譬えを正しく理解するためにはどうすれば良いのか。まず主イエスがこの譬えを弟子たちに話したタイミングに目を落とさなければなりません。主イエスはこの譬えを十字架に架かる直前にはなされました。この「十人のおとめの譬え」を含め、幾つかの譬えを話された後すぐに、主イエスは弟子たちに、こう話されます。「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。『あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。』」(マタイ福音書26:1-2)
主イエスがこの譬えを話したとき、主イエスが見ていたのは自らの十字架です。そして、この後すぐ弟子たちも十字架の事実に直面させられます。その時、弟子たちは、その場から逃げてしまうのです。
主イエスにはわかっているのです。このままでは弟子たちは十字架を見て「ああ死んでしまった、終わってしまった」とエマオにある、自分の家に帰ってしまうだろうと。そんな弟子たちのために(ルカ福音書24:13)主イエスは十人のおとめの譬えを話すのです。神がこの世のすべてを救う御計画(御心)は十字架で終わるのではない。そこから始まるのだと。悟らせるためにこの譬えを話されたのです。
主イエスが福音を伝え、人々は感動し、救われ喜び後に従うのです。しかし主イエスは人々に謗られ、肉を引き裂かれ血を流し、十字架に架かり殺されます。その時、主イエスに従ってきた弟子たちは一人残らずその場から逃げ出します。弟子たちの魂に灯っていた火はすぐにも消えてしまいそうになるのです。でも、十字架の出来事は、まだ、神の御心のリハーサルに過ぎません。救い計画の本番はここから始まります。主イエスの復活を、その目で見るまで、自分たちに聖霊が下り、使徒として福音を世界に伝えるために神の道具として用いられるまでは、あなた方の魂に灯るともし火を消してはならない。今のうちに予備の油を用意しておきなさい。そう主イエスは話すのです。
おとめたちが持っていたともし火の灯油は、私たちの魂に熱と光を与える聖霊の力です。でもこの聖霊の力を、私たちは貸し借りすることはできません。「私の魂に聖霊の力が余っているから、あなたにあげよう」とか「聖霊の力が足りないから、貸して下さい」とはならないのです。聖霊の力は、私と神との一対一の関係の中で、それぞれに一人一人に与えられる、特注品だからです。神から分けていただき、自分の中に蓄えるしかないのです。
もう一つ祝宴の扉が開かないことについて、「わたしはお前たちを知らない」という主人の言葉も同様です。【その先にある出来事】を、心の内に思い描くことのできない者たちは、その先の出来事に触れることはできません。弟子たちは主イエスに声を掛けられ、今までひたすらに、ただ一途に従ってきました。頑張ってきました。しかしその先にあったのは、主イエスの十字架上の死という敗北です。この世の価値基準や評価から判断するならば、主イエスの活動は完全に失敗なのです。実際にイスカリオテのユダはどんなに主イエスに諭されても【その先にある出来事】に目を向けることができませんでした。彼は十字架の後に目を向けることができなかった。だから彼の魂は滅びに捕らえられたまま、解放されなかったのです。
主イエスはその先にある出来事に目を向けるように、と弟子たちに促します。その先に必ず祝宴がある。その先の出来事を思い描けない者たち、つまり愚かな娘たちは、祝宴の席に招かれないが、あなたたちが賢いおとめたちのように、その先を見据えなさい、そうすれば祝宴に招かれるだろう。そう主イエスは話されるのです。
つまりこの譬えにある祝宴とは、復活の主が弟子たちに現れたあと、弟子たちがこの世にあって、自分たちの口を通して神の愛を全世界に告白する、その働きのことです。弟子たちにとって、主イエスから御言葉を与えられている間はリハーサルだったのです。彼らがこの世に送り出される、そのための予行演習です。そしてその分岐点が十字架です。ですから十字架は終わりではなく始まりなのです。

先週から週報に「クリスマスに洗礼を受けられる方は、牧師までお声掛け下さい」というアナウンスを載せています。この洗礼は信仰者にとってのゴールではありません。スタートです。終わりではなく始まりです。どんなに勉強をして膨大な知識を得ても、それをこの世に向かって使わなければ無意味です。しかし使ってみたならば、さらに課題が与えられます。改善する点が見つかり、さらに工夫することになります。その過程でたくさんの人と議論し衝突し、互いに向上します。信仰も同じです。
受けるだけではなく与える者になること。信仰を共有できたと感じた時の喜び、共に心を一つにして祈ることのできた時の喜び、その喜びこそが神の祝宴であり、信仰から得られる本当の恵みです。この恵みはこの世のどんな知識を得たとしても得られません。幾らお金を積んでも手に入れることはできません。しかし神は、気づいた者には惜しげもなく、幸いを与えて下さいます。

「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ福音書25:13)この「目を覚ます」(gregoreo)とは「起床する」という意味ではありません。油断せずに、その先にある出来事を見据える、という意味です。いつも復活を見据えなさい。そう主イエスは話されるのです。
自分の考えを話すということに、私たちは躊躇してしまいます。もし間違っていたら、否定されたらどうしようと、考えるからです。特に自分の信じていること、信仰について話すことはもっと困難です。なぜなら、それは自分の魂の最も深いところにある言葉だからです。否定されるなら、自分の存在自体を否定されたように感じるからです。でも、そもそも神が完全であれば良いのであって人は不完全で良いのです。その不完全な部分が繋がりあって補い合えば良いのです。それが信仰の交わりであり、そこに神の祝宴が現れるのです。共に信仰を告白しつつ、この世を支え合い歩みましょう。

「あたりまえのこと」2021/10/10

マタイによる福音書22:15-22

先日、教会員の方を訪問した時のことです。会話の中で「もうクリスマスですねぇ」という言葉が出て、少々驚かされました。コロナ禍の影響からか、今年は時間の進み方への感覚が鈍っていて、クリスマスはまだまだ先のこと、という意識だったからです。でも、あと二ヶ月ほど、十一月二十八日から今年のアドベントが始まります。

さて、このクリスマスの物語のなかに、ユダヤ全土で人口調査が行われた、という記事があります。聖書にはこう記されています。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」(ルカ福音書2:1-3)クリスマスのたびに聞く聖句なので、覚えておられる方も多いと思います。このローマ帝国によるユダヤ人に対する「人口調査」という出来事が、今朝与えられました御言葉を理解する上での背景になります。
ではなぜ人口調査は行われたのでしょうか。それは国勢調査のためではありません。一つの目的はローマの兵士として徴兵できる人数を数えるため、もう一つは人頭税を集めるためです。この人頭税とは国民一人あたり一律の金額を直接ローマ帝国の国庫に納める税金です。でもこの徴収についてユダヤ人は強く反発しました。人口調査の後、ユダヤ国内で大規模な反乱が起こった(使徒5:37参照)という記録があります。しかし彼らユダヤ人は、ローマの支配に抵抗したいとか、生活が苦しくて自分の財布から税金を納めたくない、といった感情的な理由で反乱を起こした訳ではなかったのです。ではなぜ、彼らは人頭税を納めることに強硬に反発したのでしょうか。
ローマ帝国から見るなら、ローマの属州となったユダヤから税金を徴収することは当然です。ローマはこの税金を使って各国を結ぶ道路や港といったインフラを整えました。各地に技術者を送り文明を発展させるのです。また各地の軍人を駐留させ、国の内外、各地の治安を維持する働きにも相応の軍事費を費やしました。そして実際にユダヤはローマ帝国の属州になってから、経済的な恩恵を受けて豊かに発展しました。他国に侵略されることなく、最新の科学技術や知識を手に入れました。それにローマ帝国の通貨を使うことによって、地中海を囲む周辺諸国と安全に自由に交易し、利益を得ることができるようになったのです。ユダヤ人から見ても正当な徴税なのです。
でもユダヤ人にとってどうしても許せないことがありました、それがデナリオン銀貨です。ローマ帝国に納める税金は、関税も含めてですが、ローマの通貨、デナリオン銀貨で支払わなければならなかったのです。このデナリオン銀貨の表面には月桂樹の冠をかむったローマ皇帝の像が刻まれていて、そのまわりには「崇高なる皇帝ティベリウス、神聖なるアウグスティスの子」(TI CAESAR DIVI AVG F AVGVSTVS)という碑が刻まれていました。そして裏面には神の座に座るティベリウスの母の像と「大祭司」の碑が刻まれていました。つまりローマ皇帝ティベリウスを神格化し神として崇めるローマの神学が、この銀貨の両面に刻まれていたのです。
それは明らかにユダヤの神学、つまり十戒に抵触します。十戒の第一戒と第二戒には、こうあります。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。」(出エジプト記20:3)つまり「皇帝を神として信奉すること」「神の像を造ること」これらはユダヤ人にとって最も忌み嫌われる行いなのです。しかし長くローマの支配に組み込まれてきたユダヤ人の日常生活は、禁忌の象徴となるデナリオン銀貨を使わなければ成り立ちませんでした。彼らはデナリオン銀貨を持ち歩かなければならないのです。
そんなデナリオン銀貨ですから、ユダヤ人が礼拝のためにエルサレム神殿の中に入れる時、所持することは認められていませんでした。当然、献金として捧げることはできません。ですからユダヤ人たちはエルサレム神殿で礼拝をするときは、神殿に入る前に、ローマの通貨をユダヤの通貨に両替して献金しなければならなかったのです。
つまり、ユダヤの民衆は、生活(ローマ文化)と信仰(ユダヤ文化)のどちらを尊重するべきか、二重規範(ダブルスタンダード)に悩まされていたのです。皇帝に支配されているのか、それともユダヤの神、主の支配のもとにあるのか。苦しんでいるのです。

さて、ここから今朝の聖書箇所に入ります。ファリサイ派の人々は主イエスを罠にかけるためにこのジレンマを利用します。ファリサイ派の者たちは、ユダヤの人々に律法を教え聖書を教えるための教師としての働きを託されていた者たちです。ですから主イエスが勝手にエルサレム神殿の境内で人々に福音を教えること、つまり自分たちの役割に勝手に横槍を入れられることを快く思えなかったのです。
しかも、彼らも人頭税をデナリオン銀貨で支払っています。彼らはそれが律法に抵触すると考えていました。でも他のユダヤ人たちに「これは神から与えられた試練だ」と説明していました。彼らは都合良く折り合いを付けてたのです。ですから今朝与えられた御言葉に、「弟子たちを」主イエスの下に送ったと記されていますが、そのような理由なのです。自分たちが行けば主イエスに自分たちの妥協を指摘されることがわかっていたからです。
「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。」(マタイ福音書22:15-16)
もう一つ注意すべき言葉ですが、ここに「ヘロデ派の人々」という言葉が記されています。このヘロデ派とはどの様な者たちなのか、というと、名前から解るようにヘロデ大王から続くヘロデ家を支持する者たちです。彼らはローマ帝国に対して好意的な考えを持っていました。
そもそもヘロデ大王は純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ出身のエドム人です。しかしローマ帝国の後ろ盾を得て、ユダヤの王としての地位を得ました。このヘロデ大王の死後、ユダヤ王家の権力は三人の息子に分けられるのですが、弱体化し、ユダヤは完全にローマ帝国の支配下に組み込まれることとなるのです。ヘロデ派の人々の望みは、ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスが新たにローマ帝国の後ろ盾を受けて、亡きヘロデ大王のように、権力を再興することでした。ですから彼らにとっても、主イエスが民衆から大きな支持を受ける事は、あまり宜しくない、のです。彼らは信仰的な判断ではなく、政治的な敵として主イエスを見ています、そして失脚を望んでいるのです。
そして、当然のことですがファリサイ派はローマ帝国の支配を否定的に考えています。アブラハムから続く血統を受け継ぐ、誇り高きユダヤの民が、異邦人などに支配されるなどと言うことを、彼らが認められるわけがないのです。ですからファリサイ派とヘロデ派は、日頃は敵対関係にあっていつもは仲違いしていました。そんな両者ではありますが「敵の敵は味方」なのです。彼らは主イエスを相手に手を組むのです。
さて、ファリサイ派の弟子たちは主イエスに話し掛けます。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。」(マタイ福音書22:16-17)
彼らは、主イエスが自分たちに対する警戒を解くように、主イエスを煽て、持ち上げます。この「だれをもはばからない方」という言葉は、この世の体制や情勢に折り合いを付けたり、真理を追究することに妥協することがない、という意味です。彼らはファリサイ派の教師たちを否定する事によって、彼らから遣わせられたものではない、と嘘をついて、主イエスを騙そうとするのです。
そして彼らは、主イエスに「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」(マタイ福音書22:17)と尋ます。
もし主イエスが「デナリオン銀貨を使ってはいけない」と言うなら、ヘロデ派の者たちが、その言葉をローマ兵に伝え、内乱罪で捕らえることになります。もし「税金を納めなさい」と話すなら律法違反になります。民衆は「この人もファリサイ派や祭司たちと同じ偽善者に過ぎない」と落胆し、人気は失墜します。どちらに転んでも狙い通り、主イエスを排除することが出来るのです。
では主イエスはどう為されたのか。主イエスは彼らが悪意を持って試そうとしていることを知っています。しかし、彼らに応じられます。主イエスは「税金に納めるお金を見せなさい。」と話して、デナリオン銀貨を持ってこさせます。そして「これは、だれの肖像と銘か」(マタイ福音書22:20)と尋ねます。彼らは「皇帝のものです」と答えます。そこで主イエスは「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と教えるのです。
彼らは、そしてファリサイ派の者たちも、大きな勘違いをしているのです。彼らは自分たちがローマ帝国に支配されていると考えていました。そしていつのまにか、絶大な力を持つローマ皇帝を、自分の力では対抗する事ができない神だと受け入れてしまっていたのです。ですから、ローマの神とユダヤの神のどちらに使えるかと悩む事になったのです。でも、そもそもローマ皇帝は神ではありません。人です。ですから、デナリオン銀貨にローマ皇帝の肖像が刻まれていたとしても、それは神の像が刻まれている訳ではなく、ただの人間の像が刻まれているだけなのです。
ですから主イエスは「皇帝のものは皇帝に」返しなさいと話します。ローマ帝国の社会基盤、政治体制の恩恵を受けて一定の利益を受けたのですから、利益の一部を公益のため、次の時代のために社会に戻すことはあたりまえのことです。そして主イエスは「神のものは神に返しなさい。」と話します。私たちは神からこの命を、この世を生きる為に借り受けているのだから、恵みとして与えられたものの一部を公益のために、次の時代のために神に戻しなさい、と、それがあたりまえのことだと話されるのです。(ロマ書13:1参照)
信仰と生活の狭間に置かれて苦しむ、という事は、信仰と生活を同等なモノとして考えているということです。それは神に業と人の業を同等のもの、つまりあなた自身が神と同等であると、考えているということです。その考え方、心の在り方こそが、十戒の第一戒「神の他の何ものをも神としてはいけない」に抵触しているのです。
主イエスに質問した者たちは「驚いた」(thaumazo)のです。いつの間に自分たちの心が、皇帝を神格化しデナリオン銀貨を神格化していたことに気づかされたからです。そしてイエスをその場に彼らを残して立ち去られるのです。

私たちはこの命を自分の所有物だと考えます。手にしているモノもすべて自分の所有物だと考えます。しかしそれらは神から貸し出されているモノです。私たちは貸し与えられた畑を耕します。神は雨を降らせ風を吹かせ太陽を輝かせ実りを与えられます。私たちはその実りを受けて生かされているのです。神の前に謙虚であること、そうすれば喜びも悲しみも、神からの恵みであると腑に落ちるのです。感謝しつつ共に歩みましょう。

「そこにある意味」2021/10/3

マタイによる福音書21:18-32

小学生の頃、学校でテストが戻される時、平均点あたりだと安心したのです。二十点台だと、恥ずかしくて誰にも見せられないし、図らずも良い点が取れた時には、冷やかされるのが嫌で、これも、誰にも見られたくありませんでした。平均点あたりだと、友だちと見せ合って、ああだこうだ言い合える。安心したのです。でも、この傾向は、私たちの生きている日本の大人の社会でも共通だと感じます。最近は少し緩んできたようにも思いますが、でも周囲との人間関係では、雰囲気を読むことが何をするか、よりも優先されます。それぞれの意見より、まわりの「なんとなく」つまり雰囲気(空気)が優先されるのです。ですから画期的なアイデアとか良い解決法よりも、今までどうやってきたのか、できるだけ誰かに責任が生じにくい手段が選択されるのです。
日本人の傾向、と話しましたが、聖書に描かれているユダヤ人社会も同様に、周囲人間関係の雰囲気、つまりの空気を読む社会でした。日本とユダヤは地理的には地球の反対側ですが、国民性が似ているのです。
なぜ日本人は、まわりに合わせた意見が尊ばれるのか、というと、それは島国で農耕民族、つまり定住した共同体から離れて生活することが難しかったからだと考えられています。違う意見を主張するなら村八分にされてしまう。自分の田んぼに水を引けなくなってしまう。稲刈りも手伝って貰えなくなる。ですから周囲の村の人たちの雰囲気を読んで、つまり顔色を見て意見に合わせるのです。「和を以て貴しとなす」となるのです。
一方、ユダヤは島国ではないのですが、彼らは自分たちの民族をアブラハムの子孫であり神の選んだ民と信じる、強い選民思想を持っていました。ですから他の民族と関わることはしませんでした。なにより他民族から配偶者を得ることは禁じられていました。このような思想的な背景によってユダヤ民族内の一致を強めることができました。何度も他民族に滅ぼされて国を追われ、他国で住むことになっても、ユダヤ人はユダヤ人の共同体を作り、そこで生き残るのです。でも、だからユダヤ人であるなら、この強固な共同体から外に出て生活することは、ほぼ不可能になります。このような環境にあって彼らも「和を以て貴しとなす」にならざるを得なかった、のです。
なぜ、こんなことを話したのかといえば、今朝の聖書の箇所で主イエスが憤った訳が、ここにあるからです。
主イエスというといつも穏やかに微笑んでいるような印象があるのですが、この場面では主イエスは明らかに憤っています。いちじくの木に八つ当たりをして、木を枯らしてしまうのです。でも、なぜそんなに憤ったのでしょうか。

さて、今日の御言葉は、主イエスがナザレを後にして、エルサレムに上がられてすぐの場面です。主イエスはこの時に執り行われていた過越祭が一番盛大に祝われる七日目に十字架にかけられ、命を落とされます。でもまだエルサレムに上られたばかりのこの時、群衆は和やかに主イエスを歓迎していました。祭司たちも主イエスを警戒していますが、まだ殺害してしまうおう、という段階には至っていませんでした。ですから主イエスは朝になるとヘタニアからエルサレムに上り、会堂で人々に教え、また癒やしの業をおこない、夕方になるとベタニアに戻っていました。このベタニアはマルタ、マリア、ラザロの住んでいた村です。エルサレムからオリーブ山を越えて南へ三キロほど離れた場所に位置し、大都市に隣接した、今で言うところの労働者の住む町だったと考えられています。エルサレムに住むことのできない、エルサレムに働きに行く低所得者層や、病人を抱えた地域でした。でも毎朝、主イエスがこのベタニアから他の労働者と一緒にエルサレムに上った、という姿は、私たちの思い描く主イエスの姿と一致しています。社会から取り残され、弾かれた者たちの側に主イエスは住まわれました。でも主イエスはエルサレムに上り、そこに住む者たち、つまり裕福で学識があり、地位のある者たちにも、分け隔てなく関わり、彼らにも教えるのです。
その朝のことです。主イエスはエルサレムに上る途中「空腹を覚えられた。」(マタイ福音書21:18)と聖書には記されています。この「空腹」(peinao)は「お腹が空いた」という軽い意味合いではなく「飢える」というニュアンスであり「満たされていない」状態を表す言葉です。そして、イチジクの木があるのを見て近寄られます。でも葉は繁っていますが、葉をめくって裏を見ても実をつけてないのです。そこで主イエスはこのイチジクの木に命じます「今から後いつまでも、お前には実がならないように」(マタイ福音書21:19)と声を掛けるのです。するとすぐにイチジクの木は枯れます。それを見て弟子たちは驚くのです。
しかし、どうして主イエスはイチジクの木を枯らしたのでしょうか。お腹が空いているのに実が生っていなかったから、イチジクを叱られたのでしょうか。でもそんな短絡的な答えではないのです。実をつけないイチジクの木は、主イエスの言葉を聞いても、心に実を付けないエルサレムの人々の姿なのです。
それは祭司やファリサイ派だけではなく民衆も含めてですが、主イエスは彼らに憤っているのです。主イエスはこのように、言葉で譬えを話されるだけではなく、譬えを目に見える形で表し、神の真理を伝えられるのです。

主イエスがエルサレムに上られた最初の日、エルサレムの人々は主イエスを歓迎していたのです。自分の上着を道に敷き、棕櫚の葉を振って、凱旋した王を迎え入れるように歓迎したのです。その様子は、青々と葉を茂らせているイチジクの木のように、活発に生きているように見えたのです。そして主イエスはエルサレム神殿の境内の広場で多くの人を前にして教えを説きます。神について、神の愛について、天の国について、幸いについて、福音を人々に伝えるのです。人々は言葉を聞いて喜びます。良い言葉だと知り、そこに神の真理があると理解したのです。しかし彼らはそれ以上、自分を開かないのです。主イエスの言葉が彼らの心に蒔かれて、芽を出して茎が伸びて葉は茂るのですが、実を付けないのです。
主イエスは毎朝、ベタニアからエルサレムに上り、集まってくる人々に教えを説く度に、虚しくなるのです。その主イエスの心を、イチジクの木が枯れるという目に見える出来事を通して弟子たちは知るのです。
ではなぜ、エルサレムの人々の心に信仰の実が与えられなかったのでしょうか。エルサレムの誰もが主イエスの言葉に、圧倒的に真理があることに気づいているのです。民衆だけでなく祭司も、律法学者も同様です。しかし彼らは、自分で聞いて自分で見た主イエスよりも周囲の意見や、その場の雰囲気を優先しするのです。忖度するのです。
民衆は祭司やファリサイ派の人々、それに律法学者やユダヤの王は、主イエスをどう評価するのか、彼らは様子を伺います。時局を見定めようとしているのです。逆に祭司たちは民衆が主イエスをどう受け止めるのか、ローマ帝国から派遣されている総督、ポンティオ・ピラトが主イエスをどう評価するか、彼らも見定めようとします。主イエスを真ん中に置いて、周囲の人たちは互いに牽制し合い、思惑を計り合っている。真ん中に主イエスがいるのに目を向けることなく、お互い隣にいる者に目を向けるのです。主イエスは、そんな彼らの在り方に「心の飢え」を感じます。そして「枯れてしまえ」と憤るのです。

このような平衡状態の中にあって、祭司長や民の長老たちは主イエスに近づいてきて話し掛けます。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(マタイ福音書21:23)彼らは、これ以上、民衆の心が主イエスに傾かないように牽制するのです。民衆に「空気を読め」と。こんな田舎から出てきたばかりの新参者の言葉や教えに感心して従うよりも、この立派なエルサレム神殿と荘厳な祭儀を権威として従わなければならない、と話すのです。彼らは民衆に、自分の頭で考えることを止めさせようとするのです。
そこで、主イエスは彼らに尋ねます。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」(マタイ福音書21:24)
主イエスは祭司たちに、直接、彼らの振るっているエルサレム神殿の権威の所在について問いかけることはしません。もし、そうするなら、彼らは意固地に自分たちの権威を固執して「私たちは正しい」と主張するしかできなくなると解っているからです。主イエスは祭司たちに対しても、自分の頭で考え心を動かすように促されるのです。そこで主イエスは洗礼者ヨハネを引き合いに出して、彼らに、権威とはなにか、を問いかけるのです。なぜ人々は、そして祭司たちの多くも洗礼者ヨハネに従ったのか、彼は自分の力で預言者になったのか、それとも神の召命なのか。そして、このエルサレム神殿が権威なのか、それとも神が権威なのか。あなたたちユダヤの民は、エルサレム神殿とその伝統、祭儀に従うべきなのか、それとも神に従うべきなのか、問いかけるのです。でも、祭司たちはこの問い掛けに答えられません。自分を明け渡すことができないのです。

この世の権威とは、何の確証もないその場の雰囲気です。でも人は流されます。デマやフェイクニュースに心を乱され、恐れを感じ、集団でいれば安全だと考えて「権威」(ejxousi÷a exousia)という偶像を自分たちで作り上げるのです。そして、偶像にしがみついて安心する。また民衆を扇動する者たちは、この集団(群衆)心理を巧みに利用します。架空の敵(敵国、疫病、災害)を作り恐怖を煽り、そこに権威を作り出します。そして、自分たちこそが権威に奉仕する者だと偽り、群衆を自分たちに従わせるのです。主イエスは、そんな人々の弱さを砕かれようとします。愚かな、本当に愚かな偶像を神として礼拝するのではなく、本物の神に立ち返ることを求めるのです。
そして人々に、一つの譬えを話されます。「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』」兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」(マタイ福音書21:28-31)人々は「兄の方です」(マタイ福音書21:31)と答えます。
主イエスは人々に、特に祭司たちに、もし今、気が付いたのなら、この場で立ち返りなさいと話します。自分たちは神から遠いと諦めていた「徴税人や娼婦たち」(マタイ福音書21:31)は、洗礼者ヨハネに出会って立ち返った。しかしあなたたちは洗礼者ヨハネを神から送られてきた人だと認めながら、しかしまだ、この世の偶像を礼拝している。この世の作られた偶像を権威として従うのではなく神を礼拝しなさい、と教えるのです。
この世にあって嘘つきは「あいつは嘘をついている」と吹聴します。恐怖を煽ります。私たちは惑わされることなく、神を唯一の権威をし、聖書を読み、祈り、神の言葉である主イエスに従いましょう。