礼拝説教原稿
2021年9月
「比較する生き方」2021/9/26
マタイによる福音書20:1-16
天の国とはどのようなところか、を弟子たちに教える為に、主イエスは「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マタイ福音書19:30)それが天の国だ、と教えられます。今朝、読まれたぶどう園の主人の譬えは、この言葉の意味を悟らせるために話されています。
では「先の者が後になり、後の者が先になる」とはどういう意味なのでしょうか。例えば以前、近所のスーパーが閉店するという事で、売り尽くしセールが行われました。開店は朝九時だったのですが、朝の七時頃から入り口の前には行列ができていました。九時になり扉が開かれると、我先にと並んでいた人たちが店の中に流れ込んでいきました。
でも、もし、正面玄関の扉から店長さんが出てきて「行列の最後の人、今来た人から店の中に入ってください」とアナウンスしたらどうなるか。朝早くから並んだ人たちは「理不尽だ」と大騒ぎするでしょう。それが、この世にあってはあたりまえの対応です。しかし、天の国では「先の者が後になり、後の者が先」になっても、だれも文句を言わない、かえってお互いに喜んで自分の順番を譲り合うことのできる関係性が実現している場所、と主イエスは話されるのです。そこに天の国が現れるのです。天の国は神の御許近く、つまり天上にあって、すでに実現されています。でも私たちはこの世にあっても経験する(先に味わう)ことができます。それは私たちの信仰の交わりの上に、です。でもどうすれば、この世に天の国が実現できるのか、今朝与えられました御言葉を読み進めましょう。
さて、ある家の主人が自分のぶどう園で働く労働者を雇うために、町の広場に出かけて行きます。この時代の都市にはアゴラと呼ばれる広場が作られていました。住人が行き交い昼日中は食料品や日用品を売るための露店が並び、市民集会も開かれました。揉め事の仲裁や裁判もここで行われていました。いわば公共施設です。そして、夜が明けたばかりの、まだ市場も開かれていない広場には、仕事を求める沢山の男たちが集まってくるのです。
ぶどうの収穫についてですが、ぶどう園の通常の労働は、土を作ったり、剪定、誘引と限られた人数で賄えるのですが、収穫期には大勢の働き手が必要です。熟した果実はすぐに摘まなければならないからです。ですから普段は他の仕事をしている人たちも、この秋の季節には労働者として駆り出されました。でもその労働は過酷です。イスラエルはステップ気候の地域です。秋でも暑く乾燥しています。日中に炎天下の中でかがみ込んで作業しなければなりません。現代に日本のぶどう栽培は、棚からぶら下がっている果実を切り取るのですが、イスラエルでは立てられた柵に絡んでいる葡萄の枝についた実を摘み取ります。機械化などされていませんから手摘みです。摘んで背負った籠に入れた葡萄の実を倉庫まで運び、そこで圧搾して(足で踏んで)果汁を取り出し瓶に集めて、倉に保存して発酵させ、葡萄酒にします。
それが過酷な労働であっても、労働者にとって季節労働は大事な現金収入です。自分のためだけではなく、家族を養うために、食べ物を得るために彼らは必死に仕事を求めるのです。ですから彼らはまだ誰もいない早朝から広場にやって来て、雇ってくれる主人を待つのです。
さて、ぶどう園の主人は広場に行って、一日につき一デナリオンの約束で人を雇い自分のぶどう園に向かわせます。また九時に出かけて行くと、何もしないで広場に立っている人々がいたので「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」(マタイ福音書20:4)と声を掛けて、ぶどう園に送りだします。主人は十二時、三時と同じようにします。そして主人が五時頃、広場に戻ってみると、まだ人々が立っています。主人は話し掛けます。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」(マタイ福音書20:6)彼らは「だれも雇ってくれないのです」と答えます。主人は彼らに「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と話し、自分のぶどう園に送るのです。
一日が終わります。夕方になり日が暮れて、主人は監督に労働者を集めさせます。そして「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」(マタイ福音書20:8)と命じます。監督はまず五時ごろに雇われた人たちに一デナリオンずつわたします。最初に雇われた人たちはそれを見て、もっと多くもらえるだろうと期待します。でも、彼らにも同じく一デナリオンが渡されます。彼らはそれを受け取った後、主人に不平を言い始めるのです。
「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」(マタイ福音書20:12)早朝から十二時間も働いた者と、夕方に来て一時間しか働かなかった者の賃金が同じとは、どういうことか、と、詰め寄るのです。当然です。そこで主人は答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」(マタイ福音書20:14-16)主人は不平を言う者たちを「友よ」と呼びかけます。主人も当然、彼らがなぜ不平を言うのか分かっているのです。しかし、彼らの不満よりも、主人には優先しなければならない思いがあります。それは「憐れみ」です。
ぶどう園の主人は、夕方の五時まで仕事にありつくことができず、今日の稼ぎを家に持ち帰れない者たちの、焦りや不安、心の痛みを知っていました。彼らは一日中広場で、誰かが声を掛けてくれないか、と待ち続けていました。夕方になってもまだ諦めることができずに、広場に留まっているしかなかったのです。でも彼らは主人に声を掛けられます。彼らは、たとえ一時間であっても喜んで一生懸命仕事をするのです。ぶどう園の主人は、彼らを憐れんで、彼らを愛しんで一デナリを渡すのです。
逆に朝から働いた者たちは、早朝、主人から声を掛けられて喜んだのです。感謝したのです。彼らは朝から報酬を約束されて、一日中、安心して働くことができました。不安も恐れもなく働けたのです。しかし夕方になると、朝に感じた感謝を忘れます。仕事が与えられて、働けたことが、あたりまえになるのです。そして夕方から働いた者たちが、自分たちと同じ報酬を受けることに憤るのです。ならば、朝から長い時間、働いた自分たちには、もっと多くの報酬が与えられて当然だと主張するのです。彼らは主人と、一日一デナリと約束しています。主人はそれを守っています。でも彼らは、あたかも主人が不正を行っているかのように批判するのです。かれらの心は怒りで満たされるのです。
でも、もし、早朝から働いていた労働者たちに想像力があり、後からぶどう園に来た者たちの心の痛みと救われた喜びを共感することができたなら、そして自分たちが今日一日安心を与えられていたことを自覚できていたなら、彼らは主人に不平を言わなかったでしょう。そもそも一デナリという金額は一日の労働の対価として十分な報酬なのです。そして、最初に来た者も後から来た者も、共に手に入れた一デナリを握りしめ、喜んで家に帰ることができたのです。主人も彼らの姿を見て、彼らと共に喜ぶことができたのです。
私たちは三つのことを教えられます。まず、私たち一人一人には、それぞれ一つ一つの物語があるということです。朝から働いた労働者も、夕方の五時から働いた労働者も、それぞれに物語がありました。でも私たちは、自分の狭い価値観や評価で相手を計ってしまいます。その人のことなど何も知らないのに、あの人は恵まれている、とか、あの人は可哀相とか、勝手に相手の物語を作り上げて断定します。例えば三歳児の世界を私たちは疎かに考えます。何もできない、未熟と考えます。しかし彼らの世界は私たちの世界よりも広大で新鮮です。彼らは目をキラキラさせて、道端の雑草に咲いている花や、カマキリを見ている。毎日が新しい発見の連続です。私たちよりも、よっぽど喜びも悲しみも強いのです。私たちの隣にいる人、子どもでも大人でも、道端ですれ違った人も、アピタで買い物をしている人も、それぞれ一つの物語をもっています。それに自分の家族であっても、それぞれに物語をもっているのです。
二つ目に、神は私たち一人一人の物語を知っています。その喜びも苦しみも痛みもご存じです。例えば私たちは本屋の本棚に並べられた本の表紙であるなら、すぐに読む事ができます。その何冊を開いて、幾つかの物語に触れることはできます。でも神はそこにある本のすべての物語を知っていて、その一つ一つに愛と憐れみをもって関わられているのです。ですから、ぶどう園の主人に不平を漏らした労働者たちのように、私たちも、なぜ神は、と、神の為さることを不当に感じることも、疑問に思うことも、憤りを覚えることがあります。でも、それが当然なのです。私たちの見えている世界はほんの一部だからです。逆に、それでも全てが見えているかのように、神を計り、世間を批判し、誰かを評価することは、愚かです。すべてを知る方は神のみだからです。私たちは、神の思いに勝手にレールを引いてはいけないのです。
三つ目に、この世は私たちを、能力や影響力に応じて計ります。労働量や成績、結果の対価として報酬が与えられます。しかし神は私たちが何かをしたとか、しなかったとか、その働きに応じて計るようなことは、なされません。神は私たちを、ただ私たちがそこに「ある」というだけで、愛し憐れまれる方です。この愛の在り方を、神は主イエスという姿でこの世に現れ、私たちに教えてくださいました。主イエスは人々を徹底的に愛されました。自分を罵倒し十字架に架けようとする者たちに対してであっても、最後まで関わられ愛し抜かれました。十字架上で血を流し、痛み苦しみながらも、敵をも赦されるのです。その神の愛に守られて、私たちは生かされているのです。
天の国とはどの様な場所でしょうか。それは私たちがお互いにお互いが神に愛されている大事な命であると自覚し、神から生きる為の糧を等しく、十分に与えられていることを自覚し、お互いに相手の物語を尊重し、お互いに自分の順番を譲り合うことがあたりまえになっている共同体、そこに天の国が現れるのです。
でも、もし、相手が自分に敵対するものであっても、それでも自分の順番をその人に譲ることができるかと問われるなら、それは自分の力や意志では難しいのかもしれません。しかし主イエスが私たちに見本を見せて下さっています。私たちは自分の力でそれを無理に行おうとはせず、主イエスに倣えば良いのです。それが主イエスに従うということです。私たちは、この教会の交わりの中にあって、まず始めてみましょう。そして、少しずつ、輪を世界に広げていきましょう。
「魚は水の中をおよぐ」2021/9/19
マタイによる福音書19:13-30
私たちの誰もが、【善い人間】であろうと望んでいます。困っている人がいたら手を貸そうとしますし、迷っている人がいたら、どこに行きたいのか声を掛けます。救急車のサイレンが聞こえると、どんなに渋滞している道路でも車が右と左に避け始めて、真ん中に道が作られます。日本の社会って、すごいなぁと感心します。
さて、今朝与えられた御言葉には一人の青年が描かれています。彼はどうすればもっと善い人間になれるのかを求めています。そして彼は主イエスの存在を知って、その行いを見て、主イエスに教えを請います。では主イエスは、そんな彼を見て嬉しそうな表情を向けたのか、というと、そうではありません。彼の問いかけに対して冷ややかに、やや突き放したように応じるのです。では主イエスは、この青年の熱意を疎かに考えているのでしょうか。そうではありません。主イエスは、そうやって彼の心の奥に澱んでいる彼の本心を明らかにしてから、その弱さに寄り添われるのです。
先ほど読みました御言葉の最初には、主イエスが連れてこられた子どもたちを祝福する場面が記されています。「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。」(マタイ福音書19:13)とあります。ユダヤの社会にあって、自分の子どもを会堂に仕える祭司のところに連れて行き、祝福をしていただくことは一般的なことでした。神に仕える人の手を子どもの頭に置いてもらい、神からの命をいただくのです。自分の愛する子どもが、これからの人生で病気に掛からず不幸にも見舞われず、知恵と健康を得られるように、という願いを祈るのです。主イエスは連れてこられた子どもたちの頭に手を置いて祝福を与えます。そして主イエスは「天の国はこのような者たちのものである。」(マタイ福音書19:14)と話すのです。
この様子を一人の青年が見ています。彼は驚きながらも感動するのです。なぜならユダヤ教の習慣では、十三歳に満たない子どもはまだ人間として数に数えられなかったからです。十三歳になった次の安息日に会堂でトーラーの一部を朗読して、始めて人として認められました。しかし主イエスは、そんな子どもを御自分の前に招き入れて、笑いかけて、一つの小さな命として真剣に向き合うのです。主イエスは彼が考えるところの善い人なのです。青年は主イエスなら自分の抱いている疑問に答えてくれるのではないか、と期待します。彼は主イエスを追いかけ、近寄って「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ福音書19:16)と尋ねます。
彼が話す「永遠の命」とは、この地上で永遠に生き続ける、という意味ではありません。そうではなく、唯一永遠に存在する神と、今よりもさらにも関わりを強固にするためにはどうすれば良いのか、つまりは天の国に行くにはどうしたら良いのか、と質問するのです。彼はその条件として「どんな善いことをすれば」と問います。つまり彼は、この世で善い行いをした者が優先的に天の国に招かれる、と考えているのです。
主イエスは彼に答えます。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」(マタイ福音書19:17)この「善い」とは「正しい」という意味です。つまり主イエスは彼に、この世に生きる誰一人として、正しい者はいない、善い者などいない、と答えるんです。もし「善い行い」が条件なら、この世の誰一人として天の国に行ける者などいない、と答えるのです。そして主イエスは青年の目を聖書に向けます。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」(マタイ福音書19:17)聖書にはなんと書かれているか。と問いかけるのです。
青年は「どの掟ですか」(マタイ福音書19:18)と逆に主イエスに問いかけます。ユダヤの社会だけではなく生徒は教師から教えを請う立場です。生徒が教師に逆らって問いかけることは、非礼です。でも彼は冷静さを失っているのです。なぜなら彼には誰よりも聖書を読んでいる、学んでいるという自負があったからです。
彼は若く健康で財産も地位も手にしていました。福音書の並行記事にユダヤの議員であったことが記されていますが、ユダヤの議員は世襲制なので、彼は子供の頃から裕福な暮らしを与えられていたと考えられます。となると教育も十分に受けていた筈です。彼は幼い頃から直接、優れた祭司や律法学者から聖書を学んでいたと考えられます。
では主イエスはなんと答えたのでしょうか。それは誰もが知っている聖書の言葉、つまり十戒の言葉です。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ福音書19:18-19)
青年は即答します。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」(マタイ福音書19:20)まるで喧嘩腰です。でもこの「まだ何か欠けている」という言葉が彼の本心なのです。主イエスは彼の口から、この言葉を引き出されるのです。
今まで彼は、自分がすべての於いて満たされていると考えていました。財産にも地位にも恵まれ、健康にも、若さにも才能や能力、知性にも恵まれ、しかも誰よりも謙虚で在ろうとし、善い人間であろうと望んでいたのです。彼の周囲にいる誰もが彼を見て、その境遇を羨んでいました。完全だと考えていたのです。しかし彼自身は、自分の中にある「欠け」の正体が何か分からず、ずっと苦しんできたのです。満たされていなかった、不安だったのです。その答を聖書の中に探しても得られず、祭司からも律法学者からも得られませんでした。そこで主イエスの下を訪ねるのです。
では主イエスはなんと応えられたのでしょうか。「もし完全になりたいのなら」と話されます。主イエスは「完全」という言葉を使います。この「完全」とは「欠けのない」という意味の言葉です。主イエスは彼に話します。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マタイ福音書19:21)主イエスは彼に、あなたの「持ち物」があなたの「欠け」の正体だと指摘します。この「持ち物」とは、財産だけでなく地位、健康、才能や能力、知性です。彼がこの世で持っているすべてです。彼は「持ち物」に束縛されていた、自由を奪われていた。それが彼の神の前に於ける欠けの原因であり、不安の原因だと教えるのです。この世に束縛されている限り、完全に神に帰属する者とはなれない。魂を罪から解放して自由にならなければ、神にすべてを委ねることはできない。
でも、彼は主イエスに指摘される前に、すでに自分の欠けについて、気づいていたのだと思います。でも、気付きから目を背けていたのです。
彼が誰かのために何ができるだろう、と考えることができるのは、自分はこの世の「持ち物」を沢山持っていて、余裕があったからです。弱っている人、苦しんでいる人を助ける事ができたのは、彼らのところに降りていくことなく、上から眺めることができたからです。彼は守られていたから一緒に溺れることがなかったのです。
彼は水の中を泳いでいると気づいていない魚だったのです。水の中にいるから泳げるのに、彼の目には透明な水が見えていないのです。そして彼は主イエスの言葉で始めて自分が水の中にいることを意識しました。自分が神から沢山の恵みを与えられて生かされていたこと。自分が恵まれていること。自分の力や努力、頑張りも、すべて、すでに神が環境を整えてくれていたから、実現することができていたのだと、気づくのです。
でも青年は「この言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。」(マタイ福音書19:22)と聖書には記されています。彼は求めている答を得るのです。でも彼は自分を縛り自由を奪っている「持ち物」を捨てられないのです。水がなくなれば、水の抵抗を受けずにもっと自由に早く泳げます。でも水がなくなるなら、そもそも泳げなくなるのです。彼はそのことに気がつくのです。そして彼は主イエスの下を立ち去るのです。
彼の後ろ姿を見ながら、主イエスは弟子たちに「人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ福音書19:26)と話されます。神は十字架に架かって死んだ主イエスを三日目に復活させます。神に不可能はないのです。もし水がなくなっても神なら私を生かしてくれる。この水槽を出たとしても、まだ大海を望むことができる。もし彼がそのことを信じることができたなら。彼は立ち去ることがなかったでしょう。でも彼は信じ切ることができないのです。そこに私たちの人間の罪があるのです。
完全であるということは、自分が空っぽになって、その空間が完全な神の霊が満たされる、ということです。完全な神を信じて、すべてを委ねる、ということです。
主イエスは子どもたちに祝福を与えました。では子どもたちは自分たちの力や考えで主イエスの下に来たのか、というと、違います、母親に引っ張ってこられたのです。中には主イエスの前でビービー泣き出す子もいたかもしれません。それでも主イエスはこの一人一人の頭に手を置いて祝福する、命を与えるのです。永遠の命を与えるのです。子どもたちはまったくこの世の力を持たないのです。でも親と主イエスから愛されて、神に繋げられる、永遠の命を得るのです。
さて、この様子を見て、ペトロは、主イエスに「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」(マタイ福音書19:27)と問いかけます。悲しみに暮れて立ち去った青年を見た後で、随分と身勝手な質問のように思います。でもあながち、とんちんかんな質問ではないのです。彼は「捨てて」と話します。この「捨てて」は「向こう側に放り投げる」という意味です。ペトロは「私たちはこの世にあって、何ものにも心を束縛されていません。自由です。ではこの世で何を求めればよいのですか。財産でも身分でも権力でも知恵でも、誰かのために善い行いをすることでもなく」と質問するのです。
そこで主イエスは答えます。「あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(マタイ福音書19:29)新しいイスラエル、つまり異邦人に福音がのべつ伝えられる時が来たときに、その神に働きの中にあなたがたは用いられると、そう話すのです。そして「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マタイ福音書19:30)人の考えや思いではなく、神の御心がこの世で行われる、と教えられます。つまり主イエスは弟子たちに、自分の力や能力で善いことを行おうとか、何かを得ようと求めるのではなく、ただ私に従いなさいと教えるのです。
私たちは善いことを行いたい、誰かの役に立ちたい、世界を平和にしたい、だれもが幸せに生活できるように力を尽くしたいと、考えます。尊い願いです。しかし、自分の力や能力で働くなら必ず抵抗を受けます。そして巧くいかない自分の姿に焦り、憤るのです。でもなぜ良いことをしているのに抵抗を受けるのか。それがあたりまえなのです。なぜなら私たちも、その抵抗する力と同じ力で働いているからです。
ですから私たちは主イエスに従うのです。主イエスが幼子の頭に手を置いたように、病を癒やし、弱っている者を立ち上がらせたように、その主イエスがこの世で働かれる道具として用いられるのです。自分の力やこの世の力に頼るのではなく、主イエスに従う。祈り聴きつつ、共に歩みましょう。
「すでに赦されている」2021/9/12
マタイによる福音書18:21-35
毎週礼拝の中で祈られる主の祈りですが、教会生活を重ねられている方は、印刷された言葉を読まなくても暗唱されているように見受けます。私も子供の頃から、いつのまにか覚えていたので礼拝では暗唱していましたし、主の祈りを暗唱できることがキリスト者の一員として認められているような、なにか誇らしい感覚をもっていました。でもある時、牧師から「暗唱するのではなく、ちゃんと文字を目で追って、意味を捉え言葉を味わいなさい」と教えられました。暗唱することに意味があるのではなく、主イエスが弟子たちに教えた祈りの言葉を、自分の祈りの言葉として、自分の口と言葉を用いて神に捧げる行いに意味があると、そう教えられたのです。
主の祈りは私たちの信仰の根幹を言い表す、洗練された祈りです。一言一言に深みがあります。ですから、きちんと目を留めるなら、質問が出てくるのは当然なのです。そのなかでも私がたびたび質問を受けるのは「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」という言葉です。この「罪」とはなにか、「ゆるす」とはなにか、と質問を受けるのです。すこし専門用語になりますが、この「罪の赦し」のことを教会では「贖罪」と呼び表します。
それではこの「罪」とはなんでしょうか。まず日本語で罪とは「背くこと」を意味します。社会の法律に背けば犯罪になりますし、道徳に背けば罪悪感を感じます。そして聖書に書かれている罪とは神に背くことです。創世記の最初に記されている天地創造の物語で、アダムは神に食べるなと言われていた木の実を取って食べます。この背きが、アダムの子孫である私たちの根源的な罪、つまり「原罪」として残ります。この時、人を誘惑した蛇は「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:5)と話します。つまり私たち人間の罪の根っこは「神のようになりたい」という欲望だと、この物語は教えるのです。
もう一つ、この旧約聖書の書かれているヘブライ語で「罪」という言葉は「的外れ」という意味を持ちます。射った矢が的からハズレること。つまり被造物にすぎない人間が創造主である神のようになれると誤解すること。自分が世界のすべてを理解し自分の思いのままに支配できると考えることです。
では「ゆるし」とはなんでしょうか。もともと日本語の「ゆるす」は「ゆるめる」という言葉です。捕らわれた者を縛っている縄を緩める、の「ゆるめる」です。新約聖書に書かれている「ゆるす」も同様です。この言葉は「放り投げる」という意味の言葉で、そこから「立ち去らせる・釈放する」という意味で使われることになります。つまり相手を解放し自由にする、ことです。
つまり人は原罪を負っていて「的外れ」や「勘違い」を重ねながらこの世を生きるのです。人は神ではないのに、勘違いしてしまう。神のように完全にならなければならない、永遠に生きなければならないと考えます。その勘違い、つまり「○○でなければならない」に心を支配されて、束縛されて、そうなれない自分との乖離に苦しむのです。それに他人との関係は、そもそもお互いに完全ではないので、思い通りにいく訳がありません。それぞれの正義を主張しあうなら、争い、傷つけ合います。この勘違いが根本的な原因となって、この世に犯罪や罪悪感が生じるのです。
しかし神はそのような私たち悲惨に心を痛めて、私たちを解放する為に主イエスをこの世に送り原罪から解放される、つまり赦されます。それはどんな手段によってでしょうか。神は自らを主イエスとしてこの世に表された、ということです。神を知った私たちは自分が不完全な「人」であることを認め「勘違い」から、つまり「○○でなければならない」という脅迫から解放されるのです。
さて、今朝、与えられました御言葉でペトロはこの「ゆるし」について主イエスに質問する場面が描かれています。
ペトロはとても素直な正確で、竹を割ったような裏表のない人間的な人物だと聖書の物語から読む事ができます。ですから仲間内の些細ないざこざで腹を立てることもあったのでしょう。でも彼は主イエスの言葉、仲間がもし信仰に躓いても、それでも関わり続けなさい(マタイ福音書18:10-20)という言葉に感動するのです。
自分も失われた羊を探す羊飼いのように、仲間を愛し続ける。自分はもうどんな事があっても腹を立てない、仲間を大切にする、と彼は決意するのです。そして、その決意を主イエスに話します。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(マタイ福音書18:21)ユダヤ教では、誰かが自分に対して害をなした場合は三回までは赦しなさい、と教えられています。ですから、ペトロはここで七回と話すのです。私だったら三回なんてしみったれたことは言いません。七回までも赦します。そう話すのです。では、主イエスはなんと答えたのでしょうか。ペトロに「さすが一番弟子」と褒めたのか、というとそうではないのです。
「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイ福音書18:22)この「七の七十倍」とは、単純に四百九十回を意味しているわけではありません。七はユダヤ教の完全数で、そもそも「完全に」という意味があります。それを七十倍するのですから完全の完全、つまり際限なく、という意味になります。では主イエスはペトロの、熱心で一途な思いを侮っているのか、というと、そうではありません。主イエスはペテロに、自分の忍耐力で相手を赦すなら、七回が限度であろう、と。でも、そもそも【敵を赦すということは、あなたにとってどういうことか】そのことを考えるように、と教えるのです。そして「仲間を赦さない家来のたとえ」を話すのです。
ある国の王が、家来に貸した金の決済をします。そこで一人の家来が連れてこられます。彼は一万タラントン借金していて、そのお金を返すことができないのです。一万タラントンを今の通貨価値に換算すると六千億円程度になります。到底どうにかできる金額ではありません。そこで、王は家来に自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じます。「家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。」(マタイ福音書18:26)と聖書には記されています。さて王はどうしたか、その家来を憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにするのです。
さて、この家来は解放されて、王宮から町に戻ります。そこで、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うのです。百デナリオンはだいたい百万円程度の金額です。彼は仲間の首を絞めて「借金を返せ」と迫ります。でも返せないとわかると、彼を牢に入れるのです。
この出来事を見ていた仲間たちは心を痛め、王に事件を残らず告げます。そこで王はこの家来を呼びつけて言います。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(マタイ福音書18:33)主君は怒って、借金をすっかり返済するまで家来を牢に入れるのです。
主イエスはこの譬えから、私たちに何を悟らせようとしているのでしょうか。王は神、そして家来は私たちです。私たちは神の前に返しきれない、重い罪を負っています。つまり「的外れ」で「勘違い」なこと、神の御心に背くことばかりに熱心に生きているのです。そんな私たちですから、本来なら捕らえられ牢に繋がれても致し方ない、つまり自由を奪われても仕方がないのです。しかし神はそんな私たちをそれでも赦します。縄を解き解放して下さいます。
では、私たちは自由にされたことを神に感謝するのか、というと、そうではありません。自由を与えられていることの感謝をすぐに忘れるのです。赦されたことがあたりまえになってしまう。赦しに甘える、神の愛に緩慢になるのです。そして、私たちは神の憐れみによって自由にされたことを忘れて、仲間を赦さないのです。仲間を牢に入れ、紐で縛るのです。そんな私たちに主イエスは問いかけます。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ福音書18:35)
自由とは自分勝手にして良い、ということではありません。自由を与えられているから私たちは自分で自分を律するのです。自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の心を動かす。この世の価値観や欲望や利益ではなく、神の前に良いと思われることを行う。
それが成熟した個人の在り方、成熟し社会の在り方です。それができないなら、行動は制約されることになります。時事に沿った言葉を使うなら、強制的にロックダウンされることになります。私たちは神に逆らうという罪を負ってまで、自分で判断する能力を得ています。そのために良心を与えられています。そして神もそんな私たちを信頼して自由を与えて下さっているのです。
その神の信頼に応えて、私たちは与えられた自由を、隣人を縛るために使うのではなく、隣人を解き放すためにつかうこと。それが「ゆるす」ということなのです。
私たちも日常生活にあって腹を立てることがあります。裏切られるなら、失望するよりも憤るのです。そしてそんな時、「私はキリスト者だから」相手を赦さなければいけないと考えます。でもそれは間違いです。私が自分の忍耐力を用いて相手を赦すのではありません。苦虫をかみつぶしたような顔をして許しても意味が無いのです。誰かに憤り恨みを抱く私たちの心は、憤り恨みに縛られるのです。私たちが、相手を赦すとき、相手を自由にするだけでなく、私自身も憤り恨みから解放されて自由になります。
私の罪を、神は自らの御子、主イエスを十字架につける事で赦してくださいました。私たちは、主イエスが十字架上で流された血と汗によって、自らの罪に気づき、それでも私たちを赦し自由を与えて下さっている神に感謝するのです。私たちは赦してくれた神を覚えて、自分が赦されているのだから、わたしも赦す、のです。自分が自由にされているのだから、相手も自由にするのです。
「ちいさな羊」2021/9/5
マタイによる福音書18:10-20
まだ私が神学生だった時のことです。機会が与えられて、ある老牧師の家に招いていただきました。長年にわたって牧会をされ開拓伝道をされた方で、隠退されたあとも、方々の教会に招かれて主日礼拝の説教奉仕をされていました。海沿いの小さな家で、連れ合いの方はすでに天に帰られていたので、一人暮らしをされていました。いや一人ではないです。黒い猫が一匹、幸せそうに縁側で寝ていました。私は先生の書斎に通されて麦茶を飲みながら、話しを聞かせていただきました。
でもその書斎はなにか、それまで交わりがあった牧師の書斎とは雰囲気が違うのです。牧師の書斎というと、大きな本棚が置かれていて、神学書が、これでもかと並べられているものです。特に神学者ともなると、日本語だけではなく英語とかドイツ語のよくわからない資料や、神学論文を集めた雑誌が並べられている。そんなレイアウトに見慣れていたので、正直、驚いたのです。でも先生の書斎にも机の横の小さな本棚が一つだけありました。そこには何冊か使い込まれた辞書が並べられていました。と言ってもその辞書はヘブル語と、ギリャシャ語の英語対訳の分厚い辞書です。先生はこう話されます。「昔は沢山本があったけど、いまはこれで十分、神学書を読むより聖書を読み、教会員の話を聴きなさい、深く祈って説教を組みなさい。」私はそのとき、まだ駆け出しの神学生だったので、神学とは勉強すること、沢山の神学書を読んで、沢山の神学者の考えを知ること、その向こうに、確かな信仰が確立するものだと、そんなとても歪んだ考えに縛られていました。本当に、目からうろこが落ちる経験をしました。
今朝、与えられました御言葉で主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ福音書18:20)と話されます。私たちはついつい、有名な教師の言葉とか、神学書とか、世間に流れている言葉の中に神の真理を見いだそうとするのです。高い教養とか学識とか、権威とか知識とか、高みに登るなら、神を見いだせると考えてしまうのです。でもそうではありません。「私の名」つまり、主イエスの言葉を聖書の御言葉の中に聴き、教えられた愛を、この世で実現する者たちの交わりの内側に、主イエスはおられるのです。「二人または三人」の信仰者が心を一つにして祈る場所に、天の国は現れるのです。
では私たちは、その様な信仰者の交わりをこの世でどうやって組み上げていけば良いのか、今朝与えられました御言葉から聴いてまいりましょう。
主イエスは一つの譬えを話されます。それは百匹の羊の譬えです。主イエスは弟子たちに問いかけます。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」(マタイ福音書18:12)主イエスの生きた時代、弟子たちにとって羊飼いはとても身近な存在でした。ですからすぐにこの譬えの言葉はすぐに胸に落ちたと考えます、でも私たちにとっては日常ではないので少々、羊飼いについて補足が必要でしょう。
羊飼いは、一匹一匹の名前を呼んで、自分の羊を羊の囲いから連れ出すのだそうです。羊も自分の羊飼いの声を知っていて後についていきます。そもそも羊の目は強い近視で、まわりをよく見ることができず、ですから声で聞き分けるのです。そして羊飼いは羊たちを牧草の原に連れて行きます。ちなみに羊飼いは未婚の男性、つまり少年たちか、高齢になった男性たちの仕事でした。彼らはグループを作って人里離れた郊外を移動しながら、二十四時間、羊と共に生活します。もう一つ、彼らが世話をする羊は彼らのものではありません。彼らは羊の所有者から羊を預けられて養います。ですから正しくは自分の羊ではないのです。でも彼らにとっては自分の大切な羊なのです。
そして羊を導く仕事は厳しく、道のりは険しいのです。イスラエルは南北に長く、その真ん中が幾つもの谷を挟んで丘が連なる丘陵状の地形をしています。海抜の高い場所は雨期になると雨が降るので灌木や牧草が生えます。でも両側に広がる荒野には雨は降りません。羊飼いは羊たちをつれて、崖の側面の岩場に作られた細い道を下り、また上って、硬い牧草(緑ではなく茶色の灌木のような牧草)の生える小高い丘の上の草原へ、羊たちを連れて行きます。ですから羊飼いからはぐれた羊は、谷に落ちるか荒野を迷うことになります。さらに、谷の底には野の獣や強盗が潜んでいます。羊飼いは石を投げる為の長い紐(投石紐)をもっていて、野の獣を追い払い、強盗と戦います。旧約聖書のサムエル記の物語の中で、後にユダヤの王となる少年ダビデは羊飼いをしていたと、記されています。そして、ダビデがペリシテの巨人兵ゴリアテを倒した武器が投石紐で投げられた小石です。
さて、この羊飼いの一匹の羊が迷って群れから離れるのです。それに気づいた羊飼いは、大声で合図を送り、近くにいる仲間の羊飼いを呼び、自分の羊を彼にまかせたあと、一匹の羊を探しに行きます。岩場に足を滑らせたか、穴に落ちたか、それとも灌木に足を取られて動けなくなっているか。彼は方々を探します。場合によっては何日にもわたって探し回ることもあったそうです。そして見つけ出すのです。彼は見つけた羊の前足と後ろ足を束ねるように持ち、肩に掛けて乗せ仲間の待っている羊の囲いに帰ります。仲間と共に喜ぶのです。
この譬えから主イエスが話すことはなにか、というと、神は私たち一人一人を知っていて、導かれる方でたとえ一人がはぐれたとしても、必ず探されるということです。詩編の中にこの関係性が歌われています。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。(詩編23:1-4)
そして、神が私たち一人一人を愛し、心に留めているように、あなたたちも互いに愛し会い目を留め合うようにと、主イエスは弟子たちに教えるのです。そして、その真ん中(me÷soß mesos)に私はいつもいると、そう話すのです。
その様子を知ることができるのが、ペンテコステの出来事です。主イエスが十字架に掛けられ死んだ後、弟子たちはエルサレムの、彼らがいつも集まっていた家の二階で、窓を閉め、息を潜めて集まって祈っていました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て【真ん中】に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(ヨハネ福音書20:19)
しかし、私たちの教会の交わりの間にも綻びが生まれることがあります。せっかく教会に連なった方が離れることもあるし、互いに誰かを傷つけたり、損害を与えることもあります。そして「なぜ、あなたはキリスト者なのに相手を許せないのか」と、お互いに批判しあうのです。私たちはそんな様子を何度も見てきて、その度に心を痛めるのです。でも、そも、そのような考え方は根底から間違っているのです。
私たちは、自分の力で相手を許すことが出来るから、キリスト者になれたわけではなく、許せないから信仰を与えられているのです。キリスト者と、まだ神への信仰に導かれていない方との違いはこの一点です。キリスト者は【自分の力で相手を許すことはできない、と知っている】のです。私たちは自分自身の内側に拭うことのできない罪を負っていると知っています。でも私たちは、そんな私たちの代わりに主イエスが十字架に架かって下さったことを知っています。私は許せないけれど、主イエスが命懸けでその人を許したのだから、私もその人を許す。私の力ではなく、主イエスに従う私たちは、主イエス故に、自分に敵対する、もしくは理不尽な相手であっても、それを許すことができるのです。
でも、かえって関係に躓きが与えられた時こそ、私たちはそれを、神から与えられた恵みとして受け止めなさいと、主イエスは話します。それが十五節の言葉です。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。(マタイ福音書18:15)関係に綻びが生じた場合、逆にその困難は関わりを強める切掛けになるのです。
対立が生じた時はお互いの腹を割って話し合うチャンスです。ただし、誰かと対峙するには体力と気力が著しく消耗されるので、お互いに精神的にも肉体的にも健康であることが必要です。もし体調が万全ではないときは無理をする必要はありません。時間を空けることも一つの手段です。もう一つ、この時「行って二人だけのところで忠告」しなさいと教えられています。誰でも大勢の人がいる場所で忠告されると、自尊心が傷つけられたと感じて、その言葉を素直に受け入れることができないものです。配慮は必要です。そして和解したなら「兄弟を得たことになる。」のです。
でももし、それでも話しを聞かないのであるなら、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」(マタイ福音書18:16)と主イエスは教えられます。これは律法に定められた言葉です。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」(申命記19:15)何が間違っていたのか、どちら間違っているのか、その原因を共有して、お互いの経験とすること。失敗の経験は得難い財産です。主イエスは間違いであっても分かち合うなら恵みになると、話すのです。
それでも受け入れないなら「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。」(マタイ福音書18:17)と話します。教会に集う皆の前で詳細を明らかにする。でもこれは大勢の前で糾弾するとか吊し上げる、いう意味ではありません。教会とは祈りの場です、祈る者たちの集まる場です。皆でその人のことを祈りなさいと、話すのです。
それでも受け入れないなら、つまり「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」(マタイ福音書18:17)と話されます。それ以上はあなた方が負うのではなく、神に任せなさい、委ねなさいと話すのです。
主イエスは、何度も何度も「それでも」(eja¿n ean)という言葉を使います。失われた一匹の羊をどこまでも探すように、谷に落ちていなければ、穴に落ちていないか探し、茨に足を取られていないか探し、それでも、それでも、関わりに期待するのです。主イエスに仕える私たちも同様に「それでも」関わりを手繰り続けるのです。そして、そうやって生みだされた交わりは、この地上だけではなく、つまりいつか消え去るものではなく、天井にあっても続くと、主イエスは話されます。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ福音書18:18-19)
キリスト者は潔白ではありません。主イエスだけが潔白です。ですから私は潔白でなくても良いと知っている、それがキリスト者です。でもお互いに潔白ではないから、お互いに欠けを埋め合うことができます。相手の欠けに腹を立てるより、どうすればお互いに欠けを埋めあえるか、マイナスではなくプラスに考えられる。それが私たちです。このような交わりを与えられた事に感謝しつつ、共に歩みましょう。
礼拝説教原稿
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