礼拝説教原稿

2021年8月

「価値を知る者」2021/8/29

マタイによる福音書13:44-52

例えば、美味しく刺身を作るには、しっかり研いだ切れ味の良い包丁で、身の目の向きに直角に切れば良いのだそうです。以前、魚を上手にさばく方がいて、釣ってきた魚を簡単そうに捌く姿を、後ろから何度も見ていました。そうやって、なんとかコツを盗もうとやり方を覚えるのですが、自分の家に帰って魚を捌いてみても、さっぱり巧くできないのです。買ってきたさくを切っても、グシャッとした、水っぽい、なんだか生臭い刺身になります。でも何度も何度も試して、包丁の使い方、つまり身に対しての刃の入れ方、力の入れ方と抜き方の感覚を自分で覚えられるようになると、徐々に美味しくいただけるようになります。技術は知っているだけでは意味がありません。学んだことを自分の身体と心を動かして、繰り返し試すなら、いつのまにか自分の身になるのです。「学び」という言葉は「まねび」つまり「真似る」ことの意味だと言われます。私たちは自分の手と足を使って、心と頭を使って、教師の真似をするうちに教師の言葉と行いが自分のものになっていくのです。ですから学びには時間と手間が掛かって当然なのです。
信仰の事柄についても同じです。私たちは主イエスの言葉と行いを「良いこと」として、知っているだけでは身にならない、のです。まず御言葉を自分の生活の中に持ち込んでみること。例えば主イエスが「悔い改めよ」と話すのなら「悔い改め」てみる。自分の考え方や流儀が絶対ではないと疑ってみる、自分が握っているものを一度手放してみる。するとその御言葉が、如何に難しい要求なのか解ってきます。でも、何度も真似するうちに、主イエスの話す「悔い改めよ」の裏側に隠されている本当の意味と、私たちに対する主イエスの思い、その苦しみと喜びが見えてきます。今まで、聖書に記されている主イエスの御言葉を表面でしか理解していなかったことに気づかされるのです。

今朝、与えられた御言葉の記されている十三章には、主イエスが教師として弟子たちに天の国について教える場面が描かれています。主イエスは直接、天の国について話すのではなく、譬えを用いて弟子たちに伝えます。なぜなら弟子たちが自分の頭と心を使って譬えの裏側に隠された意味を探しだそうとする、その過程の中で、主イエスの言葉が弟子たちの心に根付くことを、主イエスは知っているからです。
主イエスの言葉、そして聖書に記されている言葉は、私たちにとって種です。種は命を持ちますが、蒔かれずに種のままでは価値を持ちません。耕されて柔らかく栄養を含んだ土の上に蒔かれるなら成長し実りとなります。それが十三章の一つ目の譬えです。

十三章には七つの譬えが話されています。この譬えを通して主イエスは教師として弟子たちに「天の国」とはなにか、を教えます。そしてその天の国(神の支配)を渇望しつつ進むこの世の歩みを通して、私たちは神の義を知り、神の愛を知り真理を知ることができる、その歩みこそが信仰の恵みであると教えられるのです。天の国とは結果ではなく過程です。私たちは完全な形で神の国を手に入れることはできません。それを持っている方は教師である主イエスのみです。私たちはそれを真似る、つまり主人に「似」れば(マタイ福音書13:52)それで十分なのです。
さて、一つの目の譬えは種を蒔く農夫の譬えです。彼が蒔いた種は聖書の御言葉です。この御言葉とは私たちが手にしている旧約聖書に記された物語、律法、預言、そして新約聖書の主イエスの言葉、その信仰を受け継いだ弟子たちの言葉です。私たちは自分の心を耕して、柔らかくして種を受け止めるならば、神が育ててくれます。雨が降り風が吹きますが、太陽の光や適切な気温、全ての環境を神は備えて下さり、種は芽を出し、成長するのです。しかし、育った沢山の穂の中に毒麦も混ざっています。これが二つ目の譬えです。悪魔は私たちを誘惑し、せっかく繋がった神との関わりを引き裂き、この世に引き戻そうとします。しかも悪魔は狡猾です。天使のような顔をして近づいてきます。あなたなら自分の力で良いこと、正しいことができる、神の力など借りなくても、人を助けることができる、人を救うことができる。争いをやめさせることができる、と耳元で囁くのです。そして成功と名声と繁栄を目の前でちらつかせます。それはメッキにすぎないのに、ピカピカ光っていると手に入れたくなってしまう。そして私たちはすっかりいい気になって神に祈ることを忘れるのです。しかし私たちは、そのことに気づいても、自分の力で引き抜こうとしなくて良いのです。私たちは元々罪を負っています。逆に自分は清くなれる、真っ白になれると誤解するなら、それこそが悪魔の罠にどっぷりとはまることになります。自分で抜かなくても、神が必ず最後の最後には誘惑する者、悪魔を焼き滅ぼして下さいます。私たちはその神を信頼すれば良いのです。そして神は、私たちには想像もつかないやり方で、天の国を、つまり御自分の支配を広げていきます。それがからし種の譬えとパン種の譬えです。小さな小さなからし種が大きな木に成長するように、神の支配は広がっていきます。神が生きているように天の国も生きています。成長するのです。
そして主イエスはもう一つ、神がどうやってこの世に天の国を広げるか、ではなく、私たちがどうやって神の国を求めるか、ついて譬えを用いて教えられます。それが今朝与えられました御言葉です。
私たちは天の国の価値を知る者として、それを探し求めるのです。しかし天の国は、私たちの思い通りに見いだされるものではありません。ある人は思いがけずそれを手に入れます。でもある人は、長く求め続けて、手に入れることができるのです。それがこの畑に隠された宝、と真珠の譬えです。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ福音書13:45-46)
主イエスの生きた時代、人々は自分の宝を強盗や徴税人に取られないように家の中ではなく畑に隠していました。しかし隠した人が亡くなったり、戦争が起こって奴隷として他の国に引かれていくなら、宝は埋められたまま忘れられます。さて、この農夫は小作人です。地主から土地を借りて農業を営んでいます。しかしある時、いつものように畑を耕していると、土の中に瓶を見つけます。その瓶の中には宝が入っているのです。彼は思いがけず掘り当てた宝に喜びます、でもそのまま埋め戻すのです。そして持っているものをすべて売り払ってお金を工面して、この土地を買います。彼は正式に土地の相続人となり、正式に宝を手に入れるのです。もう一人、真珠の商いをしている商人は、四方八方の海沿いの町をめぐり高価な真珠を探します。そしてついに、自分の求めていた高価な真珠を見つけるのです。彼は持っているものをすべて売り払ってお金を工面して、正式に、公に、その真珠を手に入れるのです。

この二人に共通する事は、畑にしても高価な真珠にしても、彼らはその価値を知っていて、持っているすべての物を売り払ってでも、その価値のある物を手に入れようとする、ということです。誰かから「それは良いものだ」と聞いたとか、手に入れた後、誰かに見せびらかして自慢するためにとか、売って自分の利益にするとか、ではなく、純粋に単純にその宝が欲しい、自分のものにしたいのです。しかも正式に、公にその宝を自分のものにするために、彼らはいままで自分が持っていたもの、それは物質的な物、社会的な関わり、考え方を含めて全てを手放して、それを手に入れます。つまり本当の宝を見いだした後では、いままで手に入れてきたすべてのモノは、彼らにとって無価値なものになるのです。手放し捨ててもいいゴミになるのです。
そして神も、彼らと同じように同じように、天の国こそが自分にとって最も求める価値のあるものだと分かった者を、価値ある者と認めます。そしてそれ以外の、この世にあって価値があると考えられている、雑多で無価値なモノについては、炉に投げ捨ててしまいます。それが、七つ目の、網に掛かった魚の譬えです。だから私たちはこの世の歩みにあって、最終的に天使によって選り分けられ焼き捨てられるような無価値なモノに心を奪われる必要はないのです。最終的には消え失せてしまう無価値なモノを命懸けで探し求めたり、奪われないように守ったりする必要はないのです。使徒ペトロはこう話します。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(1ペトロ1:4)この財産、宝を私たちは探し求めれば良いのです。そして、その宝を継承し、次の世代に受け継いでいくのです。それがこの世における教会の働きであり、伝道なのです。

主イエスはこれらの事を話した後、弟子たちに「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」(マタイ福音書13:51)と尋ねます。弟子たちは「分かりました」(マタイ福音書13:51)と応えます。この「分かる」は原語では「幾つかのモノを一緒にする」という意味の言葉です。「悟る」という意味でも良いし「腑に落ちる」と訳している神学者もいます。つまり主イエスは弟子たちに七つの譬えを投げかけ、その七つの譬えから一つの天の国を描き出すことができたのか、と尋ねるのです。弟子たちは「分かりました」と応えます。弟子たちは「天の国こそ、自分の求めるべき唯一の価値あるものだと、腑に落ちた」と答えるのです。
そこで主イエスは話します。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」(マタイ福音書13:52)本物を知る者だけが、本物と偽物を見分けることができます。天の国の価値を知り、求める者は、この世にあっても価値あるモノと無価値なモノを見極める事ができるのです。主イエスはこの主人について、倉の中に入っている古いもの、新しいもの一つ一つの使い方と意味、その価値を見極めることができる、それだけではなく、彼は時と場所、目的と手段に応じて取り出し、適切に用いることができる、と話します。
この古いもの、新しいものとは、旧約聖書と新約聖書の言葉、と読んでも良いと考えます。そして、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」(マルコ福音書12:33)そのような神と私との関係の内に自分を置いて、旧約聖書と新約聖書の御言葉を読むならば、その一言一言の本当の価値を悟ることができる、その言葉が腑に落ちることとなるのです。宝とは既に私たちの手元に与えられています。それはこの聖書なのです。

天の国とは、生きておられる方が生きているところ、です。神は生きておられます。その神との関わりに招かれるなら、私たちも生きる者になります。私たちは、この世との関わりを自分の属する場所とするのではなく、神との関わりを自分の属する場所として、そこに身を置くなら、この世にあって何が価値あるもので何が無価値か分かるようになる。何に命を掛ければ良いかが分かるようになります。私たちは天の国を求めつつ、迷うことなく、平安にこの世を歩みましょう。

「今は分からなくても」2021/8/22

マタイによる福音書13:24-43

天の国はどこにあるのでしょうか。それが今朝、与えられた御言葉のテーマです。例えば「このチケットを手に入れた人だけ天の国に行けます」というのであれば、誰もが買い求めようとするでしょう。でも天の国は「桑名市新築町52」のような地上の場所を指す言葉ではありません。そもそも、この「天の国」(βασιλεία τῶν οὐρανῶν)は直訳は「天の王国」です。つまり神が王として支配される国を意味します。そして新約聖書に記された原語に於いて「支配」という言葉は「主人に仕える」という文脈で使われています。僕は主人に仕え、僕は主人に属する。それが「支配」です。つまり【私の主人は神で、私は神の僕です】となれば、地球上のどんな場所、もしくはどんな時代であっても、そこが天の国が現れるのです。
しかし、そんな「神」と「私」の関係性の内に自分を置くことこそ、私たちにとって最も難しいことです。なぜなら私たちが既に、この世界の様々なものに支配されているからです。それは国家とか社会という目に見える仕組みだけではなく、価値観や常識、一般論、その場の雰囲気といった概念にも心を支配されています。それに友人や家族といった身近な人間関係にも支配されています。一番厄介な敵は、自分自身の思い込みや利己的です。自己中心的な在り方、つまり私は私に支配されているのです。例えばモーセが、ユダヤの民をエジプトから導きだし解放したように、私たちも、この世の諸々の支配から解放されて、神の支配下に置かれるなら、天の国にたどり着けるということです。

もう一つの見方ができます。つまり天国は私たちの肉体の死の後に行き着く場所、という答えでも正しことになるのです。私たちはいつか、この地上の命を終えて倒れ眠りにつきます。そして与えられた時に主イエスは私たちを立ち上がらせて下さり、神の下に導いてくださいます。つまり誰もが、この世の支配から解放されて、肉の束縛を離れて神の支配に入るのです。つまり一般的に理解されている天国に招かれるのです。

では、最終的には誰もが神の支配の下に置かれるのだから、この世では神の存在など忘れ、放蕩の限りを尽くそう、と考えるべきでしょうか。でもそれは恥ずかしいことです。神の前に立ったとき、すべての真理が明らかになります。伝道者パウロはコリントの教会の信徒に向けた手紙の中で、こう話します。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(Ⅰコリント13:12 )時が来て神の前に立ったときに、私たちは「恥じ入る」(ロマ書6:20-23)ことのないようこの世にあって神を覚えつつ生きるのです。
それに、天の国というゴールを目指して進むこの世の歩みは、目的に向かってまっすぐ進む歩みです。行く先も解らず迷走する不安や、着いてみたけど目的地ではなかったという失望を味わうことはありません。つまり私たちは、神の支配を求め、この世の命を歩む、その歩みは徒労ではなく、最中にも平安と幸いが与えられるのです。

では、天に国について、主イエスは何と話されるのでしょうか。共に読み進めましょう。

さて、今朝与えられた御言葉の最初にはこのように記されています。「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。『天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。』」(マタイ福音書13:24-26)
ある人が畑に良い種を蒔きます。そして種が目を出しスクスクと成長します。その様子を見て僕たちは喜びます、きっと良い実がたくさん収穫できるだろうと期待するのです。しかし予想外のことが起こります。穂が実り始めると、小麦と小麦の間に毒麦が生えていることが分かるのです
この毒麦はムギ科の擬態雑草です。擬態雑草とは、田畑で作物に擬態し駆除の目を潜り抜ける雑草のことで、毒麦は小麦に様子や姿に似せて成長します。そうすることによって、人間が小麦を植えるために耕した、柔らかく養分の豊かな畑で、小麦と共に活発に繁殖することができるのです。「雑草のようにしぶとく生きる」という言葉がありますが、自然を利用して生きる人間が営みを、さらに利用する毒麦の知恵には感心します。
それに毒麦は、そのもの自体は有害植物ではありません。その種子に麦角菌が着生しやすく、このカビの生成するエルゴリンアルカロイドが毒となります。この毒を服用すると目眩や吐き気、痺れ、死に至ることもあります。そんな毒麦ですが、実って穂が出ると小麦と容易に判別することできるようになります。その実が黒く堅く小さいからです。
人々は、主人の下に走って行き、報告します。「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。」(マタイ福音書13:27)では主人はなんと答えたのか。それは「敵の仕業だ」(マタイ福音書13:28)と話します。そこで僕は「では、行って抜き集めておきましょうか」(マタイ福音書13:29)と申し出ます。しかし主人は僕を引き留めます。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」(マタイ福音書13:30-31)と話します。この主人の言葉は正しいのです。小麦と共に成長した毒麦を抜こうとするなら、根が小麦と入り組んでいるために小麦も一緒に抜いてしまうのです。ですから毒麦は収穫まで小麦と一緒に育てて一緒に刈り取ってから分けます。そして分けられた毒麦は焼き捨てられます。人が食べることは、まずないのですが、間違って家畜が食べてしまうなら、死んでしまうからです。

ではこの譬えを通して主イエスは何を私たちに伝えているのでしょうか。この後で主イエスは群衆を離れ家に帰り、弟子たちだけに説き証します。

「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ福音書13:38-41)
弟子たちはこの世にあって主イエスが命じられた通り、人々の福音を伝えます。そして人々は神の愛を知り、この世の様々な支配から解放されて、自由にされて、神の支配に属するようになります。(後の世ではなく)この世にあって【先に天国を味わうこと】を許されるのです。(それが本来の信仰の実りであり、教会の交わりから与えられる幸いです)そして、その様子は、まるでからし種が大きな木に成長するように、パン種を混ぜた小麦が膨らむように(マタイ福音書13:31-33)神を知る者は爆発的に増えます。(実際に現在、世界中にキリスト教は広がり教会は建てられています)弟子たちは喜びます。自分たちの働きや努力が実を結んだ。こんなにも多くの人が神に繋がり、神の国に属するようになった、と喜ぶのです。
しかし、神を知り弟子になった者たちの中に、毒麦、つまり人々の魂を死に至らせる雑草が混ざっています。毒麦たちは、近くにいる人を神に結びつけるような振りをして、近くにいる人を神ではない、この世の何か、に結びつけます。そして神との結びつきを断たれた者たちは、命の水を絶たれて涸れて、その魂は死んでしまうのです。
この毒麦を撒いたのは悪魔です。それは、この世に生きる私たちを神から引き離す存在。私たちを神の支配から引き離す為に誘惑するもの。創世記の物語では、エデンの園でエバを誘惑した蛇として描かれています。また主イエスが洗礼を受けたあと四十日四夜にわたって荒野を彷徨われたときには、誘惑する者として現れます。ゲッセマネで主イエスの耳元で甘言を囁いたものこの悪魔です。
そして、毒麦が自分たちの仲間の中にいると気づいた弟子たちは、腹をたててすぐに毒麦を抜こうとします。しかし主イエスはそれをやめさせるのです。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。」(マタイ福音書13:30)と話すのです。
主人は、弟子たちに話します。「毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなる」(マタイ福音書13:40)世の終わりにはすべてが明らかになって、良いものは残され倉に収められる。そして悪いものは集められ、焼き捨てられる。神が完全な形でそれを行ってくれるのだから、あなたがたは、何も気にすることなく希望を失うことなく、安心してこの世に福音を伝え続けなさい、人々を神と繋ぎ、神のものとし、神の支配下に招きなさい、天の国をこの世で実現しなさい、と主イエスは話すのです。
私たちも信仰者として、教会にあって、一人でも多くの人を神に繋ぐ為に働きます。でも、その働きの中で別の何かに繋げてしまうこともあります。人間関係とか、知識とか、芸術とか、政治とか、理念とか、神以外の何かに結びついてしまう。本来、教会の働きは、神の愛をこの世のすべての人々に伝え、人々の魂を生かすものなのに、この世の利益とか欲望、快楽、優越感、信望を満たす方向にズレて行くのです。
でも、それでも良いと主イエスは話されます。あやまちが明らかになっても、あなた方が抜こうとすることはない。最終的に神が火で焼いて、清めてくださる。神の敵である悪魔は、必ず神が「燃え盛る炉の中に投げ込ませる」(マタイ福音書13:42)から、神にまかせなさい。だからあなたがたは愚直に畑を耕し、種を蒔く仕事に専念しなさい。そして少々毒麦に邪魔されようとも、必ず天の国、神の支配は拡大するのです。闇よりも光の方が強いのです。だから安心して、神の国を待ち望みなさいと話すのです。

私たちはこの世の様々なものに支配されています。そして毒麦の根が小麦の根に絡みついて成長する様に、私たちもこの世の様々な支配から完全に自由になることは難しいのです。そして無理矢理、引き剥がす。逃れようとするなら自分自身もダメになってしまいます。ですから自分の力で抜こうとするのではなく収穫の時を待てば良いのです。私たちの魂はこの世にあって自由です。主イエスに出会い、主イエスを自らの救い主であると告白する時、私たちは主イエスによって解放されます。天の国を先に味わい平安を得るのです。

「私の真ん中にあるもの」2021/8/15

マタイによる福音書12:43-50

今朝与えられました御言葉の少し前の箇所、三十九節で主イエスは聖書にあるヨナの物語を引いて話されます。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタイ福音書12:39)この物語の理解が四十三節以下を理解する為の鍵になるので、まずここから読んで行きます。

主なる神は、アミタイの子ヨナに言葉を与えます。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」(ヨナ1:2)しかしヨナは神の言葉に逆らって、ニネベと反対の方向に向かう船に乗り込みます。すると船は嵐に襲われます。そこで船員たちはクジを引き、誰のせいでこの災難にあっているのかを確かめます。クジはヨナに当たります。ヨナは人々に、自分が神の前から逃げてきたことを告白します。人々は「なんという事をしたのだ」とヨナを叱りつつ、自分たちの信じる神ではなくヨナの神、主に、なんとか助けてもらえるように祈ります。しかし船体は沈み始め、人々は仕方なくヨナの手足を掴み海に放り込みます。すると嵐は止むのです。
さて海に放り込まれたヨナは、魚に飲み込まれ、三日三晩、魚の腹の中で主に逆らったことを後悔し祈り続けます。主こそ神であると告白し悔い改めます。すると神はヨナをニネベ近くの陸地に吐き出させるのです。
ヨナは回心しニネベに入り「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫び続けながら町の中を歩き回ります。すると「ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまと」(ヨナ3:5)います。ニネベの人々は神を信じ悔い改め、悪を離れ不法を捨てます。神は人々の回心を見てニネベを滅ぼすことをやめます。ニネベの人々の命は守られるのです。でもヨナは不満なのです。そしてヨナは町を出て、これから都に何が起こるかを見届ける為に東の方に座り続けます。ヨナはそこで、ニネベの人たちがまた悪に立ち帰り、神がニネベの町を滅ぼされることを望み待つのです。神はそんなヨナを諭す、これがヨナの物語のあらすじです。

このヨナの物語を押さえつつ、今朝与えられました主イエスの譬えを読むなら、この譬えの意味している主題が見えてきます。

さて、ある人が、悔い改めて回心します。彼はやり直す為に、今まで犯してきた悪い行いから離れます。この時、彼の心の中に巣くっていた「汚れた霊」も追い出されます。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」(マタイ福音書12:43-45)と記されています。
預言者ヨナも神に背き海に放り出された後、魚の腹の中で三日三晩、祈り悔い改め回心するのです。この時、ヨナの心に巣くっていた汚れた霊はでていきます。ヨナの心は清められ、掃除され綺麗に整えられるのです。そしてヨナは神から預かった言葉をニネベの人々に伝えます。ヨナの純粋で無垢な心から語られる告白に心を動かされ、人々は悪を離れ神に立ち返り悔い改めるのです。そこまでは良いのです。でも、ニネベの人々が滅びを免れたことを、ヨナは喜んだのか、というとヨナは不満なのです。そして神になぜニネベを滅ぼさなかったのか、このままでは自分が、人々を惑わし脅かしただけの嘘つきになってしまうと憤るのです。この時、ヨナの心には七つの悪霊が入り込んで住み着きます。ヨナはニネベの人々が、また悪事に手を染め始めることを望むのです。そして神が今度こそニネベを滅ぼすことを望むのです。
悔い改めて神に立ち返ること。悪い行いから手を洗い心が清くなること。この世にあって良い行いをすることは【正しい】のです。でも、それだけでは十分ではないと私たちはヨナの物語、そして主イエスの喩えから聴く事ができます。では、どうすれば良いのか、その答を、この後の御言葉から聴くことができます。

主イエスがこれらのことを群衆に話している時に、主イエスの母と兄弟が主イエスに話したいことがあって、外に立っています。そこである人が「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」(マタイ福音書12:47)と伝えます。しかし、主イエスその声を聞き「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」(マタイ福音書12:48)つまり「そんな婦人は私の母ではない、そこ男たちは私の兄弟ではない」と主イエスは答えます。私たちの感覚から言っても、これは、非人道的な冷たい返答です。思春期の子どもならいざ知らず、大人が自分の母親に対して放つ言葉ではありません。それだけではなく。ユダヤ教の習慣が根付いている社会にあっては明かな律法違反です。なぜならモーセの伝える律法の十戒の五番目には「父母を敬え」とあります。さらに主イエスは長男です。それに母マリアは夫ヨセフを失っていたので主イエスは父ヨセフに代わって家族を守る義務があります。本来であれば、主イエスはこの世のどんな事よりも家族を優先しなければならないのです。
ではなぜ、群衆の前で主イエスはこんなことを話したのでしょうか。主イエスは母マリアを大事にしていない訳ではありません。主イエスは十字架に掛けられ血の汗を流し、今にも息絶えそうな時に、十字架の上から使徒ヨハネに声を掛けます。母のこれからの世話を委ねるのです。また主イエスの兄弟ヤコブの名前は、使徒言行録に記されています。彼はエルサレム教会の中心的な指導者になり、ステパノに続き殉教します。

主イエスはこの言葉を通して、人々に【正しい】ことをするだけでは十分ではない、と教えるのです。この世の価値観にあって【正しい】ことは母を敬い大切にし、兄弟を敬い大切にし、家を守ることです。しかし、その【正しい】行いによって清められた魂をそのままにしておくなら、すぐに、七つの悪霊が住み着くようになるのです。

ユダヤ人たちは、アブラハムの血を継ぎ、律法を守っているから、自分たちは清いと信じていました。自分たちの罪は、全て洗い流されている。その象徴として、彼らは毎日家に帰ってくる度に手や足を綺麗に洗い着替え、また礼拝に出る前には口を濯ぎ、手を水で丁寧に洗うのです。彼らは、自分たちは【正しい】、清いと主張しそう信じていました、その通りです。並大抵の努力では律法を守り切ることなどできません。彼らは悪を離れ不法を捨て、神の前に清くなろうとした。でも最終的に神から与えられたメシアである、主イエスを十字架に掛けて殺してしまうのです。なぜか、それは清くなった魂に七つの悪霊が住み着いたからです。
では、どうすればよいのでしょうか。その答がこの言葉です。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ福音書12:49-50)。

これまで主イエスと母マリア、兄弟たちとの家族としての繋がりの中心は「血族」としての繋がりでした。しかし主イエスはその繋がりの中心を「天の父の御心を行う」に取り替えなさい、と話すのです。では「天の父の御心を行う」とはなにか、というと、一つは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛すること。(マタイ福音書22:37)そしてもう一つは「隣人を自分のように愛すること」(マタイ福音書22:39)です。この愛は、主イエスが十字架上で示された愛です。この愛を中心にして繋がる関わりが真の家族となる、そう話すのです。

そして私たちの魂も同様です。私たちの魂も掃除して、清めるだけではダメなのです。掃除する前よりももっと悪い事になってします。空室にするからいけないのです。自分の魂に主イエスを招けばよいのです。自らの魂の内に主イエスを招いて、魂を満たしていただく、さすれば悪霊は中に入ってくることはないのです。主イエスを自分の魂に招く、自分の中心にいていただく、という事はどういうことか、というと、それは日々の生活の場面で判断が必要なときに「主イエスだったらどうするか」と聞いてみることです。そうすれば自分の力では実行不可能な神の御心を、行うことができるのです。
そして、私たちの教会もこの世にあって【正しい】こと、良いことは何かと考えて、歩んでいます。しかし【正しい】だけではダメなのです。その中心に愛がなければ、悪霊の巣を作り出してしまいます。パウロはエフェソの教会へ宛てた手紙で、こう書きます。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)  キリストの聖霊で満たされていれば、もう悪霊は入って来られません。それが、七つの悪霊に住み着かれない。唯一の方法です。

今日、私たちはこの礼拝を、平和を覚える礼拝として捧げています。戦争を起こさせないこと。それは必ず実現していかなければならないことです。私たちはその為にこの世にあって活動します。しかしその【正しい】活動の中心に、主イエスの愛を置くことを、いつも意識しなければなりません。さもないと逆に悪霊の巣を作ってしまいます。一つの戦争を回避できても、もっと悲惨な戦争を引き起こすことになります。私たちは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈」(マタイ福音書5:44)り続けます。たとえ私たちに敵対し、迫害を加えてくる相手であっても、その人の魂が主イエスに捉えられ、愛に立ち返ることを祈り求め続けるのです。それが主イエスに従い、主イエスの後に続く、私たちの戦い方です。

「あなたを器として」2021/8/8

マタイによる福音書10:16-25

なぜキリスト者は迫害を受けるのか、ということが、今朝与えられた御言葉の一つの主題です。
迫害について、ちょうどこの夏の時期に覚えるのは、先の戦時下における国家からのキリスト教会に対する弾圧です。国の命令に従わない多くの牧師や信徒は迫害を加えられ、拘束されました。でもなぜ彼らは国の命令に従わなかったでしょうか。それは単なる反骨精神とか、自分たちが権威だと考えていたからではありません。信仰者である彼らは、自分たちが本当に従うべき方、を知っていたからです。つまり彼らは神を知っていたから、神以外の偽物には従えなかったのです。
権力とは、他人を強制し服従させる力です。つまり支配者が被支配者を従わせる目的で行使される力です。それは暴力だけなく、経済力や情報、つまり新聞やテレビで操作した世論(雰囲気)も力として使われます。相手を恐れさせて自分に従わせる。相手を喜ばせて自分に従わせる。相手を騙して自分に従わせる、それが権力という力です。
例えば先日、アピタの食品売り場で子どもが泣き叫んでいました。母親は「みんなが見てるねぇ、おかしいねぇ」となだめます。でも静かになりません。次に叱ります「静かにしなさい」すると子どもの声はさらに大きくなります。そこで母親はラムネ菓子を子どもに渡します。すると子どもは泣き止むのです。母親は子どもを従わせるために宥めます、次に叱りつけます。でも上手く行かず、最後に財力を使うのです。
ですから、神にのみに服従するキリスト者の存在は、代々の支配者にとって目障りです。信仰者は神の存在を知っているので神以外の何かを恐れません。暴力を加えようとしても恐れません。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」(マタイ福音書10:28)という言葉を知っているからです。経済力でも手なずけられません。「富は、天に積みなさい。」(マタイ福音書6:20)という言葉を知っているからです。またこの世の言葉、情報やメディアにも誤魔化されません、真理を知っているからです。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(ヨハネ福音書1:17)という言葉を知っているからです。代々の時代の為政者にとってキリスト者は厄介な存在です。だから排除しようとする。迫害に晒されるのです。
今朝、与えられました御言葉には、主イエスが後の迫害を見据えて、使徒たちを伝道に送り出すにあたって、彼らを励ました言葉です。共に聞きましょう。

さて、主イエスは「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされ」(マタイ福音書9:35)ます。しかしそれでも「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」(マタイ福音書9:36)ます。そこで主イエスは弟子たちの中から十二人の使徒を選んで、送り出すことにするのです。主イエスは使徒たちに「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす」(マタイ福音書10:1)権能を与えます。使徒たちは自分たちの才能や能力、知識、経験、財力で神から託された業を行うのではなく、返って「何一つ持たずに」倒れている人(肉体の弱りだけではなく心の弱りも含めて)の側に寄り添い「神の国は近づいた」と宣言し「神はあなたを見ている。あなたを愛している。だからあなたは元気を出し立ち上がりなさい」と励まし、祈り、気力を奮い立たせるのです。そして使徒たちは主イエスに命じられた通り、働くために必要なもの以外、人々からの報酬、賞賛、尊敬は受け取りません。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ福音書10:10)という言葉に従うのです。
このような使徒たちの働きは、多くの人を立ち上がらせ、神に結びつける、この世の光となり希望となる、けれど、すべての人から快く受け入れられるわけではない、と主イエスは使徒たちに教えるのです。
それが今朝の御言葉です。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。」(マタイ福音書10:16)「狼の群れに羊を送り込むようなもの」という言葉は、とても印象的です。狼は賢く、群れで狩りをします、数匹で取り囲み、追い回し疲れさせてから獲物を倒します。だからキリスト者は「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」と勧められます。蛇は誘惑する者の象徴です。しかし誘惑する手段を知っているので、自らが誘惑に陥ることはありません。鳩は悪に染まっていない者の象徴です。この相反する特性を兼ね備え、常に警戒し緊張感をもって備えなさいと話すのです。なぜなら迫害の手は静かに、当たり前のように、日常の生活の中に入り込んで来るからです。

この地方法院とはユダヤの最高議会、サンヘドリンのことです。その七十一人の構成員は祭司、律法学者、ファリサイ派です。つまり聖書に精通し、人々を信仰に導く役割を担わされている者たちです。そして会堂とはユダヤ教の礼拝を行う場所です。なぜ神を礼拝する場所で、使徒たち、つまり民衆を神に繋ぐ働きをしている者たちは鞭で打たれるのでしょうか。迫害されるのでしょうか。それは彼らが、イスラエルがその名前の通り「神の支配」を受けることを望んでいなかったからです。彼らにしても多くの弁解があるとは思います。一人一人の民衆を説得するよりも、権力を行使して従わせた方が楽なのです。しかしそれは、自覚的に信仰を持たず、自分の頭で考えず、自分の心で感じようとしない者たちを教育し育てる手間を、彼らが怠ったということです。

ユダヤ人たちからだけでなく、使徒たちは異邦人の統治者たちからも迫害されると、主イエスは話します。「また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。」(マタイ福音書10:18)総督とはローマ帝国の支配を意味します、そして王とはヘロデ・アグリッパを意味します。彼はユダヤ人ではなくイドマヤ(エドム)人です。つまり世界中どこに行っても、あなたたちは迫害を受ける。でも、その迫害も、使徒たちにとっては与えられた好機だと、主イエスは話されます。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(マタイ福音書10:19-20)神は、あなたがたを権力者の前に引き出し、発言するあなた方の口を通して、濁りのない信仰の証しを語らせる。神があなたがたを用いる。あなた方が話すべき言葉を「何一つ持って」いなくても、神が全てを用意してくださる。だから、心配してはならない、安心しなさいと話されるのです。
しかし迫害は、支配者、権力者に留まらず、私たちにとって、もっとも心に痛いところにも広がっていきます。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」(マタイ福音書10:21-22)と主イエスは話すのです。

先ほど、アピタの食品売り場で泣き叫んでいる子どもの話しをしました。母親は様々な手段を使って子どもを従わせようとします。でも反対側から眺めるなら、この小さな子どもは、沢山の人がいる場所で泣くことで母を困らせ最終的にラムネ菓子を手に入れました。つまり彼は、母を服従させたのです。つまり人を服従させたいという指向は社会という枠組みにある権力者のものだけでなく、私たちの誰しもが持ってる、ということです。例えば親は自分の子どもの心が神に向いているなら、自分に向けさせようとします。子どもは自分の親の心が神に向いているなら、自分に向けさせようとします。愛する人が自分以外に何かに心を向けることは許せない相手の心を独占したい。人は家族、友人、愛するものとの関係性の中であっても、言葉や態度、表情、目線、無関心という手段を用いて。無自覚に互いに相手を支配しようとします。そして、その狭間で私たちは苦しむのです。

では神への信仰を優先して家族を捨てるべきでしょうか。そうではありません。主イエスは「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ福音書10:22)と話されます。逃げるのではなく、そこに留まり関わり続けなさい。と話すのです。敵であっても見方であっても関わり続けること、それが主イエスの話す愛の在り方です。主イエスは十字架に掛けられると解っていても、それでも人々と関わり続けられました。同じように私たちも、相手を支配しようとするのでなく、相手に支配されるのではなく、自分も相手も神に繋がれることを祈り続けるのです。では、自らの命を失っても留まるべきなのか、というと、そうではありません。主イエスは私たちに、それでも耐えられなければ、無理をせずに逃げなさいと話します。「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」(マタイ福音書10:23-25)

私たちは人間なのです。主イエスのように神ではないし神になる必要もない。「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分」なのです。私たちが十字架に架かる必要はない、そのために主イエスが十字架に架かってくださったのです。その十字架を無駄することは逆に不遜なのです。私たちは本当に恐れるべき神を知っています。でも、ときどき、この世の様々なことを恐れて、心を弱くします。外に出ていくことを恐いと感じます。誰かと関わることも恐いと感じるかもしれません。でも主イエスは外に出て扉を叩き「平和があるように」挨拶をしないさい、と私たちに命じるのです。何一つ持たず、その人を自分に繋げて支配しようとするのではなく、その人を神に繋げ、自分も神に繋がるのです。私たちは下を向いて祈るのではなく上を向いて祈るのです。迫害も、痛みも辛さも神が用いてくださいます。祈ります。

「がんばらない」2021/8/1

マタイによる福音書9:35-10:16

頑張っている人に声援が送られる場面、というのは、見ていて、とても気持ちがよいのです。以前小さな子どもが母親と一緒に散歩をしていて、道端を一列に進んでいる蟻が、大きな蝉の羽を運んでいました。この子どもはうずくまって、蟻たちをジッと見て、一所懸命「がんばれ」と声を掛けはじめたのです。その声を聴いて、なんだか私まで元気づけられました。
私たちも病を負った方がいますと、その方の為に祈ります。祈っても何の力にもなれない、と思われるかもしれませんが、病床にいる者にとっては大きな励ましになります。病を負いますと身体も弱まりますが、心はもっと弱まります。はたして病気が治るのか、治ったとして以前と同じように生活できるのか、再発しないか。各所に迷惑を掛けたけれど帰る場所が残っているのか。様々な不安と恐れに心が挫かれるのです。でも祈られていると聞くなら、我に返ります。祈っていなかったこと、一人で悩んでいたこと気づかされます。そして神が「立ち上がりなさい」と声を掛けて下さっていると気付く。立ちあがる気力が与えられるのです。
信仰は、弱っている心に力を与えてくれます。迷いを確信に変え、曇りに光を与えます。内側に向いた拘束された魂を外に向け、解放します。そしてそれが主イエスのこの世でなされたことであり、神の御心であり、私たちキリスト者のこの世での役割であり、存在理由なのです。今朝は、この視点から共に与えられた御言葉を読み進めます。

さて、最初にはこのように記されています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ福音書9:35)こう読みますと、やはり私たち関心は、主イエスの奇跡的な病の治癒に向けられるのです。それも大切な証言なのですが、もう少し深く読むなら、主イエスの為された行いの本質的な部分が見えてきます。この「病気」という言葉は「弱さ」という意味を持ちます、つまりこの御言葉は「あらゆる患い、あらゆる弱さ」と読むことができるのです。

主イエスと弟子たちは方々の町や村を回り、病や様々な理由で立ち上がれない程に弱っている人たちに近づき、彼らを勇気づける為にその魂に近づき、声を掛け、その人の為に祈るのです。でも主イエスはその様子を見て、深く憐れまれるのです。なぜなら、自分たちの手に負えないほどに、人々が次々と集まってくるから、です。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ福音書9:36)と聖書には記されています。この「憐れむ」という言葉は「はらわた」つまり内蔵を意味します。日本語でも「胃が痛む」とか「断腸の思い」という言葉があります。相手の痛みや苦しみを自分の内臓が痛むほどに受け止めること、です。でもなぜユダヤの人々はそこまで困窮していたのでしょうか。

本来、ユダヤの民の羊飼いとして、彼らを束ね守る役割はエルサレム神殿に仕える祭司や律法学者たちに託されていました。旧約聖書を読むなら、神が預言者の口を通して人々を力付け、立ち上がらせる場面が何度も記されています。神は「奮い立て」、「雄々しくあれ」、「立ち上がれ」と声を掛けます。そのようにして、困難に打ちひしがれ、行く道を見失ったユダヤの民に力づけ、立ち上がらせるのです。しかし祭司や律法学者たちは十分にその役割を果たすことが出来ていませんでした。なぜなら律法学者たちは専門家になっていたからです。聖書や律法を学び解くことが自分たちの仕事であり、それを正確に次の時代に伝えることが役割だと考えるようになっていたのです。(ヨハネ福音書5:39)また祭司たちは祭儀を守ることに熱心になり、祭儀もその内実より、見た目の豪華さや荘厳さを求めるようになるのです。(マタイ福音書23:16)つまり彼らは職業としての宗教家になり、知識や経験に重きを置き、自ら権威となるのです。故に心が民衆から離れ、関心がなくなります。その声を聴くことも、その声に寄り添うこともしなくなるのです。そして、自分たちのように聖書を学び律法を守るなら、神に顧みられる、救われると説くのです。では彼らが律法を完全に守ることができたのか、というと不可能なのです。でも彼らはその事実を認めることなく、自分のたちの過ちに関しては詭弁を弄して誤魔化します。批判されるなら神殿の権威をかざして相手を黙らせるのです。しかし、ユダヤの人々は真面目なのです(羊のように)。彼らの言葉を信じ、律法を守れない自分を罰し、守れないから神に嫌われている、神の罰を受けていると考えるようになります。(ルカ福音書11:46)今どきの言葉でいうなら、厳格な親からダメだダメだと言われ続けて、自己評価が低くなった子どもです。親の期待に応える為に、良い子であろうと努力するのですが、過剰な要求を押し付けられ、疲れる。できない自分を責め続ける。魂が力を失っていくのです。本来、人々を元気づけ、力付ける為に与えられた信仰の誤用によって、ユダヤの人々は雁字搦めに、身動きもできないほどに束縛されていたのです
でも、若干祭司や律法学者たちを擁護するなら、時代的な背景も一つの要因です。この時代、ユダヤはローマ帝国の属国として支配されていました。その結果、経済や産業は発展するのですが、同時にローマの文化や価値観がユダヤに入り込んで来るのです。エルサレムや周辺都市にはローマ風の建物が建てられ、そこに住む人々の生活習慣や価値観にも影響してきます。それまでのユダヤ人が持っていた神中心の価値観から、ローマ的な人間の力や知識に対して絶対的な信頼を置く姿勢、つまり富も力も多く手に入れた人間が素晴らしいとする価値観が台頭し、ユダヤ人の心に浸透し始めるのです。そんな変化の中で祭司たちは守りに入ります。つまり内向的になります。これまでよりもさらにユダヤの人々に律法を強いるようになるのです。その結果、人々の心はさらに神から離れ、混乱し途方に暮れるのです。「飼い主を失った羊のよう」(マタイ福音書9:35)になった彼らを見て、主イエスは憐れまれるのです。
主イエスは、そんなユダヤの人々を憐れまれて、一人でも多くを力づけ立ち上がらせる為に、弟子たちの中から十二人を選び、送り出すことにします。しかし主イエスは彼らに、自分の力で頑張って人々を励ますように、と求めることはありません。この十二人を神が用いて、人々を励まし神に繋ぐようにさえるのです。

主イエスは弟子たちを集めて話します。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ福音書9:37-38)まず最初に主イエスは弟子たちに、祈りなさい、と話します。例えばこの世で何か事業を立ち上げようとする場合如何するかと考えるなら「私は働き手にふさわしい」と考える者が立候補するとか、「この人ならこんな才能や能力が伴っているからふさわしいだろう」と推薦されて、人選が進められます。でも、そうではない。まず、みんなで心を一つにして祈って神に聴くのです。そこで神が十二人を選ばれるのです。
そして主イエスは彼らに、汚れた霊に対する権能をお授けになります。「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」(マタイ福音書10:1)と聖書には記されています。主イエスは彼らに「あらゆる患い、あらゆる弱さ」を癒やす。人を励まし立ち上がらせる力を授けるのです。つまり十二人の使徒がそれぞれ自分に特異な能力や才能を用いて働くのではありません。神が主イエスを通して何も持っていない彼らに、神と共に働くための技術や能力をすべて与えるのです。

主イエスは彼らに「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」(マタイ福音書10:9-10)と話します。何一つ持たずに神に遣わされた場所に赴く、それは下着や履き物、食料、金という意味だけではなく、自分の考えや知識、自分の力も含めて「何一つ持たず」です。

この選ばれた十二人の人選を見るなら、その特異さからも、「何一つ持たず」の姿勢が徹底されていることが分かります。

まず最初に上がっているのは「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」(マタイ福音書10:2)です。彼らはガリラヤの漁師です。彼らはそれまで夜中に湖に船を出して漁をして、朝には穫ってきた魚を市場に出して、網を繕って明日の準備をして、そして帰って休むという日常の中にいた者たちです。特別な教育を受けたわけでもない、人に何かを話し伝えるという訓練を受けたわけではない労働者です。徴税人マタイの名前も出てきます。彼は徴税人です。主イエスと出会って回心したとしても、今まで完全にローマやユダヤの権威の側にいた者です。裕福に暮らしていましたが、嫌われ者です。ほぼ人間関係を作り上げるスキルは持っていなかったでしょう。そして熱心党のシモン。熱心党とはローマ帝国に抵抗する組織です、力ずくでイスラエルからローマ軍を追い出す為、破壊活動や抵抗運動を行っていました。

彼らはローマに仕えていた徴税人の命もねらっていた、と言われますから、マタイとシモンが共に使徒として選ばれていることも興味深いのです。そしてイスカリオテのユダ。彼は主イエスを裏切り、銀貨十枚で祭司たちに売ります。そして主イエスは十字架に付けられるのです。
そんな彼らは、遣わされた先のユダヤの人々に「天の国は近づいた」と宣言するのです。つまり「神はあなたを見ている。あなたを愛している。だからあなたは元気を出し、立ち上がりなさい」と伝えるのです。そして「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」と主イエスは命じられます。自分たちに対して何らかの対価を求めることなく、つまりこの世の自分に対する評価や、賞賛や尊敬や報酬を求めて人々を励ますのではなく、純粋に無垢に相手の心に寄り添い、憐れみ、愛し、その人の魂に、神からの力が与えられるように、祈りなさいと命じられるのです。
そのように関わるなら、神が「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払う」(マタイ福音書10:8)のです。

彼らが人間の能力や技術で行うことではありません。神が真っ新な十二人の使徒を介して人々と関わられるのです。使徒たちは頑張らなくていい。ただ神の力だけが、この世に実現するのです。

私たちキリスト者は教会で礼拝を守り、聖書を読み主イエスと出会い、神の一対一の関係に招かれます。そして聖霊を受けます。つまり神の息を大きく呼吸するのです。でも吸い込むだけでは苦しくなります。吐き出さなければなりません。つまり私たちは与えられた聖霊をこの世に向かって吐き出す、それが至極当然な在り方です。
いやいや、私には何の力も能力もありません。と言われるかもしれません。でも、力も能力もなくて良いのです。中途半端に何かを持っていると、この世の力に頼ってしまうからです。そして主イエスは「『平和があるように』と挨拶しなさい。」(マタイ福音書10:12)と話します。これは私たちの感覚では「こんにちは」と挨拶する言葉と同じです。「こんにちは」と話し掛けて「こんにちは」と返事が返ってこれば、その人と関われば良いのです。あなたを用いて神がその人に平安を与えられます。
でももし、疑問符を打たれたり無視されたら、無理に関わることはありません。私たちはガリラヤ湖の漁師ペテロと同じで良いのです。何一つ持たなくて良い。神が用いて下さいます。もし、受け入れられなければ、それも御心です。「足の埃を払い落と」(マタイ福音書10:14)としてその場から去って良いのです。私たちは頑張らなくて良いのです。共に神に用いられつつ、信仰の道を歩みましょう。