礼拝説教原稿
2021年7月
「福音を必要とする人」2021/7/25
マタイによる福音書9:9-13
放蕩息子の譬えは、福音書に描かれている幾つもの物語の中でも、特に広く知られています。私はこの物語を読む度に、弟の考え方や行動と私自身の在り方が重なって恥ずかしくなります。だけれども、自分の心に近い言葉で語られる物語だからこそ、私は神の愛について、神との関わり方について深く悟らされるのです。そしてこの物語には裏側にはもう一つのテーマがあります。それは兄の物語です。少し物語を追います。
ある人に二人の息子がいます。この弟は父がまだ健在な時に、財産を分けて貰えるように願い出ます。父は彼の願いを受け入れ財産の半分を取り分け彼に渡します。さて弟は譲り受けた財産をすぐに金に換えて遠い国に旅立ちます。そこで放蕩の限りを尽くして財産をすべて使い果たすのです。ちょうどその時、その地方で飢饉が起こります。弟は食べる物にも困り、その町の人に身を寄せて、豚の世話の仕事を与えられます。それでも彼は空腹を覚えます。そして目の前にある豚の餌で飢えを満たそうかと考えるのです。その時、【彼は我に返り】ます。いままで父の思いを顧みることがなかったこと。世の中の事など何も知らないのに、まるですべてを知っていたかのように傲慢になっていたこと。愚かさ、無知を知り、恥ずかしさを覚えるのです。そして彼は町を出て父親のもとに帰ります。まだ遠く離れていたのに、父親は彼を見つけて走り寄ってきて首を抱き、有無を言わさずに接吻します。父は彼のために、いちばん良い服を用意させて着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせます。それから肥えた子牛を連れて来て屠り、祝宴を始めるのです。
さて、兄はその日の仕事を終えて畑から家に帰ってきます。「家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえて」(ルカ福音書15:25)きます。兄は僕の一人を呼んで何の騒ぎかと聞きます。すると僕は「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」(ルカ福音書15:27)と答えます。その言葉を聞いて兄は憤ります。門の外にとどまり、家に入ることができないのです。兄はずっと父の家を継いで守ってきたのです。畑も家畜も財産も親族も、家に仕えている僕たち、その家族たちの生活にも彼は責任を負い、父に代わって守ってきました。毎日毎日、真面目に堅実に額に汗して働き、家長として季節ごとの宗教行事も行い、近隣の部族とのトラブルにも対応してきたのでしょう。自分の考えとか望みを脇に置いて、父がその父から受け継いで来たものを、そのまま次に引き継ぐために努力する、彼は頑張るのです。なのに、勝手に出ていって、放蕩の限りを尽くして、財産もすべて使い果たした弟が帰ってくると、父は子牛を屠って宴会を始めるのです。喜んで歌い踊っているのです。おもしろいはずがないのです。これが、放蕩息子の譬えです。
さて今朝、与えられた御言葉に戻ります。ここに描かれているファリサイ派の人々、つまり主イエスを批判する者たちは、ここで単なる悪役として描かれているのではありません。よく読むなら、かえって徴税人マタイは脇役で、主役はファリサイ派の人々なのか、とも思えてきます。このファリサイ派の人々は放蕩息子の譬えで言うところの兄です。そして徴税人マタイは弟です。つまり、二人とも父である神から見るならば愛する大切な息子なのです。私たちは今朝の御言葉から、喜んでいる者と共に喜ぶことの大切さと、神の愛の深さを聴いていきたいと思います。
さて、御言葉の最初に「イエスはそこをたち、通りがかりに」(マタイ福音書9:9)とあります。主イエスと弟子たちは、カファルナウムから船にのって対岸のガダラ人の町を訪ね、そこから自分の町に帰って来ました。ここから話しは始まります。主イエスと弟子たちはカファルナウムの町の門を出て街道を進みます、そこには収税所がありマタイという徴税人が座っていました。主イエスは立ち止まり彼を見て「わたしに従いなさい」(マタイ福音書9:9)と声を掛けられます。彼は立ち上がってイエスに従った、と聖書には記されています。とても簡潔な描写ですが、丁寧に読むなら興味深いことが、ここで起こっています。
この徴税人という職業ですが、彼らはユダヤに納める税金とローマに納める税金の両方を徴収していた、と考えられています。そもそも古今東西、どんな社会にあっても税金を集める仕事は人々からの反感を買うのですけど、特にこの時代のユダヤの徴税人たちは、人々から嫌われていました。
まずこの時代、ユダヤはローマの属国でした。神の民として誇り高いユダヤ人たちは、自分たちが異邦人に支配されることを良しとは考えていないのです。そしてその支配の象徴がローマ帝国への納税でした。税金を納める度に、ユダヤ人たちは屈辱的な感情を覚えるのです。しかしローマの軍人に守られている徴税人に刃向かうこともできず、言われるままに支払うしかないのです。
そもそもユダヤ人は異邦人と関わることも、共に食事をすることも律法では禁じられていました。しかし徴税人はユダヤ人であるにも関わらず、異邦人と関わり、彼らの権威を笠に着て手先として働き、同胞を苦しめていたのです。
さらに、徴税人たちは、定められた金額以上を人々から徴収していました。洗礼者ヨハネが荒野から町に上ってきて人々に「悔い改めよ、神の国は近づいた」と宣言し、人々をヨルダン川の水に浸し洗礼を授けたとき、徴税人も洗礼を受けるために集まってきた、と聖書には記されています。そして「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねるのです。洗礼者ヨハネは「規定以上のものは取り立てるな」と言った。(ルカ福音書3:13)とあります。つまり徴税人は常日頃から人々を騙して多く払わせ、幾ばくかを懐に収めてから、税金をユダヤとローマに納めていたのです。多少徴税人を擁護するなら、飢饉や疫病、災害などが起こり、税収が著しく落ち込むときには、徴税人が代わって納めるように定められていたので、そのための損失補填として多めに徴収することが許されていた、という説もあります。
つまり徴税人とは、律法を守らず、神を蔑ろにし、同胞を苦しめ、権力を笠に私腹を肥やしている。だからユダヤ人たちは彼らを嫌い、難癖をつけられないように誰も目を合わせようとはしなかったのです。そんな徴税人マタイが収税所に座っていると、主イエスが通りの向こうから歩いてきて、彼の前で立ち止まります。主イエスはマタイを「見る」(マタイ福音書9:9)のです。
それまでにマタイは当然、主イエスを知っていたでしょう。主イエスはカファルナウムを拠点にしていましたし、病を負う者の病を癒やし、神の国の福音を解く預言者として広く知られていたからです。でもマタイにとっては福音や救いなど、どうでも良かったのです。後の世で救われなくても、どんなに陰口を叩かれたとしても、今、彼はこの世界で誰よりも安全で、生活でも苦労することはないのです。彼には財産があるのです。しかし、マタイは主イエスから「私に従いなさい」と声を掛けられたとき【我に返る】のです。主イエスは彼を「見る」(マタイ福音書9:9)のです。その時、彼は、誰より多くの財産を手にしていて満たされていると思っていた自分が、まったく何も持っていないことに気づくのです。孤独なのです。
彼はそれまで、自分が人から拒まれていると考えていました、でもそうではなく、自分が人を拒んでいたことに気づかされるのです。自分がこの世に嫌われていた訳ではなく、自分がこの世を嫌っていた事に気づかされるのです。そしてマタイは立ち上がって主イエスに従います。主イエスとの関わり、つまり神との関わりに引き戻され、彼の魂、つまり命は回復するのです。
そしてマタイは自分の家に主イエスや弟子たちを招いて食事を持てなします。その席には、他の徴税人や罪人も食事の席に招かれます。この罪人(aJmartwlo/ß hamartolos)とは単に犯罪を犯した、という意味ではありません。様々な制約で律法を守る事ができず礼拝の外に追い出された者たちも含まれます。彼らも同胞のユダヤ人たちから、関わりの外に置かれていました。しかし、人と人との関わり、交わりの中に戻されるのです。
さて、でも、この宴会の席の様子を見て、ファリサイ派の人々は主イエスの弟子たちを家の外に呼び出し「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(マタイ福音書9:11)と尋ねます。彼らは、徴税人マタイの家に入りません。それは徴税人や罪人と関わると、汚れが自分にも移ると考えられていたからです。しかし、本心はどうだったのか、というと、純粋に信仰の姿勢からの言葉とは思えないのです。主イエスは彼らについてこう話します。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」(マタイ福音書11:18-19)ファリサイ派の人々は主イエスが徴税人たちの金で用意された贅沢な宴会に招かれている事が気に入らないのです。彼らは厳格に律法をまもり、丁寧に父祖から引き継がれてきた礼拝を守りつづけてきました。生活の中で定められた所作を一つ一つ大切に、真面目に守り続けてきたのです。頑張ってきたのです。でも主イエスも徴税人たちも罪人も楽しんでいるのです。その姿が許せないのです。彼らは放蕩息子の兄と同じなのです。
主イエスは、家の外にいる彼らの心を知っています。そして彼らに話します「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ福音書9:12-13)放蕩息子の譬えの中で、宴会の席にはいって来ない兄に、彼の父はなんと話し掛けたのでしょうか。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(ルカ福音書15:31-32)
主イエスにとって徴税人マタイは愛する息子なのです。死んでいると思われていた息子が生き返った。それは喜びなのです。そして主イエスにとってファリサイ派の人々も大事な愛する息子なのです。ですからここで主イエスは彼らの嫉む心を叱るのではなく、「行って学びなさい」(マタイ福音書9:13)と声を掛けます。形だけ御言葉を守っている振りをするのではなく、御言葉の本質(愛)を学び行いなさい。そして、あなたも私と一緒に喜んで欲しい。そう、主イエスは話すのです。
私たちは、ときどき、自分がファリサイ派の人々のようになっていないか、心に問いかけなければならないのです。私たちはキリスト者として、礼拝を守る幸いを与えられています。しかしときどき、その幸いにあぐらをかいて神への感謝を忘れるのです。感謝を忘れるときに、私たちは喜べなくなります。楽しくなくなる。だから頑張ってしまう。信仰は頑張って我慢して努力すれば上達する類いの事柄ではありません。逆に頑張ると、徐々に神から離れていきます。罪に取り込まれるのです。心を動かすことなく祈るようになる。そうではなく私たちは、教会の中の交わりにあっても、そして、外の交わりにあっても、泣く者と共に泣き喜ぶ者と共に喜びましょう。すでに与えられている幸いを覚え感謝するとき、喜ぶ者へと変えられます。
「権威を知る」2021/7/18
マタイによる福音書8:5-13
今朝、私たちに与えられました御言葉に描かれている百人隊長は、軍人として日常的に命のやり取りをする環境に生きてきた人物です。ローマ軍の一番小さな単位、分隊の構成は十名で、これが十組み集まって百人隊(centurio)となります。軍隊の厳格な階級組織にあって百人隊長の上には何人もの上級士官がいて、最終的には皇帝が最高位に就きます。しかし作戦行動にあっては百人隊長が最前線で戦う兵士たちの長です。歩兵の命は百人隊長の命令一つで保たれるか失われるか決まります。また戦場だけではなく百人隊長は平時の部下の生活にも関わっていました。食料や住居、彼らの仕事の面倒をみるのです。加えて部下の家族についても責任を負っていたと言われています。この百人隊長になるには、特例的には皇帝や上級士官に推薦されるというケースもあったようですが、基本的には部隊の兵士の選挙によって選ばれます。兵士たちは力を合わせて戦場を生き抜き、その後で自分の命を預けられる人物を選ぶのです。遠慮も忖度もなしです。
この人なら自分の命を預けられる。自分が窮地に陥ったなら助けてくれる。妥当で適切な命令を確実に下してくれる。自分がその命令に従って戦い、命が失われたとしても納得できる。その死は他の仲間を助け、敵を倒すための犠牲であり、無駄死にではないと受け入れられる。それに、この人なら残された家族の面倒をみてくれる。そんな人物を兵士たちは自分の主人として、つまり百人隊長として選ぶのです。百戦錬磨、知力と胆力に優れ全幅の信頼を置ける人物、それが百人隊長です。そして百人隊長からすると、部下の命は自分の命そのものです。部下たちに戦場でその命を懸けさせる命令を下さなければならない時もあります。それでも彼はローマ軍を勝利に導くために彼らの命を預かります。すべての責任と痛み負うのです。
そして主イエスが活動していた時代、すでにローマ帝国は地中海全域を支配下に置いていました。ユダヤも同じくローマ帝国の支配下にありました。でもローマ帝国は、これまでユダヤに攻め込んで来た国々と違い、その支配は賢く寛容でした。征服した国の自治権を認め、その民族の宗教儀式や文化は保護する政策を行うのです。それだけではなく、属州となった国々は大きな利益を得ました。
近隣の諸国はすべて属州として吸収されたので近隣諸国同士の争いがなくなり、戦争の為に割いてきた予算や人材を産業や経済、文化の発展に回せます。統一通貨が流通し貨幣価値は安定し、ローマの進んだ土木技術によって道路が整備されローマ軍によって守られます(関税は徴収されますが)安全で早い移動できる通商ルートが確保され、各地域間で多くの人や物、文化・科学が行き交うようになり、貿易が盛んに行われます。加えて、それまで個々の国で定められていた法律はローマ法が規準となります。言語もギリシャ語が共通言語として用いられるようになります。その結果、地中海世界において、文化と経済が豊かに発展することになるのです。
長い歴史の中で、エジプトとメソポタミアにはさまれ、常に戦乱にさらされ続けてきたユダヤ人にとっても、この状況は喜ばしいことのように思われます。でも、彼らは「おもしろくない」のです。なぜならユダヤ人は、自分たちがアブラハムの子孫であり、神に選ばれた民であることに誇りを持っていたからです。彼らは自分たちの国をイスラエルと呼びます。この言葉の意味は「神の支配」です。確かにユダヤは一つの国としてローマから自治を許されていました。人々はエルサレム神殿で礼拝することも許されていました。でも、やはり実質的には支配下に置かれているのです。ローマ帝国から税金を徴収され、町にはローマ兵が駐在しているのです。他の民族に、つまり神の恩恵の外にいる異邦人に支配されることなど、受け入れられる訳もないのです。
特に今朝の御言葉の場面、カファルナウムはシリアとエルサレム、そして地中海を繋ぐ要衝でした。多くの商人が行き交う街道には、関税を徴収する税関が設けられ、徴税所には駐屯軍が置かれ守られていた、と考えられています。この百人隊長が、その駐屯軍で勤務していたのかは分かりません。でもローマ兵としての彼の仕事は、抑止力としてユダヤ人を威圧することです。つまりユダヤ人から見て百人隊長は「おもしろくない」存在で有り続けることが、彼らの仕事なのです。このような背景を覚えつつ、共に御言葉を読み進めます。
さて、主イエスと弟子たちはカファルナウムの町に入られます。すると「一人の百人隊長が近づいて来て懇願」(マタイ福音書8:5)します。この「懇願」(parakale÷w parakaleo)という言葉は「切迫して請い求める」という意味です。日頃、自分たちに対して威圧的に接しているローマ兵が、しかも、もっとも偉い百人隊長が一人のユダヤ人を前にして懇願している姿は、人々にとって驚き以外のなにものでもなかったと思います。それに対して、百人隊長にとっても、行うべきではない行動です。なぜならユダヤ人に対して常に力を誇示することが彼の仕事だったからです。鎧を着け兜をかぶり、腰には剣を携え完全武装で彼は部下たちと町中を歩くのです。そうすることで彼はユダヤの人々に強い自分たちに姿を見せつけるだけでなく、ローマ帝国の圧倒的な軍事力と権威を見せつけます。この力関係を崩す事など出来ない、反抗する意志を削ぐのです。
でもこのとき、百人隊長は自分に課せられた職務よりも、自分の部下の命を優先します。彼の部下が中風を患いひどく苦しんでいたからです。以前から彼は主イエスが沢山の病人を癒やしたと噂で聞いていたのでしょう。でも彼は主イエスを辺境の地の異教の呪い師、程度にしか捉えていなかったのかもしれません。しかし彼はカファルナウムの町の門の外で主イエスが重い皮膚病に手を置いて癒やす姿を見るのです。そして彼は主イエスに、助けを求めるのです。
では、この言葉に、主イエスは何と答えられるのか。主イエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」(マタイ福音書8:7)と答えます。これも驚くべき回答です。なぜなら主イエスはユダヤ人です。本来は異邦人の家に入ることはありません。それは律法でも堅く禁じられています。それに主イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ福音書15:24)と、はっきり話しています。つまり異邦人の癒やしは行わないと宣言しているのです。しかし、敢えて主イエスはここで、百人隊長の願いを聞き入れます。なぜでしょうか。申し出を断れば、牢に入れられるか、暴力的な制裁を受けるかもしれません。主イエスは、ローマの権威に阿(おもね)ろうと、つまり媚びを売ろうとしたのでしょうか。でも、そうではないのです。
主イエスはこの言葉で、彼に問いかけるのです。そもそも私はユダヤ人のために遣わされた者であり異邦人の救いには関わることはない。それに私があなたと共にあなたの家に行って、ローマ軍とユダヤの人々の目の前で、公然とあなたの僕に【手を差し伸べて触れ】病を癒やしたなら、あなたの立場は悪くなる。もしかすると職務を追われるかもしれない。軍人としての地位も、優遇された生活も地位も部下たちも、その家族も守る事ができなくなる。それでも良いのか、と問いかけるのです。
では、この言葉を聞いて百人隊長は諦めるのか、というとそうではないのです。やはり賢いのです。彼は知略をめぐらし、自分の僕の病を治しつつ、自分も主イエスに立場も保つ答えを見いだすのです。
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(マタイ福音書8:8-9)こうすれば、主イエスは異邦人の家に入らなくてもいい、百人隊長の部下に触れていないのだから、治療されたことにならない。つまり百人隊長とユダヤ人との緊張感は保たれる。しかも、何よりも、彼の愛する僕は癒やされるのです。
この答えに、主イエスは「感心し」(マタイ福音書8:10)とあります。その意味は「驚く」です。
主イエスは百人隊長のこの世の知恵に感心します。でも、もっと深く読むならば、主イエスは驚いたのです。それは聖霊が異邦人である百人隊長の魂に触れ、彼に信仰を与えたことについて、です。信仰は、その人の学びとか努力とか、敬虔な行いの対価(報酬)として神から与えられる、力ではありません。人が祈り聖霊がその人に働き応じた時、その関係性の上に信仰が生じる、現れるのです。
百人隊長の言葉は、まったくこの世の知恵なのです。だれもが対面を保ちつつ、対立することなく、傷つけ合うことなく目的を達成することができる。彼は無益な争いを沢山見て来たのでしょう。ですから、できるだけ争わない手段を選ぶのです。しかし、百人隊長は自分の目的のために主イエスを利用しているのです(そして主イエスは神なのです)神を自分の目的のために使うこと。それはもっとも深い罪です。でもそこに、信仰が現れるのです。
百人隊長はここで主イエスに「主よ」と呼びかけます。つまり主イエスを権威ある者として認め、自分がその権威の下にあること、それだけではなく、部下を苦しめている、この世の病もすべて主イエスの権威の下にあること、つまり主イエスを神そのものであると、彼は自らの口で告白するのです。神は、百人隊長が告白する、真っ黒く罪に塗られた言葉を用いて、主イエスが神御自身であることを、この世に表されます。異邦人の告白を通して、主イエスが神であるという真理が明らかにされたこと、その告白の言葉によって信仰が表されたことについて、主イエスは「驚く」のです。
でもこの百人隊長の告白は、主イエスにとって、つらい言葉であった筈です。なぜなら、この言葉には、後におとずれる、主イエスの十字架の苦しみが避けられないことを明らかにしているからです。異邦人が信仰を告白する時はもっと後です。主イエスが十字架に架かり、復活した後、弟子たちが全世界に送り出され福音が異邦人に伝えらる、百人隊長の告白はその恵みの先取りしているのです。
主イエスはこう話します「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ福音書8:11-12)主イエスはこの時に自らの十字架とその苦しみ、痛み、そして復活をも見ているのです。しかし主イエスは怯まず、百人隊長に話し掛けます。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」
百人隊長は主イエスの出会う前。まだ信仰に行き着いてはいなかったのです。でも彼は自らの告白の言葉によって清められ、信じる者に変えられました。ですから主イエスは彼に「信じたとおり」に、つまり「あなたの信仰のままに」と話すのです。
この百人隊長は、自分の部下たちとの信頼関係、そして自分の所属するローマ軍という信頼関係の中に身を置いていました。心から信じること、信じられることの大切さと尊さ、その責任の重さを知っていたのです。ですから主イエスに出会ったとき、彼はすぐに呼びかけに応え、自らの言葉で信仰を告白するのです。神は私たち命に近いのです。私たちが幾重にも身につけているこの世の鎧を外し、自らの命に向き合うなら、心身共に軽くなり、雑音は消え、神の呼びかける声が聞こえるようになります。その呼びかけに自らの告白で応えるとき、そこに信仰が現れるのです。
「地面に根を張り生きる」2021/7/11
マタイによる福音書7:15-29
先日、車を車検に入れる為に、整備工場に持っていきました。直ぐに整備士の方が車をリフトに乗せた後、エンジンまわりを見てタイヤを外します。車の下回りまで、手際よく点検をしていきます。その働いている姿を見ながら、彼と私の違いは何かと考えました。私も基本的な整備点検作業はできます。自分で車を運輸局に持って行き、ラインに乗せて車検を通したこともあります。でも決定的な違いは、彼が整備士免許を持っている、という点です。私は整備士免許を持っていないので、自分の車の修理しかできません。でも彼は他人の車を修理することができます。彼は整備士免許を取るために学び、技術と知識を修得し所定の試験に合格しています。殆どの資格試験には法規も含まれます。それはその技術や知識が生みだす利益と不利益を理解しているかを確認する為です。車は便利な道具です。でも運転中に急にブレーキが抜けたり、エンジンがストールするなら大きな事故に繋がります。他人を怪我させたり物を壊します。ともすると、命も奪うことにもなります。彼はその教育過程を経て、技術と知識を得ていると公に認められたので、他人の命に関わることが許されているのです。
整備士だけではなく医者も教師も技術者も調理師も、人より秀でた技術や知識を学んで修得した者は、その力を用いる時、結果に対して責任を負う覚悟が求められます。なぜなら知識や技術、権力も含めて【力】は、正しく使えばこの世界を良い方向に導き、人々を幸せにします。でも悪用すれば、自分の影響力を強め、自分に利益を集中させることも可能です。その結果、他人の不幸や困窮を生みだすことになるからです。
聖書の御言葉を学ぶ、ということについても同様です。なにを大げさな、と思われるかも知れません。でも聖書の御言葉を学び、与えられる信仰は大きな【力】です。私たちが、その信仰に促されて福音を誰かに伝えたり、誰かが私たちが信仰に生きる姿勢を見て、その方が主イエスに結びついたなら、その魂には命の水が豊かに与えられ、救いと平安を得るのです。でも、私たちが間違った使い方をしたり、悪用して、神以外の、この世の何かに結びつけてしまったなら、その方の魂は水源を断たれて涸れてしまいます。肉体を傷つけることよりも魂を傷つけることの方が、世間的には明らかにされず、断罪されない分、罪深いのです。
そして、今朝与えられました御言葉で主イエスは、福音を受けた者の覚悟について私たちに教えます。私たちが与えられた御言葉をこの世で使うにあたっての注意書きが、ここに記されているのです。
さて、この御言葉の場面は、五章から始まる山上の説教の最後の言葉です。主イエスは人々にこの世にあって幸いに生きる為にそうすれば良いのか、神は何を義とされ、どんな行いを喜ばれるのか、を教えます。そして最後に注意を促すのです。その最初の言葉がこの十五節です。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」(マタイ福音書7:15)。
この言葉を聞いて、私は今まで、私たちの教会の外に偽預言者がいて、悪さをするために教会に入り込んでくるようなイメージを持っていました。彼らは羊の皮を被って近づいてくるけど、その内側は貪欲な狼だと、注意しなさい、と。でも、はたして、そうでしょうか。彼らは教会の外にいて、外からやってくるのでしょうか。主イエスはここで私たちに、あなたたち自身が偽預言者になってしまう誘惑に警戒しなさいと、話しているのではないか、とも受け止めることができるのです。この警戒という言葉は「律法学者に注意しなさい」という文脈で多く使われます。つまり外からの者に注意するという意味です。でももう一つ、自分の「心を奪われる」という意味でも使われます。それに「羊」とは聖書の中でキリスト教徒を示す言葉です。よく知られたところでは詩編二十三篇でしょう。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。(詩編23:1)主イエスも信仰者を羊に喩えます。例えば「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(マタイ福音書10:6)と話します。つまりこの羊とは明らかに信仰者のことなのです。
もしかしたら「私」が偽預言者となり、教会で、誰かを神以外の何かに結びつけてしまうかもしれない。信仰を求めて神との繋がりを求めている人を、例えば特定の思想とか価値観とか、イデオロギーとか、人物とか、それとも「私」に結びつけてしまうかも知れない。今までに、してしまっていたかもしれない。そう考えると恐ろしくなるのです。それだけではありません。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。」(マタイ福音書7:21-22)と主イエスは話します。
つまり私が、偽預言者として働くときには、私は、私が偽預言者として働いていることに気づいていない、ということです。私は神に従って、神の義をこの世に実現しようと、正しい事をしている、多くの人を神に結びつける働きしようと頑張っているのです。しかし主イエスは「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ福音書7:23)そんな者のことなど知らない、関係ないと、話すのです。そして「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(マタイ福音書7:19)と話されるのです。このように御言葉を読むならば、私たちは、世に福音の喜びを伝えることを躊躇してしまうのです。恐くて伝道などできなくなってしまいます。本当に正しく神の言葉を相手に伝えることができるか、正しくその方を神に繋げられるのか不安になるからです。
では、私たちは教会にあって何もしないべき、なのでしょうか。誰にも御言葉を伝えることなく、ただ聖書の御言葉を、自分自身の学びとして、神からの諭しとして受け止めればよいのでしょうか。以前、私は、ある伝道活動を進めるか進めないか悩んでいたことがありました。そして親しくしていた信徒の方に相談しました。彼は「やってみて、上手く行くなら御心、頓挫するなら御心ではなかった、と考えれば良いのでは」とアドバイスしてくれました。彼は伝道を進める前に実りが与えられるか否かを、自分で先に判断できると考えることが、すでに神の前で傲慢だと教えてくれたのです。
主イエスは「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」(マタイ福音書7:17-18)と話されます。つまり、私たちは、実った実の善し悪しによってしか、その木が良いか悪いか解らないのです。私たちは、信じてやってみることしかできないのです。
私たちは所詮人間です。良かれと信じて行っても結果は過ちとなるかも知れない。でも、もし豊かな伝道の実りが与えられれば、正しく神に繋げることができた、偽預言者にならなくて済んだと神に感謝するのです。そうではなく悪い実が実ってしまったなら、その時には、すぐに自分の在り方を悔い改めるのです。
確かに、自分の信仰の姿勢、行ってきたことが間違っていたと、公に告白することは勇気のいることです。社会的に信頼を失うかもしれません。でも神は、心から悔い改める者を赦されます。主イエスも「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイ福音書9:13)と話します。もし自分が偽預言者になっていて、悪い実を結んでしまったなら「切り倒されて火に投げ込まれ」て、神の火で燃やされれば良いのです。そこから、もう一度新しく始めればいいのです。
ドイツの宣教師マルティン・ルターは「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」と話します。「世界の終わり」つまり「火に投げ込まれ」ても、それでも伝道を進める。世界が滅亡しても、その先にもまだ命がある。希望がある。その事を主イエスは十字架と復活に拠って示して下さった、その十字架を信じる事が、私たちの信仰だと話すのです。まして生きている私たちは、正しく悔い改めて、やり直せます。私たちは、教会の信仰が正しく神を向いているのか、教会が正しく誰かを神に繋いでいるのか、私たち常に検証しつつ、教会の伝道を進めていくのです。
パウロは「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ロマ書1:16)と話します。私たちもこの神の力を与えられています。それはこの世のすべての人に救いをもたらす力です。そして力は、飾っておくためにある訳ではありません。使う為にあります。最初に私は「力を得た者は、その力を用いた時の結果に責任を持たなければならない」と話しました。私たちは、気を引き締めて、でも喜びに満たされて福音を世に伝えて行くのです。それが福音という力を与えられた私たちの責任なのです。
そして主イエスは「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ福音書7:24)と話されます。私たちはその日常生活にあって、常に嵐の中に身を置いています。一つの問題が解決すると新しい問題が持ち上がってきます。環境も変化します。疫病や天災にも襲われます。幾つかの問題が解決してやれやれと安心すると、今度は自分自身が病気にかかったりするのです。でも、そんな地上の雨風に動揺するのではなく、あなたがたは御言葉に堅く立ちなさい、それは、この世にあって、実際に御言葉を行うことであり、それが、砂の上に家を建てるのではなく、岩の上に家を建てるのと同じことなのだ、と主イエスは話すのです。
固い地盤の上に家の基礎を築くことは、大変な苦労を負う作業です。ツルハシやスコップを振り下ろす前腕はパンパンに張れて、手のひらは豆だらけになります。長い時間がかかります。でも、その上に建てられる家は、簡単には倒れないのです。同じように、主イエスの話される御言葉を自分の事として受け止め、それを実行することは厳しいことです。「人を裁くな」と諭されても、私たちは、心の内で人を裁いてしまうのです。「思い悩むな」と言われても思い悩むし、「求めなさい」と言われても諦めるのです。でも、できない自分を認めつつ、少しずつでも良いから、御言葉を心に覚えて行っていくなら、いつか、堅い岩にも傷をつけることができるかもしれません。もう少し続ければ、ヒビを入れる事ができるかも知れません。いつかは割ることもできるかもしれないのです。
私たちが礼拝を守るということは、そういうことです。私たちは、人生に於いては喜びも悲しみも、成功も失敗も味わいます。でも、そのような、この世の雨風に晒されつつも、私たちは愚直に礼拝を守り続けるのです。多少の痛みを覚えつつも、少しづつそれぞれの魂に御言葉を刻みつけていけば良いのです。与えられた御言葉を、この世にあって正しく用いること、悪用しないこと。常に検証すること、間違っていたら悔い改めること。でも私たちがそうやって御言葉と共にこの世の命を歩んでいるなら、主イエスは私の側に、いつもいて下さるのです。
「扉をたたき続けなさい」2021/7/4
マタイによる福音書7:1-14
以前、働いていた現場に「あいつぁダメだ」が口癖の作業員の方がいました。誰かが何かを失敗するごとに「あいつぁダメだ」を繰り返すわけです。では、彼は何も失敗しないのか、というと、ときどき失敗します。でも自分の失敗は「ダメだぁ」にカウントされないようです。悪びれもせずに、さらっと誤魔化します。そんな彼ですが、仲間うちでは信頼されていました。それは、誰かが失敗をすると「あいつぁダメだ」と言いながらも近寄って行き、持っている道具を引ったくって「これはこうやるんだよ」と助けてくれるからです。彼の口癖の「あいつぁダメだ」は、八割の批判と二割の照れ隠しなのかな、と、その優しさを感じていたのです。
私たちは、他人の欠点や失敗が目に付くのです。そして相手を批判します。今朝の聖書の御言葉で言うなら相手を「裁く」のです。裁くことによって、自分は素晴らしい、と周囲の人に表明して、自分を高めることができる。この「裁く」(kri÷ma krima)という言葉は「より分ける」という意味でも使われます。これは良い、これは悪いと自分の目で判断して、右の箱と左の箱に分ける、それが「裁く」です。では、より分ける私の判断が完全に正しいのか、というと、どうでしょうか。完全であるわけがない、のです。私たちの目は、ほんの限られた狭い自分の周囲しか見ることができません。経験や技術、知識や見識には限界があります。にも関わらず私たちは、自分はすべてを理解している、見透かしているように相手を裁きます。批判し、「あいつぁダメだ」とこぼすのです。
主イエスは、そんな私たちに「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ福音書7:1-2)と話されます。あなたが相手を見ている目と同じ目で、あなたも相手から見られていることに気づきなさい、と教えます。例えば喧嘩をする相手をよく見るなら自分と似ているのです。価値観とか考え方とか、何かがかぶっているから仲違いするのです。お互いに相手に譲れない何かが一緒だから、そこでぶつかるのです。
では仲違いを起こさないように、喧嘩をしないように、相手と同じ土俵に登らないのが得策なのでしょうか。「いやいや、私は遠慮します」仲違いするくらいなら譲ります。と、その場から離れるべきなのでしょうか。一見、このような姿勢は慎み深く、配慮の行き届いた、良い人物と評価されるのかもしれません。そしてキリスト者としての、模範的な態度と思われているのかもしれません。でも、主イエスはそうは話されません。それは偽善だ、と返って、その態度を厳しく叱るのです。あなたが一歩引く、もしくは相手との心の距離をとる、さらに言うなら、相手との関係を断ち切ってはいけない、むしろ相手と対立した時には、まず自分自身に目を向けなさい、と話すのです。自分の心の奥底に目を落とし、相手とどんな原因で対立したのか、を考える。すると自分の問題点が見えてくる。相手の許せないところが、相手にとっても許せないところだった、と気づかされるのです。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ福音書7:3-5)
公生涯(伝道活動)に入る前に、主イエスは父親の家業を継いで、ガリラヤで大工をしていたと言われています。木を切ったり削ったりする時に、どうしても木くずが目に入ることがあります。その時には目をこすらず、まぶたをめくって清潔な布でそっとこすって取り除きます。現代では鏡がありますし、目薬もあるので自分で木くずを取り除くことができますが、当時は誰かに取り除いてもらうしかなかった、でしょう。この譬えはイエスさまの日常的な経験からの言葉だとわかります。そして、ここで話される丸太、以前は梁と訳されていました。それは建物を支える太い木材です。もちろん目に丸太が入る分けがありませんから、当然比喩です。
相手の気になる欠点や失敗、過ちが目についた時には、それを直ぐに批判するのではなく、もっと大きな、自分の中にある欠点や失敗、過ちに目を向けなさい、と主イエス話します。でも大事なのはこの後の言葉「あなたの目からおが屑を取らせてください」(マタイ福音書7:3)です。主イエスは、まず自分の目の中の丸太を取り除いて、よく見えるようになってから、相手の目のおが屑を取り除かせて下さいと申し出なさい、と話すのです。つまり相手と関わりなさいと話すのです。仲違いしている相手に対して、自分が一歩引いて、物わかりが良い者の様に振る舞う態度は、配慮でも模範でもなく、ただ自分を高く上げて、相手を見下しているだけのことです。相手との関係と断ち切ろうとしているに過ぎない。それを主イエスは偽善と話すのです。
そうではなく、まず自分の欠けに目を向けて、それを確認し、それから相手の欠けを取り除かせてください、と申し出る。そうすれば二人とも、自分では知ることのできない欠けを知り、お互いに、それを取り除くことができるのです。そこに本当の平和が与えられるのです。もちろん争いや仲違いは誰にとっても嫌なことです。夫婦喧嘩なんか最悪です。でもその出来事から逃げるのではなく、対立した要因を見極め、自らの魂の内に潜む欠けを見いだす機会として受け止め、それを取り除くこととなるなら、争いも神からの恵みに変わるのです。それがもっとも良いことなのです。
さて、でもそう簡単に上手く行かない、と私たちも経験的に知っているのです。自己を省みて反省して、相手にも同じように反省を促したとしても、その言葉が受け入れられることは、殆どありません。こちらが下手に出るなら、相手は受け入れ反省するかというと、そうではなく、増長する。つけ上がる。悲しいかな、それがこの世の現実です。主イエスは、この世の人の心を知っています。それが六節からの言葉です。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」(マタイ福音書7:6)
主イエスがここで話す「神聖なもの」とは「清い」「聖別されたもの」という意味の言葉です。つまり神のためにこの世から取り分けられた大切なものを犬や豚に与えるな、という意味です。犬や豚、これもかなり激しい言葉ですが、これは神を覚えることができず、神を畏れることのできない者たちを言い表しています。彼らにはその価値が分からないばかりか、返って噛み付いてくると話すのです。そしてこの「神聖なもの」とはなにか、それは「自分の魂に目を落とすこと」です。でも、この二つの事柄の間に、どんな関わりがあるのでしょうか。
私たちにとって最も避けたことは自分自身を見ることです。それぞれが自分の魂の内側に隠している黒く澱んだものからは、できるだけ目を背けようとしています。それを「罪」と言い表しても良いと考えます。しかし神は、その罪も含めて私たちを愛し、自分の子として引き受けて下さいます。私たちはその愛を、主イエスの十字架と復活によって、知ることができます。私たちが神を知るという事は、私たちが神に愛されていると知ることです。この神との信頼関係、つまり信仰があるなら、私たちは安心して自分の罪と向き合う事ができます。もう、誰にも見られないようの必死に隠し続けることもないし、自分の魂の最も深い闇の中に隠し続けることもないのです。つまり私たちに与えられた神聖なものとは、信仰のことなのです。
では、私たちは諦めるべきなのでしょうか。せっかく、この世で争っているすべての人が受け入れ合い、平和を得るための道筋が目の前に置かれているのに、諦めるしかないのでしょうか。主イエスは話されます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ福音書7:7-8)
この主イエスの御言葉について、私はいままで誤解していたのです。この「求めなさい」は「この世に平和を求めなさい」という意味なのです。
つまり個人的な願望とか欲望であっても諦めずに神に求め続けるなら、きっと叶えられる、という、人間の側の身勝手な要求に対して神が答えられるという意味ではありません。そうではなく、信仰が疎かにされるこの世にあって、それでも信仰に留まり続けなさい、諦めずに本当の平和、人と人とが受け入れ合い、認め合い支え合う、そのような平和を望み続けなさい、という、主イエスからの励ましの言葉なのです。でも、あなた方が諦めずに平和を求め続けるなら、神は答えて下さる、「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ福音書7:9-11)なのです。神に信頼し希望を失ってはいけないと主イエスは、私たちを励ますのです。
そして、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と話されます。「律法と預言者」とは旧約聖書のことを指します。つまり主イエスに出会う前、ユダヤの人々にとって信仰とは、聖書に書かれた戒めを守り、預言者の言葉に従って神を畏れ神から離れないことだったのです。つまり自分の努力によって自分を抑制することによって自分を聖別すること、いわばストイックに自分を鍛えることによって信仰に到達することができると信じていました。でも主イエスはそうではなく、トナリビトとの関わりの中に本当の信仰があると話されるのです。心を一つにして祈り合う時に、信仰を見いだすことができると話すのです。しかし、この主イエスの言葉を実践することは難しいのです。自分一人で切磋琢磨して目標に到達することは、ある意味、容易です。でも主イエスが話すように、幾人かと同じ目標を共有して、到達するための道のりは、とても険しいのです。
ではやはり諦めるしかないのでしょうか。それでも、と主イエスはこう話します。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ福音書7:13-14)安易な道ではなく困難な方道を選択しなさいと話します。その先に永遠の命があるのです。
主イエスは「敵を愛しなさい」(マタイ福音書5:43)と話されました。この愛する、とは関わり続ける、ということです。相手に拒まれても、それでも諦めずに相手の心の扉をたたき続ける。私の罪を赦してくれた神が、その人の罪をも赦して下さっている、と、扉の外からでも、大声で伝えるづけること。それが、主イエスが十字架上で明らかにされた愛です。そして私たちも、この愛を、世にあって実践していくのです。
礼拝説教原稿
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