礼拝説教原稿
2021年6月
「あしたを思い悩むな」2021/6/27
マタイによる福音書6:22-34
最近、近所を散歩していると、たくさんのヒメジョオンを見かけます。更地になった宅地とか道路脇の植込みに、雑草に混ざって生えていて、白い小さな花を咲かせています。このヒメジョオンは一つの花から四万個の種を生みだすそうです。種子の寿命も長く三十年以上も生き残り、生命力が強くいので、すぐに群生します。別名、貧乏草と呼ばれます。庭を手入れする余裕のない家の庭に生えている、という意味だそうです。以前に草刈り機で刈ったことがあります。他の雑草に埋もれるように花を咲かせていて、刈っても刈っても生えていて正直苦手でした。でも散歩をしながらじっと見てみるなら、白と黄色のコントラストがハッキリとした、とても可愛い花です。精巧な芸術品です。そして、このような野に咲く小さな花を見て主イエスは「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(マタイ福音書6:30)と話します。神はこんな小さな、色鮮やかな花や草の緑、木々で世界を美しく飾られる。しかし、人は、この生命の巧みさと美しさに目を向けることなく、自分の都合で刈り取り、燃やして捨ててしまう。それどころか人は自らの生命をも、それだけで十分に貴重で絶妙で美しいものだとは考えず疎かにしている。と話されるのです。
主イエスの御言葉は決して難解ではないのです。誰に気遣う事もなく肩の力を抜いて、散歩をするように自分を取り巻く世界を眺めるならば、当たり前のことを当たり前に話されているにすぎない、と気づかされるのです。でももし、それでも無理難題に聞こえるならば、受け止める私の側がズレている。エゴや欲で世界を歪めて眺めているのです。今朝与えられました御言葉はとても広く知られています。この言葉を通して主イエスは私たちに【私たちが如何すればこの世にあって幸いに生きることができるか】を教えて下さいます。でも、これも難しい事ではありません。当たり前のことを当たり前として受け入れること。そしてこの世界を創造し治める神を信頼することです。今朝は共に、この御言葉に聴いていきたいと思います。
さて主イエスは山上の説教の場面でこの言葉を人々に話しました。丘の上の草の上に人々は座り話を聞くのです。ガリラヤ地域では冬の終わりから春にかけて草花が咲きます。雨がザッと降ると、いままで茶色い枯れ草で覆われた台地が一気に緑が広がり、様々な色の花が咲くのだそうです。ちなみに以前、私がガリラヤに行った時期は夏だったので、この丘は一面枯れ草に覆われていました。でも、よく見ると小さな白い花が咲いていました。とても綺麗でした。そしてこの時、たぶん低木の枝には小鳥たちも留まってさえずっていたと思われます。そんな、のどかな場所で、主イエスは人々が見ている、身近な花や鳥を譬えに用い手話されるのです。そしてこう話されます。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。」(マタイ福音書6:22)でもなぜ、主イエスはこう話されたのでしょうか。それは主イエスの目の前にいる人々の目が輝いてはいなかったから、と考えるのが自然です。
わたしたちの目は正直です。「目は口ほどにものを言う」と言われますが、感情は目に表れます。心から楽しんだり喜んでいるときの目は輝きます。でも心配事があったり、疑いや怯え、迷い、畏れがあるなら目は曇ります。でもなぜ、人々の目は輝いていなかったのでしょうか。
なぜなら彼らは、主イエスに救いを求めていたからです。彼らは主イエスに知恵を求めていた、力を求めていた、自分の欠けていると考えていた何かを主イエスから得る為に、ここに来たからです。病を負っている者たちは病が主イエスの奇跡的な力で病が癒やされることを求めて、争いの中に置かれている者たちは、主イエスに解決するための知恵を求めてここに来ました。この世の矛盾や理不尽に打ち勝つ真理を求める者。過去に犯した重い罪を贖いきれずに、心に痛みを負っている者たちは、その罪の赦しを求めてここに来ました。貧しくて、十分に食料もなく空腹に打ちひしがれている者、愛する者や家族を失い孤独に苛まれている者もいたでしょう。みなそれぞれの心にそれぞれの理由で欠けを覚え、その欠けを埋める為に主イエスの下に来ているのです。
では、そんな、必死に救いを求めている彼らに、主イエスはなんと話されたのか。「あなたがたは幸いだ」と話すのです。きっと人々は、この言葉に反発したのでしょう。そんなことはない、と、私はこんなに欠けている、こんなに困窮している、こんなに弱っていると、心の中で主イエスに訴えるのです。しかし主イエスはそれでも「あなたがたは【すでに】幸いだ」と話し掛けます。
主イエスはこう話します。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ福音書5:3)なぜなら、あなた方が神に信頼し、神に求め続けるなら、必ずあなたがたの欠けは、いつか必ず神に満たされる。神の救いを求め信じることですでに幸いを得ている、と、そう教えるのです。しかし逆に、この世で満たされている者たちは、もう神に何も求めません。神の国を待ち望むこともしません。本当は自分にも多くの欠けがあるにも関わらず、その欠けにも気づくことなく、神との関わりの外に置かれる。それほど悲しく愚かなで辛いことはない。彼らは幸いではないのです。そう話されるのです。そして主イエスはあなた方の目がなぜ曇っているのか、その訳を話されます。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ福音書6:24)
ここで使われる「富」(mamwna◊ß mamonas)とは「財産」とか「所有物」という意味の言葉です。でも手に取れる物品だけではなく知識とか見解とかも含めて、自分の保有しているもの全てを言い表します。そして主イエスは、あなたはそれらの所有物を自分で管理し支配しているように考えるけれど、逆に所有物に支配されていると話すのです。
例えばこの世に二つとない高価な宝石を手に入れたなら、盗まれないように金庫を作り保管するのです。そして家を空ける度に泥棒が入らないか不安に思うのです。その事がいつも気になって楽しんで外に出かけることができなくなる。心を縛られるのです。知識や知恵についても同様です。若い頃はあんなに多くの本を読めた、覚える事もできた、考える事もできた、でも年齢を重ねるごとに目は衰え、能力は失われるのです。そして、以前は読む事ができたのに、と、できない事が気になって、まだ読んだ事のない本を読む楽しみから離れるのです。
ライナスの毛布という心理学用語があります。幼児は気に入った人形や玩具を手放さずに持ち歩きます。寝るときには枕元に置きます。一つのモノに執着する、つまり握りしめることで安心感を覚えるのです。私たちも同じです。所有物を握っていると安心する。手放すなら不安を覚えます。奪われそうになる時には抵抗し、奪われてしまうと絶望するのです。ですから主イエスは話されるのです。あなた方がこの世の富に固執し、それを握りしめ続けるなら、あなた方の心は平安を得ることはできない。でももし、【手放したとしても神はまた新しく与えて下さると信じるならば】平安を与えられるのです。その目には光が与えられるのです。でも、この神を信じることが、私たちにとって難しいのです。
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ福音書6:25-26)信仰によって私たちは、すでに神から与えられ、手に入れているモノを確認することができます。そして今、手にしているモノを誰かに無償で渡しても、神はまた新しく、もっと良いものを与えて下さると信じる事ができます。
続けて主イエスはこう話します。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。」(マタイ福音書6:31-32)この「異邦人」とは外国人という意味ではなく、神の民ではない者という意味です。つまりまだ主である神を知らずに、神に信頼することのできない者のことです。信仰まだ与えられていない者たちは、自分の所有物を自分の力で手に入れたと考えるので、手放す事を恐れるのです。さらには、手放したなら、新しく手に入れることなどできないと考える。そのためなら人を害しても、時には命を奪っても構わないと考えてしまうのです。そこに争いが生じます。平和は奪われるのです。ですから、主イエスは話します。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ福音書6:33-34)
神の国とは神の支配です。私たちは、この世の物質的な所有物、思想、概念、習慣に束縛され、支配されるのではなく、神に心を向けるのです。この神の支配の中に私がいることに気づいたなら。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)というヨブの言葉が胸の底に落ちます。
私たちはこの世に生まれ落ちたとき、小さな命しか所有していなかったのです。でも神は全てのモノを神は私に与えてくれました。もしかしたら「私は自分で努力して、苦労してこれらの財産や能力、地位を手に入れた」と言われるかも知れません。でも、努力し苦労する力や、それを可能にした自分を取り巻く環境も神から与えられたものなのです。思い上がるなら、真理は見えなくなるのです。
そして主イエスは続けます。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ福音書6:35)
明日の事など、なにも誰にも分からないのに、私たちは分かっているかのように振る舞います。そして勝手に恐れます。でも明日を知るのは、この世の始めから終わりまで存在する神のみなのです。その神に信頼して、委ねて私たちは生きるのです。私たちは神から、私たち一人一人に与えられた賜物を信仰によって確認し、この世にあって生かすのです。自分の利益や欲望を満たすためではありません。そのために持ちいることもできますが、それでは宝の持ち腐れです。主イエスが私たちに教える愛をこの世で実現するために用いることが、神の儀を実現することなのです。そして手にしている賜物を失ったとして、神は新しく、もっと良いものを下さいます。この命ですら、手放したとしても、また与えられるのです。そのことを主イエスは十字架の後の復活によって明らかにして下さったのです。共に喜びつつ歩みましょう。
「どこに心を向けるのか」2021/6/20
マタイによる福音書5:21-37
以前、草野球の審判を頼まれてやったことがあります。そんな大したことないだろうと、引き受けたのですけど、大間違いでした。日頃温厚な人格者という印象の方が、勝負となると目の色を変えるのです。みんな真剣で、一つ一つのプレーに一喜一憂しているのです。遊び感覚などではなく真剣にならざるを得ない雰囲気でした。その時に教えられたのですが、審判はブレたらダメです。「どっちだったかな」と中途半端な表情を見せると選手たちは混乱して試合に集中できなくなる。ゲームがおもしろくなくなります。ですから審判は、紛らわしい判断だと思っても毅然とした態度でストライク、ボール、とジャッチしなければならない、それが審判の役割なのです。でもそれで良いのです、きわどい判断だったとしても、選手たちは勝負の女神のプレゼント、くらいに受け止めてくれます。ブーイングは出ますけど、お互いに納得してゲームは進むのです。とはいえそれは、審判が中立だという信頼関係があるから成り立つのです。もし審判がどちらかのチームに有利になるような判断をするなら、途端にゲームはつまらないことになります。ゲームは両チームとって対等な条件でプレーにジャッジが下されるから、全力で戦えます。多少辛くてもしんどくても頑張ることができる。百パーセントの力も百二十パーセントも力が出るのです。勝負は正々堂々、両者が対等な立場で対決しなければ、おもしろくないのです。そして結果として勝ったら嬉しいし、負ければ悔しいけれど、次の試合に繋がる負けになるのです。
ルールは、ルールを定めた者とルールを守る者との信頼関係が成立している時には、正しく働きます。ルールという取り決めの中でお互いの安全や健康、命が守られるのです。しかし、どちらかが自分の社会的な責任を放棄して自分勝手に私欲を求めるならば、ルールはお互いにお互いを束縛し裁き合うための道具として用いられるようになります。
さて、今朝、読みました御言葉は、主イエスが山上の説教の中で話した言葉です。ガリラヤ地方だけでなく、エルサレムや周辺の地区からも、多くの人々が主イエスの下に集まり、カファルナウムの近くの小高い丘で主イエスの言葉を聴きます。そして人々はその言葉に驚きます。なぜなら主イエスは人々に、神はあなたを愛している。と伝えたからです。神はあなたを自分の息子のように愛している、あなたがたは幸いだ、と話すのです。
なぜ、この言葉が、人々にとって衝撃だったのか、というと、それまでユダヤの人々は、まったく逆の教えを祭司、律法学者、ファリサイ派の人々から教えられていたからです。あなた方が悪い者だから、神はシナイ山でモーセに律法というルールを授けた、だからあなたがたは律法を守る事によって神から良い者とみとめられ、救われる、と教えるのです。ですから人々は必死になって律法を守りました。六一三のミツワーと呼ばれるモーセ五書に記された戒律を抜き出した一覧表があります。毎日の生活の隅々の所作まで定められた六一三もの戒律を人々は守るように教えられていました。また祭司たちやファリサイ派の人々は、人々に律法を守らせることが自分たちの役割であると信じていたし、それが神に喜ばれることだと信じていました。だから、律法を守らない者を告発し、時として捕らえ裁判に掛け罰を下していたのです。重罪を犯した者は、その命を奪うこともしていました。でも彼らは自分の手が汚れることはしませんでした。町の人々を集め手に石を持たせて、罪人とされる者に目がけて石を投げさせるのです。人々は神を畏れ、祭司たちやファリサイ派の人々の監視の目を恐れ、毎日の生活を送っていたのです。
しかし、主イエスは真理を人々に伝えました。神はあなたがたを愛している、と聖書の御言葉と御自身の行いによって明らかにされたのです。では、主イエスの言葉を聴いて納得し、本当の神の御心に気づいたユダヤの人々はどのような考えを持つようになったのか、というと。彼らは、祭司たちやファリサイ派の人々を信用しなくなるのです。それだけではなく律法への信頼も失います。それまで人々は律法に記された戒律を守るようにと、祭司たちやファリサイ派の人々から強いられ続け、ずっと窮屈を感じながら、生きてきました。ですから、たがが外れてしまうのです。
人々は祭司たちやファリサイ派の人々を疑います。彼らが自分たちの地位や立場を守る為だけに、神の御心を歪めて自分たちに教えていたのではないか、自分たちの利益を守る為に律法を守らせていたのではないか、と疑念を抱き始めます。その疑いは祭司たちだけではなく会堂で行われる礼拝や、エルサレム神殿で行われる祭儀にも向けられます。さらに神は自分たちを愛してくれるのだから、律法など守らなくても良い、戒律や伝統、風習に従わなくても良い、という考えに至るのです。
では主イエスは人々に「その通り、律法など守らなくて良い」と話したのか、というとそうではないのです。このように話します。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ福音書5:17)と話します。律法は神がモーセに与えて、あなた方がそれを守るようにと定められた戒律であり、廃止されることはない。と話すのです。でもそれだけではありません。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ福音書5:20)と話されます。つまり、あなたがたは律法学者やファリサイ派の人々よりも、正しく忠実に、誠実に、彼らに勝って律法を守らなければならない、と教えるのです。
この主イエスの言葉を聴いた人々は、再度、驚くのです。せっかく律法の束縛から解かれて自由になったはずなのに、そうではなく、もっと正しく厳格に律法を守らなければならない、とはどういうことなのか、と考えるのです。では主イエスは何と話されたのか。それが今朝の聖書の箇所にある御言葉です。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ福音書5:21-22)
主イエスは十戒の六番目の戒めを引用して人々に教えます。そこには「殺してはならない。」(申命記5:17)とあります。これまでは人々は、律法に記された戒律に対して、それを破ったとしても祭司やファリサイ派の人々に見つからなければ、罪に問われることはなかったのです。でも主イエスは「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」と話されます。つまり自分の手で相手を殺すことをしなくても、その人に対して心の内で殺意を抱いたならば、その時、すでにあなたは律法を犯しているのだ、と話すのです。だから主イエスは神に礼拝を捧げる前に、兄弟と和解しなさいと教えます。それは礼拝を軽んじても良いという意味ではありません。神は尊敬されたり、拝まれたり、なだめられるよりも、人々がこの世で幸いに生きる事を望まれているのです。そして兄弟が和解し手を取り合って感謝の心をもって礼拝に集うことを望んでおられるのです。
さらに主イエスは十戒の七番目の戒めを引用します。そこには「姦淫してはならない。」(申命記5:18)とあります。二十七節「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイ福音書5:27-28)と話されます。つまり情欲をもって女性を見るならば、すでに律法に背いていると話すのです。
神は人間の心の内側まで見通されているのです。祭司やファリサイ派の人々には隠せたとしても、神に隠すことはできない。あなたがたは祭司やファリサイ派の人々を恐れて律法をまもるのではなく、神を畏れて律法を守らなければならない、と話すのです。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」(マタイ福音書5:29-30)
祭司やファリサイ派が執り行える刑罰は、最も重くても石打の刑です。つまり命が取られるのが関の山です。しかし、神はあなた方の魂を「火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ福音書5:22)ことのできる方です。ですから主イエスは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ福音書10:28)と教えるのです。
正しく忠実に律法を守る、とは、【人前で律法を守っている振りをする】ことではありません。【心から律法を守る】ことです。祭司やファリサイ派の人々の指摘を恐れて律法を守るのではなく、神を畏れて律法を守ることなのです。そもそも律法は、この世に生きる人間が、神との正しい関係を維持し続けるために、そして人間同士が争う事なく安全に、幸いに生きる為に神が与えて下さったルールです。ですから、神と人とが信頼し合っているという関係性が前提となって、この律法というルールは成立するのです。つまり「神は私を愛し、私は神に愛されている」と知って、人が自主的に自分の意志で律法を守る時に、律法は正しく律法として意味を持つのです。しかし、祭司たちやファリサイ派の人々は、この前提を黒く塗って、人々に律法を守らせようとしました。彼らは自分たちが神の役割を果たせると傲慢になり、神ではなく自分たちを信頼するように人々に求めたのです。ですから律法は人々を縛る道具として使われることとなり、人々も強制されて守るようになってしまったのです。そこで主イエスの「神はあなたを愛している」という言葉によって神とユダヤの民との関係を修復されました。信頼関係を回復させ律法は完成されたのです。
さてでは、もし私たちが律法に背いたとするなら、私たちは地獄に落とされるのでしょうか。「火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ福音書5:22)のでしょうか。確かに神はその力が持ちますし、そう為されたとしても、私たちが文句を言う筋合いではありません。でも神がそれをされるのか、というと、私は、そうはされないと考えます。神は罪がベッタリ塗られている私たちの罪を拭い取るために、自らの命をも、主イエスの十字架という形で投げ出された方です。もし私たちが律法に背き、守れなかったとしても、そのことに気づき、悔い改め神に立ち返るなら、神は受け入れて下さると信じます。主イエスはこのように話します。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ福音書9:13)。しかし、私たちはこの神の愛に甘えるのではなく、成長し、神の愛の前に信仰を成熟させるのです。このようにして私たちの魂が神を恐れ、律法の言葉を覚え、聖書の御言葉に従うなら、私たちはこの世にあって幸いに生きる事ができます。
律法というと、なにか実行不可能なことが命じられているように思ってしまうのですが、そうではなく、神との正しい関係を前提にして、その内容を理解するなら、至極真っ当で、当たり前のことが書かれているのです。「そうだよね」と納得できることです。でも私たちがその当たり前を、自分の欲望や利益を優先して歪めるのです。だから、私たちは幸いではなくなるのです。私たちは、本当の意味でこの世の束縛から解放されて自由になります。この世にあって人と人とがお互いに計り合い、比較し合い、批判し合う不自由から解放されるのです。そこに本当の平和が生まれます。神に愛に束縛されることを喜びつつ共に歩みましょう。
「あなたが希望となる」2021/6/13
マタイによる福音書5:13-16
都市部に住んでいますと夜でも明るいので、月の光を感じることが少ないのです。でも町から離れた場所に行くなら、満月の夜、目が慣れてくると十分にあたりを見回すことができます。月の光はとても明るいのです。私は以前、三宅島に居た頃、晴天で風が強くない日には、仕事が終わった帰りにそのまま車で高台に行き、夜空を眺めていました。二十年前に噴火した火口の近くなので、地面は火山岩がむき出しのまま、草も木も生えていません。なにより街灯の光が届かないので、月が出ていない日には全天が星で埋め尽くされます。そして満月の日は、眼下に広がる山肌や太平洋の海面のうねりが、白い光に照らされて浮かび上がります。モノクロで、とても綺麗な景色です。
こんなに明るく美しく輝く月ですが、月そのものが光っているわけではありません。月は太陽の光を受けて、その光を反射して美しく輝いています。だからもし、太陽の光がなければ、私たちは月を見ることができません。その存在を知ることもなかったのかも知れません。絶対零度の完全な闇に浮かぶ月を、太陽の光が輝かしているのです。光は、闇の中に置かれている物体を照らして、その形や色を浮かび上がらせます。でも私たちは光を直に見ようとはしません。そんな事をすれば目を痛めてしまうと知っているからです。私たちは光の助けによって、この世にある物体を「見る」「知る」ことができます。それが光であり、私たちにとっての、光の役割です。
今朝の御言葉の中で主イエスは、人々に「あなたがたは世の光である。」(マタイ福音書5:14)と話します。主イエスは自分の言葉を聴き、その言葉に心を動かされて、弟子としてその後に従おうと望んだ人たちに、そう呼びかけました。つまり主イエスは私たちキリスト者の、この世における役割は、この世の光となることだ、と、話されたのです。でもこの言葉を私たちは、少し重く感じるのです。がんばって世の光として信仰者らしくなろう、輝こう、などと力んでみるのです。でもそうではありません。大事なことは「私」が輝くのではなく「私」が誰かを輝かせる、ということです。信仰者は神に用いられて、光として、この世の全ての事柄の本当の姿を明らかにする役割に用いられます。その光は目に見える事柄だけでなく、それぞれ一人一人が心の奥底にある闇にも灯で照らし、打ち消します。しかし、神から与えられた光によって、隠された自分の罪の本質が明らかになることは、誰にとっても恐いことです。抵抗や反発が生じます。でも、罪を自覚しつつ、それでも罪に留まることより、罪認め、受け入れ、悔い改め、立ち返ることのほうが、良いのです。そして立ち返った者を主イエスは迎え入れて下さいます。必ず受け入れられます。
さて、今朝与えられました御言葉を共に読み進めます。この御言葉は、福音書の中でもっとも知られている山上の説教と呼ばれている箇所です。場所はカファルナウムの近くの小高い丘の上、主イエスは自分の言葉を聴くために集まって着た大勢の人々に、話し掛けます。なぜ主イエスは会堂や神殿ではなく、広い丘に多くの人を集め、話されたのか、というと、ユダヤ教の礼拝を守るカファルナウムの会堂に収まりきらないくらいの大勢が集まったから、と考えられます。でも、こんな読み方を紹介する神学者がいます。主イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えられました。それだけではなく、ありとあらゆる病気や患いをいやされました。そこで主イエスの評判がシリア中に広まり、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から(マタイ福音書4:25)大勢の群衆が来てイエスに従った、と聖書には記されています。この「ヨルダン川の向こう側」という言葉が、地名の中に加えられている意味に目を留めますと、見えてくることがあります。それは「川の向こう」という表現はあまり肯定的に使われない言葉だということです。つまりユダヤ人社会にあって排除されていた者たちや虐げられた者たちの住まう場所、と読むことができるのです。彼らは、呪われ汚れを受けているとして、エルサレムに上り神殿で礼拝することを認められていなかったし、また地域の会堂で守られている安息日の礼拝からも除外されていた者たちでした。でも主イエスは彼らを受け入れるのです。主イエスがユダヤ教の会堂ではなくガリラヤ湖に近い小高い丘で話した訳は、彼らも群れに加わることができるためだったと、そんな読み方もできるのです。
つまりこの時、主イエスの下には富んだ者も貧しい者も、年齢や性差、身分の差なく多くの人々が集まったのです。そして彼らが【集まった理由】は、主イエスが「あらゆる病をいやした」(マタイ福音書4:23)ことにあるのかもしれません。この世の業とは思えない奇跡や癒やしの噂を聞いて人々は集まったのです。でもその後に人々が主イエスに【従った理由】は、その言葉と考え、理解、姿勢に深い感銘を受けたからと考えられます。なぜなら人は、罹っていた病気や障害が癒やされるなら、すぐに苦しんでいた時の痛みや辛さなど、時が経つと共に、忘れてしまうからです。でも主イエスの下に集まった人々は、主イエスの言葉を聴きます。その言葉に引きつけられ、主イエスに従うのです。なぜでしょうか。
主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ福音書5:14)と話されます。この世で困窮しているあなた方が幸いだと、話されます。その言葉は、これまで人々が祭司たちや律法学者たちから聞いていた言葉とはまったく違う言葉だったのです。
祭司たちや律法学者たちは聖書に記されている律法を守り、毎日の生活の隅々においても事細かく定められた戒律に従うように、と人々に教えました。人間はもともと、楽園を追われたアダムの犯した罪を負い、この世に生まれでた時からすでに罪深く神に逆らう存在だと、彼らは教えるのです。そこまでは正しいのです。でも彼らは、律法を守り戒律に従う生活を守るなら、救われる、と教えるのです。エルサレム神殿で行われる祭儀を尊重し、父祖から受け継いだ、つまりアブラハムから継がれた血と風習を守るなら、その血によって救われると説くのです。でも逆に律法を守ることのできない者は神に呪われる。また病を負った者も呪われていると教えるのです。彼らは人々に「お前はダメだ」と声を掛け続けます、ユダヤの人々を、その存在の根底から全否定し、神からも全否定されていると教えます。ユダヤの人々は子どもの頃から、父親もその親も遡って、そう教えられ続けてきたのです。その心を律法という戒律で縛るのです。人々はその言葉を信じて、自分が困窮し、苦しんでいるのは、律法を守れないが自分に原因があり、故に神から嫌われている、と自分を責めていたのです。
でも、主イエスは人々に「ちがう」と話されます。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ福音書6:26)と話すのです。 神はあなたがたを愛している。そして人はその血によってではなく、神へと立ち返る信仰によって良しとされる、救われる。そしてあなた方が、いま困窮し苦しんでいるとしても、あなたが神に嫌われているからではなく、その苦しみを通して、神が自らの栄光をこの世に表すためだと、そう話すのです。そして律法は確かに神がモーセに託した言葉であると話します。でも、律法は人間が自主的に神を覚える為に与えられたのであって、人間が互いに裁き合うための道具として律法が与えられたのではない、と話されます。そもそも律法は人が神から離れず、そして人と人とが助け合うために書き残されたルールなのです。
人々は主イエスの言葉を聴いて、世界の見方を変えられるのです。人々はそれまで、自分は神に嫌われていると考えていたのです。しかし人々は、自分が愛されている、と知るのです。そして神の罰を恐れて神に従い律法を守り、神を宥めるために礼拝を捧げていた在り方が間違っていたと気づかされます。神を礼拝するということは、神に愛され、生かされていることに、つまり、これから幸いにしてもらうのではなく、すでに幸いである事に感謝する思いを神に伝えるためであると、知るのです。神に愛されているなら、この世に何の恐れがあるのかと知るのです。人々はこの世から自由になり、そして主イエスに従うのです。
この回心を経験した人々に対して、主イエスは、「あなたがたは地の塩です、世の光です」と話し掛けます。「これから地の塩になる、世の光になる」のではありません。神を知り、神の愛を知り、この世の束縛から自由にされたあなたがたは、もう「地の塩だ、世の光だ」と話されたのです。
光について、光は光で照らされる対象を輝かせる役割を担うと、先ほど話しました。塩も同じです。私たちは塩そのものを食べません。そんなことをすれば病気になります。でも塩がなければどんな料理であっても味気ないのです。どんなに良い材料を煮込んで、良い味の出汁がとれても、ひとつまみの塩が加えられなければ、まったく美味しくはありません。でも塩を入れすぎると、これもまた美味しくありません。良い塩梅で加えられることで食材を生かすことが、塩のこの世での役割なのです。主イエスは人々に、真理、つまり神を知り自分が自由であることを知ったあなたがたは、この世にあって、塩となり光としての役割を担うことになる「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ福音書5:16)と話されるのです。
「立派」というと敷居が高いかも知れません。この「立派」という言葉はの意味は「美しい・見事」ですが、「思慮分別のある」「秩序がある」という意味もあります。つまり、あなた方の信仰は、あなたのトナリビトが「神はあなたを愛している、あなたはこの世にあって自由だ」と知るための手引きになり、さらにはトナリビトのこの世の命、人生を豊かに味付ける役割を担う、と主イエスは教えられるのです。
私たちはこの世にあって自由です。この自由とは、無秩序ということではなく、神の愛以外には束縛されない、という自由です。この神の愛は生半可な愛ではありません。自らを十字架に掛けても私たちを生かそうとされた、その愛です。信仰は自分自身を高めるための教養として与えられるものではありません。まして、神を知る知識をえられるものでもありません。逆に信仰によって私たちは、神を知ることができない、という知恵は得ることはできます。主イエスに従う私たちは、この世にあって良いこと、美しいと思えることを行うのです。トナリビトを生かし、支え助けます。この世の塩として光として、神に用いられる命を共に歩みましょう。
「自分の口で信仰を告白する」2021/6/6
マタイによる福音書3:1-6
先日、東京オリンピック関連のニュースを読んでいました。その中でIOC委員の方が「アルマゲドン(世界の滅亡)にでも見舞われない限り、東京五輪は計画通りに開催される」とした発言が取り上げられていました。私は、オリンピック開催の是否云々にではなく、このアルマゲドンという言葉に目を留められてしまいました「アルマゲドン」とはヨハネ黙示録に記された、この世の善と悪が最終的に戦う場所の地名です。なので俗語として、人類が死に絶えてしまうような戦争や大災害、いわゆる「世界の終わり」を言い表す言葉として用いられます。つまり彼は日本に状況を「大したことない」と話したわけです。当然、この言葉はコロナ禍で混乱し困窮している私たち日本人の神経を逆なでする発言となったわけです。でも、擁護するつもりでもないのですが「世界の終わり」について日本人が考えるよりも、キリスト教信仰が根底にある西欧の社会では、そのニュアンスが少し穏やかな傾向があると思います。例えば旧約の預言書を読んでいますと、神が怒っている、という文脈の中でしばしば「終わりの日」(tyîrSjAa)という表現が使われます。また新約の中にも「世の終わり」とか「最後の時」という表現が使われます。しかし聖書をきちんと読むなら、そうではないのです。聖書に記されている世の終わりには必ず新しい時の始まりが続きます。つまり「終わりは始まり」なのです。
例えば申命記にはこう記されています。「あなたたちはそこで、人間の手の業である、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない木や石の神々に仕えるであろう。しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。これらすべてのことがあなたに臨む終わりの日、苦しみの時に、あなたはあなたの神、主のもとに立ち帰り、その声に聞き従う」(申命記4:28-30)。そして、ヨハネ黙示録のアルマゲドンで展開される最終戦争(ヨハネ黙示録16:16)の決着は、善が悪を滅ぼし尽くした後に「新しい天と地」(ヨハネ黙示録21:1)が始まります。そして主イエスは十字架上の死の後に復活します。「死」という終わりすらも「新しい命」の始まりとなるのです。
つまり主イエスを旧約聖書に記されたメシアとして受け入れ、その復活を信じる者たちにとって、終わりは始まりとして捉えられるのです。一方、主の復活を受け入れられない者たちにとって、終わりは剥奪と裁きとして捉えられるのです。
さて、この事を踏まえて、今朝の御言葉に描かれている、洗礼者ヨハネの言葉について共に読んで行きます。まずこの御言葉の場面は、主イエスが伝道を始める少し前の出来事です。紀元二十六年頃だと考えられています。そしてこの洗礼者ヨハネの姿を聖書は「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」(マタイ福音書3:4)と記します。この様相は野人のようであり、異様にも思われますが、これは当時の預言者と呼ばれる者たちの一般的な身なりと暮らしです。彼ら預言者と呼ばれる者たちは、人々の住む集落から離れた荒れ野で、一人で、もしくは何人かで修道生活をしていました。そして特に洗礼者ヨハネは当時、注目された存在でした。人々は彼を聖書に記されている預言者エリヤの再来と噂されていました。民衆だけでなく、エルサレム神殿に仕える祭司や律法の教師であるファリサイ派の者たち、王族も、洗礼者ヨハネを神からの預言者と認め、敬意を払っていたのです。
そして彼が宣教を始めた場所を聖書は「荒れ野で」(マタイ福音書3:1)と記します。この荒れ野とは、死海周囲の砂漠地帯を指します。標高八百メートルの高台にあるエルサレムは、雨期には雨も降る地中海性気候で、人も住みやすい地域なのですが、そこから千二百メートル下った死海周辺は乾燥していて岩がむき出しになった砂漠です。彼はこの人の住まない、人々の集落から離れた死海周辺の地域と、死海に流れ込むヨルダン川の河口付近に町々を拠点に活動していたのだろう、と考えられています。
さて、今朝読まれました御言葉の最初にこうあります。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」(マタイ福音書3:1-2)この「天の国は近づいた」は「終わりの時」を表す言葉です。先ほど読みました申命記の言葉「これらすべてのことがあなたに臨む終わりの日、苦しみの時」(申命記4:29)と話すモーセの言葉が、これから実現すると、彼は話すのです。神が直接この世を治められ、悪が滅び、善が完全に勝利する。その時、全ての人は神の前に立たされ、隠されている、善と悪が明らかにされるのです。
この洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、人々は歓喜したのか、というと、そうではないのです。人々は驚愕するのです。
なぜなら、誰しもが自分自身を正しい者とは考えていなかったからです。誰からも理想的な素晴らしい信仰者と評されていた者でも、心の奥底には闇があるのです。そこを神は光で照られる時が来るのです。ですから人々は、この世の終わりが来る前に、洗礼者ヨハネに罪を清めてもらおう、いままでこの世で犯した罪、そして自覚していながら、この世の利益や立場を優先し、目を逸らしていた罪を、清めてもらおうと、彼の下に集まって来るのです。人々は「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て」(マタイ福音書3:5)とあります。そのようにして、多くの人々が洗礼者ヨハネと彼の弟子たちの所に集まります。そして洗礼者ヨハネは集まってきた人々に洗礼を授けます。人々は「罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」(マタイ福音書3:6)ここで大事なのは「告白し」という言葉です。人々はまず自らの告白で、いままで犯してきた罪を洗礼者ヨハネや、彼の弟子に告白するのです。そのあとヨルダン川に全身を浸して洗い清められる、洗礼を受けるのです。
この水に全身を浸されるという洗礼について、洗礼者ヨハネによって最初に始められた儀式ではありません。古くユダヤ教では臨在の幕屋に入る前に祭司は全身を水で洗ってから儀式を行っていました。例えばレビ記にはこうあります。「聖域で身を洗い、自分の衣服に着替え、外に出て自分の焼き尽くす献げ物と民の焼き尽くす献げ物をささげ、自分と民のために贖いの儀式を行う。」(レビ記16:24)神の前に立つ前に、水で身を清めたいと求める在り方は、過去の於いても現代に於いても、普遍的に人間の根源的な欲求だと思います。そして人々は、雨水を溜めた水ではなく、より清い清流を用いて洗礼者ヨハネから洗礼を授けるために、エルサレムからわざわざ一千二百メートルの標高差を下って、ヨルダン川の辺までやって来た訳です。
そして洗礼者ヨハネは、このように話します。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ福音書3:11-12)これから来られる方は水ではなく、聖霊と火で洗礼を授ける。つまりあなたたちはそこで焼かれ滅ぼされるだろうと、話すのです。
洗礼者ヨハネが神から預かった言葉は「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。彼は「天の国」を「世の終わり」だと受け止めるのです。そして自分の後に来られる方、つまり救い主、メシアは私よりももっと強い力で、しかも完全にこの世の悪を正す。聖霊と火でこの世を焼き尽くし、正義を行われると、話すのです。
食物を腐らせる最近は水で洗っても落ちません。アルコールで拭くなんてできない時代です。ではどうするか。燃やして灰にするしかないのです。この世を全て聖霊と火で焼き尽くし、清める。洗礼者ヨハネは厳しい言葉で、そう話すのです。
さて、では、洗礼者ヨハネが話すメシア、つまり当の主イエスは、どんな伝道を展開されたのでしょうか。主イエスは、人々と同じ列に並び洗礼を受けた後に、洗礼者ヨハネに認められます。彼は主イエスの上に聖霊が鳩のように降り立つのを見ます。また「世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ福音書1:29)と話すのです。そして主イエスは四十日四十夜、荒れ野に退いた後、伝道を始められます。マタイ四章にこうあります。「イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って宣べ伝え始められた。」(マタイ福音書4:17)主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を授けられた、いわば弟子のよう立場です。弟子が教師の言葉と教えを踏襲するのは当然だろうとも解釈もできるのです。でも、そうではないのです。同じ言葉でも二人が見えている世界はまったく違うのです。洗礼者ヨハネは到来する天の国について、世の終わりを見ているのです。ですから洗礼者ヨハネは人々を裁きの場に立たせて、叱責し、反省を促したのです。
一方、主イエスは新しい世界の始まりを見ている、のです。ですから主イエスは人々に福音(良い知らせ)を伝えます。集まってくる人々に「あなたがたは幸いです」と話すのです。あなたがたはこれから救われるのではなく、いま、すでに救われていると話すことができたのです。
この主イエスの言葉と伝道に、洗礼者ヨハネは途惑うのです。彼はこの後、ヘロデアグリッパに投獄されるのですけど、その牢の中から自分の弟子たちを主イエスの下に遣わし尋ねさせます。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」(ルカ福音書7:20)「本当にあなたで良いのか」と洗礼者ヨハネは主イエスに問います。その問いかけに主イエスは預言者イザヤの言葉(イザヤ35:5)を引いて、自分がメシアである事を明らかにし、安心しなさいと伝えるのです。
では、洗礼者ヨハネの伝道は無意味だったのか、というと、そうではありません。聖書は彼を「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(マタイ福音書3:3)と話す預言者イザヤの言葉で紹介します。つまり彼は主イエスの宣教の先駆者であり、礎を築くものとして神がこの世に遣わされた預言者です。
人々は洗礼者ヨハネの激しい叱責の言葉に打ち砕かれて、この世の終わりについて深く思わされるのです。いま、この瞬間に自分の命が終わるとするならば、なにが自分にとって最も大切であろうかと考えさせられるのです。そして、神の前に立たされ全てが明らかになるなら、と、いままで自らが犯してきた罪と対面させられることとなるのです。そして拭いきれない自らの罪の自覚に導かれるのです。その後に主イエスは、彼らを抜本的に赦します。罪を負っているあなた方であっても、私はあなた方を愛するし、神もあなたがたを愛している。神は罰して滅ぼす方ではなく、愛して生かす方であると、彼らに伝えるのです。しかも、自ら十字架に架かることによって、その神の愛の深さと切実さを明らかにされるのです。
「終わり」の受け止め方の違いは、私たちの物事の受け止め方にも反映します。一度失敗してもまた始めれば良いと楽観的になるか、それとも失敗したらもう終わり、先がない、と悲観的になるか。でも神は主イエスを復活させました。私たちはどこからでも、どんな困窮に陥ってもやり直せる、終わりは始まりなのだと、教えて下さっているのです。主イエスが命懸けで教えて下さったのですから、私たちも命懸けで応じましょう。死の後にも、まだ先があるのですから。
礼拝説教原稿
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