礼拝説教原稿
2021年5月
「わたしのくびき」2021/5/30
マタイによる福音書11:25-30
私は特別な礼拝の際、黒いガウンを着て肩にはストールを掛けます。それは日常的に教会の礼拝に参加されていない方が多く出席される礼拝とか、教会の外で行う冠婚葬祭の時などです。なにもガウンを着て、見た目で牧師である事を強調しなくてもよいのではないか、それは権威主義的な発想なのでは、と指摘されることもあります。でも公の場でガウンを着るのは、牧師の職制を強調するとか、威厳を示す為ではありません。その方が、仕事がスムーズに進むからです。例えば斎場の職員の方は、この集まりの中で誰がどの役割を担っているのか、が明確になっているほうが式の進行を進め易くなります。逆に教会の通常の礼拝でガウンを着ない訳は、教会では誰もが牧師という職制と働きについて理解しているし、出席者はキリスト教信仰を魂の拠り所としているので、牧師の外観など誰も気にとめることなく、礼拝は自然と神の方に向かうからです。そもそも伝統的になぜ牧師は黒いガウンを着のか、というと、それは牧師という個人が「自分」という存在を隠すためです。この世にあって、牧師の働きは自分の思いや言葉を実現することではなく、神の招きを受けて神に用いられることです。それは神の道具になることです。道具は自分の意志や思いで動きません。もし勝手に動くなら危険です。道具は道具を使う方の意志や思いを実現するために用いられるものなのです。
なぜ、こんなことを話したのかというと、私たちはそれぞれ、この世にあってそれぞれの役割にふさわしく行動している、ことを覚えるためです。「演じている」と表現しても良いと思います。例えば、会社に通勤する方は背広を着て電車に乗ります。作業現場に入るときは作業着に着替えて安全靴を履いてヘルメットを被ります。医者や看護師は白衣を着ます。制服を着ると気分が変わります。職業という場面だけではなく、私たちは家庭内でも良き夫、良き母、良い子どもという役割を演じようとします。でも、それは不愉快なことではありません。多くの人が社会生活の中で、学歴や役職、地位を求めるように、私たちはこの世に於いて努力して手に入れた、もしくは割り当てられている役割を演じることで、その重みに自己の存在意義を見いだすこと、私たちは周囲から評価され認められることで安心を得ることができるからです。でも時々、演じることに疲れを覚える事があります。周囲からの期待に応えられないとき、役に縛られて身動きが取れなくなったとき。演じている自分と本当の自分の境界線が曖昧なとき、私たちは混乱し疲れるのです。その結果、精神を病む方もおられます。
さて、今朝与えられました御言葉のなかに「軛」という言葉が記されています。主イエスは人間がこの世にあって、今話したように、それぞれが属している社会で担っている(演じている)役割を「軛」に例えるのです。そして、あなたの負っている軛を軽くしようと話されるのです。では、この軛とはどのような道具なのでしょうか。
この軛とは牛馬の肩にあてて車をひかせる横木のことです。最近の日本では農耕に牛馬が使われることがないので、この軛が実際に使われている様子を見る機会がないのですが、以前、私の旅をしたインドでは、軛を掛けられ、沢山の荷物を載せた荷車を引いている二頭の牛の姿を日常的に見ることができました。ですから私には、この軛について、痛々しいという印象しかありません。軛は巨大な牛の、肩骨の突起の前に固定されます。その硬い横木が当てられているあたりの皮膚は擦れて血がにじみ、肉はそげて、殆ど骨が見える程にへこみ、ハエが集っていました。それでも牛は鞭を手にした子どもを乗せて、汗を流しながら前に向かって歩いていました。
私たちはこの世にあってそれぞれに軛を掛けられ、重い荷物をと負って生きている、と主イエスは話されます。でも、そもそも私たちが神を知るならば、この世から評価され認められなくても、神が認めてくれる、愛してくれているのだから、安心できている筈なのです。でも私たちは罪を負っているが故に神を信頼できない安心できず、この世の何かに安心を求めるのです。主イエスはその事を指摘されるのです。ではどうすれば私たちはこの世の軛から解放されるのでしょうか。共に読みすめます。
今朝、与えられた聖書箇所の少し前、二十節のこうあります。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。」(マタイ福音書11:20)主イエスはコラジン、ベトサイダ、そしてカファルナウムの町々を叱られたと記されています。この三つの町は主イエスが伝道を始められた場所であり、最も親しい地域、その後のガリラヤ伝道の拠点とされた町々です。例えばこの桑名教会にとって桑名市のような町です。でも主イエスはここで、激しく叱られるのです。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」(マタイ福音書11:21-24)
ティルスやシドン、そしてソドムという町の名前が出てきます。ティルスやシドンは旧約聖書の預言書の中に、ソドムは創世記の中に記されている町の名です。これらの町々は主なる神ではなく異教の神を礼拝し、堕落したが故に神に滅ぼされました。でももし、これらの町々の人々が主イエスの姿を見て、その言葉を聞いていたなら、悔い改めただろう、神に滅ぼされることもなかっただろうと話すのです。しかしコラジン、ベトサイダ、そしてカファルナウムの人々は主イエスの多くの奇跡を見ながらも、悔い改めない。ティルスやシドン、そしてソドムよりもひどい、と嘆き叱るのです。
「悔い改める」とは、神に立ち返るという意味です。つまり主イエスはこれらの町の人々が、主イエスの言葉を聞き行いを見て、しかも奇蹟を見ながらも神に立ち返らなかった、と叱ったのです。でも、なぜ彼らは、神に立ち返ることができなかったのでしょうか。でも、そこには理由があります。それは、この少し前に、洗礼者ヨハネがガリラヤ地域の領主であったヘロデ・アグリッパ王に捕らえられ、投獄された出来事に起因します。
イスラエルの人々にとって洗礼者ヨハネは信仰の拠り所であり希望だったのです。自分たちを正しく神の救いへと導いてくれる預言者として人々は彼を信頼し、慕っていました。でも捕らえられてしまうのです。そして近く処刑されてしまうと誰もが覚悟しているのです。そこでこの時から、人々は洗礼者ヨハネの後継者として、主イエスを見るようになります。すると、人々の主イエスを見る目が、そして聞く耳が変わってくるのです。それまで人々は素直に、主イエスの話す言葉に感動し、その思想に共鳴し、実践される愛を自分たちも行おうと励んでいたのです。しかし、徐々に人々の主イエスに対する期待が大きくなるに従って、人々は、主イエスに預言者として、祭司として、自分たちを導く王としての役割を求めるようになるのです。そして彼らは主イエスの話す救いの本質を見失う事になるのです。どういうことでしょうか。主イエスの奇蹟はナザレ人イエスの為した奇蹟であって、そこに神の業と意味を見ることができなくなってしまう。主イエスの言葉を聞いても、それは知恵があり賢いナザレ人イエスの言葉になってしまうのです。そこで主イエスは「違う」と彼らを叱るのです。「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」(マタイ福音書11:25-26)
主イエスはこの世の権威となるために、神がこの世に与えた方ではありません。主イエスはこの世の者たちに知恵や賢さを授けるために、神がこの世に与えた方ではありません。主イエスはこの世の全ての者を、それぞれが雁字搦めに縛られている、この世の束縛から引き剥がして、もう一度神に立ち返るために、遣わされた方なのです。ですから主イエスはガリラヤの人々に、主イエスにこの世の役割を求めるとか、自分たちのこの世の役割に有利で都合の良い神の偶像を求めるのではなく、つまり浅薄な知恵で神を測るのではなく、自分の魂を神の前に差し出し、なにも着飾ることなく心を裸にして神の前に立ちなさい、この世から自由になりなさい、と促すのです。ヨブ記にこうあります。「主を畏れ敬うこと、それが知恵 悪を遠ざけること、それが分別。」(ヨブ28:28)本来、神が人間に与えられた本当の知恵とは、神への畏れを知ることなのです。神を畏れるなら私たちは自分自身を俯瞰から見ることができる。自分を雁字搦めに縛っているこの世の檻を見ることができるのです。ですから主イエスは彼らに話します。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ福音書11:27-30)
私たちは気づかないうちに、沢山の軛を負って歩いてしまうのです。この世にあって自分に与えられた役割を演じ、しかも巧く演じようとするのです。そしていつのまにか、演じている自分こそが本当の自分のように思えてしまうのです。しかも真面目で他者に対して配慮ができ、賢い方であるなら尚更、その傾向が強くなります。でも、そんな自分の在り方は虚構にすぎません。そして雁字搦めになり本来の自分を見失うのです。そのような私たちに主イエスは、私の軛を負いなさいと話されます。私たちは二つの軛を同時に負うことはできません。この世の軛を下ろさなければ、主イエスの軛は負えません。でもこの世の軛を下ろして、主イエスの軛を負ったなら、あなたは本当の安らぎが与えられると話すのです。
軛を負うとは、主人に従う、ということです。この世を主人として従うのではなく主イエスを主人として従うなら、私たちはこの世の軛から自由にされ、神の前にあって、一つに自由な自分を取り戻すことができるのです。そして礼拝は、私たちがこの世の軛を下ろしても良い場所です。この世の軛を下ろすために備えられた場所なのです。この礼拝に於いて、私たちは共に悔い改め、神に立ち返りましょう。
「全世界に生きる人々に」2021/5/23
マタイによる福音書12:14-21
今朝、私たちはこの礼拝を聖霊降臨日の礼拝として守っています。この聖霊降臨日とは私たちのこの教会が始まった出来事を覚える記念日です。今の時代、世界のどの国、どこの地域に行っても教会を見つけることができます。ヨーロッパ圏であれば当たり前ですが、アジア圏でも立派な会堂を見かけます。でもその建物、立派な礼拝堂を教会と呼ぶのか、というとそうではありません。日曜日の朝に、建物の集会室や民家の一室、公園の一画にタープの屋根を広げて、その下で守られている礼拝も教会と呼ぶのです。つまり教会(ejkklhsi÷a ekklesia)は、目に見える建物を言い表す訳ではなく「共同体・民の集会」を言い表す言葉だからです。
私たちは神を礼拝する為に集まります。そして途方もなく大きな存在、この世の全てを把握し統治する神の前に額ずきます。そうするなら、私たちの誰もがそれぞれの身分の上下も身分も立場も、所属している国も民族も関係なく一つの小さな命として自らを確認することとなります。加えて生かされている恵みを感じます。つまり集まった者たち一人一人が、お互いにお互いを同等なものとして受け入れ合うこととなるのです。私たちは隣に座る方と心を一つにして一つの祈りを捧げるのです。その時、交わりの真ん中に主イエスが来て下さいます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ福音書18:20)そこに教会は姿を現すのです。教会とは神によって集められた人と人との目に見えない交わり、のことなのです。
たとえば、人と人との交わりは時間を掛けて育まれるものです。親しくしたり、時々喧嘩をしたり、そうやって関わり合いながら、徐々にお互いを受け入れながら深まるのです。その関係性の中で互いに成長を与えられ人間として成熟していきます。教会も同じように、この世にあって生きています。ゆっくりと時間をかけて育まれるのです。ですから教会は「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように」(イザヤ53:2)けっして無理することなく二千年という時間を掛けて、ゆっくり全世界に広がってきました。そして、これからも、水面に広がる波紋のように広がっていきます。
そして教会はこの世に主イエスの言葉、福音を伝えます。その言葉はシンプルです。「神がこの世を愛されている、誰一人、その愛から取り除かれることはない」この言葉を伝えて行くのです。そしてこの福音は「私は神に愛されていない。神の力など借りなくても自分の力で全てを支配できる」と頑なになった者たちの心を砕くのです。「神はこの世を愛されている」という福音(良い知らせ)を主イエスはこの世に伝えました。そして主イエスに従った弟子たちも、この言葉を全世界に伝え、私たちも、この言葉を受けて、それを全世界に伝えるのです。そして、この福音が今朝、与えられました御言葉に記されている「正義」という言葉の意味です。
正義というと私たちは、勧善懲悪、水戸黄門の印籠の様なものを思い浮かべるのです。でも、この世の人々の主張する正義は、自分に都合の良い言い訳、にすり替えられることが殆どです。それは間違った正義の理解です。自分や自分たちの利益を守る為に、もしくは利益を生みだすためにこれが正しいと主張する事。そのために暴力的に誰かを抑圧すること、その口を封じること、関係を断つこと、それは本当の正義ではないからです。本当の正義は、自分に敵対する者のために自らの命を投げ出す愛を行うこと、です。そして主イエスはこの正義の在り方を明らかにされました。その「正義」の在り方を、今朝、与えられました御言葉は私たちに語り掛けています。共に聞きましょう。
さて、今朝、与えられました御言葉の最初に「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」(マタイ福音書12:14)とあります。でも、どうしてファリサイ派の人々は主イエスを殺してしまおうと考えたのか、それは彼らの信じる正義を主イエスが軽んじたと、彼らが受け止めたからです。ことの発端は些細な出来事から始まります。
この時、主イエスと弟子たちはガリラヤ地方の村や町をめぐり、福音を伝え教え病を負った者たちを癒やしていました。そして安息日、主イエスと弟子たちは礼拝を守るためにその町の会堂に出かけ、その途中に麦畑を通られます。弟子たちは空腹を覚え、道の端に実っている麦畑の穂を摘んで手で擦って食べるのです。その様子を見ていたファリサイ派の人々は主イエスを非難します。「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」(マタイ福音書12:2)では彼らは弟子たちの行儀が悪さを責めたのか、というとそうではありません。彼らは弟子たちが安息日の規定を破ったことを責めたのです。このファリサイ派の人々とは、当時のユダヤ人社会にあって律法の教師としての役割を担っていた者たちのことです。彼らはユダヤの人々に律法と戒律を教え、それを守らせるために指導をしていました。
もちろん相手に求めるだけではなく、自分たちも厳しい戒律を守ること強いて生活していました。そのユダヤの律法には安息日に関する規定が細かく定められていました。この安息日とは、神がこの世を創造されたとき、七日目に休息を取られた(創世記2:2)ことに由来します。
安息日は神と共に過ごすために日常から取り分けられた日(聖別された日)であり、いかなる労働もしてはいけない(金銭の取引も)と定められていました。ただし家から二千歩は歩く事は許されていたので、それぞれの家から会堂に行き、この日に礼拝を捧げたのです。かまどに火を灯すことも労働とされ禁じられていたので、安息日に食べるパンは前日に焼いておくことになります。もちろん、麦を刈って収穫することも労働として禁じられていたので、弟子たちが歩きながら麦の穂を摘むことは安息日の規定を破ったことになるのです。
話を戻します。では主イエスは弟子たちに対するファリサイ派の人々の批判に従ったのか、というと、そうではありませんでした。主イエスは「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない」(マタイ福音書12:5)「人の子は安息日の主なのである。」(マタイ福音書12:8)と答えるのです。つまり主イエスは御自分が神殿であり、弟子たちは神殿に仕える者なのだから、安息日に掟を破っても罪にはならない、と話されるのです。この主イエスの言葉にファリサイ派の人々は激怒します。なぜか、それは主イエスが自分自身の事を神殿、つまり神と同一の存在、簡潔に言えば「自分が神である」と話したことになるからです。(主イエスは神の御子なので、正しい答えなのですが…)この答は、彼らが最も尊重している十戒の第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20:3)に背きます。最も強く神を冒涜する言葉として、彼らはこの言葉を聞くのです。そこで、彼らは人々の前で、公の場所で主イエスを糾弾するために、主イエスが礼拝堂の中に入るまで、タイミングをうかがいます。安息日には町の全ての成人男子が礼拝堂に集まって礼拝を捧げます。そこで主イエスの犯した罪を明らかにして断罪しようと企むのです。
そして主イエスと弟子たちは会堂に着きます。そこに集まっていた人々の中に、片手の萎えた人がいました。普段、ファリサイ派の人々は、この男のことなど、まったく気に掛けてなどいなかったのです。逆に、神に嫌われて罰を受けた罪深い者、として軽視していたことでしょう。でもファリサイ派の者たちは主イエスを陥れるために、この男を利用するのです。
ファリサイ派の者たちは、この片手の萎えた人を気に掛け、同情し、思いやるような態度で、主イエスに尋ねるのです。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」(マタイ福音書12:10)安息日であるけれど、いま彼を癒やして下さい。と願い出るのです。彼らは主イエスに狡猾な罠を仕掛けるのです。もし彼らの申し出を断って癒やさなければ、会堂に集まった多くの者たちは、主イエスには憐れみがない、と失望するでしょう。では、主イエスがこの男を癒やすなら、ファリサイ派の者たちに主イエスを糾弾する口実を与えてしまうのです。
イエスは当然彼らの心を知っています。そして彼らに尋ねます。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」(マタイ福音書12:11-12)主イエスはそう言って、この男の手を癒やされるのです。
会堂に集まっていた多くの人々は、主イエスの言葉と行いに心を打たれます。なぜなら人々は神の前に正しい事はなにか、を主イエスの行いの内に見いだしたからです。しかしファリサイ派の人々は「その場から出ていき、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」(マタイ福音書12:14)と聖書には記されています。ファリサイ派の者たちの心は、戒律を守らなければならない、という彼らの正義に縛られ、完全に固まっているのです。だから主イエスの言葉、正しさ、本当の神の正義を受け入れることができないのです。
では主イエスは逆に、ファリサイ派の人々がするように、会堂に集まっている多くの民衆に働きかけて、自分を罠に掛けようとしたファリサイ派の人々を糾弾したのか、暴力を以て彼らを押さえつけたのか、私の正義の方が正しい、と彼らに強いて認めさせたのか、というと、そうではなく、主イエスは静かにそこを立ち去られるのです。その主イエスと弟子たちの後に、大勢の群衆が従います。主イエスは皆の病気をいやして、加えて、御自分のことを言いふらさないようにと戒められるのです。
マタイによる福音書の書き手は、このような主イエスの在り方は、すでに預言者イザヤの言葉によって明らかになっていたと記します。それはイザヤ書四十二章の言葉です。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」(マタイ福音書12:18-21)
この正義(kri÷siß krisis)とは「判断する、分ける」という意味の言葉です。主イエスはこの世に在って、神の前になにが正しく、なにが誤りであるかを右と左に分けるのです。その規準とはなにか。それは主イエスの行いによって明らかにされます。
主イエスは、ここで片手の萎えた人を癒やすならば、ファリサイ派の人々から命を奪われることになると知っていました。しかし、主イエスは自らの命を保つ事よりも、手の萎えた男と神との関係が回復することを優先されたのです。主イエスは彼を愛し、彼が神の愛に立ち戻ることを規準とされるのです。つまり正義とは、自らの命を投げ出す愛を行うことだと、明らかにされたのです。
そして正義は「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタイ福音書12:20)つまり柔らかく慎重に進められるのです。お互いに自分たちの正義を振りかざしながら暴力に訴える在り方は、どんなに正しい事のように見えたとしても、それは正義ではありません。加えてもう一つ「異邦人は彼の名に望みをかける。」(マタイ福音書12:21)とあります。イザヤはこの主イエスの言葉と行い、在り方が全世界に伝えられて、全ての者がこの姿に望みを掛ける、つまり希望とする、と話すのです。最後に「正義を勝利に導くまで」(マタイ福音書12:20)とあります。この主イエスが明らかにした愛を規準に、全てが裁かれ正義が行われる日が必ず実現します。その時を待ち望みつつ、私たちは硬く信仰に立ち、共に祈りつつ歩みましょう。
「それでも福音を伝えなさい」2021/5/16
ルカ福音書24:44-53
長い時間掛けて考えていた問題が解けたとき、とてもスッキリするのです。例えば一つの問題を解くために様々な資料を探し、読み、要点をノートにまとめるのですが、それでも、すぐには答が見えてこないのです。でも、うーんと悩んだあげくに、煮詰まって机から立ち上がって洗濯物をベランダで干したりしているときに、書き留めておいた資料の一つ一つ言葉が、まるで点と点が線になるように繋がっていき、求めていた答が見えてくる、ということがあります。逆に机に座っている時よりも作業をしたり、散歩したり身体を動かしているときの方が、ひらめきは与えられるような気がします。「ああ、そうだった」とスッキリするのです。
今朝、与えられました、御言葉の中で描かれている弟子たちも、たぶんこれと同じ感覚を与えられたのではないか、と思います。でも彼らに気づき(ひらめき)を与えたのは、主イエスです。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」(ルカ福音書24:45)と聖書には記されています。主イエスは弟子たちの心を開いて、聖書に書かれている言葉の背後にある、それまで彼らには悟ることができなかった意味を明らかにされるのです。そして、聖書に書かれているメシア待望、特に預言者の言葉が主イエスの存在を言い表していたと気づいたとき(聖霊に拠って気づかされた)、弟子たちは今まで主イエスの話していた言葉、行動、存在、人との関わり、その一つ一つの出来事について「そういう意味だったのか」と腑に落ちる、のです。今朝、私たちは、弟子たちがここで悟ったことを、共に御言葉から聞いていきましょう。
さて、御言葉の場面は、主イエスが十字架に架かり三日目に復活された日の夜の出来事です。ルカによる福音書には、主イエスの復活にまつわる物語として、復活された主イエスがエマオに向かう二人の弟子に現れた出来事を記します。主イエスが復活された日曜日、二人の弟子はエルサレムから自分たちの住む町に帰ります。その帰り道で、主イエスは彼らの下に現れます。しかし彼らにはそれが主イエスだとは気づけません。道すがら弟子たちはこの人に、過越の祭の最中にエルサレムで起こった出来事について話します。主イエスがどんな方でなにをされた方であったのか、事細かく教えるのです。そして夕方になり彼らは目指す村に着きます。主イエスはまだ先に行こうとしますが、彼らは引き留め家に招き、食事を共にします。その食事の席で、主イエスがパンを裂いて、この二人に渡したとき、二人はそれが主イエスだと気づくのです。すると、その姿が見えなくなります。二人はすぐに家を出てエルサレムに引き返します。エルサレムとエマオは十一キロの距離ですから、ゆっくり歩けば3時間、急いで行けば2時間ほどかかります。ですから彼らはエルサレムに夜に着いて、弟子たちに自分たちが主イエスに会ったことをつたえるのです。そして「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち『あなた方に平和があるように』」(ルカ福音書24:36)と話されるのです。
主イエスが復活された、その日の夜に、主イエスはついに弟子たち集まっていたエルサレムの建物の二階に現れます。弟子たちは、恐れおののき、亡霊を見ていると考えます。でも主イエスは彼らに自らに手と足を見せ、身体を触らせるのです。そしてその場にあった一切れの焼いてあった魚を食べられるのです。そして、話されます。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』」(ルカ福音書24:44)
この主イエスの言葉は、とても大事な言葉です。
弟子たちは復活して目の前に現れた主イエスを見て、その身体に触れます。そして、主イエスが生き返った、甦ったと自分の目で見て、手で触れて信じるのです。でもその理解は、主イエスが素晴らしい力を持つ【預言者】で奇蹟を行う能力があり、ついには自分自身を甦らせた、ということです。彼らはこの時、主イエスを「力ある預言者」(ルカ福音書24:19)としてしか見ていないのです。例えば預言者エリヤはシドンのサレプタの地で死んでしまった寡婦の一人息子を生き返らせます(列王記上17:23)。また預言者エリシャはシュネムの地で子どもを生き返らせた(列王記下4:35)と聖書には記されています。同じように主イエスは御自分を生き返らせたと弟子たちは考えるのです。しかし、そうではないと主イエスは話されます。自分の力で自分を復活させたのではなく、復活は聖書に記されている神の約束の成就であり実現だ、と話されるのです。このとき弟子たちはこの時、目の前に立っている主イエスにだけ心を奪われているのです。十字架に架かって、墓に収めた主イエスが目の前に現れた訳だから、そうなるでしょう。でも主イエスは、復活は自分だけの出来事ではない、と話されるのです。
神はアダムが罪を犯しエデンから追われた時から人を救いだす計画を始められるのです。神はアブラハムに続く者たちを導き、モーセに十戒と律法を与え、預言者に言葉を預けて散らされた羊を集める様に、御自分の下に人々を導かれます。そして主イエスの復活される出来事も、これからも続く計画の途中、今、目に見える一場面だと話されるのです。そして主イエスはこの事に弟子たちが気づく(ひらめく)ために「彼らの心の目を開」(ルカ福音書24:45)かれます。弟子たちは聖書に書かれている「モーセの律法と預言者の書と詩編」の言葉によって指し示されるメシア、つまり救い主こそ、目の前にいる復活した主イエスであると、気づくのです。
「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』」(ルカ福音書24:46)主イエスは弟子たちの目をイザヤ書五十三章の言葉に向けます。
「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:4-5)もう一箇所詩編二十二篇にはこうあります。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。」(詩編22:2)
主イエスの十字架の苦しみと復活の出来事がすでに、預言者の言葉と詩編の言葉によって約束されていたことであり、あなた方の目の前、約束が成就したのだと、主イエスは教えるのです。そして主イエスはこの神の計画がどの様に、これから進むかを話します。「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ福音書24:47-48)
今、このエルサレムから始まって、全世界のあらゆる国の人々に「罪の赦しを得させる悔い改め」が伝えられると主イエスは話されます。つまり主イエスの名によって自らを悔い改めるならば、神は罪を赦して下さる、と主イエスは話されるのです。
「悔い改める」(meta¿noia metanoia)とは「今までのものから離れて出発点に立ち戻る」の意味です。人間、誰しも失敗したなら悔いて反省するのです。もし不利益を与えた相手がいるなら謝罪し、自らの生き方や考え方を変える努力する、良い人になろうとするかもしれません。でも、どんな後悔して心を入れ替えて、好い人(善人)になったとしても、それでも神の前に罪は、まだその魂にベッタリとこびり付いているのです。しかし主イエスの名によって、つまり主イエスが十字架に向かう道のり、その痛みを覚えて、その痛みが自分自身の罪の赦しの故である、と受け入れ自らを省み悔い改めるなら、私たちは神によって罪を赦されるのです。私たちはアダムが離れた神の御許、出発点に立ち返ることとなるのです。
この「罪の赦しを得させる悔い改め」がこれから全世界伝えられる。では、誰が伝えるのか、それはこの言葉を聞いているあなたたちだと、主イエスは話すのです。あなたたちはこれから、神がこの世界の全ての人を救う計画の当事者になると話されるのです。あなたたちはこれから、主イエスの復活を見た証人として世界中に送り出され、自分の目で見た事、自分の耳で聞いた事、主イエスの言葉、思い、憤り、喜び、苦しみを、全世界の全ての人に伝える役割を与えられる。あなた方が「モーセの律法と預言者の書と詩編」の言葉に約束されている救いの計画を、これから担っていると話されるのです。
でも、あなた方はその役割を自分の力や能力で頑張って行うのではなく、あなたがたを導く聖霊を送ると話されます。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ福音書24:49)その聖霊の力によってあなたがたは神の救いの計画に用いられるのだから、恐れず、喜びなさいと、話されるのです。そして主イエスは彼らを祝福し天に帰られます。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(ルカ福音書24:52-53)と聖書には記されています。
私たち、一人一人は、この弟子たちから続いている神の救いの働きの末端にいます。私たちも神が「罪の赦しを得させる悔い改め」を全世界に伝える救いの業の証人として、この世に福音を伝える役割を担っているのです。旧約聖書に記された預言者の言葉、詩編の言葉はまだ完成していません。十字架によって神の救いの計画が終わったわけでも、ありません。この主イエスの十字架と復活によって示された救いを、私たちが自らの口でこの世に告白し、その告白の言葉を聞いた方が神に立ち戻り、この世に神の国が実現する時に完成するのです。私たちは神の救いの計画の傍観者ではなく、私たちが当事者なのです。私たちも神の道具として用いられていること、救いの出来事の只中におかれていることを喜びましょう。
「祈れないとき」2021/5/9
マタイによる福音書6:1-15
先日、銀行のATMに並んでいて、ソーシャルディスタンスですから、前の人と一メールほど離れて後ろに立っていました。すると、私の前に並ばれている方がジーンズの後ろポケットから携帯を取ろうとして、同じポケットに入っていた財布を地面におとしました。彼は落としたことに気づいていません。私も周囲の人も「ああ、財布を落としたな」と気がついて、その場の雰囲気で一番近くにいる私が、拾って「落としましたよ」と声を掛けました。彼は振り返って、私が自分の財布を手に持っていることに気づきました、次の瞬間、彼は私を睨み付けたのです。でも、すぐに彼は自分で財布を落としたことに気づいて、恥ずかしそうに「ありがとうございます」と謝りました。それだけのことなのですけど、私は一瞬ではありますが睨み付けられたことに対して、少々釈然としませんでした。なぜ善意で財布を拾ったのに泥棒扱いされたのか。でも同時に、善意に対しては感謝で応じるのが当然、という私自身の心にも気づかされました。つまり私は彼に私の善意に対する評価を求め、同時に周囲の人たちからの評価をも求めていたのです。なんだか浅ましい自分自身の姿を見るのです。
人の心は複雑です。たぶん誰もが自分の生きている社会にあって、良い者でありたい、困っている人がいたら助けたい、と望んでいるのです。でも同時に、そんな自分を褒めて欲しい、誰かのために頑張っている自分を誇りたいという思いも働いてしまうのです。ですから純粋な良心に促されて何らかの奉仕を始めてから後に、誰からも感謝されないとなると、だんだん虚しくなり疲れてしまうのです。評価のために奉仕しているわけではないと分かっていても、独りよがりだったのか、と自分の行動を疑ってしまうのです。
では逆に、その様な人間の利己心に従っても良いのではないか、たとえ自分の欲望を満足させる思いを、虚栄心のようなものを優先したとしても、結果として困った人が助けられて社会が良くなれば、良いのではないか、と考える事ができるかもしれません。例えば社会的に多くの富を得た者が積極的に貧しい人に施す。財政的にも思想や行動においても、多くの社会貢献した者が賞賛される、良しとされる、そんな社会であっても、結果的に多くの困っている人が助けられるなら、良いのでは、と。でも、それは間違いです。なぜなら奉仕が出来る者が良い者で、奉仕を出来ない者は劣った者、という誤った価値観が認められてしまうからです。
「貧しい」ということは劣っていることではありません。努力や能力が足りないから貧しいのではないのです。また「弱い」ということは悪しきことではありません。誰もが不意に病気に掛かるし怪我をするのです。それに、貧しさや弱さは神に嫌われているとか蔑ろにされている結果ではありません。なぜなら私たちは、不幸な事態に陥ったり、困難に直面したときにこそ、多くを学ぶことができるからです。パウロが話すように、私たちは「弱いときにこそ強い」(Ⅱコリント12:10)のです。困難に襲われたとき、安易に逃げるのではなく向き合うなら、同じように困難に陥った者の苦しみを共有することができます。そして一人ではなく隣人と立ち向かうなら、共に生きる力、結びつきを強くされます。なにより、そのような時に、祈る事ができる。愛する兄弟姉妹と互いに思い合い祈り合うことが出来る。その純粋に相手を思いあう繋がりの真ん中に主イエスが立たれて、私たちは、この世にあって天の国を味わうことができるのです。
では私たちはどうすれば、自分の良心に対して純粋に、この世と関わることが出来るのでしょうか。それは常に心を天に向けて祈り、この世に対しては互いに許しあうこと、です。今朝与えられました御言葉の中で主イエスは、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ福音書6:4)と話されます。私たちが自らの良心に従って、困窮している方に手を差し伸べる時には、互いに罪の内に在る者として許しあい、それでも神に赦された者として心を天に向けなさい、と主イエスは話されるのです。
さて、今朝与えられました御言葉は「山上の説教」と呼ばれる箇所です。主イエスはガリラヤ湖の湖畔の町カファルナウムにおられ、主イエスの言葉を聞こうと多くの人が集まってきます。主イエスは町の郊外にある、小高い丘に移られ、そこに多くの人々が従い、主イエスは人々に向かって話されます。
なぜ、ガリラヤの人々は主イエスに下に集まってきたのか、というと、主イエスが語られる福音を聞くためです。主イエスがガリラヤの人々に、「あなたがたは幸いだ」(マタイ福音書5:3)と、話されます。彼らに、そんな事を話す祭司や律法学者は今まで一人もいなかったのです。なぜか、当時、ガリラヤの地方は同じ民族のユダヤ人たちから、異邦人のガリラヤと呼ばれ、彼らは神の救いの外にあると考えられていたからです。しかし、主イエスはそんな事はない、とそう話すのです。正しく神に心を向ける者に神は、目を留められる、と話すのです。
逆に、エルサレムに住み、自分たちは律法に準じた生活をし、私たちこそ神の救いに入る資格がある、と考えている彼らに、救いが近いわけではない、と話します。彼らは良い行い、つまり貧しい人への施しや礼拝、祈りを、自分の力を誇示し虚栄心を満たす為の見世物にしている。彼らは偽善者にすぎないと話します。そして。あなたがたはそうであってはならないと教えるのです。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」(マタイ福音書6:1)施しをするときには、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」(マタイ福音書6:3)と主イエスは話されます。右の手ですることを左の手に知らせない。この言葉は一つの比喩です。つまり困っている人に手を差し伸べようとするときには、自分自身に目を向けるとか、まわりの人に目を向けるのではなく、目の前にいる、ただ手を差し伸べようとしている人を見なさい、と主イエスは話されるのです。でもそれは難しいことです。ですから主イエスは奉仕や施し、良い業を行う時は「隠れたことを見ておられる神」を覚えなさいと話されるのです。この世の評価を求めるのではなく、神からの評価を求めなさい。自分やこの世が良しとすることではなく、神が良しとされ喜ばれることを覚えて、行いなさい。自分の行動の動機を、自分や社会に求めるのではなく、神の前における正しさを動機としなさい。神を覚えなさいと、主イエスは話されるのです。
続けて主イエスはこう話します。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ福音書6:5-6)
「祈るとき」とありますが、この御言葉は「祈り」だけではなく、私たちの礼拝や信仰に向き合う姿勢について教えています。私たちが礼拝を捧げる時、私たちの心はただ神にのみ、向けられるのです。この世の何かに向けられることはありません。そして私たちの信仰も、誰かに誇ったり、誇られたりするものではありません。信仰は誰かと比較するものではないし、誰かを批判するためのものでもありません。そして主イエスは一つの祈りを人々に教えます。それは私たちが毎週の礼拝で捧げている主の祈りです。この言葉については、また別の機会に話すとして、マタイ福音書六章の中では一行の言葉を特に取り上げています。それは「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ福音書6:12)という言葉です。
この世に目を向けるなら、私たち隣にいる誰かと自分を比較してしまうのです。そして、この人は優れている、この人は劣っている、と優劣をつけるのです。そして自分は高くあろうとする。そのような私たちの在り方が、私たちが純粋な良心に促されて、この世にあって良い業を行おうとする姿勢を邪魔するのです。
そもそも神の前にあっては誰もが罪を負っている一人の小さな、他愛ない人間にすぎないのです。つまり私たちの誰もはどっぷり頭の先まで罪に浸っているのです。真っ黒なのです。多少の良い行いをしたからといって黒が白になる訳ではありません。濃い灰色にすらなりません。お互いに評価し合ったところで、批判し合ったところで、罰し合った所で、五十歩百歩なのです。ですから、例えば私が困窮している誰かを前にして、良心に従って彼を助けたとしても、神の前に真っ黒な私は真っ黒なままだし、彼も真っ黒なままです。施す者も施される者も、神の前ではまったく同等なのです。そんな私たちを神は憐れんで赦して下さり、白くして下さるのです。神は私たちの罪を赦されます。でもそれは容易い事ではありません。神は私たちの罪を赦すために、私たちの罪を赦すために、御自分の愛するひとり子である主イエスを十字架に掛け贖いの犠牲とされました。私たちはこれからその恵みに預かるのではなく、すでに恵みに預かっているのです。ですから私たちは、私たちを赦して下さった神に感謝して、評価し合い罰し合うのではなく、互いに許しあうしかないのです。互いに助け合うしかないのです。
私たちがこの世にあって良い業を行おうとするときには、私を許して下さっている神を覚えなさいと、主イエスは教えます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ福音書6:14-15)
私たちが神に祈りを捧げる時、私たちは神に、今与えられている困窮に対する救いを求めるのです。ですから、苦しみが強いとき、悲しみが深いとき、神に祈ることができなくなります。でも、そのようなとき、私たちはすでに与えられている神からの恵みに目を向けるのです。私たちが今、生かされていること、それこそが、すでに神の奇蹟であると思い返すのです。その事を心に覚え私たちは祈りを捧げましょう。
礼拝説教原稿
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