礼拝説教原稿
2021年4月
「おはよう」2021/4/4
マタイによる福音書28:1-10
挨拶には不思議な力があります。例えば山に登っているとき、すれ違う人たち同士、自然と挨拶が交わされます。まったく見ず知らずの間柄であっても声を掛け合うのです。面白いことに、笑顔で声を掛け合うと疲れていても元気になります。それはたぶん、黙々と下を向いて歩いていても挨拶をするときには顔を上げて、相手の目を見て、相手の笑顔を確認して、こちらも笑顔になるから、だと思います。それとも自分一人で頑張って山道を登っているのではなく、他にも頑張っている人がいることを確認できたからかもしれません。もしくは自分が進んでいるその先に確かに道が続いていることが分かって安心できたからかもしれません。とにかく挨拶によって、私たちは元気をもらう事ができるのです。足取りが軽くなるのです。
さて、今朝与えられました御言葉には、主イエスが二人のマリアに「おはよう」と声を掛けられた場面が描かれています。この「おはよう」(chairo)は、聖書に書かれた元々の言語で他に「喜ぶ」という意味を持つ言葉です。でもここでは、当時の誰もが日常的に使う、朝に出会った人に掛けられる挨拶、「おはよう」して使われています。朝、出会った人に掛ける挨拶を主イエスはされているのです。つまり主イエスは、復活された後に、なにか特別な存在になったわけではない、ということです。主イエスは、今まで何度の繰り返されてきた朝と同じように、出会った方と目を合わせて、笑顔で「おはよう」と挨拶を交わされた、そんな当たり前の、日常の関わりに戻ってこられたのです。
このことから私たちは、私たちと神との関係について聴くことができます。私たちは、神とどうやって関われば良いのか、と考える時、なにか身構えてしまうのです。例えば修行や鍛錬を自分に課さなければならないとか、定められた者にだけに開かれているとか、知識や神学を修得しなければならないと考えるのです。でも私たちにとって信仰は日常生活の上にあります。私たちが、通りで人と会ったときに普通に挨拶を交わすように、神は私たちの視線の先におられるのです。勿論、私たちは神を畏れます。でもそれは、恐がるのではなく尊び敬う、尊敬であり畏れなのです。十字架と復活の出来事の意味は、死んだ人が生き返った、ということではありません。主イエスが戻ってこられたように、神が私たち一人一人の心のすぐ横に、しかも、いつもいて下さる。それが、この主イエスの挨拶の言葉「おはよう」の意味、イースターの意味なのです。では、主イエスが復活された出来事について、共に今朝与えられた御言葉を読み進めたいと思います。
さて、主イエスが十字架に掛け息を引き取られた後、その亡骸はすぐに十字架から下ろされてアリマタヤのヨセフに引き取られます。彼は身分の高い議員でローマの総督としてユダヤに遣わされていたポンティオ・ピラトに願い出ることができる立場にあったからです。そもそも十字架刑に処せられた者の亡骸は、朽ち果てるまでそのまま十字架に掛けられていることになっていました。骨になっても見せしめに晒され続ける、ことがこの刑罰が恐れられた理由です。もう一つ、ユダヤ人に嫌がられた理由があります。それは、律法に記されている言葉に起因します。「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」(申命記21:23)アリマタヤのヨセフは主イエスの弟子であり、また熱心なユダヤ教徒であったので、主イエスをその日の内に墓に収めることができるように、ピラトに掛け合うのです。そしてピラトはその求めに応じます。彼は主イエスが何らかの罪を犯したとは考えていなかったのです。ただユダヤ教の祭司たちが自分たちの立場や利益、自尊心を傷つけられた腹いせで、主イエスを罠に嵌めた、と知っていたのです。
アリマタヤのヨセフは、主イエスの亡骸をきれいな亜麻布で包み、自分のために用意しておいた、まだ一度も使っていない墓に寝かせます。主イエスが息を引き取られたのが金曜日の午後三時です。ユダヤの暦では金曜日の日没から安息日に入ります。安息日にはいかなる労働もしてはならないと律法に定められていますので、三時間弱でその作業をすべて終わらせなければならなかったのです。主イエスの死の悲しみを悼むことよりも、慌ただしく、とにかく作業を終わらせることになるのです。
当時の墓は岩盤の斜面に横穴を掘り部屋を作り、入り口を岩でふさぐ仕様になっていました。この岩ですが、厚さ五十センチ、二メーターほどの円盤型をしていて、大人が三人がかりでやっと転がすことができる、重く大きなものです。主イエスに仕えていた弟子たちは皆、逃げていたので、アリマタヤのヨセフは自分の使用人たちを使ってその一切の作業を行うことになったのだと思います。でも、主イエスに仕えていた婦人たちは、ゴルゴダから墓まで運ばれていく主イエスの後に付いてきて、その作業をずっと見守っているのです。「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。」(マタイ福音書27:61)と聖書にはあります。そして彼女たちも、日が沈む前に、つまり安息日に入る前にその場を立ち去るのです。
次の日、祭司長たちとファリサイ派の人々はピラトの所に集まって、主イエスの安置された墓の前に番兵を置くように願い出ます。彼らは主イエスが復活すると話していた言葉に備えるのです。祭司長たちとファリサイ派の人々は主イエスの言葉、つまり復活を信じている訳ではないのです。だからきっと弟子たちを使って亡骸をどこかに移して、主イエスは復活したと吹聴するだろうと、そんな策略を計画しているのだろうと、彼らは考えるのです。謀を企てる者たちは、相手も謀を企ててくると勘ぐるのです。自分たちは賢くて、相手を手玉に取ることが出来ると傲慢になっているが故に、相手の企てを警戒します。そして疑いが疑いを招き、自分自身が企てた謀に雁字搦めになるのです。
では彼らが心配している、主イエスのもとから逃げ出した弟子たちは、この時、なにをしていたのでしょうか。しかし彼らはただ一所に集まって、脅え、息を潜めて隠れているのです。主イエスのあと、今度は自分たちが捕らえられ処刑されるのではないか。ローマ兵や下役たちに捕らえられることはなくても、民衆は自分たちに暴力を振るったり、石を投げたりするのではないか。民衆はまだ過越の祭の高揚感に駆られていたからです。弟子たちは、これからどうしょうと考えていたのか、というと、彼らは過越の祭の終わる月曜日の夕方を待っているのです。なぜなら、それぞれの地方からエルサレムに上ってきた多くの人々が一斉に自分たちの故郷に帰るからです。その混乱に紛れて、自分たちもナザレに帰ることができると、逃げる事ができる、と彼らは考えるのです。そして、安息日が明けた日曜日の朝早く、マグダラのマリアともう一人のマリアは墓に見に来ます。婦人たちは、他の弟子たちと共にナザレに帰る前に、もう一度主イエスの墓を見ておきたい、と考えたのでしょう。墓の入り口は大きな岩で塞がれていることを知っていたので、主イエスの亡骸に触れることなどできないのですけど、それでも、主イエスの近くに居たいと、二人は墓に来るのです。しかし二人は、墓に近づくことも叶わないのです。なぜなら墓の前には番兵が立っていたからです。
そのとき、地面が揺れます。「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(マタイ福音書28:2-4)夜が明けたばかり、まだ薄暗い朝に眩しく輝く天使が現れ、墓石を脇に転がしてその上に座るのです、そして天使は婦人たちに話し掛けます。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(マタイ福音書28:5-7)天使はマリアに「あの方は墓の中にはおられない」と話します。そして、来て、墓の中に入り、確認し、見た事を弟子たちに伝えなさいと話します。主イエスは復活されて「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。」(マタイ福音書28:7)と話すのです。天使は弟子たちが帰路につく人々に紛れてガリラヤに帰ろうとしている事を知っているのです。
婦人たちは、天使に促された通りに、入り口が開かれた墓に入り、その中に主イエスの亡骸が寝かされていない事を確認します。墓は空なのです。そこで婦人たちは恐れながらも大いに喜び、墓を出て、弟子たちに知らせるために走り出そうとします。その目の前に、主イエスが立っているのです。「すると、イエスが行く手に立っていて『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」(マタイ福音書28:8-10)
主イエスは婦人たちに「おはよう」と声を掛けられます。十字架につけられる前、捕らえられる前の、そのままの姿で主イエスは立っているのです。彼女たちは足に抱きつき、ひれ伏すのです。主イエスは婦人たちに「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイ福音書28:10)と話します。主イエスは、自分の下から逃げ去った弟子たちを、つまり自分を裏切った者たちを、それでも兄弟と呼ぶのです。そして彼らに、戦いに負けた者が逃げるようにガリラヤに向かうのではなく、私と再会するためにガリラヤに向かいなさい、と話すのです。婦人たちは恐れつつも喜び、弟子たちの潜んでいる所に戻り、見たこと、聞いたことのすべてを伝えるのです。そしてその後に、弟子たちは主イエスに会うためにガリラヤに帰っていくのです。
主イエスは復活されました。十字架で命を落とされ、墓に収められ三日目に復活されたのです。しかし主イエスはなにか特別な存在に変わられた訳ではありません。十字架の前となにも変わらない、足に抱きつくこともできる姿で姿を現したのです。そして主イエスは、今、この時にも、私たちの魂の傍らにいて下さいます。私たちが聖書を読むとき、私たちが祈るとき、私たちが賛美をするとき、私たちは主イエスの存在を確かめ、ささやく声を聴くのです。私たちが弟子たちと同じように、神を裏切るような行いをしたとしても、失敗をしても躓いたとしても、孤独と失意の中に置かれたとして、復活された主イエスは私たちを兄弟と呼んで下さいます。私たちは神の愛の中に置かれています。共にイースターの時を祝いましょう。
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