礼拝説教原稿
2021年3月
「十字架から差し込む光」2021/3/28
マタイによる福音書27:32-56
私たちはこの礼拝を棕櫚の主日として守っています。主イエスは十字架に掛かられる週の日曜日に、戦いの象徴としての馬ではなく。平和の象徴としてのロバに乗ってエルサレムに入城されました、人々は着ていた上着を脱いで地面に引き、手には棕櫚の葉を振って出迎えます。そして今日から主イエスの受難を覚える受難週が始まります。主イエスがエルサレムに入城された時、民衆は主イエスと弟子たちを、歓声を上げて出迎えたと聖書には記されています。そして主イエスはエルサレム神殿の境内に入り群衆を前に福音を説きます。しかしまだこの時、サドカイ派の祭司たちやファリサイ派の教師たちは主イエスに手を出すことを控えています。今、彼らが主イエスに手を出すならば、民衆は主イエスの側に付くだろうことを彼らは知っていたからです。彼らは民衆の気まぐれで無責任な真理を心得ています。民衆は心から主イエスを信じているのではなく、主イエスを自分たちの王と担ぐことによって、ユダヤ人社会が抱えている様々な憤懣(わだかまり)のはけ口にしているだけなのだと、知っているのです。
この時代、ユダヤは国として、過去に例を見ないほど(ソロモン王の時代以来)繁栄し、近隣諸国との関係も安定していました。しかしそれはヘロデ王家がローマ帝国の傀儡政権となっていたからであり、ローマ帝国の属国となって実効支配下に置かれていたからです。エルサレム神殿の祭司たちも、この状況を容認しています。これまでの過去にイスラエルに攻め込んでした数々の敵国とは違い、ローマ帝国は征服した属国の宗教に対して寛容な政策を採っていました。ですから祭司たちは伝統的に引き継いできた祭儀をそのまま執り行うことができました。彼らの地位も役割もそのまま手を加えられることもありませんでした。ファリサイ派の教師たちも、この姿勢に同調します。彼らは信仰を教え育むためではなく、民衆を統率するために、人々の律法の厳守を課すのです。
しかしユダヤ人たちは、このようなユダヤの指導者たちの在り方に不満を持っているのです。なぜなら彼らは自分たちこそ主なる神に選ばれた特別な民族であり、アブラハムの血統を受け継ぐ者たちであるとの誇りを持っていたからです。たとえローマ帝国が地中海世界の覇者であり、この時代の世界を支配していたとしても、でも気に入らないのです。エルサレムが経済的にも文化的に繁栄していたとしても、ローマ風の習慣や文化がジワジワと毎日の生活の中に染みこんでくることが気にくわないのです。
逆にユダヤ人の支配者たちの方が、主イエスを正しく恐れているのです。主イエスはメシアであるかもしれない、少なくとも預言者の一人である事は間違いない。しかし彼らは聖書に約束されたメシアよりも、今、手にしている繁栄と安定を優先するのです。もし自分たちが民衆と共に主イエスをメシアとして信じ、ローマ帝国に対して決起するなら、ローマ帝国は強力な軍隊を送り込こみ、エルサレムを破壊し尽くすだろうと、「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(ルカ福音書21:6)と彼らは考えるのです。それよりも、もし民衆が騒ぎ出して暴動を起こすようなことがあれば、ローマに口実を与える事になる。せっかく手にしている統治権も取り上げられかねないのです。ですから彼らはできるだけ速やかに民衆が主イエスを見限る方法で画策します。そこで彼らはイスカリオテのユダを誘い、金貨で主イエスを売るように仕向けるのです。弟子たちの間から裏切る者が出るなら、一気に主イエスとその仲間たちを切り崩すことができます。そんな弟子たちとの関係を見て、民衆も主イエス見限るだろうことを読んでいるのです。そして、イスカリオテのユダは主イエスを裏切り、主イエスはゲッセマネの園で捕らえられるのです。主イエスが捕らえられた途端に、弟子たちもナザレやエリコから主イエスに従っていた者たちも、散り散りにその場から逃げ出します。
そして主イエスはその夜の内に最高法院に引き出され裁判にかけられ、朝にはローマ帝国のユダヤ州総督であったポンテオ・ピラトの前に引き出され、十字架刑を言い渡されます。主イエスは自らが掛けられる十字架を背負わされ、エルサレムの町を引き回されるのです。主イエスを熱狂的に出迎えた民衆は、手のひらを返したように主イエスを罵倒し始めます。まるで自分たちが詐欺師に騙された被害者だったかのように、彼らは主イエスにつばを吐きかけ、嘲笑の眼差しを向けるのです。
さて、今朝与えられた御言葉の場面に続きます。「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」(マタイ福音書27:32)とあります。既にこの時、主イエスの体は傷だらけです。兵士たちから殴る蹴るの暴行を受け、むち打たれた背中は皮も肉も裂かれ血が流れ落ち。頭に被せられた棘の冠からは血が滴っています。主イエスは何度も膝をつきながら、しかし立ち上がり、歩くのです。しかし力尽き、代わりにシモンという名前のキレネ人が、無理矢理、十字架を担がされます。そして主イエスはゴルゴダの丘で十字架に打ち付けられるのです。
十字架刑は当時、最も重い犯罪を犯した者に課せられる処刑方法でした。今で言うところの内乱罪や強盗致死にあたる犯罪に適用された刑罰です。罪人は多くの人が行き交う大通りから見える場所に立てられた十字架に、手と足の甲の骨の間を長い釘で張り付けられます。両手を上に広げて吊されますと横隔膜が伸びるので呼吸する為には、両腕の力で体重を支え、体を上に引っ張り続けなければなりません。ですから体を強ばらしたまま、気を失うこともできず、息が途絶えるまで三日三晩苦しみ続けるのです。そして死んだ後も磔られたまま放置されます。やがて罪人の肉を鳥たちがついばみ白い骨と骨を繋ぐ筋だけが残ります。それでも十字架から落ちないように、手の甲の骨の間に釘が打たれているのです。数週間の後、ついに筋が風化して切れ骨がバラバラと地面に落ちます。でも、その骨を拾うことは許されていません。地面に転がされたままにして置かれます。ですから、頭蓋骨がゴロゴロと転がっているこの処刑場はゴルゴダ、つまり髑髏の丘と呼ばれていたのです。罪人は死ぬ前も、骨になっても晒され、その骨を葬る事が許されない。この刑の最も残酷な意味はここにあります。主イエスが死んだ後、直ぐにアリマタヤのヨセフに亡骸を引き取られ、墓に収められたことは、実は異例なのです。ピラトは主イエスが無実である事を知っていたので、そこまですることはないと、慈悲をかけたのです。
さて、貼り付けられた主イエスの十字架の下では、兵士たちが座って、見張りをしていた、と聖書には記されています。「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い」(マタイ福音書27:35)とあります。そしてイエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きが掲げられていました。右と左には二人の強盗が、同じように十字架に貼り付けられます。道を行き交う人々は、頭を振りながらイエスを罵って「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」と声を投げかけます。祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」と侮辱します。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタイ福音書27:44)一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスを罵ります。そして、昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続きます。三時頃、主イエスは大声で叫ばれます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ福音書27:46)そこに居合わせた者が、葦の長い棒の先に酢を含ませた海綿をつけて、主イエスの顔に近づけようとします。彼は主イエスの失いそうな意識を無理矢理、取り戻させようとするのです。しかし、他の者がその手を押しとどめて「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」(マタイ福音書27:49)と話した、と聖書には記されています。そして、主イエスは再び大声で叫び、息を引き取られるのです。
この主イエスの死は敗北なのでしょうか、主イエスは戦いに敗れたのでしょうか。主イエスを殺そうとした者たちの策略が成功した、という出来事だったのでしょうか。
そうではないのです。主イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と最期に叫ばれたと、聖書には記されています。この言葉は詩編二十二篇の最初の一節です。続きの八節以下を読みます。「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い 唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」(詩編22:8-9)続けて十四節以下。「餌食を前にした獅子のようにうなり、牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩編22:13-19)
主イエスが十字架の上で受けられる苦難の一つ一つの出来事が、詩編を読む詩人の言葉によって歌われています。詩人が歌い、預言者たちの言葉通りに、メシアは人々から貶まれ、嘲笑われ、迫害を受けて殺されるのです。しかし神はその苦しみと死によって、この世と交わされた救いの約束を果たされるのです。それが五十一節からの言葉です。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そしてイエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(詩編22:51-53)
神殿の垂れ幕とは、至聖所を隔てる幕のことです。この垂れ幕から先は神聖な神の居場所であり、エルサレム神殿に仕えるその年の大祭司の他は入ることが許されてはいませんでした。この垂れ幕が真っ二つに裂けた、という意味は、天と地の境がなくなったということです。つまりこの主イエスの犠牲によって、地上に生きる全ての人間は、一人一人、神と直接関わることが許されることとなりました。
もう神殿や祭儀を、祭司を仲介者として立てることなく、また人の浅はかな知識や民族、国家、血族にとらわれることなく、誰もが直接神に祈りを捧げ、神を覚えることができることとなりました。この世の豊かな者も、貧しい者も、愚かな者も賢い者も。ですから、最も高い所におられる方、つまりこの世の王として主イエスはこの世に在って、そしてこの世の最も低い場所、重い犯罪を犯した者として処刑されたのです。
十字架はこの世の最も低い所に立っているのです。つまり、たとえ私たちがこの世の最も低い場所、苦しみと痛みの深い場所、拭い去ることができない罪を犯し、まったく希望を抱く事もできない場所、神にも見放されたと思える様な場所に落ちたとしても、そこにも主イエスは降りてきて下さり、直接関わって下さる。そこに光を与えて下さる、希望が与えられるのです。さらに主イエスは、生きている者は降りる事のできない、深い場所、つまり陰府の暗闇にも降りられ、光で照らされます。暗い墓の中にも光が差し込みます。この世を支配していた死という陰府の暗闇は無力化される。力を失うのです。「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」という言葉の意味はここにあります。主イエスは死を滅ぼされます。死の先は暗闇ではありません。そこにも主イエスは光を差し込んで下さったのです。
神は主イエスをこの世に遣わし私たちを救われました。そのために痛みと辱めを受けられました。覚えつつ感謝し祈りつつ、この受難週を共に歩みましょう。
「母の願い」2021/3/21
マタイによる福音書20:20-28
古今東西、子ども対する母親の愛は海よりも深いのです。なぜなら母親にとって自分の子どもは身体の一部であり、自分が産みだした力作という感覚があるから、と言われます。それに母親にとって幾つになっても自分の子どもは自分の子どもです。ですから子どもが優れた働きをして世間から評価されるなら、それは母親自身の喜びとなり、逆に子どもの不始末は深い嘆きとなります。一方、生まれたばかりの乳児にとって母親は世界の全てです。その感覚は死ぬまでずっと残ります。ですから成長した後も、子どもは母親の無言のプレッシャーに応えようと一生懸命に社会での評価を得ようします。無意識下に母親という大きな存在があって、子どもは心を支配されるのです。でも、それは決して悪い事ではありません。なぜならこの絶対的な受容という関係性を基礎にして人間同士の信頼関係が築かれるからです。
先ほど読まれました御言葉に記されている「ゼベダイの息子たちの母」(マタイ福音書20:20)ですが、彼女は主イエスの弟子、ヤコブとヨハネの母親です。彼女は主イエスの前にひれ伏して息子たちの、これからの待遇について懇願します。母親の盲目的な息子たちへの愛情と、それに応える息子たちの姿がこの場面には描かれています。でも今朝私たちは、この母の言葉を切掛けにして描き出される、主イエスの十字架の意味を、この箇所から聞いていきます。主イエスは母の息子たちへの愛情を受け止めつつ、その願う働きよりも、遙かに尊い働きのために用いると話されるのです。
さて、今朝読まれました聖書の箇所の場面です。主イエスと弟子たちがエルサレムに上っていく途中、エリコの手前ですから、たぶんヨルダン川沿いのどこか、だと考えられます。では主イエスと弟子たちは和気藹々とした雰囲気で道を歩いていたのか、というと、そうではありません。与えられた御言葉の最初に「そのとき」(マタイ福音書20:20)とあります。この言葉は直前の主イエスの言葉を指します。「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。』」(マタイ福音書20:17-19)
これは主イエスの受難予告と呼ばれる言葉です。主イエスはここまで二度、受難の予告を弟子たちに話していて、これが三度目になります。一度目は主イエスが高い山に登られて変容される前、ヘルモン山の麓の町バニアスでの出来事です。この時、弟子たちは主イエスが弱気になっている程度にしか受け止めていないのです。そして彼らがガリラヤに戻った時に、主イエスは二度目の受難予告を話されます。「弟子たちは非常に悲しんだ」(マタイ福音書17:23)と聖書にはあります。弟子たちは主イエスが真っ直ぐにエルサレムに進みはじめた後ろ姿を見て、徐々に決意と言葉が揺るぎないと気づきはじめるのです。この時、既に主イエスは祭司たちやファリサイ派の人々から敵対視されていましたし、その一部の者たちからは命をねらわれていました。主イエスがエルサレムに上るなら、それが最期の対決になるだろうと弟子たちは気づいているのです。そして主イエスが三度目の受難の予告を弟子たちに話した後すぐに「ゼベダイの息子たちの母」は二人の息子を連れて主イエスの前にひれ伏すのです。
「ひれ伏し、何かを願おうとした。」と聖書には書かれています。しかし彼女はなにも言い出すことができないのです。彼女は、今、自分が考えている言葉を口に出してしまうなら、その言葉が現実になってしまうのではないか、と、恐れているのです。それは、主イエスの話される受難予告がその通りになる、つまり、エルサレムで主イエスが殺される、ということです。しかし、彼女は主イエスに問いかけようとするのです。なぜなら、主イエスの死は直接自分の息子たちの死に直結するからです。このまま主イエスがエルサレムに上って、捕らえられて殺されるのであるなら、弟子たちも当然、捕らえられ殺されることになるのです。特にヤコブとヨハネは弟子たちの間でも、最も血気盛んで荒々しい性格なのです。この二人の兄弟はボアネルゲスすなわち「雷の子ら」(マルコ福音書3:17)というあだ名をつけられていたと、聖書には記されています。争いが始まるならば、息子たちはその先陣を切って真っ先に敵に切り込んでいくことは分かっているのです。彼女は息子たちの死を望んでいません。でも彼女は主イエスのことを信じています。これから主イエスがエルサレムに上られて行われる業が神の救いをこの世に実現する尊い業である事も信じているのです。彼女はこの葛藤から主イエスの前にひれ伏した後、なにも言うことができなくなるのです。主イエスはその様子を見え、そして彼女の心の中の思いを受け入れます。主イエスは「何が望みか」(マタイ福音書20:21)と優しく声を掛けるのです。大丈夫だから話しなさい。と彼女が話す切掛けを作られるのです。
「彼女は言った。『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。』」(マタイ福音書20:22)つまり、「私も息子たちもあなたとあなたの働きに命を捧げる覚悟はできています。だからせめて、あなたが王座にお着きになる後の世で、息子たちをあなたの右と左に置いて下さい。」と彼女は主イエスに願い出るのです。主イエスはヤコブとヨハネに「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と尋ねます。二人は「できます」と答えます。二人の息子たちは母親の思いを知っているのです。自分たちがこれから死に場所に向かうと知って、悲しみながらも送り出そうとしている母の愛の深さに彼らは答えるのです。
主イエスは、この母と息子たちの誠意と信頼を覚えながらも、でも「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」(マタイ福音書20:22)と話されます。母の思いもこの思いも、私への思いも嬉しいけれど、でも「分かっていない」と話すのです。
さらに、このやり取りを聞いていた他の弟子たちは「腹を立て」(マタイ福音書20:24)たと聖書には書かれています。今までだれも敢えて触れなかったことに触れられた事も腹立たしい。加えて自分の息子をまず優先して右と左にと、抜け駆けをされたことにも、彼らは腹を立て、弟子たちは騒然となる。他の弟子たちはもっと分かっていないのです。
そこで主イエスは弟子たちだけではなく、ナザレから共にいる一同を近くに呼んで座らせて話しはじめられます。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。』」(マタイ福音書20:25-28)では主イエスは、なにを「分かっていない」と、話されているのでしょうか。
ヤコブとヨハネの母は、主イエスの死と息子たちの死に心を奪われているのです。息子たちが死んで主イエスが死んだ後、主イエスの話すように新しい世が来るかも知れない、来て欲しい。彼女はその世界に望みを託そうと願うのです。今の世の中では叶えられないことを、死んだ後の世界に託すのです。来たるべき新しい世界で息子たちが高い地位や信頼、影響力を得られれば良いと考えるのです。少なくとも息子たちが幸せであれば良いと願うのです。しかし、主イエスは死の後の世などまったく見ていないのです。「しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」(マタイ福音書20:24)と他人事です。主イエスの見ている十字架とは、今、生きているこの世が新しく刷新される出来事です。今、この世に生きる、すべての人が神に立ち返り、神との正しい関係の中に置かれる、この世に神の国が実現すること、後の世ではなくこの世を、死ではなく命を見ているのです。
ヤコブとヨハネは、主イエスが差し出す杯を「苦い杯」つまり「死」だと考え、それを飲み干します、と決意を表すのです。しかし主イエスが話す杯は「喜びの杯」です。全ての人に神の福音を伝え、神があなたを愛されていると伝え、全ての人を神に繋ぐ働きをする、すべての人があなたの話す福音によって喜びを得る。その喜びの果てに与えられる迫害という杯なのです。新しく生まれることを拒む者たちは抵抗します。その抵抗が福音を伝える者たちへの迫害という形で現れます。でもその苦しみは、産みの苦しみであり、喜びの杯なのです。
主イエスは死ぬために十字架に掛かられる訳ではないのです。主イエスは死を滅ぼすために、死を無力化するために十字架に掛かられるのです。この世にあって死に囚われている人々を解放するために、その「身代金」(マタイ福音書20:28)として主イエスは自分の命を捧げられるのです。そして主イエスは復活し新しい命となります。主イエスは死ではなく命を見ているのです。
新しくこの世に与えられる、十字架と復活の後の世にあって、主イエスは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ福音書20:26)と話すのです。互いに自分を誇るのではなく神を誇り、自分の栄光を求めるのではなく神の栄光を求めること。自分の知恵に溺れるのではなく神の知恵を求めること。人を裁くのではなく神の裁きに従うこと。その様にして、自らを低くし、互いに相手に仕え、仕え合う愛し合う世を、この世に実現する仕事を、主イエスは弟子たちに託すのです。神がこの世にあって最も低い場所に下られたように、つまり十字架に掛かられたように、あなた方も下りなさい。もし下りきることができないとしても、聖霊の助けによってそれを成すことができると、そう約束するのです。
主イエスはヤコブとヨハネに「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。(マタイ福音書20:23)と話します。主イエスの十字架の後、ヤコブは熱心にユダヤとサマリアに伝道を進め、その後当時は辺境の地であってスペインにも渡って福音伝道を進めたと伝えられています。そしてエルサレムに帰った紀元後四四年にユダヤ人の歓心を買おうとしたヘロデ・アグリッパ1世によって捕らえられ、最初の殉教者となります。ヨハネはエフェソを中心にアジア地域で伝道を進めます。しかし、ローマ皇帝ドミティアヌスの迫害を受け捕らえられ、流されたパトモス島で「ヨハネの黙示録」を書きます。その後も迫害を受けつつも、教会を成長させ、紀元後百年頃、九十歳位で天寿を全うしたと伝えられています。彼は一人、殉教しなかった使徒です。彼らは確かに主イエスの杯を飲み干します。しかしそれは苦い杯ではなく、喜びの杯なのです。
私たちが与えられている信仰も、生きる為の信仰です。すべての人の死んだ後の事は、神さまが大事にして下さるので、心配することはありません。この世にあっていかに幸いに、神の前にあって当たり前に生きるか。主イエスは私たちの死の後のためではなく、私たちの命のために十字架に架かって下さったのです。その事に感謝しつつ、共に歩みましょう。
「律法・預言・福音」2021/3/14
マタイによる福音書17:1-13
いつも書き物をするとき、私は何かしらの音楽をかけます。特にこの受難節の時期はバッハの受難曲をずっと流しています。最近ではネット配信を使っていて、ヨハネ受難曲BWV245と検索すると、三十種類以上のアルバムが表示されて、その中から聞き比べる、なんてこともできます。録音の技術も、ひと昔前に比べて格段に良くなっているので、どの演奏を聴いても、まるでコンサートホールの座席で聞いているかのような、演奏の臨場感を感じることができます。正直スゴいと思います。でも、少々、不満に感じことがあります。それは、音が整いすぎている、ということです。各パートの楽器もソリストの声の音圧もホールの残響も響いていて、とても聞きやすいしノイズもまったくありません。でも整いすぎているのです。以前、ヨハネ受難曲を生演奏で聞いたことがあります。それは音大生の演奏だったので、一流のオケと比べるなら不出来な演奏と評価されるものだったかも知れません、でも素晴らしい演奏でした。その時に聞いた音が、未だに私の心には強烈に残っています。音のバランスとか、響きとか、そういうことではなく、演奏者たちの意気込みとか、息遣いとか、指揮者の思い入れとか、そして会衆席の聞き手も「よし聞くぞ」と前のめりにステージに心を向けていた感じとか、そんな人々も思いが相まって、その時にその場所でしか聞くことの出来ない音になっていたのです。演奏者と会衆との関係性があって、その上でしか聞くことのできない音だったから、心に残っているのです。
私たちと神との関わりも同じです。私たちは書かれた言葉とか、誰かを介して神と関わるのではなく、直接、神と関わらなければ、神を知ることは出来ないし、神の息遣いを感じてみないことには、心を合わせることはできません。さらには神を介して、私たち信仰者も一つになることはできないのです。私たちはこの世にあって帰り着く場所を知らない、帰属するところのない者として、生き続けることとなるのです。では、私たちが神に直接、会うことができるのか、というと、それは不可能です。でも、人に不可能なことも神には可能です。神は私たちと関わることのできる身体をもってこの世に来られました。それが主イエスです。主イエスの息遣いを私たちは感じることを通して神と関わり、十字架の苦しみを通して、神の私たちに対しての愛の深さを知るのです。
そして私たちはその慰めと愛に応えることによって、罪によって引き剥がされていた神との正しい関係に、もう一度引き戻されるのです。私たちは、それまで握っていたこの世の代用品を手放すことができる。そして、自分が本来、帰属する場所を知るのです。
今朝、与えられました御言葉には、主イエスの変容と呼ばれる場面が描かれています。主イエスは三人の弟子だけを連れて、高い山に登られます。この山について、タボル山だとかヘルモン山だとか諸説ありますが、マタイによる福音書ではこの記事の直前までフィリポ・カイサリア地方に来られていた、と書かれているので、ここではヘルモン山と考えるのが素直な読み方だと思います。主イエスはその場所で、はじめて弟子たちに受難の予告をされました。その6日後に高い山に登られ、御自分がこの世に使わされたメシアであり、神御自身であることを明らかにされます。共に聴いてまいりましょう。
さて、御言葉の最初にこのように書かれています。「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(マタイ福音書17:1)この「六日」についてですが、旧約聖書、出エジプト記の記事でモーセが神から律法を授かったとき、シナイ山に登ってから六日間待って、それから神はモーセに声を掛けた、とあります。「モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。」(出エジプト24:15)つまり六日とは、神の言葉を待つための備えの時間を意味しているということです。でも大事なことは、ここで弟子たちがモーセと同じ経験をしている、ということの方です。つまりこの記事から私たちが読まなければならないことは、主イエスの姿が変容された、という目を引く驚くべき出来事よりも、弟子たちが、特にペトロが変容された主イエスに神の姿を見た、という出来事の方なのです。そして主イエスは三人の弟子だけを連れて山に登ります。ペトロとヤコブ、その兄弟のヨハネです。これまでも主イエスはしばしば山に登られ、一人でそこで祈られていたと聖書には記されています。この三人という人数について、律法には「二人ないし三人の証人の証言」(申命記19:15)と定められています。つまりこの時、主イエスは神との交わりの内に三人の弟子を証人として招かれたという事です。証人の役割とは、自分たちの立ち会った出来事が事実であると証明するために、公に告白することです。そして彼らが証言する事実とは、主イエスが神であったという事実です。その彼らの前で主イエスは姿を変えられるのです。
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」(マタイ福音書17:2-3)モーセがシナイ山で神から十戒を受け取るとき、「山の頂で燃える火のように見えた。」(出エジプト24:15)とあります。神が地上に顕現され、神の栄光がこの世に現れるとき、この世に生きる者たちにその存在を光として、感じるのです。
そして主イエスは現れたモーセとエリヤと会話をされます。先ほど話した様に、モーセはシナイ山の頂きで神から直接、律法を授かった預言者です。そしてもう一人エリヤですが彼も同じシナイ山で神から直接、言葉を与えられた預言者です。エリヤについて少々、補足します。エリヤはバアルとアシェラという偶像を礼拝する預言者たちと競争を行い、勝利し、彼らをカナンの地から一掃するのですが、その事からイスラエルの王アハブの王妃イゼベルに命を狙われることになり、エリヤは逃げます。四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブ、つまりシナイ山に着きます。彼は洞穴に入り夜を過ごし、そこで神に会います。「主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19:11-12)モーセもエリヤも神と直接会い、モーセは律法を受け取り、エリヤは言葉を受け取った人物です。またその最期はこの世に墓を持たなかった人物として聖書には描かれています。
この主イエスの変容の物語について、私たちは主イエスが神と出会って光のように眩しく白く輝かれた出来事、として受け止めてしまいがち、なのです。でもそうではありません。主イエスが神としてモーセとエリヤに会っている姿を弟子たちが目撃した、という出来事なのです。つまり弟子たちは主イエスが神であったという事実に、証人として立ち会ったということなのです。でも、ここでペトロは証人として、してはならないことをします。ペトロ自身が事実に介入しようとするのです。証人の役割は事実を外側から見て確認することであって、事実の当事者になることは許されてはいないのです。
「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』」(マタイ福音書17:4)ペトロは自分の目の前で繰り広げられている天上の出来事に感動します。疑いも迷いも解かれるのです。そしてペトロは、この有様をこの世に残したいと考えます。彼が話す仮小屋とは、神が臨在する幕屋、神を礼拝する場所という意味の言葉です。
エルサレムに建てられている神殿には神は住まわれない。まして偶像を拝む異邦人の神殿にも神はおられない。神が臨在し、栄光が光として現れるこの場所こそ、全ての者たちが礼拝する場所にふさわしい、彼は提案するのです。ペトロの思いは理解できます。でも神は、そんな事を望んでいないのです。「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。」(マタイ福音書17:5)神は「聞け」(akouo)と話すのです。
「聞く」という事について、今の時代にあっては録音とか録画の手段を使う事ができて、後で聞くことができるので、この言葉の意味合いを受け取り難いのです。でも、ここで神が話されている「聞く」とは直接、面と向かって、相手の言葉を聞くという意味の「聞く」です。話し手と聞き手の人格的な関係性の上に交わされる言葉を聞きなさい、という意味です。そしてその言葉こそ主イエスなのだと、神はペトロに明らかにするのです。「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』」(マタイ福音書17:6-7)神の声が暗雲の空に響いたとき、弟子たちは自らの死を意識します。神に会うなら人は命を絶たれるからです。でも、そんな弟子たちに主イエスは手で触れられます。慰めるのです。
彼らが目を上げたとき、そこに立っている主イエスは、今まで通り、なにも変わっていない、薄汚れて日に焼けて黒くなった顔を見せる主イエスです。夜は明け、朝の光が彼らを包んでいます。そして「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」(マタイ福音書17:9)と話されるのです。主イエスが神御自身であるとこの世に明らかにされるのは、主イエスが十字架にかけられ復活された後、聖霊がこの世に下る時です。その時になってから、あなたたちはこの出来事の証人として、自らの口でこの世のすべての人に告白しなさい、と、そう話されるのです。
朝になり、主イエスと弟子たちは山を下ります。そこで彼らは主イエスに「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねます。律法学者は預言者マラキの言葉(マラキ3:22)を引いて、メシアが来る前に神は預言者エリヤをこの世に送ると人々に教えていたのです。そして主イエスをメシアという者たちに対しても、まだエリヤが来ていないのだから、主イエスはメシアではない、と話していたのです。この問いかけに対して主イエスは「エリヤは既に来たのだ。」(マタイ福音書17:12)と答えます。それは洗礼者ヨハネのことだったと、弟子たちは悟るのです。
律法学者たちも聖書の中に書かれている正しい答を知っていたのです。でも彼らはその答えを理解する事ができないのです。なぜなら彼らは、神に聞こうとするのではなく、聖書に残された【文字】に聞こうとしていたからです。神に礼拝を捧げるのではなく、神殿やユダヤの伝統や習慣、自分たちの誇りや立場、理想、概念、この世の目に見える天幕に礼拝を捧げていたからです。弟子たちは主イエスが神であると知った時に、洗礼者ヨハネがエリヤであったことに気づきます。主イエスを神の言葉として主イエスから直接言葉を聞くように聖書を読むときに、神はこの世に自らを明らかにされるのです。
今朝与えられた御言葉を踏まえて、あらためて十字架の意味を考えるならば、十字架に掛かられたのはイエスという一人の人間ではなく、メシアとしてこの世に与えられた主イエスであり神御自身であった、ということです。神は自らの命を犠牲にしてまでも、私たちを生かそうとして下さいました。その神の愛を私たちは注がれ、その救いの御計画の中に組み込まれています。だから私たちは安心して信仰の歩みを歩み続けるのです。共に感謝しつつ歩みましょう。
「岩の上の教会」2021/3/7
マタイによる福音書16:13-28
今朝の礼拝を私たちは受難節の三番目の主日として共に守っています。私たちはこの受難節を、主イエスの味わわれた十字架の痛みと苦しみを覚える期間として与えられています。その痛みが私たちの救いの為であったこと覚え、神に感謝するだけでなく、神から預かっている命を神の前に正しく活き活きと生かしているか、それぞれが、自らの信仰に照らして神の前で再確認する時として、与えられているのです。
受難節第一週の礼拝で、私たちは主イエスの十字架によって明らかにされた、私たちを誘惑して神から引き剥がそうとする罪の正体について聴きました。そして先週は主イエスが味わわれた十字架の痛みが、私たちの魂を砕く為に自らの命を楔として用いられた、その痛みであると聴きました。そして今朝与えられた御言葉から私たちは、主イエスが十字架を背負われたように、私たち自身も、自らの十字架を負いつつ主イエスの後に従う、という信仰の在り方を共に聴いて行きたいと思います。
さて、今日の御言葉も場面です。最初に「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき」(マタイ福音書16:13)と書かれています。このフィリポ・カイサリア地方とはどのような場所であったのか、まず、ここから見ていきます。
フィリポ・カイサリアはガリラヤ湖の北、ヘルモン山の麓の町です。以前はバニアスと呼ばれた町でした。イザヤ書では「海沿いの道」(イザヤ書8:23)として書き表されています。この海の道はメソポタミアから地中海に続く街道で、アッシリアの軍隊は、この道を上ってイスラエルに攻め込んで来ました。またアレキサンダー大王は、この道を下って東方遠征に向かいました。なぜこの場所が歴史に記録されているのか、というと、バニアスとは泉という意味の言葉で、巨大な石灰岩の洞窟があり、その中に地下水を湛える泉があったからです。この泉に、どんなに長い釣瓶を落としても底に着く事がなかったそうです。なぜこのような湖が作られたのか、というと、冬の間にヘルモン山の頂きに積もった雪が、春になると解けて地下に浸透し、石灰質の岩盤をくり抜いて、巨大な地底湖を作ったのです。そして、この水がガリラヤ湖に注ぎ込みヨルダン川の水源になり、死海へと続きます。つまりカナン地方を潤し、農作物を育む命の水の源となるのです。このことからカナン地方では、この泉は穀物を実らせる豊穣の神の住む場所として礼拝の対象とされ、カナン民俗信仰の神バアル・ヘルモンが祀られていました。また底なしの泉ということで、冥界(あの世)の入り口として古くから信仰の対象とされていました。その後、カナン地方全体がアレキサンダー大王に征服された後はヘレニズムの影響を受けてパンと呼ばれるローマ神話の神が、この場所に祀られるようになります。そしてヘロデ大王の時代になって、ローマ皇帝アウグストゥスを讃えるためにパンを祀った豪華な神殿が、三つの巨大な洞窟をふさぐような形で、石灰岩の硬い岩盤の上に建てられます。
このパンはローマの神話に登場する神で、角があり上半身が人間で下半身が山羊という姿をしています。牧羊神であり歌や踊りを好み、笛を吹き踊る神です。ですから、このパンが祀られているということで、バニアスは、今で言うところの歓楽街のような町であったと言われています。善良なユダヤ人たちはこの町に行くことを禁じていた、という記録があります。米国の神学者は、この町をラスベガスと例えていますが、人々が享楽にふける、そんな町だったと考えられています。でも、なぜこんな場所に主イエスは弟子たちを連れてきたのか、というと、主イエスはこの場所から十字架への道を上り始めるためだと、読み取るコトができます。預言者イザヤはこのように話します。「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書8:23-9:1)この「海沿いの道」が、この街道でありバニアスを指す言葉です。そして、主イエスがガリラヤで伝道を始める最初に、この言葉は引用されています。(マタイ福音書4:15-16)
つまりイスラエルにとって最も闇の深い場所、ガリラヤにあって最も罪深い場所から、光が差し込むとイザヤは預言し、主イエスによって成就するのです。その差し込む光とは主イエスの十字架なのです。ですから主イエスがこの場所で、始めて自らが神から遣わされた救い主、メシアであると、弟子たちに明らかにされます。その後、ヘルモン山に上り変容された姿を見せられ、そこからは一直線にエルサレムに向かわれる事になります。それまで主イエスは、教師のように教え、預言者のように癒やし、祭司の様に神に繋ぐ、そのような伝道を進めてきました。でもここからは神の子として、メシアとして人々を救う働きに移行するのです。つまり主イエスにとってこの御言葉の場面は、折り返し地点なのです。そして弟子たちにとっても同様に、折り返し地点となります。今まで彼らは、主イエスの働きを手伝う役割を担ってきました。でもここからは、今まで主イエスが行ってきた教師であり預言者である役割を彼らが担う事になるからです。
さて、今日の御言葉の場面に入ります。主イエスは弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(マタイ福音書4:13)と訪ねたと、聖書には記されています。なぜ、主イエスはこのような事を聞いたのでしょうか。それは弟子たちに自分自身の信仰の在り方を自覚させるためです。ですから「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(マタイ福音書4:15)の方が、本当に聞きたい事だったのです。
でも弟子たちは、まったくそんな主イエスの思いを汲み取ることなどできません。弟子たちは主イエスが自信を失って、心が折れて、自分についての人々の評価を聞こうとしているのではないか、と受け取るのです。彼らの目の前には異教の神を祀る巨大な神殿があり、人々が快楽に酔っているのです。誰も主イエスの存在に気づいて話しかけて来ることもなく、何かを求めて近寄ってくる者などいないのです。私たちも自信を失ったとき、誰かに意見を聞こうとします。例えば私が「今日の説教どうだった、分かった?」と誰かに聞くときは、自分に自信がない時です。
そこで弟子たちはこぞって主イエスを持ち上げようとします。「先生、自信を持ってください」と声を掛けるのです。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(マタイ福音書4:14)そして最後に、シモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ福音書4:15)と答えるのです。
ペトロはこの時、心から主イエスをメシアだと信じて、告白したのか、は、疑問です。でも主イエスもその事を分かっていて「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ福音書4:17)と話されます。つまり、おべんちゃらを言う(口先だけのお世辞)、先生を元気づけたい、先生に褒められたい。そんな不純な、人間的な思いから発せられた言葉、そんな罪に満ちた言葉が、ペトロの意図するところを遙かに超えて、神に用いられて、【神の真理】を言い表す言葉に用いられるのです。
そこで主イエスは続けて話します。「『わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」(マタイ福音書4:18-20)
主イエスとペトロの目の前に、硬い石灰岩の岩盤の上に立てられた煌びやかなパンの神殿があり、その神殿に塞がれるように洞窟があり、その洞窟には冥界(あの世)の入り口と信じられていた泉があります。主イエスは、このような岩、ニセモノの神、作り物の神殿、迷信で語られる冥界(あの世)ではなく、あなたを岩として、その上に教会を建てると話すのです。きっとパニアスを訪れた人々は、神殿の祭司に泉に続く扉を鍵で開けてもらって、中に入っていたのでしょう。しかし、本物の天の国の鍵をあなたに渡そう、と。このように読みますと、主イエスが「陰府の力もこれに対抗できない。」と話した意味も見えてきます。ではペトロはこの言葉をどう受け取ったのでしょうか。ペトロは主イエスに褒められた、自分が一番弟子である事を認められたと、自分が主イエスの後を継ぐ者と言われていると誤解し、有頂天になるのです。でも、すぐにペトロは自らの間違いに気づかされます。それがこの後の場面です。
主イエスは弟子たちに、これから後エルサレムに上り、そこで殺されると話し始められます。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』」(マタイ福音書4:23)ペトロは主イエスがまだ自信を失っていて、弱音を吐いていると勘違いするのです。そして、そんな弱音を吐いていたら、弟子たちの士気も落ちてしまう。一番弟子の私が先生に意見しなければ、と主イエスを脇に連れて行って、主イエスに助言するのです。そのペトロを主イエスは叱責します。「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」(マタイ福音書4:23)」最も強い言葉で叱るのです。
でも、それでも主イエスはペトロを赦されます。ペトロは主イエスの存在をまったく誤解しているのです。彼は主イエスをメシアと信じて告白したわけでもない。でも、たとえそうであって、ペトロは自分が告白した「主イエスはメシアである」言葉によって、主イエスは彼を「幸いだ」と祝福されたのです。「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」(マタイ福音書4:24)つまり主イエスはペトロに、神を神だと信じ切ることのできない罪、つまりあなたの十字架を背負ったままで良い、と話します。その十字架を背負ったまま、私に従いなさい、つまり告白しなさい。その告白の言葉によって、あなたは祝福されるから、と、そう話すのです。
私たちも、ペトロと同じです。0.000001%の疑いも心に抱かず「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白できる者など、この世のどこにもいません。でも教会では洗礼を受けて信仰者となるときに告白するではないか、と言われるかもしれません。もし0.000001%でも疑いがあるなら、それは告白ではないのではないか、信仰告白に意味などない、と言われるかも知れません。でも私たちにとっての信仰告白は祈りなのです。私たちは罪を負っていて0.000001%の疑いも心に抱かずに「主イエスは私の救い主です」と告白できないのです。でもそんな私だけれども、どうか私に、告白させて下さいと祈るのです。信仰告白とは祈りの言葉です。そして、私たちがそのように告白する時に、私の意図するところを遙かに超えて神がその告白の言葉を用いて下さる。それが人間的な思いや罪の結果から言葉になった告白だったとしても、その告白によって私たちは祝福されるのです。私たちは自分の意志によって神の救いに束縛されるのではなく、告白する言葉によって神の救いに束縛されるのです。
教会も同じです。目に見える教会は罪を負っています。でも良いのです。その罪を負った教会の告白ごと神は用いられて祝福されるのです。神は揺るぎない岩の上に教会を建てられました、共にこの教会において礼拝を捧げ、自らの十字架を背負いつつ主イエスに従いましょう。
礼拝説教原稿
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