礼拝説教原稿
2021年2月
「汚してはいけないもの」2021/2/28
マタイによる福音書12:22-32
以前、私が働いていた工事現場では、朝、作業員が集まって点呼が行われた後、作業に入る前に必ずラジオ体操が行われていました。作業服を着てヘルメットを被って、腰のベルトには重い工具を沢山ぶら下げて、ジャラジャラと体操するのです。最初は、健康の為かな、と一緒にやっていたのですが、そうではなく柔軟の為だと現場監督から教えられました。体の筋と筋肉を伸ばして柔らかくすることで、作業中に怪我をする率が低くなるのだそうです。そう言われてみるなら、子どもは勢いよく転んでも骨を折ることも捻挫をする事も少ないのです。体が柔らかいから、衝撃をクニャっと吸収することができる。体が硬くなった大人なら骨折してしまいます。
体だけではなく、私たちの心も同じです。時々、柔軟体操をして伸ばしてあげないと固くなります。自分の内側にある思い込みや、姿勢を変えることができなくなる。傾いていたり歪んでいたり、捻くれていても、それに気づかず、そのままの形で固まってしまうからです。それに硬くて丸くない、角張っているから、ぶつかると痛いのです。自分に関わる相手の心も痛め、自分自身をも傷つけます。そして固い心は自分に投げかけられた言葉や思いを撥ね除けますから、さらに硬くなるのです。
例えば、聖書にニコデモという青年の話が記されています。主イエスは、夜中に訪ねてきたニコデモに話し掛けます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ福音書3:3)。彼は名家に生まれ、幼い頃から教育を受け、財産を持ち、使用人を抱え、最高法院の議員として人々の為に働いていました。彼は大きな責任と期待を負いながら、でも、この世に対しても神に対しての誠実に答えようと頑張っているのです。それゆえに彼の心はさまざまなこの世の束縛によって雁字搦めになっていました。そこで主イエスはニコデモに「一度、心の中をまっさらにしてごらん」と声を掛けるのです。主イエスは彼の心をほぐされようとされます。心を柔らかくするならあなたが求めている真理を知ることができる、と話すのです。でも、彼はその言葉を受け入れることができず、悲しみ嘆きながら自分の家に帰って行くのです。
とても大雑把な表現になってしまいますが、この世にあって主イエスが行われた働きは、人々の硬くなってしまった心をほぐすこと、です。ほぐして柔らかくする。そして、柔らかくなった心に聖霊が働き、神に繋がれ、新しい命が注がれるのです。
主イエスの働きについて、そのように聞くなら簡単なことのようです。でもそれは、とても困難な作業なのです。なぜなら一度、硬くなってしまった心は、どんな言葉をも弾くからです。一度、駄々を捏ね始めた三歳児の心をほぐすことは至難の業です。また挫折を経験することなく、権威や地位を得て、長く一つの環境に留まっていた人の心を動かす事も難しいと、私たちは知っています。つまり、ほぐす、という作業ではなく、砕くという作業になる。砕くために叩かれるなら、相手も痛いので反発し怒鳴り、手を上げてくるのです。
では主イエスはどうされたのか。そこまでして、あなたを神の救いに招こうとは思わない。関わる筋合いではない、と踵をかえしたのか、というとそうではありません。主イエスは退かず、その硬い心に楔を打ち込まれ続けます。そして最後には自ら十字架に架かり、その命を楔とされました。この楔を打ち込んで、人々の硬い心を砕かれたのです。心を砕かれる方も痛いですが、砕く主イエスの手も身体も、とても痛いのです。でも主イエスはその痛みを負われます。それが、主イエスが十字架上で味わわれた痛みです。主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ福音書5:44)と話します。たとえ自分に敵対する者であっても、その心が砕かれるまで関わり続ける。それが主イエスの話された「愛」の本質なのです。
さて、今朝与えられました御言葉に、こうあります。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、【霊】に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ福音書12:31-32)この言葉の意味する事は、何でしょうか。自分の心を砕かれる痛みに耐えきれず、叩かれる主イエスに刃向かう者たちについて、先ほど話しました。それは致し方ないことなのです。でも、主イエスの言葉によってようやく心を砕かれた者たちの心に聖霊が働く前に、その心を神ではなく別の何かに繋げてはいけない、聖霊の働きを妨げてはいけない、と、主イエスはここで話されるのです。今朝与えられた御言葉に描かれているファリサイ派の人々は、主イエスによって砕かれ清められた人々の心を、再び汚そうとしてしまうのです。共に物語を読み進めます。
主イエスはガリラヤの町々の会堂を巡り、人々に教え癒やされます。多くの人々はその言葉を聞いて癒やされ、希望と恵みを与えられ、主イエスを信じ、従うようになります。日に日にその数は増えていきます。また病を癒やされた人々も主イエスに従います。かれらは、病の苦しみと不安、痛みを経験していて、自分の力ではどうにもならないことがある、と身に染みて知っている者たちです。でも主イエスに出会い、神の存在を知り、自分の存在をも認められます。病を患った原因も神に嫌われているのではないと告げられるのです。彼らの心は即座に主イエスの言葉によって砕かれるのです。
しかし、ユダヤ教の律法の教師であるファリサイ派の人々は、そのような主イエスの働きを不愉快に感じるのです。なぜなら彼らは、自分たちだけが人々を正しい信仰に導いている、という誇りをもっていたからです。彼らは幼い頃から律法を学び続け、律法を守り続け、教師として選ばれ、ユダヤの人々に律法を守らせる役割を負ってきました。そうやって自分の親の代、その親の代と続けて、ユダヤの人々を正しく神に繋ぎ、人々の魂を守る事が自分たちの命を賭けるだけの意味のある使命だと、彼らは信じていたのです。
主イエスが活動を始めた当初、彼らはどこかで、高を括っていたのではないか、と思います。民衆の熱狂も一時的なモノだと。祭司でも王でもない、エルサレムではなくナザレで生まれた大工のせがれにすぎない。ただ奇蹟的な癒しや、言葉に人々は惑わされているだけだと、そのうち冷めるだろうと、そう考えていたのだと、そう思います。しかし、先ほど読みました御言葉の場面で、状況は一転します。それは、この言葉です。「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った。」(マタイ福音書12:22-23)「ものが言え、目が見えるようになった」という言葉、この言葉には特別な意味があります。この言葉は預言者イザヤが、後にメシアが現れた時にはこうなる、と話し、預言書に書き記された言葉だからです。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザヤ書35:5-6)ファリサイ派の人々も、暗唱できるくらいに聖書に精通しているのです。主イエスが人々に行っている一つ一つのこと、そして人々に与えられている喜びを見るならば、この預言者イザヤの言葉が成就している事に気づかないわけがないのです。この主イエスこそ、聖書に約束されている、この地上を世の終わりに到来するメシアだと、彼らは気づくのです。では、彼らは主イエスを認めたのか、というと、そうではないのです。逆に彼らの心はさらに硬くなってしまうのです。言葉に耳を塞ぐのです。
でも、そこまでなら、主イエスも彼らをキツく叱ることはなかったのです。「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」(マタイ福音書12:31)と主イエスは話されます。主イエスに刃向かい迫害したとしても、神は赦されるのです。しかし彼らはそこに留まりませんでした。自分の罪を受け入れられないだけではなく、彼らは主イエスによって砕かれた人々の心に、疑いという汚れを塗ろうとするのです。それがこの言葉です。「しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない』と言った。」(マタイ福音書12:24)
この当時、ベルゼブルとは悪霊の頭として、この世で悪さをする沢山の悪霊を束ねる存在として信じられていました。この世で起きる悪い事の原因はすべて悪霊の所為だと考えられていました。そしてファリサイ派の人々は、主イエスが人の病を癒やすことができるのは、主イエスこそが悪霊の頭ベルゼブルだからだ、と話すのです。「イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。」(マタイ福音書12:25)と聖書には書かれています。主イエスは、彼らはファリサイ派の人々が、自らの過ちを認める事ができないばかりか、過ちから目を背け、表沙汰にならないように、さらに人々の心を欺こうとしていると、その心を見抜かれるのです。
でも主イエスは冷静に、彼らの言葉に反論します。悪霊の頭が、悪霊たちに命じている事と正反対の事をすることはないだろう、と。そして、そのように話すあなたたち自身が人々を神から引き剥がす、悪霊の役割を担っている事に気づきなさい、と話すのです。さらに「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」(マタイ福音書12:30)と話します。この言葉の意味とは何でしょうか。神はこの世に「強い人」として主イエスを救い主として与えられました。そして、人が神と繋がる事ができるのは、この主イエスを通じてだけなのです。つまり、何らかの切っ掛けや機会(病気や事故、失敗)を通して、頑なになった自分の心に気づいて、反省して砕かれればよいと、いう訳ではなく、主イエスの言葉と業によって砕かれること、その先に、正しく神との繋がりに導かれると話されるのです。そしてもう一つ大切な事は、ファリサイ派の人々のように、砕かれた心を神以外の、この世のなにか、に繋いではいけない。それだけは、決して赦されることはない「この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ福音書12:32)と話されるのです。
私たちが聖書に触れ主イエスの言葉を聞いて、素晴らしい教えだと受け取る事は、それはそれで良いことだと思います。苦しみや悲しみを負った心を主イエスの言葉は癒やされるからです。でも、主イエスの言葉の本質的な役割は、私たちにとって「躓きの石」(ロマ書9:33orイザヤ28:26)なのです。私たちにとって主イエスの言葉は私たちの心を砕くために打ち込まれた楔なのです。御言葉に痛みを感じる、反発を覚えることが、人として当たり前の反応なのです。でもその痛みに真摯に向き合い、主イエスよって砕かれる事を望むなら、私たちは天の国を見ることができるのです。
そしてもう一つ、教会は、せっかく主イエスによって砕かれた心を、聖霊にではなく、この世の別の何かに繋ぐようなことをしてはいけません。私が正しく主イエスに繋がっているのか、教会に集う方々を主イエス以外の何かに繋いでないだろうか。だから教会に招かれ信仰を与えられた私たちは常に自らの信仰を検証しなければならないのです。共に正しく主イエスに繋がって歩みましょう。
「敵は何処に」2021/2/21
マタイによる福音書4:1-11
試験とかテストを受けることが好きだ、と言われる方は少ないように思います。私は小学校の頃に、赤字で三十点と大きく書かれた解答用紙を机の中に隠していて、母に見つかって酷く叱られた記憶があります。なぜ隠したのか、と思い出してみるに、良い成績を取る事ができない頭の悪い自分を責めて、情けなく思って隠したのです。そして母は、テストの点数もさることながら、隠したことを叱ったわけです。なんだか辛い記憶です。でも今思うに、ここに大きな勘違いがあります。つまりテストとは本来、評価の手段のためにあるのではなく、効果測定の為に行われていた、のです。つまり何が解っていたか、ではなく何を間違ったのか。赤丸にはあまり意味はなく、バツがつけられた問題がどこかを知る為に、試験が行われるのです。だから三十点を嘆くのではなく、残り七十点をどうやって学べば良いか、と考えるべきだったのです。自分に何ができて、なにができないか、自分は何が解っていて、何が解っていないか、それを知るために試験はあるのです。実際に体を動かしてみて、心を動かしてみて、やってみることで、新しい課題が与えられ、それを解決したら、次の課題が与えられる、その繰り返しが、私たちの歩みです。課題が与えられる、つまり試されることを通して自分が何をすれば良いのか、どこに進めば良いのか、が見えてくるのです。さらには自分が何者か、も見えてくるのです。
さて今朝、私たちに与えられました御言葉の中に「誘惑」という言葉が使われています。口語訳の聖書では「悪魔に試みられるためである。」と書かれています。この(peira¿zw peirazo)は「試す」「試練をうける」という意味の言葉です。でもなぜ主イエスほどの強く清らかな方が、悪魔からの誘惑を受けられるのか、と私たちは考えるのです。誘惑されても悪魔の誘いに陥ることなどないだろう、と。例えば私たちのような、ふらふらとした心の定まらない、いい加減な者であるなら、悪魔に限らず誘惑に陥ることも考えられます。でも着目点が違うのです。悪魔が主イエスを誘惑することによって見えてくるのは、主イエスが墜ちるか墜ちないか、ではなく、悪魔がどうやって主イエスを誘惑したのか、なのです。そこから、悪魔がどうやって私たち人間を誘惑するのか、が明らかになります。三十点より七十点を見るのです。
私たちはこの御言葉をよんで、主イエスが悪魔から試みられた言葉を聞いて、悪魔がどのように私たちを誘惑するのか、その声を聞くことができます。悪魔とは黒くて羽根が生えていて尻尾が尖っている、そんな姿をしているわけではありません。悪魔とは、私たちを神から引き離す諸力のことです。悪魔は私たちを、私たちの命の源である神から引き離し、私たちの魂を飢えさせ、枯渇させ、心を殺してしまいます。例えば畑に植えられたトマトの苗は、大地から水と余分を受けるだけでは育ちません。天からの太陽の光を受けなければ涸れてしまいます。そして、心が死んだ人は「生き物」ではなく「物」になります。この、コップとか鉛筆と同じ「物」です。物ですから、隣にいる誰かも物として扱うようになり、誰かを壊したり自分を壊す事にも躊躇がなくなるのです。人として人と係わることができなくなる。つまり相手を自分と同等の存在として意識すること、つまり愛という関係を失うことになるのです。ですから、私たちは悪魔の誘惑に打ち勝たなければならないのですし、その悪魔の誘惑の手段を、主イエスは自らが誘惑されるという事柄を通して、私たちにお教えになられるのです。では悪魔が、どうやって私たちを誘惑するのか、私たちの命を奪おうとしているのか。闇に落とそうとしているのか、その言葉を聞いていきましょう。
さて、場面は主イエスが洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた後のことです。主イエスはその後すぐ荒れ野に向かわれます。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」(マタイ福音書4:1-2)この四十日間という日数について、旧約聖書では、来たるべき時の前の準備の期間として書き表されます。例えばノアの箱船の物語に描かれている洪水は、四十日四十夜降り続いた雨によって引き起こされ、神が造った全ての生き物は地の面からぬぐい去ります。そのあと地上の水は引き、新しい時代が始まります。モーセが神から律法を受け取るときには、モーセは四十日四十夜、シナイ山に留まり、神に逆らったイスラエルを執り成していただける様に神に願い、祈り続けます。その後、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記します。ユダヤの民はこの時、律法を与えられ、ここから神との新しい契約関係をはじめることになります。そして主イエスの荒野での四十日も同様に、神と人との次の関係が始まる為の準備の時として与えられた期間です。四十日の間、主イエスは荒野をさまよわれ、この世に自らを現されます。主イエスという御身体を持った神を介して、この世と神との新しい関係が始まるのです。
あと、これは余談ですが、主イエスが復活された後に使徒たちに現れた日数も四十日です。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」(使徒言行録1:3)とあります。そして主イエスが天に帰られた後、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が下ります。ここからは聖霊を介して、この世と神との新しい関係が始まります。聖書に書かれている四十日間とは、次の来る素晴らしい事の為の準備の期間を表します。その四十日は心を静かに神に向けて、苦難を忍耐し、しかし来たるべき希望を抱きつつ待つ、その為の時として神から与えられているのです。
さて、では主イエスに現れた悪魔は主イエスになんと語り掛けたのでしょうか。主イエスは断食し荒れ野をさまよわれ、空腹と渇きを覚えられていました。そこで悪魔は声を掛けます。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイ福音書4:3)しかし、主イエスは答えます。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ福音書4:4)「人はパンだけで生きるものではない。」有名な言葉です。でも大切なのは次の言葉です。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。先ほど話した様に、私たちは神との関わりを切られると、魂が死んでしまいます。肉体は生きていても心が死んでしまう。この「神の口から出る一つ一つの言葉」とは「言葉」だけの事ではなく神との関係を意味します。呼べば答える、正しく神に信頼し祈る関係の中に置かれる、ということです。
次に、悪魔は主イエスを神殿の屋根の端に立たせて言います。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ福音書4:6)。ここで目を留めるべきは、悪魔が聖書の詩編(詩編91:11-12)に記されている言葉で主イエスを誘惑している、ということです。悪魔は聖書に記された神の言葉を熟知していて、その言葉を使って私たちを信用させた後、少しずつ狡猾に神から引き離そうとします。シェイクスピアの戯曲「オセロ」の中に、このようなセリフがあります「悪魔が、最悪の罪に人間を誘いこむときには、まず天使の姿を借りてあらわれる」少し怖いと感じる言葉です。
でも恐れることはありません。主イエスは悪魔と天使の見分け方についてこう話します。「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」(マタイ福音書12:33)。また毒麦の譬えではこのように話されます。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」(マタイ福音書13:30)物事に対してすぐに判断するのではなく、でもまたすぐに信用するのではなく、まず係わること。係わって待ち、そこから生み出されたものを見る。そしてそれが神に捧げられるものどうか、で判断すれば良いのです。
この悪魔の誘いに対して主イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。」(マタイ福音書4:8)と答えます。神を試みること。私たちは、困難に直面したとき、神が私を助けられるのだろうか、救って下さるのだろうか、と神を疑うのです。そしてすぐに目先の結果で神を判断してしまいます。でも、警戒しなければなりません。そのとき自分を救ったように見えたのは、実は悪魔の仕業かもしれません。私を救わなかったように見えたのが神の御心だったかもしれません。すぐに判断するなら、悪魔の罠に墜ちてしまいます。私たちは、すぐに神を試すようなことをするのではなく、時間をとって、つまり四十日の期間をとって、その事柄と関わり続けて、その結果を忍耐しながら、希望を抱きながら実りが生るのを待つのです。でも闇よりも光は強いのです、悪魔よりも神の方が強いのですから、忍耐して神を信じて待てば良いのです。
そして最後に、悪魔は主イエスに世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタイ福音書4:9)と誘います。この世の目に見える繁栄は、それ自体は幸いなことです。私たちは多くの利便性を享受し安定して平穏な生活を与えられています。でもそこに心の隙が生じるのです。バベルの塔を作った者たちは、木や岩ではなくレンガを使い、泥ではなくアスファルトを充填剤に使いました。その様にして自分たちの力を誇り神に触れようとしました。彼らは神から与えられた力を自分たちの力だと誤解し、礼賛し始めた時、魂が神から離れるのです。その枝に実った果実は、分断と混乱、争いと破壊なのです。
ですから主イエスは話されます「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(マタイ福音書4:10)この「拝む」(proskune÷w proskuneo)とは、まことの礼拝を捧げる、ということです。私たちが悪魔の誘惑に墜ちいらないために、神は私たちに礼拝を捧げることを許されている。愚直に主に仕えること。神の前に一人の人間として立つ事、日々の生活の中に神を覚える安息日を置き、礼拝を捧げるのです。そうするなら私たちは自分自身を絶対化する、心の傲りから解かれるのです。誘惑を断ち、魂を活き活きと保つことができるのです。
主イエスが荒れ野で試みを受けられる、この聖書の記事を通して、私たちは、主イエスがこの世にあって戦った相手を知ることができます。それは外にあるもの、例えば国家でも政治でも社会でも、思想や概念でもなく、私たち一人一人の内なる魂を神から引き離そうとする、私たちに内在する罪という力です。主はこの罪を明らかにするために自ら十字架に掛かられました。私たちの信仰の戦いの相手は外にいるのではなく、自らの内に潜んでいます。しかし主イエスは聖書の御言葉と私たちが祈る時に与えられる聖霊の働きによって私たちの魂に光をあてて下さり、魂の闇の内に潜む罪を明らかにして下さいます。闇は光に勝つことはりません。私たちはその罪に打ち勝つことができるのです。主イエスは「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ福音書12:36)と話します。光が必ず与えられる事を信じつつ、共に歩みましょう。
「まっすぐに前をむいて」2021/2/14
マタイによる福音書14:22-36
波立つガリラヤ湖の水面を主イエスが歩かれた物語、を読む度に、私は、はじめて自転車に乗れた時の事を思い出します。ようやく自転車の補助輪を外してもらって、私は兄と近所の公園に行きました。サドルにまたがり足で地面を蹴って前に進むのですが、なんどやってもペダルに足を乗せることができません。左右の軸がフラフラと揺れるので足に力が入らないのです。そのとき自転車の後ろの荷台に兄が腰掛けました。そうやって自転車のバランスを取ってくれたのです。私はようやく両足でペダルを踏み込んで自転車が前に進みます。「おお乗れた」と喜んだとき、急にペダルが軽くなります。兄が荷台から飛び降りたのです。気づいて後ろを振り返った時、自転車はバランスを崩して激しく転けました。私は思いっきり膝を地面で擦って血がダラダラと出ました。その様子を見て、兄はゲラゲラと笑っていました。でも、この時から私は補助輪を外して自由に、自転車に乗ることができるようになりました。
自転車に乗って左右のバランスをどう取るか、なんてことは、どんなに言葉で説明されても、教わることなどできません。実際に自分の身体と心を動かしてみる。そして痛い目をみる。自分の身体と感覚で経験してみる、体感で捉えなければ手に入れることは出来ないのです。そして教える者の役割は、最初にコツを教えることと、じっと辛抱して見守ること。そして失敗したときに、その姿を眺めながら笑うことです。笑うといっても相手を馬鹿にした笑いではなく「しょうがないなぁ」という相手に安心感を与える種類の笑いです。失敗した者も、その笑顔を見て「やっちゃった」と泣きながら笑い返せるからです。安心して失敗できる環境が成長には必要なのです。
さて、今朝、与えられました御言葉の最初に、主イエスは弟子たちを「強いて」舟に乗せ、ガリラヤ湖の対岸に向かわせます。この「強いて」(anagkazo)は「力ずく」とか「強制する」の意味の言葉です。主イエスは半ば強制的に弟子たちを船に乗せ、ガリラヤ湖に送り出します。そこで弟子たちは困難を経験します。でもこの経験を通して弟子たちは、これから自分たちが送り出される伝道の働きについて、それぞれの神との関わりについて教えられます。私たちもこの聖書の物語を通して、私自身の日常的な恐れや不安について、そして神への信頼を教えられます。ではなぜ、主イエスは弟子たちを「強いて」舟に乗せたのか、そこから聴いてまいりましょう。
さて御言葉の最初に「それからすぐ」(マタイ福音書14:22)と書かれています。「それから」が何を指すのかというと、主イエスが五千人の人々を二匹の魚と五つのパンで満たした、いわゆる「五千人に給食」の物語を指します。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって洗礼者ヨハネの首がはねられたとの知らせを受けた主イエスは、人々から離れて一人静かに祈る為に、町から少し離れたガリラヤ湖の向こう側に向かわれます。しかしその事を知った人々は主イエスの後を追ってついてくるのです。人々も主イエスと同じように、洗礼者ヨハネの死について深い痛みを負っていました。なぜなら彼らにとって洗礼者ヨハネは自分たちを正しく神に繋いでくれる、希望の光だったからです。その希望が失われたのです。深い不安と恐れを感じていた人々は、新しい希望を求めて主イエスに心を寄せます。ある者たちは舟に乗って、ある者たちは湖岸を歩いて、多くの人々が主イエスの後に従ってきてしまうのです。
主イエスと弟子たちを乗せた舟は対岸につき、そこに降りると多くの人々が既に集まっていました。そこで主イエスは「大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。」(マタイ福音書14:14)と聖書には記されています。そして空腹を覚えた五千人もの人々を広い場所に座らせて二匹の魚と五つのパンで満たすのです。そのとき主イエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイ福音書14:16)と話します。弟子たちは主イエスから与えられたパンと魚を人々に分けて配ります。でも、幾ら分けて配ってもパンも魚もなくならない、逆に増えていくのです。彼らは自らの手で神の奇蹟が行われていることに驚きます。そのようにして、弟子たちも人々も、そして主イエスも洗礼者ヨハネの命が取られた喪失感を、神の恵みで補われるのです。でもその後、人々の心に隙が生まれます。洗礼者ヨハネの後、この主イエスに自分たちの指導者になっていただこう、この方と共にいればもう飢えることも、病に嘆くこともない、そう考えるのです。ヨハネ福音書の並行記事には「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(ヨハネ福音書6:15) とあります。マタイ福音書に、その様な記述はありませんが、人々の間に同様の空気が生まれたと考えるのが自然でしょう。
そこで主イエスは「群衆を解散」(マタイ福音書14:22)させられます。この「解散」(ajpolu/w apoluo)という言葉は「帰らせる、縁を切る、追い払う」という、かなり強い言葉です。こう読みますと、主イエスの心が進んで人々との関わりを断ったかのように読めます。でも、そうではありません。主イエスとの本来あるべき関わりを断ったのは人々の心なのです。彼らは主イエスの奇跡に依って心の不安を取り除かれ、空腹を満たされます。でも神の恵みである奇跡に心が慣れて緩慢になり、その心が神から離れてしまうのです。彼らの心は目に見える主イエスに向いてしまうのです。神に感謝をするのではなく、かえって神の力を自分たちの為に利用しようと考える。たとえそれが全知全能の、世界と自分を創造された神であっても。人は相手の為に自らを捧げるのではなく相手から奪い取とうとする。主イエスはこの時、人の心の罪と心の闇の深さを嘆かれるのです。結局、最終的に自らが十字架に掛かり、その犠牲によってのみ、この黒くベタついた罪を拭い取る事ができない。主イエスは、先にある十字架が避けられない事を見せつけられるのです。そこで主イエスは人々を解散させるのです。でも主イエスは、弟子たちには、この人の罪の深さを気づかせようとされます。そこで主イエスは彼らを「強いて」舟に乗せ、先に対岸の町に帰るように命じます。弟子だけを舟に乗せるのです。
さて、彼らは舟で対岸に向かいます。彼らの多くは漁師です、舟の扱いには慣れています。でも沖合に出ると向かい風が強くなり、波も高くなり、今にも舟は沈みそうに激しく揺れます。進むも戻るもできなくなるのです。そんな事をしているうちに、夜の闇が周りを包みます。彼らはただ重心を低くして、一晩中、じっと船梁にしがみついていることしかできないのです。そして夜が開けるころ、薄明の中を主イエスは、まだ波立っている湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいてきます。「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」(マタイ福音書14:26)と聖書には記されています。彼らは自分たちがもう死んでしまったのか、と考えるのです。でもすぐに主イエスは弟子たちに話しかけられます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ福音書14:27)弟子たちは安堵します。そして自分たちがまだ生きている事を確認するのです。
そこでペトロは主イエスに話しかけます。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」(マタイ福音書14:28)ペトロは目の前の主イエスが水面の上を歩いている姿を見て、主イエスが自分たちを助けに来てくれた事を喜び、そして助けられた事に感謝するのです。でも、自分が救われた、助けられたと安心するとすぐに、ペトロの心は、神の恵みと救いの現れである奇蹟に慣れて緩慢になるのです。自分も水面の上を歩いて、主イエスに近づきたいと願うのです。では主イエスはこの願いを断るのか、傲慢だと叱るのか、というと、そうではありません。主イエスはペトロに「来なさい」(マタイ福音書14:29)と話されます。
そこで、「ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進」(マタイ福音書14:29)みます。ペトロは水の上を歩きはじめます。でも主イエスの目の前まで歩き着いた時、強い風が吹いていることに気付いて我に返ります。それまで主イエスに向いていた心が自分自身に向くのです。すると彼の足は水の中に引き込まれ始めます。少しずつ沈んでいくのです。彼は「主よ、助けてください」と叫びます。主イエスはすぐに手を伸ばしてペトロの手を捕まえ、引き上げます。そして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(マタイ福音書14:31)と話すのです。
私は今まで、この主イエスの言葉の語調を、ペトロに対する叱責のように考えていました。「なんで疑ったのか」と叱っている感じです。でも、今は、優しく笑いながら、たしなめた言葉のように思えるのです。「なんで疑ったんだい」という語調です。ペトロと他の弟子たちは、このあと主イエスを離れてそれぞれに町や村に使わされて伝道をはじめます。また主イエスの復活の後は、彼らだけで、世界中に福音伝道の為に向かう事になります。その時の為に、弟子たちが神の恵みについて勘違いしないように、主イエスは教えるのです。神からの恵みを自分の力であるか、のように勘違いしないように。神からの恵みを、当たり前であるかのように感謝する事なく受け取る事のないように。神の恵みの業を自分の利益の為に使おうと思わないように。何より、自分が神に近づける、神になれる、と傲慢にならないように。この後、もしペトロの心に隙が生じたときには、その度に自分の足が水面に吸い込まれていく恐怖を思い出すことになるのです。でも同時に、自分の手を捕らえて引き上げて下さった主イエスの手をも、ペトロは思い出すことになります。このようにして主イエスはペテロと弟子たちの魂に、正しく神の前に立つための魂の在り方を教育されたのです。
私たちも彼らと同じなのです。苦しいとき、困難にぶつかったとき、私たちは必死に祈るのです。そして神はその祈りに答えて下さいます。救われた、そのとき、私たちは神に深く感謝するのです。でもその後はどうかというと、感謝は薄れるのです。さらには神の与えて下さった奇蹟が、あたかも当たり前のことであったように受けとめてしまうのです。生かされている事、生きる環境を与えられていることに満足して、お腹がいっぱいになると満足するのではなく、もっと、もっと、その手に抱えきれない程に求めはじめるのです。でも神は、それぞれに適した大きさの恵みを計られ、既に与えられています。主はパウロに「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)と話されます。この神を知り、信じ感謝する時に、私たちは救いと平安を与えられるのです。
神の恵みと救いは神からの一方向のプレゼントです。ただ神は一方的に私を憐れんで恵まれます。そして神は私たちに何らかの代償を求められません。私たちが何か優れているからとか熱心だったという評価によって与えられるのではありません。だったら感謝する必要も意味もないのか、というとそうではありません。神の恵みを蔑ろにして途端に私たちも沈み込みます。恐怖と不安の水面に心が吸い込まれるのです。私たちは神の恵みによって生かされている事。今、当たり前のように生きている事も、神の奇跡によって生かされると、そう覚えて、神に感謝しつつ、共に歩みましょう。
「祈りを捧げる心」2021/2/7
マタイによる福音書15:21-31
先日、窓越しに公園で遊んでいる親子の姿を眺めていました。若いお父さんが歩き出したばかりの男の子を連れて遊ばせています。子どもは公園の遊具よりも外の道路に興味があるらしく、歩道沿いの低いフェンスに向かってヨチヨチと進み、その度に父親に抱えられて芝生の上に戻されます。このやり取りが何回か続き、ついに子どもは泣き出しました。声は聞こえなかったのですけど、ギャンギャン泣いていました。
子どもの表情は多彩です。喜び怒り哀しみ楽しむ。私はその表情を見ていて「子どもらしい」と思います。でも同時に「子どもだなぁ」と、未熟な存在として見ている自分にも気づかされるのです。大人は、どんな時にも動揺せず思慮深く、寡黙で落ち着いている。それが成熟した完成した人間の在り方だと、私は考えているのです。でも、本当に人間として人間らしく生きているはどちらなのでしょうか。それはニコニコ笑いながらフェンスに向かって歩いている子どもの方ではないか、と思うのです。もし喜び嘆きもしないなら、既に死んでいる状態となんら変らないからです。生きていないのです。「生きている」とは心臓が動いている事ではなく、心が動いていることだからです。
そして聖書は神を「生ける神」(申命記5:25)と記します。つまり神は無表情に穏やかな微笑みを私たちに向けられているだけの方ではなく、しっかり心を動かして感情を持たれて、私たちと関わられる方だと聖書は記すのです。モーセに自らの姿を現した神は「あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。」(出エジプト34:14)と自らのことを証します。ちなみに以前の訳で「熱情」は「ねたむ」と訳されていました。私は、こっちの言葉の方がシックリきます。そして福音書に記された言葉から読み取れるのですが、神の子である主イエスも豊かに感情を表に出されます。主イエスも無表情ではなく、激しく怒り、憤り、失望し、喜び笑われるのです。
そして今朝、与えられました御言葉の場面で、主イエスは明らかに「イラッ」としています。そして、目の前に現れたカナンの女を「子犬」と呼び捨てるのです。この「子犬」とは相手を侮蔑する時に使う言葉です。「いやいや、きっとカナンの女を試す為に考え抜かれて、この言葉を使ったのだ」と言われるかも知れません。でも私はそうではないと考えます。主イエスは「イラッ」として直情的に「バシッ」と言い放った、と素直に読むべきです。でも、だからこそ、ここに生きている神と、生きている人との直接的な命の交わりがあるのです。そして、この交わりの後にカナンの女は新しい命を与えられるのです。でもなぜイライラしていたのか、共に御言葉に聴きいてまいりましょう。
今朝の御言葉の最初に「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。」(マタイ福音書15:21)と書かれています。このティルスとシドンとは、ガリラヤから北西に八キロ先に進んだ地中海に面した町です、ユダヤ人の住む町ではなく異邦人が住む町です。ここに主イエスは弟子たちと共に来られます。なぜ主イエスは異邦人の待ちに来られたのでしょうか。それは、この少し前の聖書の箇所を読むと様子が見えてきます。この場面で主イエスはガリラヤ湖畔の町で律法学者や祭司たちに弟子たちの態度を指摘され、議論しています。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」(マタイ福音書15:2)「難癖をつける」という言葉がありますが、彼らは主イエスが民衆から支持されている事を嫉んで、人々の前で主イエスに恥をかかせようとするのです。しかし逆に主イエスは彼らの恣意的(自分に都合の良い)な律法理解を指摘するのです。でも、こんなやり取りに主イエスは疲労される。頭が固く頑固になってしまった心を砕くのは並大抵の根気では適わないし、明かな間違いを指摘しているのに、でも聞き入れられない相手に付き合うのは疲れることです。この律法学者たちとの会話を読むに、主イエスが、かなりカリカリしてことが分かります。そして弟子たちを連れて、少しユダヤ人の町を離れられるのです。今どきの言葉を使うと、少し休暇を取られるのです。ですからユダヤ人のいない土地、異邦人の町、ティルスとシドン地方に向かうのです。
さて、その行く道の後ろをカナンの女が大声を上げながらついて来きます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(マタイ福音書15:22)声が届くギリギリの距離から、大声で叫んでいるのです。
カナンの女のカナンとは、エルサレムからガリラヤを含むこの地方の呼び名です。このカナンの地を聖書は「約束の地」と呼びます。メソポタミアのハランに住んでいたアブラハムに神は語りかけ、カナンの地をアブラハムと子孫のものとする、と約束します。そしてアブラハムはカナンに入植し、その子孫たちは何世代もかけて定住するのです。では、もともとカナンに住んでいた原住民であるカナン人はどこに行ったのか、というと、ユダヤ人によってカナンの地から追い出されて地中海沿岸ティルスとシドンに住むことになるのです。
でもユダヤ人はアブラハム以降、カナンの地にあってカナン人の影響をつねに受け続けるのです。このカナンにあってユダヤ人がどんなに正しく主なる神を礼拝しようとしても、もともと根付いている土着の宗教であるカナンの神バアルは強い影響力を持つのです。ですからユダヤの預言者たちは、人々がこのバアルという偶像を信仰しないように、何度も戦いますし、またバアルを信仰するカナン人たちを劣った民族として蔑み、関わらないように指導していたのです。
そのカナン人の女が、後ろから騒ぎながら付いてきます。ずっと働いてきて、少し休みを取ろうと静かな場所に来たのに、うるさく騒がれるのです。しかし、主イエスは彼女に何も応じることなく、黙々と前に進みます。でも弟子たちはどうしようも居たたまれなくなります。「もう、うるさい」と彼らはキレます。そして主イエスに願うのです。「そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。』」(マタイ福音書15:23)弟子たちは主イエスに、「もう、ちゃちゃっと、彼女の願いをかなえてあげてください、そうすれば家に帰るでしょう。私たちも静かに休暇を取れます。」弟子たちはガリラヤで何度も主イエスが病人を癒やされる姿を見ています。五つのパンと二匹の魚で五千人の飢えを満たし、湖の上を歩かれる主イエスの姿も見ているのです。同じようこの女の娘を癒やすことなど容易いでしょう、と話すのです。
では、主イエスはどうされたのか。主イエスは弟子たちの言葉に幻滅されます。そして話されます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ福音書15:24)
主イエスのこの世の働きには目的があります。それはイスラエルの失われた羊を、もう一度、神の囲われた群れの中に戻すことです。神はアブラハムを自分の民とされ、その子孫を祝福し、自分との関わりの中に招きました。しかしその子孫は迷い出た羊のように、群れからはぐれ、四方に散るのです。神は律法と預言者の言葉を杖と鞭にして群れを囲うのですが、神は最終的にメシアを送り集めるのです。それが主イエスのこの世での働きなのです。ですから、そもそも神との契約の下にない者たち、つまり異邦人たちは、囲いの外の羊なのです。もし自分に囲いに入れるなら、それは盗人の所業と同じなのです。ですから主イエスはここで「イスラエルの家の失われた羊」を、と話されるのです。では囲いの外の異邦人は救われないのか、というと、そうではありません。後に主イエスは十字架に架かり死んで、復活され天に帰られます。その後、この世に聖霊が降るのです。この聖霊を受けた者たちが、新しいイスラエルとなる、つまり新しくアブラハムの子孫となります。血の繋がりではなく、ただ信仰のみによって招き入れられます。十字架の後に、この世の全ての人は、聖霊を受け、神の羊の囲いの中に入れられ、神の民となるのです。
ですから主イエスはこの時、カナンの女を無視するのです、無視するとは関係を結ばない、ということです。そもそも神とカナン人は契約関係ないですから。でも、このカナンの女は食い下がりません。主イエスが弟子たちの無理解を正し、神のご計画を説明している隙に、遠くに居たはずのカナンの女は、主イエスの前に回り込み、ひれ伏し「主よ、どうかお助けください」と訴えるのです。彼女は、主イエスがその存在を無視できない場所に自分を割り込ませるのです。そこで、しようがなく、主イエスは彼女に目を落とし話します。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(マタイ福音書15:26)とても冷たい言葉に聞こえます。でも本当は、とてもとても暖かい言葉なのです。なぜなら主イエスがこの女性の言葉に応じた、ということは、この女性と関わられた、ということだからです。この後、時が来たなら主イエスがエルサレムに上られり十字架に掛かられます。その死と復活の後に聖霊によって神が異邦人と関わられます。この神のご計画を先に味わう(摘み食う)事を主イエスは彼女に、お認めになるのです。
ではカナンの女はなんと答えたのでしょうか。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(マタイ福音書15:27)このカナンの女は、無理矢理に割り込み、関係を結びます。それだけではなく彼女は正しく主なる神を見上げるのです。「絶対的な神という存在の前に自分は無に等しい、何も持たない自分にすべてを恵みとして与えて下さるのは、主イエス、あなた、つまりあなたが私の神です」と信仰を自分の口で告白するのです。
彼女の言葉を聴いて主イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(マタイ福音書15:28)と話されます。この「立派」(me÷gaß megas)という言葉は「大きい」とか「甚だしい」という意味の言葉です。そして彼女の娘の病は癒やされるのです。
カナンの女の信仰から、私たちが私たちの祈りについて深く考えさせられるのです。私たちの祈りとは、一方的に自分の望みを神に投げかける事ではありません。私たちの祈りとは神との対話なのです。神を信じ信頼し正しく神と繋がるなら、私と共に悩み苦しみ痛み、喜び楽しむ神と一つになるのです。そこに魂の救いがあります。でも神と正しく繋がるためには、それなりのハードルがあります。カナンの女は主イエスの沈黙にめげず、苛立ちの言葉にめげず、主イエスの前に自らの口で、言葉で、心からの思いを以て「あなたが神の子であり私の救い主です」と告白しました。
例えば私たちが友を得ようとするとき。高いハードルが課せられるのです。お互いに寛容なことばかり話し、仲良くしているだけでは本当の友にはなれません。時にぶつかり、議論し、喧嘩し、でもその様な、いわば激しい感情的な対決の先に、相手の本音を知り、その心の内側にある闇も光も知り、その後に、本当のお互いを知り、認め合い、真の友となるのです。最初に、神は「熱情の神」だ、と話しました。神は命懸けで私たちと関わられています。自らを犠牲として十字架にかけるほどに、命懸けで私たちと関わられようと、御手を伸ばされています。その神に私たちも命懸けで応える。それが私たちの祈りなのです。
礼拝説教原稿
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