礼拝説教原稿

2021年1月

2021/1/3「苦難に勝る慰め」

マタイによる福音書2:13-23

私たちキリスト者が心掛ける事の一つに「傾聴」があります。傾聴とは相手の心に自分の心を傾けてその言葉を聴くこと、です。それは主イエスが魂に傷を負った多くの人々の切実な訴えに耳を傾けられたように、また多くの人々が主イエスの言葉を、心を静かに、耳を澄ませて聞いたように、お互いの話す言葉だけではなく、その背後にある思いも含めて丁寧に受けとめていくことです。ヤコブの手紙の中に、こう記されています。「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」(ヤコブの手紙1:19)なぜこのような事を話したのかというと、新年礼拝の説教を組み立てていく中で、昨年の世界の動きを振り返っていて、昨年は世の中から傾聴という感覚が失われていた年だったように思えたからです。多くの人々が他人の意見を聞かず、その言葉から耳をふさいで、それぞれが自分の言葉ばかりを言い放っていたような、そんな世の中の雰囲気を強く感じていたのです。それはコロナ禍による混乱の影響もあるでしょう、政治家たちも経営者たちもメディアに溢れる言葉も、相手の言葉を聴いて思いを受けとめるのではなく、言葉じりを掴んで、わざとねじ曲げて批判するような、そんな非難の応酬がつねに行われていました。なんだか居心地の悪さを感じさせられていたのです。ですから自戒を込めて、今年はすべての人が「傾聴」し会えるような年になれば良いな、と、願うのです。

でもなぜ私たちは「傾聴」することができないか、の理由は分かっているのです。どんな時に自分は人の言葉を聞くことができていないのか、と考えてみるなら、忙しい時、自分の手がけていることに口を出されたくないとき、自分でも大失敗をしたと自覚しているけれど、他人から指摘されたくないとき、です。つまり心が自分にしか向いていないときに、私たちは他者の言葉を聴けられなくなるのです。人の言葉が「うるさい」と感じられるような心の状態になっているとき、心はドアを閉めて鍵を掛けています。そして同時に、心は神の存在をも占めだしているのです。でもだから、私たちは祈り、心を神に向けることによって、あるべき、相手の言葉を聴くことのできる自分へと引き戻されます。それが信仰に与えられた恵みなのです。

さて、今朝与えられました御言葉に記されているヘロデ大王も、晩年になって他人の言葉に、そして神の言葉にも耳を傾けなくなって行きます。そして痛ましい方へと向かっていくのです。

先ほど読まれまし御言葉に描かれているヘロデとは、主イエスが十字架に掛けられたときにユダヤの王だったヘロデ・アンティパスの父親です。わかりにくいのでヘロデ大王と呼ばれています。彼は聖書の物語の中で、最も残酷で悲惨な出来事として記されているベツレヘムの幼児虐殺を行ったユダヤの王です。彼は生まれたばかりの主イエスを殺すために、ヘツレヘムで産まれた二歳以下の幼児をすべて殺すようにと命令を出します。なぜ彼はこのような悲惨に手を染めたのでしょうか。でも聖書や聖書外の資料を読み進めるなら、もちろん、彼の行ったことを肯定することはできませんが、でも、私たちも彼と本質的には違わない考え方を往々にしまっていることに気づかされるのです。自問しつつ、共に御言葉に聞きましょう。

さて、物語の場面は先週からの続きになります。主イエスがお生まれになったとき、その事を東の方から来た占星術の学者たちはその知らせを受けて、急いでユダヤの地に出向きます。彼らはエルサレムの町に入り人々に尋ねます。聖書にはこのようにあります。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ福音書2:2)東の方から来た者たちが新しく生まれた王をエルサレム市内で探している、との話しを聞いたヘロデ大王は、エルサレム神殿に仕える祭司たちや、ファリサイ派の人々、つまり聖書に精通している者たちを集めて、預言者たちの言葉の中で、メシアがどこに生まれると書かれているのか、と尋ねます。彼らは「それはダビデの町ベツレヘムです」と答えます。この言葉をきいてヘロデ大王は密かに東の方から来た占星術の学者たちを宮廷に迎え丁寧にもてなし、その星が輝いた時を聞き出します。そして、ベツレヘムの場所を教え「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(マタイ福音書2:7)と送り出します。でもヘロデ大王はお生まれになったメシアを拝む気など、いささかも考えてはいないのです。そして東の方から来た占星術の学者たちはベツレヘムで御子に出会い、喜びに包まれ持参した宝物を渡し、帰ります。でも天使のお告げを受けたので、ヘロデの所には拠らずに彼らは直接、東の国に帰ることにするのです。

彼らが、宮廷に寄らずに帰ったことを知ったヘロデ大王は激怒します。そして、ベツレヘムで産まれた二歳以下の幼児をすべて殺すように命令するのです。

ヘロデ大王についてですが、彼は単なる残忍で無能な独裁者ではありません。彼は知略、政治力に長け、軍事に於いても多くの勝利を重ねる優秀な人物です。彼はハスモン家の治世からユダヤを引き継ぎ、当時、世界を制覇していたローマ帝国を後ろ盾にして王位を得ます。その治世は三十四年に及び、ユダヤは経済的にも文化的にも繁栄を与えられます。彼はユダヤにローマの建築技術を導入して競技場や港、要塞などを建設します。今で言うところのインフラの整備をおこない雇用を生みだし、国際競争力を高める政策を行うのです。でも、それだけではなくユダヤ人にとって最も大事な、そして心の支えであったエルサレム神殿の大改築を行います。エルサレム神殿は紀元前十世紀にソロモン王に依って建てられた後、バビロンの王ネブカドネザルがエルサレムに攻め込んで来たときに崩されユダヤの民はバビロンに捕囚されます。しかし紀元前五世紀になって捕囚から解放されエルサレムに帰ってきた者たちによって神殿は再建されました。でも国としての力は弱かったので、さしあたり程度の建築に留まっていました、その神殿をヘロデ王は大改修するのです。現在、エルサレムというと嘆きの壁の映像が映し出されますが、この城壁はヘロデ大王によって修復され整備された当時からの城壁です。

このヘロデ大王ですが、しかし彼はたびたび暗殺の陰謀に悩まされます。なぜなら彼は生粋のユダヤ人ではなくエドム人であり、アブラハムから続くユダヤの王位を継ぐ立場にいなかったこと。ユダヤにヘレニズム文化や異邦人の風習を持ち込んだこと、また大祭司の任命と解任に手を出したこと、から、エルサレム神殿に仕える祭司たちからも強い反感をかっていたのです。ですから暗殺の陰謀が企てられる度に、またその兆候が生まれる度に、彼は幾たびも粛正と称して、政敵を処刑していきます。王権を手に入れてからすぐに、前政権であったハスモン家の王族をすべて処刑します。また彼は身内であっても信頼しません。叔父や叔母、王になる前から連れ添っていた最愛の妻マリアムネも暗殺の陰謀に加担したという事で処刑せざるを得なくなり処刑するのです。でも、彼は政治に関しては飴と鞭を使い分けるセンスをもっていて国民に対しては適切な政策を実行します。例えばユダヤで大飢饉が起きて国庫が空になったときには、彼は所有していた私財をすべて売り払って周辺の国々から食料を調達し、人々に配給したと言われています。そもそも生粋のユダヤ人ではなくエドム人である彼がユダヤの王として三十四年間も王政を維持し、死後も三人の息子に王政を継いだことからも、彼がいかに国民の人気を得ていたのか、また治世の能力があったかを知る事が出来るのです。

そんなヘロデ大王ですが、晩年には王位継承問題に悩まされます。彼はマリアムネとの間に生まれた息子たちをローマに送り、教育を受けさせていて、将来は王位を継がせるはずだったのですが、結局、彼らを処刑することになります。疑心暗鬼が進み、敵を処刑する頻度も増えていくのです。

このように彼の在り方を見ていると、聖書に記されているベツレヘムの幼児惨殺の出来事が、彼の中では破綻した特別な行動ではなかったと分かります。彼にとっては既定路線の行動なのです。彼にとって王位は絶対な価値なのです。最愛の身内を自分の手で殺しても維持し自分の支配下に置かなければならないモノなのです。だから、客観的に見ても、幼児を惨殺するなどと言うことは、どう考えても常軌を逸した異常で残酷な行いですが、彼にはその悲惨も、そして母親たちの泣き声も届かないのです。十八節にはこうあります。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」(マタイ福音書2:18)ユダヤ人にとってラケルは愛する息子を連れ去られた母親の嘆きと悲しみの象徴です。つまりベツレヘムを深い悲しみが覆ったのに、しかしその泣き声も、彼の耳には届かなかったのです。そして彼は七十歳で天に召されます。彼の命は幸いだったのか、そして彼の治世の時期にユダヤの人々は幸いだったのか、というと、どうでしょうか。何か、私には現代の世の在り方が重なって見えるのです。

でも、その一方で、ヨセフとマリアは神の言葉を聴きます。「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」(マタイ福音書2:13-15)彼らは神の声を聴き、御子イエスは守られるのです。彼らにとってエジプトまでの旅程も、エジプトでの生活は楽ではなかったと想像できます。でも神は彼らを守ります。そしてヘロデ大王が死んだ後に彼らはユダヤに帰ってきますが、ベツレヘムではなく故郷であるナザレに帰ります。そこで御子イエスは成長するのです。

誰かの言葉が「うるさいなぁ」と感じる事があります。でもそのような時、神は後ろから私たちの腕を掴んで、引きとどめて下さっているのです。私たちがヘロデの様に悲惨の中に飛び込んでいかないように、愚かさと悲しさの中に向かっていかないように。ですから、そのような時には、少し立ちどまって、神に心を向けて祈りを捧げましょう。それだけで、心が開かれ、言葉とその思いを聴き取ることができるように変えられます。どうか私たちはこの年にあって、この神の御手をそれぞれの魂の内に覚え、腕を掴んで下さっている事に感謝しつつ、神の御声を求めましょう。祈ります。