礼拝説教原稿

2020年12月

「あなたの欲しいもの」2020/12/27

マタイによる福音書2:1-12

クリスマスというと、親しい人にプレゼントを渡すというイメージがあります。それはキリスト教だけでなく、全世界的にすべての人たちの中で定着しているイメージです。先週、桑名教会の教会学校のスタッフは、教会学校に来ていた子どもたちの家を一軒一軒訪ねてプレゼントを渡してきました。今年はコロナ感染症の影響で教会学校に子どもたちを招く事ができず、クリスマス会を開催することができなかったので、集められないならこちらから出向こう、となったのです。桑名市内からいなべ市、多度まで十数件、昼すぎに出て帰りは夜中になりましたけれど、迎えてくれる子どもたちの笑顔はとてもキラキラしていました。それに、ご家族の方々もとても喜んで下さいました。苦肉のプランではありましたけど、むしろとても良い交わりの機会が与えられました。なにをプレゼントしたのか、というと、絵本です。クリスマスの物語の描かれている絵本をそれぞれ一人一人の子どもの年齢やら性格に合わせてスタッフたちが、「あーでもないこーでもない」と選び、手紙も添えて丁寧にラッピングし、赤いリボンで口を結びます。プレゼントを送ることは、受け取る側も嬉しいのですが、送る側も楽しいことなのです。すてきな笑顔が返されるのですから。

このクリスマスにプレゼントを送るという習慣は、聖書に記されたクリスマスの出来事に由来します。一つ目はクリスマスのそもそもの意味、つまり神がこの世に生きる私たちのために救い主を与えられた、ということです。そしてもう一つは、先ほど読まれました御言葉の場面にありましたように、東の方から訪ねてきた占星術の学者たちが、産まれたばかりの主イエスに黄金、乳香、没薬を捧げた、という物語です。彼らは生まれたばかり御子を探し出して礼拝し、それぞれが携えてきた宝を捧げます。でも、御子が寝かされていた場所は、彼らが思い描いていた場所とは違っていたのです。というか、まったく想定外の場所だったのです。

彼らが辿り着いて御子に出会ったその場所は簡素な建屋の中でした。王宮でも豪邸でもない。そして御子は多く人々に囲まれていた、わけではありません。御子の近くにはまだ若い夫婦、たった二人だけです。でも、その場所は神からの豊かな祝福と喜びに満たされていました。この出来事から、神が私たちに与えられる救いの本質を読む事ができます。ことの始めから読み進めます。

まず、この東の方から占星術の学者たちとは誰なのか、についてです。東の方とはエルサレムから見て東です。旧約聖書から度々記される東の大国、メソポタミアと呼ばれる地域を指します。北部がアッシリア、南部がバビロニアと呼ばれ、アブラハムの故郷であり、チグリス・ユーフラテス川に挟まれた肥沃な農耕地帯であり、古くから文明が栄え、同時に幾つもの民族が興亡の歴史を繰り返していた地域です。主イエスの時代にはペルシャ帝国と呼ばれていて、何度もローマ帝国の侵攻を受けますが、それでも滅ぼされることなく、大きな力と文明を維持し続けていました。ユダヤという辺境の小国から見るならば、ペルシャは大国で、経済も文明も先端を走っている国と受けとめられていました。占星術の学者たちがエルサレムに入ったとき、すぐにヘロデ王に接見できたことからも、彼らの扱いが丁寧であるとわかるのです。そして彼らを聖書は占星術の学者と記します。占星術というと、何やら占いとかまじないとか呪術的で非論理的な印象を受けるのです。確かに今の時代から見れば反知性的とみられるかも知れませんが、当時の科学知識からするなら、彼らは最先端の知識人として見做されていました。賢者という表現の方がシックリくるかもしれません。メソポタミアの川沿いの地域では定期的に洪水が起き、その恩恵を受けて肥沃な土壌が蓄えられ大量の農作物を生産することができ、人口が維持されて文明が発展するのですが、同時に多くの命が失われる災害を経験することとなるのです。ですから対応するために氾濫する川を制御するために治水技術が発達し、測量の必要性から幾何学、物理学の応用が進みます。また洪水の時期、気象の変化を記録するために暦が整備され、正確な暦を作る為に天文学が発達するのです。星を見て占うというと非科学的な作業のようですが、要は情報集積と統計という非常に理知的な作業です。彼らは何百年もかけて残されてきた星の動きと歴史の動きを記録保存して、その周期を探り、予兆を記録し、答を導きだすのです。

さて、東の方から来た占星術の学者たちはエルサレムを訪れ、町の中にいる人々に尋ねます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイによる福音書2:2)では、この言葉を聴いたエルサレムの人々は喜んだのか、というと、そうではないのです。自分の国に新しい王が生まれた、しかも神からの啓示によってそのことが明らかにされていると聞くなら、喜んでもよい事でしょう。でもそうではありませんでした。人々は心に不安(tara¿ssw)を抱いた、と聖書に記されています。この言葉は「水面に波紋が広がる」という意味です。

この時期、ユダヤはヘロデ大王によって治められていました。かれはヘレニズム様式の文化を積極的に取り入れローマとも友好な関係を築き、経済的に繁栄し、政治も安定していました。多少ヘロデ大王の治世が強権的で独裁的であったとしても、人々は平和な日常に満足しているのです。でもそこに「ユダヤ人の王が生まれた」と聞きます。人々は占星術の学者たちの言葉から【新たな争いの火種が生まれた】としか聞くことが出来ないのです。では占星術の学者たちが来た事を知ったヘロデ大王はどうであったか、というと、彼はすぐに神殿の祭司たち、律法学者たちを集めてメシアはどこに生まれるのか、を問いただするのです。律法学者たちは答えます。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」(マタイによる福音書2:5-6)

メシアはベツレヘムで産まれると聞いたヘロデは、密かに占星術の学者たちを宮廷に招き、丁寧にもてなし、星の現れた時期を確かめてから、彼らをベツレヘムに送り出します。「『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した。」(マタイによる福音書2:8)ヘロデ大王は御子を拝もうとはサラサラ考えてはいないのです。探し出して、今の内に密かに殺してしまおうと画策するのです。いつかメシアが与えられる、という約束をユダヤの人々は何百年も待っていたのです。この希望が与えられていたから、彼らは幾たびの戦争や何十年の続いた捕囚期間を乗り越える事ができました。一つの民族として徹底的に砕かれて、見る影もないような状態に陥っても、また最初から国を立ち上げてきたのです。でもしかし、その待望のメシアがついに与えられると分かったとき、ヘロデ王はその知らせを隠蔽し、さらにはその子を殺そうと目論みます。祭司たちや律法学者たちは王の目論見を黙認します。そして民衆もメシアの出現によって日常が脅かされ、壊される事を恐れるのです。神がメシアを与えると約束したユダヤ人のだれひとりとして神からのメシアの誕生を歓迎する者はいないのです。

さて東の方から来た占星術の学者たちはエルサレムを出てベツレヘムに向かいます。エルサレムから西へ十キロほどの距離です。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイによる福音書2:9-11)学者たちは、新しいユダヤの王に捧げるために高価な捧げ物を持参してきました。黄金、乳香、没薬です。黄金は権威を表すために使われます。乳香は礼拝の時に会堂を清めるために焚かれる香です。没薬は鎮痛薬や抗菌、抗感染症作用を持ち古くから薬として用いられてきました。つまり、御子が王の家に生まれていたとしたなら、それに相応しい黄金を、祭司の家に生まれたいたならそれに相応しい乳香を、医者が学者、知者の家に生まれたならそれに相応しい没薬を捧げようと考えていたのです。でも、彼らのどの予測も当て嵌まりませんでした。彼らの思い描くメシア像はことごとく外れます。彼らの知識、経験のすべては虚しくされるのです。でも彼らが御子の前に立ったとき、その目の前に眠る幼児は確かに神がこの世に与えられた御子だと、分かるのです。

彼らは喜びに包まれ御子に宝物を渡し、東の国に帰ります。でも天使のお告げを受けて、ヘロデの所には拠らずに彼らは直接、帰る事にするのです。

御子の誕生の知らせはエルサレム神殿に仕える祭司たちや聖書を深く学んでいた律法学者にではなく、そしてユダヤ人ではなく異邦人の学者に明らかにされました。しかも学者たちの予想に反して、乳飲み子は貧しく寂しい建屋に寝かされていました。このことから分かることがあります。それは、神がどこにいるのか、ということです。私たちは天を仰いで神を探そうとします、しかし私たち人間の力では神を見いだす事はできません(逆に見いだすならそれは偶像です)。でも神は私たちの想定を遙かに超えた仕方で自らを明らかにされます。そして神は私たちの心のすぐ側におられます。私たちが見いだす前に既に働かれているのです。

もうひとつ。ヘロデ大王の時代、ユダヤは繁栄していて、経済も政治も社会も生活も安定していました。人々は神の助けなど必要ないと考えていたのです。でもだからこそ神は、あの時代に、あの場所に御子イエスをお遣わしになったのです。「神なんか必要ない、信仰なんか愚かだ」と考えている人たち、彼らは毎日が幸せで平和で、満足しているように、他人事として外側から眺めるなら、そう見えるのです。でも、かれらにこそ、救い主が必要だと、神は見抜かれます。なぜなら、彼らの肉体は飢えていないけど、魂は飢えているからです。

私たちも同様です。この世の平和に満たされ満足し、神から離れるならば、マザーテレサが話すように「豊かさの中の貧困」に陥ってしまうのです。愛を失うのです。ですから神は私たちに声を掛けるために、主イエスは御子をこの世に遣わし、そして私たち一人一人をこの教会に連ならせてくださっています。御子の誕生を祝うこの時期にあって、私たちに託されたプレゼントを、共に生かしつつ歩みましょう。

2020/12/20「神は私たちと共におられる」

マタイによる福音書1:18-23

クリスマスおめでとうございます。今朝、私たちは共に主イエスの誕生を祝う降誕日の礼拝を捧げています。神は御自分の御子である主イエスをこの世に送られました。その存在を通して私たちは「光は闇に勝つ」という力強いメッセージを神から与えられました。主イエスは私たちの行く道の先を照らされます。私たちは日々の生活の中で、世の言葉に戸惑い翻弄されることが多くあります。でも神はそのような私たちを顧みて、私たちが立ち返るべき規範を、主イエスという存在を以て示して下さいます。私たちが判断に迷ったとき、行く方向を見失った時、受け入れがたい現実を与えられたとき、目の前が闇に包まれた時でも、神は必ず私たちの手を取り立ち上がらせて下さいます。

さて、聖書に記された世界で最初のクリスマスの物語に描かれている、ひとり一人も、この世の荒波に翻弄されながらも神に立ち返り、正しい道に引き戻されます。先ほど司式者によって読まれました御言葉に描かれている主イエスの父、ヨセフもその一人です。後に主イエスの父となるヨセフは、ナザレの町で大工として働いていた男性です。この当時一般に男性が結婚する年齢は十八歳と言われていますから、男性と言うより青年という表現の方が良いかもしれません。そして彼は幼いことからずっと父親と共に大工として働いていて、長男ですから将来は家業を継ぐ事になっていたはずです。この大工という生業ですが、家屋大工ではなく家具職人だった言われています。そして彼にはマリアという許婚がいました。当時の女性の結婚適齢期は十三歳くらいだったと言われていますから、マリアもその位の年齢だったと考えられます。結婚する相手は親や親戚によって選ばれ一定の婚約期間を経て親族をあげて盛大に結婚式を行い、その後に夫婦として共同生活をはじめるのです。ナザレの町はそれほど大きな町ではありませんから、たぶんヨセフはマリアの事を幼い頃から知っていたでしょうし、マリアもヨセフの事を知っていたと考えるのが自然でしょう。そして当時、婚約期間であっても法規上では既に正式な夫婦と同じ扱いを受ける事となっていました。ですから、もし婚約を解消する場合は、律法に定められた通り、男性は二人の証人の前で女性に離縁状を渡す(申命記24:1)ことになります。

さてここで、予定外の事態が起きます、マリアはヨセフと結婚する前に身籠もるのです。天使がマリアの目の前に現れマリアを祝福し、伝えます。聖書にはこうあります。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ福音書1:30-33)マリアは途惑いながらも、自分ではどうする事もできず、ただ、この出来事のすべてをヨセフに伝えるのです。ではヨセフはマリアの言葉を信じて、すべてを受け入れる事ができたのかというと、それは無理な話なのです。当然、ヨセフには身に覚えのないことですから。彼はマリアを疑い、マリアが姦淫の罪を犯したと考えるのです。でも怒りよりも、ヨセフは深く落胆したのだと、そう思います。彼はマリアのことを子どもの頃から知っていたし、もう既に妻として信頼を置いていたのです。そのマリアに裏切られたのですから。でもヨセフは、それでもマリアを守ることを考えます。

当時、既婚者や婚約した相手のいる女性が姦淫の罪を犯した場合、石打の刑に処されて命を絶たれる(申命記22:23)と定められていました。でもヨセフはマリアが人々の前に晒されて、石で打ち殺される事を望まないのです。とはいえヨセフは「正しい人」(di÷kaioß)(マタイ福音書1:19)(定めと掟の前に正しい)だったので、罪を犯したマリアをそのまま妻として迎えることは、やはり神の前に正しくないと考えます。悩み苦しんだ末にヨセフは、マリアの事を表沙汰にすることなく、密かに縁を切ることを考えます、つまり二人の証人を立ててマリアに離縁状を渡し、多額の罰金(違約金)を彼女に支払おうと決心するのです。つまりすべての罪を自分が背負う決心をするのです。

そのとき、ヨセフの前に天使が現れます。この天使はヨセフを「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ福音書1:20-21)この言葉を聴いたヨセフは、心から喜び、安心したのだと、そう思います。マリアが話してくれたことが真実だったこと、マリアが嘘をついていなかったと分かったこと。なにより愛しているマリアが罪を犯していなかったと知ったからです。そこでヨセフはマリアを正式に自分の妻として迎えるのです。でもこの結婚はヨセフにとって不名誉を受け入れることでもあります。結婚する前に婚約者に手を出して身籠もらせた、と世間からは見られるわけですから。でも、そんな風評などヨセフとマリアにとってはどうでも良いことだったのかも知れません。まだ若い二人が誰にも相談せずに二人で決めたことですし、二人とも神の導きを共有できたのですから。なによりも新しく与えられた命はふたりにとって神からの希望だったのです。

この物語から、私たちは二つの大事な事を聞くことが出来ます。まず一つ目。マリアが主イエスを身籠もったのは、彼女がヨセフの許婚だったから、なのです。どちらかと言うと、クリスマスの物語の主役はマリアであるかのように受け取られますが、旧新約聖書にまたがって読むならば、この物語の主役はヨセフだとわかるのです。神は預言者を通して人々に、神からの救い主、メシアはアブラハムから繋がる血統の上に与えられる、つまりダビデの子としてこの世に現れると約束していました。そして、ヨセフの長男としてメシアは与えられます。つまり約束は成就するのです。

マタイによる福音書の最初に長い系図が載っています。長いので全部は読みません、一部だけ読みます。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」(マタイ福音書1:1-2)もう一箇所「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを」(マタイ福音書1:6-7)最後「エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」(マタイ福音書1:615-16)ここには「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代」(マタイ福音書1:17)(注:第三群は十三代、アシルが掛けていると解釈されています)総勢四十人の名前が記されています。彼らはすべてアブラハムに繋がった長男の名前です。

神はアブラハムをこの世から選び出し、彼と契約を交わしました「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」(創世記12:2-3)もう一箇所、「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを【永遠の契約】とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。」(創世記17:7)つまり神はアブラハムを祝福し、アブラハムと彼に続く子孫に祝福の源とするのです。そしてヨセフはアブラハムから続く長男の末にいる者でした。だから救い主としてこの世に与えられる主イエスはヨセフの長男でなければならなかったのです。神とアブラハムとの契約は破棄されないのですし、神は約束を反故にはされない、必ず成就するのです。でも、そうなると、疑問に思うことがあります。つまりマリアがヨセフに依ってではなく、聖霊に拠って身籠もった、ということ、についてです。つまり主イエスがヨセフの血を受け継いでいないなら、ダビデの血も、アブラハムの血も受け継いでいないのではないか、ヨセフで血の継承は途絶えてしまったと考えるべきではないか、という事です。

確かにそうなのです。でもそれで良いのです。ヨセフの時代までは、神はアブラハムの血の継承によって祝福を与えられていたのです。でも主イエスの後の時代からは違います。ここからは血ではなく聖霊に拠って祝福の源が継承されるからです。これが二つ目の大事な事です。

それは先週、与えられました洗礼者ヨハネの言葉からも、読み取ることができます。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ福音書3:11)水ではなく聖霊によって、つまり血と肉ではなく霊によって、神の祝福は継承されることになるのです。そして主イエスが十字架に架かり復活された後に、この世に聖霊が与えられました。この世のすべての人は、主イエスに繋がる事によって聖霊を受けるのです。つまり私たちは主イエスに繋がることによって、ヨセフに繋がり、ダビデに繋がり、祝福の源であるアブラハムに繋がるのです。では私たちが主イエスに繋がるには、どうすれば良いのか、というと、それが洗礼を受ける、ということです。自分の口で心で、主イエスが神からの救い主であると告白する。その告白によって主イエスの血を受け継ぐ者として、新しい命を与えられます。加えて私たちは、この洗礼の恵みを確認する聖餐式を通して、見えない聖霊の恵みを見える形で、つまりパンと杯という形であずかるのです。

主イエスはこのように話されます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ福音書15:5)信仰というと、なにか大仰なことのように感じることがあります。自己を律して研鑽を重ね、学び、堅く守らなければ得られないことのように思えるのです。でも違います。ヨセフはただアブラハムの血の継承の末に置かれていただけです。マリアはそのヨハネの許婚だっただけです。つまりこの二人は、ただ神の御心という流れの上に置かれていただけなのです。

彼らに優れた点があるとすれば、天使の、つまり聖霊の呼びかけを素直に受けとめたという点です。彼らは神が差し出した手をしっかりと握りました。この世の何かに掴まるのではなく、それらを手放してでも、彼らは神に繋がることを決断したのです。私たちも同様です。この世のなにか、言葉とか権力とか人物とか思想とか自我とか、そんな消えてしまう何かを握りしめるのではなく。主イエスに繋がりるのです。そのために主イエスはこの世に遣わされたのですから。共にクリスマスを祝いましょう。

「踏み固められた道」2020/12/13

マタイ福音書11:2-19

クリスマスが近づいてきて、町中には沢山のイルミネーションが飾られるようになりました。色とりどりの電球が明るい光を灯しています。でもこの数年、使われる灯体がフィラメントからLEDに変わったので、全体的に少し白っぽい色が増えたように思います。個人的には昔のアンプに使われていた真空管が暖まったときの、あの淡い黄色の方が落ち着くのですが、これも時代の流れです。LEDの方が耐久性も照度も高いし、発色の種類も多いので広く使われるのです。このLED電球ですが、最近ゆっくりと点灯するものが増えてきました。LEDは半導体なので通電すると瞬時に発光するのですけど、これがあまり目に優しくないので、わざと遅延回路を埋め込んで、じわーと光らせるように工夫されているのです。私たちは突然、まぶしい光に照らされたり、耳元で大きな音が響いたりすると、びっくりします。その光とか音の中身に意識を向けるよりも、驚いて警戒する方に意識が向きます。ですから何かを始める前には「前置き」をした方が丁寧です。例えば演劇とかオペラとか劇音楽の公演に行きますと、聴衆がまだざわついている中で序曲(Overture)が演奏されます。この序曲は聴かせるという目的ではなく、これから始まる舞台に心を向ける準備のために演奏されます。この礼拝の中でも、オルガニストによって前奏が弾かれます。私たちもこの前奏を聴きながら心を静かにして、礼拝を献げる為に心を整えるのです。

さて今朝、御言葉の中に描かれている洗礼者ヨハネは、この前奏のように主イエスというまぶしい光がこの世にもたらされる前に、神が人々の心を整えるために、この世に遣わした預言者です。聖書には『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』(イザヤ書40:3)という預言者イザヤ書の言葉が引かれています。人々が主イエスの行動と言葉を正しくに理解できるために洗礼者ヨハネは道を整えるのです。でも、その役割は、とても過酷なものであったと、私たちは聖書から読む事ができます。それは、雑草や低木に覆われた、まだ岩がゴロゴロと転がっている荒れた土地を開墾する作業を思い浮かべていただければ良いかと、そう思います。まずは下草を刈って、木を切って根を掘って、それから大きな岩を掘り起こして、ようやく平らに均すのです。主イエスという種をこの世に植える畑を彼は整えるのです。

その作業の果てに彼は捕らえられ、暗い牢に繋がれます。彼はガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスが、彼の兄弟ヘロデ・ピリポの妻ヘロデアを奪い自分に妻として迎えたことを厳しく批判します。王が自らの権力にまかせて神が厭われることをしてはならない、と彼は王を叱るのです。その結果、捕らえられてしまうのです。そして彼は、今日にでも、明日にでも自分の首が刎ねられる、その抜き差しならない状況に置かれます。

その切迫した状況の中で、彼は牢の外に自分の弟子たちを呼び、主イエスのもとに送り尋ねさせます。「来るべき方は、あなたでしょうか、それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(マタイ福音書11:3)彼は、はたして自分が神から託された役割を正しくまっとうできたか、不安なのです。確かに噂に聞く主イエスの活躍は、素晴らしいのです。でも彼が考えているメシア像とは乖離しているようにしか思えない。彼が考えていたメシアはもっと強烈で、力を持っていて、この世界をすべてひっくり返してしまうような、そんな方だと、彼は考えていたからです。

洗礼者ヨハネは、この当時、神の預言者として多くの人々から信頼され支持を受けていました。聖書はこのように書きます。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』』ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」(マタイ福音書3:1-6)洗礼者ヨハネは神から言葉を託されて、人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と伝えます。それは聖書に書かれている終末、神の裁きの日が来る、という意味です。その言葉を信じ、おおくの人々がイスラエル全土から、そして周辺の国々からも多くの人々がヨルダン川沿いで活動しているヨハネの下に集まります。そして人々はヨハネとその弟子たちに、これまで犯してきた罪を告白し、ヨルダン川の水に全身を浸されて、洗い清められます。つまり水による洗礼を受けるのです。

その現場は切迫感に満ちていたと、そう考えられます。人々は終末がどの様な形で訪れるのかわかりませんが、しかし少なくとも聖書の詩編やイザヤ書やエレミヤ書に書かれているように、自分が神の前に引き出される、という事はわかっているのです。たとえば詩編は神の裁きについてこのように書きます。「わたしは必ず時を選び、公平な裁きを行う。地はそこに住むすべてのものと共に溶け去ろうとしている。しかし、わたしは自ら地の柱を固める。」(詩編75:3)もう一つ、エレミヤ書にはこのように書かれています。「人は皆、愚かで知識に達しえない。金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。鋳て造った像は欺きにすぎず霊を持っていない。彼らは空しく、また嘲られるもの。裁きの時が来れば滅びてしまう。」(エレミヤ51:17)人々は差し迫った神の裁きの時よりも前に、自らの罪を清めるために、洗礼者ヨハネの下に集まってきたのです。でも、その人々に混じって、それまで洗礼者ヨハネの言葉を批判し、その活動を軽んじていたファリサイ派やサドカイ派の人々、つまりエルサレム神殿に仕える祭司や律法を人々に教える教師たちもヨハネの下に洗礼を受けるために訪れます。彼らも今までの自分たちの態度や行いを撤回して、洗礼を受けようと願うのです。でも洗礼者ヨハネ彼らの態度に激しく憤ります。

「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(マタイ福音書3:7-12)この言葉の中に、洗礼者ヨハネが神から与えられた終末のイメージを読み取る事ができます。裁きの日にメシアが現れ、この世がすべて「消えることのない火で焼き払われる」それが終末の様子だと、彼らは考え、そう話すのです。

さて、でも、このヨハネが思い描いていた終末のイメージと主イエスの行動、言葉は、やはり乖離しているのです。主イエスは人々に神の愛と幸いを伝えます。福音を告げます。弱く虐げられている者たちの所に行って関わりますが、直接、政治体制を批判したり、神殿の権威を否定したり、ローマに敵対する事もなく、逆に「「皇帝のものは皇帝に」(マルコ福音書12:17)と話したりするのです。また徴税人や罪人、異邦人とも関わります。つまり、洗礼者ヨハネから見て主イエスは「優しい」のです。天から火の玉を降らせるとか、地面が揺らぐとか、大海からレビアタンが顔を出すとか、そんな兆候はまったく見られない。ですから洗礼者ヨハネは不安になるのです。洗礼者ヨハネは主イエスに洗礼を授けたとき、確かに神の声を聴いたのです。主イエスの頭の上に聖霊が鳩のように降りて来るのを見ているのです。でも、自分が与えられた幻(ビジョン)は過ちだったのか。彼は困惑するのです。

ではヨハネの問いかけに主イエスはどの様に応えるのでしょうか。主イエスは聖書に記されている預言者イザヤが言葉を引用して返答します。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイ福音書11:4)でも、ここに一つ、イザヤが話した預言に書かれていない項目があります。それは「死者は生き返り」という言葉です。つまり、主イエスは洗礼者ヨハネに「預言者イザヤが話した以上の事が今起こっているし、これから始まる」と、伝えるのです。洗礼者ヨハネが思い描く世の終末は、この世のすべてが滅ぶ、終わってしまう所までなのです。でも主イエスはそこからの世界の再生と復活を話されるのです。それは人間の想像を超える出来事です。終わるのではなく始まるのだと、この言葉を通して、主イエスは洗礼者ヨハネに「安心しなさい、あなたは十分に役割を果たしました。」と伝えるのです。主イエスは洗礼者ヨハネを最後の預言者と話します。神が預言者に言葉を託して人々に伝える時代は彼で終わるのです。主イエスは今までの時代をごっこ遊びの時代だったと話します。

「耳のある者は聞きなさい。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』」(マタイ福音書11:15-17)人々は洗礼者ヨハネの信仰の姿勢を禁欲的で悪霊に取り憑かれているとからかい、主イエスに自由に誰にでも関わっている態度を、役立たずたちの仲間だ、と批判していると主イエスは話します。つまり今の時代は、誰もが観客席から競技場を眺めて批判しているだけの時代だと話すのです。だれも自分が競技場に降りてきて走ろうとは思わない。でも主イエスは新しい時代がこれから到来するのだと、そう話します。それは神が、【主イエスが神の子であった】と信じたすべての人の耳元に直接、聖霊がささやいてくれる、預言者や祭司の行う祭儀を介さなくても神の言葉を直接聞くことになる、その様な時代だと話すのです。もうだれも神との関わりに於いて第三者に留まり続ける事はできない。誰もが当事者になるのです。

この言葉は主イエスが十字架に架かった後に実現しました。主イエスは三日後に復活し、その後にこの世に聖霊が下り弟子たちの上に降るのです。主イエス、つまりメシアがこの世に到来し世界は刷新されたのです。すべての人が第三者ではなく当事者になる。つまり直接神の前に立ち裁きの座位に付くことを許される。でもそこには覚悟と責任が生じます。でも神は私たちを信頼して主イエスをこの世に送られたのです。その始めの出来事がメシアの誕生を祝う礼拝がクリスマスなのです。

私たちも「主イエスが神の子であった」と信じるときに、その言葉と意味が腑に落ちた時に、神と聖霊を介して直接関わる者へと変えられます。今までの古い自分が一度死んで、新しく変えられるのです。

2020/12/6「自分という壁」

マタイによる福音書13:53-58

例えば「ありがとう」という言葉一つにしても、幾つもの表情があるのです。心からの感謝を込めた「ありがとう」もあれば、おざなりな「ありがとう」もありますし、皮肉っぽい「ありがとう」もあります。言葉は単に意味を伝えるためだけの道具ではありません。背後にある目に見えない感情・意志・思想・目的も含めて相手に伝えるための手段です。ではその思いを正確に伝えるためには如何すれば良いのか、文章を長くすれば伝えたいことを伝えられるのか、というと、そうでもありません。確かに誤解が生じにくくなりますが、逆に言葉の一部だけが切り取られて内容が変質する危険性が生まれます。ではどうすれば良いのでしょうか。例えば正確に相手に意志や意味を伝達する手段としてアイコンタクトがあります。サッカーの試合などで、二人とも広いフィールドの中で走っていても、短いかけ声と目を合わせる動作だけで意思の疎通ができる、適切にパスのやり取りができます。でもそのためには、お互いに何百時間も一緒に練習を繰り返し、寝食を共にして信頼関係を組み上げる必要があります。もう一つ、権威というやり方があります。例えば私が「明日は午後から雨が降ります」と言ったとしても、だれも信じてくれませんが、気象庁津地方気象台長の塩津さんが「明日は午後から雨が降ります」と言えば、殆どの方がその意味を理解します。つまり話す人と聴く人がお互いのことを大切に思う信頼関係があり、その上で交わされる言葉は、意味だけでなく背後の思いをも運ぶということができる、ということです。

では神が私たちに、自らの思いを伝えようとするなら、どんな手段があるのでしょうか。私たちは神の姿を見ることも、声を聴くことも、その存在を頭に思い描くこともできません。太陽を直接見ることが出来ないように、神の存在は大きく強すぎて、私たちは目を上げることすらできないのです。そこで神はモーセに十誡、つまり律法の言葉を託しました。この十誡は神の言葉として受け入れられて、多くの者たちは神を信じ悪を避け、神の正義に立ち返りました。しかし石に刻まれた文字には限界があります。人間が正しく神を畏れている時は良かったのですが、時が経つごとに人間は神を軽んじ関係が崩れるのです。そして人間は与えられた律法の言葉を自分たちにとって都合良く解釈し始め、自分たちの欲望を満たすために誤用(悪用)します。そこで神はこの世に預言者を遣わします。

神は自分の言葉を預言者に預けて人間に伝え立ち帰りを促すのです。でも人間は預言者の言葉に耳を塞ぎ、もしくは預言者の口を塞ぐために国外に追放しする。もしくは関係を断つ為に殺します。そこで神は決定的な手段を用いられます。神御自身が、世の人間とまったく同じ人間としてこの世に来られたのです。母親から生まれ、育ち、そして死ぬ者として、です。

神はこの世に生きる人間と寝食を共にして、目を合わせて話し合い、信頼し合い愛し合う友人として世に来られました、それが主イエスです。ヨハネによる福音書の最初に一つの詩が記されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネによる福音書1:14)神が私たちに言葉を正しく伝え、その言葉によって私たちを教え諭し、私たちが幸いに生きることを望まれるのです。これが、神は肉体を持たれたことの意味です。【人は神にはなれません。でも神は人となられました。】聖書に記されている神が為さった最も大きな奇蹟が、神御自身が肉体を持たれて主イエスとしてこの世に来られた、ということです。

この奇蹟、つまり主イエスが神御自身であり神の言葉であると信じるなら、私たちは聖書にしるされた主イエスの言葉や行動から神の思いを知ることができます。主イエスは私たちを罪の束縛から解放するために十字架に架かり自分の命を落とされました。主イエスは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ福音書15:13)と話されましたが、まさに御自分が命を捨てて私たちを生かそうとされたのです。この主イエスの十字架の出来事を通して、私たちは「神は私たちを愛している」というメッセージを受けることができます。私たちは神を愛し、神に愛されているから神を畏れるのです。この神と人との正しい関係性という鍵を手に入れるなら聖書が開きます。聖書の言葉を正しく読んで正しく理解する、神の思いを聴くこととなるのです。でもここに一つ問題が生じます。それはこの世の人間にとって、神が肉体を持たれた、という奇蹟を信じることは難しい、ということです。まだ死んだ者が生き返ったとか、水が葡萄酒に変わった奇蹟の方が受け入れやすいのです。世界を創造し、時の始めから終わりまで存在する神が、こんな弱く非力な肉体を持たれるなど、頭の中に思い描く事も受け入れることもできないのです。まして、その人が子供の頃から知っていて、自分と共に生活していた、自分と同じ姿をした、同じ言葉を話す、普通の男であったなら。もし私がその場にいたなら、やはり難しいと、そう思います。

さて、主イエスがナザレに帰って安息日に会堂で話された時、主イエスの子どもの頃の姿を見ている者たちは、主イエスの言葉を神の言葉としては、受けとめることができないのです。今朝の御言葉にはその時の場面が描かれています。主イエスは故郷のナザレに帰られます。この町で主イエスは幼少期を過ごし、大工として働いていた父親の仕事を手伝っていたと考えられます。当時長男は父親の仕事と家を継ぐことになっていました、主イエスは長男として家族を纏め守る役割を担っていた筈です。でも主イエスはナザレを出て、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、伝道者としての歩みを始めます。主イエスの親戚やナザレの人々は、その行動を非常識で身勝手だと受けとめられたと考えられます。しかしその後、主イエスはガリラヤ地方だけでなく当時の首都エルサレムに上り、多くの人々に教え、病を負う者たちを癒やされます。その噂は当然、故郷ナザレにも聞こえてくるのです。さて、その主イエスがナザレ帰ってきてます。安息日なったので会堂で講壇に上がり聖書を朗読し、人々に教え始めます。このような事情を見てみるなら、ナザレの人々が如何に興味深く主イエスの言葉に耳を傾けただろうか、と考えられます。

その言葉は山上の説教で語られたような、慰めと威厳に満ちた言葉だったでしょう。人々の幸いを宣言し、罪の悔い改めを求め、神に立ち戻ることを勧め、そして主イエスは神の赦しをも与えるのです。人々はその言葉に驚きます。この「驚く」(ekplesso, ejkplh/ssw)はただ「驚く」という意味ではなく圧倒されるとか、度肝を抜かれる、という意味の言葉です。でもしかし会堂に集まった、たぶんナザレに住む殆どの人々ですが、彼らは主イエスの言葉から慰めを与えられないのです。他のどの会堂でも多くの人が慰めを与えられた、同じ言葉であるにも関わらず、です。それだけではなく、彼らは主イエスに「つまずく」(マタイ福音書13:57)のです。

「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」(マタイ福音書13:55-56)彼らは主イエスを子ども頃から知っています。働いていた姿も見ていたし、主イエスの兄弟もナザレで生活をしています。彼らは主イエスの家族をも良く知っているのです。そして信頼できる人たちだとも知っています。でも、だから彼らは主イエスの話す言葉を受け入れることができないのです。なぜなら彼らは主イエスを自分と同じナザレで生まれた自分と同じ一人の人、としか見ることができなかったからです。

話し手と聞き手の間に交わされる言葉が、意味も思いも正しく運ぶためには、話し手と聞き手がお互いに同じ存在だという考えが腑に落ちている必要があります。でもナザレの人々は主イエスを同郷(ナザレ人)という条件をつけて自分と同じ存在だと考えていました。つまり自分たちと同じように会堂で学び、働き生活していた一人の男性、として主イエスと自分は同じだと考えていたのです。だから彼らは、主イエスと自分が神の前に同じ、という場所にまで辿り着く事ができなかった、それゆえに主イエスの言葉の中に神の言葉を聴くことができなかったのです。もし彼らが無条件に主イエスの存在を受け入れることができたなら、神の思いを聴くことができたのです。でも彼らは自らの先入観を越える事ができませんでした。そして彼らはつまずいてしまうのです。

教会の中で、ときどき聞く言葉ですが「家族伝道ができない」と話される方がおられます。正直、私も家族で信仰を共有することは難しいと感じます。なぜ難しいのかというと、お互いに共に生活する一つの家族として一つだ、という意識が強いからです。つまり家族という条件で一つになっているので、お互いに神の前に一つの存在として対等に向き合う事ができないのです。夫とつれ合い、親と子、兄と弟、お婆ちゃんと孫、それぞれの立ち位置で相手を対峙している。でももし、それぞれがお互いにお互いを、この世の条件を取り払って、お互いに自立して、神の前に一つの小さな命だと受けとめる場所にまで降りて聞き、向き合い、言葉を交わすなら、私たちは自分自身の言葉を的確に伝えることができるし、心にある思い、信仰の言葉をも正確に伝えられるはずです。あと父権や母権を用いて信仰を継承する、従わせるという手段もあります。でも、それは家長への信頼が厚いときには成り立ちますが、私たちの目指すゴールではないと考えます。

教会に於いても、私たちが互いに互いを神の前に同じ存在として覚えることが大切です。この世の地位や働き、性差、年齢、能力に心を束縛されないこと、そして、この世の何らかの条件でお互いに一つであると安心しないこと。確かに、お互いに自立せず依存関係の中に浸っている方が、正直居心地は良いのです。でも、その場所に安住していては神の言葉は聴けません。もう一つ権威に頼ることも誘惑です。まあ、桑名教会の場合、牧師の言葉が権威になることはない、と安心していますが。誰かの言葉、でも同様です。

さて、神さまは私たちに正しく御自分の言葉と思いを伝えるために、主イエスをこの世に送り、私たちの命の在る場所に降りてこられました。私たちと一つとなって下さり、私たちはその言葉を聴くことが許されました。その神の思い、つまり愛に私たちは感謝します。そして始めの出来事である主イエスの誕生、クリスマスを祝うのです。