礼拝説教原稿
2020年11月
2020/11/29「つねに新たに」
マタイによる福音書24:36-44
この礼拝から教会の暦である教会暦はアドベントに入ります。今日から来年一月六日の公現日(エフィファニー)までがクリスマスシーズンになります。桑名教会は今年もアドベントクランツを飾り一本目のロウソクが灯されています。玄関にはクリスマスツリーが飾られています。枝に結ばれている靴下には教会学校の子どもたちのためにお菓子が入っています。クリスマスイブの燭火礼拝も行われる予定です。でも今年は、いつもと同じやり方でクリスマスを祝う事はできません。コロナ感染症の感染拡大を受けて、全体に規模を縮小することが求められているからです。集まったとしても、ある程度の距離を取り、時間を短くし、感染防止に対しての配慮する必要があります。幾つかの制約はありますけれども、アイデアを出しあって心を一つにして、クリスマスの準備を共に進めていきましょう。そして共にクリスマス礼拝を守りましょう。もしかしたらオンラインで、それぞれが自宅で守るようになるかも知れません。しかし、そうなったとしても、私たちは同じ時に心を同じ方向に向けて、一緒に祈りを捧げることができます。居る場所は離れていてもお互いにお互いを覚えて祈りを捧げる時、私たちは一つにされます。それは信仰者に与えられた恵みです。お互いに声を掛け合い、祈り合いましょう。
それに私たちは、変化に対して柔軟に対応できるはずです。なぜなら、私たちの心は信仰によってしなやかに鍛えられているからです。私たちは神を知っています。揺るぎなく堅く完全な神を知っているからこそ、私たちは私たち自身が柔らかく不完全な存在で良いと知らされています。私たちは臆することなく、この世の変化を受け入れられるように信仰によって、日々鍛えられているのです。そして、この「変化を受け入れて、そこに希望を見いだしていく姿勢」はクリスマスに私たちが与えられるメッセージの柱です。現状に留まるのではなく神から与えられた幻(ビジョン)に信頼して、この世の抵抗に臆する事なく進む。暗闇の中、足下もおぼつかないような状況に置かれても、神の与えられる光の方向に進む。聖書に記されたクリスマスの物語の中に描かれている人々、マリア、ヨセフ、羊飼いたち、エリザベト、ザカリア、占星術師、そしてナザレやエルサレムのすべての人たちは、当初、課せられた大きな変化に途惑うのです。しかし、信仰に従って進みます。彼らは守られるのです。その大きな変化とは御子イエスの誕生です。
御子の誕生は、神がこの世を救うご計画が始まる合図の号砲です。神は、アダムによってもたらされたこの世の罪に縛られて、動けなくなっている人を解放し、自由にするために、御子イエスとしてこの世に来られました。つまり神は深い溝を越えられ、この世の理を壊してでも人を救おうとされるのです。では遣わされた主イエスによってこの世は完全に救われたのか、というと、そうではありません。人々は主イエスによって希望を与えられ、神が自分たちを愛されていると知り、前に歩き出す力を与えられます。でも主イエスは十字架に掛けられて死に、復活され天に上られました。その後に聖霊が遣わされます。聖霊は人々を神へと導きます。でも人は、まだ救いは途上に置かれます。そして、後に主イエスが再臨するとき、救いは完成すると聖書には書かれているのです。
この再臨を覚えるために、私たちはメシアの生まれた時の物語を賛美やページェントで表現し、なぞります。そして感謝の礼拝を捧げます。それがクリスマスです。その再臨を待つ準備の期間を覚えるためにアドベントが与えられています。アドベントとは「予期せぬ出来事の到来」を意味する言葉です。私たちはこの期間、それぞれの心の内で再臨の備えの予行練習をするのです。でもここに一つの問題があります。それは私たちの心の性質です。備えている時は緊張しているのですけど時が経つと緩んでしまうのです。伸びきった輪ゴムのように心が緩慢になってしまう。例えば美しい絵画や音楽に出会ったとき、最初は心が熱く感動するのです。しかし徐々に薄れて、慣れて、日常の生活に溶けていってしまうのです。
今朝の御言葉の中で主イエスは「目を覚まして」いなさいと話されます。再臨の時を覚え、いつも心の琴線をいつも張っていなさい、いつも神の恵みを気に掛けていなさい、と話すのです。つねにゴールを見据えつつ、逸れずに進むために、主イエスは今日の御言葉を弟子たちに与えられるのです。
さて、今朝与えられました御言葉です。この聖書の言葉は一般に「小黙示録」と呼ばれています。主イエスの再臨を私たちがどう待てばよいのか、その事が書かれているのです。少し前置きが長くなりました。共に読み進めましょう。まず終わりの日について主イエスはこう話します。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」(マタイによる福音書24:36)もし、誰かが「明日この世が滅ぶ」と話すなら、それは嘘です。信じる必要はありません。でも、その日はいつか必ず来るということについては、私たちは信じなければなりません。必ずいつか、その日は来ます。
主イエスはノアの話しを引きます。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(マタイによる福音書24:37-39)その様子は創世記の七章にあります。神の言葉を聴いてノアは丘の上に巨大な箱船を作り始めます。山から木を切り出し組み上げ、隙間はコールタールで埋めます。何年もかけてノアと彼の家族は作業を続けるのです。その様子を見ていた人々はノアを嘲笑います。世の終わりなど来るはずもない、世界は永遠に続くと。そして時と共に彼らはノアに対する興味を失い、日常の生活に戻ります。彼らは飽きてしまうのです。そして時が来て、洪水が、前触れもなく突然襲ってきます。彼らはそれに気づく間もなく命を絶たれるのです。「地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。彼らは大地からぬぐい去られ、ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。」(創世記7:23)神の言葉を信じ、いつその日が来るのかは、分からないけれど、でも愚直に目的に向かい進んだノアは、命を保たれるのです。
主イエスは私たちに「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」する事が無駄だと話している訳ではありません。そうではなく、私たちがいつか訪れるこの世の崩壊を知るならば「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」という一つ一つの事柄の大切さとありがたさを、あらためて知ることが出来る。その一つ一つの事柄が本当に愛おしいと再確認できると話されるのです。
私事ですが、長く入院して身体が動かなくなって、内臓がやられて食事をしても苦くて、味が分からない日々を長く(といっても半年程度ですが)経験しました。免疫を落としていたので外にも自由に出られない。トイレに行ったりシャワーを浴びるだけでもひと仕事です。そしてようやく食べ物の味が戻ってきたとき、こんなにご飯が美味しかったのか、と涙が出たことを覚えています。自由に外に出て歩けるという普通のことが、普通でないはないと気づかされました。なかなかに人は陥ってみないと気づかないのです。自分が病気を患ったり怪我をあたえられないと、実感がないと理解できないのです。主イエスは「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」(マタイによる福音書24:40-41)と話されます。ですから主イエスは、これほど強烈な言葉で戒めを与えられるのです。
私たちは神の恵みと愛を受けて【生かされて】います。この土塊にすぎない体が神の霊を受けて動き、心は世界に満ちている沢山の美しく素晴らしいもの感じるのです。私たちは当然のように生きているのではありません。命を神から借り受けて、生かされているのです。そして、いつか来る、終わりの日を覚える時に、私たちはそこに向かっている日々が、一日一日、一つ一つ大事だと気づかされるのです。私たちが、与えられている命に慣れて、恵みに対して怠惰にならない様に。いつその時が来ても「今日も良い一日でした」と、言い切ることができる様に、主イエスは私たちに教えているのです。
もう一つ主イエスは譬えを話されます。「家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイによる福音書24:43-44)泥棒が夜に来ることを知っているなら、目を覚まして備えておかない者がいるだろうか、と主イエスは話されます。目を覚ましていなさい、と話されるのです。「目を覚ましていなさい」という御言葉について、この言葉だけを聴くならば私たちは少々怖じ気づいてしまうのです。いつも、この世の終わりを覚えて緊張しつつける事など出来ないと考えるからです。ともすると、明日、この世が終わるなら今日生きるための努力する必要などない、という考えに囚われてしまうのかもしれません。でも宗教改革者ルターは話します「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える」。この「滅び」とは「世の終わり」のこと、そして「りんご」とは「神の言葉」、「りんごの木を植える」とは「福音伝道」を言い表しています。もし明日世界が終わるとしても、私は神の言葉を伝え続ける、彼はそう話すのです。もし、いつか滅びて消えてしまうだけの、この世の言葉や価値、喜び、満足のためだけに生きるなら、その命の使い方は虚しいのです。でも世が滅んでも滅びないものに心を向けているならどうでしょうか。主イエスはこう話されます。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ福音書24:35)
信仰を与えられた私たちは、滅びるものに心を囚われて生きるのではなく、決して滅びないものに心を囚われて生きるのです。それが【目を覚ましている】ということです。簡単です、時折、神に心を向け祈れば良いのです。難しい言葉、長い言葉はいりません。「神さまありがとう」だけで十分です。その祈りの言葉によって私たちは自分の心の琴線を張ることが出来ます。共にアドベントの準備を進めましょう。
2020/11/22「手の届く範囲で」
マタイによる福音書25:31-46
何か作業を始めるとき、私たちはまず、最終的に仕上げたい形状を頭の中に描くとか、実際に手でスケッチしてみるのです。例えば棚を作ろうとなると、棚板の上に何を置くのか、耐荷重をどの位にするのか、使う木材の厚さ、木と木の接合手段、壁に設置する手段、どんな色が部屋に合うか、そんな事を考えながら設計図を書き、寸法を計算します。次に、使う工具や部材をリストアップしてホームセンターに行き実際に材料を見ながら一番無駄なく部材を切り出せる寸法に設計図を書き直して、購入運搬、そこからようやく作業にかかるのです。でも、もう一つ大事なことがあります。作業時間を計算して、夕方には終わるようにスケジュールを組むこと。もちろん作業が終わった後の掃除と廃棄物の処理の時間も考えて計算します。作った棚を設置し、工具を所定の位置に戻し、すべてを後片付け終えて掃除をし、原状復帰するまでが作業です。作業前よりも現場が綺麗になっていることは必須です。勿論、すべてがスケジュール通りに進むわけではありません。不規則な予期不能の出来事に襲われるのが私たちの常です。でも、最終的な在り方が確定していれば、現時点で自分が行うべき作業がなにかが分かりますし、無駄な動きをしなくて済みます。落としどころが分かっていれば、そう外れた判断にはならないのです。
なぜこんな事を話したのか、といえば、今朝、与えられた御言葉が「終末」と呼ばれる聖書のテーマを扱っている箇所からです。世界の終わりに何があるのか、読んでみると少し怖いと感じられるかもしれません。でも聖書が終末について扱う理由は、私たちが自分の外側から自分を見るためです。
私たちの心に恐れを抱かせて、パニックを起こさせ、考える事を止めさせ、私たちの心を支配するため、ではありません。先ほど話したように、私が、私の行き着く先を覚える事によって、そこに行き着く行程、スケジュールを組むこと、様々な準備をさせるためです。つまり終わりの日を覚えることによって、現時点で自分自身がいかに生きるべきかを考える事ができる。そうすれば迷い道にそれることなく、無駄骨を折ることなく、今という毎日を生きる、その過程を充実させ、幸いに平安に生きることができる。ですから聖書はあえて終末論を聖書の中に残しているのです。では、終末について関心を置きつつ、共に読み進めてまいりましょう。
さて、この御言葉は主イエスの最後の説教と呼ばれる箇所の最後の場面です。主イエスは十字架に架かる前の日、弟子たちと最後の時を過ごされます。その時、お話になった言葉がここに記されています。先週、読みました山上の説教と双璧をなす御言葉です。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」(マタイ福音書25:31-33)
パレスチナの羊飼いは、夕方になると一緒に放牧している羊と山羊を別けて、それぞれの寝床に連れて行きます。羊は夜の寒さに抵抗力がありますが、山羊は暖かくしておかなければ弱ってしまうのです。その日常的に風景を引いて主イエスは話されます。この「人の子が栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」とは、この世の終わりの景色を映す言葉です。終わりの日に主イエスは天使たちを皆従えて再臨します。つまりもう一度この世に姿を見せられます。この時、命を与えられたすべての人、過去に生きた者も今生きている者も、これから産まれて生きる者も、一人残らず神の前に引き出されます。とても壮大な光景です。そして主イエスはその一人一人を右と左に別けられます。「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(マタイ福音書25:46)と聖書には記されています。
私たちはこの世の終わりに、全ての者が主イエスの前に立たされる、そこで私たちは右と左に、より分けられます。では、なにを規準にして、主イエスは私たちをより分けられるのでしょうか。主イエスは「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ福音書25:40)と話します。
この「最も小さい者」とは誰のことでしょうか。それは主イエスがこの世にあって、関わられた者たちのことです。主イエスは、当時の多くの人々から「この人は神の救いから外されている」と評価されていた者たちの所に行き、関わられました。それは病人、身体に不自由を負った者、礼拝を守る事のできない者、社会的な差別の対象になっている者、この世にあって虐げられている者、つまり誰からも目を留められず、顧みられず、必要と見做されていない者たちです。主イエスは「最も小さい者」たちに「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ね」(マタイ福音書25:35)た者を自分の右に置くと話すのです。
私たちの感覚では、この世で沢山の良い事を成し遂げた者が、神に良しとされる、ように思えるのです。例えば、沢山の人を助けた人、多くの富を人々に分け与え生活を支えた人、圧制に抵抗して人々に自由を勝ち取った人、この世に名前を残した、多くの人々に関わり知られた、そんな者が選ばれるべきだと考えるのです。でも主イエスは、そう話しません。自分の目の前にいる、誰からも目を留められない小さな者と関わる人を、私は求める、と話されるのです。
では私たちはこの世に於いて「最も小さい者」を探しだし、助ければ良いのでしょうか。食べ物を与え、水を飲ませ、宿を貸し、着物を与え、病を見舞い、牢を訪ねれば良いのでしょうか。そうすれば、主イエスに「あなたは良い羊、私の羊です」と言われるのでしょうか。そうではないのです。
主イエスが、右に分けられた人たちに「あなたたちが小さい人にしたことは私にした事です」と話しかけたとき、彼らは「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」(マタイ福音書25:37)と答えた、と聖書には記されています。こでは、どういうことでしょうか。彼らは自らの意志と理念を以て、意図的に小さき者を助け、彼らと関わっているのではないのです。「最も小さい者」たちに同情したり、彼らを憐れんだり、彼らに対して優位な立場から、施したのでもない。そう、【彼らはなにもしていないのです。】ただ彼らは、自分の心を誰よりも低くして、この世に生きる者に全ての者に分け隔てなく、誰に対しても自分と同等の者(存在)として、当たり前の事として関わっていた、だけなのです。そして主イエスは、あなた方が関わっていた「最も小さい者」こそ私だった、つまり「最も小さい者」と私はひとつだった、と話されるのです。
先週、聖書に記されている愛とは【相手を自分が同一の存在と感じる感覚】と話しました。自分と相手との心の隔たりがなくなり、相手の痛みを自らの痛みの様に感じ、相手の喜びを自らの喜びと感じられる。それが愛です。目の前にいる小さい者の痛みを、自分の痛みとして、また喜びを自分の痛みとして関わったということは、彼らが聖書に示されている愛をこの世で実践していた、という事です。主イエスは彼らを自分の右に置き、自分の羊とすると話すのです。では、左に置かれた者たちのなにが過ちだったのでしょうか。彼らもたぶん、この世にあって良い事を行おうとしていた、のだと思います。多くの人を助け、守り、救い、生かす、良い行いを行う。でも彼らは自分自身の心を高い所に置いているのです。高い場所から、この人は助ける価値がある、この人を助けると自分も助かる、と、その人を自分の規準で評価し、値踏みしていたのです。彼らは、自分にとって都合の良い、利益になる相手しか見えていない。彼らの目には「最も小さい者」の姿が見えていない。そこに過ちがあると、主イエスは指摘されるのです。
先ほど「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(マタイ福音書25:46)という言葉を読みました。この永遠の罰とは、絶対的な正しさ、つまり絶対的な義である神の前に立たされるということです。神の光を受けるなら私たちの魂のすべてが明らかになります。つまり「目に前にあるものが見えていなかった自分」を直視しなければならなくなる。幼く傲慢で、愚かな自分を、目を逸らすことなく見続けなければならなくなる。自分の心を高みに置いて、この世の隣人を見下しその心を支配ながら、自分は彼らを助け救い守っていた、と勘違いしていた。そんな愚かな自分を、永遠に見なければならなくなる。恥じ入るしかない状況に永遠に置かれるのです。それが彼らに与えられる罰です。
神はこの世を創造されたとき地上にエデンの園を創り、アダムに園の管理をまかせました。しかしアダムは神に逆らい知恵の木の実を食べます。アダムはどうなったのか「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると」(創世記3:08)と書かれています。アダムは神の足音を聞いて隠れるのです。闇の中に身を隠して、息を殺してジッとしているのです。彼はもう二度とエデンの園の中を堂々と大手を振って歩くことができなくなるのです。神からも光からも隠れ続けなければならない。それが永遠の罰なのです。ですから逆に永遠の命とは、神の前を光の下を大手を振って歩くことです。主イエスは右に置かれた者たちに、「『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』」(マタイ福音書25:34)と話されます。右に取り分けられた者たちはアダムの犯した罪の束縛から解放されるのです。
正しい者たちにとって、自分が潔白であるなら、裁きの場は自らの無罪を明らかにし、捕らえられ牢に繋がれた自分を解放し、束縛から自由にする勝利の場です。この世にあって自らの心を低くし、すべての人の心の在る場所に自分の心も置いて、その心に寄り添い、自分と同一の者として関わる者たち、つまりこの世にあって聖書に明らかにされている愛を実践した者たちは、同じようにこの世のすべての人を愛する神と、ひとつにされるのです。永遠の存在である神とひとつになる、つまり「永遠の命にあずかる」(マタイ福音書25:46)者とされるのです。
この御言葉は、キリスト者であるなら誰もが心に留めなければ為らない御言葉です。
私たちは倒れている人(精神的・肉体的)を目の前に見たとき、その人のすぐ横に、その人を支え立ち上がらせようとしている主イエスの姿を見るのです。十字架というこの世の最も低い所に降られた神が、最も低い場所から、その人を支え、起き上がらせようとしている姿を見るのです。そして私も主イエスの手の業一部として用いられる事を望み、用いられる事を祈ります。倒れている人の魂の場所まで降って行って、主イエスと一緒に手を貸し支えます。そうして私たちが主イエスの道具として用いられる時に、主イエスとひとつとされます。そして、私たちは永遠の命の内に導かれるのです。この世の道具ではなく神の道具として用いられるように、私たちは望み、願い、その様に今の時を共に生きましょう。祈ります。
「あの人も神は愛されている」2020/11/15
マタイ福音書5:38-48
先週、礼拝前の時間に教会の前の駐車場でバトミントンをしました。久し振りにラケットを持ったのと、最近、体を動かしてなかったので、なかなか感覚が掴めなかったですけど、徐々に慣れてきました。相手をしてくれた小学生のタケトくんと打ち合ったのですけど。二人ともそこまで上手くないので、どうやってラリーを長く続けられるか、という勝負になりました。シャトルを落とさないように、相手が打ちやすいところ、相手がシャトルを拾いやすい場所に打ち合います。普通ゲームというと相手を打ち負かして勝つ、という事になるのですけど、これはこれで平和的な、良い勝負でした。そして、ついつい熱くなってしまいました。
勝敗を争うという事について、私たちは生まれてこの方、否応なしに競争社会に身を置いて生きて来ましたし、今も競争の中で生きています。学生時代には何度も受験を経験し、社会に出てからは過酷な競争に入れられました。肯定的に捉えれば、誰かと競い合う事によって、お互いの技術や能力を高め合う事ができる、とも考えられます。スポーツの世界にしても、選手はライバルと争い合い目的意識を高められて、より良いタイムが生みだすのです。チーム戦では敵対する共通の相手がいることによって、チーム内での団結力が生まれます。仕事では、競争関係にある他の企業との競争によって、新しいアイデアが生みだされ、効率的な処理が求められるので、無駄が削がれます。競争によって市場も広がります。
でも競争には否定的な側面もあります。行き過ぎた競争は対立を産み、分断が生じます。国と国、民族、思想、主義主張の対立は暴力を用いる争いへと拡大・激化し、紛争や戦争へと向かいます。なにより競争相手は倒すべき敵になります。敵と味方に分かれて傷つけ合い殺し合う。所有している土地、財産を奪いあい、互いに仲間を殺された恨みは、敵に対する憎しみとなります。その社会では、お互いに、相手よりも強い力を得ようとし、権力や富が一所に集中します。貧富の差が生まれ、差別や貧困、支配者と隷属する者たちの関係が作り出されるのです。
私たちの誰もが、それぞれの日常を平和に穏やかに過ごしたいと望んでいるのだと、思います。しかし、そんな願いにかかわらず、なぜか私たちは根拠のない悪意や理不尽な暴力に晒されることがあります。でもその様な時、自分に敵対する者の思いのままを許すならば、相手はつけ上がってさらに攻勢を強めてくる。そう、私たちは経験則から知っています。敵は奪ったモノだけでなく、私の手元にあるものまでも奪おうするのです。でも、主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ福音書5:44)と話されます。どう考えても受け入れにくい言葉です。おとぎ話のような、そんな言葉に思えます。では主イエスは絵空事を私たちに求められている訳ではありません。なぜなら、勘違いしているのは私たちの「愛」に対する解釈だからです。では、主イエスの話す「愛」とは、どういうことなのでしょうか。今朝、与えられました御言葉から、共に聴いていきたいと、そう思います。
この御言葉の場面は、先週、共に読み進めました山上の説教の場面の続きです。「山上」といっても、私たちが思い描く山ではなく小高い丘です。主イエスと弟子たちがガリラヤ伝道の拠点としていたカファルナウムの町の郊外です。このカファルナウムはだいたい九華公園くらいの広さの町です。ですから、ガリラヤの地方や遠くエルサレム周辺から、人々が主イエスの言葉を聞きに集まって来たとき、彼らを受けとめられる程の広い場所が町の中にはなかったのです。そこで、主イエスは人々を引き連れて、丘に上られ、丘の上から人々に話しかけられました。そこは開けた草原で、眼下にはガリラヤ湖が広がり、その向こう側にはこの地方の首都ティベリアスの町が見えます。主イエスは人々に「神の祝福を受けるには、いかに生きれば良いのか」を教えられるのです。でも主イエスは自分の言葉を押し付ける事はしません。人々が子どもの頃から教えられている、そして覚え込まされてている聖書に記されている律法の言葉を取り上げ、その一つ一つを丁寧に解いていくのです。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ福音書5:38)主イエスはこのように話されます。「目には目を、歯には歯を」という言葉は旧約聖書の中に三度記されています。その出エジプト記にはこうに書かれています。「目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」(出エジプト21:24-25)そう聞くと、なんだか野蛮な法律のように思われます。でもこのように定められているのは、逆に、復讐がエスカレートするのを防ぐ為であると、考えられています。人と人との争いでは、奪われ物の二倍、三倍を奪い返さないと気が済まない、というのが人間の心情です。でもこのように、復讐を同程度に定めるなら、理性的に、暴力の応酬を食い止める事ができるのです。
ここまでは理解出来ます。でも主イエスは「目には目を」ではなく「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ福音書5:39)と話されるのです。「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(マタイ福音書5:41)と話されるのです。これはどういうことなのでしょうか。
この「強いる」という言葉が大事です。つまり主イエスは、強いられて行うのではなく、たとえ強いられた事柄であっても、自分の意志でそれを行いなさい、と話されているのです。「強いる」とは、嫌がる相手に無理に物事を行わせる事です。このときの両者の関係は強者と弱者に別けられます。対等ではありません。でも、強いられた課題を強いられたからではなく、自主的に行うなら、その立場は対等になるのです。例えば徴税人がある人に対して徴収を強要します。その人が嫌々徴収に応じるなら、徴税人が強者でその人は弱者になります。でもその人が自主的に税を支払うなら、徴税人とその人の関係は対等になります。たとえこの世の立場に上下があっても、全ての人は神の前に等しく創られているのです。自分に何かを強いる相手であっても臆する事なく、逃げたり、暴力に訴えたりするのではなく、返って積極的に、相手に自分から関わっていきなさいと、主イエスは話されるのです。
続けて、主イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。」(マタイ福音書5:43)と話されます。この言葉はレビ記にあります。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)でも主イエスは隣人だけではなく、敵を愛しなさいと話すのです。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ福音書5:44)
隣人とは誰のことでしょうか。レビ記にある隣人とは同胞、つまりユダヤ人の事です。同じアブラハムの子孫であるなら、同じ神の民であるから、自分と相手は神の前にあって対等で、同等な存在なのです。だから愛し合いなさい、と律法は定めるのです。この愛し合うとは、人の好き嫌いという感情を言い表す言葉ではありません。ここで話される愛とは、【相手を自分が同一の存在と感じる感覚】です。例えば高熱を発した我が子を看病する母親は、その子の苦しみを自分の苦しみと同じように感じます。相手の痛みを自分の痛みとして感じ、相手の喜びを自分の喜びとして感じ、自分と相手の心の間に境界線がなくなる関係を「愛」と定義しているのです。相手が自分の好みである、とか自分の様々な要求や欲求を満たすために相手と関わる関わりは、まだ愛と呼ぶことができません。(でも、そのような未熟な関係が時間を掛けて愛に昇華する、という事もあります。)
主イエスは「敵を愛しなさい」と話されます。敵は自分の欲望や欲求を満足させる為に、私たちに自分との関係を強要します。威力や暴力、強い言葉や態度、権威や地位を使って、私たちに関係を強いてきます。そのようにして、私たちの心を支配しようとするのです。でも私たちは、その力に対して、同じく力で対抗するのではなく、つまり相手を支配し返す事を求めるのではなく、そこに新しく、愛という関係性を作り上げといくのです。幼い未熟な関係性、互いの欲望を相手に押し付けるような関係性の内に留まるのではなく、そこから一歩踏み込んで、相手を自分が同一の存在として受け入れ合う、本当の愛の関係を新しく創り上げなさいと、主イエスは話されるのです。まずは私から、それを始めてみるのです。でも、主イエスは私たちに、自分の努力や犠牲的な思いで、無理をして敵を愛することを、求めてはおられません。私たちはただ神を覚えれば良いのです。目の前に立っている敵も、自分と同じように神に創られた、一人の人間だと気づくなら、その人も自分と同じように弱く、無力な、いつかは壊れる存在だと気づかされます。そしてもう一つ、その人も神に愛されて、この世に命を与えられた存在だと気づかされるのです。神が愛しているその人を、私が憎むなら、私は神をも憎む事となります。その人を神が愛しているから、私もその人を愛する事ができるのです。神の愛を介して、私たちは一つのモノ(存在)とされるのです。
そして、先ほど隣人とは誰のことか、と話しました。確かに主イエスがこの世に遣わされる前は神の民とはアブラハムの血族であるユダヤ人に限られているのです。でも、主イエスは十字架に架かり復活され天に上られた後、使徒たちに聖霊が降ります。この聖霊によって、ユダヤ人だけでなく、この世界の全ての人、民族に福音は開かれました。律法の定めた枠は、聖霊によって開かれました。つまり私たちにとって隣人とは、神に心を開いたすべての人、のことなのです。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ福音書5:48)と最後に主イエスは話されます。完全な者とは、何でもできる、という意味ではありません。不完全なこの世の、人と人との関係に留まるのではなく、神を間に介した完全な関係に身を置きなさい、と話されるのです。そのようにして、主イエスが示した愛をこの世に実践しなさいと話されるのです。
愛について、私たちはその在り方を見失うことがあります。でも神は私たちが、いつでも立ち返る事ができる様に、神は自らの肉であり血である主イエスを、十字架に掛けられました。その様にして神は私たちの痛みを自らの痛みとして負ってくださいました。私たちは十字架を見る度に、本当の愛に立ち戻されるのです。そして神はその愛で私たち一人一人と関わられています。私たちの隣にいる人にも、神は十字架の愛を以て関わって下さっているのです。だから私たちはその人を愛するのです。この世の欲望や欲求に根ざした関係に留まるのではなく、神の愛を知っている私たちは、正しい愛をこの世にあって実践していきましょう。それが私たちの信仰の証しなのです。
「ほんとうのしあわせ」幼児祝福合同礼拝 2020/11/8
マタイによる福音書5:3-10
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」イエスさまはガリラヤの小高い丘の中腹に立ち、集まって来たたくさんの人たちに話されました。「幸い」とは「しあわせ」ということです。
この言葉を聞いた人たちは、みんな驚きました。
なぜなら、イエスさまの話しを聞くために、ここに集まって来た人たちは、自分のことを「しあわせ」だとは思ってなかったからです。「私は病気を患って苦しんでいる」「私はお金がなくて、毎日食べるものがなくて困っている」「私は物を知らないと馬鹿にされている」。恵まれていない、足りない、毎日が楽しくない、「私は不幸だ、困っている。だからイエスさまに助けてもらおう」「イエスさまに不満を話して、神さまに伝えてもらおう」そう考えて集まって来ていたからです。でもイエスさまは「心の貧しい人々は、幸いである」と話されるのです。「心が貧しい人」とはどういう人のことでしょうか。まずしい、とは欠けている、足りない、ということです。めぐまれていない人は幸いだと。
イエスさまは健康な人、お金持ちの人、頭のよく働く人、仕事のできる人、お金や物を沢山持っている人、高い地位に就いている人。恵まれている人は「しあわせ」です、ということではない。本当にしあわせな人とは「心がまずしい」、つまり、欠けている、たりない、めぐまれていない人だ、と話されたのです。なぜ、欠けていることが「しあわせ」なのでしょうか。
「僕を探しに」(シェル・シルヴァスタイン著)を読む。
私たちは、自分が完全になることを求めます。自分ひとりで、すべての事ができること、誰にも迷惑を掛けないこと。すべての事が分かっていること。自分が完全に正しいこと。でも、それが本当に幸せなのでしょうか。本当にしあわせなこと、とは、自分には欠けがある、と知っている人です。じぶんは完全じゃなくてもいい。欠けていて良い、と知っている。自分だけじゃなくて、みんな欠けているのだから、助け合えば良い。だから、自分で全部できなくても、友だちと力を出し合って、完成させればいい。そう考えられるのです。自分が絶対に正しいわけではない、と気づくと、相手の言葉を聞くことが出来ます。
その様にして心が柔らかくなると、美しいものを眺める、お話しをする、歌をうたう心が生き生きと息をし始めます。自由になる。この世の様々な縄目から解放される。それが私たちの幸い、つまり「本当のしあわせ」なのです。
数学の問題が解けないことは悪い事ではありません。解けないなら、教えてくれる人を探せばいい。そうすれば、教えてくれる先生とか、友だちとか、お兄さんとかと、新しく出会えます。英語が話せないなら、英語が話せる友だちを探せばいい。病気にかかると始めて看病してくれる人の優しさが分かります。一つのパンも独り占めするのではなく、半分に割って「これ、おいしいねえ」といいながら食べると、もっと美味しいのです。
でも私たちは、実際に失ってみないと、自分の欠けを意識する事はできません。失敗したり、病気になったり、たべるものがなかったり。でも、つまずく前に、そのたいせつな事に気が付く、唯一の方法があります。それは神さまにお祈りする事です。私たちが心を静かにして神さまに心を向けてお祈りするとき、神さまに出会う事ができます、そうすると、自分が欠けている、と、知る事ができます。神さまは完全です。まん丸です。それに比べて自分は神さまの様に完全ではないと、分かるからです。それに、私は神さまの様に完全になることは出来ないし、そうなる必要もないと、分かるからです。私たちはその事を知る為に、こうやって教会に集まって礼拝を捧げます。神さまは、私が完全じゃなくても愛してくれます。私たちはみんな、誰もが欠けているから間違った事もします。でも間違った事をしたら神さまに心から謝れば、赦してくれます。みんなそれぞれできることを持ち寄って、お互いに欠けているところを補い合って、助け合います。「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。(ロマ書12:4-5)欠けていること。それは私たちにとって神さまからの恵みです。共に歩みましょう。
「飾らない言葉で」永眠者記念礼拝 2020/11/1
マタイによる福音書23:25-36
私たちは今日の礼拝を召天者記念礼拝として、共に守っています。私たちはこの礼拝を通して、既に天に帰られたご家族、ご近親の方とのこの世で与えられた交わりの日々を覚えて、神に感謝する時を持ちます。また、地上に残された私たちは、教会の礼拝の場に集い神の前に座り、日常の生活を少し離れる時間が与えられます。立ち止まり、この世で生かされている自分自身の命について、見つめ直す時が与えられています。少し立ち止まって振り返ることを通して、私たちは自分自身の内面をもう一度検証することができます。
先日、私は子供の頃に家に置かれていた絵本と同じ絵本を本屋で見つけて、懐かしくて手に取りました。「ちいさなおうち」という絵本なのですけど、その物語を読んで、描かれているメッセージが、今の私の考え方の傾向に影響が与えていると知って、驚かされました。私たちは今の時間を生きていますが、その内側は過去の経験の蓄積です。子どもの頃に育てられた家庭環境で掛けられた言葉とか経験が、考え方のクセとか、行動、言動、信仰の原型になっています。しかしながら、私たちは、自分の過去の経験や記憶から目を背ける傾向があります。なぜならそれらが、失敗や醜態の連続にしか思えないからです。でも目を背けたり、覆い隠すのではなく、柔らかく受け入れることができた時、私たちの心は、今という薄っぺらい情感に惑わされる事なく厚みを持ち、成熟するのだと、そう思います。
そしてキリスト教信仰は、この「受け入れる」という心の過程に手を添え、支えます。聖書を読み、神に心を向けて静かに祈る中で、これまで経験し味わった、良い時も苦しかった時も、私が一人で藻掻いていた訳ではなく、つねに神が傍らにいて下さっていた事に気付かされるからです。コリントの信徒への手紙の中で伝道者パウロはこう話します。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒10:13)私たちの心は弱いので、過去の自分の姿を、目を逸らさないで真っ直ぐに見つめる事を拒むのです。でも神がすべてを許して下さると知るなら、私たちは恐れずに、過去の自分に目を向けることができるのです。砕かれて心を柔らかくされる。与えられた柔らかい心で隣にいる誰かに対しても優しく関わる事ができるように変えられるのです。
さて、今朝与えられた御言葉には、主イエスが律法学者たちとファリサイ派の人々を叱った時の言葉が記されています。「あなたたち偽善者は不幸だ。」と、とても強い口調で話されているので、少し後ずさりしてしまいそうなのですが、でも、この言葉の中に、主イエスの彼らに対する愛が込められています。それは、どの様な思いか、共に聴いていきましょう。
少し遡る事、二十一章からこの場面は始まります。主イエスはエルサレムに住む多くの人々の歓迎を受けて市街に入られます。人々は主イエスが入城する道に自分の着ている上着を敷き棕櫚の葉を手に持ち振るのです。そして主イエスは神殿の境内で、神殿に仕える祭司たち、サドカイ派の人たち、律法学者、ファリサイ派の人たちと長く議論を交わします。その議論の中で主イエスは彼らの信仰の権威的な姿勢を批判します。ただ批判するだけではなく主イエスは聖書の言葉と解釈に忠実に倣って、彼らの言葉を正していきます。人々はその様子を見て、溜飲を下げ(気が晴れる)ます。いつも指導的な言葉で偉そうに自分たち指示している彼らが、聖書の言葉、律法の解釈について、主イエスに言い負かされる様子を見るからです。では主イエスは人々に、彼らに従わないように、と話すのか、というと、そうではありません。主イエスは「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」(マタイによる福音書23:2)と話すのです。
律法学者たちやファリサイ派の人々の教える聖書の言葉、彼らの行う祭儀、そして律法の教えを守る姿勢は倣うべきだけど、でも、彼ら自身の行いを真似てはいけないと話されるのです。なぜ、彼らの行いに倣ってはいけないのか、それは彼らの信仰の姿勢が表面だけを取り繕ったもので、中身が伴っていないから、です。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。」(マタイ福音書23:25)彼らは、ユダヤの人々に、心から神を畏れ全身全霊をもって神を礼拝しなさい、と教えます。それは正しい事です。でもそう話す、彼らの心は神に向いていないのです。彼らは、自分たちが厳かに礼拝を捧げる姿を人々に見せることによって尊敬を集ようと望むのです。その心は神に向いていないのです。かれらは巨大な石を運び立派な神殿を建て、金で飾り香草を焚き、高価な香油を燃やして一晩中、灯を絶やさないようにし、神殿を煌びやかに美しく飾るけれど、それはこの世に神の栄光を讃え、臨在を表し神の恵みに感謝する為では無いのです。
もう一つ、主イエスは「あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」(マタイ福音書23:27)と話されます。当時の風習では、亡くなった人の遺体は、まず、横穴式の洞穴にそのまま寝かされ、入り口を塞ぎ、時がたつのを待ちます。そして後に肉が腐り朽ちて骨になった所で、その人の属している家系の先祖の納められた墓に移していました。その骨を納める墓は、自分の血族の先祖が確かに神に選ばれた民としてのユダヤ人である事の証しであり、いわば自分の血統証明のように受けとめられていたので、墓石は白く綺麗に塗られ、大切にされていました。主イエスは彼らが、亡骸を汚れと見做しながら、その骨を納める墓石を美しく保ち尊重している姿こそ、あなたがた自身の在り方を表している、と話すのです。それだけではなく彼らは、墓を利用して人々の心を支配するのです。もし自分たち、エルサレム神殿のやり方に従わないなら、つまり権威に逆らうなら、あなたをユダヤ人という共同体から追い出し、神殿の礼拝からも締め出し「あなたが死んでも骨は血族の墓に入れない」と脅すのです。
主イエスは彼らが「不幸だ」と話されます。以前の聖書では「わざわいだ」と訳されていました。この言葉は元々【oujai÷】で発音すると「オウアイ」です。気づかれるかもしれませんが、これはそのまま人が呻く言葉です。「ああ」とか「おお」でも良い、訳し難い言葉ですが、主イエスは彼らに対して「せっかく神があなたがたを神殿に仕えさせ、律法を人々に教え、正しく導く立場に置いて下さっているのに、あなたたちの行いは、残念だ」と嘆かれているのです。でも、それは今に始まったことではなく、昔から続けられてきたことだと、主イエスは話されます。旧約聖書の物語の中には多くの預言者の言葉や行いが記されています。彼らはユダヤの王や祭司たちが、異教の神、つまり偶像を礼拝し始めたり、エルサレム神殿で行われる祭儀が華美に飾られるようになったり、権力を振りかざし始める度に、現れて人々に注意を促すのです。命懸けで王の前や民衆の前に立ち、彼らの過ちを解き、神の怒りを伝え、悔い改めるように求めます。でもそんな預言者の言葉は疎まれ、ある者は迫害を受け、またある者は国を追放され、牢屋に入れられたり、古井戸に落とされたり、石を投げつけられ殺されるのです。
主イエスは律法学者たちとファリサイ派の人々に対して、今あなたたちは、あなた方の先祖がしてきた迫害と同じ事をしている、と、話します。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。」(マタイ福音書23:30-31)そうではなく、まさに、あなた方も預言者を迫害し神からの言葉を掻き消している、と話します。そして、それは「不幸」なことだと、嘆かれるのです。では、主イエスは彼らを見棄てられるのか、というとそうではありません。主イエスは、彼らが今、気づくことができなくても、後に、つまり自分が十字架に架かった後に、彼らが気づくことができるように、こう話すのです。「わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。」(マタイ福音書23:33-34)主イエスは、「あなたがたは神から遣わされた者を十字架に掛けるだろう」と話します。そして、この言葉は現実になります。すぐ後に、過越祭の中で律法学者たちとファリサイ派の人々は主イエスを十字架に掛けます。自らの手で主イエスを殺すのです。
主イエスは、彼らが立ち止まり、過去を顧みた時に、自分たちこそが迫害者であり偽善者だったと気づく為に「あなたがたは神から遣わされた方を十字架に掛けるだろう」と話されるのです。主イエスはずっと彼らが、自らの心で気付くまで待たれていました。諦めず、彼らの魂に寄り添い続けられていたのです。
私たち一人一人、この世に生まれたときから今まで、ずっと神は目を注がれ、傍らに寄り添って下さっていました。私たちが今まで一人で懸命に戦っていた、と考えていた時でも、闇の淵に落ちていた時でも私たちは一人ではなかったのです。今、私たちは神の御手を見ることも感じる事もできません。でも、少し時間が経ってから、心を静かに祈り神に心を向けて、自分の姿を振り返るなら、そこに神の姿と愛を見ることができます。支えられていた事に気づかされます。そして犯した過ちも、正面から向き合い、心から悔い改めるなら、神は赦して下さいます。安心して共に歩みましょう。
礼拝説教原稿
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