礼拝説教原稿

2020年10月

「死では終わらない命」 2020/10/11

ヨハネによる福音書11:1-16

先月から水曜聖書研究祈祷会では、共に創世記を学んでいます。先週からアブラムの物語に入りました。このアブラムの信仰の姿勢が旧約聖書と新約聖書を通して貫かれる正しい信仰の姿勢となっています。つまりアブラムの信仰は私たちすべての信仰者の雛形として聖書に記されているのです。そう考えるに、現代の世界に於いて、キリスト教はもちろん、ユダヤ教もイスラム教もモーセ五書を聖典としていて、アブラムを始祖としている訳ですから、世界の半分以上の人が、このアブラムの信仰に倣っているということです。神はアブラムに「私は、あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。」(創世記13:16)と約束されますが、神の言葉は違われないと、改めて思わされます。そのアブラハムの信仰を的確に言い表している言葉はヘブライ人の手紙の中にあります。それはパウロの言葉です。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)

今朝与えられた御言葉の中で、弟子たちは、そしてマリアとマルタは、この信仰の在り方を主イエスから教えられています。私たちも共に御言葉に聴いて行きたいと思います。

さて、神殿奉献記念祭の催されているエルサレムで、主イエスはユダヤ人たちに囲まれます。彼らはそれぞれ手に石を持ち、主イエスに投げつけようとします。何故なら主イエスが彼らに「私と神は一つだ」と話したからです。それは神を冒涜する言葉であり、ユダヤ教の律法の規定では石打の刑に処して「民の中から断つ」と定められていました。つまり皆で石を投げつけて殺してしまうという事です。実際には裁判を経てと定められているのですが、急進的(過激)な、ユダヤ教に傾倒している者たちを抑えるコトは難しく(どの時代でも)彼らは自分たちの手で主イエスを殺そうとするのです。でも主イエスは、彼らの手をすり抜けて、エルサレムを離れ、洗礼者ヨハネが人々に洗礼を授けていた地に逃れます。この地は、いわばエルサレム神殿の権威に従っているユダヤ人たちの影響力の外にありました。ここに留まるなら、主イエスと弟子たちは命を狙われる危険がない、からです。でも、その主イエスの下に、使いの者が訪ねてきます。彼はベタニアに住むマルタとマリア姉妹からの使いです。この姉妹の弟のラザロが病で死に今にも死にそうだ、と、今すぐきてくれないか、と姉妹の伝言を伝えるのです。

ベタニアはエルサレムから死海の方向、オリーブ山の向こう側、東に三キロほどの距離にある村です。どの時代も大都市の周辺には、都市で働く労働者の地区が作られます。ベタニアもその様な村の一つだったと考えられています。そして主イエスと弟子たちがエルサレムに上る時には、このベタニアに滞在されていたのだろう、と、そして、ユダヤ人社会のなかで、困窮した者たち、軽視されている者たちが住むこの村で主イエスは人々に福音を伝え、また、癒やされていたのだろうと考えられています。

このベタニアで立ち寄られる家が、マルタとマリア、そしてラザロの住む家でした。ルカ福音書十章にその様子が生き生きと描かれています。家の中で人々を前に教えを説く主イエス、その主イエスを持てなそうと忙しく歩き廻るマルタ、でもマリアは主イエスの目の前で話しを、目を輝かしながら熱心に話しを聞いています。そんなマリアを見てマルタは主イエスに近寄って話します。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(ルカ福音書10:40)主イエスはそんなマルタを優しく諭します。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ福音書10:42)とても微笑ましい場面です。そして、今朝読まれた御言葉の後の箇所ですが、主イエスが十字架に架かる過越祭の六日前に、主イエスと弟子たちはこの家を訪ねます。そこでマリアは高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭います。「家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ福音書12:3)と記されています。この家の人々と主イエス、弟子たちは、まるで家族のような親しい関わりをしているのです。

さて、このマルタとマリアの弟、ラザロが今にも死にそうだと知らされます。では主イエスはどうされたのでしょうか。先ほど話したベタニアはエルサレムの近郊です。もし主イエスが戻ってきたと知れるなら、すぐにユダヤ人たちに知れ渡り、追っ手が送り込まれ主イエスは捕らえられるか、その場で殺される危険性が高いのです。

主イエスはどうされたのか。動かれないのです。「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」(ヨハネ福音書11:6)と聖書には記されています。弟子たちにとってもラザロは家族のような存在です。できればすぐに近くに行ってやりたいと思ったことでしょう。でも主イエスは動きません。弟子たちは主イエスのこの判断に対して若干の薄情さ、冷淡な対応のように感じつつも、でも致し方ないと受け入れたのではないか、と、そう思います。ラザロを助けても自分たちが殺されては元も子もないのです。

ですから主イエスが二日たってから「もう一度、ユダヤに行こう。」(ヨハネ福音書11:10)と話した時には、彼らは反対するのです。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」(ヨハネ福音書11:11)主イエスは弟子たちに話します。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」(ヨハネ福音書11:9-10)今は私が、あなたたちの近くにいるから捕らえられる事も、殺される事もない、大丈夫だ、と、そう話すのです。でも、この言葉に弟子たちはさらに混乱します。ユダヤ人に捕らえられて殺される危険がないとわかっていたなら、何故すぐにラザロの所に行ってあげなかったのか。もし二日前に出発する決断をするとしたなら、まだラザロを助けられる可能性があったかも知れない。そう考えるのは当然です。そこで主イエスは弟子たちに、ラザロは既に死んでいると伝えます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。」(ヨハネ福音書11:15)弟子たちはさらに戸惑います。ラザロが死んでいるのであるなら、なおさらなぜ、今さら行く必要があるのか。それこそ無意味だろうと。この主イエスの言葉を聞いて、ディディモと呼ばれるトマスは仲間の弟子たちに「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ福音書11:16)と皮肉を言います。嘲笑の言葉が出るほどに、弟子たちにとって主イエスの行動は失策としか思えないのです。弟子たちは主イエスに失望するのです。

そして主イエスと弟子たちはベタニアに入ります。その時、既にラザロは死んでいました。亡骸は墓に納められて四日経っています。聖書にはこう記されています。「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。』」(ヨハネ福音書11:21) マルタは主イエスを、もし、二日を置かずに、すぐにベタニアに来ていただければ間に合ったでしょうに、なんですぐに来られなかったのですか、と泣きながら不満をぶつけるのです。主イエスはマルタとマリアを見て、涙を流されます。

主イエスはなぜ涙を流されたのでしょうか。ラザロの死を悲しんで、残念に思って、涙を流されたのでしょうか。自分の判断が遅かったことを悔やんだのでしょうか。そうではないのです。主イエスはこの世の闇の深さを嘆かれるのです。

マリアとマルタは主イエスをメシアと信じているのです。でもラザロの死、という現実の前で信仰は崩れてしまう。彼女らは主イエスであっても、つまり神であっても死に打ち勝つことは出来ない、と諦めているのです。彼女たちの心を絶望が支配して、まったく光が差さなくなってしまっている。この神に対する不信を主イエスは嘆かれるのです。正確には諦めざるを得ない、つまり光よりも闇に支配されてしまう人間の悲惨な現実に、主イエスは涙されるのです。そこで、主イエスは、マルタとマリアを伴って墓に向かい、墓穴を塞いでいる石を取りのけて「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれます(ヨハネ福音書11:43)。するとラザロは手と足を布で巻かれたまま墓から出てくる、生き返るのです。主イエスは弟子たちに「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」(ヨハネ福音書11:9-10)と話します。

この譬えには二つの意味があります。一つは、まだ自分たちが殺される時では無い、という意味、もう一つの意味は、心の内に光を持たなければならない、という勧めです。

光とは、希望であり神への信頼です。つまり信仰を言い表しています。人は神への信頼を失ったとき躓くのです。弟子たちが「これからベタニアに行こう」と話した主イエスに失望したように、マルタが主イエスに不満をぶつけたように、主イエスへの信頼を失ったとき、人は心に光を失い躓きます。神を諦める、神から心が離れてしまうのです。でも主イエスはラザロを生き返らせます。そうして彼らの心に光を灯すのです。神にできないことはないと、明らかにするのです。主イエスはマリアに「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(ヨハネ福音書11:40)と話します。そして弟子たちには「あなたがたが信じるようになるためである。」(ヨハネ福音書11:15)と話します。主イエスは殺されることを恐れて二日間、ヨルダンの向こう側の地に滞在されていたのではありません。完全に死んだラザロが生き返る出来事を通して、マリアとマルタには神の栄光、つまり「神がある」という事実が明らかされるのです。そして弟子たちの心には、神の思いには必ず意味があることを教えられ、加えて彼らの魂に、どんな苦境にあっても神を信じてもよい、という信仰の光が灯されるのです

私たちは死という現実を前にすると、立ち止まってしまいます。動けなくなります。そして、どうしようもないと諦めてしまうのです。でも諦めた時、私たちは神を見失います。心がこの世に支配され、闇に落ちるのです。しかし神は、それでも私たちに関わり続けられ思いもよらない仕方で、私たちに希望を与えて下さいます。主イエスは自ら十字架に架かり命を失われました。そして三日目に復活されました。その出来事を通して、人の命は死で終わるものではない、と、この世に明らかにして下さったのです。死が絶望で終わらないように、すべての闇の中にも光が与えられるのです。

「知恵とは神を知ること」2020/10/4

ヨハネ福音書10:31-42

家の近くに自動車教習所が二つあります。旧東海道の近くですから、付近の道路はけっして広くないのですけど、大型免許の教習では四トンのダブルキャブがぎこちなく狭い交差点を曲がっていきます。その度に短い渋滞が続きます。とはいえ、自分もそうやって運転を習って免許をいただいた訳で、暖かく見守るのが交通社会の先輩としての義務なのでしょう。「がんばれー」と心の中で応援するのです。でも、助手席に座っている教官は、さぞかし怖いのではないか、といつも思います。教習車には助手席にもフットブレーキとサイドミラーが付いているので、危険な時には車を止める事もできますけど、なにがあっても座り続けなければならないのです。そして教官は困ったときには手を差し伸べます、どのタイミングでハンドル動かし、アクセルを踏めばスムーズにカーブを曲がれるか、車の挙動と運転手の動きを繋げていくのです。

信仰という事柄に於いても、一つを除いては同様です。新しく信仰生活をはじめられた方に教会ができることは、自分たちの知っている何か、を教えることではありません。また自分たちがやっている事と同じ事をさせること、でもありません。するべき事は、その人を主イエスに繋ぐことです。ただし、正確に主イエスに繋ぐこと。管が途中で詰まっていたり、蛇口が緩んでいる様ではダメです。また、主イエス以外の何か他のモノに繋いでもダメです。そして繋がったなら、主イエスが直接その人に、【神を源泉とした命の水】を注ぎ込んで下さいます。その水は、苦難の底に置かれた時には立ち上がる力を与え、罪に向かおうとするときには引き戻す道を示し、傲慢に陥るときには躓きを与えて下さいます。喜びを本当の喜びとし、毎朝新しい命が与えられます。

一つを除いて、と話しました。それは信仰を習得したか否かの効果測定はできない、つまり、テストできない、という事です。信仰が正確に主イエスに繋がっているのか、本人以外、誰にもわからないのです。でも、実は、本人にも判定できないのです。今朝の御言葉の中で主イエスは「わたしを信じなくても、その業を信じなさい。」(ヨハネ福音書10:38)と話されます。またルカ福音書で主イエスは「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。(ルカ福音書6:43-44)と話されます。信仰は種のようなモノです。蒔いて、育てて、実を結んで、良い実を結ぶなら、神と繋がっている正しい信仰です。でも実を結び、刈り入れる日が一日後か、それとも一年後か百年後か私たちには解りません。自分が生きている間に確認する事ができないかもしれない。もちろん、できれば幸いです。でもそこは神を信頼して任せるしかない、のです。だから信仰はその名の通り、神を信じて仰ぐことなのです。実が結びますようにと祈って蒔き続ける(一人でも神さまに繋ぐこと)しか、そして、つながり続けること(ヨハネ福音書15:1)しか、私たちにはできない。でも、きっと必ず神が、実らせてくれると信じて蒔き続けるのです。愛する人が救われるように、神さまから直接、命の水をいただける様に、祈りつつ繋ぐのです。

さて、でも今朝、与えられました御言葉に描かれているユダヤ人たちは、私たちにとっては反面教師となります。彼らは民衆を正しく神に繋ぐことができていないからです。先週この聖書の御言葉の場面について、エルサレムでは神殿奉献記念祭が執り行われていて、しかもソロモンの回廊でユダヤ人たちが主イエスを呼び止め、周りを囲んだ、と話しました。つまり彼らはユダヤの民衆をユダヤ民族主義に繋ぎ、エルサレム神殿に繋ごうとしています。そして彼らは主イエスにもそうあって欲しい、その様に行動して欲しいと望むのです。

でも主イエスは彼らに「否」と話します。あなたがたは正しく神に繋がっていない、そして人々を神に繋げるのではなく、自分たちに繋げている、この世に繋げている、それは正しく神ではない、自分たちが望んでいる姿の神、つまり彼らが心の中で作りだした、偶像だ、と批判します。そして主イエスは、「わたしと父とは一つである。」(ヨハネ福音書10:30)正確には「私と父は一つの存在です」と話します。この言葉にユダヤ人たちは激怒し足下に転がっている石を手に取り、主イエスに投げつけようとします。何故、彼らは主イエスに石を投げようとしたのか。ここから、先ほど読まれた御言葉の場面に入ります。

「イエスは言われた。『わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。』ユダヤ人たちは答えた。『善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。』」(ヨハネ福音書10:32-33)彼らは主イエスに、あなたは自分を神と同一の存在だと話している。あなたは神を冒涜している、と話します。冒涜するとは神を汚す、という意味の言葉です。彼らの話している言葉は正しいのです。それは十戒の第一戒にあります。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト20:03)神は唯一の存在であり、人は神にはなれないのです。自らが神の如く万能で、すべてを知り、すべてを支配できると思い上がるところに、人の罪の源泉があると十誡は示すのです。確かに、「わたしと父とは一つである。」という主イエスの言葉は、この部分だけを抜き出して聞くなら、神を冒涜していると受け取られても当然です。

では、主イエスはなぜこのように話したのか、主イエスはこう話します。「そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。」(ヨハネ福音書10:34-35)主イエスは、聖書では神の言葉を委ねられた人々を神々と呼んでいる、と答えます。まして神から遣わされた神の言葉である私が「私は神の子だ」と言っても、矛盾はない、と答えるのです。なぜユダヤ人たちは、「あなたは神を冒涜している」と主イエスを批判するのでしょうか。それは彼らが、自分たちは神を知っている、と思い込んでいるからです。自分たちは神の業を行っている。自分たちが正しい。だから私たちの反対側にいる主イエスの行いは冒涜する行いだ、と彼らは考えるのです。それこそが傲慢であり神を冒涜している行いなのですが、彼らはその事に気づかないのです。

先ほど私は、信仰について、蒔いて実を結んでみないと、正しく神に繋がっているか、途中で詰まっているのか解らない、と話しました。彼らには、その観点が欠如しているのです。彼らは今の時点で答を得ていると考え、その答が絶対だと考えるのです。ですから主イエスは、彼らに話します。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」(ヨハネ福音書10:37-38)主イエスは彼らに、これから後に与えられる結果を見て、それから評価しなさいと話すのです。

ここに主イエスと人との大きな違いがあります。

主イエスは未来を知っていて結果を知っていたから、ユダヤ人たちに「わたしと父とは一つである。」と話す事が出来たのです。これがユダヤ人たちと主イエスとの「ずれ」であり、そこから主イエスに対する彼らの誤解が生まれるのです。でもユダヤ人たちは人間にすぎません。彼らは未来を知ることはできません。彼らはこれから起こる主イエスの十字架を見て、その後の復活を見て、さらにはペンテコステの出来事を見て、ようやく主イエスの話す言葉と行いの結ぶ実が、神の御心であったと知る事が可能になるのです。もし、その時に彼らは自分たちの誤解に気づくなら、主イエスに対する誤解を受け入れる事ができるなら、それは、わかりません。でも十字架を見て、悔い改めた人々が、正しく神に繋がれて、正しい信仰を与えられたことを、私たちは知っています。彼らもそうあって欲しいと祈り願います。私たちは、聖書に描かれている、例えばここに描かれているユダヤ人についても、なにか、なにか悪役とか敵役のように受けとめてしまうのです。でも、彼らについて誤解してはいけないと、そう思います。彼らは彼らなりに、純粋に熱心に神を信仰している、のです。彼らは誰が見ても非の打ち所のない信仰者なのです。でも、だからこそ彼らは自らに過ちがないと考えてはいけなかった。それが、彼らの求める本当の知恵だったのです。

私たちも彼らと同じ側に立ってしまいがちです。自分が正しいと考えて、神を蔑ろにしてしまう。「それは御心ではない」と断罪してしまう。でも主イエスはそんな私たちに話します。ヨハネ福音書の八章にこうあります「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」(ヨハネ福音書8:31)つまり「とどまる」こと、すぐに成否を計るのではなく、関わり続けること、しかも結果を信じて、神に委ねて関わり続ける事が、私たちにできることなのです。何が神の前に正しいのか、そうで無いのかは、隠されているのです。

先ほど、結果は人間には隠されている、と話しましたけど、例外があります。それは預言者と呼ばれる人たちです。特に洗礼者ヨハネは、神から結果を聞いて、その言葉を人々に告げました。このあと聖書は主イエスがユダヤ人たちの手を逃れたと、記します。そして、主イエスは「再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在さ」(ヨハネ福音書10:40)れます。その場所には洗礼者ヨハネを信じた多くの人がいました。そして洗礼者ヨハネの話した事が本当だったと言い、主イエスを信じたと、記されています。洗礼者ヨハネは偉大な預言者でした。でも彼は人々に「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」(ヨハネ福音書1:27)と話します。彼は、自分の役割を、人々を後から来るメシア、つまり主イエスに繋ぐことだと、話します。そして彼は人々を主イエスに繋ぐのです。そして主イエスがヨルダンの向こう側に戻ってきたとき、人々は主イエスを見て、洗礼者ヨハネの話している事が正しかったことを確認します。洗礼者ヨハネは確かに、ヨルダンの向こう側の人々を主イエスに繋ぎ、そして、神に繋いだのです。これが、私たちのするべき事なのです。