礼拝説教原稿
2020年9月
耳を傾け目を向ける 2020/9/27
ヨハネ福音書10:22-30
このあいだ、近くのスーパーで豆腐を買おうとしたのですけど、売り場の前で立ち止まってしまいました。ひとえに豆腐と言っても保冷棚には二十種類くらい並べられています。いつもは一番安いもの、と何も考えずに選ぶのですけど、遺伝子組み換え食品についての資料を沢山読んだばかりで、食品表示ラベルが気になって躊躇したのです。よく見ると、それぞれ趣向を凝らしています。そうなると、どれを選ぶか迷うのです。いつのまにか私たちは自分の嗜好やこだわりで物を選ぶ生活が当たり前になっています。衣服、生活用品、日用品についても、有り余る品物の中から選んでいます。加えて社会関係や仕事、生き方や人間関係に於いても、世間の目や評価を気にすることなく、自分の選択を優先しても良い、という風潮になっています。それは、後ろ向きではなく前向きに、幸いなことだと思います。私たちの生きている今の社会にあって、経済も情報も豊かで、個人が自由に使える時間も有り余っているからこそ、享受できる環境だからです。でも私たちは「選べる」という事の欠点、自分を戒めなければならない点、についても覚えておくべきだと、そう思います。
主イエスは「聖書にはあなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ福音書7:2)と話されます。つまり私が何かを選ぶとき、私も、私が選ぶ規準と同じ規準で選ばれている、ということです。例えば人間関係であるなら、選ぶ、選ばれるという関係にあっては、自分たちに都合の良い側面だけを受け入れ合うような、浅い関係性しか構築できなくなる、という事です。お互いに相手の全てを受け入れ合うような、成熟した関わりに至らない。それは残念な事です。
何故このような事を話したか、というと、聖書に描かれているユダヤ人たちの誤解について知る為です。彼らは「わたしたちはアブラハムの子孫です」(ヨハネ福音書8:33)と話します。彼らは自分たちを「神に選ばれた民」だと考えます。でもその時、彼らと神との関係は、浅い関係性に落ちてしまうのです。つまり彼らは、自分たちが神の前に正しく有能で優秀で従順だから神に選ばれている、と考えるのです。だから彼らは、自分たちが選ぶ規準と同じ規準で神を選ぶ事になります。つまり彼らにとって神は正しく有能で優秀で従順でなければならないのです。そんな神を、自分勝手に作りだしてしまうのです。彼らは神の為に我慢し頑張ります。色々な事を我慢して律法を守ります。だから彼らの神も彼らの為に頑張り我慢する神でなければならないのです。でもそれは、本当の神ではないのです。そして彼らの前に主イエスが現れた時に、主イエスを拒みます。彼らは自分に不都合な現実から目を背ける為に、十字架に掛けるのです。
今朝、与えられた御言葉の場面で、ユダヤ人たちは主イエスを囲んで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と詰め寄った、と記されています。彼らは主イエスの言葉と業が特別であること、つまり神から託された力だと認めるのです。だから彼らは主イエスに自分たちの思い描くメシア、として働きを求めます。「気をもませるのか」という言葉は「魂を緊張させ続ける」という意味です。でも、主イエスは彼らに、あなたがたは「わたしの羊ではない」(ヨハネ福音書10:26)と話します。私はあなた方と関わりがない、と話されるのです。このユダヤ人たちにとって、彼らが思い描いている神とは、どの様な方なのでしょうか。その答を先ほど読まれた御言葉の最初二十二節の中から読み取る事ができます。
「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。」(ヨハネ福音書10:22)ここに「神殿奉献記念祭」そして「ソロモンの回廊」という言葉が記されています。この言葉に手掛かりがあります。若干説明します。
この「神殿奉献祈年祭」は、以前の聖書では「宮きよめの祭」と訳されていました。この訳の方がイメージを掴みやすいかも知れません。この祭は仮庵祭の三ヶ月後に行われる祭りで「ハヌカ」と呼ばれます。現代のイスラエルでも祝われています。各家庭では燭台に蝋燭を立て光を灯し、甘いお菓子を食べます。子供たちはプレゼントをもらいます。ちょうどクリスマスシーズンに重なるので、なぜイスラエルでクリスマスが祝われているのか、と勘違いされるかも知れませんが、それはハヌカのお祝いです。その起源は紀元前四世紀のアレキサンダー大王による東方遠征にまで遡ります。アレキサンダー大王は地中海沿岸からインド北西部までを広く支配し、ユダヤもその支配下に入れられます。でもアレキサンダー大王は大変優れた支配者で、支配地域の住民に対して残酷なことはしなかったと言われています。彼は各地域の宗教や風習の自由を保障しました。しかしアレキサンダー大王の死後、王国は四分割されます。そのときシリアとパレスティナを支配したアンティオコス四世は、自らをエピファネス(ギリシャ語で「顕現」の意味)と称します。つまり自分自身を神の再来だとして、ユダヤ人社会を支配する為にユダヤ教を弾圧するのです。紀元前百六十七年、彼は占領政策としてヘレニズム文明を広めユダヤ教のおきてを禁じました。割礼や安息日を守ること、トーラーの勉強を禁じ、神殿にはオリンポスのゼウス神が祀られ。祭壇ではユダヤ教では禁じられている豚が捧げられます。ユダヤ人の信仰を挫こうとするのです。この弾圧に信仰を守り抜くために武力をもって立ち上がったのがエルサレム北西郊外の小さな村モディインのハスモン家でした、彼らは反乱を決意。強力なギリシア軍に勝利し、紀元前百六十四年にエルサレム神殿を奪回し開放しました。この月の二十五日にアンティオコス四世によって汚された神殿の宮清めが行われます。なかなか読む機会のない旧約聖書の続篇ですが、この続篇のマカベア書の中に、こう記されています。「ユダと兄弟たちは言った。『見よ、我らの敵は粉砕された。都に上り、聖所を清め、これを新たに奉献しよう。』」(マカベア書上4:36)。興味のある方は前後を読まれる事をお勧めします。さて、このとき神殿には汚されていない油(出エジプト30:23)が僅かしか残されていなかったのですが、燭台に灯してみると八日間も燃え続けたとのこと、その奇蹟を記念してハヌカ、神殿奉献記念祭がお祝いされるようになりました。ですからハヌカは別名「光の祭り」とも呼ばれることとなるのです。
そしてユダヤ人たちが主イエスを取り囲んだ場所は「ソロモンの回廊」です。ソロモンはダビデ王の息子、ユダヤの王としてエルサレムにユダヤ人の信仰の象徴として、最初の神殿を建てました。エジプトで奴隷の身分であったユダヤ人はモーセに率いられカナンに帰り、他民族と争いながら徐々に領土を広げ、サウル王、ダビデ王の時代に一つの国家に成長するのです。そしてソロモン王の時に全盛を極め、国土はユーフラテスからガザに及び、近隣の諸国と条約を結び強国となるのです。ソロモンは神から知恵を与えられ、最もイスラエルを繁栄へと導いた王です。
さて、この二つの言葉「神殿奉献記念祭」そして「ソロモンの回廊」から見えてくることは、経済的・軍事的に強力な国と、その国を束ねる王、そして王を助ける神の姿です。主イエスを取り巻いたユダヤ人たちは、主イエスに自身がメシアであることを言い表すように求めます。でも彼らが思い描くメシアとは奇跡的な力を以て、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる英雄であり、軍事的・経済的に卓越した能力を持つ王なのです。
では神は、そして主イエスは、その様な事を望まれていたのでしょうか。そこに幸いが在ると、すくいがあると話されていたのでしょうか。だから主イエスは彼らに話します。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハネ福音書10:26-27)主イエスは彼らに、あなたがたは私の羊ではない、と話します。私は、あなた方の望む、神のような何か、ではない。私の羊は、つまり私が守る人々は他にいると話すのです。主イエスはその人々を救われます、軍事的・経済的に救うのではなく、もっと確かな救いに入れられるのです。
「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネ福音書10:28-29)
力や能力、知力、経済力によって、この世で奪い取った物、は、また誰かに奪われるのです。そのような関心で神を計るなら、あなたの魂もその程度の関心で計られる事になる。あなたは神に何を求めているのか、主イエスは彼らに問いかけます。そして、永遠の命、つまり本当の救いを神に求めなさい、と、そう教えられるのです。永遠の命とは永遠に生きることではありません。永遠に存在する神と正しい関係に置かれるという事です。神に帰属する者となる。そこに救いがあるのです。
今の世の中にあって、様々な宗教が乱立しています。 人が神を選ぶ、という事が当たり前に行われています。でも自分の利害や知性、信条にとって選んだ神は偽造された神です。つまり偶像です。神ではありません。それは、神から私たちを引き離すモノという事では悪霊に属しているなにか、です。私たちが神との正しい関係性つまり「私の羊」なるためにどうすれば良いのか。主イエスはこう話します。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(マタイ福音書7:1)然りです。私が条件付きで選ばれたくなければ、私も条件付きで選ばないようにすれば良いのです。主イエスによって私たちが知る正しい神は、私たちを何らかの条件で選ぶことをしません。私たち一人一人を全人格のまま、そのままで愛して下さいます。だから私たちも自分で神を選ぶことをしないのです。神との関わりから与えられる喜びも苦しみも、全てを引っくるめて神と関わりとするのです。そこに神と私との正しい関係があり、その関係、つまり神の羊になるなら、神は私を救いへと導いて下さるのです。
沢山のモノから選ぶ、事が出来る世界に私たちは生きています。とても幸いなことです。でもだからこそ私たちは自らの意思で、一つ一つの物と関わっていく、大切に使う、という生き方に目を向けていくべきなのでしょう。人間関係に於いても同様です喜びも苦しみも、全てを引っくるめて、丁寧にゆっくり時間を掛けて関わるのです。
「神は羊飼い」2020/9/20
ヨハネ福音書10:1-6
先週の礼拝後に、いなべ市まで足を伸ばしてきました。雨上がりで天気も良く、山間の平野には田んぼには瑞々しく稲が育っていました。以前から教会員の安田さんの農園に行こうと考えていたのですけど、私自身の病気やらコロナ禍が続き、なかなか足を運べなかったのです。でも、ようやく実現しました。彼の家の庭で今の時代の農業について話しをしました。私の知らない分野なので、とても興味深く多くの示唆を与えられました。特に感じたことは、土を育てるという発想についてです。色々な肥料をむやみに加えるのではなく外に流すことも考える。引いていくことによって健康な土になる、そのように話されました。私たちはついつい現代の社会の中で、加えていく事に価値を求めます。出来る事を増やすとか、能力を高めるとか、つまり貯め込む方向に向かってしまいます。でも、流す事にも意識を向けていくことが大事なのだと、そう考えされられました。私たちの、この身体も目の前の田んぼと同じ場所にあります。自然の循環の中に置かれています。彼の話を聴いていて、地に足がついている信仰の在り方のしなやかさと強さを、改めて感じさせられました。
今朝、与えられました御言葉の主題を聞く上で、この「引く」という視点は手引きになります。主イエスは、私たちが福音へと導かれる、私たちの信仰の入り口について、教えます。それは知識や欲求、思索や論理から信仰に入るのではなく、逆にそれらを自分の内から外に流すこと。純粋に単純に、無垢に神の前に感動し感謝する思いから信仰に入る事の大切さを教えられるのです。
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」(ヨハネ福音書10:1-4)とても、良く知られた御言葉です。でも、私は改めてこの御言葉と向かい合ってみて、この御言葉を今まで正しく理解していなかった、と気づかされました。つまりこの御言葉の中心は、羊飼いではなく「羊の囲い」だということです。羊飼いについては、このあと十章の七節から譬えの中で語られます。でも今朝、与えられた御言葉については、九章に記された出来事、生まれつき目の見えない男を主イエスが癒やされた場面からの続きとして読むと、その内容を正しく理解できるのです。与えられた御言葉の中に、もう一つヒントがあります。六節に「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話された」(ヨハネ福音書10:6)とあります。でも、ギリシャ語の原本を読むと「ファリサイ派の人々」という言葉は使われておらず「聞いている人々」とだけ書かれています。ではなぜ、このように翻訳されているか、と言うと、九章の記事の中で主イエスはずっとファリサイ派の人と対峙しています。そして多くの神学者や牧師は十章の六節までは九章の続きだという解釈しているので、このように翻訳に反映されているのです。少し、細かい事を話しましたが、でも大事な事です。そう読んでみますと、この御言葉の意味が見えてきます。
では九章に記されている物語を見ていきます。この御言葉の場面は、主イエスが一人の生まれつき目の見えない人を癒やしたことから始まります。主イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになり、シロアムの池に行って洗いなさいと言われます。すると彼の目が見えるようになるのです。そして、彼が杖を使わず手を引かれる訳でも無く、道を歩いている姿を見た人々は驚きます。しかし、人々は彼をファリサイ派の下に連れて行くのです。なぜ、彼は連れて行かれたのか、というと、その日が安息日だったからです。
ファリサイ派とはユダヤ教の中の一派です。諸説ありますが、その名前は「分離する」と言う意味のバーラシュ(Parash)に由来すると言われています。儀式的な聖さを守る為に、他の人々から自らを分離する者、異邦人と異邦人の文化から自らを分離する者、という意味だと考えられています。私たちが思い浮かべやすい人物はパウロです。彼は主イエスに出会う前はファリサイ派の一員として積極的にキリスト者を迫害していました。彼らは、自らユダヤ教と律法に忠実に従い、他のユダヤ人にも同じように強要していました。そして律法には、安息日にはいかなる治癒行為も行ってはいけない、と定められていました。この目の見えない人が癒やされた日は安息日だったので、その詳細を明らかにするために、ファリサイ派の人々の尋問を受ける事になったのです。でもファリサイ派が彼を尋問した本当の理由はもっと別の所にありました。彼らは主イエスを快く思ってはいなかったのです。ですから彼を尋問にかけて人々の前で主イエスを否定するように脅すのです。主イエスが特別な者ではない。預言者でも教師でも、ましてメシアではない、と彼の口から証言させようと仕向けるのです。しかし彼は、ファリサイ派の人々の圧力に屈しないのです。
聖書には、このように書かれています。「さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。『神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。』彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。』すると、彼らは言った。『あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。』彼は答えた。『もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。』」(ヨハネ福音書9:24-27)彼は「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と証しします。安息日とか律法とか、罪とか罰とかそんな事はどうでも良い。私が今、見えているという事実以外に何が必要なのか、と彼は答えるのです。
彼はさらに言葉を続けます。「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(ヨハネ福音書9:30)彼のこの告白にファリサイ派の人々は激怒します。そして、彼を会堂から追い払うのです。この彼の物語を踏まえて主イエスは、一つの譬えを話されました。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。」(ヨハネ福音書10:1-2)
主イエスの話す羊の囲いの内側とは、神への信仰が与えられた者たちが入れられる場所です。そして囲いの門とは、神への感謝、救いの喜びです。癒やされたこの人は主イエスの業に感謝し、喜ぶのです。その喜びと感謝を入り口にして、彼は信仰へと導かれます。つまり羊の囲いの内側に入るのです。しかしファリサイ派の人々は囲いの門ではない場所から信仰に入ろうとします。厳格に律法に従い聖書に学び、習慣や伝統を重視し、自分自身が潔癖で清くあるなら、信仰を得られると考えていたのです。そして、他のユダヤ人たちにも、自分たちと同じようにあるべきと、強要するのです。
主イエスは、ファリサイ派の人々の在り方を「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。」と話されます。彼らは囲い中にいる者たちにも自分たちのやり方を強要し、神から引き離している、と批判するのです。そして、羊飼いは朝になると羊の囲いにやって来て、自分の羊の名前を呼んで連れ出します。「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い」(詩編23:2)われるのです。つまり、時が来たなら、羊飼い、つまり主イエスは囲いの門から囲いの中に入り、自分の羊、つまり信仰を与えられた者たち一人一人の名前を呼びます、そして名前を呼ばれた羊は羊飼いのである主イエスの声を聞き分け、後に従い、救いへと導かれるのです。
神に救われた喜びから信仰に入る、という信仰の在り方について、私たちはどちらかと言うと苦手だと感じるのではないか、と、そう思います。私たちは理性的な判断を伴わない信仰を危険だと考えます。実際に、多くの異端的な宗教が、信徒に情熱や衝動、反理性的な従順を求める在り方を見ています。そこに違和感を覚えているからです。ですから私たちは、理性的に客観的に信仰を検証する信仰の在り方に向かいます。聖書を読み、神学書や注解書を読んで聖書の解釈や教会の伝統に精通する。理知的な信仰の在り方の方が、信仰者の態度として優れているように考えてしまうのです。
そもそも、私は神に病を癒やされたことはない、と言われるかもしれません。もし主イエスが目の前に現れて、私の抱えている問題を解決してくれたり、病気をいやしてくれたなら、感動して喜んで感謝して信仰に入るでしょう、と、そう話されるかも知れません。でもたぶん、そのように考えてしまう時、神の恵みの業に対して心が鈍くなっているのです。私たちは少し心を開けば、いつでも神の奇跡を感じる事ができます。朝、目を覚ましたときに、今日も生きている、と感じる事ができます。畑に蒔いた小さな種が芽を出せば、命を創造し育まれる神の姿を見ることができます。少し心を動かして、神の方を向けば目が開かれます。この世界の全てが神の業だと気づかされるのです。その感動から、喜びから信仰に入るなら、私たちは羊飼いである主イエスの声を聴くこととなるのです。
「神に帰属する者」2020/9/13
ヨハネによる福音書8:37-47
以前、私は聖書科の非常勤講師として高校で聖書の授業を教えたことがあります。たった一年間でしたけど、面白い経験でした。それに多くの事を教わりました。
あるクラスで授業中に寝ている生徒がいました。たいてい寝ている生徒については、そのまま寝かせていたのですけど、その日はあまりにも良い天気だったので、起こす事にしました。講壇を降りて、生徒の横に立ったとき、後ろに座っていた生徒が「起こさないであげて下さい」と言うのです。「この子、朝早くから海に行ってサーフィンをしてきていて、疲れているんです」、「天気が良くて波が良いときはいつも疲れて寝てますけど、雨の日とか波が悪いときはちゃんと、私が責任をもって起こします」、そう話すのです。海沿いに建てられている高校だったのですけど、海岸から直接、学校に来たようです。そう言われてみると潮の香りがします。私はその言葉に考えさせられました。それまで私は、授業中に真面目に話しを聞いて答える生徒が良い生徒で、他の授業の宿題をしたり、ボーとしていたり、寝ている生徒を不真面目な生徒として、頭の中で脇に避けていました。でも授業中は真面目に授業を受けなければならない、と杓子定規に話しを聞いてノートを取っている生徒も良い子ですが、朝からサーフィンをして疲れて寝ている、この子は自由だと、感じたのです。神さまが創造した人間として「良し」とされるのは、この子の方じゃないかな、と、考えさせられました。
私たちは自分たちにとって都合の良い枠組みを作って、その枠組みの中に入って、その枠組みの外にいる者たちを批判します。そして自分たちの作った枠組みに束縛されます。でも主イエスは私たちに「自由であるように」と勧めます。自分たちを束縛する枠組みを自分たちで作った枠組みを壊すように勧めるのです。主イエスは話します。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ福音書8:32)今朝はこの御言葉に続く箇所を共に読み進めます。そこから私たちが与えられている神の救いとは何かを、共に聴いていきたいと思います。
さて、先ほど司式者によって読まれました御言葉です。場面は先週から続いて、婦人の庭と呼ばれたエルサレム神殿の広い中庭、時は仮庵祭の終わったあとのエルサレムでの出来事です。でもこれまでとは決定的な違いがあります。それまで、主イエスは、祭司やファリサイ派といった、自分に敵対する立場の者たちに向かって話していました。彼らは、祭司でも教師でもない、なんの権限も与えられていない、しかも無学なナザレの田舎の大工の息子が、エルサレム神殿の境内で人々に、神のついて救いについて教えるとは何事か、と。主イエスをこの場から排除しなければ為らない、と考えていました。彼らは主イエスの話している言葉の内容や、貧しい人々、病を負った人々へ手を差し伸べる姿には、何の価値もないと最初から決めつけています。ですから主イエスは、彼らの不信仰について言及するのです。でも、今朝読まれた御言葉で主イエスの目の前にいる者たちは違います。先ほど読まれました箇所の少し前、三十一節にこうあります。「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。」(ヨハネ福音書8:31)「御自分を信じた」の意味は、主イエスを預言者や教師としてではなく、神から遣わされたメシアとして信じた、という意味です。主イエスは彼らに「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」(ヨハネ福音書8:28)と話します。この『わたしはある』という言葉(ἐγώ εἰμί)はモーセの前に神が現れたとき、神が自らを言い表した名前であり、特別な意味を持つ名前です。この名前を用いて自らを証しした主イエスを受け入れた者たちに、ここで主イエスは語り掛けている、ということです。
では主イエスは彼らを「よく私の事をメシアとして認めた」と褒めたのでしょうか。そうではなく主イエスは彼らが主イエスの言葉を受け入れたからこそ、彼らに福音をさらに深く証されます。でも、聖書の言葉は核心に向かえば向かうほど、人にとって受け入れがたい言葉になります。彼らも、やはり主イエスの言葉に反発します。
主イエスは彼らに話します。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ福音書8:32)この言葉を聞いた、主イエスを信じたユダヤ人たちは、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。」(ヨハネ福音書8:33)と答えます。背景が分からないと、理解しづらい言葉です。
当時、裕福なユダヤ人たちは家に奴隷を置いていました。ユダヤだけではなく、この時代、奴隷は金銭で売り買いされた労働力として一般的な存在です。ただし、何となく奴隷というと鞭で打たれて働かされるようなイメージがあるのですが、実際には資産の一つとして大切に使われていた、というのが現実的な見方です。ユダヤ人社会でもローマ人社会でも奴隷を非人道的に扱ったり、正しく管理できない主人は、無能な人物との社会評価を受けることになっていた、からです。とはいえ、奴隷はやはり奴隷です。主人の許可無く自由に出歩くことはできません。自由に使える時間も与えられる事はありません。自由を奪われ束縛されている、人権の対象外として扱われる存在です。もう一つ、ユダヤ人社会にあっては同胞であるユダヤ人を奴隷として使ってはいけなと定められていました。「もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。(レビ記25:39)と律法に定められています。ですからユダヤ人は異邦人を奴隷として使っていました。 「しかし、あなたの男女の奴隷が、周辺の国々から得た者である場合は、それを奴隷として買うことができる。」(レビ記25:44)と定められています。なによりユダヤ人たちは、過去に何度も他国民の奴隷として扱われてきた歴史があります。エジプトからの脱出、アッシリア捕囚に続くバビロン捕囚。その度に神は奇跡的な形で彼らを救いだし、解放してきました。そして仮庵の祭はその神の救いを讃える祭儀です。つまりユダヤ人にとって「奴隷の身分ではない」という事は、自分はアブラハムを選んだ神と共にある事の証しであり、正しい信仰者であるという証明です。奴隷ではない、ことはユダヤ人としての最も大切な誇りなのです。ですから主イエスの話した「真理はあなたたちを自由にする。」という言葉に、彼らは反発します。私たちは奴隷ではない、自由な存在です。と応えるのです。
ここで、彼らは主イエスの言葉に躓きます。心を閉ざしてしまう。これ以上、主イエスの言葉を聞くことが出来なくなるのです。ここから、今朝与えられた御言葉に続きます。
「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。」(ヨハネ福音書8:37)この「殺す」とは、足下に転がっている石を拾って主イエスに投げつけて直接、殺す、という意味ではありません。この先に起こる十字架の出来事が示唆されていますが、この段階では「相手との関係を断つ」意味です。自分を批判し敵対する相手であっても、自分と同等の存在として関わり続ける事が、主イエスの話す「愛」の定義ですが、ここで話される「殺す」とは、この逆の態度、つまり二度と回復できない手段で相手との関係を断つこと、です。
どうして彼らは、主イエスの言葉を拒絶してしまうのでしょうか。それは、彼らが純粋に頑張って神を信仰しようとしているからです。正しくあろうとしているからです。彼らは祭司たちやファリサイ派の人々のように、自分たちの立場を守ろうとしているわけでも、利益を守ろうとしている訳でもありません。でもだからこそ彼らは、この世にあっての自分の正しさに固執してしまうのです。彼らは真面目なのです。いかに神の前にあって正しい者としてあるべきか、信仰に留まるべきか、本当に心から願い求め、そうなろうと努力しているのです。でもその努力が逆に彼らを地上に縛るのです。
主イエスは指摘します。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。(ヨハネ福音書8:44)
悪魔とは、人を神から引き離す諸力の事です。悪魔は私たちの耳元で囁き、戸口に隠れ、私たちを神から引き離そうとします。彼らが自分の力で、神を知ろう、神に近づこう、頑張って神の前に正しい者であろうとする時、悪魔は「よくやっている」「頑張っている」褒めてくれるのです。その言葉に、満足してしまう、欲望を満たされてしまうのです。でもその時、この世の欲、罪に落ちてしまうのです。
「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。」(ヨハネ福音書8: 41)と彼らは話します。つまりアブラハムの血を継ぎ、その血を混ぜな事、汚さないこと、その血を誇りとして、この世に在って誰からも非難されることなく、誠実で有り続けること。それは確かに尊い姿勢だけれど、そこに真理はない。悪魔からの評価を求め、褒められる事を求めるのではなく、神に評価され褒められる事を求めなさいと、つまり主イエスは彼らに「神に属する者になりなさい」と話すのです。そうすれば真理を得ると話されるのです。
真理のギリシャ語の元々の意味は「現象の後ろに隠された事実」です。つまり目に見える主イエスの背後におられる目に見えない神の存在こそが真理なのです。私たちは真理を直接、知る事は出来ませんが、主イエスを見て、その言葉を聞いて、その言葉が耳に痛く心に刺さるものであっても、受け入れる時に、その背後に神の姿を、つまり真理を知ることが出来るのです。私たちが真理を知るとき、私たちは神に属する者となります。神に属するなら、私たちはこの世にあって自由な者となります。
私たちはついつい、世間から評価される信仰者になることを求めます。「さすが教会に通っている人は違う」なんて言われると、誇らしくなります。また「この世にあるキリスト者として、証しとなる生活をする」なんてことを考えたりもします。逆に誰かから「なんで、あなたはクリスチャンなのに…」と言われると、恥ずかしくなります。でも、そんな事はどうでも良いことなのです。主イエスに従うということは、自分が欠けていることを知っている、自分の罪を代わりにキリストが負って下さった事を知っている。悔い改めて祈る方向を知っている、それだけです。世間の期待に応えられず残念に思われても、陰口を叩かれても、無意味だと評価されても、愚か者と馬鹿にされても、無垢に神を見上げ、神から与えられる課題を真摯に、祈り聞きつつ関わっていく。その様な歩みの中に、本当の自由を見いだすこととなるのです。神に帰属する者となりましょう。
「ただ光の方へ」2020/9/6
ヨハネによる福音書8:12-20
教会学校で、遠足とかキャンプとか教会外のプログラムを組むとき、必ず数週間前に目的地の下見をします。そこが知っている場所であっても、必ず事前に現場に行って実際に歩きます。そして、目的地に行く道順を確認するだけなく、子供たちと歩く道路の広さ、交通量、所要時間、トイレの場所、休憩する場所、階段の勾配、子供が怪我をしそうな場所、代替交通機関など、何かトラブルが生じたときに対応できる準備をしておきます。子供たちの先を歩く引率者が、地図を片手に始めて行く道を不安そうに進んでいたら、不安は子供たちにも伝わり、緊張させてしまいます。でも引率者が知った道を安心して、子供たちの動きに気を配りながら、前を進むなら、子供たちも安心して、笑顔で道を進むことができます。私たちも、もし今まで行ったことのない所に行くためのガイドを得ようとするなら、目的地までの道を何度も歩いた経験のある信頼できるガイドを選ぶでしょう。同じく、私たちのこの世の歩みに於いても、行く先を知っているガイドが隣にいてくれたら、どんなに安心かと、そう思います。そして私たちはそのガイドを知っています。その方が主イエスです。
先ほど読まれました御言葉の中で、主イエスは「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。」(ヨハネ福音書8:14)と話されます。ヨハネの黙示録には主イエスの存在を「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)と記しています。つまり主イエスは、この世界の最初から最後まで普遍的に存在する方であり、私たちの行く先を知っておられるのです。ですから私たちは主イエスに導かれてこの世を共に歩むなら、安心が与えられます。そして主イエスは「私は世の光である」と話されます。私たちが迷ったとき、主イエスは光として、私たちに行く道を示して下さいます。今朝私たちに与えられました御言葉の中で主イエスは、この事を私たちに伝えています。
さて、今朝の御言葉の場面は、仮庵祭の余韻の残るエルサレムです。祭を祝うために集まって来た多くの人々は家路につきます。でも主イエスはエルサレムに残られます。そして「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された」(ヨハネ福音書8:20)と聖書には記されています。この場所で主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と話されるのです。そして、この宝物殿と記された場所がどの様な場所であったかを知るなら、主イエスがどんな思いでこの言葉を話されたのか、という事が見えてきます。
宝物殿とはエルサレム神殿の婦人の庭の北側にありました。エルサレム神殿の正面、美しの門から神殿の中に入ると、まず婦人の庭が広がっています。この庭は61.72メートルの正方形で、野球場の内野くらいの広さです。四隅には背の高い大きな燭台が立てられ、夜には光が灯されていました。異邦人はこの場所に入ることは出来ませんが、ユダヤ人であるなら(礼拝を献げる事が許されている、と言う条件付き)この庭までは誰でも入る事ができます。その先、ニカルノ門から先は成人男性だけが入ることが許され、門をくぐるとイスラエルの庭があります。その先に祭司の庭があり、神殿の聖所へと続きます。
この宝物殿には青銅製の、ラッパ状に先端を広くし根元を絞った十三の賽銭箱が置かれていました(通称でラッパと呼ばれていたそうです)。そのうちの七つは定められた租税を納めるために使われ、五つは特定の目的のため、残る一つは自由献金を献げる為に用いられていたと伝えられています。ルカ福音書二十一章に、一人の寡婦がレプトン銅貨二枚を神殿の賽銭箱に投げ入れた、という物語が記されています。彼女は二枚の銅貨だけを捧げ、その事を主イエスは弟子たちに話した、と聖書には記されています。でもなぜ主イエスは彼女が幾ら捧げたのか分かったのか、というと、この賽銭箱にお金を投げ入れると、ジャラジャラと音が響く作りになっていたからです。お金持ちの人は沢山の硬貨を賽銭箱に投げ入れ、大きな音を響かせ、自分の財力を周囲の人々に誇示したのです。
でも、やはり人々が賽銭箱にお金を投げ入れる目的は、当然、自分の財力を誇示するためではなく、神に願いを叶えてもらう為です。誰も、自分の将来の生活がどうなるか分かりません。ですから祈願成就のお礼として金銭を捧げるのです。特にこの当時のユダヤは将来が暗闇であるような、人々が強い不安を抱いていた、その様な時代でした。ローマ帝国の支配力が強くなってきた事に加え、エルサレム神殿とユダヤ王家の治世は不安定な状態を続けていました。史実では、主イエスが十字架に掛けられたあと、約三十年の後にユダや戦争が始まり、エルサレムは陥落し、マサダ砦に籠城した千人あまりのユダヤ人たちは集団自決して、この時、事実上ユダヤはローマ帝国によって滅ぼされることとなります。これから大きな崩壊が起こる予兆をユダヤ人たちは感じていたのです。
ですからこの御言葉の描いている時、ユダヤの人々は盛大に仮庵の祭を祝うことで、ユダヤ民族の後ろ盾に神がおられること、神がアブラハムを選び自分たちはアブラハムの子孫であること。つまり自分たちは神に選ばれた民だと再確認する事を心から望んだのです。そして神殿に金銭や捧げ物を捧げる事によって神の加護を祈るのです。その様にして少しでも自分たちの不安が和らぐ事を望んだのです。その様な思いで、人々が神殿に捧げ物をしている横で、つまり、お金を投げ入れるジャラジャラという大きな音が響き渡る場所で、主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ福音書8:12)と話された、ということです。聞く人が聞けば、主イエスが「こんな賽銭箱にお金を投げ入れた所で、あなた方の不安が拭われる事はない。将来を覆っている暗闇に光が差し込むことはない」と言っている様なものです。それだけではありません、主イエスは「私が光になる」つまり「私があなた方の将来に希望を与える、闇に光を与える」と話すのです。
こう見ていきますと、十三節の言葉の表情が見えてきます。「それで、ファリサイ派の人々が言った。『あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。』」(ヨハネ福音書8:13)
彼らは主イエスの話した言葉に怒りを覚えるのです。ここで「証し」という言葉が使われます。あと、主イエスはこの後「裁く」という言葉を使います。これらは法廷用語なのですが、それには理由があります。この「婦人の庭」は仲裁人として長老や祭司を立てて、簡易裁判が行われていた、と言われています(正式な裁判は最高法院で行われます)。先週の姦淫の罪を犯した女性の話も、場所は記されていませんが、たぶん、この婦人の庭での出来事だったと考えられています。ですから、このような言葉のやり取りになるのです。
さて、主イエスは彼らに答えられます。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」(ヨハネ福音書8:14)ファリサイ派の人々は主イエスが、自分自身をエルサレム神殿に祀られている神よりも優れているかのように話している、として非難するのです。神に期待して望みを託すのではなく、この世に生きる肉体を持った人間(主イエス)を希望の根拠にするなど、明らかに間違っていると。確かに、ファリサイ派の人々が主イエスに激昂した理由は正しいのです。
肉の欲はこの世の力に拠って叶えられますが、本当の希望は、この世の何ものかによって得られるものではありません。幾ら金銭を積んでも、善行や修行、鍛錬、能力、技術、権力、威力を用いても、本当の希望は得られません。ただ神のみが、私たちの希望を与えて下さるのです。それは神だけが私たちの行く道の先を知っているからです。加えて、彼らが主イエスの言葉を理解出来ない事も当然なのです。何故なら、彼らはまだ、主イエスが、神がこの世に遣わしたメシア(救い主)であり、神からこの世の全ての事を委託されている、という事を知らないのです。それは主イエスが十字架に架かって復活された後に、聖霊によって全ての人に明らかにされる事実だからです。でも主イエスは、彼らが理解できない事を知りながらも、でも彼らに対して誠実に自身を証しします。主イエスは話します。「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っている」つまり主イエスは、自分は神に属している、と話すのです。そして、「わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」(ヨハネ福音書8:18)と加えます。
ユダヤの法廷では律法に定められているように、二人以上の証人の言葉を以て、証言とされました。主イエスは「あなた方が神を知っていて、その言葉を聞くなら、つまり、私と神との言葉を聞くことができるなら、私の証言が真実だと分かるだろう」と話されます、つまり、主イエスは彼らに「あなたがたは、まだ神を知らない」と話すのです。そこでかれらは「あなたの父はどこにいるのか」(ヨハネ福音書8:19)と主イエスに問いかけます。彼らは自分たちの見ている神、エルサレム神殿に祀られ、アブラハムを選び出し、モーセを遣わしエジプトからイスラエルの民を導き出した神、が私たちの神であって、神は唯一である、私たちはその神を知っている。その神に期待し、希望を託している。神を知らないのは、お前の方だと、さらに主イエスを糾弾するのです。
では主イエスは彼らを放って置かれるのか、「あなた方に分かるはずはない」と言って諦められるのか、というと、そうではありません。主イエスは、彼らが本当に心に留めるべき神がどの様な方なのかを理解させる為に、御自分を神の子として受け入れる事ができない者たちの為に、自ら十字架に掛かられるのです。神は沢山の寄進や、集められた金銭で飾られた贅沢で華やかで煌びやかで美しいエルサレム神殿の聖所の奥に納められているのではなく、この世の中で最も貧しく悲惨な十字架の上に晒され、罵声を浴びせられている場所に居られると。そのことを知らされるのです。
神は十字架に掛かられました。この世の最も低い所、闇の深い場所に降られました。でも、そこから私たちを支えて下さいます。だから私たちは、どんなに過酷で光が見えない状況に置かれたとしても、希望が与えられるのです。神が側にいて、いつでも支えて下さるから。主イエスに信頼しつつ、共に歩みましょう。
礼拝説教原稿
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