礼拝説教原稿
2020年8月
「裁くな」2020/8/30
ヨハネによる福音書8:3-11
ドライバーでネジを回すという作業は、非常に簡単なように思えるのですが、ネジの山を潰さないように、少ない力で打ち込むには、少々のコツが必要です。ネジの芯とドライバーの芯を一直線にすること。ネジの頭に切り込まれている溝とドライバーの先端の突起を深く噛ませること。ドライバーがネジの芯を捉えていると手応えがあります。「アタリ」がある、とも言います。少しでもズレていると、力が別の方に逃げていく感覚を覚えるのです。でもこの「芯を捉えている」という感覚は、誰からか教わることのできる事ではありません。自分で何十本、何百本とネジを打ち込んでいく内に、なにより何十本ものネジの頭を舐めてダメにした後に、なんとなく掴める感覚です。結局、誰かに言われてもだめで、自分自身の手を動かさないと、得る事ができないのです。
信仰も同じで、どんなに人から諭されても、教えられても、与えられるものではありません。その人が人生の歩みの中で様々な経験をして、真理を求めるに至り、様々な言葉や考えを手探りで集めて、ときどき紛い物を手に取って騙されて、でもあきらめないで自分自身の手を動かして、心を動かして、いつのまにか、聖書の言葉が心に落ちるのです。結局、信仰は「神と私との一対一の関わり」において与えられる恵みです。
では、私たちは、教会は何もできないのか、というと、できる事が一つだけあります。それは寄り添い続ける事です。その人の心が動いて、神さまに出会うまで祈り、近くに座り続けること、それが唯一私たちにできる事です。特定の誰か、というだけでなく、私たちがこの世に於いて信仰者として存在することで、私たちは地の塩、地の光として用いられています。それは例えば日曜日に礼拝堂に座って礼拝を守っていること。一人静かに祈りを捧げること。受け身のように思いますけど、影響力を持った立場と言葉で主義主張をする事よりも、そこに信仰者として生きていることこそ、この罪の世に対抗する最も強い主張であり、この世に対する働きかけなのです。そして、今日の御言葉の場面で、主イエスは座り続けます。それまで多くの人が、主イエスと罪を犯した女を囲んでいたのですが、一人一人とその場を去って行き、二人だけが残されます。主イエスは罪を犯したこの女性が、自分自身の心を動かして気づくまで、自分の罪に納得するまで、その魂に寄り添うのです。共に御言葉を読み進めます。
さて、場面は仮庵祭の終わった次の日のエルサレムです。祭を終えた人々はそれぞれ自分の町や村に帰っていきます。そして熱が冷めたように日常が始まります。でも主イエスはナザレに帰られるのではなく、そのままエルサレムに残られます。そして、朝早く神殿の境内に入られると、主イエスの周りに人々が集まってきます。主イエスは彼らを前にして教え始められます。そこに律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて主イエスの前に立たせます。近くにいた人々も、何事かと集まって来たと考えるのが自然でしょう。そして、彼らの一人が主イエスに問いかけます。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(ヨハネ福音書8:4-5)
どこの時代、世界にあっても、祭の最中、人は気分が高揚し浮かれてしまいます。この女性も仮庵祭で沸き立つエルサレムで、羽目を外したのでしょうか、間違いを犯してしまい、告発され捕らえられるのです。ユダヤの律法では、婚姻関係の規律を乱した者は死刑に処されると定められていました。レビ記にはこのようにあります「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」(レビ記20:10)死刑の手段は当時、石打の刑が用いられていました。ユダヤの律法では、ユダヤ人は同胞を殺してはいけない、と定まられているので、誰かが直接手を下すことはできません。だから、処刑のために集まって来た人々がそれぞれに石を持ち、皆で一斉に投げつけるのです。その様にして処刑を行い、誰の投げた石が致命傷を負わせたのか、誰にも分からないので、誰も律法を違反したことにはならない、という理屈になります。女性が捕らえられたとき、男性はどこに逃げたのか定かではありませんし、女性もどの様な状況で捕らえられたのかも分かりませんが、彼女だけが捕らえられ、ほぼ確実に石打の刑に処される、という状況に置かれます。でも律法学者たちやファリサイ派の人々は、この女性を利用しようと目論むのです。
仮庵祭の後、ユダヤ人の主イエスに対しする世論は真っ二つに分かれているのです。「『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。」(ヨハネ福音書7:12)とあります。皆が主イエスに対して様子見をしています。そこで、律法学者たちやファリサイ派の人々は世論を一気に自分たちの方に向けようと目論むのです。この姦淫をして捕まった女性を主イエスの前に引き出し、群衆の前で主イエスの見解を聞こう、と。もし主イエスがこの女性を助けようとするなら、主イエスを律法に反する者として断罪できます。逆に、主イエスが水から石を持ちこの女に投げつけるなら、群衆は主イエスに失望する事となります。あれ程、人を愛すること、許すこと、和解する事を諭しておきながら、主張と行動が矛盾しているではないか、と批判することとなる。どちらにしても主イエスを貶めることができる。と彼らは考えるのです。では主イエスは、この質問に、なんと答えられたのでしょうか。でも主イエスは何も答えられないのです。主イエスは「かがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」(ヨハネ福音書8:6)と聖書には記されています。
主イエスは困って考え込まれたのか、というと、そうではありません。例えば、イオンの食料品コーナーで子供が母親に「このお菓子買って」と駄々をこねたら、母親はどうするか、というと、叱りつけるよりも無視するでしょう。あまりにも稚拙で愚かで、どうでも良いことについて、親は取り合わない、という態度になります。主イエスも同じです。彼らの挑発に対して、主イエスは取り合わないのです。でも彼らは問いかけ続けます。そこで、主イエスは立ち上がり、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ福音書8:7)と話します。すると、この言葉を聞いて年長の者から、一人また一人とその場を離れ始めるのです。沢山集まっていた群衆も、そして律法学者たちやファリサイ派の人々も全て、その場から立ち去りはじめるのです。
なぜ彼らは、手に持っていた石を地面に置いたのか。それは彼らが、この時はじめて、目の前に立たされている女性に目を向けたからです。そして、彼女も、自分と同じ一人の人間だと気が付いたからです。この女性も自分自身も神の前にあって、共に罪を負っている。彼女を断罪する資格が自分には無いと気づかされたのです。人々が徐々にその場を立ち去っていく間、主イエスは「身をかがめて地面に書き続けられた。」(ヨハネ福音書8:7)と聖書には書かれています。いつのまにか主イエスと、つれて来られた女性だけが、その場に残されます。
さて、でも私たちが目を留めるべきは、この真ん中に立たされた女性についてです。彼女は、どんな思いでその場に立ち続けていたのでしょうか。
祭の最中、浮かれていたのは彼女だけではなかった筈です。他にも彼女と罪を犯した者たちはエルサレムの町中にも多くいたことでしょう。でも、彼女だけが捕らえられ罪を定められ、石打の刑を言い渡されるのです。自分だけが大勢の人の前に立たされ、好奇な目に晒され殺されようとしています。誰も助けてはくれません。誰もが同じような事を、多かれ少なかれしているにもかかわらず。誰もが、自分が彼女のように晒されなかったことに安堵している。それだけではなく彼女を批判するのです。彼女は自らの行いを悔いたのか、反省したのか、というと、どうでしょうか。そうは思えないのです。彼女はこの世の理不尽を恨んでいたのだと、そう思います。自分は不運であったと。でも、助けられたとき、皆がその場を立ち去った時、彼女は安堵したのと同時に、自らの罪を自覚させられたのだと思います。石を地面に置いた者たちが、自らの罪を自覚したように、彼女も自らの罪を自覚するのです。しかも、神の前に赦されない罪を自らが犯したことを自覚するのです。でも彼女は裁かれず放置されます。罪を負ったまま、裁かれる事もなく、許されず生き続けなければならない事に気づくのです。
主イエスは身を起こして、言われます。「『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、」(ヨハネ福音書8:10)と聖書には記されています。彼女は主イエスに「主よ、だれも」と答えます。この言葉に絶望を読む事ができます。彼女は、「だれも裁いてはくれません」と答えるのです。でも、主イエスは彼女を裁きます。人は人を裁く事ができないけれど、主イエスはメシアとして、神として、彼女を裁くのです。その裁きによって彼女は悔い改める事を赦され、赦しへと導かれます。「イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」(ヨハネ福音書8:10)
主イエスは彼女は自らの罪を自覚するまで、側に寄り添い続けられたのです。
罪を犯すこと、私たちは人間に過ぎないので、必ず誰もが罪を犯します。でも大事な事は、この世の誰かの前で謝罪する事よりも先に、神の前で悔いる事です。神の前で自分を見つめること。なぜならこの世の誰も、そして自分自身も、自分を裁くとはできないからです。でも神は私たちが気づくまで側で待たれています。そして神は正しく私を裁いてくれます。そして裁かれ、悔い改めた私は、そこから新しく始められるのです。新しく生まれることができる。神との関わりに於いて、一度死んで新しくされるのです。でもこの「神の赦し」について、私たちは、神がその代償として自らを十字架に架かられた事を覚えなければなりません。私たちが赦されるのは主イエスの犠牲の故です。その痛みを流された血を覚えて、感謝しつつ、神の前に立ちましょう。
「あなたは誰なのか」2020/8/23
ヨハネによる福音書7:40-52
子どもの話しを聞くにはどうすれば良いのか。以前、幼稚園の先生をしている方に教えてもらいました。まず膝を屈めて、子どもの視線と同じ高さに自分の視線を持って行ってから、話しかける。すると子どもは口を開いてくれる。高い視線から子供を見下げると、恐がって口を開かない。確かにやってみると、子ども話し始めてくれます。でも私は一つ勘違いをしていました。視線を下げる事によって子どもが安心して話し始める、のではないのです。視線を落とした私の心が、子どもの心の場所まで下りて行き、子どもの言葉や、子どもの世界に下りていく事ができる。たとえば、園庭の蟻が一列になって巣に何かを運んでいる、とっても不思議な世界に感動している、その心にまで下りていく事ができるのです。そうする事によって、私の心が、子どもの言葉を聞く姿勢になる。だから子どもは口を開いてくれるのです。相手の心の場所と同じ場所に自分の心を置くこと、会話とは、ここから始めるのだと思わされます。
今朝与えられました御言葉にはニコデモというユダヤ人の姿が記されています。彼は主イエスと出会いによって、その言葉を本当の意味で「聴く」ことができる者へと変えられます。彼に与えられた恵みとはなにか、を共に聖書に聴きましょう。
さて、御言葉の場面はエルサレムで催されている仮庵祭の七日目の出来事です。主イエスは密かにエルサレムに入り、神殿の境内で多くの群衆を前に聖書に記された御言葉を解き、神の国の到来と福音について教えられます。その言葉を聞いた群衆は驚きます。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(ヨハネ福音書7:15)とか「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」(ヨハネ福音書7:31)と、ささやき始めるのです。でも、まだ誰も主イエスに近づくことも、あからさまな非難もしません。群衆は周囲の状況を気に掛けながら静観しているのです。でも徐々に噂が広がり「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。(ヨハネ福音書7:26)と、ささやき始められると、ようやく祭司長たちとファリサイ派の人々は重い腰を上げ、主イエスを捕らえるために下役たちを遣わします。では主イエスは捕らえられたのか、というと、下役たちは主イエスを捕らえないのです。それどころか下役たちは主イエスの言葉に感銘を受けます。
さて、仮庵祭が最高潮に盛り上がる七日目、この祭の最後の行事である水取りの儀式が行われます。祭司たちはシロアムの池の水を汲み、神殿に続く大通りの、緩い上り坂を進みます。道の沿道には多くの人々が詰めかけ、その様子を見守ります。そして水は神殿の内庭に運ばれます。そこには多くの男性が座っています。祭司はその中央を進み、燔祭(焼き尽くす捧げ物)の祭壇の左に置かれている大きな水盤に、運んできた水を注ぎます。自分たちの父祖たちは、荒野に貧しい仮庵を立てて渇きに苦しみながら生活をしていました。でも神は奇蹟的な力で彼らに水を与えます。そして今、神は自分たちには豊かな水を与えて下さり、生かして下さっている。この儀式を通して、ユダヤの民は自分たちが神に生かされていること、自分たちが神に選ばれた民である事を確認するのです。
でも、厳格に静かに目の前を祭司たちが大切に慎重に水を運んで進んでいるただ中で、主イエス立ち上がり、大声で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ福音書7:37)と言い放たれます。主イエスは、神殿に集まった会衆に向かって、あなた方の魂を潤す水は、目の前を運ばれている、この水ではなく、私の言葉だ、と、そう話されるのです。
さすがに、この主イエスの行動について、祭司長たちとファリサイ派の人々は激怒します。彼らは主イエスが、公に神殿の威信を損ねたという事で、下役たちに主イエスをなぜ捕まえてこないのか「すぐに捕まえてこい」と叱りつけるのです。「さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、『どうして、あの男を連れて来なかったのか』と言った。下役たちは、『今まで、あの人のように話した人はいません』と答えた。すると、ファリサイ派の人々は言った。『お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。』」(ヨハネ福音書7:45-49)
「律法を知らないこの群衆は呪われている。」この言葉に祭司長たちとファリサイ派の人々の心根が見えてきます。「呪われる」とはユダヤ人にとって「神の前から追放される」というイメージの言葉です。アダムを唆した蛇が神から呪いの言葉を受けたように、弟アベルを殺したカインが神から呪いの言葉を受けたように、神が自分の前からその者を追放する宣言、が「呪い」です。神が自分の領域から外に捨て去ること、つまり「呪い」は神の為す業であり、人の業ではありません。(因みに「聖別」は自分の領域の中に入れること、です。)だけれども祭司たちは群衆を「律法を知らない」者たちと見下すのです。まるで自分たちは律法の全てを知り、神の如く人を呪い裁くことのできる者であるかのように、さらには主イエスをも見下しているのです。
さて、ここからニコデモの話しになります。このやり取りを見ていたニコデモは口を開きます。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(ヨハネ福音書7:51)たぶん彼は過去の自分を見ているようで、居たたまれなくなったのだと、そう思います。何故ならニコデモは以前に主イエスを訪ね主イエスに会っていたからです。それは以前の過越祭の時の事です。主イエスがエルサレムに来ていると知ったニコデモは主イエスを訪ねます。でも公にではなく、夜、闇に紛れて主イエスを訪ねます。何故なら、彼はユダヤの最高法院の議員だったからです。主イエスはエルサレム神殿で商人たちを追い出したばかり、既に祭司たちに目をつけられ、緊張関係が生じていました。議員と祭司は共にユダヤの政治を担う役割を負っていました。ユダヤ人社会の体制側にいる彼は、昼間に人目を憚らず、主イエスに会いに行くことはできなかったのです。でも彼は主イエスを神の下から遣わされた教師であると、信じていました。そして教えを請いたいと望むのです。危険を冒してでも直接主イエスと会い、話しを聞こうとするのです。では主イエスはそんな謙虚で教養があり誠実なニコデモを、褒めて迎え入れたのか、というと、そうではありません。主イエスはニコデモに話します。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ福音書3:3) しかしニコデモは、この言葉を受け入れることが出来ないのです。何故ならニコデモは主イエスを自分と同等な「教師」として見ていたからです。彼は地位も財産も持ち家柄も良い、権威あるユダヤ最高法院の議員の一人です。その彼が僻地ガリラヤの大工の息子を自分と対等な人物として受け入れただけでも、ニコデモはかなり謙虚な人物だと思うのですが、でも、彼はもっと主イエスを前に自分を低くしなければならなかったのです。主イエスは彼にこう話します。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。(ヨハネ福音書3:11-12)
「私は知っている事を語り、見た事を証ししている」主イエスは御自分が神に属する者、神御自身であると、ニコデモの前で証しされます。そして神の言葉を聞くためには、高みを目指して、自分をもっと上に上げようとするのではなく、下に下らなければならない。神はこの世の最も低い所におられる。つまりニコデモに、この世にあって自分の持っている全て、地位も財産も家柄も権威も、これまでの経験も教育も知識も全てを捨てて、真っ新な、生まれたての、一つの命となって神の前、つまり自分の前に立ちなさい、諭されるのです。下に下らなければ、あなたが求めている神の声を聴くことが出来ない。と、話されるのです。
仮庵祭の場面に戻ります。祭司たちはニコデモの指摘に「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」と答えます。ニコデモはこの言葉を聞いて、祭司たちの態度の中に過去の自分の姿を重ねたのだと、そう思います。この時、主イエスの言葉「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ福音書3:3)の意味を彼は理解したのだと思います。もっともっと下らなければ、主イエスの言葉を聞くことが出来ないのだと、気づかされるのです。ニコデモはこの後、十字架に掛けられて死んだ主イエスの亡骸をアリマタヤのヨセフと共に墓に納めます。彼は一人の信仰者として、この世に立てられるのです。
私たちも神の声を聴くためには、下に下らなければなりません。神は私たちの言葉を聞くために、天に属する方で在りながら、主イエスとして肉体を持ち、この世に下られました。しかもこの世の最も低い場所、憎しみと矛盾、闇の最も濃い場所、十字架の上にまで下られたのです。私たちはこの世にあって自分を高めれば高めるほど、神の言葉から離れてしまします。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ福音書18:3)共に神に砕かれ神の前に立ちましょう。祈ります。
「心のささやき」2020/8/16
ヨハネ福音書7:1-17
旧約聖書、コヘレトの言葉の三章に、このように記されています。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時 黙する時、語る時、愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時」(コヘレト3:1)
私は、物事がうまく進まない時や大きな失敗を与えられた時、もしくは失意を覚えた時に、この言葉を思い起こします。そして「今は神の定められた時ではなかった」と心に思います。そして「もし御心なら、いつか実現するし、御心でないなら消え去るでしょう」と自分を納得させるのです。また物事が上手くいっているときは「神の定めた時に叶っているから上手く動いているに過ぎない、自分の技量ではない」と自惚れる心を抑えます。「随分と身勝手な聖書理解ですね」と指摘されそうですが、少なくとも私はこの御言葉に慰めを与えられます。少なくとも、自分中心に世の中の時が刻まれているのではなく、神が世の中の時を刻んでいることを、思い起こさせてくれるからです。
ここで話している「時」(Kairos)とは、物理的な「時刻」(Chronos)という意味ではなく「契機」とか「切っ掛け」という意味の「時」です。私たちは過去の経験や現在の状況、自分の体調、能力、周囲との関わりなど、様々な要因を鑑(かんが)みて、右に行くか左に行くかを判断し、決定します。でも、どんなに慎重に考え抜いて実行したとしても、上手く行く時もあれば下手を打つ時もあります。往々にして人は、その様な時「偶然」とか「運」とか、そんな言葉で誤魔化すのですが、信仰者の立ち位置は違います。私たちはその背後にある神の御心を祈りによって聞くことを、許されています。すべては御心であり意味がある、と私たちは聞くのです。神はサイコロを振られないのです。
今朝与えられ御言葉の記されている御言葉「わたしの時はまだ来ていない」(ヨハネ福音書7:6)の「時」はKairosの「時」という言葉が使われています。主イエスは御自分の時、つまり十字架に掛けられ死を味わい復活されるときを見据えられて、この言葉を話されます。その思いを覚えつつ、共に御言葉を読み進めたいと思います。
さて、私たちは主日礼拝の中で、日本基督教団の聖書日課にそって聖書を読み進めているのですが、今週からは場面が変わります。先週まで読み進めていた五千人の給食の後、主イエスと弟子たちはカファルナウムからナザレの周辺で伝道を進めていました。そして、季節はエルサレムで仮庵祭が行われる時期に移ります。この仮庵祭とはユダヤの三大祭りの一つです。それは秋の収穫祭という意味合いを持つ祭で九月の終わりから十月の初めに行われます。でもこの祭の中心的な意味は「イスラエルに与えられた主なる神の恵みと守りを覚える」です。レビ記にこのように記されています。「あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記23:42-43)ユダヤの民はエジプトを出て、四十年にわたって食料も水も乏しい荒野を彷徨いました。しかし神は彼らにマナを与え、岩から水を湧き出でさせ、彼らの命を繋ぐのです。そして彼らは蜜と乳の湧き出る地カナンに導かれ、イスラエルを建てます。ですからイスラエルの人々はこの仮庵の祭の催される八日の間、家の庭や郊外に小屋を作り、その中で生活します。そのようにして先祖の荒野での苦しく貧しい生活を、身を以て体験し、神の恵みを覚えるのです。ユダヤ人はこの祭を通して、自分たちが神に選ばれた民である事を自覚します。彼らは愛国心を奮い立たされるのです。ですから、この祭には、イスラエルに住むユダヤ人の成人男性は全員参加する事が義務づけられていました。といっても女性や子どもだけを村に残して行く事は危険なので、親族全員で移動する事になります。そして当時の旅行は今のように簡単ではありませんでした。それぞれが作業を分担し助け合います。食料や生活用品、テント、衣服などの荷物を手分けして運び、夜にはひとところに集まって野営(キャンプ)します。そうする事によって強盗や野の獣から身を守るのです。例えばナザレからエルサレムまでヨルダン川沿いのルートで百七十キロほど、徒歩で五日ほど程の移動になります。
さて、この仮庵祭が始まる数日前のナザレが、先ほど読みました御言葉の場面です。「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」(ヨハネ福音書7:1)と書かれています。仮庵祭が近づいてきたのに、主イエスはエルサレムに行くための準備をされなかった、のです。この主イエスの態度に主イエスの親戚は腹を立てます。「イエスの兄弟たち」(ヨハネ福音書7:3)と書かれていますが、この言葉は純粋に兄弟だけではなく、親戚の男性も含まれています。特に主イエスは大工ヨセフとマリアの最初の子、つまり長男なので、親族全員を引き連れて、この旅を取り纏めなければ為らない、立場にありました。その主イエスが「エルサレムに上らない」と話したのです。
ここまでの背景を読むと、三節の言葉の意味が見えてきます。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」(ヨハネ福音書7:3-4)ナザレに住む主イエスの親戚たちは、二つの理由で腹を立てます。一つは自分の責任、長男としての責任を果たさないこと、もう一つは、命を狙われることを恐れてエルサレムに上らないのなら、その程度の中途半端な覚悟で伝道活動をしているのなら、伝道など止めてしまえと、話すのです。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」(ヨハネ福音書7:5)とありますが、これは彼らが主イエスをヨセフの息子として見ていた、という意味です。子どもの頃から主イエスを知っている身内は、主イエスをメシアとして見ることは出来ないのです。それは当然だと思います。だから、彼らは主イエスの考えている事、またその行動を受け入れる事が出来ないのです。
では主イエスは何と答えられたのか。「わたしの時はまだ来ていない。」(ヨハネ福音書7:6)そう答えられるのです。主イエスは自らの十字架の時を、この時、既に見ているのです。仮庵の祭ではなく、過越の祭の時に、エルサレムに集まる多くの人々に迎えられて「公に」入城し、しかしその後で十字架に掛けられること、苦しみ、血を流し、死を味わうこと。しかし復活し、その出来事を通して、その犠牲によって、人々と神との和解が成立するということ。その「時」(Kairos)を主イエスは知っているのです。主イエスは兄弟たちに「あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」(ヨハネ福音書7:8)と話されます。
さて、エルサレムで仮庵の祭が始まります。聖書には「祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し」と書かれています。イスラエル中のユダヤ人が村単位でエルサレムに上ってきますので、エルサレムもユダヤ人たちは、ナザレの村から来た集団の中に主イエスの姿を探すのです。でも、そこに主イエスはいないのです。では彼らが本気で主イエスを探し出して殺そうとしていたのか、というと、そうではないのです。ユダヤ人たちの間でも意見は分かれていました。「「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。」(ヨハネ福音書7:12)と聖書には書かれています。つまり主について公に語る者は誰一人いないのです。主イエスが話された通り、この時は、まだ主イエスが十字架に掛けられる時ではないからです。主イエスは殺される事を恐れてエルサレムに上ろうとされなかったのではなかったのです。主イエスはまだ自分が殺される時ではないと知っていました。でも同時に、まだ公にエルサレムに上がる時ではないことも知っていました。だから、兄弟たちの言葉に従わなかったのです。では主イエスは、そのままガリラヤに留まれられたのかというと、そうではありません。この仮庵の祭は主イエスにとって、また神の救いの計画にとって、まだ定められた時ではないので、主イエスは公にエルサレムには上られることはないのですが、でも公にではなく、密かに、人目を避け、隠れるようにして上って行かれます。そして、神殿の境内に上がって、人々の前で教え始められるのです。
主イエスは時を知っていました。でも私たちには、神の定めた時がいつか、それはわかりません。でも神は「私」の考えや思いを遙かに超えて「私」にとって最も良いタイミングで、時を与えて下さいます。私たちは神を信じ、その時が与えられるのを希望に胸を躍らせながら、地上に種を蒔き続けましょう。いつか神の定められたときに、種は芽を出し葉を広げ花を咲かせるでしょう。祈りつつ待ちましょう。
「ひとつになるために」2020/8/9
ヨハネによる福音書6:41-59
私の家の近く、もう一つ先の路地で、毎朝、野球のバットを振っている男の子がいます。たぶん中学校に入ってから練習を始めたのでしょう、四月の頃はヨタヨタと頼りないスウィングでした。脇は締まってないし軸足が定まっていません。でも最近では堂々と風を切るスウィングになりました。ちゃんと顎を引いて左肘を落としています。たぶん誰に教わった訳ではなく、毎朝、素振りを繰り返しているうちに、彼の体格や筋肉の付き方に最適なフォームが身についたのだと思います。頭で考えて理解する事、納得する事は大事ですが、より深い理解を得るためには、身体の感覚で感じる、掴む事も大事なのだと、改めて思わされました。
私たちは、ついつい、信仰を学びの様に考えてしまうことがあります。聖書の教えを学ぶような感覚です。でも信仰とは神と共に生きる日常です。私たちは呼吸するように祈り、毎日、食事をとりお茶を飲むように、聖書の御言葉を読みます。その日常の積み重ねの先に信仰はいつのまにか成熟します。そして、この事を見失わないために、教会は礼拝の中で、【神の見えざる恵みの目に見える証】として洗礼と聖餐を守っています。この洗礼と聖餐を聖礼典と呼びます。洗礼とは「主イエスを見えざる神の目に見える肉体であり、私の罪を拭われる救い主です」と告白すること。そして聖餐とは、別けられるパンと杯を主イエスの肉体であると信じて、自らの身体に受け取ること、です。神の肉体を自らの内にいただく事によって、私たちの魂は養われ、私たちは神と一つとされるのです。
今朝、私たちに与えられました御言葉は主イエスが五千人もの人にパンと魚を分け与えた場面からの続きです。ここには主イエスと「ティベリアスから来た者たち」との論じ合う姿が描かれています。この場面から私たちは、私たちが永遠の命を得るために如何すれば良いのか、を共に聴いて行きたいと思います。
カファルナウムにおられる主イエスと弟子たちの下に、主イエスが分け与えたパンを食べた者たち、とティベリアスから来た者たちが訪ねてきます。主イエスは彼らに「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ福音書6:27)と話します。主イエスはこの言葉を通して、彼らに神との正しい関係に立ち戻るように勧められます。そして彼らは主イエスに「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(ヨハネ福音書6:28)と尋ねます。素直な質問です。そこで主イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と答えます。私を信じなさい。従って来なさい、と。これを聞いた多くの者たちは主イエスに従うのです。
さて、このやり取りを聞いていたティベリアスから来た者たちは、さらに主イエスに質問をします。彼らは、パンと魚を分け与えられた五千人の者たちより身分の高い者たちであり、ユダヤ教の知識も豊富だったと考えられています。ですからここから、質問の内容が神学論争のような展開に変わっていきます。彼ら尋ねます「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。」(ヨハネ福音書6:31)モーセに従ってエジプトでの労役から解放されたイスラエルの民が荒野を渡る間、神は彼らにマナを与え養われた。あなたが五千人の者たちにパンと魚を分け与えたのも、同じ事であろう、と、私たちもあなたをモーセと同じ預言者として認めるから、私たちにもマナを与えて下さい、と彼らは主イエスに願うのです。では主イエスはどの様に答えられたのか「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(ヨハネ福音書6:33)モーセが人々にパンを与えたのではなく神が人々にパンを与えた、そしてそのパンは人々に命を与えるパンだ、と主イエスは答えます。さらに主イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ福音書6:35)と答えられるのです。
「私がパンである」。つまり主イエスは自らをモーセ以上の存在、預言者以上の存在である、と話すのです。マナが神の目に見えて味わえる、それ以上に人を養う目に見える恵みであった様に、私自身がマナであり、神の目に見える恵みである、と主イエスは答えられるのです。この言葉を聞いた人々は反発します。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」(ヨハネ福音書6:42)彼らは「つぶやいた」(gogguzo)と聖書には書かれています。彼らは主イエスを前にして堂々と胸を張って反論できないのです。なぜなら彼らも主イエスの話していることを理解はしているのです。たぶん神からの預言者である事は確実だろう、と、神から遣わされたものであろうと。でも神からのメシアであるとは受け入れられないのです。主イエスは畳みかけるように彼らに話します。
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ福音書6:47)主イエスの言葉を聞き、預言者か、もしかしたらメシアかもしれないと心に抱いている人たちも、この言葉を受け入れることは出来ないのです。彼らはこの言葉を聞いて腹を立てます。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(ヨハネ福音書6:52)と、互いに激しく議論し始めるのです。そして今まで主イエスに従い、話しを聞いていた人々の多くも、主イエスの下から離れていくのです。
でもなぜ主イエスは「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」(ヨハネ福音書6:55)と話されたのでしょうか。ユダヤ人にとって血は神から与えられた命の象徴であり、神聖なので聖別(神のとして取り分け)し、決して口に入れることは在りません。動物を屠った後も完全に血抜きした肉しか食べません。加えて人の肉を食べるなどと言うことは、人種、時代、民族・国家を問わず人間にとって禁忌です。かれらがこの主イエスの言葉に不快感を覚え、反発するのも理解出来ます。でも、この言葉でしか、神の救いの業は言い表す事ができないのです。
「私が命のパンであり、このパンを食べる者は永遠に生きる。」とはどう言う事なのでしょうか。ここで話される永遠の命とは、この世で永遠に生き続けられる、という事ではありません。もし永遠に生き続けなければならないなら、それは祝福ではなく呪いです。人間は以前、死を与えられていない時がありました。それは神が天地を創造し、アダムとイブがエデンの園に置かれていた時です。彼らは死を知りませんでした。しかし彼らは神に背きエデンを追われます。地上に生きる事になった彼らには死が与えられるのです。つまり死とは私が神から離反している状態のことです。そして私たちは、神との正しい関係に立ち戻るなら、つまり神と和解するなら、神と一つになるなら、そこに戻るなら、私たちの死は無力化され永遠の命に入れられるのです。神はこの世に主イエスとして肉体を持ち、救い主として来られ、十字架を背負うことで、人々の罪を自らの罪として負って下さいました。人々を神との和解へと導かれるのです。そこに本当の救いがあります。問題を解決するには原因まで掘り進んで、抜本的に直すことが大事なのです。そもそも人が罪を負った場所、アダムに遡って破綻した関係を修復しなければ、人は救われないし、主イエスがこの世に与えた救いとは、この救いなのです。人が主イエスの肉と血をいただき、身も心も主イエスと一つになること。その結果、神との和解を得るのです。
私たちは礼拝の中で聖餐式を行い、パンと杯を受けます。洗礼を受けた方だけが、パンと杯に預かれると定められている理由は、ここにあります。このパンと杯を主イエスの肉主イエスの血と信じないのなら、それはただのパンとジュースです。取って食べても良い(罰せられることも非難されることもありません)のですが、意味はありません。でもこのパンと杯を主イエスの肉と血として信じていただくなら、私たちは主イエスと一つにされます。また神とも一つにされます。そして聖餐を受けた私たちも、神を介して一つとされるのです。そこに意味があるのです。私たちはこの恵みを通してエデンを味わう事ができるのです。祈ります。
「あなたに必要なもの」2020/8/2
ヨハネによる福音書6:22-27
今朝、読まれました御言葉の中で、主イエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ福音書6:27)と話します。この「働きなさい」は文字通り「労働する」という意味ですが、「尽力する」でも良いと思います、心をそこに置くことです。つまり主イエスは、朽ちて消える物を探し求めるのではなく、朽ちない永遠に存続するモノに心を向けなさい、と話されるのです。では主イエスの話す「永遠の命に至る食べ物」とは何か、を共に御言葉に聴いていきたいと思います。
さて、今朝の御言葉の場面はティベリアス湖と呼ばれるガリラヤ湖の対岸、主イエスが五千人の群衆をパンと魚で満たした次の日、この場所から始まります。その日の朝、人々はこの場所に弟子たちがいない事に気づきます。そして弟子たちだけが、山の奥の方向に向かった主イエスと別れて湖に向かい、舟に乗り込み出かけた事を知ります。そこに数艘の小船が近づいてきます。彼らはティベリアスから主イエスの噂を聞いて追ってきた者たちです。このティベリアスという町の名はヘロデ・アンティパスの後見人であったローマ皇帝ティベリウス・ユリウス・カエサルに因んでつけられた名前です。そこからも解るように、このティベリアスはガリラヤ地方の首都であり中心地でした。このティベリアスから主イエスを尋ねてきた者たち、彼らは、今までずっと主イエスの後を付いてきていた群衆とは少し身分の高い者たち、と考えられています。つまり彼らは祭司であるとか学者であるとか、議員であるとか、それなりの身分を持ち、そして教育を受けた熱心なユダヤ教徒だということです。今朝与えられた御言葉に記された物語に続く場面を読み進めるなら、つまり、彼らと主イエスの議論を読むなら、彼ら姿を推測する事ができます。彼らは主イエスがエルサレムやナザレ行った様々な癒しの奇蹟、証の出来事の噂を聞いていました(たぶん主イエスがエルサレムで神殿に仕える祭司たちと対立したことも)。その主イエスがエルサレムから彼の故郷、ガリラヤに帰ってきて、そしてガリラヤ湖の対岸に向かったと聞くのです。彼らは主イエスを聖書に記されている(この場合の聖書とはモーセ五書、預言書、知恵文学などの旧約聖書)預言者だと信じて、お会いしたいと、ティベリアスからこの場所に向かって来たのです。
さて彼らがガリラヤ湖の向こう側に付いたとき、そこには、沢山の群衆が集まっていました、でも主イエスと弟子の姿はないのです。彼らは群衆に、主イエスが何処に行ったのか、と聞こうとします。そこで、彼らは主イエスが五千人の群衆にパンと魚を与えたという話しを聞くのです。これほどの数の群衆に、飽きるほどのパンと魚を施したイエスとは誰なのか。群衆は主イエスを見失ったけれど、弟子たちは舟に乗って対岸に帰ったと話します。そこでティベリアスから主イエスを尋ねてきた者たちは、その場所にいた群衆の内から主だった数人を船(五千人を舟に乗せる事は出来ないので)にのせ、共に主イエスを探すために舟を沖に進めます。自分たちがいたティベリアスではないなら、ということでカファルナウムに向かい、そこで、弟子たち、だけではなく、主イエスも見つけるのです。さて、主イエスが裂いて分け与えたパンを食べた者たちが主イエスに声をかけます。「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」(ヨハネ福音書6:25)この言葉の背後には二つの意味があります。一つは「弟子たちが舟を使って、残っている舟はなかったのに、あなたはどうやってここまで戻っていきたのか」という疑問、そして「なぜ、私たちを湖の対岸に残して、カファルナウムに戻ってきているのか」という憤りです。彼らは主イエスの力に畏れを抱きつつも、腹を立てているのです。
何故、主イエスは彼らの下から姿を消したのでしょうか。そうではないのです。彼らが主イエスを見失った、主イエスの姿が見えなくなってしまったのです。何故か、それは彼らが主イエスを自分たちの王にしようと、主イエスを捕まえてティベリアスに連れて行こうとしたからです。彼らは、主イエスからいただいた恵みを素直に感謝して受ける事をしませんでした。つまり彼らは、神が人を愛し、人が神を愛する、という関わりの中に自らを置こうとはしないのです。彼らは、その神を自分のモノとして、この世の利益のために使おうと画策するのです。まるで神を自分たちの願いを叶えてくれる、道具のように、物として扱うのです。そしてそれを所有しようとした。だから、彼らは主イエスを見失うのです。でも彼らは、主イエスに逃げられたと考えます。そして、せっかく手に入れた玩具を取り上げられた子どものように、彼らは憤って主イエスを探すのです。では、その様な彼らに主イエスは何と答えられるのか。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。(ヨハネ福音書6:26)この「しるし」(semeion)は兆候とか合図、という意味の言葉です。つまり主イエスは、御自分の行われた奇跡的な業を通して、彼らが神から与えられた兆候、合図を受け取る事を望んでいたのです。
続けて主イエスは彼らに話します。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(ヨハネ福音書6:27)私があなた方に与えるのは、この世の朽ちる食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物であると、主イエスは話されるのです。そしてそれを私に求めなさいと、主イエスは話されるのです。「永遠の命に至る食べ物」とは、永遠の命を与えてくれる、尽きることのない食べ物の事です。それは主イエスの御言葉です。私たちの肉体が食事をする事によって、命を保つのと同じように、私たちの魂も、自分の外にある言葉を、自分の身体の内に取り込むことによって命を保っています。だから、ジャンクな食べ物を食べ続けると身体を壊すように、この世の偏った言葉の中に自分を置き続けると、やはり魂も壊れます。主イエスの言葉は、永遠に過去から現在、未来に至るまで永遠に存在する神の言葉です。そして聖書に書かれている言葉は、私たちの魂を健康に保ちます。そして、言葉とは関わりです。私たちは相手を信用していなければ、その相手の言葉を正しく受けとめる事はできません。「また今度の機会に聞きます」と脇に避けてしまいます。また信頼している相手でなければ、真剣に相手を生かす言葉を掛けることもありません。つまり会話とは、言葉とは、相互の関係性の上にやり取りされるものなのです。だから、今、生きておられる神との関係性の中で、私たちは今、神から言葉を受けます。それが私たちにとっての、永遠の命に至る食べ物なのです。
主イエスは、この、永遠の命に至る食べ物を、私に求めなさい、と彼らに、そして私たちに話されます。私たちも、神から何かいただくとか、信仰を得る事によって何か自分が物事をよく分かっているような、強い力を与えられたような誤解を抱く事があります。でも私たちが信仰を与えられた事によって知る事は、主イエスの背後に神がおられる、ということだけです。私たちは信仰によって神の前の自分を知り、砕かれて、弱くなり小さくなります。だけどパウロが話すように私たちは、その弱さを誇るのです。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリントⅡ12:9)そして、この会話をティベリアスから来た者たちは聞いています。彼らと主イエスとの議論については、次週、共に聞くことにします。
礼拝説教原稿
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