礼拝説教原稿

2020年7月

「いつのまにか着くのです」2020/7/26

ヨハネによる福音書6:16-21

先日、私は近所のホームセンターで、クワズイモという観葉植物を買いました。窓際に置いて、毎朝、水をやり続けています。正直、私は植物を育てるのが得意ではありません。今まで何度か挑戦したことがあるのですが、いつも枯らしてしまうのです。でも、このクワズイモとは相性が良いみたいです。買ってきた時は小さい葉が三枚だけ生えていたのですが、いまでは九枚の葉が元気に伸びています。このクワズイモを見ていて考える事があります、つまり私はこのクワズイモが最終的にどこまで成長して大きくなるのか、を想定して育てている訳ではない、ということです。例えば、仕事にしても何かしらの作業にしても、まず目標を想定して、その目標に向かって作業を進めます。できるだけ効率良くお金や時間を掛けずに達成できるプランを緻密に練り実行します。でも生きものを育てる、という作業はまったく違います。最終的にどの様な形になるかは、神さましか知りません。もしかしたら明日には涸れてしまうかもしれません。でも、毎朝、元気そうに瑞々しく延びていく緑の葉を見て、汚れを拭いて水をやるのです。結果を求めるのではなく過程と付き合う、それが生きものとの付き合い方なのだと、改めて思わされます。

そして私たちの集う教会は主イエスのこの世の身体として、神によってこの世界に据えられています。もちろん、ここで話す教会とは建物の事ではなく、私たち、この礼拝に集う一人一人の信仰共同体のことです。少し前に、牧師室からに書きましたが、聖書には教会はエクレシア(ecclesia)と記載されています。それは「人々の集い」という意味の言葉です。私たちは一人一人、それぞれが主イエスの身体の一部分です。ある人は腕の役割、ある人は手の役割を担っています。パウロはコリントの教会の信徒たちに対してこの様に話します。「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」(一コリント12:20-22)教会は、この世界にあって生きています。呼吸をしている。だから教会は結果を求めないし、効率を求めることも、もちろんお金を儲ける事も求めません。毎週の礼拝を愚直に守り、その中心に、主イエスを「ここ」に招くなら、私たちはいつのまにか、私たちが想定する事のできない、神の用意している目的地に、辿り着く事となるのです。

この事を、今朝、与えられました御言葉の場面で、主イエスは弟子たちに教えています。弟子たちは主イエスから与えられた試練を通して、その困難に遭遇した経験を通して、自分たちがこれからこの世界で生みだしていく教会の基本的な在り方を教えられるのです。でも少々、私たちは回り道をして、聖書から聞いていかなければなりません。先ほど読まれました御言葉、ヨハネ福音書六章二十一節以下は「湖上歩行の奇蹟」と呼ばれる箇所ですが、マタイ福音書もマルコ福音書も「五千人の給食の奇蹟」と一揃えにして、聖書に記載しています。つまり、この二つを絡めて読んだ方が全体の意味を掴みやすい、ということです。六章一節から始まる「五千人の給食」の物語から読んでいきます。

主イエスはエルサレムからナザレに戻られ、弟子たちと共にその後ティベリアス湖の向こう岸に渡られます。主イエスは人々から離れて弟子たちを休ませたかったのかもしれません。湖の向こう側にはユダヤ人の町がなかったからです。でも、人々は主イエスと弟子たちを追ってついてきます。聖書には、主イエスが病人たちを癒やした業を見て信じたから、と書かれています。そこで主イエスは立ち止まります。「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。」(ヨハネ福音書6:3)この山と表現されている言葉ですが、私たちの思い浮かべる木の生い茂った、急な勾配を持つ山ではありません。ここは、ほとんど木の生えていない開けた草原の続く小高い丘です。主イエスはその中腹に座り、眼下に集まってくる多くの人々に目を移されます。そこには五千人、これは成人した男性の数ですから、女性と子どもを含めて一万人以上の人々が集まってきていました。

主イエスは近くにいるフィリポに尋ねます「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハネ福音書6:6)フィリポは答えます。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(ヨハネ福音書6:7)二百デナリオンを今の貨幣価値に置き換えると二百万円程です。フィリポは律儀で従順で忠実な性格と以前説教の中で話しましたが、彼は状況を的確に換算して答えます。でも、この返事の裏には彼の心の声が隠れています。つまり彼は主イエスに「無理です」と答えたのです。「私たちにはそんな財力があるわけではないし、これほどの人数の群衆の空腹を満たすことなどできません」とフィリポは答えるのです。その横でシモン・ペトロの兄弟アンデレが口を挟みます。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(ヨハネ福音書6:9)このアンデレもペトロの弟ですから、どちらかと言うと素直で率直でタイプです。彼もフィリポと同じように「私たちが手に出来る食料は五つのパンと小魚二匹だけです、どうなるものでもありません」と答えるのです。そこで、主イエスは「人々を座らせなさい」(ヨハネ福音書6:10)と話します。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」(ヨハネ福音書6:11)そして、別けられたパンと魚で人々は満たされた、と聖書には記されています。

では、長い距離を歩いて主イエスについてきた人々は、食事をして、一息ついて落ち着いたのか、というと、そうではないのです。彼らは主イエスのなさった証をみて「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」(ヨハネ福音書6:14)と言い合い、捕まえて自分たちの王とするために、カファルナウムまで連れて行こうとするのです。そこで主イエスは人々から離れ一人、さらに山の奥に隠れられるのです。人々は主イエスを見失います。さて、残された弟子たちはどうしたのか、というと、彼らは、たぶん、これは聖書に記されていないので推測なのですが、主イエスから「先にカファルナウムに戻っていなさい、後で私も戻るから」と話されていたのではないか。彼らは夕方になって湖畔に下りていき舟に乗ります。「そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。」(ヨハネ福音書6:17)

彼らが舟を出して二十五ないし三十スタディオン、今の尺度に換算して五キロほど漕ぎだした頃、強い風が吹いて湖は荒れ始めます。ゲネサレト湖は東西に十三キロ、南北に二十一キロの湖ですから、彼らは湖の真ん中辺りに達していた、という事です。そして「既に暗くなっていた」と書かれていますが、この「暗く」は聖書の中で「光」と対照的に使われる「暗闇」(scotia)という意味の言葉です。彼らは漆喰の闇に包まれた湖で、荒れ狂う波に翻弄されながら、舟が転覆しないように櫂を動かし、必死にカファルナウムに向かおうとするのです。そこに主イエスが現れます。「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。」(ヨハネ福音書6:19)と聖書には書かれています。主イエスは湖の上を進んでこられます。主イエスの姿を見た弟子たちは、湖の上にいる主イエスに手を伸ばして、掴もうとします。舟を主イエスに近づけようと櫂を動かします。主イエスを舟に招き入れようと必死になるのです。でも、いつのまにか舟はカファルナウムに着いているのです。この経験を通じて主イエスは弟子たちに、そして主イエスは私たちに何を伝えようとされているのでしょうか。

ゲネサレト湖の向こう岸に行ったとき、多くの人々がついてきたと、共に読みました。彼らは主イエスの病を癒やされる奇蹟を見て、信じた者たちです。彼らは自分たちも何らかの奇蹟的な力に預かれるとして、主イエスに従ってきました。そして彼らは主イエスからパンと魚をいただきました。では彼らは何を思ったのでしょうか。たぶん信仰者であるなら、旧約聖書に書かれたモーセの奇蹟を思い浮かべるのではないか、と考えられます。荒れ果てて乾燥し、草木も生えていない荒野、その荒野をさすらい食べる物のないユダヤの民に、神は天からマナを降らせて、彼らの空腹を癒やされました。この聖書の出来事を思い浮かべれば、彼らは主イエスを神からのメシアとして救い主として信じることとなったのでしょう。でも違うのです。彼らは主イエスよりも目の前のパンに目を向けます。「この人を王に据えれば、もう食べる物に困る事はない。額に汗して働く事もないし、他の国に滅ぼされる事もない」彼らはそう考えるのです。でもその時、主イエスは彼らの前から消えます。彼らは主イエスを見失ってしまうのです。では弟子たちはどうであったか。彼らは主イエスを陸に残したまま、漆喰の闇の中、荒れた湖の上を、必死に舟を漕ぎます。しかし目的地に着くことはできません。彼らは恐れに包まれるのです。でも、水の上を進んでこられた主イエスを、自分たちの舟に招く事に必死になっているあいだに、いつのまにか舟は目指す地に着いているのです。弟子たちがするべき事は、自分の力に頼ることでも、主イエスの力に頼ることでもなく。主イエスを自分たちの所に招くことだったのです。

私たちの信仰の在り方について。私たちはこの御言葉に聴いて、注意しなければならないのです。主イエスの下に集まって来た群衆の様に、私たちも主イエスにパンを求めるなら、つまり、この世の利益や力を求めるなら、神は寛容な方ですから、その言葉に耳を傾けられます。彼らがパンと魚を与えられたように、私たちにも目に見える利益を下さるでしょう。でもその時、私たちの方が神の姿を見失ってしまうのです。また私たちが弟子たちの様に、自分たちの力でこの世の困難を克服できると、目指す地に向かいたどり着く事が唯一の解決の手段であると考えるなら、私たちは恐れと闇の中に置かれ続けるのです。でも神はその様な私たちに光として近づいてきて下さいます。私たちは自らの内に主イエスを招くこと。そのために熱心になること、そうすれば、いつのまにか、私たちは目指す地に辿り着いているのです。それは私が最初に想定していた場所とは違うかも知れませんが、きっと、もっと祝福された場所です。私たちの今集っているこの教会も同じです。私たちがこの教会に自己利益や自己実現を求めるなら、その思いは満たされるでしょう、けど、その時、私たちは神を見失います。また私たちが自分たちでこの教会の目指す地を定め、その目標に向かおうとするなら、私たちは、暗闇の中で、荒れ狂う波に翻弄されながら、恐れを与えられる事になります。私たちはただ毎週の礼拝を守り、この中心に光である神を招く事を求め祈るのです。そうすれば神は私たちを最もふさわしい目指すべき地、カナンの地にいつの間にか着いていることとなるのです。毎週の礼拝を丁寧に、気負わずに共に守ってまいりましょう。

「死から命へ」2020/7/19

ヨハネによる福音書5:19-36

このところ、町で行き交うほとんどの人がマスクをつけています。逆にマスクを付け忘れて外に出ると目立ってしまいます。でも一年前はまったく逆でした。私は免疫が低下していたので、いつもマスクを付けなければならなかったのですけど、当時マスクをして出歩いていると、とても目立ちました。正直、物珍しげな目を向けられ、駅のエレベーターの中では避けられたりもしました。逆に今、密閉密集の空間では、マスクをしていない人は避けられます。このコロナ禍の影響は、私たちの日常の意識を変えてしまう程に大きいのだと、改めて感じさせられます。でも、こんな転機が与えられなければ、私たちは日常の習慣や因習、考え方や価値観が大きく変わる事など、ほぼ無いようにも思えます。一度、心に染みついた習慣や考え方を大きく変えることは難しいからです。たとえ悪しき習慣であっても、変えることができない、もう一つ厄介な要因があります。それは「同調圧力」、言い換えれば「その場の雰囲気」という力です。何が正しいか、ふさわしいか、で判断するのではなく、周りを見回して自分の行動を決めてしまう傾向の事を言います。例えば何かの集まりで、正しいと思われる事を発言しても、その場の雰囲気を壊すような発言であるなら、厄介者のような扱いを受けてしまう、そのような事があります。他の民族に比べて私たち日本人は特に「同調圧力」を尊重する傾向が強いと言われています、でも聖書を読んでいますと、ユダヤ人も、この傾向が強いように思います。相手の立場や面子を配慮する、いわゆる相手に「忖度」をしてしまう傾向です。

今朝読まれました御言葉の場面は、主イエスがエルサレムで行った癒しの出来事が発端となっています。それは「ベトザタの癒やし」と呼ばれている物語です。彼は主イエスに病を癒やされた病を癒やされた、にも関わらず、ユダヤ民族特有の同調圧力に負けて、主イエスを批判するユダヤ人たちに「自分は主イエスに癒やされた」と告げ口をするのです。この出来事を切っ掛けに、エルサレムに住むユダヤ人たちは主イエスを強く批判することとなります。先ほど読まれました御言葉五章十九節以下は、ユダヤ人たちの批判に対する主イエスの答えです。「命」とか「死」という言葉が続くので、なんとなく、取っつきにくい内容のように感じられますが、ベトザタの癒やしの出来事と続けて読むならば、私たちが「死なないで生きる」ためにはどうすれば良いのか、ということを、この主イエスが話されている、と分かります。共に聴きましょう。

エルサレムの北側、エルサレム神殿の羊の門の外にベトザタの池、という雨水を溜めるための貯水池がありました。一片四十mと六十mの二つの池があり、訪れた人々が水面に降りていけるように周囲に階段状のスロープが設けられ、五つの回廊が取り囲むように建てられています。この「ヘスダ」という言葉は「愛、水と共にあるもの」の意味で、「ベト」は家ですから、ベトザタとは「慈悲の家」という意味になります。そもそもは乾期の生活用水のための貯水池ですが、この施設には多くの病人や怪我人が集まってきていて、この回廊にうずくまったり、寝かされていました。なぜならこのベトザタの池には、古くからの言い伝えがあったからです。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」(ヨハネ福音書5:4)でももう一つ、病を負った者、重い怪我のために動けなくなった者たちがここに集まる理由がありました。ここにいれば、エルサレム神殿に礼拝を捧げるために訪れる人々から、施し物を受けることができたからです。

エルサレム神殿に犠牲として捧げる羊を連れて来た人たちは、外側の城壁のライオンの門からエルサレムの市内に入り、羊の門から神殿の境内に入っていきました。その手前にベトザタの池があり、その水を使って神殿に捧げる羊を洗っていた、と考えられています。羊というと真っ白というイメージがあるのですが、実際には真っ黒です。その毛に触れると、かなりベトベトします。つまり油まみれでホコリや砂がこびりつき、汚れて黒くなっているのです。神殿に捧げる羊は初子で怪我の無いできるだけ綺麗な羊である事が望ましいと考えられていました。捧げる人も自分の命の代わりに神に捧げる命なわけですから、できるだけ綺麗で見栄えの良い羊を捧げようとするのです。そして彼らがスロープを降りてベトザタの池で羊を洗っているとき、その背後には病気や怪我で立ち上がれない人が寝ているのです。貧しい人への施しはユダヤ教に於いても律法に定められた義務であり美徳です。当然、エルサレム神殿に参拝に来た人々は彼らの前に食料や幾ばくかのお金を置いていくことになるのです。

さて、ここに主イエスが訪れます。そこには三十八年も病気で苦しんでいる人が横になっていました。主イエスは彼に目を留めて「良くなりたいか」(ヨハネ福音書5:6)と声を掛けます。この人はなんと答えたのか。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」(ヨハネ福音書5:7)主イエスは彼に言われます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(ヨハネ福音書5:8)すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだしました。そして主イエスはその場を離れるのです。でも、聖書はこの後に「その日は安息日であった」(ヨハネ福音書5:9)と書き加えます。

その後すぐに、病気を癒やされた人が歩いている姿をユダヤ人たちが見つけます。このユダヤ人たちは、彼がずっと病気で、もう何十年もこのベトザタの池で寝かされていることを知っていた者たちでした。ではこのユダヤ人たちは、彼の病気が癒やされて歩ける様になった事を喜んだのでしょうか。そうではないのです。このユダヤ人たちは彼を叱るのです。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」(ヨハネ福音書5:9)そして病気を癒やされた、この男の人はユダヤ人たちに言い訳をします。「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」(ヨハネ福音書5:10)それだけではなく、彼は神殿の境内に入り主イエスを見つけ、その名と素性を確認し、彼を叱ったユダヤ人のところに戻って「自分の病を癒やしたのは主イエスである」と伝えるのです。

この事を聞いたユダヤ人たちは、主イエスを迫害し始めます。彼らは主イエスをどの様に批判したのか、聖書にはこの様に書かれています。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」(ヨハネ福音書5:18)ここまで聞いていて、なにか苛立ちのようなモノを感じられるのではないか、と思います。少なくとも私は違和感を感じます。三十八年にわたって病の痛みに苦しみ、人生のほとんどを回廊の中に寝かされていた男は、主イエスによって病を癒やされ、立ち上がる事ができたのです。でも彼は、安息日に病が癒やされて床を畳んだこと(今の感覚では病院から退院したようなこと)を指摘され、言い訳をするだけではなく、自分を癒やした人が誰かを彼らに告げ口するのです。

彼を叱ったユダヤ人たちは主イエスを批判します。論点は二つです。一つは主イエスが安息日に病を負った者を治療して癒やしたこと。ユダヤ教の律法では安息日には働いてはいけない、治療という行いもしてはいけない、と定められていました。二つ目は、主イエスが彼らに、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と話した事。主イエスが神を父と呼び、神の権威で病を癒やした、と話す事を許せなかったのです。なぜならユダヤ教の律法には、人が神の名を名乗ってはいけない、と書かれているからです。たぶん私が違和感を感じるのは、病を癒やされた男もユダヤ人たちも、喜んでいない、という事に、です。なぜ彼らは、素直に喜んだり感謝するのではなく、憤り怒るのでしょうか。

主イエスは彼らに「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ福音書5:24)と話します。つまり主イエスは彼らに「あなたたちの心は縛り付けられて死んでいる」と話すのです。主イエスは彼らに、何を話されたのか。今日与えられました御言葉の最初にこうあります。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」(ヨハネ福音書5:19)父が行う事を子が真似て行う様に、私は神が為さっていることを真似ている、と主イエスは話されます。では父である神がこの世にあって為さる事はなにか、というと、それは二十五節に書かれています。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(ヨハネ福音書5:25)つまり神がこの世で行われる業とは死んでいる者に命を与えを生かすことなのです。神はこの世界を創造され、人を創られ祝福されました。命を与え生かすことが神の業なのです。(創世記1:23)でもここで、死んでいる者を生き返らせる、というと、聖書をお読みの方は預言者エリシャが子どもを生き返らせた物語(列王下4:13-17)とか、主イエスがラザロを生き返らせた物語(ヨハネ福音書11:43)を思い浮かべられる、のかもしれません。でもそれは、神の奇蹟的な業の目に見える証にすぎません。神はもっと本質的に、肉体だけではなく魂をも含めて、死んでいる者に命を与えられます。「死」とは岩の様に固くなって動かなくなることです。神は、御自分が命を与えようとする者に命を与えられます。祝福し動くモノとされるのです。

ベトザタの池で三十八年間横になっていた男は、自分の病に縛り付けられ手足を動かすこともできませんでした。また彼はベトザタの池に伝わる言い伝え「水が動いたとき、真っ先に水に入る」という言葉にも縛り付けられていました。もう彼は一つユダヤ人社会の人と人との関わりにも縛り付けられていました。ユダヤ人たちも同様です。彼らは魂を律法の言葉に縛り付けられて、主イエスの言葉を素直に、聞くことができません。主イエスが「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」(ヨハネ福音書5:31)と話しているにもかかわらず、主イエスの言葉の背後に神の言葉を聞くことが出来ないのです。ですから彼らは、病を癒やされた男の回復を喜べないし、主イエスを批判し、迫害しようとするのです。彼らの魂は、この世の罪に縛り付けられ、身動きすることもできなくなり、死んでいたのです。でも主イエスは彼らを愛し、関わり、彼らの縄目を解かれます。病の男には「立ち上がりなさい」と声を掛け、ユダヤ人たちには神を証ししました。主イエスは彼らを自由にされたのです。でも彼らは死の束縛の中に留まり続けるのです。自ら死の中にうずくまり続けるのです。信仰は私たちの心をやわらかくします。年齢と共に私たちの身体は硬くなりますが、でも信仰は心は柔らかく、動きやすくします。そして信仰は私たちを自由にします。この世の様々な、私たちの魂を縛り付けているものの正体を、主イエスは明らかにしてくださいます。私たちは、自由にされるのです。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ福音書8:32)祈ります。

「信じ切れない弱さ」2020/7/12

ヨハネ福音書4:43-54

このところ、少々、うっとうしい天気が続いています。雨が長く降り続き、湿度が高くなり、なんとなく体が重いような、色々なものがベタベタと鬱陶しく感じられます。でもこの時期一番嫌なのは、着ようとした背広の上着にうっすらと生える白いカビです。定期的にクリーニングに出してカバーを掛けて注意しているにもかかわらず、やられると、少々怒りを覚えるのです。でも冷静に考えれば、私の方が認識を正さなければならないのです。なぜなら人間という存在よりもカビの方が、地球上には早く存在しているのです。カビは五億年前には誕生し、現在地球上の微生物の四割程度を占めていて、その種類は七万種に及ぶと言われています。カビは地上の生態系の土台を作り、すべての生き物がその働きの恩恵を受けています。そう考えて見ると「私」がこの地球の、カビを含めた複雑で洗練された自然環境の仕組みの、ほんの一部を借り受けて住まわせてもらっている立場なのです。にも関わらず、いつのまにか「私」という人間がこの世界のすべてを支配しているかの如く振る舞っている。コントロールしていると勘違いしている。黒い礼服の表面に白くうっすらと広がるカビに腹を立てるのです。

同じように私たちの神認識も、つまり、神の存在をどの様に捉えるか、という事についても、私たちは時々、その立場を逆転させて捉えてしまう事があります。まるでお金を入れれば清涼飲料水が吐き出される自動販売機のように、神に祈って願えば叶えられる、叶えてくれなければ文句を言う、叩いてみる。本来神は、この世界を創造され、私たちを造られた方です。私たちは神の御心という壮大で絶妙な思惑の中で生かされています。にも関わらず、神の御心に勝手にレールを引こうとしてしまうのです。そんな認識に墜ちてしまうのが、私たちなのです。

今朝、与えられました御言葉に描かれている、カファルナウムに住む王の役人も、やはり自分が世界の全てを支配しているかの如く、考えていたのです。でも主イエスと出会い、その言葉を聞き、砕かれます。そして信仰を与えられます。なぜ彼を作り替えられたのか、今朝は、その視座から共に御言葉に聴きましょう。

さて今朝、与えられた御言葉の最初にこう書かれています。「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。」(ヨハネ福音書4:43)主イエスと弟子たちがガリラヤ地方に入られます。このガリラヤのナザレは主イエスが生まれ育った町です、また十二人の弟子のうち殆どがガリラヤ出身者です。つまり彼らは帰郷した、のです。でも聖書はこの出来事を、二つの相反する表現で表しています。ひとつは主イエスの言葉、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」(ヨハネ福音書4:44)もう一つは「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。」(ヨハネ福音書4:45)という言葉です。ガリラヤに入った主イエスと弟子たちは、ガリラヤの人たちからの歓迎を受けます。彼らはエルサレムに住む祭司たちやファリサイ派の者たちに目をつけられ、追われるようにして逃げ帰ってきた者たちです。故郷に帰り着いて歓迎され、ホッとしたのだと、そう思います。でも、主イエスはこの歓迎を喜ばしくは受けとめられないのです。何故ならガリラヤの人たちは、主イエスを聖書に約束されたメシアとして歓迎しているわけではないと、知っていたからです。聖書にはこう書かれています。「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」(ヨハネ福音書4:45)

この「祭り」とはエルサレムで行われた過越の祭です。主イエスはこの祭の催されているエルサレムの神殿の境内で、商いをしていた両替商の台を倒し金をまき散らし、牛や羊や鳩を売っている者たちを追い出します。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ福音書2:16)と叫ばれるのです。よく知られている「宮清め」の物語です。祭に来ていた多くの人々は、主イエスの行動や言動を聞いて、もっともだと感じて支持するのです。つまり誰もが、エルサレム神殿に仕える祭司は自分の役職を利用し私腹を肥やしている事を知っていて、でも権力に逆らうことを躊躇って黙っていたにすぎなかった、からです。加えて、この主イエスの、一見無茶な行動を、この過越の祭を祝うために主イエスと同じくエルサレムに来ていたガリラヤの人々は、別の意味で喜んだのです。自分と同じガリラヤ出身のイエスが、いつも威張っている、悪い祭司たちをやっつけている。ここには積み重なった感情的な背景もあります。この当時ガリラヤはエルサレムに住む人たちから、田舎者と低く見られ、馬鹿にされていました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ福音書1:46)と、普通に言われていたのです。(主イエスがナザレ人イエスと呼ばれるとき、それは侮蔑の意味合いです)エルサレムとナザレでは歴然とした経済格差や教育格差がありました。ですからガリラヤの人々は主イエスがエルサレムの祭司たちの不正を暴き、加えてエルサレムの住民の多くに預言者として、教師として支持されたことを喜んだのです。

主イエスと弟子たちがガリラヤに帰ったとき、人々は主イエスと弟子たちは歓迎しました。でもそれはエルサレムの祭司の不正を暴き、議論では論破し、エルサレムに住む人々には預言者として教師として尊敬される、そんな地元の英雄として、だったのです。

そこで主イエスは早々にナザレを離れます。北に一キロほど下ったカナの町に入られるのです。このカナとはヘブライ語で「葦」を意味する言葉です。ナザレもカナもエズレル平原の葦の生える湿地帯の中の、多少盛り上がった丘の様な場所に建てられた町です。またこのカナの町で主イエスが最初の奇蹟、結婚式の祝いの席で水を葡萄酒に変えられた、を行われました。ではナザレよりもカナの方が、主イエスの言葉を正しく受け入れる人たちが多くいたのか。というと、ナザレよりは状況は良かったと思いますが、でも本来の正しい意味で主イエスの言葉が受け入れられたのか、と考えますと、やはり首を傾げざるを得ないのです。何故ならカナの人々は、以前に主イエスの奇蹟を間近で見ていたからです。つまりカナの人々は、主イエスの奇蹟を「見て」主イエスを信じていたのです。

信じているならなんでも良いではないか、と考えられるかも知れませんが、それではダメなのです。「信じる」という心の動きは葛藤を伴わなければ意味が無いのです。主イエスが肉体を持った神だということ、その起こされた奇跡、それらは私たちの認識や知性では理解する事が難しいのです。でも、それでも信じて受け入れたときに「私」は「私」の認識の限界を知ることになり、悔い改めがあり、躓きがあり、神の前に砕かれた魂が生まれるのです。受け入れがたい主イエスの言葉を受け入れる時に、私たちは正しく神の言葉を聞くのです。

でも、この時、カナに住む人々が正しく主イエスを改めて知ることのできる、一つで出来事が起こります(神がこの出来事をカナの人々に与えられた、とも読めます)。

一人のカファルナウムに住む王の役人が主イエスをカナに訪ねるのです。この「王の役人」という言葉は「王族の一員」という意味の言葉です。カファルナウムに住む王族とはヘロデ家のことです。ヘロデ大王の死後、イスラエルは領土は三つに別けられ、三人の息子によって分割統治されていました。そしてガリラヤとベレヤの地域はヘロデ・アンティパスが領主として治めていました。でも実質的には三人の息子の中でこのアンティパスが実権を握っていました。つまり当時のイスラエルの国王はこのヘロデ・アンティパスでした。そして聖書に記されている「王の役人」はその王族のメンバーを意味すると考えられます。となると、そんな権力者が田舎の貧しい町、カナに訪ねてくること、の異例さが見えてきます。でも、彼はどうしても、カナに出向いて主イエスに会わなければならなかったです。それは彼の息子が病気で弱っていたからです。彼はエルサレムで多くの病人を癒やした主イエスが、今、ガリラヤのカナに帰ってきた、という報告をカファルナウムの王宮で聞くのです。そして彼はカファルナウムに主イエスを連れ帰って、息子に触れての手当をして、病気を治して貰おうと、望むのです。カファルナウムからガリラヤまでは、ほぼ四十キロほど一日程度の道のりです。では主イエスは訪ねてきた彼になんと答えたのでしょうか。主イエスは役人に「『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた。」(ヨハネ福音書4:48)とあります。主イエスは「あなた」ではなく「あなた方」と話します。つまり、主イエスは目の前にいる役人ではなく、近くに集まって来ていたカナの住民に向かって話している、ということです。ここで主イエスはカナの人々の無理解を嘆かれているのです。役人はさらに主イエスに願います。「『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った。」(ヨハネ福音書4:49)そこで主イエスは「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」(ヨハネ福音書4:50)と話します。この「帰りなさい」は正確には「行きなさい」という言葉です。そして「生きる」という言葉(zao)は「命」そのものを意味する言葉であり、死とは真逆に位置する神が創造した命を意味します。

この言葉を聞いた時、役人は主イエスを神の子として信じるのです。彼はこの社会で大きな権力をもっています、多くの財産も使用人も、教育も教養も全て手に入れているのです。でも息子の病気を前にして、何もできない自分に気づかされます。彼は主イエスの「生きる」という言葉によって、引き戻されるのです。彼の中で主従が逆転します。自分が生きているのではなく、神に生かされている存在である事に気づかされるのです。そしてその神が「立ち上がって行きなさい」と話されるのです。だから彼は主イエスの言葉を信じて、一人でカファルナウムへ帰るのです。彼がカファルナウムに帰り着く途中、彼の家来が迎えに来て、役人の息子が生きている事を告げます。主イエスは「生きる」と話された時間に、息子が奇蹟的な回復を与えられたと聞かされます。彼は主イエスの言葉がその通りだった、と納得するのです。

主イエスがメシアであり、私たちは主イエスを通して神を知ることができる、神の愛を知ることができる、という事を、エルサレムにいるユダヤ人たちは受け入れる事ができませんでした。それは彼らが既に自分たちは神を知っている、神を正しく礼拝していると誤解していたからです。ナザレの人々は主イエスの父親を知っていたので主イエスを神から遣わされた方であると受けとめる事ができず、その言葉を正しく聞くことが出来ませんでした。カナの町の人々は、事前に主イエスの奇蹟を見てしまっていたが故に、正しく主イエスにたどり着く事ができませんでした。でも、王の役人も、先週、共に読みましたサマリアの人たちも、素直に主イエスを神からのメシアだと受け入れて、救われるのです。

私たちも同様です。私たちも肩の力を抜いて、気張ることなく、信じる事から始めればよいのだと、そう思います。自分が正しい、自分が優位な立場に在る、と考えるとき、私は相手を信じることが出来ないのです。私たちは果たして神よりも正しいのでしょうか。神より偉いのでしょうか。この世の何か、を信じるのではなく神を信じること。そして神の言葉である聖書に記された神の言葉を信じること。その時、主イエスは私たちに「行きなさい」「歩き始めなさい」と声を掛けて下さいます。その時、私たちの信仰は腑に落ちるのです。

「種を蒔く喜び」 2020/7/5

ヨハネによる福音書4:27-42

「目的を共有する仲間は脆いけど、過程を共有できる仲間は強い」という言葉を以前、雑誌に書かれた記事で読みました。確かスポーツの監督の言葉だったように思います。今の社会にあって、目に見える結果ばかりが求められる、という傾向があります。だから不正や捏造を働いても、結果が出れば良いという事になる。でも本来、チームの目的は、結果に至る過程で学び成長し高め合うことであり、愉しむ事に意味があるのだ、と、そんな内容でした。結果よりも過程が大事、という姿勢は私たちの信仰に於いても同様です。私たちは信仰を与えられ、既に神に依って救われています。でも、いつのまにか、自分が教会に導かれ神を知った、救われている、という結果に満足し、そこで留まってしまっているのではないか、と、そう思うのです。

今朝読まれました御言葉に描かれている主イエスの弟子たちも同様です、彼らは主イエスの近くにいてその行動を見、言葉を聞いているうちに、その完全さ、絶対性を見て安心し、まるで自分の信仰が既に完成してしまったかのような、錯覚に陥っているのです。そして、主イエスの伝道を支える事が自分の目的だと誤解した結果、彼らは、自らを省みることも覆す事もしなくなる。彼らの信仰の成長は止まるのです。では、主イエスは彼らに失望するのか、というとそうではありません。主イエスは奇蹟的な力を用いてサマリアの人々を回心へと導き、弟子たちに神の御子子が何処にあるかを明らかにします。弟子たちは自分たちの進むべき道を示されるのです。そして彼らは、自分たちがまだ途上にいる事を自覚させられるのです。

今朝、与えられました御言葉は、ヨハネ福音書四章二七節以下です。先週に引き続きヤコブの井戸の場面を共に読み進めることになるので、若干、説明が重複する事もあるかと思いますが、記憶と重ね合わせつつ、聴いていきましょう。

さて、主イエスと弟子たちはユダヤ地方からガリラヤに向かわれる際、サマリア人の住む地域を横切られた、と聖書には書かれています。この地域の気候は地中海気候で日中はきつい日差しと乾燥にさらされます。ですから労働にも移動には適していません。加えて夜になると強盗に襲われる危険があるので、彼らは早朝と夕方に徒歩で移動したと考えられます。ユダヤ地方からシカルまで七十キロ、シカルからガリラヤまで百キロほど、だいたい一週間ほどの旅程です。当時、一般にユダヤ人旅行者はヨルダン川沿いの道を使って、ゲネサレト湖まで下っていたのですが、主イエスと弟子たちはサマリヤ人の住む地域を横切ります。それは主イエスがエルサレムでの活動が、エルサレム神殿に仕える祭司たちやファリサイ派といった、ユダヤの宗教指導者たちの気に触り、緊張関係が生じたからだと考えられます。少なくともユダヤ人と対立しているサマリア人の地域を通って、自分たちの地元であるガリラヤに戻った方が、彼らにとって安全だったのです。つまり主イエスの言葉と行いは、エルサレムに住むユダヤ人たちには届かなかった、拒否されたばかりか、非難を浴びることとなったのです。

徐々に日が高くなり、弟子たちは主イエスをヤコブの井戸の近くに生えている木陰で休ませます。そして食料を調達する為に、一人一人別れて近く住むユダヤ人を探しに出かけるのです。主イエスは一人ヤコブの井戸と呼ばれる場所に取り残されます。シカルの町から東南に一キロ半離れた場所、山頂に以前サマリア人たちが神殿を建てたゲリジム山の麓です。そのサマリアの神殿も、この時から百年前に打ち壊されていますから、頂きには神殿の廃墟が残されているだけです。

たぶん、数時間も経ったころでしょうか、弟子たちがバラバラと帰ってきます。でもその時、彼らは、信じられない光景を目にします。井戸の端で主イエスが、サマリア人の、しかも婦人と話しをしているのです。当時ユダヤ人はサマリア人を蔑視していました。話しをする事も目を合わせることもしませんでした。サマリア人と関わるなら、汚がうつる、と考えていたからです。それだけではなく、主イエスが話していたのは婦人です。当時、男性が女性と公然と話しをすることはあまり宜しくない、と考えられていた時代です。加えて宗教的な事柄、信仰の事柄についても、学ぶのは男性の役割であって女性は家で、男性から聖書や律法の話を聞くだけ、エルサレム神殿で行われる礼拝も女性と子どもは神殿の内庭に入ることを許されず外庭から、聞こえてくる声や音を聞いていました。つまり男性以外は、かなり厳しく社会活動や宗教活動に関して制約を受けていたのです。にも関わらず主イエスはこの婦人と、熱心にやり取りをしている。聞こえてくる話の内容から推測するに、婦人は自分の信仰について主イエスに質問し、主イエスはその質問に親身に答えられているのです。

弟子たちは食料を確保してヤコブの井戸の近くまで戻ってきているにも関わらず、主イエスと婦人の近くよって行かないのです。まるでなかった事のように、遠巻きに様子をうかがいます。そして、この女性がその場を立ち去った後も、弟子たちは、一切、全く、主イエスを前にしても、この話題に触れないのです。「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった。」(ヨハネ福音書4:27)とあります。

弟子たちは、何処にでもいる一般的なユダヤ人男性です。ユダヤ人の家庭に生まれ、ユダヤ人の地域で教育を受け、ユダヤ人として何世代も継承し続けている習慣や伝統、考え方、価値観、宗教観に頭の先から足の先までどっぷり浸かって、今まで生きてきたのです。つまり、彼らはユダヤ人たちの抱えている偏見や差別からまだ自由になっていないのです。人は、そう簡単に子供の頃から受けてきた教育の影響を刷新する事はできません。たとえそれが主イエスの話す言葉から乖離している、明らかに間違った偏見、習慣であると分かっても、でも彼らは固持し続けてしまうのです。弟子たちは食事の用意をして、何事もなかったかのように、主イエスに声を掛けます。「ラビ、食事をどうぞ」(ヨハネ福音書4:31)。すると主イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(ヨハネ福音書4:32)と話されます。「弟子たちは、『だれかが食べ物を持って来たのだろうか』と互いに言った。」(ヨハネ福音書4:33)とあります。

弟子たちの態度を見て、主イエスはどう思われたのでしょうか。残念に思われたのでしょうか。そうではないのです。弟子たちが、自分とサマリアの婦人との会話に入ってこないこと、見て見ぬ振りをしていることについて、理解しているのです。ユダヤ人としてサマリア人に対して偏見を抱いてしまうのは、今は仕方がない、と、でも時が来たら、福音は異邦人にもサマリア人にも伝えられることになるし、彼ら弟子たちがその神の御心を、担う事になるのです。ですから主イエスは、ここで、主イエス御自身が十字架に架かり復活した後に起こることを、弟子たちに先に見せるのです。その恵みの素晴らしさを先に食べさせる、その旨味を味わわせるのです。どの様にして、でしょうか。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」(ヨハネ福音書4:35)

ユダヤ人は、そして弟子たちも、いつか神がこの世にメシア(救い主)を遣わし、この世を救うと信じていました。でもその時まで「まだ四ヶ月もある」つまり、まだ先だと考えていたのです。でも主イエスは、もう稲穂は実っている。刈り入れの時は近づいている、と話します。神が借り入れる稲とは、この世のすべての人に福音が告げられ、罪から救いだされる、そして愛がこの世に実現するという実りです。すべての人に、とは全世界の人に、という事です。ユダヤ人だけに救いが与えられるわけではありません。主イエスはサマリアの婦人に「救いはユダヤ人から来る」(ヨハネ福音書4:22)と話されました。確かに神はアブラハムを通して自らの姿をこの世に表し、モーセを通してイスラエルの民を導き、カナンに根付かせました。そしてダビデの家系の末に主イエスを生まれさせるのです。でも、そこで終わりではないのです。主イエスが復活した後、神は聖霊をこの世に送り、弟子たちによって世の隅々まで運ばれ、人々は聖霊と火によって清められ、神を知る者となります。救いはユダヤから始まって、すべての人が、つまり異邦人もサマリア人も神を知ることになるのです。

ユダヤ人の役割は、額に汗して荒れた大地を耕し、重い岩を動かし、柵を巡らし、水を引き、種を蒔く事です。そこから稲に穂がつくまでの四ヶ月間、一途に熱心に手を掛けます。でも、そこまでがユダヤ人の役割です、これから先、福音は異邦人に伝えられていきます。異邦人は労苦せずに実りを、つまり神の祝福を受けるのです。主イエスは弟子たちに問います。それは悲しむべき事なのか、空しいと感じる事なのか、神が刈り取る実りを私たちも喜ぶべきではないか。あなた方がこれから行うことは、これだと。刈り取った実りを自分に与えるのではなく、神に捧げるのだ、と、そこに本当の喜びがあるのだと、そう話すのです。そして主イエスは後に実現する異邦人伝道の恵みを弟子たちに見せます。

ヤコブの井戸で主イエスと話したサマリアの婦人は、抱えてきた水がめを井戸の近くに残したまま、走ってシカルの町に行き、人々に伝えます。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(ヨハネ福音書4:29)

彼女は過去に五人の夫と別れ、今は夫ではない六人目の男性の家で生活していた女性です。様々な事情があったにせよ、世間からは身持ちの悪い女性、素行の悪い信頼できないと世間ではレッテルが貼られていた事は推測されます。彼女も町の人々を避けて暮らしていましたし、町の人も彼女を避けていたのです。でも、その彼女の言葉を、シカルの町の人たちは信じてヤコブの井戸にやってくるのです。それだけではなく、彼らは主イエスをシカルの町に招き入れます。ユダヤ人である主イエスがサマリア人の町に招き入れる事など有り得ない事です。エルサレムでユダヤ人が拒んだ主イエスの言葉を、サマリア人たちは喜んで受けとめます。主イエスが聖書に書かれたメシアである事、約束された救いが間もなくおとずれる、という福音の言葉を信じるのです。シカルの町に住むサマリア人たちはこの婦人に話します。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(ヨハネ福音書4:42)このサマリアの婦人は主イエスと出会い、神を知り、神に向いて祈ることが出来るようになりました。それだけではなく、新しい共同体、祈り合う事のできる仲間をあたえられるのです。弟子たちは、この出来事を見て、主イエスが十字架と復活によって始められる新しい世界を、そして自分たちが担う異邦人伝道の在り方を、教えられたのです。

私たちも弟子たちのように、与えられた信仰に満足し、その場に立ち止まろうとするのではなく、サマリアの婦人のように福音の喜びを分かち合いましょう。この世に、神から遠い人はいません。逆に神から遠いと思われている人にこそ、私たちは使わされているのです。地を混ぜたことで神から呪われていると蔑視されていたサマリア人に、真っ先に福音が伝えられたように、神は私たちの想定を遙かに超えて、この世に関わられるのです。私たち信仰者はその神の業の中に用いられます。恵みをすべて神に捧げるために私たちは働くのです。

祈ります。