礼拝説教原稿
2020年6月
「礼拝する場所」2020/6/28
ヨハネによる福音書4:5-26
隠している訳ではないのですが、この礼拝堂、実は、昼寝をするのに最適な環境なのです。特に初夏、今頃の季節ですが、正面の扉と講壇の横の窓を開け放って風が通る様にして、長椅子の座布団を退けて横になると、直ぐにリラックスして眠くなります。たぶん、天井が高くて、閉鎖された感覚がないこと、あと、なんか安心感があるからかと、そう思います。牧師として仕事をしていて、たぶん唯一(?)のご褒美・特権は、いつでも好きな時に、早朝でも深夜でも、礼拝堂の椅子に座って考え事をしたり、黙想したり、昼寝できることだと、私は感じています。たぶん私たちはそれぞれ、安らげる場所を持っているのだと思います。例えば居間のテーブルだったり、会社の自分の机だったり、車の中だったり、近くの公園の樹の下だったり、リラックスできる場所です。そしてたぶん、今朝、読まれた御言葉の中に描かれているサマリアの婦人にとっての安らげる場所は、このヤコブの井戸だったのではないか、と、思います。
でもこの日、彼女がヤコブの井戸に水を汲みに行くと、そこに一人のユダヤ人が座っているのです。それだけではなく、事もあろうに、彼は話しかけて来るのです。彼女は当初、驚き、途惑うのです、が、彼女はその交わりを通して、徐々に慰めを与えられることとなります。主イエスとの交わりを通して、ニセモノではなく本物の、自分にとっての安らげる場所、居場所を見つけるのです。では、このサマリアの婦人は主イエスとの会話の中に、何を見いだすことが出来たのでしょうか。今朝はそのことを、共に聴いていきましょう。
さて、主イエスと弟子たちはユダヤ地方を離れてガリラヤに向かい、その途中でサマリアの町を横切ることになった、と聖書には書かれています(ヨハネ福音書4:3-4)。この事から、当時、主イエスと弟子たちが置かれていた状況が少しわかります。ユダヤ地方からゲネサレト湖周辺のガリラヤ地方に向かうユダヤ人たちは、エルサレムからエリコに下り、そこからヨルダン川に沿って上流に進み、ゲネサレト湖岸の町カファルナウムに入るルートを通っていました。それはぐるっと遠回りをするルートです。何故ならユダヤ人たちはサマリア人の住む地域に入ることを嫌ったからです。彼らはサマリア人とは口を利くことも、目を合わせることも汚らわしいこと、と考えていたのです。
主イエスと弟子たちは、しかし敢えてサマリア人の地域を通って、ガリラヤに抜けます。近道だったから、違います。主イエスと弟子たちがユダヤ人たち、特にファリサイ派の人々や祭司たちから、逃げなければならない状況に置かれていたということです。ユダヤ人より、まだサマリア人と関わる方が安全だった、ということです。でもなぜ、ユダヤ人はサマリア人を嫌っていたのでしょうか(詳しくは旧約聖書の列王記下十七章をお読み下さい)。その原因の発端は紀元前七三一年に遡ります。当時イスラエルは南ユダ王国と北イスラエル王国に分かれて統治されていました。そして、この北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされます。そこに住む住民の多くは捕虜(兵士・労働力)として連れて行かれ、入れ替わりにアッシリア人が入植者として北イスラエルに送り込まれました。このアッシリア人入植者とユダヤ人との間に生まれた子孫がサマリア人です。つまりユダヤ人とサマリア人は殆ど同じ人種です。それに、入植してきたアッシリア人たちはアッシリアの神を捨てて、イスラエルの神を信仰するようになり旧約聖書(モーセ五書)を聖典としました。だから信仰する神も同じです。言葉もこの地域で使われるアラム語を使います。では、仲良くすれば良いのでは、と思うのですが、人間の心というモノは厄介なのです。まったく自分とは別の何かを受け入れることは容易なのですが、自分と少しだけ違う何かを受け入れる事は難しいのです。
喧嘩をする相手は自分と似ている人、共通の利害や主張のある人です。遺産相続、家庭内暴力など血で血を洗う争いは血族間で生じるものです。ユダヤ人はサマリア人を、ユダヤ民族の血に他の民族の血を混ぜた者たち、汚れた者たちと言って毛嫌いするのです。
そして完全に両者の関係が訣別したのは、紀元前五三六年、エルサレム神殿の再建の出来事です。この時より少し前、バビロニア帝国によって跡形もなく壊されていたエルサレム神殿は、バビロン捕囚を解かれ帰国したユダヤ人たちによって再建されます。この時、サマリア人たちはエルサレム神殿の建設を手伝いたいと申し出ますが「一緒に働きたくない」と断られるのです。そこでサマリア人たちはゲリジム山に自分たちの神殿を建てて礼拝を捧げ始めます。このゲリジム山の麓に、今日の御言葉の舞台シカル、これは旧約聖書に書かれている言葉ではシュケム(現在のNablus)があります。
今日与えられました御言葉のサマリアの婦人の言葉「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(ヨハネ福音書4:20)の「この山」はゲリジム山のことです。サマリアの婦人は背後にそびえるゲリジム山を振り返り、主イエスに話した、という場面が見えてきます。
さて、御言葉に戻ります。主イエスと弟子たちはサマリアに入ります。でも直接、町には入りません。シケムの町から一キロほど東に離れたヤコブの井戸で主イエス一人をそこに残し、休ませ、弟子たちは目立たないように分かれて食料調達に出かけます。ユダヤ人が一団となって動くと、サマリア人を刺激することになるから、です。ヤコブの井戸に残された主イエスは一人、井戸の近くの木陰に座っています。そこには誰一人、人はいません。太陽が照りつける暑い時間帯に井戸から水を汲むという重労働をする人などいないのです。当時、水汲みは女性の仕事でした。シカルの町に住む多くの婦人たちは、早朝の涼しい時間帯に井戸に集まり水を汲むのです。でもその時、一人のサマリアの婦人が井戸にやって来ます。なぜか。彼女はその時間帯には、井戸の近くには誰もいないことを知っていたからです。彼女は誰にも会いたくなかったのです。
でも彼女が井戸に着くと、誰もいないはずのヤコブの井戸の近くに、一人のユダヤ人男性が座っていたのです。それだけでも驚くべきことなのに、その男は「水を飲ませてください」(ヨハネ福音書4:7)と声を掛けてきました。この井戸の深さは四十メートル(1935年の調査)あったと言われています。このユダヤ人は炎天下で疲れた表情をしている、でも井戸から水を汲み上げる釣瓶も縄も持っていない。たぶん喉が渇いていて、水を汲めないから、私に頼んできたのだ、彼女はそう察するのです。彼女は答えます。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(ヨハネ福音書4:9)意地悪い言葉です。なぜいつも、あなたがたユダヤ人は私たちを見下しているのに、こんな時には私に頼ろうとするのか、虫の良い話しだ、と彼女は突っぱねるのです。でもこのユダヤ人は続けて話します。「もし、あなたが私を知っているなら、あなたの方から私に水を求め、私はあなたに命の水を与えるだろう。」彼女は反発します。「あなたは釣瓶も紐も持っていない。どうやって水を汲むのでしょうか、この井戸の水は、私たちの父祖ヤコブの時代から何百年も私たちを生かして続けてきた私たちの命の水です。あなたは御自分がヤコブよりも偉いというのですか。」ユダヤ人は彼女に答えます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ福音書4:13-14)
この言葉を聞いて、彼女はこのユダヤ人が預言者か賢者、だと気づきます。この後から彼女は主イエスに「先生、主人」という意味の言葉(kurios)をつけて呼ぶようになります。
「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネ福音書4:15)主イエスの言葉を聞いて、彼女は意地の悪い、狭量な自分に、自分の心が渇いていることに気づかされるのです。
主イエスは彼女に話します。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(ヨハネ福音書4:16)彼女は答えます。「わたしには夫はいません」主イエスはその答を知っていました。そして彼女の今の状況を言い当てるのです。彼女には五人の夫がいたのです。でも今は別れて、夫ではない男性と一緒に暮らしています。彼女の心は枯渇しているのです。何人もの男性に裏切られたのかもしれません、死別も経験したのかもしれません。それはわかりません。でも「今」は、仕方なく、生活する為に夫ではない者と生活せざるを得ないのです。彼女に居場所は何処にもありません。家のなかでも、世間からも隠れる様に生きなければならない。彼女にとっての唯一の安らぎは、水を汲むためにたった一人で家を出掛ける時、ただ一人でヤコブの井戸に釣瓶を落として引き上げ、水瓶に水を汲んでいる時だったのです。たとえそれが炎天下での重労働だったとしても、ここだけが彼女の居場所だったのです。そして作業を止め見上げると、目の前にゲリジム山がそびえています、その頂上には、今はもう廃墟になっている昔のサマリア人が作った神殿の城壁の跡が見えます。彼女はいつも一人で静かに廃墟になった神殿を見上げて「ここにいた神は何処に行ってしまったのか」「私は何処にむかって、祈れば良いのか」「そうすれば救われるのか」と絶望と枯渇の日々の中で考えていたのです。ですから目の前の主イエスを見いだした時、彼女は尋ねるのです。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(ヨハネ福音書4:20)
「主よ、私に祈らせて下さい。祈る場所、礼拝を捧げる場所を教えて下さい、この枯渇した魂に、命の水が与えられる為に如何すれば良いのか、教えて下さい」と彼女は主イエスに求めるのです。主イエスは答えます「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」(ヨハネ福音書4:21)主イエスは彼女に、時が来たら、神はメシアを通して自らの姿を明らかにする。そして、その時から、すべての人は自らの霊と真理をもって、神殿ではなく、神に向かって直接、礼拝を捧げる事となる、と話します。
そして、その聖書に示されているメシアとは、自分の事だと、証されるのです。
サマリアの婦人は主イエスに出会うことによって、ようやく祈ることができるようになりました。それは彼女が正しい、祈る方向を見いだすことができたからです。彼女は、自分自身の安らげる場所を見つけます。それは神殿でもヤコブの井戸でもなく、目の前におられる主イエスに心を向けたとき、何処でもその場所が本当の居場所になると、気づかされた、のです。
私たちが祈る時、私たちは神殿に向かって祈りません。その背後におられる神に向かって祈りを捧げるのです。教会の礼拝はその祈りを向ける方向の精度を高めるために、聖礼典・式次第・行事・組織を準備しています。でもそれは霊と真理をもって、神に心を向け祈るための仕組み(装置・施策)に過ぎません。他のもっと効果的な手段があれば、積極的に変えていくことも必要です。でも今の時点で、教会の二千年の試行錯誤から、今の形へと辿り着きました。でも伝統を踏襲しつつ変化もさせていく、それは今を生きる私たちの課題であり、楽しみなのでしょう。共にここで、礼拝を捧げましょう。形式ではなく心から、毎回、新しい心と魂を以て礼拝を捧げましょう。
変化を愉しむために 2020/6/21
ヨハネによる福音書3:22-36
最近、ようやく世の中が動き出してきたのか、道路を走る車の数も増えてきました。それはとても喜ばしいことですが、でも困るのは、道路の渋滞がまた起こり始めたことです。渋滞にはまったとき、右の車線に入るか左の車線に入るか、私はいつも迷います。でも大体、私の選んで入った車線は動かなくなり、反対の車線が進み始めます。そんな時、私は悔しいと感じます。別にどちらの車線を進んでも、目的地に着く時間は殆ど変わらないのです。じゃあ何故悔しいと感じるのか。それは他の誰かが自分よりも得をしている、という事に対して、苛立っているのです。自分よりも他の誰かが得をする、優位に物事を進めている、という事を、私たちは不愉快に感じます。他人を羨ましく思う感情、嫉みを抱きます。パウロはロマ書で「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ロマ書12:15)と勧めます。でも、どうでしょうか。共に泣くことはできるけど、共に喜ぶ事は難しい、というのが私たちの本音なのではないか、と、そう思います。
今朝、与えられました御言葉の中で、洗礼者ヨハネは彼の弟子たちから、主イエスの活躍している様子を聞いて「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ福音書3:22)と話します。当時、ユダヤ人の間だけではなく異邦人の間でも洗礼者ヨハネの名は偉大な預言者として広く知られていました。対して主イエスはまったく、と言って良いほど、まだ世間では無名の存在でした。でも、その主イエスは洗礼者ヨハネを差し置くような形で、人々に支持され始めるのです。多くの人々が主イエスの下に向かうようになり、その一方で、洗礼者ヨハネの下に集まってくる者たちは減っていくのです。では、洗礼者ヨハネにとって、それは不快なことだったのでしょうか。でも、洗礼者ヨハネは喜ぶのです。ヨハネは人間ができていたから、謙虚で柔軟だったから、他人の喜びを自分の喜びとする事ができたのでしょうか。そうではありません。彼は神に信頼していたのです。だから彼は自分の役割が分かっていた。その結果、主イエスの働きを、自分の事の様に喜ぶ事ができたのです。頑張って喜ぶ、のではなく、心からトナリビトの喜びを喜ぶために、共に御言葉に聴きましょう。
さて、今日の御言葉の場面について、もう少し詳しく見ていきます。まず洗礼者ヨハネの行っていた洗礼とは何か、についてです。
洗礼者ヨハネの活動について、聖書は彼が、彼の元に集まってくる人々をヨルダン川の水に浸し、洗礼を授けていた、と記します。ヨハネは人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ福音書3:2)と宣言し、この言葉を受けて、イスラエル全土から大勢の人々がヨハネのもとに集まり、罪を告白し水による清めの洗礼を受けるのです。その中に混じって「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来た」(マタイ福音書3:7)とあります。ヨハネは彼らを叱責します。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」(マタイ福音書3:08)なぜ、ヨハネは彼らを叱ったのか、そこに欺瞞があったからです。ファリサイ派とは民衆に対して聖書の御言葉や律法について教える役割を負っていた、いわば教師のような立場にある者たちです。そして、サドカイ派とはエルサレム神殿で祭司として典礼を行う働きを負っていた人々です、彼らは、そもそも洗礼者ヨハネによる洗礼を否定する立場にありました。なぜなら、彼らはそれまで、エルサレム神殿で神に犠牲を捧げ、様々な典礼を行い、礼拝を捧げるならば、なにか罪を犯したとしてもエルサレム神殿に祀られている神、つまり主によって赦される、と人々に教えていたからです。ですから、きちんとエルサレム神殿で礼拝を捧げている彼らは、自らにからに罪など負ってはいないことになっていた、のです。でもその彼らが洗礼者ヨハネの元に来て自らの罪を告白し、洗礼を受けて罪を洗い清めて貰おうとしている。その矛盾を洗礼者ヨハネは指摘するのです。
例えば「このお札を買えば、家内安全、商売繁盛、満願成就」と言ってお札を売り、商売をしていた人たちが、隠れて、神に礼拝を捧げるために教会に来た、と言うようなものです。そこには矛盾があります。彼らの心情も理解できますが、でもやはり無責任な行いです。
ファリサイ派やサドカイ派の人々も、エルサレム神殿に犠牲の牛や羊を捧げ、典礼を行っても、自らの罪が赦される訳ではないと分かっているのです。儀式や風習が悪いわけではなく、それが形骸化・形式になり、そこに心が通わなくなったことに問題があるのです。表も裏も罪がベッタリ張り付いているのに、その罪から目を背けて、あたかも自分は無垢だと主張している、その矛盾に彼らも苦しんでいた。彼らもやり直したいと望んでいたのです。つまり洗礼者ヨハネが人々に施した洗礼、つまり水で行う洗礼とは、神の前に立つためにまず、自らの罪を洗い清めるための準備としての洗礼だった、ということです。洗礼者ヨハネも、自らの行う洗礼について、それが準備だと「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」(ヨハネ福音書1:31)と話すのです。
さて、今日の御言葉の箇所に入ります。「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。」(ヨハネ福音書3:22)もともと洗礼者ヨハネは、ヨルダン川が死海に流れ込む河口の近くの町、ベタニアを拠点にしていたと聖書には書かれています。「川の向こう」と表現されますが、エルサレムから見てヨルダン川の向こうという意味です。そして二十三節には「サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。」(ヨハネ福音書3:22)とあります。アイノンのアインとは泉という意味ですから、この場所は泉があり豊かな水が湧き出る土地だったと思われます。洗礼者ヨハネと彼の弟子たちはこのアイノンに移り、集まって来る人々に洗礼を授けていました。でも、徐々に集まってくる人々の数が減ってくるのです。そして洗礼者ヨハネの弟子たちは、その原因を突き止めて、ヨハネに訴えます。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」(ヨハネ福音書3:26)
主イエスと弟子たちはこの時、洗礼者ヨハネと同じように、集まってくる人々を水に浸し、洗い清める、水による洗礼を施していました。これは推測ですが、この地域で水が豊富な場所というと、ヨルダン川の河岸だと考えられます。アイノンも、特定はされていませんが、ヨルダン川からあまり離れていない土地だと考えられていますから、彼らは比較的近い場所で、同じように、集まってくる人々に洗礼を授けていたと考えられます。でも、主イエスの方に多くの人々が集まり始めた。洗礼者ヨハネの弟子たちにとって、これは許せないことでした。洗礼者ヨハネはユダヤ全土だけでなく異邦人にも名前を知られているほどの、いわば有名人です。それに対して主イエスは洗礼者ヨハネよりも後、最近になって活動を始めた、まだ駆け出しの新人です。何より、洗礼者ヨハネが始めた洗礼を模倣して、つまり二番煎じをして人々の注目を集めている。弟子たちは腹を立てるのです。それともう一つ、彼らが憤慨した理由があります。それは「ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。」(ヨハネ福音書3:25)という御言葉に現れています。実は主イエスのもとで行われている洗礼は、主イエスの手に依ってではなく主イエスの弟子たちによって行われていたのです。「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」(ヨハネ福音書4:2)と聖書にはわざわざ書き加えてあります。つまり「あるユダヤ人」はヨハネの弟子たちに「何故あなた方の先生である洗礼者ヨハネは自ら洗礼を授けるのに、イエスの方は弟子たちが洗礼を授けるのか、洗礼が蔑ろにされているのではないか」と論争を持ちかけたのです。洗礼者ヨハネの弟子たちは、洗礼者ヨハネにこの事を報告します。
では、洗礼者ヨハネは憤慨したのか、というと、そうではありません。彼は喜ぶのです。私は花婿の介添え人で、花婿の声が聞こえると大いに喜んでいる。「わたしは喜びで満たされている。」(ヨハネ福音書329)と話すのです。
もともと、洗礼者ヨハネの施していた洗礼は、水による清めです。神の前に立つ前の準備として、身を清め、罪を告白し悔い改める事によって心を清めるための行いです。そしてこの時、主イエスの下で施されていた洗礼も、準備のための水による清めです。ですから主イエスが行うのではなく、弟子たちによって行われていたのです。洗礼者ヨハネはこう話します。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ福音書3:11)私は水で洗礼を授けるが、その方は聖霊と火で洗礼を授ける、その方こそ、主イエスだと、洗礼者ヨハネは話すのです。では主イエスによる、聖霊と火による洗礼とはなんでしょうか。私たちはその様子をペンテコステの出来事の中に見ることが出来ます。主イエスは十字架に架かり、三日目に復活されます。そして四十日にわたって弟子たちに現れ天に上り、十日の後に弟子たちの上に聖霊が下ります。「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」(使徒2:3)と聖書には書かれています。これが聖霊と火に拠る洗礼です。私たち人の罪は、ベッタリ張り付いたコールタールのような黒い油のようなものですから、水を用いても、何を用いても洗い流す事はできないのです。では、私たちにはどうする事もできないのか、救われないのか、というと、そうではありません。神は一つの手段を示されます。つまり完全に火で焼いてしまえば良い、犠牲として捧げられた牛を焼き尽くして神に捧げるように、私たちは聖霊の炎に焼かれることによって、一度、死を味わい、でもそこから新しくされる、新しい命を与えられるのです。私たちの代わりに主イエスは十字架に架かり死に、そして復活したように、私たちも聖霊の炎で焼かれて清められて、そこからまた、主イエスと共に立ち上がり、新しい命を与えられるのです。洗礼者ヨハネが主イエスの活動を聞いて喜んだのは、自分に託されていた役割が、無事に終わったと確認できたからです。洗礼者ヨハネの役割は、人々が神の前に立つ準備をし、神、つまり主イエスに準備された人々を渡すことだったのです。
教会で私たちが受けた、そしてこれから受ける洗礼は、水による清めと、聖霊と火による洗礼です。教会と牧師にできる事は、洗礼を受ける人の悔い改めを聴き、共に祈ること、そして洗礼盤からの水を、その人に注ぐことです。そのあと主イエスが水からその人に聖霊の炎で焼いて下さる。その様にして洗礼が行われるのです。洗礼者ヨハネは信仰によって神から与えられている自らの役割を知っていました。だから、主イエスの活動を喜ぶことが出来たのです。私たちも同様です。神は私たち一人ひとりに、それぞれに役割を与えられます。それは隣にいる方の役割とは違うのです。比べることも取り替えることもできないのです。にも関わらず、それを羨んだり、嫉んだりしてしまう。そこに私たちの不信仰があります。神は私たちを一人ひとり、一つの個人として創造されました。一人ひとりに霊を注がれたのです。私たちは、その神の創造の秩序を尊重して、感謝して生きる、神の前に聴き、与えられた役割を充実に行うのです。
「神へと続く道」2020/6/7
ヨハネによる福音書14:8-17
先日、久し振りにユニクロに行って、暖かい時期に着る服を買いました。入り口が一箇所に狭められて、入り口では体温を測り、手のアルコール消毒を受ける、といった、厳戒態勢での販売が行われていました。まだ、そんなに混んでなかったのですが、そんな店内で小さな女の子の叫び声が響きました。見ると彼女は自分の身長と同じくらいの大きな紙製の袋を引きずって歩いていて、父親がそれを取り上げようとしていています。彼女は「やだー自分でもつ」と必死に抵抗しています。その様子を周りの人たちも微笑ましく見ていました。以前、私は教会付属の幼稚園の遠足とか、お泊まり会の手伝いをしたことがあります。そのときの経験ですが、子供の手にしているおもちゃを取り上げるとき、大まかに三つの反応があると教えられました。まずは何があっても手を離さない子ども、ご飯だろうがお昼寝だろうが誰が何と言っても自分の気に入ったおもちゃを離さない、近くに置いておかないと気が済まないタイプです。でも案外と時間が経つと興味を失います。もう一つは、別のおもちゃを渡すと手放すタイプ。「こっちのおもちゃの方が楽しいよ」と話すと手にしているおもちゃを手放します。そして、最初からあまりこだわらないタイプ。「それを貸して」と話すと素直に話しを聞いて手にしているおもちゃを渡してくれます。子供だけではなく大人でも同じように、物事に対して固執する人、すぐに代替案を考える人、あまり物事に固執しない人、がいるように思います。心の在り方でも、思いを引きずる人、すぐに考えを切り替えられる人、あまりこだわらずに相手に合わせる人がいる様に思います。
先ほど読みました御言葉に描かれているフィリポは、あまり物事にこだわらず、自分を相手に合わせる人のようです。でも、主イエスはそんな彼を叱ります。なぜ彼は叱られたのか。その角度から今朝与えられた御言葉を読んでみますと、主イエスの弟子たちに対する、深く強い愛情が見えてきます。
さて、今日の御言葉の場面ですが、少し遡って読む必要があります。場面は最後の晩餐の席です。十字架に架かられる前の晩に、主イエスは弟子たちと過越祭を記念する食事を取ります。その席で「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』」(ヨハネ福音書13:33)と話します。この言葉を聞いて、弟子たちは戸惑い騒然とします。いったい先生は何を話しているのか、何の事なのか、と弟子たちは途惑います。そこで弟子たちの中で一番弟子と見做されていたシモン・ペテロが口を開きます。「主よ、どこへ行かれるのですか。」(ヨハネ福音書13:36)
聖書に記されているエピソードから読み取れるペトロの性格は、率直であまり熟考する事なく、自分の感情そのままに考えるタイプです。彼の生来の仕事はゲネサレト湖の漁師です。当時、子は親の仕事を継ぐことが普通だったので、彼の親もその親も漁師です。彼の言葉や行動から労働者の気質というか、短気で人情家、お節介だけど悪気はない、という印象が感じられます。(肉体労働者だから短気な性格というのは偏見ではなく、理にかなっています。常に野外の危険と隣り合わせの仕事環境では、気が長いと怪我をします。加えて仲間を信頼できないと仕事になりません。その様な生活の積み重ねが性格を形成します。)そしてペトロは、主イエスのこの言葉が尋常ではない事に、薄々気づいているのです。彼は言葉には出しませんが、この後、主イエスが捕らえられる、投獄される、という事を暗に話しているのではないか、と受けとめるのです。彼は高揚し「あなたのためなら命を捨てます。」(ヨハネ福音書13:37)と訴えるのです。でも主イエスは「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(ヨハネ福音書13:38)と彼に答えます。その思いは嬉しいけど、今はあなたが命を落とす時ではない、と諭すのです。
そのあと、トマスが口を開きます。彼は「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハネ福音書14:5)と話します。トマスは常識的で理知的、合理的で立証主義者として聖書には描かれています。彼について印象が深いエピソードは、彼が主イエスの復活を疑った場面でしょう。主イエスが弟子たちの前に復活の姿を見せた時、トマスはその場に居合わせないのです。彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ福音書20:25)と話します。この出来事から彼は「疑い深いトマス」と呼ばれています。あともう一つ彼の性格を表すエピソードがあります。主イエスがナザレにいるとき、エルサレムの近くの村ベタニアに住むラザロの命が危ないとの知らせが届きます。この時、主イエスは既に祭司たちに命を狙われていましたから、エルサレムに向かうなら、危険な目にあうことは十分に予想されていました。でも主イエスはベタニアに行くと弟子たちに話します。そこでトマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ福音書11:16)と独りごちるのです。懐疑的な皮肉屋、そう書くと取っつきづらい性格のようですが、彼ほど主イエスの言葉とその裏側の意味を深く考えようとした者はいない、と思います。斜に構えながらもトマスは主イエスを心配しているのです。そして彼は主イエスを信じ切ることの出来ない自分に苛立って、苦悩している、そんな印象を受けます。主イエスは彼に対して「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ福音書14:6)と話します。この世の知識、手段、手段によって神の真理に至ることはできない。「わたしが道だ」だと話すのです。まず私を信じることから始めないさい、と主イエスはトマスを諭すのです。
さて、ようやく、今朝与えられた御言葉に入ります。フィリポは主イエスに「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(ヨハネ福音書14:08)と話します。この「示す」(deiknuo)という言葉は「見る」とか「打ち明ける」という意味の言葉です。そして「満足」(arkeo)は「充分」とか「足りる」という意味の言葉です。つまり彼は主イエスに、「私たちに神を明らかにしてください、それで充分です」と答えるのです。
フィリポのことを聖書は物わかりの良い、誰よりも親しみやすい、自分を相手に合わせることが出来る性格として描いています。相手の意を汲む優等生タイプ、でも彼は敢えて自分から前に出ることはしません。主イエスがエルサレムの境内で人々に話された時、その話を聴いた数人の異邦人が主イエスに会わせて欲しいとフィリポに頼みに来ます(フィリポが頼まれやすかったからか、それともギリシャ語読みの名前だったからか)。でもフィリポは直接、主イエスに頼みに行くのではなく。その話しをアンデレに伝え、二人で主イエスの所に行くのです。そんなフィリポでも「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と主イエスが話した言葉を聞いて、やはり動揺したのではないかと思います。でも彼は自分の心の想いを表に出すのではなく、それでも主イエスに気遣うのです。ペトロの様に「あなたと一緒に行く」と駄々を捏ねることもなければ、トマスのように「その道を私に教えて下さい」とも要求しない、彼は「今までの通りで充分足りています」と答えるのです。彼は主イエスの行くところに自分も行こうとは望まないのです。素直に、「先生がそう話されるなら、その通り、それ以上でも以下でもない」という姿勢を貫くのです。彼は物わかりが良い態度を崩さないのです。では主イエスは、自分に従順に従おうとするフィリポを褒めたのか、というと、そうではありません。そうではなく叱るのです。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(ヨハネ福音書14:09)主イエスはフィリポに、自分を相手に合わせるのではなく、自分の目で見て、自分の心で捉えなさいと話します。主イエスは彼の、そんな姿勢を良しとはしないのです。主イエスはフィリポに、もっと神に望みなさい、もっと神に求めなさいと話します。神に自分の願いを求めていない、何も要求しないという姿勢は、逆に神の力を軽んじる事、その存在を信じていないことと同じだと、主イエスはフィリポに「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ福音書14:13)そう話されるのです。
この主イエスの言葉について、私は幼い頃から、違和感を感じていました。主イエスの名によって神に願い祈るなら何でも叶えられると、ここには書かれているからです。そんな事はないだろう、どんなに神に祈っても、願いが叶わないことなど沢山ある、逆に叶う願いの方が少ないのではないか、と。少なくとも私は、この主イエスの言葉を信じる事が出来ませんでした。でも主イエスは、だからこの言葉を敢えて話されているのだと、主イエスとフィリポとの関わりを通して、今は、分かります。私たちが神に何の期待もしないことは、神を侮っていること、諦めていること、と同じなのです。神を馬鹿にしている、舐めていることと同じなのです。そうではないのです。私たちは神の前に、もっと我が儘で、駄々っ子で良いのです。私たちは神を探し求め、疑い、追求しても良いのです。神は、そんな私たちの浅知恵で暴かれるような薄っぺらな方ではないのです。もし、それでも「神などいない」と結論づけるなら、その神は本当の神ではなく、自分の頭の中で作りだした偶像です。私たちが重い鋼鉄製のハンマー(Sledgehammer)を振り上げて、神の存在という壁に叩き付けても、かすり傷すらつけられないのです。
最初に、おもちゃを取り上げられた子どもの反応について話しました。彼らの中で一番手間が掛かるのは、おもちゃを手離さない子どもです。自分で判断出来る子どもは、生意気ですが放って置いても自分で解決します。でも一番気に掛けなければならないのは、素直で従順な子どもです。彼は相手に気遣い、周りの雰囲気を読み、よい子を演じるのです。言われたことをして、評価に従い、期待に答えようとする。でもそれは神が与えてくれた命の使い方とは乖離しているのです。神は私たちを自由な存在として創造されたからです。ちゃんと生きること。きちんと自分で息をする、それが命の使い方だからです。神の前に我が儘でも良いのです。神は受けとめて下さいます。
礼拝説教原稿
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