礼拝説教原稿
2020年5月
「愛を規範とする」 2020/5/31
ヨハネによる福音書14:15-27
今朝、私たちは聖霊降臨日の礼拝を共に守っています。この聖霊降臨日とは、主イエスの弟子たちに神の力が働き、聖霊が一人ひとりに下り、彼らが聖霊に満たされた出来事を覚える礼拝です。彼らはこの時から主イエスの伝えた福音(Good News)を、自分たちの足で人々に伝える働きを始めます。そして約二千年後の現在、私たちは、弟子たちが最初に受けた福音と同じ福音を与えられています。つまり聖霊降臨日の礼拝とは、私たちが集う教会が始まった日、誕生日を覚える礼拝です。この時の出来事を聖書はこう記します。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:1-4)最初に書かれている「五旬祭」とはユダヤで行われる春の最初の収穫を祝う祭です。この祭は過越祭の五十日後に行われるので、ギリシャ語の五十番目の日という意味の言葉「ペンテコステ」と呼ばれる様になりました。主イエスは過越祭の最後の日に十字架に掛けられ行きを引きとられ、墓に収められ、三日目に復活され弟子たちの前に現れます。そして四十日の間、弟子たちに現れ、天に帰られた、と聖書には書かれています。その後、地上に残された弟子たちは孤児のようにこの世に取り残されるのです。
さて弟子たちは、エルサレムの中にある集会所に集まっていました。主イエスが天に戻られた後、今度は自分たちが捕らえられ、牢に入れられるのではないか、と恐れるのです。彼らは息を潜め家の窓を締め切って一所に集まり、祈り続けます。そして十日の後、つまりエルサレムで五旬祭が盛大に祝われている最中、神は弟子たちに現れるのです。突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえます。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留まるのです。聖書には「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:4)と記されています。この奇蹟的な出来事の意味は、彼らが突然、外国の言葉を話せるようになった、という事ではありません。弟子たちがこの後、それぞれがイスラエルを離れ、異邦人の地に分散して出向き、そこに住む人々にその地の言葉で福音を伝えた、という事を暗示しているのです。
でも一つ疑問に思うことがあります。なぜ、聖霊を受けた彼らは、主イエスから与えられた福音を、すべての人に伝え始めたのでしょうか。弟子たちの目の前で十字架につけられて死んでしまった主イエスは、復活し、彼らの目の前に現れました。弟子たちにとって、それだけでも十分満足できる結果だと思います。何故なら、エルサレム中の人々が糾弾し罪人として十字架につけた主イエス、つまり自分たちの教師は、なにも間違っていなかったと明らかにされたからです。主イエスも天に戻られたことだし、解散して、それぞれがそれぞれ元々生活していた場所に戻る、という選択を弟子たちがしたとしても、なにも不思議ではない、と思えます。そもそも彼らは主イエスに従う前、祭司や律法学者といった人々に対して指導的な立場の人物だったとか、教師を生業にしていたわけではないのです。例えばペトロの生来の仕事はゲネサレト湖の漁師、つまり僻地で働く一人の労働者です。「職業に貴賎なし」ですけど、少なくとも誰かに何かを指導したり教えたりするスキルをペトロが持っていたとは思えません。それに聖書についての知識にしても、一般的なユダヤ人男性が得ていた知識程度だったと思われます。にも関わらず、彼らは、聖霊を与えられた後に、主イエスから伝えられた福音を、自分たちの足と言葉でユダヤ人者会だけでなく、異邦人社会にも伝える働きを始めるのです。何が彼らを変えたのでしょうか。では彼らに注がれた「聖霊」とは何なのでしょうか。
主イエスは十字架に掛かる前の晩に、弟子たちと晩餐の時を持ちます。そこで弟子たちに聖霊について話します。それが、今朝、読まれました御言葉の場面です。ここに、聖霊について理解するための四つのポイントが記されています。まず主イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちとの離別を伝えます。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。」(ヨハネ福音書13:33)そして、その後に起こることを話すのです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(ヨハネ福音書14:16-17)この真理の霊が、聖霊です。主イエスはこの聖霊を弁護者(parakletos)と呼びます。その意味は「支援のために呼び寄せられた弁護者」です。弁護者は偽証する事なく真実を真実として話します。その様にして被告を助けるのです。つまり聖霊は、この世の評価する正義とか、価値判断、もちろん権力者への忖度でもなく、神の前に於ける絶対的な義、を明らかにします。だから主イエスは聖霊を「真理の霊」と呼ぶのです。
二つ目、主イエスは、この聖霊を「この方」と呼びます。私たちは聖霊というと、なにか私たち人間とは別の、意思の疎通もできない「霞の様な何ものか」を思い浮かべるのです。でも聖霊は違います、私たちと関わって下さる方です。私たちは聖霊に話しかけ、その声に耳を傾ける事ができます。聖霊は生きています。直接、言語を用いてお互いの思いを伝達できるか、は重要な問題ではありません。例えば深い祈りの中で与えられる気付き、友人や家族との関わり、風に揺らされる樹木のさざめき、そのような非言語的なメッセージを介しても、お互いの思いを伝え合うことができるからです。
三つ目、主イエスは「永遠にあなたがたと一緒にいる」と話します。つまり聖霊との関わりは永遠に続くということです。聖霊は私たちのこの世の命が終わっても、私と聖霊の関わりは終わらない、と、そう話されるのです。最後に主イエスは弟子たちに「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と話します。弟子たちはこの聖霊の働きによって、彼らが主イエスと共にいたときに彼らに話した言葉、行い、祈りについて、その意味を理解するのです。私たちも同様です。私たちが聖書を読むとき、私たちの耳元で聖霊が囁きます。私たちは聖霊の助けによって始めて聖書を理解する事ができるのです。
でも、聖霊が遣わされるための一つの条件を主イエスは提示します。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(ヨハネ福音書14:15)と話さるのです。この「わたしの掟」とは十三章三十四節の言葉です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ福音書13:34)「あなた方が私を愛し、あなた方がお互いに愛し合うなら」わたしはあなた方の間に聖霊を送る、と主イエスは話されるのです。この愛とは、人間的な愛憎とか嗜好の類いではありません。「目の前にいる相手と関わり続けること」です。お互いの関係が良好ならば、それは安易です。そうではなく、たとえその人と敵対していたとしても、関わり続けることです。
そして「関わる」とは、私が自分の力で、相手のために何ができるか、という事ではありません。私たちは所詮人間ですから、誰かに何かをしてあげるなんてことはできません。私たちにできる唯一の、そして最良の行いとは、その相手と神を結ぶことだけです。あとは神がその人を導いて下さる。私たちはその神に委ねるのです。つまり、その人に神の祝福が与えられるように、心から祈る、それが主イエスが話される愛です。この愛をあなた方の命の規範としなさい、と主イエスは弟子たちに話すのです。そしてあなた方が、この世にあって愛を実現する時に、その助け手として聖霊が与えられる、と話されたのです。主イエスはこの様に話します。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ福音書14:20-21)私が主イエスを愛するならば、主イエスは私を愛して下さり、神も私を愛して下さる。まるで強固な連結器で繋がれた機関車と貨車の様に、私たちは聖霊によって主イエスと神と固く結ばれるのです。正直、私たちは敵対する者を呪うことはあっても、その人に神の祝福が与えられるように、と祈る事は困難です。でも、聖霊は私たちに力を与えて下さいます。私が敵を許す事が出来なくても、神はその人を赦されるのです。
先ほど私は「なぜ、聖霊を受けた彼らは、主イエスから与えられた福音を、すべての人に伝える働きをし始めたのか」と話しました。でも彼らは、聖霊を与えられたから伝道を始めた、のではないのです。弟子たちは主イエスの課した新しい掟、つまり互いに愛し合う事を始めたのです。「一同が一つになって集まっていると」(使徒2:1)。と書かれている様に、彼らは愛によって一つになりました。その交わりの中に、聖霊が与えられたのです。そして彼らその輪を広げていきました。ユダヤ人の間だけではなく異邦人の間にも広げていきました。それが結果として、福音を伝道する事になりました。人と人とが主イエスの名によって神に一つの祈りを捧げ、一つとされるとき、聖霊はそのただ中に与えられるのです。私たちも聖霊を受けましょう。そこに平和が与えられます。
「渇いている者は来なさい」2020/5/24
ヨハネによる福音書7章32-39節
使わない道具は錆びます。少し前、車の簡単な修理をしていて、特殊なプライヤーが必要になりました。たしか工具箱にあったな、と探して見つけました。でも、見事に錆びていて、ピクリとも動きません。しょうがないから軸の部分に556(潤滑油)を吹いて、少しずつ何度も何度も動かします。ようやく使えるかな、という所で指を挟んで、指の腹に血豆をを作ってしまいました。私たちの心も、使わないと動きが鈍くなります。最初は感動した出来事も、習慣化し日常になってしまうと、ただの手続きになってしまいます。そして、私たちの信仰も同様です。使わないと錆びてしまいます。錆びるだけではなく変質してしまうことも、時々あります「似て非なるモノ」に変わってしまう事もあるのです。では、自分の心に内にある信仰を、いつも新鮮に保つ為にはどうすれば良いのか。答は簡単です、使えば良いのです。自分の内に収めている、金庫に大事に仕舞っている信仰を外に出してみる。例えば、一人で祈るのではなく誰かと一緒に祈る。誰かと一緒に聖書を読んでみる。(「Zoom飲み会」なんてモノが流行っていますが「Zoom聖書を読む会」なんて言うのも良い企画だと思います。)自分の信仰の証しを文章にして書き、誰か交換する。それぞれが生活している場所で、どんな手段でもよいから、自分の内にある信仰を外に出してみる。すると、信仰はまた新鮮な状態に戻ります。とは言え、やはり、そこには痛みもあります。やっと動いたプライヤーで指を挟んで血豆を作ったように「動く」なら、痛むことも疲れることも伴います。歴史書を紐解くなら、教会は社会からの拒絶やら迫害という経験を幾度となく受けてきました。でも、マイナスよりもプラスの方が大きいと、これだけは自信をもってお勧めできます。生き生きとした信仰は魂に活力を与えます。生きる力を得る、水となりパンとなります。
信仰を錆びさせない為に、私たちはどうすれば良いのか。今朝は、その視点を抑えつつ、共に御言葉を読み進めたいと思います。
さて、この御言葉の中で一番目を引く箇所は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と話される主イエスの言葉です。でも、主イエスは、どんな語調でこの言葉を話されたのでしょうか。聖書は「立ち上がって大声で」と書きます。つまり主イエスは大勢の群衆が座っている場所で、厳粛なユダヤ教の儀式が行われている、静まりかえった場所で、突然立ち上がり、大声でこの言葉を言い放った、という場面が見えてくるのです。でもなぜ、主イエスは、一見、非常識だと思われるような、奇異な行動を起こしたのでしょうか。まず、場所と状況から見ていきましょう。場所はエルサレム、時は仮庵の祭が祝われている最中です。この仮庵の祭とは、ユダヤで催される三つの大きな祭の一つです。その祭とは、ペサハと呼ばれる過越祭、シャブオットと呼ばれる七週の祭、そしてスコット、この仮庵の祭です。主イエスは、祭の催される八日間の最初から、ガリラヤからエルサレムに上られ、神殿の境内で人々に神の国の福音を伝えました。人々はその言葉を聞いて驚きます。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(ヨハネ福音書7:15)と感心し、その言葉に多くの人が引き込まれていきます。それだけではなく、主イエスが神殿の境内で、公然と話しをしている姿を見て、人々は、神殿の祭司たちやファリサイ派の指導者たちが主イエスの事を、預言者として、教師として認めたのではないか、と考える様になるのです。
でも、祭司たちやファリサイ派の人々は、主イエスの存在を認めていた訳では、当然、ありません。そして人々が「この方は、神から与えられた救い主なのではないか」と噂し始めた時、さすがに、このままではマズい、と動き始めます。彼らは主イエスを捕らえるために、下役たちを送るのです。でも、下役たちは、主イエスを捕らえないのです。聖書には二つの理由が書かれています。一つは目に見える理由です。主イエスは彼らに「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。」(ヨハネ福音書7:33)と話します。この言葉を聞いた下役たちは、「ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。」(ヨハネ福音書7:35)と、この言葉を受け取って、すぐに立ち去るのなら、そのままにしておこう、と判断するのです。でもそれは表向きの理由です。彼らの内心は、別の所にあったと思われます。後に、彼らは祭司たちやファリサイ派の指導者たちの下に戻った時、彼らは主イエスを連れてこなかったことを咎められます。その時、下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」(ヨハネ福音書7:46)と答えるのです。つまり彼らも主イエスの言葉に引き込まれていたのです。
もう一つ、目に見えない理由を聖書は記しています。それは、まだ、主イエスが捕らえられる時ではなかったから、という理由です。主イエスは「わたしの時はまだ来ていない。」(ヨハネ福音書7:6)と話されます。その「時」とは十字架の「時」のことです。まだその「時」は来ていないのです。
エルサレムに仮庵の祭を祝うために集まっていた多くのユダヤ人たちは、主イエスの言葉を聞き、信仰を熱くされます。彼らは神の救いを喜び、福音を味わうのです。そして目の前にいる主イエスこそ、自分たちに与えられたメシアではないか、と期待するのです。でも彼らは、その期待を祭司たちやファリサイ派の前で、公にすることができないのです。もし主イエスがメシアだ、と公言し、その結果として祭司の反感を買うならば、ユダヤ民族という共同体の中で生きていく事が難しくなる。最悪の場合、共同体から追放されるかも知れない。つまり、彼らは自らの魂の言葉よりも、祭司たちの顔色を伺う事を優先するのです。最もユダヤ人が気持ちを一つにして喜び祝う祭の最中に、大きな分断が生まれるのです。仮庵の祭は、ユダヤ人にとって、民族の一致の証しです。彼らはこの祭を通して、祖父たちがモーセに率いられてエジプトを脱出したとき、荒野で天幕(テント・仮庵)に住んだ事を覚える為に、自分たちも仮庵を建て、そこに住み、不便な生活します。父祖たちは四十年にわたって、水も食料も乏しい荒野で苦難の生活を強いられました。でも希望を捨てること無く、神に信頼し、団結して困難を乗り越えました。そして、ようやくヨルダン川を渡り、神がアブラハムに約束した、エルサレムに辿り着きました。その思いを覚えるのです。つまり仮庵の祭とは、ユダヤ人にとって、自分たちの団結を確認する祭であり、自分たちが神に選ばれた民である事に感謝する喜びの祭なのです。(旧約聖書レビ記23:34-44)。そしてこの祭の最高潮(クライマックス)は七日目、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」(ヨハネ福音書7:37)に行われる、水取りの儀式です
エルサレムは南北に長細い丘のような地形で、周囲には高い城壁が巡らされています。その北端の高台に神殿が建てられています。そして南端の一番低い場所にはシロアムの池があります。このシロアムの池に引かれている水は、エルサレム城外にあるギボンの泉から地下トンネルを使って引いています。(興味のある方は旧約聖書の歴代誌下32章を参照)この池の水が、エルサレム全体の水源として使われていました。水取りの儀式は、このシロアムの池から始まります。祭司はシロアムの池の水を汲み、神殿に続く大通りの、緩い上り坂を進みます。道の沿道には多くの人々が詰めかけ、その様子を見守ります。そして水は神殿の内庭に運ばれます。そこには多くの男性が座っています。祭司はその中央を進み、燔祭(焼き尽くす捧げ物)の祭壇の左に置かれている大きな水盤に、運んできた水を注ぎます。自分たちの父祖たちは、乾燥した荒野で、渇きに苦しみました。でも神は奇蹟的な力で彼らに水を与えます。そして神は自分たちにも水を与えて下さり、生かして下さっている。この儀式を通して、ユダヤの民は、自分たちが神に生かされていること、自分たちが神に選ばれた民である事を確認するのです。さて、そのような厳格な、静かに粛々と行われている、何より喜ばしい儀式の最中に、目の前を祭司たちが大切に慎重に水を運んで進んでいるただ中で、主イエス立ち上がり、大声で「渇いている人はだれでも…」と言い放たれるのです。なぜ、主イエスはこんなことをされたのでしょうか。
それは主イエスが、目の前で行われているユダヤ教の礼拝が、死んだ祭儀に落ちてしまっていることを嘆かれたからです。この祭儀を行う上で、最も大事なことは、神に自らの魂を向け、神に感謝を捧げ、神の恵みを覚える事です。神に信頼するなら、たとえ命の危機に晒されるような事があっても、必ず守られる。その信仰を再確認する事です。しかし、ユダヤの民はいつのまにか、自分たちの共同体の安定とか民族の繁栄とか、自分の命が守られていること、つまり目の前で運ばれている、飲むことができる水が与えられていることに、心を向けてしまっていたのです。信仰の視線は、上に向いているのではなく、自分の内側に向いているのです。ですから主イエスは叱るように、この言葉を言い放ったのではありません。強い嘆きの中でエルサレムの人々を憐れんで、この言葉を伝えられたのです。主イエスは続けて話します。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書7:38)目の前で運ばれている水は、そのうち必ず涸れてしまう。私たちが本当に求めるべきは、涸れてしまう(今、目の前で仰々しく、大事そうに運ばれている)水ではなく、涸れない水、生きた水(ザカリア14:8)、だと主イエスは話すのです。そして私があなた方に、生きた水を授けよう、と、そして私を信じる者は、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書7:38)と話されるのです。この言葉を聞いていた、神殿の境内に座り、この祭儀を見守っている多くの人々は、主イエスがメシアなのかもしれない。と心の内に思いながらも、その思いを隠すのです。彼らは祭司たちやファリサイ派の人々の目を気にして、沈黙するのです。
私たちも、この世の様々な事を気にして、自らの信仰を、心の内に隠してしまうことがあります。控えめで慎み深く奥ゆかしい、そんな立ち居振る舞いが美徳として捉えられる日本の文化の中で、私たちは自ら内からあふれ出そうとしている生きた水を、心の内に留めてしまう事が往々にしてあります。それは、致し方ないことかもしれません。でも、奥の方に押さえ込み過ぎて、いつのまにか、在ったことすら忘れてしまわないように、時々、表に出しましょう。少なくとも祈りと礼拝を欠かさないこと、聖書の御言葉を読む事。私たちは信仰を分かち合いつつ、共に歩みましょう。
「勝利を信じる」2020/5/17
ヨハネ福音書16:25-33
ボヤッとして、よく見えないモノを、ハッキリ見ようとするとき、私たちはその何かに近寄って行き、目を懲らして見ようとします。例えば歩道の植え込みの上を一列に並んで動く黒い点も、屈んで近づいて目を懲らして見ると、それが蟻の行列だと解ります何故私たちは、無意識にその様な行動を行うのか、というと、それは私たちの心が、目の前にあるものが何なのか解らない、という状況を不安に感じるからです。壁に掛けられた絵画の額縁が微妙に傾いていると落ち着かないように、ボヤッとしているモノに対して私たちは、不安を抱いたり、恐れをも感じるのです。昨今、世を騒がしているコロナ感染症ですが、私たちはコロナウィルスの姿をメディアで見ることが出来ます。ボールの周りに幾つもの虫ピンが刺さっている、そんな映像が出回っています。このボールの中にRNA(いわゆる遺伝子)が入っていて、人の細胞に取り憑き、自己複製します。このウィルスの大きさは80-220nm(nmは百万分の1ミリ)ですから当然、肉眼では見えません。電子顕微鏡をつかってようやく見ることができます。このウイルスの写真ですが、見ていると、なぜか安心します。たぶん自分たちが正体不明の怪物と戦っているのではないと、思えるからです。
近づいて自分の目を懲らして、それが何であるか細部まで確認する。それは私たち人間に本能的に備わっている習性です。でも、そのやり方では見えないモノがあります。近づくのではなく、離れると見えてくるものがある、のです。例えばモネの描いた「睡蓮」という絵画は、近づいて見るなら、単調な色の粒です。でも離れて眺めるなら、そこに美しい景色が浮かび上がります。夜空の星も小さな瞬く点ですが、その一つ一つを結んでいくと、大きな星座と物語が見えてきます。私たちの目、つまり、この世の目はモノの細部をより細かく見る傾向があります。でも、私たちが神の存在を知り、信仰を与えられなら、この世を、そして物事を俯瞰から見る視野が与えられます。私たちが神に心を寄せ、静かに祈るとき、神は私たちの心に働きかけて下さるのです。
さて、今朝、私たちに与えられた御言葉の場面で、弟子たちは目を懲らしています。彼らは目の前にいる主イエスを見て直視して、その内側に神の姿を探っています。でも主イエスは弟子たちに、別のやり方を教えます。近づいて、目を懲らして見るのではなく、離れて眺めてみなさい。そうするなら「ハッキリ見ることができる」と、教えるのです。
今朝、与えられました御言葉はヨハネによる福音書十六章二十五節以下です。ヨハネ福音書では十三章から十六章まで、いわゆる「最後の晩餐」と言われる出来事の場面が描かれます。この食事の席で、主イエスは、今まで弟子たちと共に生活する中で、弟子たちに話してきた一つ一つの言葉を、整理し、まとめ、弟子たちに手渡されます。なぜなら、主イエスはこの後すぐに御自分がゲッセマネの園で捕らえられ、次の日には十字架に掛けられることを知っているからです。これから起こる、主イエスの受難の出来事がすべて終わった後、弟子たちが迷わないように、ここで主イエスは愛する弟子たちに自分の声を託すのです。この聖書の箇所は、弟子たちに対する主イエスの最後の言葉であり、今朝与えられました二十五節以下はその言葉の中の最後、ということになります。そして、ついに主イエスは、自らの本当の姿を弟子たちに明らかにします。御自分が神からこの世に遣わされた者であると、弟子たちに話されるのです。主イエスはこの様に話します。「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」(ヨハネ福音書16:25)
この「たとえ」(paroimia)とは「ことわざ」、つまり「他の人の言葉」、という意味合いです。そして、この「はっきり」(parrhesia)とは「公に」、つまり「私の言葉」という意味合いです。つまり主イエスは、誰か他人の言葉ではなく、自分の言葉で(正確には自分の全存在を以て)これから、あなた方に話す、という事です。この世の誰一人として、神の存在について、明らかにできる者はいません。「ここに神がいる」とか、「ここに神はいない」とか言える者はいないのです。神のみが神を知る唯一の存在です。でも、主イエスは、自分の言葉で、今、神を存在をあなた方に教えようと話します。つまり、主イエスは御自分が神を知っている者、神の子であり、肉体を持った神御自身であることを、ここで弟子たちの前に明らかにした、ということです。そして、「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」(ヨハネ福音書16:25)と話すのです。
では何故主イエスはこの世に遣わされたのでしょうか。続けて、主イエスは弟子たちに、自分自身の事を、神と人との間をとりなす者だと話します。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」(ヨハネ福音書16:26-27)
少し分かり難い言葉です。「わたしの名によって」と主は話します。私たちは、祈りを捧げる時、その終わりに「主イエスキリストの御名によって祈ります」という言葉を加えます。それは、私たちは自分の祈りを直接、神に捧げる事はできないからです。なぜなのか。私たちの神に捧げる祈りは、人の肉の欲望による願い、に過ぎないからです。どんなに整った言葉を使っても、取り繕っても、自分が中心の言葉、でしか祈れないのです。でも主イエスは、そんな私たちの罪深い祈りを、自分の祈りとして、背負って下さいます。そして自分の祈りをして神に差し出してくださいます。私たちの罪を十字架として負われて、ゴルゴダの丘へ続く坂道を上られたように、私たちの罪を負わるのです。それが、取りなす者としての、主イエスのこの世での役割です。何故、主イエスはそこまでして、私たちの罪の痛みを負われるのか。それは神が私たちを愛しているからです。神は私たちを愛している。悲惨から救おうとしている。私たちが主イエスを神の子として受け入れる、信じるということは、この神の愛を信じるという事なのです。
さて、弟子たちは、この主イエスの言葉を受けて、「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」(ヨハネ福音書16:29)弟子たちは、自分たちの目の前におられる主イエスが、神の御子であり、神御自身である事を信じると答えます。でも、主イエスは、それでは十分ではない、と話すのです。三十二節にこうあります。「でも、あなたがたは散らされる」(ヨハネ福音書16:32)この後、主イエスは捕らえられ十字架に掛けられます。弟子たちは主イエスを残して、その場から逃げます。まるで蜘蛛の子を散らすように立ち去ります。でも、主イエスは、それで良いと「あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」(ヨハネ福音書16:33)と話されるのです。
弟子たちは、主イエスの元から離れる事によって、主イエスを、そしてその言葉と行いを、そのすべてをもう一度確認する機会を与えられます。弟子たち失って、はじめて今まで与えられていた愛の深さを知る者とされるのです。主イエスが目の前にいたときは見えなかった主イエスの本当の姿を、主イエスから離れた時に、彼らははじめて見ることになります。主イエスは、十字架に掛けられ、死にます。その出来事をこの世の視界で眺めるなら、つまり近寄っていって目を懲らして眺めるなら(近視眼的)、大失敗なのです。敗北です。主イエスと弟子たちの活動は空しい、無意味な行動として評価され、神を冒涜し、無知で愚かな行いとしていつしか忘れ去られるのです。
でも主イエスの元を離れて、遠く、広いところから十字架を眺めた時、弟子たちはその十字架の意味を知る事になります。主イエスがなぜ自らの事を「屠られる犠牲の仔羊」と話されていたのか、なぜ「私の血を飲み、肉を食べよ」と話したのか、弟子たちはその十字架によって、主イエスがこれまで話されていた「愛」の意味が完結した事を知るのです。言葉だけでは「愛」は完結しないのです。実際に自らの命を敵対する者たちに、捧げなければならない。主イエスは自らの命を以て、この世に「愛」を明らかにされました。でもそれだけではありません。三日目に復活されたのです。この世にあって敗北と思われていた十字架の出来事、でも、同じ出来事を神の視界から眺めるなら、主イエスは勝利されていた、と知らされるのです。主イエスは、今日の言葉の最後に、こう話します。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書16:33)これからあなた達は様々な困難を与えられるだろう。迫害を受け、病気や怪我や、命の危険に幾度もさらされるだろう。でも、その様な時、もう失望する必要はない。あなたに与えられる、その一つ一つの出来事は、あなたにとって苦難と思えても、きっと神の意志がそこにある。神はあなたを愛している。すべての事に意味がある、あなたたちの歩む道に無意味な事などないと主イエスは話すのです。
私たちも弟子たちと同様に、この主イエスの言葉を与えられています。私たちもその日常にあって、苦難を与えられます。解決出来ない課題や、その意味を見いだせない出来事が幾つも与えられます。でも、しかし、その様な時、私たちは一歩下がる事ができます。「この困難を神は何故、私に与えられたのか」と祈って聴く事ができる。信じて祈ることができるのです。そして神に祈るなら、私たちの魂は神の御許に置かれます。俯瞰で自分自身を見ることが出来る。すると、自分が見ていることの意味が与えられるのです。
「もう一度、始めから」2020/5/3
ヨハネによる福音書21:1-14
「迷ったときには、スタート地点に戻りなさい」と、以前、師事していた教師が話してくれた言葉を、私はいまだに覚えています。どうすれば良いか分からなくなったとき、行く先が見えなくなったとき、まずスタート地点に戻ってみる。もう一度、最初から、自分の歩いた道を見渡してみる。そうすると、自分が次に何をやらなければならないか、が見えてくる、そう教えられました。
さて、今朝、与えられました御言葉に描かれているシモン・ペトロも、主イエスがゴルゴダの丘の上で十字架に掛けられて殺された後、行く道を見失います。でも神は、彼をそのままにしてはおかれません。神は彼を、スタート地点であるゲネサレト湖に帰します。そこで彼は「与えられる者」から「与える者」へと変えられるのです。神は、そして復活した主イエスはどの様にペトロに関わられたのか、共に聖書に聴いていきましょう。
話しは主イエスの十字架の出来事に戻ります。彼らが従い、尊敬し、愛していた主イエスは過越の祭りの日、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔られ、殺されます。弟子たちは、主イエスの死んだ後、今度はユダヤ人たちが自分たちを捕まえに来る、そして自分たちも殺されると、考えていました。彼らは恐れ、窓を閉め切った家の中で、息を殺しながらうずくまっていました。その真ん中に、復活した主イエスは立たれます。弟子たちは復活された主イエスを見て、触れて、その言葉を聞いて、喜ぶのです。では、主イエスが復活されたことによって、パウロや他の使徒たちの置かれていた状況が元に戻ったのでしょうか。いや、そんな事はないのです。十字架に磔られた主イエスを見て、エルサレムに集まっていた、主イエスに期待を寄せていた多くの人たちは逃げ去りました。ファリサイ派の者たち祭司たちは、その様子を見て安心します。そもそも主イエス一人を殺してしまえば、この騒動は収まる、と彼らは考えていたからです。彼らの思惑通り、エルサレムの群衆は主イエスの言葉も、騒動も忘れて、それまで通りの日常に戻っていったのです。
そもそも、ファリサイ派の者たち祭司たちにとって、主イエスの弟子たちを相手にしてなかったのです。ナザレのイエスは手強かったけど、その弟子たちには何の力もない。一番弟子と言われているシモン・ペトロにしても無力で無学な田舎の漁師に過ぎない。口が立つわけでもない。人々に影響力があるわけでもない。放っておけば、誰もが忘れてしまういつの間にか消える。そう考えていたのです。彼らは弟子たちを捉える事も迫害する事もなく、イエスにそそのかされた憐れな者たちにすぎない、と彼らの存在を忘れるのです。そしてシモン・ペトロと他の使徒たちはエルサレムを離れます。もうだれも主イエスの教えにも天の国にも興味を持たなくなったからです。彼らが主イエスの弟子としてエルサレムに留まる意味はなくなったのです。彼らは生まれ故郷であるナザレに帰ります。
聖書にはこの様に書かれています。「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」(ヨハネ福音書21:1-3)彼らはエルサレムを離れた後、故郷のナザレに戻ります。ではナザレの人々はエルサレムの人々と違って、彼らを主イエスの弟子として受け入れたのか、彼らの言葉を聴くために彼らの下に集まって来たのか、というと、そんな事はないのです。ナザレの人々も、誰も彼らに感心をよせることはない、のです。シモン・ペトロは、しばらく湖を眺めたのだと思います。そして他の弟子たちに「わたしは漁に行く」と話すのです。
ペトロはこの時、主イエスと出会う前の生活に戻る、決心をするのです。主イエスがいなければ自分には何の力もない。自分には人に対する影響力も、知恵も、口も立たない。今まで主イエスの一番弟子と嘱望され、浮かれ、なんとなく自分にも、神からの力が与えられている様な、そんな気分になっていたけど、現実はそうではなかった。自分はまったく誰かも相手にされない、無価値で無意味な一つの人間だった。主イエスを失ったあと、人々は自分たちの下から離れ去ります。それだけでは無く、敵対視されることもない、迫害すらもされない、誰からも相手にされないのです。だから彼は忘れようとするのです。主イエスを忘れ、その言葉を忘れ、何もかもを忘れて、始めからやり直そう。自分には漁師としての技術と経験がある。もう一度、漁師として生活しようと、決意するのです。このペトロの言葉に、他の弟子たちも同調します。「わたしたちも一緒に行こう」と彼らは言います。彼らは、夜中に舟を出します。月明かりの中、夜通し何度も何度も湖に網を投げますが、一匹の魚も捕れません。夜が明けてきた頃、彼らは岸辺に一人の男の人が立っている姿を見ます。その男の人は彼らに大声で、「子たちよ、何か食べる物があるか」と声を掛けます。弟子たちも大声で「ありません」と答えます。この男の人は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と声を掛けます。弟子たちは舟の右側に網を投げます。すると、沢山の魚が掛かるのです。聖書にはこの様に書かれています。
「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。」(ヨハネ福音書21:7)彼らは、その声の主が主イエスだと気づくのです。ペトロはどう思ったか。直ぐに上着をまとって湖に飛び込んだ、と聖書には書かれています。彼は恥ずかしかったのです。
ペトロは主イエスと共にいるとき、主イエスと共に人々に神の国の福音を伝えていました。主イエスから離れて村々に出向き、福音を伝えた事もありました。彼はすべてのユダヤ人に神の真理を、そして愛を伝えました。倒れている者を立ち上がらせ、病を負う者を癒やしました。悲しんでいる者を励まし、苦しんでいる者と共に苦しんだのです。心を燃やし、命を尽くしていたのです。でもペトロはそのすべてを、「なかったこと」した。まるで漁師のように服を脱ぎ、腰に布を巻いて、舟の上に立ち、網をなげている自分の姿を、主イエスに見られてしまった。姿や格好だけではなく自分の心の内を、岸に立つ主イエスは、すべてを見透かしている。ペトロは居たたまれず、水の中に飛び込むのです。主イエスはペトロに「舟の右側に網を打ちなさい。」と声を掛けられました。それはペトロが始めて主イエスと出会った時に、掛けられた言葉です。
ペトロがまだ漁師だった頃、彼は主イエスと出会いました。早朝、まったく魚が獲れずに漁から帰ったばかり、湖畔で網を直しいたとき、主イエスが現れ、自分を舟に乗せ、起きに出るように頼んだのです。主イエスはその舟の上から、押し寄せて来た群衆に向かって語り掛けます。教えを説くのです。そして話し終わったあと、ペトロに、これから沖に舟を出して、網を打ちなさいと話します。ペトロは主イエスに「一晩、漁をしても無駄でしたけど、お言葉でしたらやってみましょうと」網を下ろします。すると、沢山の魚が網に掛かるのです。ペトロは、主イエスの言葉を聞いて、そして網に掛かった魚を見て、主イエスと出会った最初の時の事を思い出すのです。自分はなぜ主イエスに従ったのか、何を求め、何に心を動かされたのか、初心に立ち戻るのです。
そして沖に戻ると、そこには炭火がおこしてあり。その上に魚がのせてあり、パンが用意されています。主イエス「朝の食事をしなさい」と話し、「パンを取って弟子たちに与え、魚も同じようにして別けられます。ペトロは主イエスの手の動きを見て、最後の食事の時の事を思い出すのです。主イエスはその時、何と話されたのか。新しい掟、互いに愛し合いなさい、律法によってお互いに縛り合うのではなく、愛に依ってお互いを解放し自由になりなさい、と。その言葉をペトロは思い出すのです。
主イエスの死の後、行く先を見失います。何を如何すれば良いのか、まったく分からなくなるのです。でも主イエスは彼に語り掛けます。ペトロが何に感動し、心を燃やしたのか、人々に何を伝えれば良いのか。先に進む道筋と、歩き出す力を与えるのです。パウロは、この後、漁師ではなく伝道者として、その一生を神に捧げます。もう、迷う事なく恐れること無く、彼は歩むのです。この口も立たない、知恵も持たない、誰にも相手にされない、無価値で無意味な一つの人間だったペテロを、神はもちいられ、彼を通して主イエスの言葉は全世界へと伝えられるのです。神は、この世の現実に直面し、動けなくなった者の前に現れて、言葉を掛けて下さいます。「あなたにとって何が最も大切なことなのか」と語り掛けて下さいます。もう一度、自分の原点に戻りなさい、故郷に戻りなさいと声を掛けて下さいます。原点に戻り、そこから今を見定めるなら、その先を見通す事ができます。
では、私たちの故郷は、何処にあるのでしょうか。それぞれに違うと思われるかもしれません。でもそうではない、私たちの故郷は一つです。それは私たちが父である神と共にいた場所です。私たちが心を神に向け、静かに祈るとき、私たちも故郷に戻ることができます。そして神は、放蕩息子の帰りを待つ父親のように、私たちの帰りを待っています。
礼拝説教原稿
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