礼拝説教原稿
2020年4月
「新しい命を生きる」2020/4/12
ヨハネによる福音書20:1-18
今朝、このイースターの礼拝を通して、神が私たちに伝えようとしているメッセージはとてもシンプルです。それは「私たちは、今、この瞬間(とき)からでも、新しい命を生きることができる」ということです。例えば私たちが、今、手にしている持ち物すべてを失っても、神は「立ち上がりなさい」と私たちに声を掛けられます。そして私たちが、その声に押されて立ち上がり、歩き出すなら、神は私たちの脚を支えて下さいます。必要なモノは与えられます。だから私たちはいつからでもどこからでも再出発する事ができる、もう一度、最初からだってやり直せる、私たちが神を信じて立ち上がり歩き出すなら、神は必ず支えて下さいます。今朝与えられた御言葉にある主イエスの復活の物語から、私たちはその事を伝えられています。
さて、先ほど司式者によって読まれた御言葉はヨハネ福音書二十章です。この前章には主イエスが十字架に掛けられた場面が描かれています。
主イエスは金曜日の正午、ゴルゴダの丘で十字架に掛けられ、午後三時に息を引き取られます。そして直ぐに十字架から下ろされ、亡骸はアリマタヤのヨセフがピラトに願い出て引き取った、と聖書には記されています。そして彼は、自分のために用意していた、まだ使っていない墓に主イエスを収めます。でも、それは異例な事なのです。なぜなら普段の十字架刑であるなら、亡骸はそのまま何週間も放置され続ける事になっていたからです。十字架に張り付けられたまま放置された亡骸は、鳥についばまれ、白骨化します。でも太い釘で十字架の柱に、手首と足の甲の骨と骨の間を打ちつけられているので、十字架から落ちることなく、白骨になっても吊されたまま亡骸は人々の前に晒され続けるのです。そして、ようやく骨と骨を繋ぐ腱が切れると、骨は十字架の下にバラバラと落ちます。でもその骨を拾ってはいけません。墓に納める事も許されず、そのまま野ざらしにされます。この処刑所の名前、「ゴルゴダ」とは「シャレコウベ」「頭蓋骨」という意味です。十字架に掛けられ処刑された罪人の頭蓋骨が地面にゴロゴロと転がっていた、そこから名付けられていた名前です。
死んでしまった後、放置され朽ちていく姿が人々の前に晒される。その骨も埋葬されずそのまま地面に転がされたままにされる。弔う事が許されない。当時の人々がこの十字架刑を恐れた理由は、この残酷さにあります。でも主イエスの亡骸は、傷められたり損なわれたりする事なく、晒される事なく、墓におさめられました。さて、その一部始終を、じっと見ていた女性がいます。それが先ほどの御言葉に描かれていたマグダラのマリアです。このマグダラとはガリラヤ湖の北西岸にある村の名前です。そして、このマグダラのマリアについて聖書に記されていることは、良い評判ではありません。マルコによる福音書には「七つの悪霊を追い出していただいた婦人」(マルコ福音書16:9)とあり、ルカによる福音書には「この町に一人の罪深い女がいた。」(ルカ福音書7:37)とあります。素行が悪く、マグダラの村で除け者にされていた女性、人から嫌われ、陰口を囁かれ、さらに彼女は卑屈になり、さらに悪事に手を染め闇に身を落としていく女性として、聖書はマグダラのマリアを描いています。しかし彼女は主イエスと出会い変えられるのです。マリアは、おそらくガリラヤの村々を回って福音を伝えている主イエスの話しを聞き、その言葉に励まされたのでしょう。悪女として、貶まれ避けられ、誰も目を合わせてもくれないマリアに、主イエスは目を注がれました。マリアは立ち直り、それまでの自分を悔い改め、回心し、今までの生活をすべて捨てて主イエスに従います。それからマリアは行く先々で多くの人々を前に話される主イエスの言葉を民衆と共に聴き、主イエスに従っていた、他の婦人たちと共に、弟子たちや、集まって来た人たちの世話する役割を担ったと考えられます。でもその最愛の主イエスはエルサレムで捕らえられ、彼女の目の前で十字架に掛けられて殺されてしまいます。それまで主イエスを、自分たちの救い主として、新しい王だと支持していた人々は、踵を介して主イエスにつばを吐きかけ、従っていた多くの弟子たちも逃げ出してしまうのです。彼女は悲しみ、絶望の淵に落とされるのです。
主イエスが死んだ後、アリマタヤのヨセフによって十字架から下ろされ、墓に収められた事を確認したマリアと他の婦人たちはエルサレムの滞在していた家に帰ります。最愛の人が死んでしまった、それでもマリアは、主イエスの亡骸が傷つけられることなく、見世物にされなかった事に胸をなで下ろしたのではないかと思います。日曜の朝には、自分の手で主イエスに触れ、弔う事ができるのです。当時、墓に収める遺体には香油を塗り、亜麻布に包み乳香を焚く、という処置が施されていました。でも、アリマタヤのヨセフも婦人たちも、主イエスの亡骸に対して、そのように時間をかけて弔う事は出来ませんでした。なぜなら金曜日の日没から、ユダヤでは安息日が始まるからです。安息日には礼拝に行く以外、外に出ることは禁止されていました。働く事も許されていません。まして汚れた亡骸に触れることもできません。ですから、主イエスの亡骸には急いで亜麻布が巻かれ、そのまま墓に寝かされ、入り口は、大人四人でやっと動かすことができる丸い円形の岩で塞がれたのです
さて、マリアは安息日が明けた日曜の朝、それもまだ暗いうちに香油と乳香、そして遺体を包むための新しい亜麻布を持って墓にむかいます。失ってしまった、愛する主イエスを、せめて丁寧に葬りたいと、彼女は願うのです。でも、彼女が墓に着くと、墓の入り口を塞いでいた大きな石が、脇に転がされていました。彼女は動転して、踵を返して主イエスの弟子シモン・ペトロの下に走り、その様子を知らせます。彼女は主イエスの墓が荒らされて、亡骸が持ち去られてしまったと、そう考えるのです。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(ヨハネ福音書20:2)ペトロともう一人の弟子は走って墓に行き、中を確かめます。墓の中に遺体はなく、亜麻布だけが残されていました。二人の弟子はその様子を見て、確認し家に帰ります。でもマリアは、ただ一人そこに残るのです。
「マリアは墓の外に立って泣いていた。」(ヨハネ福音書20:11)と聖書には記されています。悔しさ、口惜しさ。マリアはそこに立ちすくんだまま、泣きます。誰が主イエスの亡骸を持ち去ったのか。亡骸はエルサレムの町中に晒され、人々の嘲笑の的にされてしまうのか。もう命を奪ったのだから、あとは静かに眠らせて欲しいと、せめて弔わせて欲しい、彼女はさらに絶望の淵に置かれるのです。
マリアは泣きながら身を屈め、墓の中をのぞき込みます。するとイエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が、一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っています。天使たちはマリアに話しかけます。「婦人よ、なぜ泣いているのか」マリアは、天使に「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」といいます。でも何か気配を感じ、後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えます。でもマリアには、それがイエスだとは解りません。「イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは、園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。」(ヨハネ福音書20:15-16)主イエスはマリアに答えられます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」(ヨハネ福音書20:17)
この「すがりつく」という言葉は、原語のギリシャ語では「掴む」「握る」という意味の言葉です。「きつく握りしめているものを手放しなさい」と主イエスはマリアに声を掛けた、ということです。そして主イエスはマリアに、わたしの兄弟たちのところへ行って、この事を伝えなさい、と話します。マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えるのです。
マグダラのマリアは、主イエスと出会い、変えられました。それまでの悪い行いを悔い、改め、彼女は新しい人生を歩みはじめました。でも、それはまだ、彼女の回心の切っ掛けに過ぎなかったのです。マリアは主イエスと出会うことによって、故郷もこの世の持ち物も、今までの習慣も価値観もすべて手放しました。でもそれは、今まで彼女が掴んでいたモノの代わりに、主イエスを掴んでいただけ、だったのです。そのマリアに主イエスは「きつく握りしめているものを手放しなさい」と話すのです。マリアがこの世の、目に見える主イエスを手放したとき、彼女は主イエスの本当の姿を見ることができるようになった。自分に本当に必要なモノがなにか分かるのです。その時マリアは神への信仰を得るのです。
イースターという言葉は、今の社会にあって一般的な言葉になっています。でも、その意味について、正しく理解している人は少ないように思います。イースターとは、イエスキリストという人が死んだ後に生き返った奇妙な物語、ではありません。私たちが、今、手にしている様々なモノ、それは有形無形のモノに関わらず、それらを手放しても、私たちは本質的に何も損なわれない、失われない、という神からのメッセージなのです。その事を私たちに伝えるために神は御子イエスをこの世に送り、自らの存在を明らかにし、そして痛みを負い十字架に掛かられたのです。私たちは多くのモノを握りしめて生きています。権威、富、概念、自尊心、思想、知識、私たちはそれらに絶対的な価値を置いてしまいます。それらを奪われないために争い、相手を傷つけあっています。そして手放してしまうなら、二度と手にする事はできないと考えます。でもそんな事はありません。夜は必ず明けます。種は芽吹きます。神は私たちを愛しているが故に、私たちを誤解から解放してくださるのです。
私たちが身ぐるみ剥がされても、最後の最後に残されるこの肉体が奪われたとしても、それでも新しい命が与えられる、ましてあなたが握りしめている、いつかは朽ち果てるものなどに固執する意味があるのか、と、教えられるのです。神は、主イエスが復活された様に、死に依ってもあなたは損なわれない、とそう約束しています。私たちは、いつでもどこからでも、新しい命をはじめられます。「立ち上がりなさい」と神は私たちの手を取って下さる。立ち上がるなら、必ず必要なモノは備えられます。安心して共に平安の内を歩みましょう。
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