礼拝説教原稿
2020年3月
「光のあるうちに、光を信じなさい」2020/3/29
ヨハネによる福音書12:20−36
私が東京の八王子に住んでいた時の事です。休みの日だったので、富士山でも見に行こうと、道志渓谷沿いの山道を車で走っていました。前日に台風が過ぎ去ったばかりの良い天気の日だったので、気持ちよく運転していたのですが、途中、ある事に気づきました。何故か一台も、対向車とすれ違っていないのです。そして、やっと向こう側から一台のモトクロスバイクが走って来ました。でもそのバイクは私の前をすれ違うときに、激しくパッシングをしました。何があったのか、次のキツいカーブの向こう側、道路の半分が崩落していました。スピードを落としたから無事でしたが、もしバイクの合図がなければ、そのまま、突っ込んでいたかもしれません。ゾッとする経験をしました。自分に向けられた合図を信じて受け入れるのか、それとも無視するのか。今朝、私たちに与えられた御言葉も私たちに、一つの、大事な合図を送っています。それは、どんな合図なのか、共に聴いて行きましょう。
さて先ほど読みました御言葉の場面の場所は、過越の祭に沸くエルサレムです。人々は棕櫚の葉を振り、自分の上着を道に敷いて、エルサレムに上ってこられた主イエスと弟子たちを大歓声で迎え入れます。それは戦いに勝ちエルサレムに凱旋するユダヤの王を人々が迎える様式です。つまり人々は主イエスを、ナザレと言う僻地出身の大工の息子に過ぎない主イエスを、自分たちの王としてエルサレムに招いた、という事です。でも何故主イエスはこれほど迄に、人々に熱狂的に受け入れられたのでしょうか。
主イエスはエルサレムに上られる前、弟子たちと共にベタニアに立ち寄られます。この村はエルサレムから死海の方向に三キロほどはなれた所にある村です。マルタとマリアの住んでいた村、と言えば分かりやすいでしょうか。主イエスはこの村でラザロを生き返らせます。この衝撃的な噂を聞いていたエルサレムの人々は、それまでの主イエスにまつわる噂を加味して、この主イエスこそ、ユダヤの民をローマ帝国の支配から解放するメシアだと、確信するのです。神の力でローマを滅ぼし、ローマ帝国の傀儡政権であったヘロデ王家を追放してくれる、と信じたのです。聖書に残されている預言者の言葉、いつか神がメシアを送りユダヤを再興、という言葉が、ついに成就する時が来たと期待するのです。でも、その様な人々の熱狂を見て、主イエスだけは、表情を曇らせるのです。
先ほど読まれました御言葉にはこの様に書かれています。「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。」(ヨハネ福音書12:20-21)
過越の祭を祝うために集まって来た人々はユダヤ人だけではなく、異邦人と呼ばれる者たちもエルサレムに上ってきていました。彼らはたぶんユダヤ教徒として祭に参加するのではなく、見物という立ち位置で、ユダヤ最大の祭を見に来た者たちだと考えられます。彼らも主イエスについての噂を聞きます、そして興味を持つのです。その中の幾人かのギリシャ人は、主イエスにお会いしたいと、主イエスの弟子である、フィリポに願い出ます。このフィリポはギリシャ語を話すことができた、と言われていますから、仲介を頼まれたのだと考えられます。そしてフィリポはこの事をアンデレに相談し、二人で主イエスに事の次第を伝えます。この二人の弟子はきっと、主イエスの名前がユダヤ人だけではなく異邦人にまで伝わったことを誇らしく捉えたのではないか、と思います。つまり喜んで、主イエスに話すのです。でも主イエスの反応は彼らの想定に反しているのです。主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た。」と話すのです。ここから、有名な言葉です。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:24)
主イエスはフィリポとアンデレに、これから自分は死を迎えると、そう話されるのです。何故、異邦人が主イエスに会わせて欲しいと願い出た事を、主イエスは合図として捉えたのでしょうか。主イエスはそれまで自分の弟子たちを宣教に送り出す時、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(マタイ福音書10:5-6)と強く命じています。主イエスは、自分がこの世に天から遣わされたのは、神がアブラハムからはじめられたユダヤの民との契約の成就であると知っています。そして自分が十字架に架かり、その死が一粒の種として、この世に蒔かれ、そこから福音が世界に、つまりユダヤ人だけではなく、異邦人、つまり世界に滞りなく広がっていくのだと、知っているのです。この異邦人が主イエスの下に来たこと、それは自分の死の時が来たことの証しだったのです。
この主イエスの心に呼応する様に、天の声が辺りに響きます。「天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。』そばにいた群衆は、これを聞いて、『雷が鳴った』と言い、ほかの者たちは『天使がこの人に話しかけたのだ』と言った。(ヨハネ福音書12:28)主イエスにとってそれは、すでに解っていたことではあったでしょうが、でもこの時、主イエスにとって不可避で決定的な死の宣告が為された、ということなのです。そこで、主イエスは、後に弟子たちが主イエスの十字架を見たときに、その意味を悟るように、これから始まる自分の死、つまり十字架について話します。それがこの御言葉です。「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ福音書12:31)自分がこれから迎える死によって、世は裁かれる。この「裁く」とは、それまで曖昧だった正しい事と誤った事の境界線が明らかにされると、いう意味です。十字架以前には、「裁き」の境界は人間同士の力関係、社会的合理性や権力者の都合に拠っていたのです。でも十字架の後は新しい基準が与えられます。主イエスが十字架を通して示される「愛」つまり自己犠牲を伴う愛を全うしているか否か、が裁きの基準となるのです。
次に「この世の支配者が追放される」と書かれています。この支配者とは、狭い意味での支配者ではありません。例えば日本の首相とか、アメリカ大統領とか、その様な者たちの事を言っているのではありません。この「支配者」ἄρχωνという言葉は「サタンの無力化の事実」(終末論的主題)と対になって使われる言葉です。ユダヤの人々は主イエスにローマ帝国、ユダヤの為政者の追放を求めていた、と先ほど話しましたが、主イエスはそのために、神がこの世に送られた方ではなく。もっと根本的に、人間を神から引き離そうとする諸力、サタンと呼ばれる力が無力化する為に来たし、十字架によってそれを行うと話されるのです。
そして、ここからが大事な言葉です。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」と主イエスは話されます。この「すべて」とは「あらゆる」とか「全員」という意味の言葉です。つまり神は主イエスの十字架を通して、現在にあっても、過去にあっても未来にあっても、そしてユダヤ人だろうが異邦人だろうが、信仰者だろうがそうで無かろうが、全ての者を天国に引き寄せると話されるのです。私たちはついつい、正しい人や信仰者だけが天国行きのチケットを手にしていると考えます。そして、あの人は天国から遠い、ダメだ、とか批判するのです。でもそれは間違いです。そもそも冷静に考えて、私は神の前に正しいと、言い切れる人などいるでしょうか。そんな事を言ったら誰一人、天国に引き寄せられる人はいないのです。では、何故私たちは信仰を与えられるのか、それは、私たちがこの世の命を安心して、生きるためです。信仰によって今、私たちは不安や恐れ、苛立ちから解放されるのです。
誰一人として、明日がどうなるのか、知っている者はいません。例えば今、世間を賑わせているコロナウイルスにしても、いつ収束するか、そもそも収束するかどうか、誰にも解らないのです。でも様々な人が様々な憶測を話し、世間を混乱させます。その言葉に依って誤解や迷信、恐怖が生まれ、疑心暗鬼になり、差別や偏見が広がり、混乱と争いが生じます。ウィルスへの恐れより、人の心の方が怖い、という事になる。しかし主イエスは、全ての人を御自分の下に引き寄せると話されます。神は愛する自分の愛する子を崖の下に落とそうとされるでしょうか。その悲惨を喜ばれるでしょうか。確かに、時々私たちは自分自身に襲いかかる困難に途惑います。「何故」と神に問いかけたくなります。でも、その一つ一つの事柄も、主イエスが私を自分の下に引き寄せようとする、合図であると、信じる事ができるなら。私たちに大切な事を伝えるためのまぶしい光だと信じる事ができるなら、私たちは、この世を包む不安という闇から解放され、神の光へと導かれる者へと帰られるのです。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ福音書12:35-36)
「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」と主イエスは話されます。今の世にあって、多くの人は、恐れと不安の中に生きています。明日どうなるのか、何が起こるのか解らない、その恐れを少しでも和らげるために、嘘をつき、この世の力や知識や富を手に入れようと画策し、互いに奪い合い、憎しみ合い、殺し合っています。この世の何か力、知識、富によっても、この悲惨を解決することはできません。でもただ私たちだけは、それができます。何故なら私たちは主イエスの言葉を信じているからです。「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」という言葉を、受け取っているからです。ですから、どうか不安の中にある人に「大丈夫ですよ」と声を掛けて下さい。神さまがあなたを愛しているから大丈夫と、声を掛けて上げて下さい。それが「光の子」としての私たちの役割なのです。
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