礼拝説教原稿
2019年5月
「神を知る人」2019/5/26
ルカによる福音書7:1-10
戦後、ある学生が神学校に入ってすぐに結核を患いました。彼は一年間の療養を余儀なくされ、サナトリウムに入院します。彼は伝道者となるための決意をして家族の反対も押し切って、ようやく神学校に入りました。でもその思いは躓きを与えられます。如何して自分だけこんな事になったのか。なぜ同期で入った者たちよりも一年も教会の現場に出ることが遅れる事になるのか、彼は真剣に苦しみ、焦りを覚えます。そして毎日、神に祈り、問い続けたそうです。
でもある時、彼が神学生として奉仕していた教会の牧師が、彼の入院しているサナトリウムを訪問したそうです。しかもニコニコしていたと。神学生は主任牧師の笑顔を見て「何を考えているのか、この牧師は、自分がこんなに苦しんでいるのに」と素直に感じたそうです。しかも、主任牧師は、この神学生を見つけて、第一声「やあ、おめでとう、よかったね」と声を掛けてきた、と。サナトリウムです。周りには結核を患った病人ばかりです。その雰囲気のなかで、この牧師は何を考えているのか。当然、この神学生は牧師に対して腹を立てます。「主任は何を考えているのか、人がこんなに真剣に苦しみ悩み困窮しているのに」でも、この牧師は神学生の表情を知りながらも、平然と応えたのだそうです。何と話したのか「これで君は結核に掛かって人生を中断された人の痛みが解る牧師になれる」と、そう話されたのです。
自分が痛んだこと、痛んだ経験をした者は、他者の痛みを知ることが出来る。他者の痛みを知った者は、その痛みに寄り添う事が出来るようになる。将来牧師になる君にとって、この一年のサナトリウムでの療養は、神学校で学ぶ授業より、よほど価値がある、と、加えて話された、そうです。
その時、彼、つまりこの神学生は、自分が病気を患った意味を理解したのです。自分が何故、此処でこの時に結核を患い、今までの順風満帆な人生が中断されたのか。大学を出て、牧師になる志が与えられて、すぐに神学校に入り、早く現場に出て、日本で伝道する。その背後にあった神の思いは、人の浅はかな気持ち、焦りを遙かに超えた所にあったと気づかされた、のです。
自分の弱さを知ること。自分の出来る事とできない事を知ること。私たちは神から躓きを与えられ、その痛みを与えられる事によって始めて、実感することができます。痛みや挫折は私たちにとって、不利益で不必要な事ではなく、それこそが神からの恵みなのだと、私たちが信仰の目を持つならば、受けとめる事が出来るのです。
さて、今朝与えられました、御言葉の場面では、主イエスと百人隊長の出会いが描かれています。この百人隊長も多くの痛みを今まで負ってきた者だと、御言葉の中から読み取る事ができます。そして、彼は主イエスこそ救い主「正しい人」であることを見いだすのです。
この百人隊長とは異邦人、つまりローマ軍に属する者であり、ローマ軍ではケントゥリオと呼ばれ「ローマ軍団の背骨」と称えられていました。ケントゥリオは市民社会からも大きな敬意をもって遇される名誉ある地位だったと言われています。なぜなら、ケントゥリオのさらに上位の階級者には千人隊長と呼ばれるキルアルコスがいますが、その要職は貴族出身者のいわば名誉職です。それに対して百人隊長は一兵卒からの叩き上げです。まず十人隊長を経て、指導者リーダーの質を試され能力を競い、その中から次の百人隊長としての資質を持った者だけが、この地位を得ることができます。ローマ軍においての最前線に立つ人物です。彼は戦いの無いときには、百人の兵士の家族も含めて、その全ての生活の責任をも負います。百人の部下の命を与り、平時には訓練を施し、実践では勝利する、それが百人隊長です。兵士の誰からも信頼され、この人の命令ならばどんな事でも従うと思わせる器の深さを持つ人格者、ということです。
では、この主イエスの下に使いを送った百人隊長とは、どの様な人物だったのでしょうか。彼はヘロデ・アンティパスの王宮のあるティベリアに駐屯するローマ軍の軍人です。たぶんヘロデがローマからユダヤに帰ってきた時の、随行のローマ兵として、ローマからこのユダヤに、共に下ってきた者たちであろうと考えられています。
そして彼はイスラエルに渡り、そこで生活をはじめます。彼はローマ人でありながらユダヤ教の信仰に引かれ、対して熱心に学びます。そして彼は地域のユダヤ人と共に会堂を建てるのです。
なせ彼は、そこまで熱心にユダヤ教の信仰に心を向けたのか、と考えるなら、彼はユダヤ教の信仰の中に真理を見いだしたからだと、そう思えるのです。数多くの戦場を渡ってきた彼は幾人もの仲間の死を実際に見てきました。そして自分の命令に従って死んでいく部下たちの姿を幾度となく目にしてきました。しかも、自分の判断から下す一言によって、部下の命が生かされるか、それとも殺してしまうのか、常にその判断、瀬戸際に生きてきました。彼は自分の一言の重み、言葉の重みを、誰よりも痛感しています。そして自分の命令によって死んでいった者たち、戦いに勝つために犠牲になった者たちの命を、彼は自分の痛みとして、背負い、これからも背負い続けるのです。そのような身近にある死について、彼は自分の至らなさや、痛みに対して彼は、常に目を向けているのです。加えて、彼は最前線にいる者として常に命がけの状況に置かれているからこそ、本当に大切なものが何かを知っているのです。何を守るべきか、何がどうでも良い事かを知っているのです。ですから彼は、まるで戯曲の様なローマの神々ではなく、ユダヤ教の信仰の背後にある唯一の神と人との抜き差しならない関係性、命懸けの信仰の在り方に、真理を見いだしたのだと、思えるのです。
さらに、この百人隊長はティベリアの会堂で話す主イエスの姿を見て、その声を聴いていたと考えられます。でも彼は異邦人です。カファルナウムのユダヤ教の会堂の前の列の席にはユダヤ人の男性しか入れません。異邦人、女性、まだ成人になっていない子どもは座席後方か、二階の踊り場からなら礼拝に出席する事ができました。それでも、彼はユダヤ教の礼拝に出席し、そこで主イエスの言葉を聞いたのだと、そう考えられます。会堂の後方から、彼は主イエスの声を聴き、その言葉の一つ一つに偽りなく神の姿を見いだしたのです。そして彼は主イエスを救い主だと、信じるのです。
さて、この百人隊長の右腕として働いていた部下が、病気に掛かり死にそうになります。彼にとって、この部下はとても大切な部下でした。「重んじられている部下」と訳されていますが「頼りにしていた」もしくは「価の高かった」という訳もあります。つまり彼にとっての大切な、愛する部下です。その部下が病に倒れます。彼はそこでテイベリアのユダヤ教の会堂に仕える長老たちに頼み、あの主イエスを自分の所に呼んできてもらえないかと、頼みます。異邦人である自分が主イエスに直接頼むという事について、彼は、それを主イエスに対して不遜な行いだと考えるのです。
そこで長老たちはティベリアから、主イエスのおられるカファルナウムまでの六キロの道のりを行き、主イエスの下にきて願うのです。
「長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。』」(ルカ福音書7:4)主イエスはその言葉を聞き、長老たちと共にティベリアスまで向かわれます。そうして、程なく百人隊長の家に着く所まで来たとき、この百人隊長の友だちが主イエスの前にきて、百人隊長の言葉を伝えます。
「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(ルカ福音書7:7-8)
百人隊長はユダヤ人からみて異邦人です。ユダヤ人は異邦人と関わる事を禁じられています。ですから、彼は主イエスが異邦人の家、つまり自分の家に入ることを。申し訳ないと考えるのです。異邦人である自分の家に主イエスが入って主イエスが汚れてしまうことは避けたいと、そう考えるのです。
主イエスはこの言葉を聞いて感心した、と聖書には書かれています。でもこの「感心した」は「驚いた」という意味の言葉です。ユダヤ人ではなく異邦人の百人隊長の方が、主イエスに存在について理解していることに感心するのです。主イエスはこの言葉を聞いて、振り返り、後ろについてきた者たちに話します。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(ルカ福音書7:9)
主イエスはその場所からカファルナウムに引き返します。そして、使いの者が家に帰ると、この百人隊長の部下の病は癒やされているのです。
彼は、つまりこの百人隊長は、自分の言葉の重みを知っています、ですから主イエスの語る言葉の重みを、誰よりも知っているのです。同時に彼は自分の弱さも知っていました。自分の力のなさ、判断の誤り、迷いによって多くの部下を死なせ、その家族を悲しませてきた事実を負ってきたからです。でも、だからこそ彼は主イエスの言葉の中に真理を見いだし、主イエスの存在をユダヤ人たちよりも的確に見抜くことが出来たのです。そして彼は主イエスの言葉によって救われるのです。一つの事を気づかれた方も、おられると思います。主イエスと百人隊長は、ここまでまったく顔を合わせていないのです。たぶん、百人隊長はティベリアの会堂で主イエスの姿を遠くから見ている、とは、思います。しかし、直接言葉を交わしてはいません。でも、しかし、此処にあってこの二人は一致するのです。神の言葉の権威、その一言の重み、命を賭けた言葉の有り様をきょうゆうするのです。
しかしその後。この二人は顔を合わせます。それは何処か、というと主イエスを十字架に掛けるために、百人隊長の前に連れた来られた、との時です。彼はローマの軍人として、過越の祭りの中で、主イエスを十字架に付ける側に回る事になります。彼は十字架に付けられる主イエスをどう見たのか。ルカ福音書では主イエスが十字架上で息を引き取られる場面が、この様に描かれています。
「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。」(ルカ福音書23:44-47)
此処に描かれている百人隊長が彼であるのか、聖書には何も書かれていません。それは読み込み過ぎ、と言われるかも知れません。でも、私は同じ人物ではあろう、と私はこの聖書の箇所を読みます。
彼は自分に与えられたローマの軍人としての職務を全うして、神が他の誰でも無い、主イエスを十字架に付ける役割を、自分に与えた責務として、そこから逃げることなく、主イエスを十字架にかけるのです。そして、最後の最後の時まで主イエスの命を見届ける、その役割を果たすのです。
自分の弱さを知ること。自分に与えられた苦しみ、痛みに目を背けず逃げる事なく、痛みを痛みとして受け入れること。でも、そのようにして自分に与えられた命に正面から向き合うときに、私たちは私たちの命に対して、正面から向き合って下さっている神の本当の姿を知ることが出来ます。そしてその時に、主イエスの御言葉が私たちの救いの言葉になるのです。
その時、同時に私たちは苦しみ悩み痛みを負うトナリビトの魂の側に寄り添うことが出来る者に変えられます。私たちは神から与えられた信仰によって変えられます。
本当の信仰者とは、まず神を畏れる者であり、神を畏れるからこそ、神の深い愛を知っている者であり、さらにはその愛を、この世において実践する者なのです。
「新しい掟」2019/5/19
ヨハネよる福音書15:12-17
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ福音書5:43)この御言葉ほど、私たち信仰者を悩ませる言葉は無いように思えます。少なくとも私には、この言葉は幼少の頃からずっと重荷でした。
私の両親は信仰者でした。私も幼少期から教会学校に通い、不真面目ながらも御言葉に触れる機会が与えられていました。それでも幼い頃は苦手な友だちがいても「そんなものか」で済んでいました。でも闘争本能丸出しの血気盛んな青年期に入り、明らかに自分に対して敵対関係が生じる相手が現れたとき、一触即発、殴り掛かろうとする様な状況にあっても、私の頭の中にはなぜかいつも、この言葉が浮かんできたのです。そもそも「敵を愛する」という言葉自体が矛盾しています。愛せないから敵なのです。敵対する相手は精神的・肉体的に、徹底的に追い詰めて痛い思いをさせたい、懲らしめたいと思うから敵なのです。しかし、イエス様は敵を愛しなさいと話されます。
青年期が終わり少し落ち着いてきてから考えた事は、そもそも敵を愛するという行為自体が偽善なのではないか、ということです。つまり自分では敵を愛そうなんて微塵も思ってもいないにも関わらず「イエスさまがそう言われている」という理由で、本心を偽って敵を愛したとしても、それは偽善に過ぎない。その頃は「キリスト者は皆、自分を偽っている、嘘をついている」とまるで全ての信仰者を糾弾する様な想いに囚われました。少々、教会から離れた時期でもありました。その後、私は神学校に入りました。そこで私の「敵を愛する」という御言葉に対する様々な解釈は、まだまだ浅はかなモノであったと思い知らされました。組織神学の授業だったと思います。教授は講義の中で「敵を愛する」ということについて、こう説明されました。「私はあなたを愛することが出来ないけれど、神があなたを愛しているから、神を愛する私はあなたを愛する」という事です。
私は、それまで「愛する」という事について、「私が」自分の思いをもって相手を愛する事だと考えていました。つまり、私にとって愛という行いの動機は「私」にあったのです。でもそうではなく、愛の源泉は神にあったのです。神が私たちを愛しているから、神に愛されている私たちは、互いに愛し合うことができる。「私が」自分の力で誰かを愛そうなんて、そもそも烏滸(おこ)がましい事だったのです。この言葉を与えられて、私は救われました。それまで私は、自分の力で相手を愛さなければならないと、一生懸命になっていたからです。
人を愛そうとする時、どんなに純粋に愛そうとしても、心は弱いのです。何処かで相手からの見返りを求めてしまいます。そうして「何故私がお前を許して、愛そうとしているのに、なぜお前は私の思いに応えてくれない」となるわけです。もしくは、相手を愛すれば愛するほど、相手が自分に依存してきて、重くなってくる。「もっと構って欲しい」について行けなくなる。でも、それでも愛し続けることを自分自身に強要する、という事もありました。では具体的に、どうすれば良いのか。自分(人間の)の力で、自分の中の枯渇する愛から相手に与えようとしてはいけないのです。そうすると、共倒れになってしまいます。そうではなく自分自身も神と繋がり、さらに相手を神に繋げる事。主イエスに繋げること。敵を自分の力で愛するのではなく、敵を主イエスに繋げれば良いのです。共に「涸れる事のない愛の水源」である主イエスから、恵みとして愛をいただけば良いのです。
この教授の言葉によって、私は「愛する」という行いを再定義させられました。
さて、ここまで私が「神の愛」について話したのは、もちろん今朝与えらました、御言葉を的確に理解するためです。今朝与えられました御言葉を共に聴いていきしょう。
まず今朝与えられました御言葉は「主イエスの訣別説教」と呼ばれている箇所の始めの部分です。過越の祭りの中で主イエスと弟子たちは最後の晩餐の時を持ちます。イスカリオテのユダはその食事の途中で席を立ち、主イエスを裏切るために祭司たちのもとに向かいます。その後、主イエスは残った弟子たちに話します。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」(ヨハネ福音書13:33)主イエスはユダの裏切りが、これから自らに起こる全ての事の始まりであると知っています。この食事の後すぐに自分は捉えられ裁判に掛けられ、十字架に掛けられること。その時に、目の前に座っている弟子たちの全てが散り散りに逃げてしまうこと。この食事の時が、弟子たちとの最後の時間である事を主イエスは知っています。弟子たちに対し最後の言葉、遺言の言葉を残されるのです。
主イエスはこの訣別説教の最初に「ぶどうの木」の例えを話されます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(ヨハネ福音書15:1)主イエスはこの譬えを通して弟子たちに伝えようとしたことは、自分がいなくなった後も、神に繋がり続ける事。信仰に留まり続けること、でもそれだけではありません。
主イエスはこれより先、自分が弟子たちから離れて天に帰る事を知っています。その後、弟子たち一人ひとりに聖霊が下り、今度は弟子たちが、この世にあって御自分が為された働き、つまり人々に福音を伝え、神に立ち返らせること。倒れている者たち困窮した者たちを、立ち上がらせること。その働きを担っていく事を知っているのです。ですから、此処で主イエスは弟子たちに、その時の心構えを教えるのです。それが「ぶどうの木に繋がっていなさい」というこの譬えです。「あなた方の伝道の源(みなもと)は、あなた方の決意や力、努力や切磋琢磨にあるのではなく、神から与えられた恵みのみである」と、主イエスは弟子たちにお教えになるのです。ぶどうの枝はぶどうの幹から離れてしまうと、枯れてしまいます。でも繋がっているなら、養分と水分を十分に与えられ、愛という実を結ぶのです。弟子たちも同じように、自分の力に頼るのではなく神に繋がり、そこから与えられる恵みを多くの人と分かち合う事(礼拝に於いて)。そこに神が実を結んで下さる、と話されるのです。
さらに主イエスは、あなた方は自分の好みや意思や考えで、伝道の業を行ってはならない、何故なら、あなたがたは神の選びによって選ばれ、神の業の道具として用いられているからだ、と話します。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ福音書15:16)もし自分の意思や思いを動機(モチベーション)にして、弟子たちがこの世に対して伝道をするなら、それは只の人間的な自己満足を満たす行いになります。何故なら、心の弱い私たちは相手に対して、さらには自らに対しても見返りを求めてしまうからです。でも、そうではありません。私たちは全てを神に栄光を帰すのです。神が主体となってこの世の全ての人に福音を伝える働きを行い、その道具としてあなたがたは用いられている。と、主イエスは此処で明らかにされるのです。
道具というと、モノ扱い、の様にも受け取らてしまいそうですが、「神の良い道具」という表現は最高の褒め言葉だと私は思います。職人の道具のように神に用いられるなら。何度も研がれて、自分の手の一部のように使い込まれるなら。神のこだわりの道具になることが出来るなら。この世に於ける命の用いられ方として、最も喜ばしい事です。そして、霊肉共に自分自身の全てを神に全てを委ねた神の業の道具となった「私」と神との関係は、変化します。それまで神も前にあって保護された僕だった弟子たちに、主イエスは「あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ福音書15:14)と話すのです。「友」とはどういうことでしょうか。
主イエスは、この様に話します。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(マタイ福音書15:12)
ここで「掟」「命令」という言葉が使われていますが、この「掟」という言葉(e˙ntolh/)は聖書の中では「十戒」を指し示す言葉です。つまり、主イエスが此処で「掟」という言葉を使ったとき、弟子たちはその言葉を聴いて十戒と律法を思い浮かべた、という事です。十戒の最初にはこうあります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。」(申命記5:6-8)
神はこの世に生きる人々を愛し、彼らが神から離れないように、預言者モーセを通して十戒と律法を与えるのです。十戒と律法に留まるなら、あなたがたは神から逸れることはない。その様にして神は人を守るのです。でも掟を守る人と神との関係は主人と僕の関係なのです。しかし主イエスはこの十戒と律法に「愛」を補填(ほてん)して、完成させます。主イエスはこの様に話されます「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ福音書5:17)
主イエスは此処で律法の再定義をされるのです。
律法の中身は変わりません。でも律法に対する意識を主イエスは変更されました。今までは神の僕として律法に従う事を求められて来ましたけど、これからは自ら積極的に律法を守る者へと変えられるのです。その時、その人は僕ではなく主イエスの友、同労者となるのです。
私たちは信仰者として、この世にあって、全ての人を主イエスに繋げ、神に繋げる役割を与えられています。間違ってはならないのは、全ての人を教会に繋げるとか、特定の信条や主張に繋げるのではない、まして自分に繋げるなんて事をしてはいけない、ということです。苦しんでいる人、悲しんでいる人、困惑しているひと、迷っているひとを、自分の力で助けようとするのではなく、その人たちを主イエスに繋ぐこと、それが私たちの与えられたこの世での働きです。
また、愛する事についても同様です。自分の力で、自分の中にある枯渇する愛から、分け与えるのではなく、その人を愛の源である主イエスに繋げること、無理に愛する必要はありません。その人が主イエスに繋がるように諦めず信じて祈り続ける事。可能なら幾人かで心を合わせて祈ること「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ福音書18:19)共に歩みましょう。
「生きる為に必要な2つの糧」2019/5/12
ヨハネによる福音書6:34-40
コリントの信徒への手紙の中で、パウロは「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(Ⅱコリント4:16)と話します。
確かに私たちの肉体は衰えていきます、でも私たちの肉体の十五パーセントを形作っているタンパク質は常に新陳代謝を繰り返して、一日に一%ほど入れ替わっています。そしてこのタンパク質を私たちは食事をする事によってのみ摂取する事ができます。
食事によって摂取されたタンパク質は胃や十二指腸で分解されオリゴペプチドやアミノ酸になります、そして小腸の表面の膜で吸収されます。そのあと肝臓に貯められ、身体に必要なタンパク質の材料となります。つまり、私たち摂取した食物は細かく分解され、私たちと同化し身体の一部になっているのです。そして、私たちの肉体は毎日変化しています。昨日の自分と今日の自分は同じではありません。少なくともタンパク質としては四十グラムずつ入れ替わっています。つまり、私たちの肉体も、日々新しくなっているのです。
では私たちの魂は、どうでしょうか。神は、人をどの様な存在として創造されたのか、というと、創世記にあるように、神はアダムの肉体を土から作り、霊(pneuvmaピネウマ、草原を吹き抜ける風)を吹き込ました。つまり人はこの世にあって風や水の流れのように流れ、移り変わる存在として創造されたということです。つまり私たちは、その肉体も魂も、日々変化し新しくされている、のです。
にも関わらず、私たちは昨日の自分と今日の自分がまったく同じであると、考えます。何故なら、私たちはそれぞれ自我(エゴ)を持っているからです。自分は自分、変わる事などない、そう考えずにはいられないのです。もし「自分が変わってしまう」と考えるなら、自分が誰か分からなくなり不安に陥ってしまうのです。だから「昨日の自分と今日の自分、明日の自分も変わらない」と考えるのです。「私」という存在はこの世にあって、風の様に流動的であるにも関わらず、揺るぎなく確固たる存在であるか様に振る舞ってしまうのです。
なぜ、この様な事を話したのか、というと今朝与えられました主イエスの言葉「わたしが命のパンである。」(ヨハネ福音書6:36)という御言葉を理解する為です。
主イエスは私たちに「わたしが命のパンである。」と話されます。この言葉をストレートに理解するなら「私を食べなさい」という意味です。でも、もう少し丁寧に読み解くなら「私をあなたの身体の一部、魂の一部としなさい、あなた自身も新しく作り変えられなさい」と主イエスは話しているのです。主イエスを自らの魂に招く事によって「私」が変えられること。そこに私たちの求めるべき「神からの救い」があります。今朝はその事を共に御言葉に聴いていきたいと思います。
さて、今日の御言葉の場面は、主イエスがガリラヤ湖の対岸で五千人もの人々を五つのパンと二匹の魚で満たした、一般に五千人の給食(きゅうしょく)から続く箇所です。主イエスはエルサレムからナザレのカファルナウムに帰ってきます。しかし、そこには主イエスの帰りを待つ多くの人が集まっているのです。そこで主イエスは弟子たちを連れて、舟に乗りガリラヤ湖の反対側まで移るのです。
しかし、人々は主イエスの後を着いてくるのです。彼ら舟を追って見失わないように湖岸を歩いて、主イエスの乗った舟が付けられた湖畔にたどり着きます。主イエスは集まって来た人々の心の飢えを受けとめられ、その場に留まります。そうして、湖岸の低い丘の上に座り、集まって来た人たちに話しを始めるのです。徐々に人々の数は増えて、五千人程になったと聖書には書かれています。そうして徐々に夕方が近づいてきました。そこでシモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言います。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」しかし主イエスはそのパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられます。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられます。人々はそのパンと魚で満腹になるのです。
次の日、主イエスはカファルナウムに帰ります。そこにナザレ地方の首都、ティベリアスからの舟が着きます。彼らは主イエスの行った給食の奇蹟の事を聞いて、主イエスを探しに来た者たち、聖書は「ユダヤ人たち」と記しています。彼らはティベリアスの宮廷に仕える祭司たちとも言われています。真偽は分かりません。少なくとも彼らが教養のある身分の高い者たちだと、主イエスの事を「ラビ」(先生・賢者・覚者)と呼ぶことから推察できます。彼らは主イエスのなさった五千人の給食(きゅうしょく)の出来事を聞いて、すぐに主イエスをモーセの再来かもしれない、と考え、その確認をする為に、此処に来たのです。
預言者モーセの再来とは、モーセがエジプトからユダヤの民をカナンに導く物語の中に描かれている、マナの出来事のことです。モーセに導かれた人々はカナンに向け荒野を移動します。しかし、過酷な自然環境の支配する荒野(乾燥、高温、日射、干ばつ)には十分な食料はありません。しかし神は空からマナというパンを降らせて、彼らがカナンに着くまでの間、彼らを飢えさせないのです。
主イエスはモーセの再来であるなら、預言者であるなら、今、イスラエルの負わされている深刻な状況を打開してくれるのではないか。その深刻な状況とは、イスラエルがローマ帝国に支配されている状況についてです。神は自分たちをローマの支配から解放するために、主イエスを使わしたのではないか。彼らはそう願うのです。
ではそのような、彼らの期待に対して、主イエスはどう答えたのでしょうか。
「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(ヨハネ福音書6:32)
主イエスは彼らの心を知っています。ですから主イエスはマナの事を「朽ちる食べ物」と言い表します。そして、朽ちる食べ物ではなく朽ちない食べ物を求めなさい。と話すのです。彼らは「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と求めます。しかし主イエスが返された答は、彼らの理解を超えた言葉でした。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ福音書6:34)
「私が命のパンである (e˙gw¿ ei˙mi oJ a‡rtoß thvß zwhvß:)」とはどう言う意味でしょうか。それはつまり主イエスを「介して」神からの救いが、この世に与えられるということではなく、主イエス御自身、つまり「私が」その存在自体が、あなた方の救いなのだと、主イエスは話すのです。
主イエスを尋ねてカファルナウムに来た者たち。彼らは主イエスが癒しの業を行う姿を見ています。主イエスの行われた、さまざまな奇蹟の業を見ています。また主イエスの口から語られる預言の言葉を聞いています、聖書の説き証を聞いています、愛に満ちた慰めの言葉を聞いています。祈りを聞いています。祭司よりも威厳をもって語る祭儀の言葉を聞いています。貧しい人、虐げられている人の所に下りていかれる姿を見ています。
その主イエスの姿を見て彼らは、主イエスを「介(かい)して」神からの救いが与えられ、自分たちもその救いの中に入れられると信じ、そして主イエスに従うなら救われる、と信じるのです。さらには主イエスに自分たちを導いて欲しいと望むのです。
しかし彼らは、主イエスから与えられる救いの最も究極のみ業を、見てはいないのです。彼らが見ているのは、主イエスから与えられる救いの二次的な断片に過ぎません。それは影の様なものです。身体に光が当たり、その地面にその影が伸びます。その影と同じなのです。そこに本当の救いはないのです。
どういうことか。主イエスの教えを学び、それを自分の教養や知識にする、といった第三者としての立ち位置ではなく、主イエスの命に自らの命を埋没させる事。主イエスの魂を自らの魂に宿すこと。「私」自身が何も変わらずに、主イエスから与えられる救いを(ファッションのように)まとうのではなく、私自身が一度、主イエスの掛かられた十字架に共に架かり、死を味わい徹底的に壊されて、主イエスと共に復活し、新しく作り替えられる。その過程を通して私自身が主イエスと同一の者となる。同化する。その結果、主イエスがこの世にあって為されたように、今度は「私」がこの世に神の救いを証しする者とされる。自己愛ではなく自己犠牲を伴う愛を基軸とした、他者を配慮した生き方を歩むこととなる。それが「私が命のパンである」の意味なのです。
とはいえ、最初に話した様に、私たちは自我(エゴ)を持っています。自分を壊すことに強い抵抗を覚えるのは当然なのです。でも主イエスは「私を信じて、安心して自分を捨てなさい」と話されます。聖書にはこの様に書かれています。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネ福音書6:29)またこの様にも書かれています。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ福音書16:24)もし、あなたが自我(エゴ)を捨てて主イエスを魂に受け入れたとしても、神と私との関係は微塵も損なわれない。だから信じて、安心して自我(エゴ)を捨てなさい、と主イエスは話されるのです。
そして、古(いにしえ)から教会は信仰者が、この難解な「私が命のパンである」という主イエスの言葉を受け入れられる事が出来るように、教会に於ける大切な聖礼典として「洗礼」と「聖餐」を定めています。「洗礼」は主イエスの十字架の死を覚えて、自分自身も一度、死を味わうことです。自分のエゴをそのままに温存して、主イエスの教えを教養として、もしくは知識として学ぶのではなく、洗礼という儀式を通して一度まったく自分という自我(エゴ)を捨てる経験をするのです。そして主イエスの復活と共に与えられた新しい命は、自我(エゴ)の束縛から自由にされます。
「聖餐」はパンを主イエスの十字架で裂かれた御身体として、葡萄酒を十字架上で流された血として頂きます。それは主イエス御自身の肉を自らの肉とし、その血を自らの血とすることです。主イエスの血と肉を自らの中に取り込み。主イエスと同一の者となること。主イエスの魂である聖霊を自らの魂に招き、宿すこと。私たちは文字通り主イエスを命のパンとして頂きます。それが洗礼と聖餐の意味なのです。
その様に主イエスの霊、つまり聖霊を自らの魂に宿すなら、その信仰者の救いに対する関心は、自分自身つまり「私」の救いではなくなるのです。「私」が救われる事ではなく「主イエスを自らの魂に招き、主イエスに一致し同化した私が」今度は、私が神の道具として、この世の救いになる。私自身が世の光になる。そして、その事を主イエスは私たちに求められているのです。主イエスはこの様に話します「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ福音書12:36)
私たちは、共にこの世にあって光としての役割を負いつつ、共に歩みましょう。
「朽ちない命」2019/5/5
ルカよる福音書24:36-43
以前、アメリカのメソジスト系教会の高校性キャンプに参加させて頂いた時の事です。彼らは私の辿々(たどたど)しい英語に合わせてくれて、自分たちの信仰について時間をかけて話しをしてくれました。その会話の中で私が衝撃を与えられたのは、彼らが考える「自分と神」、「自分と主イエス」との関係性でした。その当時、私の思い描いていた神の姿は「畏(おそ)れの対象、自分を叱りつける父」でした。また主イエスに対しては「教室で生徒を教える教師」であるかのように、考えていたのです。でも彼らの意識はまったく違いました。彼らの多くは神を、自分を受け入れてくれる方(God accepts me)自由にしてくれる方(God makes me free)と表現します。そして、主イエスは自分と共に歩いてくれる友の様な方(God is with me)と話すのです。彼らにとって信仰生活は日常生活だったのです。
私たち日本人にとって、およそ宗教的な事柄は、例えば苦行や忍耐を越えた者だけに与えられる報償(ほうしょう)のような感覚があります。山に籠もって白装束を着て滝に打たれて、といった、苦行の果てに悟りを開くという印象です。キリスト教信仰にしても、教会に頑張って通う。神学を頑張って学ぶ、我慢して、摂生して、抑制して、歯を食いしばって信仰にとどまる、それが整った信仰者であるかの様な印象です。
そのどちらがよいか、という事を此処で話そうとしている訳ではありません。でも正直、私は、彼らの信仰に触れて「気が楽」になりました。パウロの様に目から鱗は落ちませんでしたけど「そうか、信仰は喜びなんだ」と気づかされたからです。
信仰は喜びです。何故なら私たちは主イエスの復活によって救われたからです。主イエスは自らの命を傷の無い完全な犠牲として神に捧げられました。その犠牲によって、神は私たちと和解して下さり、私たちは本来、帰る場所(神のもと)に帰る(帰属する)事ができる者たちとなりました。だから私たちは、この世の命を安心して十分に喜び、輝かせることができるのです。
さて、今朝与えられた御言葉の箇所は、先週、共に聞きました「エマオ途上」の物語のすぐ後の出来事です。
復活した主イエスと共にエマオへの道を行き、夕食の食事の席で復活された主イエスの姿を見たクレオパともう一人の弟子は、すぐにエルサレムに引き返します。彼らは使徒たちや仲間の弟子たちに主イエスが復活された事を伝えなければならない、加えて自分たち主イエスから説き証しを受けた十字架と救いの意味を、すぐに、他の十一人の使徒たちや他の弟子たちに伝えなければならない、と考えるのです。日が暮れてから、数時間経った後の事ですからもう辺りはすっかり暗くなっていたでしょう。でも彼らは向かうのです。エルサレムに着いてクレオパともう一人の弟子は、十一人の使徒たちがいる家の二階の広間に入ります。そこには、使徒だけではなく日曜日の夜だというのに多くの主イエスに従っていた弟子たちも既に集まっていました。そして彼らは「本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。」(ルカ福音書23:34)と話し合っているのです。それは本当の事か、それとも亡霊を見ただけではないか、と喧々諤諤(けんけんごうごう)としているのです。
そこでクレオパともう一人の弟子は、私たちも復活された主イエスに会った、と、話します。彼らは使徒たち仲間の弟子たちの前で、自分もエマオへの帰り道で自分が復活された主イエスと出会った、共に帰り道を歩いたと伝えるのです。そして主イエスが解き明かしてくれた、十字架と復活の意味について、他の弟子たちに話します。十字架と復活によって神と人との和解が成立したこと、アダムから続く、人と神との約束が成就したことについて、主イエスが教えてくれた事、彼の魂に落ちた言葉の全て、他の弟子たちに話すのです。
クレオパが皆に話している内に、彼らの真ん中に主イエスが立ちます。聖書にはこう書かれています。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(ルカ福音書24:36)
この「あなた方に平和があるように」という言葉ですが、原文では一言「シャローム」です。私たちの感覚からいうと「おはよう」とか「こんにちは」という日常の挨拶の言葉です。もっと、くだけた感じで「やあ」と訳して良いかもしれません。
突然の出来事に弟子たちは驚きます。(ルカ福音書24:37)たぶん弟子たちの何人かは腰を抜かして、その場に座り込んだのだと、そんな場面が思い浮かびます。しかし、そんな彼らを主イエスは制します。「『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。」(ルカ福音書24:39-40)
主イエスは、生きていた時のままの肉体を持たれた形で、目の前に立っているのです。しかも自分に触ってみなさいと、そう話されます。主イエスの身体に触れることができる。確かに主イエスは肉体を伴った姿で、目の前におられるのです。でも、それでもまだ半信半疑の者たちに対して、主イエスは話します。「『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」(ルカ福音書42:42-43)
この、焼いた魚の一切れについて、この魚は明らかに、弟子たちの食事の残りものです。その残り物を主イエスは食べられるのです。自分たちの食べた物と同じ物を、主イエスは食べて下さった。この場に集まっていた者たちは、主イエスが亡霊や幽霊ではなく、肉体を持った主イエス、本人である事を確認するのです。
主イエスが肉体を伴って復活された事について、その意味は明確です。神はアダムをこの世に創られたときのことが創世記にはこの様に書かれています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)つまり、神の創造の秩序によって定められた事として、この世に存在する者は、肉体と霊の両方を一つの所に持っていなければならない、のです。ということは、この世には霊だけで存在する者はいない、亡霊や幽霊といった死者の霊が彷徨う事はないのです。(聖霊は神の霊、神の息であり、悪霊は神と人とを分かつ作用ですから、これらとは違います)ということです。ですから、主イエスは肉体を持たれたのです。そしてもう一つ、それは弟子たちと触れ合うためです。目と目を見て言葉を交わすためです。交わされる言葉は、双方の人格的な関係の上に成り立って始めて意味を持つからです。
主イエスの復活によって、この世と天の境界線は掻き消されました。つまり、それまでは遠くに居て私たちを胃を痛くしながら見守って下さっていた神が、主イエスとして、私たち一人ひとりの魂に寄り添って下さる所まで、つまり私たちの日常にまで下りて来られたのです。さらには聖霊として、主イエスに従う者たちの魂に宿って下さった。神は自分を受け入れてくれる方(God accepts me)自由にしてくれる方(God makes me free)自分と共に歩いてくれる友の様な方(God is with me)となって下さったのです。
そしてもう一つ、主イエスの復活の出来事を通して、世界は大きく変わったことがあります。それはこの世にあって礼拝の捧げ方がまったく変わってしまった、という事です。何故、旧約聖書に定められた礼拝と、新約聖書に描かれている礼拝がまったく違うのか、疑問に思われていた方も、おられると思います。なぜ主イエスから聖霊を受けて産まれたエルサレム教会には祭司がいないのか。エルサレム神殿ではなく、世界の何処でも礼拝が捧げられる様になったのか。
それまで神に捧げる礼拝は。エルサレム神殿に仕える祭司たちによって執り行われていました。彼らは季節ごとの祭儀を取り仕切り、人々が持ってくる捧げ物を適切に処理し、羊、雄牛などの生け贄については、律法に書かれた通りに正しく捌き、神に捧げていたのです。しかし、主イエスの復活によってもうこの世にあっては、人は神に犠牲を捧げる必要がなくなりました。何故なら罪のない神の独り子、主イエスが十字架に架かり、自らを傷のない完全な犠牲として、御自身を神に捧げられたからです。ですから、もうこの世にあって人は二度と神に犠牲を捧げる必要がなくなったのです。ヘブライ人への手紙にはこの様に書かれています。「しかし、主イエス御自身が自らを完全な傷のない捧げ物として、すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じ生け贄を、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一の生け贄を献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。」(ヘブライ人への手紙10:10-14)主イエスの復活のあと、私たちは祭司を介して神と関わるのではなく、それぞれが与えられた聖霊によって直接神と関わる者たちとなりました。ですから私たちの礼拝は祭司が取り仕切るのではなく、牧師がリードする、信仰の方向を指し示して導く、という形で行われています。そして礼拝に於ける祭儀、これは教会では聖礼典と言いますが、ただ二つだけです。主イエスが「こうしなさい」と話された、聖餐(マタイ福音書26:26)と洗礼(マタイ福音書28:19)です。もう私たちは犠牲の生け贄は捧げなくても良いのです。
私たちは主日に礼拝に集まり、救われた喜びを共にする神の家族と感謝の賛美を捧げ、心を一つにして祈ります。聖餐の食卓を囲み、恵みを受けます。そして「世の隅々まで行って福音を伝えなさい」という言葉に送り出され、教会を後にするのです。
神は私たちにとって遠くにおられる方でしょうか。そうではありません。神は主イエスとしてこの世に下られ、私たちの肉体と魂に触れて下さり、後に聖霊として私たちの心に宿られました。だから私たちが御言葉を読むならば、その行間に愛を感じ、深い洞察を与えられるのです。それは耳元で聖霊が直接その意味を紐解いてくださるからです。そして心を主イエスに向けて祈るとき、その祈りは神に届く祈りになります。身構える信仰ではなく普段着の信仰を、ともに歩んでまいりましょう。
礼拝説教原稿
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