礼拝説教原稿

2019年4月

「エマオ途上」2019/4/28

ルカよる福音書24:13-35

私が今、入院している病棟に、とても可愛らしい看護師さんがいます。そして、一人の青年の患者が彼女に一目惚れしました。その若い彼が、顔を合わせる度に「●●さん可愛いですよね、脈計ってもらうと、脈が上がっちゃって」とか「採血だったんですけど、もう十本位採って欲しかったです」と会う度に盛り上がっています。彼の話を聞くのは五十代から七十代のおじさんたちです。暇なので、みんなで彼の話を丁寧に聞きます。

「やっぱり電話番号教えてもらうとかLINEとかダメッスかね」、「いや手紙にしなさい、手書きでないと心は通じないよ」とアドバイス。彼は必死になって手紙を書きます。「いやぁ、文字を書くの学校以来です」。彼の誤字脱字だらけの手紙をみんなで訂正し、その度に彼は何回も書き直します。「昼間の血糖値の測定は、彼女一人で廻るから」と、一ヶ月入院以上されている方が彼に耳打ちします。こうして、おじさんたちが、遠目で見守る中、彼は無事にその手紙を渡すことができました。

でも、残念ながら彼の願いは叶いませんでした。「お付き合いしている方がいます、ごめんなさい」との返事。私は彼を見ながら、久し振りに「恋をする」という感覚を思い出させられました。

彼の恋は終わりました。でも、もし、彼のこの一方的な恋を彼女が受け入れてくれたなら、二人の関係は先に進み始めたことでしょう。それから共に過ごす時間が増え、会話が重ねられ、嗜好や価値観が考え方、視座が共有されます。時々喧嘩をして相手との距離を測り合い、仲直りをする。彼や彼女の仲間とも関わり、家族とも関わり始める。その関係性の拡大と共にお互いの目に見える、外面だけではなく、心の奥深い、魂の深淵を共有するようになります。

その過程を通して「一目惚れの恋」は「相手を愛(いと)おしくおもう」という感情に昇華(低次の満足が高次の満足に置き換わる)していきます。恋(こい)が愛(あい)に、好(す)きが愛(いと)おしいに変わるのです。

今朝、私は何も皆さまに「恋愛論」を話そうとしている訳では…当然(とうぜん)ありません。そうではなく、今朝、与えられました御言葉に描かれているクレオパの心の在り方を伝えるためです。

クレオパは主イエスと出会い、憧れ、従います。でも彼の見ている主イエスは、その表面なのです。しかし、クレオパが主イエスとの関係を深め、その魂の奥底にまで行き着く前に、主イエスは十字架に掛けられて、殺されてしまいます。つまりクレオパにとっての主イエスとの関係は、恋と失恋の段階で途切れてしまうのです。でも主イエスはそんなクレオパの側に来て、寄り添って歩いて下さいます。主イエスが、関係を先に進めて下さるのです。そしてクレオパの一方的な恋は、相互の関わり、つまり愛へと昇華(低次の満足が高次の満足に置き換わる)します。その過程が、今朝、私たちが与えられたエマオ途上の物語です。

さて、今朝与えられました、聖書の場面は、主イエスが十字架に架かって死んで葬られてから三日の後の事です。エルサレムで行われていた過越祭が終わり人々は帰路につきます。ユダヤ各地方に広がっていく主要幹線道路には多くの人々が歩いています。その流れの中にエマオへと帰るクレオパと、もう一人の弟子がいます。エルサレムからエマオまでは六十スタディオンとあります。だいたい十二キロメートルの距離ですから、朝にエルサレムと出発して、夕方には家に着く位の距離です。彼らがエマオへの道を「この一切の出来事について話し合」(ルカ福音書24:14)いながら歩いていると「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」(ルカ福音書24:15-16)と聖書には書かれています。その男の人は二人に尋ねます。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」クレオパは驚きます。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」(ルカ福音書24:18)この人はあれだけの騒ぎになった事件の只中にいながら、まったく何も知らないのか、それだけではなく、エルサレムにいながら主イエスの事も知らない人などいたのか、と、クレオパは呆れるのです。そして彼はこの人に、エルサレムで起こった出来事を事細かに説明し始めます。

主イエスがどんなに素晴らしい方であったのか、愛に富み、その言葉には神の威厳があり、聖書の知識に精通しているだけでなく、誰も手を触れようとしなかった病人や障害を持つ者の所に行き、屈んでその人の目を見て話し、心に寄り添う。祭司、貴族、ファリサイ派の学者たち、また、ローマの権力者に対して臆する事なく対等に話す、時に叱責する。なぜ、あの方が十字架に架からなければならなかったのか。なぜ苦しまなければならなかったのか。あれ程、主イエスを歓迎していた人々になぜ見棄てられたのか、なぜ主イエスは失敗したのか。

クレオパは自分が見て聞いた事の全てを、この男の人に話します。でも彼が話す主イエスには、決定的な欠けがあるのです。彼はこの様に話します。

「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」(ルカ福音書24:19-20)クレオパは主イエスを預言者として見ているのです。そして彼は、主イエスにイスラエルの解放を望んでいました。この時代、ユダヤは独立した国家として認められてはいましたが、事実上ローマ帝国の属国として扱われていました。クレオパが主イエスに望んでいる救いとは、民族としてのユダヤの解放、つまりこの世の事柄なのです。そして、クレオパの主イエスに対する期待と望みは潰(つい)えしまうのです。

「でも、最後の最後に不思議な出来事が起こったのです」とクレオパは続けます。安息日の明けた朝、婦人たちが墓に亡骸を整える為に出かけたのだけれど、墓は空で、主イエスの亡骸がなくなっていた、というのです。(ルカ福音書24:22-26)彼は、これはどういうことなのだろう、と、考えるのです。

そこで、今まで沈黙していた主イエスが話し始めます。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(ルカ福音書24:25)

そして主イエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」(ルカ福音書24:27)このモーセとはモーセ五書を意味します、つまり主イエスは創世記から始めて、アダムの罪によって神と人とが断絶した事。その後の神と人との関わりについて話し始められた、ということです。神がこの世に遣わすメシアとは誰であるのか、そもそも人の救いとはなにか、主イエスは彼に解き明かされるのです。そして主イエスは、そのメシアの犠牲の血、御苦しみによって神と人とが和解が成立し、この地上の全ての人が天へと無事に帰ることが出来るようになったのだと、全ての人が神の救いに入れられたのだと、クレオパに説くのです。

先週、私たちはイースターの礼拝を共に守りました。その説教の中で、私は主イエスの復活の意味について、アダムから始めて説明しました。主イエスの復活の意味を正しく理解するには、アダムから始めて、預言者の言葉をたどって行かなければ、たどり着くことはできないのです。

そして主イエスの語られる御言葉の説き証しを聞いて、クレオパは墓穴に主イエスの亡骸がなくなっていた理由を悟ります。そう、主イエスが十字架に架かり殺されたことは、失敗や敗北ではなかったのです。それは既に旧約聖書によって予期されていた神の救いの計画の成就であり、主イエスは預言者ではなく聖書に記されているメシアその人だとクレオパは理解するのです。クレオパの頭の中で主イエスの側にいたときに聞いていた言葉、一言一言の意味が繋がっていきます。主イエスが十字架と復活で為した救いは、ユダヤ民族の解放などという浅い救いの話しではない、彼は神の壮大な救済史、救い業を見るのです。

そして一行はエマオに着きます。主イエスはさらに先に進もうとしますが、クレオパは主イエスを引き留めます。「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」(ルカ福音書24:28)主イエスはクレオパの勧めに従い、彼の家に泊まることにします。直ぐに夕食の準備が始められ、食事の席が用意されます。そして皆が席に着くと、主イエスはパンを取り賛美の祈りを捧げてパン裂いて、家族にお渡しになります。それは不思議な出来事です。本来、食事の席でパンを裂くのは、その家の主人であるクレオパの役割だからです。でも、その時、クレオパの目が開けて、目の前におられるのが主イエス御自身であると分かります。復活した主イエスが目の前におられる。でもその瞬間に主イエスの姿が見えなくなります。

主イエスは確かに復活された。すぐにクレオパは立ち上がります。

クレオパは、今まで主イエスが与えてくれる恵みだけを求めていました。でも、主イエスはクレオパが気付くより先に、クレオパのために十字架の苦しみを受けて、ゴルゴダの丘に血を染められていたのです。自分の命を犠牲として捧げる事を厭わず、自分と関わってくれていた。しかも復活されたあと、エマオへの道を共に歩いてくださり関わり続けてくださっていた。クレオパは「自分は既に主イエスに捉えられていた、救いに入れられていた」ことに気付くのです。

この瞬間に、クレオパの主イエスへの思いは昇華します。そして今度はクレオパが主イエスの思いに応えるために立ち上がるのです。彼はただちにエルサレムに戻ります。そして自分の経験した事を、他の弟子たちに伝えます。主イエスが復活された事、そして、その復活によって自分たちも救いに入れられた事を伝え、喜びを分かち合うのです。この復活の喜びに満たされた使徒たちは、この喜びを、もっと多くの人と分かち合うために、全世界へと伝道に向かいます。今度は主イエスに頼るのではなく、自分たちの足で進み始めるのです。

私たちもこの喜びを以て毎日を歩みましょう。そして失望と落胆の闇に心を奪われ、自分は赦されることがない、救われる事もない、と話す人に「あなたは救われていると」喜びを以て伝えましょう。闇の中に彷徨う魂に、光を投げかけましょう。私たちは光の子となるために、この世に選び出されたのです。大丈夫、どんな事があっても神さまが助けてくださいます。守ってくれます。主イエスがエマオ途上でクレオパの魂に寄り添い歩まれた様に、私たちも、その主イエスに従いましょう。

「神と共に立ち上がる」2019/4/21

ルカよる福音書24:1-12

イースターおめでとうございます。神は主イエスが十字架上で捧げた自らの命を、和解の捧げ物として受け入れて下さり、主イエスに従う私たちは神の救いに与(あずか)る者たちとなりました。私たちは主イエスの十字架の犠牲と復活によって、完全に神の救いの内に入れられたのです。

「私たちは(既に)救われています」。この言葉がイースター礼拝にあって、私たちが与えられている言葉です。この福音の言葉が、私たちが信仰するキリスト教信仰の核心、ど真ん中にある言葉です。私たちは「これから」救われるのではありません。熱心に教会に通えば救われるとか、もっと聖書を勉強すれば救われるとか、もっと教会の伝道に貢献すれば「これから」救われる、のではありません。そもそも「人間業で人間が」救いを得ることは不可能です。誰も自分自身を背負って歩く事が出来ないように、私たちは自分自身の努力や働きの結果として、救われる事はありません。唯一私たちを救われるのは神の力のみです。私たちは神からの一方的な恩寵(おんちょう)によって、救いへと入れられます。「神は、自らの独り子を犠牲として捧げ、この世に生きるすべての人を救いへと導かれました」この神の救いの業に人間の力は一切、関与していません。

では、なぜ私たちは教会に集まり礼拝に集うのでしょうか。一般に礼拝というと、神に自分自身の救いとか、家族、世界の平和を祈って、願いを叶えて貰うため、救いを与えられる為、というイメージがあります。でも、そうではありません。私たちが礼拝を捧げる意味は、神が私たちを救って下さった事への感謝を表すためです。礼拝は私たちの心からの喜びを捧げ、感謝を捧げるために備えられた場です。

とはいえ「一方的に神が、既に私を救ってくれたのなら、別に感謝する必要などないではないか」と考える事も出来ます。でも、それは幼い考え方です。私たちが神の恵みに生かされている事を自覚し感謝するとき、私たちの魂は幸いに満たされるのです。その時、私たちそれぞれの魂は成熟します、大人(一つの独立した人格存在)になります。

例えば「何で俺を産んだんだ」と親に刃向かう思春期の青年の心は闇と悲惨、混乱に支配されています。魂の平安とはほど遠い場所にあります。しかし彼が自分の親の心を知り、感謝を覚えたとき、彼の魂は大人になります。関係性は回復し幸いに満たされ、そのとき始めて彼の魂は成熟するのです。

今朝、私たちは「私たちは既に救われている」ということについて、与えられた御言葉から、もう少し丁寧に聴いていきたいと思います。今朝与えられた御言葉の場面には、こうあります。

主イエスは十字架から引き下ろされて直ぐに、サリマタヤのヨセフが自分のために用意しておいた、まだ新しい墓に納められます。引き下ろされてから、安息日が始まる日没まで僅かしか時間がなかったので、主イエスの亡骸には香油や没薬が塗られる事なく、亜麻布で包みそのまま、墓穴の中に寝かされます。そのあと墓の入り口は直径二㍍厚さ三〇㌢程の円盤状の岩で閉じられます。

安息日があけた日曜日の早朝、まだ日が明ける前に、主イエスに従っていた婦人たちは香油や没薬、それに新しい亜麻布を持って、主イエスの納められた墓に向かいます。主イエスの亡骸を整える為に。しかし彼女たちが墓につき、見ると、「石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たら」(ルカ福音書24:2)ないのです。彼女たちが途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れ話しかけます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」(ルカ福音書24:5)私たちにとっての「救い」とは何か、その手掛かりとなるのがこの言葉です。この「空の墓」が神の救いのキーワードなのです。

では私たちが普通にイメージする「救われる」とは、どういうことでしょうか。

例えば病気に掛かり入院し呻いてる人にとって、痛みや痒み、不快感が取り去られること。それが当面の彼の求める救いです。でも、それが彼にとっての最終的な救いかというと、どうでしょう。何故なら、いつか彼の病が治ったとしても、彼はまた別の病気に掛かります。もしくは別の労苦を負う事になります。人は必ず、この世にあって苦しみの内に置かれているのです。病が取り去られることを「安価な救い」とは申しません。それは彼にとって十分な救いです。ただ、主イエスの復活によって与えられる救いとは比べることができません。

主イエスの復活によって、私たちが与えられた救いとは、なにか、使徒パウロはこの様に話します。「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ロマ書5:17)

この「一人の罪」とは創世記の最初、神が創造された初めての人間、つまりアダムの事です。神はアダムを御自分の形に模って創られ命を吹き込まれました。しかしアダムは神に離反し神の元から離れるのです。この時から人と神の間に、決して越えることのできない深い溝が生じます。

楽園を離れたアダムは地上でエバと共に土を耕し家畜を飼い生きます。しかし故郷に帰る道を閉ざされた彼らの心は常に望郷の思いを抱きつつ、いつか天の国に帰る日の事を望み続けるのです。そして彼の子どもたち、その後の子孫もいつか天に帰る事を望みつつ、この世を歩みます。では神はそんな彼らを眺めながら沈黙しているのかというと、そうではありません。神は我が子が地上で苦しむ姿をみて、自分の内蔵が千切れそうなほどに(エレミア書30:20)苦しむのです。そこで神はこの世に預言者を用いて自らの言葉を人々に伝えます。さらに預言者モーセを通して十戒と律法を与え、祭司アロンを通して祭儀を定められます。人が悲惨へと進まない様にされるのです。詩編にこの様に書かれています。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」(詩編23:4)神は羊飼いが自らの羊を導く様に、律法と祭儀をもって鞭と杖とし、人をまとめ導くのです。

そしてもう一つ、預言者は神が救い主(メシア)をこの世に送ると約束された、と伝えます。例えば預言者ミカはこの様に話します。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」(ミカ書5:01)人々は天の国にいつか帰る事を望みつつ、神との和解を果たされる救い主が来られる事を希望し、ひたすら待つのです。

でも、神と人との断絶は続いています。ですから人は死の後も天に帰ることはできず、いつかメシアが現れ神との和解が成立する時まで、人は陰府に寝かされ続けることとなります。生温く黒いコールタールのような場所に寝かされ、メシアが来て、手をとって立ち上がらせてくれるまで、その時を待ち続けなければ為らないのです。

しかし、ついにメシアが現れます。神が約束されたメシアである主イエスは自らの命を神との和解の捧げ物として捧げ十字架に架かり死にます。そして陰府に下ります。肉体を持ったまま陰府には下れないからです。そして陰府の暗黒を光で照らし、寝かされている全ての者たちを天に送ります。マタイ福音書には主イエスの死の時の事がこの様に描かれています。

「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(マタイ福音書27:51)「神殿の垂れ幕」とは、この世と神の世界の断絶の象徴です。アダムの罪によって隔てられた二つの世界の間にあった乗り越える事の出来ない深い溝を象徴するものです。この幕が避けた、つまり神は主イエスの犠牲を和解の捧げ物として受け入れた、それゆえに、この深い溝が消えるのです。そのあと、主イエスは人々が寝かされている陰府(シェモール)に下られ。「墓を開かれる」のです。

その後、三日目に主イエスは、肉体を以てこの世に現れます。なぜなら生きている者たち、つまり使徒たち、この世で交わった愛する者たちに直接、神との和解が完成した(神の約束の成就)ことを伝えるためです。主イエスが肉体を持ってこの世に復活されたのは、この言葉を自らの口で(正常な人と人との、つまりこの世の関係性の中で)伝えるためです。その後に主イエスは天に帰られ、使徒たちに聖霊が送られます。聖霊はこれから生きる者たちを天に迎えるための働きを担うのです。

イースターというと、一般にはウサギとか玉子とか、その程度のイメージで捕らえられているように思います。少々キリスト教の知識を囓った人でも、死んだ人が生き返った出来事のように考えている事も多いのです。でも、イースターはそんなに浅い出来事ではありません。イースターとは唯一ただ一人の救い主である主イエスが「復活」した出来事です。アダムの罪によって決別した神と人間の関係が、神の御子の十字架の血によって贖われ、人と神との和解が完全に「成し遂げられた」のです。

では、この主イエスの十字架の犠牲と復活によって、何がこの世にもたらされたのでしょうか。この時、この世の理(ことわり)は完全に転換したのです。この世から死者を寝かせるための全ての墓が取り除かれました。何故なら、すべての人は天国へと帰ることとなったからです。すべての者が帰属するべき場所、帰る場所に帰る事ができるようになった。それが主イエスの十字架の犠牲と復活によって私たち一人ひとりに与えられた「救い」です。

でも、誰もが天国に帰ることとなった、ということは。信仰者だけではなく、神を知らない者も、神に背を向けている者も天国に帰る、ということです。「どう考えても、この人は天国から遠い」と「私」が勝手に批判してしまう人でも、確実に分け隔てなく天国に帰ります。とはいえ冷静に考えて、天国に帰るために、何らかの条件がついているなら、誰一人として天国に帰る事はできないと解ります。私たちは罪にまみれています。神以外に人の罪を赦すことの出来る方はいないから、です。

では、私たちが与えられた信仰を、この世の命にあって保つ理由はなぜなのでしょうか。私たちはその信仰の結実、成果によって評価され天国に迎え入れられるのではありません。私たちが信仰を生きる理由は、私たちがこの世にあって、幸いに生きるためです。たとえ私自身に肉体の死が訪れても、私と神との関わりは微塵も損なわれる事がないと知るなら。その事実を確信し、主イエスの復活によって確認している私たちは、この世を十分に、その最後の一瞬まで行き尽くす事ができます。

私たちのこの世の人生の歩みは、帰り着く場所のないあてもない、無意味な放浪、さすらい、ではなく、最終的に帰る場所に行き着くことの出来る旅路だと知るなら。私たちの毎日の一時間一分一秒にまったく無駄はなく、喜びや楽しみだけでなく失意や悲しみさえも旅路の途中の景色であり、神の恵みの業だと気づかされるのです。そのために主イエスが復活された、と受け入れるなら、私たちは救われるのです。

だから、主イエスが復活された事が腑に落ちた「わかった」使徒パウロはこの様に話すのです。「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(Ⅰコリント15:14)

私たちは救われました。神はその御手を私たち一人ひとりに伸ばされ、手を取って下さり、死に寝かされている魂を立ち上がらせて下さいます。主と共に立ち上がりましょう。

「苦難からの解放ではなく」2019/4/14

ルカよる福音書22:39-53

私が神学校に入って一年くらい経った時の事です。その時、神学生として奉仕していた教会の礼拝は、毎回、使徒信条ではなく日本基督教団信仰告白の全文を告白していました。「我らは信じ、かつ告白す…」から始まり、「永久(とこしえ)の命を信ず、アーメン」までの全文です。私は神学校の寮のベットに横になるとすぐ見える所に、この信仰告白の文章を張って毎晩寝る前に読んで覚えました。「神学生たるもの礼拝の中で日本基督教団信仰告白全文を空で暗唱できないと」と、見栄を張った訳です。そうして、ついに礼拝の中で、私はプリントを見ることなく暗唱することが出来るようになりました。そんな事を何度か繰り返したあと、ある時、私は主任牧師に呼ばれました。そして先生は私が信仰告白文を暗唱している事について話し始めました。先生は「良く覚えたね」と声を掛け褒めたかというと、逆です。私は叱られたのです。「印刷された文章を読みなさい、読んで告白しなさい」と注意されたのです。
「暗唱するのではなく、一文字一文字を噛み砕いて、毎回意味を心に落として、毎回新しく与えられた言葉として告白しなければ、この告白に何の意味もないのですよ」と、そう教えるのです。
その時、私は気づかされました。礼拝が習慣化してしまうこと、一つ一つの事柄が繰り返しになり形骸化し、一つ一つの意味が薄くなること。礼拝の一つ一つの所作に心が落ちなくなっていた事。「私はどのような思いをもってこの行動をしているのか」その事に関心がなくなること、をです。日曜になると定時に教会にいって、いつもの場所に座って、いつもの讃美歌を唱って、いつもの祈りを捧げてしまう。私はそんな心を動かさない礼拝を捧げる様になっていたことに気づかされたのです。
私たちは日常を習慣化します。はじめて経験する事柄についても、緊張しながら期待にワクワクドキドキしながらも、時間が経つと共に習慣化し、その都度、頭を使って考えたり心を動すことなく、心を奪われない様にしてしまいます。一つの事柄に立ち止まって心を動かしている程、私たちは暇はない、と考えるのです。そしてもう一つ、それが私たちがこの世界の定め、理(ことわり)だからです。
例えばテニスボールを地面に落とすなら、何回かバウンドして、そのうち地面の上に動かなくなります。コップに入れた熱いお湯も時間が経つと室温に落ち着きます。初めは大きな振幅で動いていたものも、いつか止まることになります。
すなわち、この世の全ては、いつかは止まる方向に向かっている、生きるということで言えば、世は「死」に支配されているという事になるでしょう。
それでは、聖書に証しされている神は、私たちが死へと向かう事を望まれているのでしょうか、そうではありません。聖書が私たちに示し、私たちが従っている神は無から有を創られる方です。創成期の一番初めにあるように、地は混沌であって、闇が深淵の中にあるとき、神は混沌に「光あれ」と言葉を落とし、無からこの世を創造された方だからです。つまりこの世は無、すなわち静寂と死へと向かうけれど、神は命へと向かわれる、のです。
ですから、私たちが緩慢な日常に心を馴らされ、信仰を離れ、心が神から反対の方に向いてしまうと、私たちの魂は緩慢に死へと向かうだけです。
心は動くことを失い、毎日が単調な繰り返しになり、景色は色を失います。感動を失い、感謝を失った心は、希望をなくし、干涸らびてしまうのです。
しかし、こうした日常から、魂を神へとむき直すなら、その毎日が新しい日と更新され、変化は希望に繋がり、心は生き生きと動くのです。神から毎日与えられる命の水を受け、毎日が新しい日となる。変わる事が恐れではなく、神からの希望となり期待となる。心が柔軟になる。この世の物質的なモノに固執することなく、自由になる。それが、心がこの世ではなく神に向いた者たちに与えられた福音であると言えるのでしょう。
ところが、日々神と向かい合うということは簡単な事ではないことを、私たちは知っています。例えていうと、それは激流の只中に立って、流れに逆らって上流へと歩むようなものだからです。
しかし、主イエスは、私たちを神の元へと上流へ引っ張り上げるために、私たちの先頭を進まれました。私たちがその主イエスに繋がっていれば(ヨハネ福音書15:4)、私たちも主イエスに引かれて一緒に激流を遡(さかのぼる)る事ができるのです。主イエスの痛みは並大抵の苦しみではありませんが、主イエスは私たちが死にと向かわないために、その苦しみを背負われるのです。
イエス様が背負われたこの苦しみ、それが今朝私たちに与えられました御言葉に描かれている、主イエスの受けたゲッセマネの祈りの痛みです。主イエスは汗が血の様に滴る程に切に祈られるのです。
さて、今日司会者に読んでいただいた最初の場面に戻ります。
主イエスと弟子たちは過越の祭りの食事の後、祈る為にオリーブ山に向かいます。この時、弟子たちの心は晴れ晴れした気分で主イエスと共にオリーブ山への道のりを歩いていました。エルサレムの人々は主イエスと弟子たちを快く受け入れ、主イエスを救い主メシアだと讃え、主イエスの言葉を喜びに満ちた表情で聴いていたからです。エルサレムに入る前には敵対するだろうと心配していたエルサレム神殿に仕える祭司たち、長老たちも、直接手を下すわけでもなく、遠くから眺めているだけです。彼らは群衆の熱狂を恐れている、だから手を出すことは出来ない。今のエルサレムにあって弟子たちは自分たちの側に主導権があると、安心しているのです。
でもそんなこの世の力関係など砂上の楼閣のように、まったく脆いものです。この時、既にイスカリオテのユダは、過越の祭りの食事の席を離れて祭司たちの下に向かっていました。この小さな裏切りが、両者の力関係を逆転させる事となります。
祭司たちは主イエスの最も近い弟子が裏切った事を喜び、この綻(ほころ)びに勝機を見いだすのです。主イエスを捕らえてしまえば、群衆の意識は簡単に覆る。群衆の心は移ろいやすい事を彼らは知っています。
なぜなら、民衆の多くは日常の不満や鬱憤のはけ口として、主イエスを担ぎ上げていたに過ぎなかったからです。彼らが不満を抱いていたのはユダヤの対するローマ帝国の支配であったり、ユダヤの王族、祭司、議員、貴族、つまり支配階級に対する不満のゆえだったのです。
一部の信仰深い人々を除き、大半のエルサレムの民衆が主イエスを迎え入れた理由は純粋に主イエスを本当にメシアとあがめて信じたから、ではないのです。
祭司たちは、この状況を打開する策に気づいていました。それは、主イエスを迎えている自分たちの熱狂が、一時的なものであると教えれば良い。このまま続ければエルサレムは混乱し、ローマ帝国の支配はさらに強くなる。戦いと混乱日々が始まってしまうと、気づかせれば良いのです。今、手を引けば、間に合う。
人は変化を嫌います。真剣に自分自身の心を動かして、神に心を向け礼拝を捧げるよりも、毎日神殿で朗読される詩編の朗読の言葉を、意味も考えずに聴いている方が落ち着くのです。祭司が行う一つ一つの儀式を有難く眺めている方が、礼拝を捧げている気分を味わえるのです。形骸化して意味喪失した祈りに恩恵があると思ってしまいます。
そうして祭司たちは主イエスが勝手に騒動を起こしたのだと、ただ一人に罪を着せて主イエスだけの所為にすれば、民衆はまったく罰を受けないと、教えれば良いと考えたのです。ヨハネによる福音書には「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。」(ヨハネ福音書18:14)と書いてあります。
でも、そんな人間の浅はかな思惑や策略の全てを越えて、神の御計画は進んでいるのです。そして全てを主イエスは知っておられます。自分が屠られる贖(あながい)いの羊として捧げられ、その血によって世の汚れは取り除かれ、神と人とは和解するということを。
主イエスと弟子たちはオリーブ山に着いて、中腹にあるゲッセマネの園に入ります。この場所は主イエスが夜になると必ず来て、祈っていた場所です。主イエスは弟子たちから石を投げて届くほどの距離を取り、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と声を掛けます。そしてひざまずいて、祈り始めるのです。
この時、弟子たちははじめて主イエスのただならない様子に気づきます。この当時のユダヤのいつもの祈りの姿勢は、立って天に両手をあげて祈る姿勢です。でも、主イエスは跪(ひざまず)かれます。跪いて祈るスタイルは、離別の祈りを捧げる姿勢なのです。そうして、主イエスは弟子たちにあなた方も「誘惑に陥らないように祈りなさい」と話したのです。
別れの祈りの姿を見て、弟子達は困惑します。先生は私たちから分かれようとしている。全てが上手く行っているのに終わりが近づいていると、弟子達は直感的に感じます。主イエスは祈られます。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ福音書22:42)主イエスは汗を血の滴るように地面に落としながら祈りはじめるのです。
弟子たちは、ただならない主イエスの姿を見て嘆き悲しみます。そして悲しみの果てに彼らに心は緩み、疲れ、鈍り、眠ってしまうのです。悲しみの果てに、彼らの心もこの世の死に飲み込まれてしまうのです。
主イエスが祈り終えて後ろを振りむくと、弟子たちは眠っています。主イエスは彼らに声を掛けます。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」(ルカ福音書22:46)。
この「起きて」という言葉は「目を覚まして」という意味の言葉ではありません。「立ち上がれ」です。主イエスは弟子たちに、「立ち上がれ」と声を掛けます。この世の死の支配、つまり悲観、失望、虚無という死から、希望と新しい命へと向かって立ち上がるように、促されるのです。
しかし、時は来ます。すぐにイスカリオテのユダと群衆が現れ、主イエスは少々の混乱と共に、簡単に捕らえられるのです。
主イエスが汗を血が滴るように流しながら祈られたのは、これから自分が与えられる十字架上の痛みや苦しみ、裏切りや蔑みから逃れたい、という思いから、ではありません。主イエスはこの世、そのものの罪の深さを嘆かれるのです。命へ向かうことよりも死へと向かおうとする、神の光が届いていると知りながらも目を背け、闇の中に留まろうとする者たちの罪の深さを嘆かれるのです。しかし、主イエスは、その漆黒の闇に進んでいかなければならない、濁流を上っていかなければならない。ですから「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ福音書22:42)と祈るのです。「この世の力では、何をどう考えても不可能な事を、神は越えて下さる、越えて下さい」と主イエスは祈られるのです。

では、この祈りは何処に向かうのか。今日の説教には最後の救いの言葉はありません。でも次週、イースターの礼拝の中で、共に聴きましょう。
受難節の中、私たちの罪を贖うため十字架につけられたイエス様の苦難を思い、祈りの中イースターの時を静かに迎えましょう。