礼拝説教原稿

2019年3月

「わたしにできること」2019/3/3

ルカ福音書9:10-17

常に謙虚でありたい、と私たちは願うのですが、でもそれはとても難しいことなのです。特に物事が予想以上に上手く進んでいるとき、ついつい自分の力を過信し傲慢になってしまいます。自分の手がけていることが完全だと考え、他の意見や言葉に耳を貸すことができなくなってしまうのです。

先日、私はキッチンカウンターを作ってくれと連れ合いに頼まれました。「オーブンレンジが乗せられて、天板は腰の高さ。あと天板の上はタイル張り」うちの家庭の場合、神さまの次にかみさんの命令は絶対です。私は大まかに荷重を算出して設計図を作ります。でも大切なのは如何に安く作るかです。安い2×4材を買ってきて切り、ほぞを打ってダボ穴を空けてサンディングして塗装します。そして備え付ける場所に持ち込んで組み立てます。組み立ててからでは家の中に搬入できないサイズなのです。そして組み上げて連れ合いに見せました。初見は「いいねえ」と言っていたのですが、カウンターの前に立って、なにやらパントマイムの様な動きをして、一言「天板が高い、これじゃ使えない、作り直して」と、彼女は言い放ちました。さすがにカチンときました。でもまあ、いつもの事なので、深呼吸して気持ちを落ち着かせて「リクエスト通りですけど」というと「私は腰の高さと言ったよね、これはアナタの腰の高さ、私の腰の高さはココ」。確かにその通りです。「これじゃあ鍋置いても中が見えないし、レンジの中の皿も取り出せないし」言われてみればおっしゃる通り。私にはちょうど良い高さでも彼女には使いづらい。結局、部屋の中で丸鋸を使うという暴挙を犯して、構造を変えないギリギリの八センチ足を切って作り直しました。なぜ私は彼女の言葉にカチンときたのか。彼女の言い方が直接的なのはさておき、それは私が自分なりにキッチンカウンターが完璧な作りであると過信し、傲慢になっていたからです。だから彼女の言葉にカチンときたのです。話しを聞く事が出来ない。何が正しく何が目的だったのかも見失ってしまっていたのです。自覚無く、傲慢になってしまう事の怖さを教えられました。

さて、今朝私たちに与えられた御言葉の最初にはこう書かれています。「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。」(ルカ福音書9:10)使徒たちが帰ってきたと書かれています、では何処に何をしに出かけていたのか、というと、少し前の箇所九章一節にはこの様に書かれています。「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。『旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。』」(ルカ福音書9:1-3)使徒たちは主イエスから病気を癒やす権能を授けられ、方々の村や町に送り出され、そこで神の国を宣べ伝え、病人をいやしたのです。そうして、また主イエスの所に持ってきた、それが今日の場面です。

弟子たちは自分たちの行った事をすべて主イエスに話したと、聖書には書かれています。彼らが主の名によって悪霊に命じると、その人から悪霊が出て行きます。彼らが手を当てると病を負って苦しんでいる人の病が癒やされ、喜んで帰って行くのです。彼らが話す言葉を聴き、人々は神の国の到来が近いことを知り、信じ、希望で目を輝かせるのです。それは彼らにとって初めての経験であり素晴らしい事だったことでしょう。彼らはたぶん感動し高ぶり、喜びながら、主イエスに報告したのだと思います。では主イエスはそんな使徒たちを労(ねぎら)って「よく頑張った」と彼らを褒めたのか、というとそうでは無いのです。「自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」(ルカ福音書9:10)とあるように、主イエスは十二人の使徒たちだけを連れて人里離れた場所に向かうのです。このベトサイダとは「漁師の家」という意味の言葉が付いた町です。北のヘルモン山から流れる清流がゲネサレト湖に注ぎ込む場所にある町で人里離れた場所にあります。そしてこの「退かれた」という言葉を聖書の元々の言葉から調べると「人里離れたところに祈りに行く」という意味合いの時に使われる言葉です。つまり主イエスは自分たちの働きの成果を喜び、興奮している使徒たちを、人々から離し、静かに祈る事の出来る場所まで連れて行こうとされたのです。でも、人々は主イエスについていくのです。たぶん、これは推測の域ですが、主イエスと使徒たちは舟に乗ってベトサイダに向かうのです、しかしその事を知った多くの人々は陸地から主イエスの乗った舟を追いかけて歩き、そして、ベトサイダに先回りして、主イエスたちをむかえます。主イエスは、そんな人々を、受け入れます。人々が羊飼いを失った羊の様だった、からです。「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。」と聖書には書かれています。その数は増えていきます。男性だけで五千人、女性や子供も加えると一万人近くの人々がこの寂しい漁師の町に主イエスと弟子達を求めて押し寄せてきました。主イエスは彼らを一人に語りかけ癒やされます。使徒たちも頑張って主イエスと同じように働いたのだと思います。でも十二人の使徒たちは、捌いても捌いても押し寄せてくる人々に疲れ果てるのです。さらに人々が空腹を覚えたならどうなるのか、人間、空腹になると理性を失うことは周知の事実です。これだけの人数が暴徒の様に主イエスに向かってきたら、もう、収拾がつかなくなる。使徒たちは恐れます。そして彼らは主イエスに願います。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」この日の午前中に、彼らは自分自身の力を誇っていたのです。自分なら上手く出来る、神の権能を受けたのだから、何でも出来ると、そう思い上がっていました。でもその日の夕方にはどうしようもない状況に追い込まれるのです。では主イエスは何と答えられたのか、主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」(ルカ福音書9:13)と話されます。「あなたがたが」です。主イエスは彼らを突き放すのです。

では主イエスは、思い上がっていた使徒たちを思い知らせるために、この様に話したのでしょうか。そうではありません。主イエスは使徒たちを最後まで、その十字架の上であっても愛し抜かれた、と聖書には書かれています。主イエスはココで使徒たちに教えられるのです。人間の本質的な罪の姿を。人はどんなに心構えしていても、謙遜であろうと強く決意していても、自覚無く傲慢になり、全ての事を自分の力で完璧になし得ると、思い上がってしまうのです。神に祈ることなしに、神が与えてくれなくても、自分の力ですべてなし得ると、そう考えてしまうのです。その事を教えられるのです。使徒たちは自分の力の限界に立たされます。しかも、目の前におられる主イエス、先生であっても、どう考えても解決し得ない窮地に追い込まれていくのです。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」

使徒たちは、それまで神の権能を受け、方々の町で伝道をしてきたのです。彼らの他は多くの奇蹟を為し、多くのモノが彼らの働きによって立ち上がりました。しかし、まだ本当には、神の為さる事に信頼をしていなかったのです。これほど多くの人を満腹にする事など、不可能だと、どんな事をしても無理だと、彼らは決めつけるのです。そして神への信頼が失われたとき、彼らは無力になります。あきらめが希望に勝ってしまったからです。

主イエスは使徒たちに五十人くらいを組みにして座らせなさいと話します。使徒たちは言われた通りに、人々を座らせます。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。」(ルカ福音書9:16-17)使徒たちが持っていた五つのパンと干した小魚を主イエスが割いて分け祝福するのです。そうして使徒たちがそれを分けると、すべての人が食べて満腹するのです。使徒たちにとって、そしてそこにいた人々にとっても、想定外の回答でした。でも旧約聖書に描かれているモーセは神に願い、神は天からマナ、というパンを地面に降らせたと書かれています。また預言者エリヤはシドンのサレプタに住む寡婦(やもめ)のカメの粉は尽きずビンの油は減らない、という神からの証を見せました。それだけではありません。神が人を養われるという奇蹟的な出来事については、私たちも毎日経験しているのです。私たちは種を植えることしか出来ませんが、神は育て、実をつけさせて下さるのです。私たちも毎日、神の業によって満たされているのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と主イエスが使徒たちに話した時、彼らは自分たちの力で人々を満腹にしようとしたのです。その瞬間、彼らは躓(つまず)きます。自分たちが町々に出て伝道したのではなく、神が自分たちを用いて伝道した。という事に気づかされるのです。自分たちは神の道具に過ぎなかったと気づくのです。

では、神の道具として用いられる事は空しいことなのでしょうか。そうではありません。聖書はこう書きます。「そして、残ったパンの屑を集めると、十二篭もあった。」(ルカ福音書9:17)この十二籠とはこの場につれて来られた十二人の魂の事です、神からの恵みを多くの人に分け与える働きをした、つまり神の道具として用いられた使徒たちにも十分な恵みが与えられたのだ、と聖書は記すのです。私の経験則ですが、神の道具として働くなら、神がこの世で為される奇蹟を最前線で見る事が許されます。この世の創作された感動ではない、想定外の仕方で神が働かれている姿を知ることが出来ます。なによりいつかは消え去る空しいモノに命を賭けることも、必死になる事もない。教会の奉仕についても同様です。神の教会は誰にも何事も強いる事はありません。この働きが必要だと提案し、時々お願いもしますけど、最終的には神と自分との関係の中で判断する事です。でも、教会で奉仕するという事は神の道具として用いられるという事です。もれなく、イエスさまから十二籠のパン屑が与えられます。