礼拝説教原稿
2019年3月
「聴いて備える」2019/3/30
ルカよる福音書9:28-36
山に登る、という行動は、単にハイキングをするとか散歩をする、という事よりも、もう少し深い洞察を与えてくれるのです。重い荷物を背負い、息を切らしながら坂道を一歩一歩上るなら、徐々に自分の生きている日常から切り離されていくような感覚を得ることができます。そうしてただ一人無心に、地面に深く張った木の根や岩に足を掛けて、右足、左足と交互に先に進めていくなら、そのうち、頂上に辿り着きます。そして眼下に広がる町を眺めるのです。それは俯瞰で日常を眺める感覚です。私たちつい日常の中に埋没してしまい、自分が何をしているのか見る目を失う事が多いのですが、少し日常から離れて高い所から自分の生きている場所を眺めて見るなら、客観的に自分の立っている位置を確認することができます。さらに近くに人がいない太い老木の下で、少し呼吸を整えて目をつぶって神に心を委ねて瞑想をする事もできます、山は祈るための絶好の場所です。
でもそれは個人的な感想ではなく、山は聖地として、俗世間から乖離した場所として古来から信仰の対象として扱われて来ました。そして瞑想とも古くから深く繋がっています。日本でも多くの山の頂上付近には必ず社(やしろ)が作られています。海外でも同様です。山は聖地として、人が祈りに行く場所、瞑想をする場所としての役割を与えられてきたのです。そして聖書の中でも山、という場所は特別な意味を持ちます。ほぼ聖所は山の上に作られるからです。有名な所では、アブラハムがイサクを神に奉献しようとして寸前に止められた場所は「モリヤの山」です。この場所には後にエルサレム神殿が立ちます。またモーセは民を麓に残し一人シナイ山に上り主から十戒を授かります。預言者エリヤはこの同じシナイ山に上り洞窟の前に立ち、主の「静かに囁く声」(列王上19:11)を聴きます。主イエスはなんども人々を離れ、弟子達とも離れ山に登られ祈られます。聖書に中に書かれている「山に登る」という表現は、祈るということです。それは瞑想して心を神に委ねて「神の静かに囁く声を聴く」という事です。
少々、言葉を加えます。瞑想と祈りについてです。日本人の感覚で祈るというと、「神に願う」という意味だと捉えられています。それでも良いのですが、私たち信仰者は、もう少し祈りについて深く捉える事が出来ます。まず神は私たちが祈る前から、私たちに必要な事をご存じです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ福音書6:8)と書かれているとおりです。では、なぜ私たちは祈るのか、というと、私たちが祈り、自分の思いを神の前に差し出す事によって、私たちは自分の心の内にある漠然とした思いを言葉化(ロゴス化)する事ができるから、です。そしてその祈りの言葉を、神の前に差し出す時、その言葉は中途半端な浮ついた願いではなく、自分の命と同等の重さを持つ言葉となります。願いを短冊に書くのとは訳が違います。この世を創造され私の命を、その御手の中に置かれている神に、言葉を差し出すのです(自分の命を自由に出来る王の前に自らの思いを懇願する)。だから私たちの祈りは真摯でなければならないのです。
そんな事を言われては祈る事が出来なくなる、と言われるかもしれません。でもそれが当然の感覚なのです。だからパウロはこの様に話します。「同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ロマ書8:26)
もう一つ。私たちは神に直接言葉を差し出す事はできません。越えることが出来ない深い淵が、その間を分け隔てているからです。でも弱く脆く愚かな私たちの祈りの言葉を主イエスは自分の言葉として補って下さる。そして神に届けて下さるのです。
私たちが祈るとき、主イエスはその言葉を補って下さいます。その補われた完成された祈りの言葉こそが私の祈るべき言葉なのです。その祈りの言葉を私たちは心を静かにして聴くのです。その祈りの言葉の中に私自身が祈ろうとしている祈りの言葉があるのです。
祈りについて、その様に理解するなら、今朝私たちに与えられました御言葉に描かれているペトロの言葉が、如何に場違いであったのか、が解ります。共に、読み進めてまいりましょう。
さて主イエスは弟子達の前に、自らが神からのメシアである事を明らかにします。しかし、その出来事は主イエスの十字架への道のはじめであったと、先週、お話ししました。そのあと主イエスはペトロ、ヨハネ、およびヤコブだけを連れて、祈るために山に登らます。この登られた山はタボル山と呼ばれる山で、エズレル平野にぽつんと一つだけお椀をひっくり返した様な形の標高575メートルの山です。多度山が四百メートルですから、もう少し高い感じです。現在のタボル山の麓には農耕地帯が広がっています。山頂に向かうバスに乗り換えるバス停に周りはぶどう畑で、良質のワインが作られている、そんな場所です。
さて主イエスは八日後にペトロ、ヨハネ、およびヤコブだけを連れてタボル山に向かいます。ティベリアから十㎞位の距離ですから朝に出発すれば、夕方には到着する距離です。でも主イエスはそのまま山を登られるのです。六百メートル級の山ですから一時間くらい、でも、そう考えると結構な運動量です。そして主イエスは祈り始めるのです。日が沈み、辺りは暗くなっていきます。
「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(ルカ福音書9:29-31)
夜になり、祈っておられる主イエスの顔が変わり、服が真っ白に輝きます。そしてモーセとエリヤが神の栄光に包まれて現れ、主イエスの右と左に立つのです。そして彼らは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」とルカ福音書の記者は記します。ここで少々注意すべきなのは、私たちにとってそれがモーセ本人であるのか、とかエリヤ本人であるのか、そんな議論をしてしまうことです。じつは、此処で描かれている風景が私たちに伝えようとしている事は、そんな目に見える現象ではないからです。(もちろんそのままモーセとエリヤが現れた、と素直に読む読み方も間違いではありません。)モーセとは律法の象徴です。モーセはシナイ山で十戒を神から授かり、これをイスラエルの民に守らせました。そしてエリヤはというと、預言の象徴です。預言と神から言葉を預かり人々に伝えることです。主イエス以前、神は律法と預言を以て人々を導きました。羊飼いと羊に喩えるなら、律法は羊飼いの手に持つ鞭です。羊飼いは群れから離れた羊を鞭で叩き、群れに返します。そして預言は羊飼いの声です。羊飼いは自分の羊、一匹一匹の名前を覚えていて、その名前を呼びます。羊も自分の名前を覚えていてその声に従います。そしてモーセとエリヤとイエスです。主イエスは羊飼いその人です。となると、此処でなぜこの三人が集まっていたのかが、見えて来ます。「主イエスがエルサレムで遂げられようとしていること」とは主イエスの十字架と復活です。この事を通して神が如何にして人を自分の所に導こうか、とその事がココで話されていたということです。
でも此処にもう一つ注意する言葉があります。それは「最期について話していた。」の「最期」です。原文を読むとこの言葉には「エクソダス」という言葉が使われています。出エジプト記の英語表記はエクソダスです。
まあ主イエスがこの世から天に上る。だから死という最期(さいご)、と訳しても宜しいのですが、私はやはり此処は出エジプトそのものが語られていると、そう読みたいのです。出エジプトの物語の中心テーマは、奴隷として囚われた身分からの解放です。つまり主イエスは罪に囚われ奴隷として扱われている人々を、十字架と復活の出来事によって解放する、という事です。その段取りを主イエスとモーセとエリヤは此処でしていた、と読む事ができるのです。
人々は主イエスの十字架を見て、その血と傷を見て、自らの罪を自覚し悔い改めます。「この無垢な方こそ神の子であった」と気づくのです。そして神は悔い改めた者を捨てては置かれません。主イエスは復活して彼らの魂に聖霊として宿ります。罪とは神以外の何ものかを神とする事、です、また罰とは神以外の何ものかを神として拝まなければならない事、です。であるから、主イエスに十字架と復活によって聖霊を受けた者は、罪から解放されるのです。そして羊飼いである主イエスに導かれるのです。
では主イエス以前に死んだ者たちはどうなるのか、と純粋に心配になるかもしれません。でも大丈夫です。マタイ福音書にはこうあります。
「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(マタイ福音書27:50-53)復活以前に眠りについていた者たちはシェモール(陰府)に寝かされていて、主イエスの復活と共に天へと引き上げられたのです。私たちが礼拝の度に読んでいる使徒信条にもこうある通りです「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり」主イエスは死の後、陰府に下り、そこを光で照らされるのです。
さて、ペトロです。彼はこれらの事が目の前で展開しているときに「酷く眠かった」と書かれています。そりゃ10㎞歩いてから山に登れば、疲れて眠くなるでしょう。でもそんな事よりももっと重大な失敗をペトロはここで犯します。ペトロはこの様子をみて、この天上の会議に口を挟むのです。自分も主イエスとモーセとエリヤと同等の場所に立っているかのように彼は勘違いしてしまうのです。
「『先生、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。」(ルカ福音書9:33)
私たちは神に関与する事はできません。祈り願う言葉も、神の行く道にレールを引くようなモノであってはなりません。先ほど話しました、私たちは神の前にあって祈る事など出来ない存在なのです。私たちは神の前に呻(うめ)くしかない。でも聖霊はその様な私たちを取りなして下さるのです。
ペトロは神に関与しようとしました。だから天からの声が響くのです。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ福音書9:35)私たちの祈りは聴くことです。矛盾している様にも思えますが「神の静かに囁く声を聴く」ことが、私たちにとっての祈りなのです。
さて、私たちは今、受難節の日々を歩んでいます。主イエスは自らの命の代償として私たちを罪から解放されました。私たちはこの神の愛にどう答えるのか、この受難節に共に考えていきたいと、そう思います。
「私の十字架」2018/3/24
ルカよる福音書9:18:28
小学生の頃、竹籤と和紙で凧を作りました。竹籤をタコ糸で結び四角い形を作り短い辺の先端同士にタコ糸を張り、少し外側に反らせます。そして緩いかまぼこ型にします。その後に表面にノリで和紙を貼ります。和紙に絵を描いてから張ったのか、張ってから絵を描いたのか、記憶が定かではありません、が、そのあと、引っ張るためのタコ糸と二本の尻尾を付けて完成です。でもその時、私は凧ができあがった事の喜びよりも、私は左薬指に刺さった竹籤のトゲが気になっていました。なんかジクジクするのです。先生に話して保健室に行ってとげ抜きでとって貰おうとしたのですが、何故か奥まで入ってしまいました。保険の先生は「一週間もすれば自然に取れるから、気にしない」とマキロンを吹き付けて終わりです。それから3日後ジクジクと気になりながら、でも子供の新陳代謝は早く、すぐにトゲは皮膚の表面に出てきて次の日にはきれいさっぱり、取れてなくなりました。
棘(トゲ)について。十数年前に親しくして下さった老牧師が、私に話してくれた言葉があります。「辻くん、教会はこの世に刺さった棘なんだよ」。その時、私にはその言葉の意味を正しく理解する事はできませんでした。「教会はトゲとしてこの世の不正に対してもの申していかなければ為らない」とか「教会はこの世にあって、人々の自覚を促す痛みを気づかせる役割を担っている」とか、その様に、この言葉を理解していたのです。でも、最近になって彼の話している言葉の意味が分かってきました。老牧師が私に「教会はこの世にあって異物だ」と、そう話していたのだと気づかされたのです。
教会はこの世にあって異物であり、ジクジクする不快な感覚を与え、いつかは新陳代謝が進むと、抜け落ちてしまうモノ。決してこの世と混ざることなく、自浄作用、免疫作用によって排除され、のちに駆逐されるモノ。それが本来の教会のこの世に於ける姿であると、彼は話していたのです。
確かに教会の歴史は迫害と殉教の歴史です。初代教父テルトゥリアヌスは「殉教者の血は教会の種子である」という言葉を残しました。教会は歴史の中で、常に社会の異物としてこの世に抗(あらが)ってきました。逆に、この世にあって教会が世の権力と結びついていたときには、教会は内部腐敗しきっていた、ということも私たちは歴史から学ぶことが出来ます。
でも、なぜ教会は、この世にあって棘なのでしょうか。
それは、教会がこの世にあって、この世の全てを照らす光としての役割を与えられているからです。この世の全ての闇を貫き、照らす光であるなら「正しい事が正しいと明らかにされるのであるなら」全ての人は教会を歓迎するのでは、と、そう思われるでしょうか。でも、そうではありません。人は誰しものが心の奥底に、明らかにされたくないドロッとした闇を持っているからです。その闇が、つまり罪が深ければ深いほど、その者たちは教会の光に覆いを掛けようとします。直接教会を迫害する(今中国で行われている様に、教会が一夜にして取り壊されるといった、暴力的な仕方)、という手段だけではありません。厚い毛布の様なモノを掛けて教会の福音の光を遮るとか、カルト的な人間に都合の良い御利益宗教を作りだし、純粋な信仰に少しずつ毒を混ぜていくとか。もしくは直接教会に干渉して世俗化させ、教会本来の福音を変質化させ、教会本来の働きが出来なくなるようにするとか、様々な、巧みな手段をもって、この世の罪は様々な巧みな手段を用いて教会に干渉してくるのです。ですから主イエスは弟子達に「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから蛇のように賢く鳩のように素直になりなさい。」(マタイ福音書10:16)と話されました。私たちは常に警戒するのです。
では教会という棘は、すべて抜かれるのでしょうか。この世に福音の光は差し込まないのでしょうか。闇が光に勝ってしまうのでしょうか。でも、そうではありません。キリストはこの世に勝利されました。キリストは復活されペンテコステの出来事を通して、直接聖霊の働きによって弟子たちの魂にその棘を打ち込まれたからです。皮膚に刺さった棘は抜け落ちますが、魂に食い込んだ棘は、もうこの世のどんな力、権力、威力、経済、価値観、評価、によっても、取り除く事は出来ないのです。そうして魂に棘が刺さった者たちが、それぞれ神の宮である教会として、この世を光で照らすのです。教会とは建物のことではなく魂に神を宿した私たち一人ひとりの事なのです。
さて、教会がこの世にあって棘である、異物であると解ると、今日、私たちに与えられました御言葉の意味が見えて来ます。共に読み進めます。
主イエスは五千人もの人の空腹を五つのパンと二匹の魚で満たされた、という記事のあとに、今日の場面が続きます。主イエスは民衆を離れ弟子達だけを連れて山に登り祈りの時間を持ちます。そして主イエスは弟子達に尋ねます。
「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」(ルカ福音書9:18)
弟子達は嬉々として、この主イエスの質問に答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」(ルカ福音書9:19)弟子たちは人々が主イエスを尊敬する事が嬉しいのです。人々の尊敬し崇めている主イエスに仕えている自分たち、も先見の明がある素晴らしい者たちだ、と感じる事が出来るからです。自分たちの先生は素晴らしい、その素晴らしい先生にお仕えしている自分たちも素晴らしいと、人々から評価される、と、彼らは考えるのです。
そこで主イエスはさらに彼らに聴きます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(ルカ福音書9:20)「みんなは」ではなく「あなたは」です。私たちの信仰は自分と神との一対一の抜き差しならない関係性の中で、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)という契約の中に置かれることです。この契約の代償は自らの命です。だから他人の評判が良いから自分も同じ信仰を持つ、とか、親が信仰しているから自分も同じ信仰を持つ、とか、国や地域がその信仰を持つことを推奨しているから、とか、その信仰を持つと、経済的や政治的に有利だから、という理由で、信仰は得られるモノではありません。主イエスが此処で弟子達に「あなたは」と聴いた言葉の意味は、こういうことなのです。
そして、その主イエスの話した言葉をペトロは的確に捉えます。「ペトロが答えた。『神からのメシアです。』」この「神からのメシア」という言葉は原本では「神からのキリスト」です。キリストとは「神から直接、香油を注がれたモノ」の意味です。それは預言者とか祭司とか、王とかその様なこの世の何かではなく、神が直接この世に、その指で触れられた、その指、そのものです。と此処でペトロは告白するのです。
ペトロにしては、正解です。でもペトロが此処でこの世に対して告白し、明らかにしたときに、主イエスはこの世にあって棘となったのです。この世に於ける異物としてこの世から取り除かれる道が定められたのです。ペトロに悪気があるわけではなく、彼は自分の信仰に正直に告白したのですが、その告白の言葉が、主イエスの十字架の始まりを告げる合図となったのです。
主イエスはなんと答えられるのか。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ福音書9:22)だからここで、主イエスは自分が十字架に架かることを、その確定した未来を弟子達に告げる事になるのです。
しかし、主イエスは弟子達に、それでも付いてきなさいと話されるのです。「自分が異物としてこの世から排除されるから、もう私に付き合う必要はない」とは話しません。その十字架の先に「三日目に復活する」と、話されるのです。その先があるから従いなさいと促されるのです。
「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」(ルカ福音書9:23)
有名な御言葉です。まずこの「自分を捨て」とはどういう意味か、というと「自分の力で誰かを救える、何かが変えられる、この世の義が明らかにされる」という傲慢を捨てる、という意味です。私たちはついつい自分の正義を他人に押し付ける傾向があります。終いには、なんで私がこんなに正しい事を言っているの誰も聴いてくれない、と腹を立てたり、苛立ったりします。この世の争いは悪と悪がぶつかり合って生じるものではありません。それぞれの正義がぶつかり合って戦争は始まるのです。ですから、まず「自分を捨て」ること、主イエスに自らの全てを明け渡すこと。そこから始まります。そして「自分の十字架を背負って」です。私たちは主イエスに従う前に様々な条件を付けます。家族の許可を得たら、とか、聖書を理解したら、とか、家の墓の整理をしたら、とか、学校を卒業して独り立ちしたら、とか。病気が治ったら、とか、幾らでもありますけど、それらが解決するまでは、主イエスに従う事が出来ないと考えるのです。でも主イエスは「あなたが背負っている様々なこの世の状況を、そのまま背負ったままで良いから、とにかく従いなさい」と話されるのです。この世の束縛から私たちが解放される事なんてないのです。それは身体に絡みつき足に絡みつくのです。自分を洗い清めて、きれいになって、いっぺんの汚れも無くなってから主イエスに従うのではありません。そんな事を言ったら、誰一人救われません。主イエスはそのままで良いと、とにかく従いなさいと話されるのです。
私たちがこの世にあって、この世の光として用いられるために、私たちは何らかの努力を必要とするとか、勉強しなければ為らないとか、この世に於ける様々な問題が全て解決している必要などないのです。主イエスに自分を明け渡しその後ろに従うこと。それが私たちの信仰の姿なのです。
最後に主イエスの十字架について話します。先ほどから教会は、そして信仰はこの世に於ける棘だと話してきました。この事を最も印象的に描き出しているのが、主イエスの十字架です。主イエスの十字架はゴルゴダというこの世に、棘として突き刺さっているのです。その痛み、その苦しみは私たちの混乱し捻れた心を正気に戻します。その棘は、私たち一人ひとりの魂に深く突き刺さっているのです。
「あなたは守られている」2019/3/17
ルカよる福音書11:14-26
私たちは今、共に受難節の時を守っています。私たちはこの受難節を、キリストの十字架への歩みを聖書の御言葉から追体験する期間、として与えられています。私たちはこの期間に聖書の主イエスの受難の記事を読み「この時、私がそこにいたならどうしただろうか」と自分自身に問う、のです。
それは、ポンティオ・ピラトが民衆の前に主イエスを引き出し「見よ、この男だ」と言ったとき、私は他の民衆と共に主イエスに向かって「十字架につけよ」と叫ばなかっただろうか、と自問することです。もしくは、自らの掛けられる十字架を背負ってゴルゴダまでの路を歩む主イエスを見て、人々と共に罵倒し、貶(さげす)み「私はお前に欺されていた」と頭を振り、唾を吐き付け無かったかと自問することです。もし「私がそこにいたなら、絶対にそんなことをしない」と言い切ることが出来るなら、それはまだ聖書の御言葉を十分に自分の魂の内側に刻みつけていない、という事です。あのペトロでさえ主イエスの目の前で、しかも三度も主イエスを否まざるをえなかった状況がそこにはあったのです。主イエスの伝道の初めから主イエスの後に従い、主イエスの言葉を聴き、人々に触れられる姿を見て、なにより主イエスはメシアだと告白したペトロでさえ、最後の最後には主イエスを裏切り逃げ出しました。
でもそれで良いのです。「十字架につけよ」と叫んでしまう側に私がいると、私自身が認めるならば、私はその時、始めて主イエスの十字架に砕かれる事ができるからです。
結局は自分本位で自分の考え方だけが正しいと考えてしまう自分や、相手を愛することを求めながらも自分に都合の良い事だけを求めている自分。人を批判し評価し計りに掛けている自分。主イエスよりも自分を優先し神をも自分のレールの上に乗せてしまおうと画策する自分。十字架の光はそんな自分の魂に巣くう雑多なモノに光をあて、明らかにしてくれます。それでも私たちはそこから目を背けることもできますが、「でも、私のこの罪が主イエスを十字架に付けた」と腑に落ちるとき、私は心に巣くっているそれらの雑多なものを取り除く作業を始める事ができるのです。
では、その十字架を前にして自分自身が徹底的に砕かれ魂の隅々まできれいにされた後に私たちは廃人のように何もなくなってしまうのでしょうか。
そうではありません。イースターの礼拝にあって主イエスと共に再生し新しい命を与えられるからです。この再生の保証があるから私たちクリスチャンは、惜しみなく砕かれることが出来る、のです。この様にして、清められた魂に、主イエスに住んでいただく事。聖霊を招くこと。そこに私たちの幸いがあると主イエスは話します。それが今日の御言葉に記されているメッセージです。
さて、主イエスはある人から悪霊を追い出されます。するとその人は口を利くことが出来る様になったと聖書には書かれています。その様子を見て人々は驚嘆するのです。でもこの主イエスの治癒行為を全ての人が純粋に喜んで受け入れたのか、というと、そうではありません。「『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。」(ルカ福音書11:15)とあります。
この両者は主イエスに対して正反対の態度をとっていますが、両者共に一つの共通点があります。それは彼らが、病を癒やされ口を利くことが出来る様になった者の喜び、またその家族の喜びを共に喜んでいない、ということです。目の前で中断されていた一つの人生がまた動き出したのです。この癒やされた男にとってはどんな手段なのかなんて、ドウデモよい事なのです。主イエスが自分に関わってくれて、口が利けるようになった、その喜びだけで十分です。でも癒やされた者の心に降りる事ができない、また主イエスの思いにまで心を寄せることが出来ない者たちの関心は主イエスの治癒の手段、この世から隠された方法に向かうのです。なぜ主イエスが彼を癒やされたのか、ではなく、どんな手段で癒やしたのか、と彼らは考えるのです。
では彼らはどのように考えたのか。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(ルカ福音書11:15)と言い出すのです。このベルゼブルとは元々バアル信仰つまり偶像信仰で祀られている神の名前、バアル・ゼブル(宮殿の主)から来ています。この発音がヘブライ語の「ハエの王」と同じであることからユダヤ人に揶揄され、後にベルゼブブと言い換えられる事になります。そして主イエスの時代にはこのベルゼブルは悪霊の頭として考えられる様になります。ユダヤ人の描くイメージとしては、このベルゼブブは汚れの象徴です。腐った肉が悪臭を放ちいつのまにかウジが湧き、ハエが集る、そのハエを取り仕切っているのがベルゼブルというイメージです。そもそもユダヤ人は比類無き綺麗好きな民族ですから、最も忌み嫌う対象だということです。
そう理解すると、この時、主イエスが如何に屈辱的な言葉を浴びせられたのか、という事が分かります。でも主イエスはそんな彼らを叱るわけではなく、彼らの非難の愚かさを指摘します、もし悪霊の力によって悪霊を追い出しているなら、それは仲間割れあろう、と。仲間割れしている国は滅びるだろうと。
でも主イエスをベルゼブルだと断言した者たちも気持ちも、分からなくもない、のです。今まで見た事も聞いた事ものないすごい事が目の前で起こったとき、その内容に関わらず、人はまず警戒するからです。疑心暗鬼ではありませんが、人は恐怖心を覚えると、そこに鬼(怪獣or化け物?)がいると感じるモノです。もし主イエスがこの癒やしの業を、当時の祭司たちが行っていたように、ソロモンの名によって行っていれば良かったのです。ユダヤ人たちはソロモン王を神から悪霊を追い出す業を授かったものと考えていました。このソロモンの力を借りて祭司たちは人々に癒やしを行っていました。悪霊を払う癒やしの業というと主イエスの専売特許の様に捉えられてしまうのですが、当時の世界に於いてそれは日常でした。現代の社会で幾つもの病院が点在しているのと同じです。科学的な医療行為は万能で聖書に書かれた癒やしなど愚かな迷信だと、私たちはつい考えてしまいますが、最先端の医療技術にしても結局は人間の組織を根本的に作り替えているわけではなく、そもそも肉体に内在する自然治癒力を手助けしているに過ぎません。つまり治癒という行為において根っこは同じなのです。でも主イエスは他の祭司たちよりも圧倒的な力で完全に、ソロモンの力ではなく神の力でそれを行ったのです。その有様を目の前で見て、彼らは恐れを抱いたのです。そしてうろたえたのです。
ですから、彼らの心がおちついて、心の中に満ちていた恐怖が落ち着き消え去ってくるなら、主イエスは彼らに教え始めるのです。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ福音書11:20)
この神の指という表現はモーセがエジプトの王の前で魔術師と力比べをして勝ったときの出来事に由来します(出エジプト8:15)。モーセは神から神の指の力を授かり魔術師たちに圧倒的な力で勝つのです。そして大事なのは「神の国はあなたたちのところに来ている」という言葉です。
私たちは神の国というと、死の後に訪れる場所であるとか、天の天に高く遠く存在する場所の様に捉えてしまうのですが、主イエスは、神の指が働いている今この場所に既に神の国は実現している、と話しているのです。神の国とは神の支配される国のことです。つまり私たちが神を信じ神の支配を受け入れたなら、そこに神の国はなるのです。
さらに主イエスはその神の支配によって私たちが悪霊から解放され自由にされると話します。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。」(ルカ福音書11:21-22)つまり、強い悪霊は人は支配され捕虜にされているが、しかしもっと強いモノ、神の指で戦う主イエスは悪霊に勝利して、捕らえられた人を解放すると、そう話されるのです。
主イエスはベルゼブルの側ではなく神の側に立ち、神の業によって全ての事をおこなっているのだと、主イエスは、この例えを通して彼らに伝えます。そして主イエスは加えます。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」(ルカ福音書11:23)だから私の側につきなさいと、主イエスは彼らに促されるのです。
さて、では主イエスの業を信じ、私たちがその身体に巣くう悪霊を主イエスによって取り去られることで、終わりなのか、というと、まだ先があるのです。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」(ルカ福音書11:25-26)とても印象的な御言葉です。ある神学者は「人の魂に真空状態は有り得ない」と話します。私たちが折角キリストに出会って、心を洗われて、今まで心を縛っていた幾つもの束縛から解き放たれて自由になった、あと、その後があるのです。心をきれいにした後を空っぽにするなら、そこにまたこの世の雑多なモノが入り込みます。しかもなまじ信仰を知ったが故に、信仰を自分の都合よく利用するような、以前よりも悪い事になるのです。そうではなく、きれいに掃き清められた魂に、今度はそこに聖霊を招くこと。それで私たちの救いは完成するのです。
自分の魂の中心に主イエスを招く事について、自分を明け渡すような違和感を覚えられるかもしれません。自分の主人は自分だと、私たちは考えるからです。でも主イエスは「互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネ福音書13:14)と話されます。互いに仕え合い、神に従う者になりなさい、と話されるのです。自分が主人公でなければならない、いつもスポットライトが当たっていないと気が済まない、そんな生き方ではなく、神が為されるように為ることが幸いだと、「従う」生き方を受け入れるなら、そこに本当の幸いを見いだすことが出来るのだと、そう信じます。
「わたしにできること」2019/3/3
ルカ福音書9:10-17
常に謙虚でありたい、と私たちは願うのですが、でもそれはとても難しいことなのです。特に物事が予想以上に上手く進んでいるとき、ついつい自分の力を過信し傲慢になってしまいます。自分の手がけていることが完全だと考え、他の意見や言葉に耳を貸すことができなくなってしまうのです。
先日、私はキッチンカウンターを作ってくれと連れ合いに頼まれました。「オーブンレンジが乗せられて、天板は腰の高さ。あと天板の上はタイル張り」うちの家庭の場合、神さまの次にかみさんの命令は絶対です。私は大まかに荷重を算出して設計図を作ります。でも大切なのは如何に安く作るかです。安い2×4材を買ってきて切り、ほぞを打ってダボ穴を空けてサンディングして塗装します。そして備え付ける場所に持ち込んで組み立てます。組み立ててからでは家の中に搬入できないサイズなのです。そして組み上げて連れ合いに見せました。初見は「いいねえ」と言っていたのですが、カウンターの前に立って、なにやらパントマイムの様な動きをして、一言「天板が高い、これじゃ使えない、作り直して」と、彼女は言い放ちました。さすがにカチンときました。でもまあ、いつもの事なので、深呼吸して気持ちを落ち着かせて「リクエスト通りですけど」というと「私は腰の高さと言ったよね、これはアナタの腰の高さ、私の腰の高さはココ」。確かにその通りです。「これじゃあ鍋置いても中が見えないし、レンジの中の皿も取り出せないし」言われてみればおっしゃる通り。私にはちょうど良い高さでも彼女には使いづらい。結局、部屋の中で丸鋸を使うという暴挙を犯して、構造を変えないギリギリの八センチ足を切って作り直しました。なぜ私は彼女の言葉にカチンときたのか。彼女の言い方が直接的なのはさておき、それは私が自分なりにキッチンカウンターが完璧な作りであると過信し、傲慢になっていたからです。だから彼女の言葉にカチンときたのです。話しを聞く事が出来ない。何が正しく何が目的だったのかも見失ってしまっていたのです。自覚無く、傲慢になってしまう事の怖さを教えられました。
さて、今朝私たちに与えられた御言葉の最初にはこう書かれています。「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。」(ルカ福音書9:10)使徒たちが帰ってきたと書かれています、では何処に何をしに出かけていたのか、というと、少し前の箇所九章一節にはこの様に書かれています。「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。『旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。』」(ルカ福音書9:1-3)使徒たちは主イエスから病気を癒やす権能を授けられ、方々の村や町に送り出され、そこで神の国を宣べ伝え、病人をいやしたのです。そうして、また主イエスの所に持ってきた、それが今日の場面です。
弟子たちは自分たちの行った事をすべて主イエスに話したと、聖書には書かれています。彼らが主の名によって悪霊に命じると、その人から悪霊が出て行きます。彼らが手を当てると病を負って苦しんでいる人の病が癒やされ、喜んで帰って行くのです。彼らが話す言葉を聴き、人々は神の国の到来が近いことを知り、信じ、希望で目を輝かせるのです。それは彼らにとって初めての経験であり素晴らしい事だったことでしょう。彼らはたぶん感動し高ぶり、喜びながら、主イエスに報告したのだと思います。では主イエスはそんな使徒たちを労(ねぎら)って「よく頑張った」と彼らを褒めたのか、というとそうでは無いのです。「自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」(ルカ福音書9:10)とあるように、主イエスは十二人の使徒たちだけを連れて人里離れた場所に向かうのです。このベトサイダとは「漁師の家」という意味の言葉が付いた町です。北のヘルモン山から流れる清流がゲネサレト湖に注ぎ込む場所にある町で人里離れた場所にあります。そしてこの「退かれた」という言葉を聖書の元々の言葉から調べると「人里離れたところに祈りに行く」という意味合いの時に使われる言葉です。つまり主イエスは自分たちの働きの成果を喜び、興奮している使徒たちを、人々から離し、静かに祈る事の出来る場所まで連れて行こうとされたのです。でも、人々は主イエスについていくのです。たぶん、これは推測の域ですが、主イエスと使徒たちは舟に乗ってベトサイダに向かうのです、しかしその事を知った多くの人々は陸地から主イエスの乗った舟を追いかけて歩き、そして、ベトサイダに先回りして、主イエスたちをむかえます。主イエスは、そんな人々を、受け入れます。人々が羊飼いを失った羊の様だった、からです。「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。」と聖書には書かれています。その数は増えていきます。男性だけで五千人、女性や子供も加えると一万人近くの人々がこの寂しい漁師の町に主イエスと弟子達を求めて押し寄せてきました。主イエスは彼らを一人に語りかけ癒やされます。使徒たちも頑張って主イエスと同じように働いたのだと思います。でも十二人の使徒たちは、捌いても捌いても押し寄せてくる人々に疲れ果てるのです。さらに人々が空腹を覚えたならどうなるのか、人間、空腹になると理性を失うことは周知の事実です。これだけの人数が暴徒の様に主イエスに向かってきたら、もう、収拾がつかなくなる。使徒たちは恐れます。そして彼らは主イエスに願います。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」この日の午前中に、彼らは自分自身の力を誇っていたのです。自分なら上手く出来る、神の権能を受けたのだから、何でも出来ると、そう思い上がっていました。でもその日の夕方にはどうしようもない状況に追い込まれるのです。では主イエスは何と答えられたのか、主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」(ルカ福音書9:13)と話されます。「あなたがたが」です。主イエスは彼らを突き放すのです。
では主イエスは、思い上がっていた使徒たちを思い知らせるために、この様に話したのでしょうか。そうではありません。主イエスは使徒たちを最後まで、その十字架の上であっても愛し抜かれた、と聖書には書かれています。主イエスはココで使徒たちに教えられるのです。人間の本質的な罪の姿を。人はどんなに心構えしていても、謙遜であろうと強く決意していても、自覚無く傲慢になり、全ての事を自分の力で完璧になし得ると、思い上がってしまうのです。神に祈ることなしに、神が与えてくれなくても、自分の力ですべてなし得ると、そう考えてしまうのです。その事を教えられるのです。使徒たちは自分の力の限界に立たされます。しかも、目の前におられる主イエス、先生であっても、どう考えても解決し得ない窮地に追い込まれていくのです。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
使徒たちは、それまで神の権能を受け、方々の町で伝道をしてきたのです。彼らの他は多くの奇蹟を為し、多くのモノが彼らの働きによって立ち上がりました。しかし、まだ本当には、神の為さる事に信頼をしていなかったのです。これほど多くの人を満腹にする事など、不可能だと、どんな事をしても無理だと、彼らは決めつけるのです。そして神への信頼が失われたとき、彼らは無力になります。あきらめが希望に勝ってしまったからです。
主イエスは使徒たちに五十人くらいを組みにして座らせなさいと話します。使徒たちは言われた通りに、人々を座らせます。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。」(ルカ福音書9:16-17)使徒たちが持っていた五つのパンと干した小魚を主イエスが割いて分け祝福するのです。そうして使徒たちがそれを分けると、すべての人が食べて満腹するのです。使徒たちにとって、そしてそこにいた人々にとっても、想定外の回答でした。でも旧約聖書に描かれているモーセは神に願い、神は天からマナ、というパンを地面に降らせたと書かれています。また預言者エリヤはシドンのサレプタに住む寡婦(やもめ)のカメの粉は尽きずビンの油は減らない、という神からの証を見せました。それだけではありません。神が人を養われるという奇蹟的な出来事については、私たちも毎日経験しているのです。私たちは種を植えることしか出来ませんが、神は育て、実をつけさせて下さるのです。私たちも毎日、神の業によって満たされているのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と主イエスが使徒たちに話した時、彼らは自分たちの力で人々を満腹にしようとしたのです。その瞬間、彼らは躓(つまず)きます。自分たちが町々に出て伝道したのではなく、神が自分たちを用いて伝道した。という事に気づかされるのです。自分たちは神の道具に過ぎなかったと気づくのです。
では、神の道具として用いられる事は空しいことなのでしょうか。そうではありません。聖書はこう書きます。「そして、残ったパンの屑を集めると、十二篭もあった。」(ルカ福音書9:17)この十二籠とはこの場につれて来られた十二人の魂の事です、神からの恵みを多くの人に分け与える働きをした、つまり神の道具として用いられた使徒たちにも十分な恵みが与えられたのだ、と聖書は記すのです。私の経験則ですが、神の道具として働くなら、神がこの世で為される奇蹟を最前線で見る事が許されます。この世の創作された感動ではない、想定外の仕方で神が働かれている姿を知ることが出来ます。なによりいつかは消え去る空しいモノに命を賭けることも、必死になる事もない。教会の奉仕についても同様です。神の教会は誰にも何事も強いる事はありません。この働きが必要だと提案し、時々お願いもしますけど、最終的には神と自分との関係の中で判断する事です。でも、教会で奉仕するという事は神の道具として用いられるという事です。もれなく、イエスさまから十二籠のパン屑が与えられます。
礼拝説教原稿
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