礼拝説教原稿

2019年2月

「鋤き起こされた心」2019/2/17

ルカによる福音書8:4-15

始めるという事よりも、続けるという事の方が難しいのです。以前一つの会社を経営している方と食事をしたときの事です。彼は父親が起業した会社を引き継いだ後、業務内容を刷新し、事業を適切に軌道に乗せたところでした。私から見ると順分満帆な様に見えたのですけど、でもやはり大変だと話してくれました。「誰でも会社を始めることが出来るけれど、その会社を継続し続ける事は難しい」と、彼はそう話したのです。会社が起業された時には勢いがあるのです。それに何もないところから始めるから束縛もありません。でも仕事が動き始めると、仕事の量は増えていきますし関係する人も増え続けます。ルーティンの雑務も増えます。それになにより社会的な責任というものが生じてきます。好きな事、得意な事をするのではなく全体をバランス良く育てていく、それが難しいと、そんな事を話してくれました。

会社を起業するという事柄ではなく、もっと日常的な場面でも、継続する事、維持するということは難しいということを私たちはそれぞれに経験しています。また信仰という事柄についても同じ事が言えるのかもしれません。いつのまにか信仰を与えられたばかりの時の情熱が薄れ信仰が冷めてしまうとか、もう十分学んだと考えてしまうとか、でもなぜ、そうなってしまうのでしょうか。

さて、今朝私たちに与えられました御言葉の場面で主イエスは人々に「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ福音書8:8)と話されます。この言葉は、主イエスが大事なことを伝える時に話される言葉です。主イエスはここで人々に「今、あなた方が受けた、その信仰に留まり続けなさい」と促されます。そしてそのためにどうすれば良いのか、示唆を与えて下さいます。

主イエスがガリラヤ地方で伝道を始めてから、弟子も迎え、その働きは順調に進みます。多くの人がその言葉を聴こうと主イエスのもとに集まり、また主イエスも方々の村や町に行き、人々を教え導き、病を負った者を癒やされます。でも、その働きの規模が大きくなるに従って、主イエスの働きと存在を不快に感じる者たちも現れます。それは主イエスが現れる前に人々を教え導く立場に在った者たち、つまりファリサイ派の者たちや祭司たちです。彼らは当初、主イエスの言葉を熱心に聞き、その言葉に聖書の御言葉の真理を見いだすのです。何故なら彼らは聖書に記された言葉については一語一句、覚えていますし、聖書に記された言葉について幼い頃から仲間と共に討論を繰り返しているのです。ですから主イエスのもとに集まって来た大勢の群衆よりも、彼らの方がその言葉の意味を正しく理解していたのです。でも彼らは徐々に主イエスの言葉に危機感を覚えはじめます。何故なら多くの人々が主イエスの言葉に感心し、その言葉を受け入れる様になり、自分たちの働きを背後から支えていたエルサレム神殿の権威を軽んじ始めたからです。それだけでは無くファリサイ派の者たちや祭司たちは、ユダヤの伝統的な宗教祭儀、習慣、なによりもエルサレム神殿の権威を守るという重い責任を負っていました。かれらにとって伝統を継承し継続する事が、真理を追求することよりも優先する事項だったのです。

ですから彼らは、どんなに主イエスの言葉が正しく福音の喜びに満ち、真理を言い表していたと理解しても、その言葉を受け入れないのです。

では主イエスのもとに集まって来ていた民衆は、すべて主イエスの言葉をそのままに受け入れたのかというと、そうではないのです。主イエスの名前が広く知れ渡るに従って、純粋に救いと福音を求めて主イエスのもとに来た人たちだけではなく、野次馬のように集まって来た人たちも多くなっていたのです。火曜日のアピタ桑名店と同じです。そこまで安いとは思えないのですけどレジは大行列になります。みんなが行くところに自分も行かないと損をする様な気になる。その様な集団心理が働くのです。

さて、その様な状況にあって、主イエスは人々に向かってこの例えを話されるのです。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地(いしじ)に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。」(ルカ福音書8:5-8)

私たちがイメージする種まきは、まず畑を耕して肥料をやって耕耘機で畝(うね)を立てて、そこに均等に種を植えていく、というものではないでしょうか。もしくはビニールハウスで苗まで育てて、その苗を植えるという作業です。でも主イエスの生きた時代はもう少し作業が雑だったようです。農夫は種を肩から斜めがけした袋に入れて、手でぱーっと畑に蒔くのです。だから、この例えのように、ある種は道端に、ある種は石に、ある種は茨の中に、またある種は柔らかく鋤き起こされた畑に落ちるのです。

さて、ではここで話される種について、この種とは主イエスの言葉のことです。そして、人が行き交う道端の固い地面とは、ファリサイ派や祭司たちの心のことです。彼らは主イエスから言葉を投げかけられても、その言葉を受け取る事をしないのです。それだけではなく、種は踏みにじられ、空の鳥に食べられる、つまり台無しにされ、捨てられます。主イエスの言葉だけではなく、御自身も彼らの思惑によって台無しにされ捨てられます。つまり十字架にかけられる事となるのです。主イエスは彼らを「後から悪魔が来てその心から御言葉を奪い去る」者たち、と話します。この悪魔とは「人間の心を神と反対の方向に向かわせる存在」を言い表しています。つまりファリサイ派や祭司たちが主イエスの話す福音よりもその真理よりも優先したユダヤの伝道、神殿の権威は、人を神から引き離す力だと、主イエスは話されているのです。

始めに、新しく始めるより、継続する方が難しいと話しました。でも彼らの様にただ無批判に再評価をせずに伝統を継承し継続するならば、確かに継続という困難な課題に対して努力して克服していく姿勢は尊いのですけど、その努力は全て台無しになるのです。つまり頑張って成し遂げるという姿勢に、人間のエゴが入り込んでしまうのです。彼らは自分たちが神から離れない様に、神への信仰を維持し続ける為に、信仰を形式化し、習慣化し生活の一部に組み入れたのです。でも、その事によって逆に彼らの信仰は形骸化し、信仰の中身がなくなってしまうのです。難しいです。

では、信仰に留まり続けつつ、さらにその信仰を習慣化させない、形骸化させない、いつでも瑞々(みずみず)しいままで保ち続ける為にはどうしたらよいのでしょうか。

主イエスは次の例を話します。それは石地に落ちた種です。この種は野次馬の様に主イエスのもとに来た者たちのことです。沢山の人が集まっているから、何かすごい事が起こっているから。彼らが自分の意思でここにいるわけでは無いのです。ただ集団心理に煽(あお)り立てられて、興味本位で主イエスの言葉を聴くのです。でも彼らも最初はその言葉を尊び、大事にするのです。しかし如何せん彼らは一時的な情動に動かされているだけなのです。熱しやすい物は冷めやすいのです。主イエスは彼らの事を「芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。」と話します。彼らの心に御言葉は根付かないのです。根がないから地面から水を吸い上げることができない。だから。涸れてしまうのです。もし信仰が心に根付いたなら、根が水を吸い上げ信仰は瑞々(みずみず)しく保たれます。つまり信仰が心の深いところまで根を張れば良いのです。心の水脈に近いところまで根を張れば信仰は生き生きと、瑞々しいままで保たれるのです。

では、根が深く張れば良いのか、というと、主イエスはもう一つの信仰が育つ為の要素を加えられます。それが茨の中に落ちた種の例えです。この茨とは「人生の思い煩いや富や快楽」(ルカ福音書8:14)の事です。種は芽を出して根を張ってもそれだけでは育ちません。太陽の光をその若葉に十分に受けなければ、育つ事はないのです。

様々なこの世の事柄に心を奪われる、奪われない様に握りしめているこの世の物が在る。そしてこの世から与えられる快楽、仕事の成果や名誉、もしくはギャンブルなどぶ心が覆われて、本当の光が心に届かなくなるのです。そうすると涸れてしまうのです。

私たちが与えられた信仰から福音の恵みを受けるために出来る事は、自分の力で頑張って信仰を維持し続ける事によって、ではありません。また信仰を習慣化して維持し続ける事でもありません。そうではなく、つねに心を柔らかく保ち、その御言葉を心の中に受けとめ保ち続ける事です。そうすれば、神がその種を育てて下さいます。深く張られた根から養分と水が吸い上げられ、空に向かって広げられた若葉には十分な光が与えられるのです。私が自分の力で自分の信仰を育てるのではなく、神がその恵みによって、信仰を育てて下さるのです。

もう一つ、主イエスは「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」と話します。私たちが出来る事は、蒔き与えられた御言葉を心に留める事です。でもその御言葉が根を張り育ち、やがて豊かな実を結ぶ迄には時間がかかります。そのあいだ、私たちは少々、忍耐するのです。黙って心を神に向けて祈り続けること。決して希望を失うことなく成長を待ちつづける忍耐力をも、神は私たちに与えて下さいます。

幸いなことに、私たちには礼拝が与えられています。私たちは礼拝に於いて神に自分自身の全存在を差し出し、捧げ、神は私たちの魂に福音の種を蒔いて下さいます。一週間毎、一年間で五二回礼拝を捧げる事ができます。私たちは心が固くなってしまうことも、落ち着きを失って浮ついてしまうことも、この世の事が忙しくなってしまう事もあります。でも神はそんな私たちの心に、毎週、礼拝を通して御言葉を投げかけて下さるのです。その恵みを覚えて感謝しつつ、神の言葉を受けとめましょう。

「自由と自律」2019/2/10

ルカによる福音書6:1-11

この寒い時期になると、私はついついコンビニの肉まんを買ってしまいます。しかも、買って店を出て、直ぐに袋から出して食べます。行儀が悪いと思いながらも、なかなかやめられません。なぜなら家に持って帰ってから食べると、このアツアツホクホク感が薄れてしまうからです。でも、こうやって「買い食い」をするときに、私はいつも罪悪感におそわれます。というのも私は子どものころ、近所の駄菓子屋で駄菓子を買い食いする事を禁じられていました。それだけでなく、立ったまま食べ物を食べると厳しく叱られました。その記憶がまだ頭の奥の方に残っているからです。

さて今日、私たちに与えられました御言葉に記されている主イエスの弟子たちの行いについてです。確かに彼らの行いは誰が見ても、行儀の悪い態度です。でもこの弟子たちの何気ない、少しばかりの不作法な行いは、しょうがない、とあきれるだけでは収まらない事態に発展します。この些細な出来事が発端となって、主イエスとファリサイ派の人々との間の対立が鮮明になり、ここから後、主イエスは彼らから命を狙われることとなります。そしてその流れは十字架へと繋がるのです。
では弟子たちはどんなことをしたのでしょうか。ある安息日に主イエスと弟子たちは麦畑を通って行かれたと、聖書には書かれています。彼らは、これから会堂に行って安息日の礼拝を守ろうとしているのか、それとも礼拝を終えて帰る所だったのかは、記されていません。でも、安息日の朝は食事の前に会堂に行き、朝の祈りを捧げることになっていましたし、礼拝を守った後は、人々はそれぞれの家に帰ってから、安息日に入る前に用意していた食べ物を、食べる事になっていたので、どちらにしても、この時、弟子たちは空腹だったのです。そして彼らは実っている麦の穂を手で摘み、揉んで、籾殻を吹いて飛ばし、そのまま食べるのです。
さて、それを見たファリサイ派の人々は弟子たちをとがめます。でも直接弟子たちをとがめた訳ではなく、弟子たちを指導する立場として、主イエスに問いかけるのです。なぜ、ファリサイ派の人々は弟子たちの行いをとがめたのか、というと、弟子たちの行いが安息日の規定に違反しているからです。
律法には安息日を覚えなければならない、と書かれています。安息日に、特に稲を刈ること、脱穀すること、叩いて箕に集めて籾殻を吹き飛ばすことは禁じられていました。弟子たちがしたこと、麦の穂を積んで、手で揉んで、息を吹きかけて籾殻を飛ばす、という行いは、安息日を定めた律法規定違反になるのです。
でも、そもそも安息日とは何か、というと、その起源は神が天地を想像された創世記の物語に行き着きます。神は天地を想像され七日目に休まれます。「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創世記2:1-3)と書かれています。この聖別という言葉の意味は神の物として取り分けることです。つまり一週間の内、六日間は人が自分の為に使って良いけど、七日目の一日は神の為に取り分けられた、ということです。ではこの安息日に何をするのか、というと、神が手の働きを止めて安息されたように、人も神の下に帰り安息する。この世の日常の仕事を休んで一息つく、緊張を解く、ホッとする、それが安息日の基本的な姿勢です。そして、この安息日の規定はモーセが神から授かった十戒に記されます。十戒の第四戒にこの様に記されています。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エジプト20:8-11)でも、さらに神はモーセに命じます。「モーセはイスラエルの人々の共同体全体を集めて言った。『これは主が行うよう命じられた言葉である。六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる。安息日には、あなたたちの住まいのどこででも火をたいてはならない。』」(出エジプト記35:1)
死刑に処される、つまり命を絶たれるとされているのです。何故ここまで厳格に安息日を守るように命じられているのか、というと、それはイスラエルの民が神に聖別された民であること、つまり、特別にこの世から取り分けられた民である事を忘れない為です。自分たちの世代だけではありません。その事を自分たちの子孫の子孫、そして共同体全体の心に刻みつけるために、律法には毎週の一日を神の為に取り分けられた安息日として守るようにと徹底されているのです。
つまりファリサイ派にとって、主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んで、食べたという行いは、厳罰に値する行いだったということです。ここまで安息日の規定という背景が分かると、彼らがただ単に主イエスが気に入らなかったからという理由で、難癖をつけたのではない、ということが分かるのです。

でもなぜ神はイスラエルの民に律法を与えたのでしょうか。そのためには、そもそも法とは何の為にあるのか、ということを考えなければなりません。そもそも法とは一つの集団にあっての共通の規範として定められます。共通のルールです。でも法にはもう一つの側面があります。それは権力者の権力を制限する働きです。ユダヤの場合、国そのものが神によってこの世から聖別された者たちの共同体なので、どうしても神と人を結ぶ役割を担う祭司に権力が集中するのです。人々は祭司の言葉に無批判に従う事となります。しかし共同体に常に良い祭司が与えられ続ける訳ではありません。時々神の前に道を外してしまう祭司も表れます。でもその様な時でも祭司の言葉ではなく、定められた律法を民衆の一人ひとりが直接覚えて守るならば、民衆は祭司に依存しなくても、常にイスラエルの民は神に向かうことができるのです。つまり、律法によって祭司の権力が削がれ、民の信仰は守られるのです。さらに律法は個人を神に結びつけただけではなく、イスラエルという国をこの世に存続させる働きも担いました。たとえイスラエルの王が替わるとか、分裂するとか、他国から侵略を受けて国自体が崩壊したとしても(実際イスラエルは幾度となく他国からの侵略と崩壊を経験しています)それでも一人ひとりが律法を守り続ける事によって、地上の国家という共同体は無くなってもイスラエルは存続し続けます。例えイスラエルの民が捕囚され、バビロンで奴隷として生きる様な状況に追い込まれたとしても、彼らは絶えること無く、何代か世代を重ねた後にまた地上にエルサレムを再建したのです。近代にあっても、世界中に離散して生きていたユダヤ人は第二次大戦の後にイスラエルを建国するに至るのです。「イスラエルは安息日によって守られた」という言葉があります。イスラエルの民は律法によって厳格に安息日を守り、週に一度半ば強制的に神に立ち返らせられ、存在し続けているのです。

話しを聖書の時代に戻します。しかし律法によって権力を削がれた祭司も黙っている訳ではありません。彼らは自分に力が向かう様に仕掛けを作るのです。彼らは律法に沢山の細則を加えます。それは六一三のミツワーと呼ばれる戒律です。彼らは聖書に書かれた律法を細かく規定し、律法に即しているか違反しているかの判断を自分たちの仕事にするのです。そうする事によって、彼らは自分たちの権力を維持しようとしました。
例えば安息日の律法規定には仕事をしてはいけない、家の中で火を焚いてはいけない、と定められているのですが、彼らは事項を細分化し39の細則を加えました。例えば苗を植える、耕す、収穫、束にする、脱穀、籾殻を吹く、選別する、他に、書いたり、移動したり、火をつけたり、火を消すことも禁止されています。
ファリサイ派の者たちが主イエスに対して、弟子たちに注意をする様に促したとき、主イエスは彼らにこう答えます。「『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。』そして、彼らに言われた。『人の子は安息日の主である。』」(ルカ福音書6:3-5)この言葉について色々と解釈はありますが、主イエスがファリサイ派の人々に伝えられたことは一つです。空腹の人間がお腹を満たそうとするのは当然の事だ、と。そこに安息日もそうでない日もない、ということです。人を自由にする為に神は律法をくださったのに、あなたたちは人を束縛するために、その律法を使っていると、そう批判するのです。

そして他の安息日に主イエスは彼らの前で、右手が萎えていた男を癒やされます。治療行為は仕事とされていました。でも緊急事態に於いては認められていました。突然大きなケガを負うといった場合には認められていたのです。でもこの右手が萎えていた男の病は昨日今日に発症したものではありません。安息日が明けた後に治療を行っても十分なのです。しかし主イエスはあえて、ここでファリサイ派の人々と対立するのです。なぜか、彼らを目覚めさせるためです。彼らに気づかせるためです。しかし、彼らは「怒り狂った」と聖書には書かれています。なぜなら彼らの目には「右手が萎えていた男」の姿が見えていないのです。病が癒やされた男の喜びよりも、彼らの心は自分たちに恥をかかせた主イエスに対する憎しみに囚われてしまうのです。
ファリサイ派の人々には「右手が萎えていた男」の姿はまったく見えていませんでした。だから彼らは主イエスを裁くのです。その裁きの道具として律法を用いてしまうのです。神がイスラエルを生かす為に、その民一人ひとりを守る為に与えて下さった律法であっても、彼らはそれを自分を守る武器として用いてしまうのです。では律法など廃棄するべきか、というと、そうではありません。

主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ福音書5:17)と話されます。どうやって主イエスは律法を完成させたのか、それは律法の中心に愛を加えることによってです。その愛の在り方を、つまり自分を犠牲にしても相手を生かそうと願う愛の姿を主イエスは十字架によって示されました。主イエスが「右手が萎えていた男」の魂に下りていき寄り添われたときに、安息日は本当の安息日になったのです。
規則や法は道具です。道具があれば作業は効率良く進められます。しかも、特定の技術を持った人ではなく、誰もが作業に参画できるようになります。でも道具は常に注意して用い無ければなりません。慎重に使わないと手を切ったり、物を壊したりしてしまいます。私たちも道具を上手く使い、でも互いにちゃんと目と目を合わせ関わりながら、共に歩みましょう。

「今を生きる」2019/2/3

ルカによる福音書5:33-39

お刺身というと鮮度が命、というイメージがあります。でも釣ったばかりの魚よりも、冷蔵庫で一晩寝かせた魚の方が、旨みが出て美味しいお刺身になります。これは科学的に検証されていることで魚は死後硬直が始まってから旨み成分のイノシン酸というアミノ酸が生成され、十時間程度でピークに達するのだそうです。つまり単純に新鮮な魚の方が美味しいという訳ではないのです。ただ好みの問題ですが、私は釣ったばかりの魚を直ぐに捌いてコリコリの歯ごたえを味わう、という食べ方が好きです。今朝私たちに与えられました御言葉には、主イエスの話された譬え話が記されています。「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。」(ルカ福音書5:37)
新しい葡萄酒と古い葡萄酒、もちろん主イエスはどちらが美味しいか、ということを話している訳ではありません。主イエスはこの譬え話を通して私たちに私たち自身の信仰の姿勢について、また信仰者同士の交わりについて話されています。

さて、主イエスは伝道を始められてから直ぐに、ゲネサレト湖で漁師として働いていたシモンに声を掛け弟子として迎えます。そのあと幾人かの弟子を招き、彼らと共に方々の村を廻り、人々に教えを説き、導き病を負った者には癒やしの業を行われます。その噂は直ぐにユダヤ全土に広がります。そしてガリラヤとユダヤ、エルサレムからも多くの人が主イエスに会う為に集まってくるのです。でも主イエスも下に集まって来たのは普通の民衆だけではなく、ファリサイ派の人々と律法の教師たちも主イエスの言葉を聞くために集まって来たと聖書には書かれています。彼らが主イエスの下に来た理由はなにか、というとそれは主イエスの弟子になるためではありません。そもそも彼らはエルサレム神殿の権威の外にいる者が、人々から崇(あが)められる事を彼らは容認できないのです。ですから彼らは主イエスに近づき、あら探しをし難癖をつけようと、此処にいるのです。もちろん主イエスもその事を知っています。でも主イエスは彼らを去らせることはしません。人々に見せるのと同じように彼らにも、自分のそのままの姿をお見せになるのです。そして、彼らの中の一人が主イエスに質問します。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」(ルカ福音書5:33)この質問は、単なる質問ではありません。ある問題を切っ掛けにして問いかけられています。それは一つ前の二七節以下の物語です。主イエスはレビという収税人を弟子に招いたと、記されています。

「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。」(ルカ福音書5:27)収税人とはその名の通り税金を集める仕事をしている者です。でもこの収税人たちは当時のユダヤに於いてはとても嫌われていました。それは単に人々が税金を納めたくないから、という感情によるモノだけではありません。彼らは同じユダヤ人であるのに、ローマに納める税も徴収していたからです。この当時、ユダヤは事実上ローマ帝国の属国として支配されていました。でも、ユダヤ人たちは自分たちを神に選ばれた民族であると誇り、異邦人として見下していたのです。そのローマ人の手先になり、しかもローマ軍の威を借りて税を徴収しているのです。彼らは異邦人と関わるという事に於いてユダヤの律法に背き、また同胞を困窮させる者として嫌われていたのです。さて、この徴税人レビに主イエスは声を掛けます。彼は誰からも疎(うと)まれ、だれも彼と目を合わせようとはしなかったのです。でも主イエスは彼の目を見て、声を掛けました。レビは喜びます。喜んで彼は全てを捨てて立ち上がり、主イエスに従うのです。そしてレビは主イエスと弟子たちを家に招き宴会を開きます。近所の者たちも、そこら辺にいる者たちも、町中の人を招いて大宴会を行うのです。

その宴会の席にはファリサイ派の人々と律法の教師たちも同席しています。では、彼らはその宴会を、他の人たちと同じように喜んで参加したのかというと、そうではありませんでした。彼らは主イエスではなく弟子たちに話します。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」(ルカ福音書5:30)主イエスはその言葉を聞き、応えます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ福音書5:31-32)ファリサイ派の人々と律法の教師たちは、徴税人レビが喜びながら多くの人に食事や飲み物を振る舞う事が気に入らないのです。主イエスはレビが今までの罪を悔い改めたと話したのです。悔い改めるとは、過去の罪を後悔し反省することです。そうであるなら宴会を催して飲んだり食べたりするのではなく、逆に断食をして、神の前に今まで犯してきた罪の一つ一つを告白するべきではないか、と彼らは考えるのです。
今までの罪を心から後悔し反省しているなら、食事が喉を通らないのではないか、こいつは本当に、今までの過ちを反省しているのか、と彼らは徴税人レビを批判するのです。彼らは主イエスに質問します。先生「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」(ルカ福音書5:33)

そこで、主イエスは先ほど話しました新しい革袋の譬えを話されるのです。「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。:38 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」(ルカ福音書5:36)
新しい葡萄酒はまだ盛んに発酵しているので炭酸ガスが出るのです、だから古い革袋に入れて封をしてしまうと、パンパンに膨らんで革袋は裂けてしまいます。だから新しい葡萄酒は強度のある新しい革袋に入れるのです。逆に古い葡萄酒は新しい革袋にはいれません。新しい革袋は革のつよい匂いが抜けていないので、古い葡萄酒の折角の良い香りが消されてしまうからです。

この譬え話の意味は何か、というと、それぞれ物には時期に合った入れ物があるということです。つまり人のそれぞれの信仰には成長の段階があるのです。人は信仰を与えられてから、段階を経て成熟へと向かうのです。だから信仰がまだ若い者に成熟した信仰者の価値観や考え方を押し付けるなら、若い者は反発し、年を経た者たちは自分たちの思い通りに進める事が出来ず、結局両方共に駄目になるのです。ここで言う駄目になるとは、心が地上に向いてしまい神に向けることが出来なくなる、ということです。
今、徴税人レビは主イエスに出会って始めて信仰を与えられ、新しい命を与えられ、始めて自分の肺で息を吸い呼吸を始めたのです。今までの苦しみや悲しみ、空しさ孤独から解放され、闇の中から光の中に抜け出してきたのです。だから嬉しいのです。嬉しくてしようがないのです。彼は今、新しく生まれた喜びに満たされているのだから、そのままにしなさいと、主イエスは、この譬えを通して話されるのです。でも主イエスは新しい革袋、新しい信仰だけが良いとは話していません。主イエスはこの後、この様に話します。「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」(ルカ福音書5:39)

新しい葡萄酒は果実の風味が残っていますが、荒々しく尖っています。それに比べて古く成熟した葡萄酒は角が取れて香りも落ち着いていて飲みやすいのです。同様に私たちも信仰も成熟した方が良いのです。落ち着いて深く祈り、常に神に立ち返る事の出来る信仰。主イエスは、ただファリサイ派の人々と律法の教師たちを批判しているのではなく、彼らを受け入れつつ、でも自分たちの価値観や信仰の姿勢を押し付けてはいけない、とそう話しているのです。主イエスはさらに話します。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」(ルカ福音書5:34)
「今、この時は私が一緒にいるのだから、あなた方も一緒に喜んで欲しい」と主イエスは話します。「そのうち時が来れば、私は天に取り上げられるのだから」つまり自分が十字架に掛けられる時が来る、その時には此処にいる全ての者たちは、自らの罪を自覚し、後悔し、その時には悲しんで断食する事になるのだから、それまでは、喜んでいて欲しいと、主イエスは話されるのです。

さてこの礼拝に集っている私たちの信仰もそれぞれ成熟の度合いが違います。まだ信仰生活が始まったばかりの人も、長い信仰生活を経て成熟を与えられている人もいます。また礼拝で喜びに包まれている人も、礼拝で心を静かに神の前に黙している人もいます。でも、それで良いのです。神が生きているのと同じように私たちの信仰も生きています。私たちはゆっくりと成長しているのです。そしてその成熟の段階に合わせた信仰の在り方が与えられているのです。そこで覚えなければ為らない事は、それぞれが、それぞれの信仰の証しを相手に押し付けない、ということです。それぞれの段階に合わせてそれぞれに証しをし、互いに受け入れ合い、お互いに成熟に向けて成長し合うこと。お互いを成長させる言葉を交わす事。私たちは共に神を見上げるという事に於いて一致する事ができるのです。それが信仰者の交わりなのです。そして私たちはこの教会に新しい革袋も古い革袋も用意しましょう。全てのひとが自分の在り方に合わせて神を仰ぎ賛美できるように。