礼拝説教原稿
2019年1月
「惑わされるな」2019/1/27
ルカによる福音書21:1-9
「思いわずらう」とは、あれこれと考えた末に良い解決方法を見いだすことが出来ずに悩み苦しむことです。私は子供の頃から、実は今も人前で話すことが苦手です。学校の授業で発表しなければならない時などは、前の日から「ああでもない、こうでもない」と思い煩い眠れませんでした。社会人になってからも人前に出る仕事は不得意でした。なにが不得意か、というと、頭の回転が鈍くて会話にアドリブを効かせられないのです。よく教会の会議とかで手を挙げて質問する牧師とか、色々な会で冗談を交えながら上手く司会進行をする牧師たちがいますが、本当にあこがれます。でもこの性格も悪い事ばかりではありません。経験的に何度も痛い目をみて、自分はアドリブが回せないと知っているので、人前で話すときには事前に十分に準備をするようになっています。また、いつ何を聞かれても良い様に時間を掛けて要点を整理する癖が付いています。あと(疲れている、極度の空腹でなければ)瞬間的にカッとなって感情にまかせて誰かを叱りつけるとか怒鳴る、ということもありません。それは利点です。とはいえ、この「その場でどうにか対応する事が出来ない性格」を抱えている限り、日常的に思い煩ってしまうことは多いのです。では聖書には何と書かれているのか、というと主イエスは「思い患うな、その日の苦労は、その日だけで十分だ」と話されます。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(マタイ福音書6:26)神に全てを委ねるなら、あなたは思い煩いから解かれると、主イエスは話されるのです。今朝私たちに与えられました御言葉から私たちは、この信仰の在り方について聞く事が出来ます。
さて、ルカ福音書二十一章一節以下には「レプタ二つを捧げた寡婦」の話が記されています。この場面で主イエスはエルサレムの神殿の境内で多くの人々に教えられています。人々は夢中になって主イエスの話しを聞いていた、と聖書には書かれています。そうして、たぶん主イエスの話しが一息ついたときでしょう、主イエスは目を上げられて、遠くに目をやるのです。そこには神殿に献げる献金を集める賽銭箱が置かれていました。この賽銭箱の歴史は古く紀元前八百年頃、ユダの王ヨアシュによってエルサレム神殿の門の前に設置された記録が歴代誌下二四章に記されています。「王は命令を出して一つの箱を作らせ、主の神殿の門の外に置かせた。そして、神の僕モーセが荒れ野でイスラエルに対して定めた税を主に納めるように、ユダとエルサレムに呼びかけさせた。高官も民も皆喜んで持って来て、溢れるまで箱に投げ入れた。」(歴代誌下24:08)このヨアシュは主の神殿の修復に意欲を示し祭司ヨヤダと共に事業を進めます。その時の資金を集める為に献金が集められたのです。
さて、主イエスがこの賽銭箱に目をやったとき、一人の寡婦がレプトン銅貨二枚を献金として捧げていました。レプトン銅貨は当時のユダヤの最初の硬貨です。現代の貨幣価値では百円位でしょうか。つまりレプトン銅貨二枚でパン二個が買える金額です。主イエスは彼女を見て、「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(ルカ福音書21:3)と話されました。
寡婦とは連れ合いを失った婦人の事です。現代と違い当時は連れ合いを失う事は女性にとって最も不幸な事と受け取られていました。聖書に記された律法には、寡婦は最も弱い者なのだから、助けなければならない。と定められています。例えば申命記の十四章にはこうあります。「あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたの行うすべての手の業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう。」(申命記14:29)でも現実はそうではありませんでした。彼女たちの多くは物乞いとして生活する事を余儀なくされていましたし、社会的にのけ者として貧しく無視される者として扱われていたのです。それだけではなく人々の心の内には夫が亡くなった原因を根拠なく彼女たちに押し付ける傾向もありました。つまり、なにか悪い呪いを受けた存在の様に扱われていたようです。
では主イエスは、人々にこの寡婦の献金の姿を見せることによって何を伝えようとされたのでしょうか。持っているお金を全て捧げる事が素晴らしいと、そう話されたのでしょうか。それとも、神に献金を捧げるなら、あなたが願っている願いは叶えられると、そう話そうとされたのでしょうか。そうではないのです。
ではこの寡婦は、なぜ自分の生活費の全てを神殿の賽銭箱に投げ入れたのでしょうか。聖書にはその理由は、なにも書かれていません。冷静に考えれば、例えば銅貨一枚は生活費を残しておいて、残った全てを捧げるということの方が現実的な様に思えます。しかし彼女は持っている分を全て捧げるのです。それだけではありません、この時、主イエスはこの寡婦の行いを遠くから見ているのです。主イエスはこの寡婦に声を掛けた訳でもなく、彼女は主イエスを意識している訳でもない。彼女の行動に対して主イエスが一方的にコメントしているだけです。つまりこの寡婦は、主イエスを含め誰かの目を気にして、頑張って献金している姿を誰かに見せようとしてレプトン銅貨二枚を投げ入れたのではない、ということです。となると考えられる事は一つです。彼女はなにも自分の事を考えてはいない、ということです。彼女のこの献金という行いを、私たちは、この世の理性的な判断や自分の利益、価値観で計ることはできません。彼女はこの二枚の銅貨を捧げれば明日には飢え死ぬしかないのです。でも彼女はその自分の命を神に差し出します。何故それが可能かというと、彼女は自分の命を神に委ね切ったからです。その時の彼女の表情はどのようなものであったのか。主イエスはわざわざ人々の目を彼女に集中させた理由は、彼女のその表情を見せるためです。彼女は晴れ晴れとした、解き放たれた表情をしていたはずです。彼女が自分の命を保つのに必要な全財産を神に捧げたこの時、彼女は、レプトン銅貨やパンや、自分の今置かれている寡婦という境遇や、失った夫の姿や、人々の視線や、その他、様々な辛さから自由にされているのです。加えて明日、自分がどうやって生きるか、についての思い煩いからも、自由にされています。「ただ神に全てを委ねれば良い、神は全てを与え、全てを奪う」とそう、分かっているのです。主イエスは、人々に「この世の全ては、自分の命も含めて全ての事は、神さまが為さるように為る」という真理が腑に落ちるなら、人はこの世から自由になると教えられています。神に自分の命を委ねれば、あなたたちは楽になる。思い煩いから解放されると教えるのです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」です。
では、この主イエスの言葉は人々にちゃんと伝わったのか、というと、そうではありません。このすぐ後で、人々のうちのある人たちが「神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話して」(ルカ福音書21:5)いた、と聖書には書かれています。先ほどヨアシュ王の神殿再建の話しをしましたが、エルサレム神殿は第一神殿と呼ばれますが紀元前九百年頃ソロモン王によって奉献された後、歴史の戦火にさらされ一度崩され、紀元前五百年頃にバビロン捕囚から帰ってきた民によって再建されたものです。そして主イエスが伝道を始められた頃にヘロデ大王によって始められた大規模修繕と拡張工事がちょうど終えられた直後です。つまりこの時に主イエスが人々を前に教えられていたエルサレム神殿は補修が終わったばかりに、まるで新築のような状態だったということです。黄金の門と呼ばれる城壁の東側に備えられた巨大な門には金が貼られ、神殿の所々には奉納した者の名を刻んだ奉納物で飾られていました。組まれた強大な岩も表面は磨き上げられていたことでしょう。人々はこぞって献金や献品を捧げ神殿は作られました。そして、やはり人々は寡婦の二枚のレプトン銅貨よりも、財産を持っている者たちの捧げた捧げ物の方に目を向けてしまうのです。
では主イエスは何と話したのでしょうか。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(ルカ福音書21:6)目に見える者は必ずいつか失われる。この神殿、そして豪華で高価な装飾品も、いつかは全て失われてしまう、と、そう話されます。主イエスは人々に、この世の物を神殿に捧げるのではなく、自分の命、そのものを神に委ねなさい、と勧めるのです。でも人々は、この言葉を理解することができず、さらに動揺します。人々は「その日はいつ来るんですか」と主イエスに詰め寄るのです。主イエス詰め寄った者たちは、まだこの世の理性的な判断や自分の利益、価値観に心を奪われています。目に見える神殿に心を奪われている。だから将来について思い煩い不安を覚え、脅えているのです。レプトン銅貨を捧げた寡婦の表情とは対照的に、恐れと不安に心を奪われているのです。
では主イエスは彼らを叱責するのか、というと、そうではありません。「惑わされないように気をつけなさい。」「世の終わりはすぐには来ないからである。」(ルカ福音書21:8)と話されます。主イエスは、主イエスの言葉の本質的な意味を捉えることが出来なかった者たち、誤解している者たちに対しても、それでも大丈夫だと、愛の眼差しを向けて話されるのです。
主イエスが人々の目を、この寡婦に目を向けた意味は「神に全てを委ねれば、あなた方は、あなたがたの心を縛っているこの世の価値観から自由にされる」、「明日への思い煩いからも解放される」事だと話しました。でももう一つ、主イエス自身が彼女の姿を通して与えられた喜びがあったのではないか、と、そう思います。何故ならこの後すぐにエルサレムでは過越の祭りが始まるのです。つまり主イエスはこの後すぐに捕らえられて十字架に送られるのです。主イエスには、その時が近いことがわかっていました。主イエスはこの寡婦の姿を見て、自分だけが自分の命の全てを神に捧げるのではないと、感じたのではないか、と思えるのです。この寡婦のように、十字架上で自分の命を捧げきったときの自分の表情は晴れ晴れしているだろうと、解き放たれているだろうと、主イエスはこの寡婦を見て感じたのではないかと、思えるのです。主イエスが十字架の死から復活された様に、私たちは死からも自由にされているのです。神に全てを委ね、命をも委ねたとしても、神はその全てを支えて下さいます。にも関わらず私たちはこの世の様々な物にしがみついてしまいます。不安を抱き思い煩い日々を生きるのです。でも、それが私たちなのです。主イエスも十字架に架かられる日の夜に、ゲッセマノの園で血の汗を流しながら藻掻き苦しみ、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ福音書26:39)と祈ったのです。私たちは主イエス以上のものではありません。私たちも、思い煩い悩み苦しんでも良いのです。でも主イエスは最後に「御心のままに。」と祈ります。そして私たちも「御心のままに」と祈る事ができるのです。
「目に見えないもの」2019/1/20
ルカによる福音書4:16-30
例えばお米の入った袋の様に重い物を持ち上げるとき「大したことない」と舐めてかかると簡単に腰を痛めるのです。この年始に私は二十㎏の米袋から米を大きなポリペールに移し替える用事がありました。でもこの米袋が荷物の山積みになっている奥に重ねて置いてありました。私は身体を斜めにして持ち上げようとしたのですけど、すぐに止めました。このままの姿勢で持ち上げると腰をやるな、と気づいたからです。手間でも荷物を退けて、米袋の正面に立ち、腰を下ろして持ち上げられるようして、それから米袋を持ち上げました。事程左様に私たちは何事に対しても舐めてかかるなら、それなりの報いを受けるものです。何事に対しても、手間でも出来るだけ正面から真剣に対応するべきですし、その方が結果的には安全で早かったりします。でもやはり、私たちは物事に対して舐めて掛かってしまうことがあります。人間関係に於いても然りです。私たちが自分に対峙している相手を舐めて掛かってしまう原因は何か、というと、それは相手が自分より劣っている、自分の方が相手よりも強い存在である、自分はすべて理解している、とする自負心にあります。つまり傲慢に心を支配されるなら、私たちはどんな言葉、状況、相手に対しても均一に正面から真剣に向き合う事ができなくなるのです。与えられた言葉の意味を、思いを心に落とすことが出来ず、言葉の表層だけを受けとってしまうのです。なによりせっかく自分に向けられた言葉を、無価値なものとして、廃棄してしまう事になるのです。それは勿体ないことです。逆にそれが尊敬し信頼する相手の言葉であるなら、私たちはその言葉の意味と思いを自分の心の底に落とす事ができます。その言葉は心の糧となるのです。
なぜこの様な事を話したのかというと、それは私たちそれぞれが神の言葉にどのように向き合っているかを考えるためです。私たちは神の言葉とどのように向き合っているのでしょうか。私たちにとって神は畏れの対象です。畏れとは「怖い」という感情ではなく、偉大な者に対して畏れ敬(うやま)う感情です。神を畏れ尊敬する時に私たちは神の言葉を聞くこと出来るのです。でも逆に神を蔑ろにしているなら、神を疎んじ自分の方が優位であるかの様に誤解しているのなら、私たちは神の言葉の深意を受け取ることが出来ないばかりか、その言葉を命の糧とする事はできません。そればかりでは無く逆に神に敵対する事となります。それは愚かな事です。
さて今朝、与えられました御言葉、ルカ四章十六節以下は先月のアドベント第一週にも読まれた箇所です。その主日に於いて私たちはこの御言葉から「御子の誕生によって世の創世の時に交わされた神の約束が成就した」というメッセージを受け取りました。でも今朝はこの箇所からもう一つの、異なるメッセージを共に読み進めてまいります。それは「如何すれば私たちは神の言葉を聞くことが出来るか」です。主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、四十日四十夜にわたって荒野に留まり誘惑を受けられた後に、霊に満たされてガリラヤに来られます。そしてティベリアやカファルナウム、また他の町々の諸会堂で人々に教えを説かれ、また虐げられた人々の所に降りて行き、病を癒やされたと聖書には書かれています。その評判はまたたく間に広まり人々からの尊敬を受けられるのです。そうして主イエスは生まれ故郷のナザレに帰られます。このナザレには主イエスの母マリア、兄弟たちや親類も住んでいます。そして町の人も皆主イエスの事を、主イエスを子どもの頃から知っています。でも、主イエスがこのナザレに帰ってきたとき、ナザレの町の人々は主イエスに対して好奇の目を向けるのです。主イエスは長男です。長男は家長として家と仕事を継ぐことが決められていました。しかし主イエスはある日、このナザレを離れたのです。それから洗礼者ヨハネから洗礼を受け預言者として働き出している、という噂がこのナザレの町にも流れてきます。しかも、ガリラヤの方々の町で人々に教えを説き尊敬され、人々を癒やすということもしていると、いうのです。「いったい、あのイエスに何が起こったのか」ナザレの町の人々は興味を持ちつつも途惑ったのだと思います。そして、そのイエスが帰ってきたのです。
さて安息日が始まります。主イエスは家を出て会堂に入ります。そこでは町中の人が集まり礼拝を捧げています。でも、いつもとは雰囲気が違ったのだと、そう思います。皆の意識は主イエスに向いているのです。そうして主イエスは聖書を朗読しようと立たれます。渡されたイザヤ書の言葉を読みます。そしてこう話すのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ福音書4章17節)では、人々はその言葉をどのように受け取ったのでしょうか「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」(ルカ福音書4章22節)人々は主イエスの言葉を聞いて「恵み深い言葉に驚いて」とあります。人々は主イエスの言葉の中に神の救いの言葉を聞くのです。神の恵みを受け取り心を動かされるのです。でもしかし、人々はすぐに我に返ります。『この人はヨセフの子ではないか。』と、そう心の中で思ってしまうのです。
「なぜ自分たちと一緒にこの町で育って一緒に働いていたヨセフの子イエスが、学者でも祭司でもないのに、権威ある者の様に確信を以て神の言葉を我々に伝えているのか、しかも、メシアがこの世に来られるという聖書に書かれた神の約束が、今、成就したとはどういうことか、なぜイエスは自分がそのメシアであるかのように話すのか」。会堂にいる人々は、主イエスを自分とまったく同じ者だと考えているのです。自分と同じように考え感じ世界を見ている、同じナザレの男だと考えているのです。だから彼らは主イエスの言葉を侮(あなど)ってしまうのです。主イエスを舐めて、見くびって、せっかく頂いた、その言葉の意味と思いを自分の心の底に落とす事ができず、無価値なモノにしてしまうのです。
主イエスは会堂にいる人々の心を知ります。そして、彼らにこう話します。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」(ルカ福音書4章24節)そして主イエスは預言者エリヤと預言者エリシャについて話します。「エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」(ルカ福音書4章25節)これは列王記上十七章に記された物語です。サレプタにいる一人の寡婦は自分の所に逃げ延びてきたエリヤを助けます。しかしその一人息子が死んでしまします。彼女はエリヤに不平を言い悲しみに暮れます。そこでエリヤはその息子を生き返らせるのです。もう一つは列王記下五章に記された物語です。「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」(ルカ福音書4章27節)このシリアのナアマンは人望も信仰も厚い立派な将軍でありましたが重い皮膚病にかかるのです。彼はエリシャに治してもらおうと願い出るのですが、エリシャはナアマンに、ただヨルダン川で身体を洗うようにと話すのです。ナアマンは激怒します。なぜ自分の所に来て、手を当ててくれないのか、神の名を呼んで祈ってくれてもよいではないか。でも僕たちの言葉を聞き、ヨルダン川に身を漬すと、皮膚病は治るのです。
この二人に共通していることは共に異邦人であるという事です。つまりユダヤ人から見て神の救いの外に置かれている者を神は救われた、ということです。この言葉に、会堂にいた者たちは全員激怒します。「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」(ルカ福音書4章28節)ナザレの人々は主イエスを自分たちと同一の者、仲間だと考えています。でもだからこそ、主イエスが「あなた方は間違っている、神にあなたがたを救わない」と言い切ったときに「何様のつもりだ」と激昂するのです。主イエスは彼らの間を通り抜けて、此処から立ち去られるのです。
でもなぜ主イエスはこうなることがわかっていながら、自分の故郷であるナザレに来たのでしょうか。ナザレの人々は主イエスを幼少の頃から知っているが故に、自分と同じ者と考え、主イエスの言葉を受け入れることができません。彼らはユダヤの祭司や律法学者以上に主イエスを純粋に神の言葉をして受け入れる事ができないのです。だからもし、このまま主イエスがナザレに来ることなく、ナザレで村の人々と対立する事なく十字架に架かられるなら、ナザレの人々にとって主イエスは、遠くで頑張っている同族の変わり者として扱われるだけで、決してメシアとして受けとめられることはなかったのです。結果ナザレの人々は救われないのです。ですから主イエスはあえてこのナザレに来られたのです。憎まれても殺されかけても、心情的には家族に等しいナザレの人々と対立して決別すること。精神的に一度完全に分離しなければ為らなかったのです。
私たちは神を、そして主イエスに対して畏怖の念を抱いているでしょうか。なにか親しい親戚や家族の様に受けとめてしまっているのではないでしょうか。もし私たちが主イエスに対する畏れを失ったなら、私たちは御言葉から意味と思いを受け取ることが着なくなってしまうのです。それだけではなく私たち自身も主イエスを崖から突き落とそうと主イエスに迫る事になるのです。私たちは神ではありません。当たり前のことですが、でも私たちはその負った罪故に当たり前の事が分からなくなってしまうのです。神はモーセに十戒をわたしました。その最初に「わたしは主、あなたの神」と記されています。当たり前なら記さなくても良いのです。でも私たちがこの事を見失うので、第一戒として此処に書かれているのです。もう一つ、私たちはそれぞれ一人ひとり個別の存在です。相手が自分と同じように考え感じ見ている訳ではありません。だから話し合わなければ解りません。時に決別することも対立する事もあります。でもだから神は私たちに愛する事を教えられたのです。相手を自分自身のように大切に思うという愛を基底に置いて、私たちは話し合うのです。その時に私たちは始めて一致するのです。
「心を動かす言葉」2019/1/16
ルカによる福音書5:1-11
私は以前、四国の香美教会の近くの海岸で投網を投げさせて貰ったことがあります。でも簡単ではありません。とても難しいのです。まず投網の網裾(あみすそ)に付けられたおもりを三等分して、その一つを肘に掛けます。そのあと残りのおもりの十㎝くらい上を右手と左手で持ちます。そうして身体を回して遠心力で網を遠くに投げます。うまく行くと投網は三メートルほどのきれいな円を描いて広がります。ふわっと均一に水面に落ちます。でもうまく行かないと一メートルくらいの円を作ったまま、ズボズボと投網は水面に沈んでいくのです。私は最後まで、うまく均一に広げることは出来ませんでした。
この投網ですが、さすがに有史以来からの伝統のある漁法ですから調べてみると奥が深いのです。漁師は使う投網をその時の狙う魚の種類、大きさ、魚のいる深さによって調整をします。つまり網裾(あみすそ)のおもりの量や重さを変えたり、網の目の大きさを変えたり、うちたけを変えるわけです。例えば網がどの位のスピードで沈んでいくか、早いほうが魚は捕まえやすいけど、あまりおもりを重くしてしまうと、今度は扱いにくくなるし、広がり方が悪くなります。網の中に入った魚は、網の裾の袋状になったところに絡まるか、網の目から外に出ようとして首が引っかかり、捕らえられます。ですから、この網の目の大きさは非常に重要です。網の目を細かくすると小さい魚まで捕れますが、大きな魚は底から逃げてしまいます。でも網を粗くすると今度は小さな魚が逃げてしまうのです。
どんな仕事にしてもそうですけど、「職人」という仕事は面白いのです。一つの事が解決すると二つの疑問が生まれ、この二つの疑問が解決すると四つの疑問が生まれるのです、が、その一つ一つを自分のアイデア、創意工夫で解決していく事ができるからです。今、使っている道具に一工夫加える、もう一度構造から見直してみる、一つ一つの作業をタダ漫然と行うのではなく、意味を確認しながら丁寧に組んでみる。先輩や同世代の同じ仕事をしている人から技術を盗んで、真似してみる。仕事をしている毎日が、次はこれを試してみよう、という繰り返しになるのです。なによりうまく行ったときの高揚感は特別ですし、その時に一緒に苦労している仲間がいるなら、その喜びは格別なのです。
なんでこんな事を話したのか、というと、先ほど読まれました御言葉に記されているシモンについて思い巡ら為です。このシモンが主イエスに声を掛けられた時、彼は漁師をしていました。当時の社会にあって職業は世襲ですから、シモンの父も漁師、その父も漁師をしていたのです。シモンは幼い頃から父の舟に乗り、漁を手伝い、技術と敬虔を継承した職人だったと考えられます。不安定な舟の上から現代の投網よりもっと重い投網を一気に湖面に投げ込む腕は太く、足腰もしっかりしていましたでしょう。一日中外で働いているのですから、肌は浅黒かったと想像できます。また現代と違って設備の安全性が貧弱な時代ですから、湖の上の仕事といっても毎日が命がけという側面があります。日々の緊張感からその表情も研ぎ澄まされていたことだと思います。また彼は自分の舟を持っていた、と聖書の記述から解ります。この舟について、私たちは小さな手こぎボートの様な印象を持ちますが、そうではありません。その頃に作られた舟がゲネサレト湖の湖底の泥の中から発掘されていまして、ゲネサレト湖近くの博物館に展示もされていますが、長さ八メートル、幅二メートル、その大きさは大人が十五人くらい乗れるほどの広さです。結構大きな舟です。シモンが主イエスを自分の舟に乗せたときも、その舟にはシモンの他に数人の漁師が乗っていました。シモンは舟を所有し、主イエスと同じかもう少し年齢が上、つまり三十代後半で、作業員も雇っていた、と考えられます。また当時、このゲネサレト湖の魚は塩付けにされて遠くローマまで運ばれていたという記録が残っています。つまりゲネサレト湖の漁師であるシモンは経済的にも豊かで、安定していたと考えられるわけです。シモンも漁師の親方として相応に豊かであったと考えられます。
さて、背景となる状況はこの位にして、このペトロと主イエスの最初の出会いの場面を共に読み進めて参りましょう。
主イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、多くの群衆が神の言葉を聴こうとして押し寄せて来ます。その数があまりに多かったので、少々辺りは混乱した様な状況になります。そこで主イエスは二艘の舟が岸にあり、漁師たちが網を洗っている姿に目を留められます。そこで主イエスはその舟の持ち主のシモンに声を掛けるのです。漁師が網を洗っていたということから、この時間が午前中である事が分かります。魚は日が出ている時間帯は湖底にいて、夜に湖面まで上がってくる習性があります。ですから漁師は夜中に舟を出して漁をします。そうして日が出る頃には陸に戻ってきて、網を洗います。網には藻や草が絡んだり破れたりするので、朝方の明るい時間に修理をするわけです。この時もシモンと彼の雇い人たちは使った網を洗っていました。そして大事な事ですが、シモンはこの時、主イエスの言葉を聴きたいと思っていた訳ではないのです。彼は一晩漁をしてなにも取れなかったと、気落ちしています。だから早く網をきれいにして、今晩の漁の準備をして家に帰って休みたいと、そんな心持ちなのです。彼は主イエスが近づいてきたこと、その周りに多くの人が集まってきた事に、あまり興味を向けていないのですでも、そのシモンに主イエスは声を掛けます。私を舟に乗せて少し沖にでてくれないか、私はそこから人々に話しかけたい。今のこの混乱した、興奮した状況では人々は私の言葉を落ち着いて聞く事ができないから。そう話すのです。
そこでシモンは主イエスを舟に乗せます。シモンが全くの好意で主イエスを乗せたのか、それとも漁の儲けが無かったので、主イエスを乗せて、あとで少々の代金をあとで貰おうと考えたのか、は解りません。でも、彼は主イエスを自分の舟に乗せたのです。そうして主イエスはこの舟の上に座り、そこから湖畔にいる群衆に話しかけます。神の国について福音について命について教えるのです。この時、シモンは如何していたのか、というとこの主イエスの言葉を最前列で聴いていた訳ですが、でもシモンはその言葉からは何の感銘も受けていないのです。どんな素晴らしい説教者の説教であっても、聖霊が聞き手の心を開かなければ、語られた御言葉はその心に留まりません。逆にどんなに敬虔の薄い説教者の稚拙な説教であっても、聖霊が聞き手の心を開くなら、語られた御言葉はその心に留まり、芽を結び、花を咲かせ、実を付けます。全ては神が与えられる時に依るのです、そしてシモンの時はこの時では無かったのです。
さて主イエスは集まって来た群衆にたいして話し終えます。そしてシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。主イエスは舟を借りた代金を魚で返そうとされた、という解釈もされますが。私は代金と言うより、主イエスはシモンに対する感謝を、彼の興味に合致する一番的確な仕方、シモンが最も求めているモノで、渡されようとした、のだと思えるのです。そして主イエスはシモンに網を下ろしなさい、と言われるのです。ではシモンはその主イエスの言葉を素直にうけとったのか、というとそうでは無いのです、逆です、シモンはこの時、主イエスをあざ笑うのです。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。
この「先生」(エピスタタ)という言葉は、軍隊の指揮官や司令官を意味する言葉です。つまり今、この舟に於いて、所有しているのはシモンなのです。舵を切っているのもシモン、部下に命令できるのもシモンです。つまりシモンは主イエスを「先生」と呼ぶことによって主イエスを馬鹿にしているのです。誰よりもこの湖に詳しく、職人気質のシモンにとってこの主イエスの言葉は滑稽な戯れ言でした。でもだから逆にシモンは湖に網を投げる気になったとも、考えられます。職人の仕事という命がけの真剣勝負ではなく、まったく素人の遊び、余興、だったから、「素人がなに、くだらないことを言っているんだ」という軽い気持ちでシモンは網を投げるのです。でも、どうなったのか、網にはおびただしい魚がかかるのです。網が破れそうなくらい、シモンは今まで、経験した事のない手応えを腕に感じるのです。そうしてシモンは主イエスの方を見てみると、主イエスは驚いてはいないのです。それが当然であるかの様に、ジタバタしているシモンの様子を優しく見守っているのです。シモンは岸にいる仲間に手を貸すように声を掛けて呼び寄せ、ようやく網を引き上げます。二艘の舟は魚で一杯になったと、聖書には書かれています。
そしてシモンは主イエスの前にひれ伏します。なぜか。シモンはそれまでまったく主イエスを侮(あなど)っていた事を恥じたのです。主イエスを侮っていただけではなく、神をも侮っていたと。今まで漁師として職人として生きて来て、まだ完成に至ってはいないけどでも、満足出来る技術や経験を手にしていた、自信も自負もあった、けれど、でもその全てが神の力の前には、塵芥に等しかったと気づかされたのです。シモンは完全に砕かれるのです。そのシモンに主イエスは話しかけます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」この時、シモンは網が破れそうなくらいにおびただしい魚のかかった網を引き上げているときの手応えと同じ手応えを主イエスの言葉の中に感じ取ったのだと思います。これからの自分の歩みは、手応えのない人生では無い、手応えのある人生を歩むのだと、この主イエスの言葉からシモンは受け取ったのです。神は、私たち一人ひとりに対して、その人に合わせた言葉や状況で、その人の魂に語りかけます。聖書の御言葉によって神に繋がる者もいれば、シモンの様に、腕に感じた手応えによって神に繋がる者もいます。讃美歌やオルガンの音色から神に繋がる者も、奉仕の活動を介して神に繋がる者もいます。有名な神学者の言葉で神に繋がる者もいれば、教会に始めてきた人の言葉に神の真理を見いだすこともあるのです。だから私たちは教会に於いて多彩な施策を行うのです。一様では無く多様であるべきなのです。
主イエスはシモンを御自分の弟子として招かれました。そうしてシモンは主イエスに従ったのです。シモンがなにも持っていない貧しい漁師だったから、すぐに主イエスにしたがったのではありません。そうではなく、シモンは漁師という仕事にプライドを持ち、家庭も、収入も全て十分に持っていて、でもそれ以上の手応えを主イエスの中に見いだしました。私たちも信仰を得るなら、そして主イエスに従って歩むならこの世にあって手応えのある日々を与えられます。シモンのように、時に失敗をして主イエスに叱られながらも従った様に、私たちも共に主イエスに従いましょう。
「告白できる幸い」2019/1/6
ルカによる福音書3:15-22
主の年2019年が始まりました。この新しい年の始まりに共に礼拝を献げる事ができますことを感謝いたします。
さて、私たちは新しい年を歩み始めました。それぞれが今年は何をしようかと思い描いたのではないでしょうか。何にしても何かを始めようとする事は気分の良いことです。でもこの様な時、私たちはスタートを切って走り出すことに注視しがちなのですが、その前に必要なことは入念な目標設定と下準備です。何事も思い立ってすぐに作業を始めても上手く行きません。料理を作るにしても、材料を揃えて道具を揃えて作業しやすいように台所をかたづけて、それから作業に入ります。もう少し丹念に言うなら、食べる時間、つまり配膳する時間から逆算して、材料を切ったり煮込んだり炒める時間を決めるのです。計画的で的確な下準備がなされてから準備が始められます。そうして目標設定です。最終的にどんな料理になるか、どんな味なら食べる人が喜ぶか。そのビジョンが設定されていなければ、作業は途中で迷子になるのです。
今朝、私たちに与えられました聖書の御言葉には、主イエスの伝道のスタートの場面が記されています。主イエスの伝道というと私たちは主イエスの公生涯と呼ばれる3年の活動に注視してしまうのです、が、この主イエスの伝道という事柄も入念な目標設定と下準備によって支えられています。その主イエスの伝道の下準備を担った代表的な人物が洗礼者ヨハネです。彼の働きを見るなら、そこに主イエスの伝道の基本的な枠組みを知ることが出来ます。このヨハネの母は、主イエスの母マリアの親戚にあたるエリザベトです。ヨハネは主イエスより少し早く生まれ、主イエスよりも早く預言者として活動しました。彼は祭司の家柄に生まれましたが祭司としての職には就かず、町ではなく荒野を住処として生活していました。人々は彼を預言者として崇(あが)め敬意を以てその言葉を受けとめていました。それは大衆だけではなく、祭司や学者たちも同様に彼を預言者として、その言葉を神から与った言葉として尊重して聴いていました。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言い放ったと聖書には書かれています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(マタイ3:7-9)。
彼らだけではなく、ナザレの領主ヘロデ・アグリッパ、彼はヘロデ大王の息子ですが王族や貴族たちも、この洗礼者ヨハネの言葉を尊重していたと聖書には書かれています。「なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」(マルコ福音書6:20)しかしヘロデ・アグリッパは後に洗礼者ヨハネの首を落とすことになります。ヨハネはヘロデがヘロデの兄の妻、ヘロデアを奪い取って自分の妻にした事を批判し、その事に憤慨したヘロデアの罠によって殺されるのです。
この洗礼者ヨハネの言葉を聖書のうちから読んで私たちが思う事は、その言葉の厳しさではないかと思います。彼が人々に伝えた事は一つです。これが下準備と目標設定の目標設定に当たる事項ですが、彼は人々に「これからメシアが来て、あなたたちを救うから、備えよ」と、それも片よりなく全ての人に伝えたのです。でもなぜこれだけ強い言葉での勧告を多くの人が受けとめたのか、というと、それは当時のユダヤ民族の於かれていた社会状況が不安定だったからです。当時、ユダヤはローマの属州として辛(かろ)うじて自治を認められている状況でした。しかし王家の祭司もその人選はローマに握られていて、ほぼ傀儡(かいらい)によって政治が為されていましたし、当時最強の軍事力を有したローマ軍もエルサレムやカイサリアに常駐していました。でもその様な状況をプライドが高いユダヤ人が認めるわけはないのです。彼らは自分たちこそ神に選ばれた民、アブラハムの子孫だと信じています。その結果、長い間、イスラエルの方々では大小の暴動が決起され続ける事になりました。
人々は、明日にはどちらに転ぶか分からない社会状況の中で聖書の言葉に立ち返るのです。つまりイスラエルがペリシテ人の侵略を受けた時にダビデが現れ勝利したように、この打開できない局面に於いても必ず救い主が現れて、自分たちは救われると、ローマの脅威は排除されると彼らは信じるのです。でも、なぜそうならないのか、それは自分たちの信心が足りないからだと、つまり自分たちの覚悟が足りないからだと彼らはユダヤの民は考えます。ですから彼らは洗礼者ヨハネの辛辣で激しい言葉に傾倒する(心酔する、夢中になる、のめり込む)のです。
少々話しが反れます。私たちも受け入れる事ができない状況に置かれる時には、やはり厳しい言葉を求めるようになります。なぜなら私たちは因果応報と言う価値観に囚われているからです。「お前が出来ていないのは、頑張ってないからだ」と言われると納得してしまうのです「もっと頑張ろう」となる。つまり頑張れば報われる、報われないのは頑張っていないから、と私たちは考える、のです。でもそれは過ちです。なぜならこの世界は因果応報によって定められてはいないからです。主イエスは、この世の苦難の理由を、そこに神の業が働くため、と話されました。私たちが受け入れられるか、ではなく、神がどうなさるのか、この世界の中心は私ではなく主なる神なのです。 「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」(ヨハネ福音書9:2)この世界は因果応報に支配されているのではなく、神が為さるように為るのです。でも、その神は愛なる方で、私たちは愛されています。ですから私たちは安心して神に委ねる事ができるのです。では努力は無意味かというとそうではありません。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ロマ書5:04)からです。苦しみも喜びも逃げずに自分の心で味わうこと、とすれば必ず希望が与えられるとパウロは話します。ちなみに「耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13)ともパウロは話します。話が逸れました。
さて、洗礼者ヨハネの下に行き悔い改め神に立ち返るなら、イスラエルは再興する。そうして彼らはこの洗礼者ヨハネこそ、聖書に書かれた預言者たちが話すメシアであると信じ、噂するようになるのです。しかし洗礼者ヨハネはその噂を否定します。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」(ルカ福音書3:16-17)当時、奴隷は家に帰ってきた主人の履物のひもを解き、その足を水で洗い、腰に巻いた布で拭いていました。つまり、洗礼者ヨハネは、これから来られるメシアを前にして私はその方の奴隷にも等しいとヨハネは話すのです。そしてこれから来るメシアの前に私たちは皆、聖霊と火で浄められると話します。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(ルカ福音書3:16-17)
農夫は麦を収穫した後に脱穀場に持っていき唐棹で叩いて実と籾殻に分け、麦は蔵に収められます。そのあと脱穀場の床にこぼれている麦と籾殻の混ざったモノを箕に集め息を吹きかけ軽い籾殻を飛ばして麦をより分けるのです。あなたたちはこの様にしてより分けられる。軽い、つまり信仰という土台の上に立っていないモノは焼き捨てられるとヨハネは話すのです。
では神はヨハネの話すように人を選り分け、自分に従わない者を火で焼き滅ぼされる方なのでしょうか。そうではありません。確かに神は私たちを火で焼かれる方です。でもそれは私たちの内に内在する「罪」を、消えない火で焼かれるという事なのです。洗礼者ヨハネの指し示したメシアである主イエスは、人の魂にベッタリとこびり付いているグリースのような罪をウエスで拭き取ってきれいにするのではなく(その程度では拭いきれないので)一度、火で焼き払って、その後で新しく再生されるのです。そこには痛みが伴います。でも主イエスはその痛みを私たちだけに負わせるのではなく、自らが犠牲として十字架に架かり、痛みを負い完全に死に、三日目に復活するという仕方でそれを為されたのです。
「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」これが洗礼者ヨハネの提示した最終的な目標設定の言葉です。そして主イエスはこの言葉によって整えられた道の上からスタートし、公生涯を走りきるのです。この後に、主イエスが洗礼を受けられた場面が描かれています。主イエスはこの時までは普通の人の様に生活し、普通の人と同じように働いていました。先ほど読まれました御言葉の中では主イエスは多くの民衆と共に洗礼を受け、共に祈られる姿が描かれています「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」(ルカ福音書3:21)でも次の瞬間から主イエスは普通の人々とは別の道を歩き始められます「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(ルカ福音書3:22)それまでは主イエスは何をしていたのか、というと、聖書には直接には書かれていません。でも記された主イエスの言葉やその他の人の言葉から推測されることは、ナザレの地で父親であるヨセフの仕事を継いで大工、と言っても今で言うところの家具職人に近い仕事をしていたということです。そしてもう一つ注意するべきは、主イエスの公生涯の期間は三〇歳頃からの三年間だということです。
三〇歳というと現代においては若者の様に捉えられますが当時の平均寿命は二五歳程度ですから三〇歳というと現在の尺度では六〇歳くらいの感覚になります。その位の年齢で主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け伝道を始めたということです。この事から分かるように洗礼はゴールではなくスタートです。私たちは完成されたから洗礼を受けられたわけではありません。これから歩み出すために、新しい命に続く道を歩み出す為に、そのスタートラインが洗礼なのです。そうして私たちも洗礼者ヨハネを始め信仰の先達たちが敷いてくれた正しい道の上を正しい方向に走る事ができます。その歩みは無駄な、徒労に終わる歩みではありません。確実な手応えのある歩みです。そして私たちは成熟へと向かうのです。
礼拝説教原稿
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