礼拝説教原稿

2018年12月

「この世に隔てはない」2018/12/30

マタイによる福音書2:1-12

今朝私たちは2018年の最後の礼拝を共に守っています。まず今年一年、この礼拝堂で共に礼拝を献げる事ができたことを、神に感謝したいと思います。

さて一年の終わりと新しい年の始まりにあたって私たちが思うことは、やはりこれから始まる日々の生活が平安(穏やか)である事、だと思います。私たちは変化を嫌います。できるならば、今日と同じような明日が訪れることを望みますし、それが良い変化であっても、それでも変わらない事の方に心が引かれるのです。なぜなら変化はそれなりに心を使うからです。ずっと長く使っていた歯ブラシがいい加減広がってきて、新しいものに買い換えると一週間くらいは違和感を感じ続けるものです。せっかく新しい良い歯ブラシを使い始めたのに、です。まして生活習慣が変わるとか、新しい仕事に就くとか、引っ越すとか、それらの変化は前進であり希望と期待を含む良いことだけれども、その反面私たちは相応に心身にストレスを貯め込むのです。だから多少不都合が多くとも、理にかなっていなくても、正義が貫かれなくても、私たちは、そのままを好むのです。

今日、私たちに与えられました御言葉に記されているヘロデ王、彼は歴史書にはヘロデ大王と記録されている人物です。このヘロデ王は東方から来た占星術の学者の言葉によって大きな変化を予見され脅える事になります。何故ならこの占星術の学者たちがヘロデに、この国に新しい王が生まれた、と伝えたからです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ福音書2:2)。新しい王が産まれる。しかもその方は聖書に約束されたメシアでありユダヤを救う方だとヘロデは聞くのです。では、彼はその知らせを聞いて喜んだのか、というと、そうではないのです、彼は怖れるのです。なぜか、それは新しいメシアによって自分の座っている王位を奪われると考えたからです。

歴史書に記録されている人間の歴史は、ほぼ権力闘争の歴史です。新しい王が立つと古い王は殺されその家族も一人残らず根絶やしにされます。一人でも生き残りを残すなら、新しい王の力に陰りが見えたときに、新しい王の対抗勢力の者たちが、その生き残りを担ぎ上げて政変を起こす危険性があるからです。

それだけではなくヘロデには、もう少し深刻な事情があります。彼はユダヤの王でありながら純粋なユダヤ人ではなくエドム人の家系であり、ローマ帝国とローマ軍の後押しによってユダヤの王となった人物です。ですから少しでも彼が弱み見せるなら、すぐに最高法院の議員たちつまり生粋のユダヤ人貴族たち、エルサレム神殿に仕える祭司たち、さらには律法学者たちも叛旗を翻す危険性が常にありました。彼がかなり強硬な専制政治を行っていた記録が残されていますし、敵対者を多く処刑した事も知られていますが、そうならざるを得なかったのだと推察できるのです。

さて、ではこのヘロデの王宮にやって来た占星術の学者に目を移します。彼らは誰かという事について聖書はあまり記していません。でも後にこの三人の占星術師にまつわる多くの伝説が生み出されました。そもそも、3人という人数も聖書には記されていません。彼らが持ってきた三つの宝物が黄金、乳香、没薬だったことから三人と考えられ、それぞれに、メルキオール、バルタザール、カスパールという名前が付けられ、それぞれのキャラクターも定められたのです。

一人目のメルキオールは最長老で黄金を捧げたと言われます。この黄金とは王権の象徴です。産まれたばかりの主イエスが後に、この世の王となることを暗示していると解釈されます。二人目のバルタザールは乳香を捧げます。この乳香とは祈りの時に焚く樹液を固めたものです。つまり神性の象徴で祭司、もしくは礼拝の象徴です。主イエスは祭司の仕事、つまりこの世に生きる人と神とを和解させた、その事の暗示だと解釈されます。三人目のカスパールは没薬を捧げます。この没薬には殺菌作用があり鎮静剤、鎮痛剤に使われていたことから、医者や癒やしの象徴となります。これも主イエスが多くの治癒を行なう事を暗示していると言うことになります。この没薬ですが死体に塗る為に使われることから、主イエスの十字架の痛みと死も暗示しているとも言われるのです。

でも、そもそも、この東から来た占星術師とは誰なのか、ということです。この東方とはイスラエルの東、ユダヤ人から見るならアッシリアでありバビロニアと言うことになります。バビロニアはユダヤ人にとっては異邦人の地であると同時に、当時の世界に於ける先進国というイメージです。この「占星術の学者」という言葉ですが、原文ではマゴスma¿goßとなっています。このマゴスは英語のマジックの語源です。マジックというと、タネのある手品を意味する言葉の様に感じますが、当時にあってそれは科学にとほぼ同等に捉えられていた事柄でした。彼らは占いをする為に星の動きを調べ、暦を調べる事から幾何学に精通し、また錬金術というか化学や物理学も高度に習得していた事が知られています。

彼らは星を見て占いをします、すると、ユダヤの地に新しい王が産まれた、占われるのです。そこで彼らは早速、旅支度をしてエルサレムに向かうのです。

さてエルサレムに着いて彼らは何処にむかったのか、というと、当然、ユダヤの王の共に向かうのです。新しい王であるならヘロデの子どもだろうと、王宮に幼子がいるだろうと考えたからです。しかし王宮には幼子はいないのです。

占星術の学者たちはヘロデに訪ねます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」この言葉を聞いてヘロデは内心不安を抱くのですが、でも冷静に対処します。ヘロデは彼らを歓迎して王宮で休んでいくように促し、部屋にとどめます(要するに軟禁するのです)。そして一人で祭司たちや律法学者たちの下に行き彼らに問いただします。何処でメシアは産まれるのか、聖書の何処に預言されているのか、それを知るためには聖書の知識をもっている彼らの力が必要だったのです。でもヘロデは彼らに、占星術師のこと、メシアが産まれたことは隠して彼らに聞きます。なぜなら祭司や律法学者たちは表面的にはヘロデに従っていますが、心の底ではヘロデに対して敵対心を持っていたからです。もしメシアが産まれたのだとするなら、祭司や律法学者たちはその事を隠すだろうと、そうして産まれたメシアを担ぎ上げて自分に叛旗を翻すだろうと、ヘロデには分かっていました。メシアの事が彼らに、そしてユダヤの民にも知られてしまわないように、密かに見つけ出し、密かに殺してしまう、それもまだ赤子のうちに。このヘロデ大王は一代でエルサレム神殿を改築し、幾つもの町を整え、建築物を建て、経済的にも政治的にも、そして軍備、貿易に於いても衰退していたイスラエルを立て直した手腕のある人物です。有能で賢く能力があり、そして狡猾な人物なのです。

祭司や律法学者たちは、ヘロデの問いかけに素直に答えます。彼らは預言者ミカの言葉を引いてきて答えるのです。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」(マタイ福音書2:6)そこでヘロデは占星術の学者たちの部屋に戻り、彼らに星の現れた時期を聞き、その場所はベツレヘムだと伝えます。そして彼らに「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(マタイ福音書2:8)と話すのです。

さて、ここからがようやく幸いなクリスマスの物語になります。占星術の学者たちはエルサレムを出てベツレヘムに向かいます。彼らは星に導かれて進み、ついに星は幼子のいる場所の上で止まるのです。彼らは喜びに溢れついに幼子にまみえます。彼らは持ってきた宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げるのです。でもその後、彼らは天使からのお告げを受けます。「ヘロデのところへ帰るな」と命じられるのです。そこで彼らは来た道と別の道を通って自分たちの国に帰っていきます。

この東方の占星術師が産まれたばかりの主イエスを拝んだ、礼拝したという事には幾つかの意味があります。一つは先ほど話した様に、ユダヤから見るなら彼らは学識があり技術も文化も進んでいる先進国というイメージだということです。つまり主イエスの誕生という出来事は神話や魔術、もしくは宗教的な理解だけに認められる事柄ではなく、科学的、論理的な理解に依っても認められる出来事だったということです。もう一つ彼らはユダヤ人からするなら神の救いの外に置かれている異邦人です。その異邦人に神がメシアの誕生を明らかにしたと言うことは、神がユダヤ人だけではなく世界の全ての人を御自分の救いに入れられる事を、ここで明らかにした、ということです。

メシアがこの世に産まれたということ、救われると言うことについて、私たちはその救い手に入れたいと望んでいるとき、救いは手放しで喜ばしい事だと考えているのです。でも本当に救いに入れられるとするなら、その時も私たちは手放しで喜ぶことができるのでしょうか。ヘロデを見ていると、その難しさを再確認させられます。私たちが本当に救われるということは、それまで自分を支配していたこの世の価値観が瓦解し、新しい価値観、神の支配下に入ると言うことです。それは喜ばしい事ではありますが、しかしその変化は一度自分が死んで生き返る程の変化です。洗礼者ヨハネが信者をヨルダン川の水に静めて立ち上がらせたのは、この変化つまり死と再生を覚えさせるためですし、主イエスが十字架に架かって死に復活されたことも同様です。パウロはロマ書でこの事を「どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」(ロマ6:2)と話します。それは大きな痛みです。それ位なら、多少間違っていても、不正を犯していても、汚れにまみれていても、そのままで良いのではないか。多少散らかっていても居心地が良い自分の部屋の方が良いのではないか、とそう考える事もできます。

でも神は私たちを招いています。神の救いに入るなら私たちは罪の束縛から解放され自由になります。自分の心に様々な装飾品を付けなくても自分を保てる様になる。さらには人からの評価、社会の評価からも解かれます。真理は私たちを本当の自由に招き入れるのです。その主に身を委ねることが出来る様、来年も共に歩みましょう。

「神はあなたと共にいる」2018/12/23

ルカによる福音書1:26-38

クリスマスおめでとうございます。今朝、私たちは共に主イエスの誕生を祝う礼拝を捧げています。神はこの世に救い主として御自分の御子である主イエスを送られました。この主イエスの存在を通して私たちは神から「神は私たちを愛されている」というメッセージを受け取りました。しかもその愛は不完全で中途半端な愛ではありません。神は、私たちが救われる為であるなら自分の命を代償として投げ出しても構わないと、神はそれほどの愛を私たちに注がれています。私たちはその愛のあり方を主イエスの十字架の出来事から知る事ができました。神はこの世の罪を拭う為に自ら犠牲となられました。でもその救いは、大雑把に「私たち」という括(くく)りに向けられた救いではありません。神は一纏(まと)めに「私たち」を救われたのではないのです。そうではなく神は「私」「あなた」「一人ひとり」を救われました。神は個人としての「一人ひとり」に目を留められるのです。その事を私たちは今朝、私たちが与えられました御言葉から聞くことが許されています。ルカ福音書一章二六節以下には、一般に受胎告知と呼ばれる物語が記されています。

主イエスの母となるマリアはナザレに住む、まだ年若い女性でした。幼い頃から定められていたヨハネという許婚はいましたが、まだ結婚はしていませんでした。子どもを授かる年齢には至ってなかったからです。そしてこのマリアが住むナザレは豊かな町ではなく貧しい町だったと考えられます。人口400人ほどの小さな町、周囲一帯には湿地が広がり耕作地も狭く主要な産業もない、時々マラリアが蔓延するような土地だったからです。イスラエルの人々は、このナザレについて、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」こと話していた、と聖書には書かれています。エルサレムから見て、サマリアの向こう、どの国の王も欲しがらない土地、それが当時のナザレという町です。そのナザレの村の女性としてマリヤは生まれました。そもそもマリアという名前は聖書の中にも沢山でてきますが、女の子だったらみんなマリア、という様な名前です。つまりマリアは特別な女性という事ではなく、何人もの兄弟姉妹の中の一人で村の沢山の子ども一人、だれも目に留めないような少女だったという事です。そもそも聖書はマリアの事をまず「ダビデ家のヨセフという人の許婚であるおとめ」と表現します。マリアの存在はヨセフに追従するものとして扱われているのです。マリアは当時の少女の一般的な生活様式と違わない日常を過ごしていたと考えられます。朝起きて、朝ご飯の支度を手伝って、水を汲みに行って、弟や妹の面倒をみて、夕方にはまたお母さんの手伝いをして、片付けをして、一日が終わる。そんな日常の中に置かれていた、だれも特に目を留めず注目もされず、手にはなにも持っていない、数にも数えられない大勢の中の一人、それがマリアです。

でも、そのマリアのもとに天使が現れます。まったく前触れもなく、突然天使が現れて、マリアに話します。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この天使の呼びかけから、私たちは大切な事を聞くことができます。それはマリアがなにか条件に叶ったから天使に声を掛けられたのではない、という事です。例えばマリアがなにか特別な、例えば身分が高かったとか恵まれていたとか、利発だったとか、活動的だったとか、その様な優位な条件によって、天使がマリアに声を掛けた訳ではないのです。もうひとつ、マリアが純真で信仰に厚く、天使の呼びかけに正しく答えたから祝福を受けたわけではありません。マリアが天使の声に反応する前に天使が「おめでとう恵まれた方」と先にマリアを祝福しているのです。三点目、マリアはこの天使の言葉にとまどった、と聖書に書かれています。「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(ルカ福音書1:29)マリアは何か深刻は悩みを負っていて神に救いを願っているとか、夢を追っているとか、そんな事は一切ないのです。彼女は当たり前の日常を当たり前に素直に生きている、それだけです。神がわざわざ自分の様な何もない者、力も知恵もなにも持っていない女性の前に現れる理由は何か、マリアは途惑うしかなかったのです。すると天使が話します。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ福音書1:30)ここで天使はマリアに自分がここに来た理由を説明します。「あなたは男の子を産み、その子は王になる」と、伝えるのです。この言葉を聞いてマリアはさらに途惑います。幾つもの「有り得ない」という言葉がマリアの頭の中に浮かんだのだと思います。マリアは即座に天使に「私はまだ結婚していません」と答えます。それに、そもそも身分の低い、この世界にあってそこら辺の石ころにも等しい自分が、誰にも目を留められない様な自分が一つの国の王を産むなんて事は「有り得ない」事です、と答えるのです。しかし、さらに天使は話します。あなたが産むその子はこの地上の王よりも、もっと気高い方だと「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」

この「神にできない事はなに一つない。」という言葉を聞いて、それまでマリアの頭の中に満ちていた「有り得ない」という言葉が、一瞬にして掻き消されたのだと思います。自分には想像できないし、考えも至らないし、どんな手段で、何が為されるのか、まったく分からないけど「神さまに出来ない事はなにもない」のだと。神さまであるならそれが為されるのだと。マリアの胸のそこにこの言葉は、スッと落ちるのです。そこでマリアは神に告白します。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ福音書1:38)マリアは天使の祝福の言葉を受け入れるのです。この「はしため」という言葉、この言葉は召使いとか奴隷という意味の言葉です。マリアは今までこの世の奴隷だったのです。様々な習慣、しきたり、慣例、でも最も強くマリアを縛っていたのは、マリア自身の心の中にあった「有り得ない」という言葉だったのです。しかしマリアはこの世に仕える者である事を捨てて神に仕える者になってから、この言葉はマリアの頭の中から消えたのです。

では、マリアはこの後に幸いな人生を歩んだのか、というと、この世の尺度や価値観で計るなら、とても、そうとは思えません。逆にここからのマリアの人生は苦難に満ちた歩みになります。この後マリアはヨセフと結婚する前に子どもを宿したとして、親族だけではなく町中の人々から非難されます。当時の律法に照らすならそれは石打の刑の処され命を絶たれる定めでした。それだけではなく許婚のヨセフからも疑いを掛けられます。しかしヨセフは天使の言葉を受け、マリアを妻として迎えます。でもここで一安心という事はありません。身重のマリアはヨセフと共に人口調査の為にベツレヘムに向かう事になります。そうしてマリアは知る者の誰も居ないベツレヘムで主イエスを産むのです。まだ続きます。主イエスを産んだマリアとヨセフはヘロデ大王の迫害を避けエジプトに逃れます。その後ヘロデ大王の死後、二人はナザレに戻るのですが、たぶんヨセフは早くに召されるのです。そうして跡取りである主イエスもマリアの目の前で、罪人として十字架に掛けられて処刑されるのです。

マリアの人生には苦難しかない様にも思えるのです。でもやはりそれでもマリアの心はいつも幸いだったのだと思います。なぜならマリアは神が確かにおられると確信しているからです。神はマリアに「私があなたと共にいる」と言って下さいました。神がすぐ近くにいて下さるなら、どんな苦難に襲われても恐れることは無い。神にできない事は何一つない、その神が自分を愛してくれているのです。自分には思いもつかない仕方で神は、必ず良くして下さる、そう信じることができる。それがマリアにとっての本当の救いだったのです。神はマリアという一人の女性に語りかけました。神は「私たち」の神ではなく「私」の神なのです。旧約聖書の出エジプト記でモーセに現れた神は「私はイスラエルの神である」とは言わず「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と自分を言い表しました。この言葉には先があります。神はモーセに十戒の石版を授けます。その一番最初の言葉にはこう書かれています。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」出エジプト20:02)主はモーセに、そして私たちに「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、(そして私はあなたの神である)」と言ってくれているのです。つまりマリアだけではなく、私たち一人ひとりにも神は関わられます。私たちが不信仰でも能力がない権力を持たない、逆に何の力がなくても、どんなに狡く、愚かであっても、人を受け入れる事ができなくても、それでも神は「あなた」を自分の子として下さいます。愛して下さるのです。私たちはただ、この神の言葉を受け入れれば良いのです。「私は主のはしためです。お言葉どうり、この身になりますように」と受け入れるなら、私たちの魂はこの世の様々な罪の束縛から解放され自由にされます。このクリスマスの日に神は私たちに大切な独り子をくださいました。神は私たちに、「私はいつもあなたと共にいる」と、主イエスの誕生を通して証して下さいました。神が先に私たち一人ひとりの魂に語りかけられました。共に平安の内に歩みましょう。

「救いを告げる者」2018/12/16

ルカによる福音書1:5-25

山道を歩きますと、必ず定期的に、行き先を示した標識が備えられています。「山頂まであと3㎞」とか「滝まで2㎞とか」その様に書かれた標識です。そのような標識を見ますと、私たちは安心するのです。自分の進んでいる道が間違っていないこと、そして行く先に、確かに目的地があると確認できるからです。そして今朝私たちに与えられました御言葉に記されている方、洗礼者ヨハネもこの標識としての役割を担った人物です。彼は来たるべき救い主である主イエスを指し示す役割を神から託され、主イエスのこの世での働きの土台を踏み固める働きをしました。その様に聞くと、洗礼者ヨハネの働きは目立たない下働きの様ですが、そうではありません。彼は当時のユダヤでは知らぬ者がいないほど有名な預言者でした。イスラエル中の人が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるために集まって来たと聖書には書かれています。また地中海沿岸に住む異邦人にもその名は知られていたと言われています。ルカによる福音書の最初には、この洗礼者ヨハネの生まれた次第が描かれています。

さて洗礼者ヨハネの父の名はザカリア(神は力)と言います。アビヤ組の祭司で妻の名はエリザベト(神は誓い)です。このアビヤ組は24組に分かれていた祭司の組の一つで、第8組にあたります。個々の組はエルサレム神殿で、大きな祭りの時以外の週に代わる代わる一週間交替のつとめをしていました。ですから一つの組みに一年二回のお役が回ってくる、という事になります。ザカリアの妻のエリザベトですが、このエリザベトという名前は最初の祭司であるモーセの兄弟アロンの妻と同じ名前であり、彼女も祭司の家系の者であることが分かります。そして聖書はこの二人のことを「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」(ルカ福音書1:6)と書きます。彼らは祭司の家柄に生まれ子供の頃か十分に教育を受け、経済的にも恵まれ、言葉も振る舞いも何一つ落ち度がなかった。その様な夫婦なのです。しかしこの二人には一つの苦しみが与えられていました。それは子どもが与えられなかった、ということです。「しかし、エリサベトは不妊の女だったので」(ルカ福音書1:7)と聖書には書かれています。この「しかし」という言葉に重い意味があります。当時のユダヤ社会にあって子どもを与えられないという事は、神の祝福から外された者たちである、と考えられていました。詩編にはこの様に書かれています。「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。」(詩編128:3)人々はザカリアとエリザベトの夫婦を見て疑問に思うのです。「なぜ神の前に敬虔で正しいこの夫婦に子どもが与えられないのか」でも、世間の言葉よりも、やはり本人たちが最も心を痛めていたのでしょう。「自分たちの何処が悪いのか、神に疎まれるような事を何かしたのだろうか。」しかし彼らは、その原因を見いだす事は出来ないです。

そうして月日は流れます。ザカリアとエリザベトは老人になります。そんなある日、ザカリアの組の当番の時に、彼にくじが当たります。モーセの律法では神殿の至聖所の手前にある香壇で、朝夕に香を焚くと定められています。その週の担当の組の祭司がくじを引き、勤めにあたる事になっていました。「アロンはその祭壇で香草の香をたく。すなわち、毎朝ともし火を整えるとき、また夕暮れに、ともし火をともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香りの献げ物を絶やさぬようにする。(出エジプト30:7-8)クジに当たったザカリアは一人で神殿の聖所に入り、香を焚く事になります。当時、ユダヤには二万人の祭司がいたと言われていますので、この勤めは生涯で一度巡ってくるか来ないかの栄誉なことです。ザカリアはエリサベトと共に喜び、準備をし、この勤めにあたったのだと思います。さてその日が来ます。ザカリアは焚くための香を持ち、仲間の祭司たちは神殿の巨大な扉を開けます。その隙間からザカリアは一人でエルサレム神殿の聖所に入っていきます。中に入ると広い空間が広がっています。部屋の右側には、主の臨在を表すパンの乗った金色の机、左側には七つの枝のある燭台、そして正面には至聖所と聖所を隔てる垂れ幕があり、その前に香壇が置かれています。この垂れ幕の向こうにはケルビムの像と十戒の刻まれた石版を納めた契約の箱が置かれています。そこは年に一度大祭司だけが入る事を許されている特別な場所、ゼカリアにとっては神に最も近い場所です。

ザカリアはその時、何を思ったのでしょうか。もう老齢となった自分にとって、たぶんこの勤めは最後の勤めになるのです。今までの人生の歩みを通して神を崇めてきたこと、敬愛してきた事、それが祭司として生まれた自分に与えられた使命である事は分かっています。でも神は自分の人生を祝福してはくれなかった。神はザカリアに対して沈黙されたままだったのです。この厚い垂れ幕の向こう、至聖所におられる神はなぜ自分になにも答えてくれないのか、そうザカリアは考えたのではないか、と思います。

しかしその時、ザカリアの目の前、香壇の右側に天使が現れ立ちます。その姿を見たザカリアは息も出来ないくらいに恐れたと聖書には書かれています。天使はザカリアに話しかけます。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」(ルカ福音書1:13)ザカリアに神からの言葉を与えられます。神は沈黙を解かれたのです。でもしかし、その言葉にザカリアは素直に喜べないのです。逆にザカリアにとってこの天使の言葉はザカリアにとって惨(むご)い言葉に聞こえたのだと思います。なぜ今頃になって神は私にそんなことを話すのか。もう自分は老齢になっている、エリザベトも老齢でもう子どもが与えられる訳がない。ザカリアは答えます「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使はザカリアの心を見抜かれます。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(ルカ福音書1:19-20)

この時からザカリアは話す事が出来なくなります。神がなぜ祈り求める私の言葉に沈黙されるのか、と納得できなかったザカリアは、今度は神に依って沈黙させられることになるのです。

そのあとザカリアは神殿の聖所で懸命に香に火を付け、焚き、そうして神殿の外に出ます。そこには多くの人々が祈りを捧げながら、ザカリアが出てくるのを待っていました。でも人々は神殿の中でザカリアに何かがあったと感じ取っています。それはザカリアが香を焚くという簡単な作業に手間取り、なかなか出て来なかったからです。「そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。」(ルカ福音書1:22)ザカリアはエリザベトのいる家に帰ります。しかしザカリアはもう話す事が出来ません。つまり、もう会堂で毎日五回ある祈りの時に、集まった人々の前で、会堂の朗読壇に立ち、トーラーの文字をヤドという指示棒で指しながら、節を付けて読み上げることが出来なくなったということです。ザカリアは職を失い、ただ家に居てジッとしているしかないのです。そのまま時は過ぎ、彼は沈黙したままエリザベトのお腹が徐々に大きくなっていく様子を見続けます。エリザベトはもちろん子どもが与えられた事を喜びます。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」(ルカ福音書1:25)新しい希望を与えられるのです。

なぜ神はザカリアの口を利けなくしたのでしょうか。それはザカリアは自らが沈黙させられることによって、今まで沈黙していた神の思いを知る事となるのです。ザカリアが、これから生まれてくる息子を喜びつつ待ち続けているように、神もただ沈黙していた訳ではなく、ザカリアを心に留めて、時が来るまで喜びつつ待っていたのです。天使はザカリアに、こう話します。「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」

生まれてくる子どもは、ザカリアにとっての喜びだけではなく、イスラエルの多くの民を神の下に立ち返らせ、預言者エリヤと同じ霊と力を以て、先駆者としての役割を果たし、父と子、つまり神とイスラエルを和解させる。彼は、神から与えられるメシアに先立つものとして、その道を整え準備をする、と話すのです。先駆者として、つまり先駆ける者として洗礼者ヨハネはこの世に命を受けます。その最初から彼の命は、その後に来る主イエスを指し示す為にありました。彼は人々の前に立ち、主イエスを指さしたのです。そこで人々は主イエスを見ることができる様になったのです。

神は沈黙されていると、私たちも思うことがあります。なぜ苦しみの最中に、神は黙されているのか、なにも答えてくれないのかと、そう思うのです。でも、そうではありません。神はキリストとしてこの世に来られました。本来、神はこの世に触れることは出来ないのです。神と私たちの間には深い溝があり、神も私たちもその溝を越えることはできません。それがこの世界の理(ことわり)なのです。しかし、神は敢えてその理(ことわり)を破ってこの世に来られました。神はこの世の人たちと人格的に目と目を合わせて話し関わる事ができる肉体を持ち、私たちの間に来られたのです。それがこのクリスマスの出来事です。私たちが自分の理解力や知性で神のこの業を理解しようとしても、それは不可能です。なぜなら神はこの世にあって有り得ない事をなさったからです。しかし私たちが神の超越を認め「神に出来ないことはない」という言葉を旨に納めたとき、私たちは主イエスが神ご自身である事が腑に落ち、主イエスを自らの救い主であると知るのです。その時、神は沈黙されてはいないと知る事が出来るのです。

「約束は守られた」2018/12/9

ルカによる福音書4:14-21

この桑名の町では夕方の五時になりますと、時報チャイムが鳴ります。最近では各地域によって、様々に趣向を凝らしたメロディが使われることが多いのですが、桑名の市街地では、学校のチャイム(キンコンカンコン)と同じメロディが使われています。私は学生時代あまり真面目な方ではなかったので、このチャイムの音は福音を告げるメロディでした。もう静かにジッと机に座っていなくて良かったからです。
この「福音」という言葉、世間一般でも使われていますが、知っての通り元々は教会用語です。でもこの「福音」という言葉について私たちは、あまりハッキリとした理解をしていないのではないか、と思います。この言葉は新約聖書の中で七十六回使われています。ギリシャ語の「ユーアンゲリオン」の訳語です。元々の意味は「良い音信をもたらした者への報酬」です。そこから「良い知らせ」を意味する言葉になりました。ですから英語だとgospel(good spell)とかgood newsと訳される事になります。もう少しこの言葉を掘り下げてみますと、この「福音」という言葉の意味が旧約聖書で使われる場合、そのニュアンスは「解放の知らせ」となります。例えば敵の支配下に置かれ、奴隷として働かされていた者の所に味方の軍勢が詰めかけ、敵が打ち倒され勝利し自由にされる。その勝利の鬨(とき)の声、勝利の宣言・布告が「福音」なのです。
なぜ、この様な事を話したのかというと、それは先ほど読まれました御言葉にある、主イエスの聖書に記された最初の説教の言葉が、この福音を告げる言葉だったからです。それは預言者イザヤが神から託された約束の言葉、世の人々の解放を告げる宣言であり、主イエスはその福音が「今、成就した」と話されたのです。
主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、すぐに四十日間にわたって荒野で断食をし、その後にガリラヤで伝道を始められました。人々を教え導き癒やされましたのです。そして主イエスは生まれ故郷であるナザレの町に入られます。
さて、ナザレの町は主イエスが生まれ育った町です。ガリラヤの町々で主イエスが行われた様々な業を噂で聞いていたナザレの人たちは、主イエスに対して探るような目を向けていたのだと思います。なぜならこの町の人々は主イエスの事を、子供の頃から知っていたからです。主イエスの親戚もこの町に多く住んでいます。幼い主イエスが町中を駆けずり回っていた時の事を、誰もが見ています。ですから彼らは主イエスを、あの大工の息子、マリヤの子、としか見る事が出来なかったのだと思います。ガリラヤの方々の町や村で人々に聖書を解き明かし教え、預言者だと言われ、メシアの再臨、新しい王ともて囃されていても、彼らはその通りに主イエスを受け入れる事が出来ないのです。でもそれは当然のことでしょう。
そして安息日が来て主イエスはナザレの町の会堂に入ります。この当時のユダヤの町々にあって、エルサレム神殿で礼拝を献げる事ができない人たち(エルサレムの周辺の地区に住む者たち)は安息日にそれぞれの町の会堂に入り礼拝を捧げていました。この会堂(シナゴーグ)はユダヤの各地にあり、会堂長と呼ばれる人が礼拝の準備をします。書庫に備えられた聖書の御言葉が読まれ、その説き証しを聞き、詩編の歌を歌い、祈りを捧げる。今私たちが守っているこの礼拝の源が此処にあります。主イエスも幼い頃から、この会堂で礼拝を守ってきました。男子は十三歳になるとバル・ミツバと呼ばれる成人式を受け、この礼拝を守る一員として数えられる事となるからです。
さて主イエスは会堂に入り、人々の前で講壇に上がり、会堂長から手渡された聖書を講壇の上に広げます。
少々、この場面について言葉を加えます。主イエスにイザヤの巻物が渡されたと聖書には書かれています。でもスッと渡された訳ではありません。当時は現代の様な印刷技術がまだありませんので、御言葉は羊皮紙と呼ばれる羊の皮を鞣(なめ)した布に刻まれていました。その聖書に記された言葉は写本家が一字一句正確に書き写したモノです。そして何本かの巻物に分けられて保管されていました。この重量が一巻き二十㎏ほどあったと言われていますから、会堂長は巻物を抱きかかえるように持ち、主イエスに渡し、主イエスもその巻物を抱きかかえるように講壇の上に置いて広げた、という事になります。そして主イエスは開いた所に書かれていたイザヤ書の一節に目を留め、その箇所、イザヤ書六十一章一節から二節を読まれるのです。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18)
そして読み終えた後に、主イエスは会衆の座る席へと戻ります。でもしかし、会堂にいる者たちの視線は主イエスに向けられたままなのです。すべての者たちが固唾を吞んで主イエスが口を開くのを待っています。他の町々で聖書の解き明かしをした様に、このナザレでも同じように聖書の解き明かしをするのだろうか。この、大工ヨセフの息子はガリラヤの方々の町で何を話してきたのか、どんな事を話して、多くの人々の賞賛を得てきたのか。会堂に集まっている町のすべての者たちが、主イエスの言葉を待つのです。そして少々の沈黙の後に、主イエスは口を開きます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。
預言者イザヤは遡ること紀元前八世紀の人物です。つまり主イエスの読んだこの御言葉は七百年以上前に神から預言者イザヤに託された言葉という事になります。此処に書かれている油を注がれた者とは王の事です。(ダビデ王もサウル王もサムエルに油を注がれて王になりました)でも此処では特定の国の王ではなくこの世を全て支配する王、メシアを指し示しています。このメシアが貧しい人、打ち砕かれた人、囚われた人を自由にする、解放する。また「この恵みの年」とはヨベルの年のことです。律法にはヨベルの年が五十年毎に定められています。この年に全てのユダヤ人は全ての借金を帳消しにすると定められています。七の七倍で四十九の完全数の年、その次の年がヨベルの時、つまり神が完全にこの世を赦すとイザヤは話します。つまりイザヤは、神がいつかこの地上に救い主を使わしれ、赦しの時、救いの時が与えられると約束された、と此処で宣言しているのです。
このイザヤの言葉を受けて、主イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話されます。今、あなた方がこの言葉を聞いた時に、この約束は成就したと話したのです。
つまり主イエスは此処で自らがイザヤが話したメシアであると、この世を支配する王であると明らかにした、という事です。この言葉を聞いたナザレの人は、最初は「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」(ルカ4:22)と受け入れるのです。しかし話しを聞いていくうちに主イエスを許せなくなる。「あのヨセフの子のくせに」自分をこの世を支配する王だと話し、この世を救うメシアだと話している。何をなめたことを言っているのか。彼らは憤慨し始めるのです。しかも主イエスは彼らの心を見抜きます。あなたたちには何を話しても理解されない、と言い切ってしまう。ついにナザレの人々は、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとします。しかし主イエスは彼らの間をぬってその場を去るのです。
私たちは主イエスの最初の説教をこの御言葉の箇所から聞くことが出来ました。ここには主イエスの話された全ての言葉の根底にある一つの真実があります。それは、神は約束された言葉を守られた、という事です。神は主イエスがこの世に送る事によって約束を果たされたのです。ではその約束とは何か、それはこの世の全ての人を救う、という約束です。アダムの時に受けた罪に絡め取られ、罪の奴隷となっている全ての人を解放する、それが神の約束です。神はこの世の全ての人の代わりに罪を負い、その罪を十字架の死と共に滅ぼされました。私たちが主イエスを神の子と信じるとき、主イエスの言葉は神の言葉となります。そして主イエスは「神は愛だ」と話されました。つまり神は愛なのです。ですから私たちを愛して下さる神は、私たちを条件付きで愛する様な事をされません。律法を守ったから、良い行いをしたから、沢山奉仕したから、そんな条件を付けて愛する様な事はされないのです。そのままで神は私たちを受け入れてくださる。神は主イエスの十字架を通して、私たちを救われた、のです。
そして、その救いの出来事のスタートラインがこのクリスマスです。神は御子をこの世に遣わした。その御子はこの世の救いの光となるのです。
さて、私たちは主イエスによって既に救われています。もう全ての人は大丈夫なのです。でもなぜ私たちは、まだ足りない、救いをまだ受けていないと考えるのでしょうか。なぜならこの世の為政者たちは私たちが満たされていない方が都合が良いからです。例えば経済活動は人々の欲望がなければ成立しません。企業はメディアを通して「あなたは足りてない」と語りかけます。あなたは足りていない。その欠けを私が補おうと商品やサービスを売り込むのです。政治家は国民が毎日の生活に満足されると困ってしまいます。でも過度の不満も困る。適度な不満を持っている方がコントロールしやすいのです。
主イエスはなぜ、祭司たちに憎まれたのか、その原因の一旦も此処にあります。それは主イエスが「あなた方は幸いだ」と「あなた方は既に救われている」と人々に話したからです。祭司たちは人々に、律法を守らなければあなた方は救われないと話しました。礼拝を守らなければ救われない、神殿に捧げ物をしなければ救われない、私たちが話す言葉を聞かなければ救われない、と教えたのです。だから人々は救われる為に祭司たちに従いました。祭司たちは人々が救われたら困るのです。なぜなら自分たちの存在価値が無くなってしまう。ビジネスモデルが成り立たなくなるからです。
では私たちはどうでしょうか。私たちは「これから」救われる為に教会の礼拝を守っているのではありません。私たちはもう既に救われているからです。でも私たちはこの世の生活を通して誘惑を受けます「あなたは足りていない」と寝ても覚めても耳元で囁かれ誘惑に落ちてしまうのです。だから日曜日に教会に来て、主イエスの前に立って悔い改めるのです。そうして「私は足りている」「神の恵みは我に足れり」と我を取り戻すのです。パウロはこの様に話します「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。(2コリント12:09)
もし「あなたは足りていない」と語りかける人がいるならその人に付いて行ってはいけません。もし「自分は足りていない」と思えるのなら、教会に来て主イエスから十分に恵みを受けている事を確認しましょう。神は無条件に、対価なく誰にでも溢れるほどの恵みを与えて下さいます。でも、その恵みを独り占めしてはいけません。外に溢れさせれば良い。それが私たちの伝道です。

「耳を澄ませて備えなさい」2018/12/2

ルカによる福音書21:25-36

今朝の礼拝から教会の暦である教会暦はアドベントに入ります。この様に礼拝堂にクランツが吊され、玄関にはクリスマスツリーが飾られています。町中も、クリスマスのワクワクした雰囲気に包まれています。昨日用事があって桑名のニトリに言ってきたのですが、小学校低学年くらいの女の子が、クリスマスツリーの大きな箱を抱えて母親の後ろを歩いていました。とても嬉しそうでした。クリスマスという行事は日本の隅々まで広がりました。たぶんクリスマスの事を知らない、という人はいないと思います。ではクリスマスとは、楽しく嬉しいだけのイベント行事なのか、というと、それだけではない事を信仰者である私たちは知っています。なぜならクリスマス、救い主がこの世に来られたという出来事は、新しい時代の到来を意味し、同時に古い時代の終焉を意味するからです。つまり私たちがクリスマスに主イエスの誕生を自分自身の事として覚えると言うことは、古い自分が死んで新しい自分が生まれると言うことです。パウロはロマ書の中でこう書きます。「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(ロマ書7:06)神が主イエスとしてこの世に来られたという事は、神が目の前に来られたということです。つまり主イエスがこの世に現れたことによって私たちは、この世にあって本物の神を明らかにされたのです。だから私たちは、もう各種偶像を追いかけることが出来なくなる。その結果、地位も名誉も財産も知恵も技術(という偶像)も、全て無価値な塵芥に変わるのです。つまり私たちがクリスマスに主イエスの誕生を覚えて祝うという事は、この世の全ての価値観が逆転したとしても、それを受け入れ喜ぶ事なのです。

すこし、脅えさせてしまったかもしれません。でもこの危機的な変化は恐れだけではなく私たちにとって希望なのです。例えば私たちは高校の入学試験に合格して、入学を許され始めて教室に入った時の事を思い出して下さい。入社試験に合格して、始めて職場に入った時でも良いですが。その時、これから始まる新しい生活に期待するよりも、やはり不安をも抱いたのではないでしょうか。これからどうなるのか、仲間とうまくやっていけるのか、ついて行けるのか。今までの環境の方が良かったのでは、と思ったりするのです。でもこの危機を越えたとき、私たちは新しい歩みを与えられました。次に進むことができたのです。

しかも神は私たちを突然、何の準備なく谷底に突き落とす様な事はされません。準備の時を与えて下さいます。それがこのアドベントの期間です。アドベントとはラテン語で「到来する」という意味の言葉です。このアドベントの時に私たちは準備をするのです。当然それは、クリスマスツリーを飾るとか、リースを出すとか、そんな準備ではなく私たちの魂の準備です。主イエスを私たちそれぞれの魂に向かい入れる準備をする、それがこの四週、アドベントの時なのです。私たちが、この様にアドベントを捉えるなら、なぜ今朝の礼拝にこの御言葉が与えられたのか、腑に落ちるのだと思います。この御言葉は、主イエスの最後の説教の最後の言葉です。主イエスは過越の祭りの準備に湧くエルサレム神殿で、群衆を前に話されました。神に国について、復活について、神殿の権威について、そして最後の時について話すのです。いつか時が来たら今の世が終わり新しい世が来る。だからその時の事を覚えて、あなた方は備えていなさい、と主イエスは人々に話された言葉だからです。私たちがクリスマスを前にアドベントの時をどのような思いで過ごすのか、その仕方を私たちはこの聖書の箇所から聞くことが出来ます。

「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(ルカ福音書21:25 )神の子がこの世に来るとき、世界は大きく揺らぎ、天体すらも揺り動かされるほどの変化が起こる、そう主イエスは話されます。でも主イエスは、その変化によってあなた方はみんな滅ぼされる、とは話されないのです。そうではなく「身を起こして頭を上げなさい。」と話されるのです。地震が起こったとき、私たちはどうするのか、というと、頭を抱えてテーブルの下に隠れて小さくなるのです。恐怖に脅えて縮こまる、それは普通のあり方です。でも主イエスは身を起こして頭を上げるように、と話されます。それは身体的な事だけでなく、精神的なあり方をも言い表しています。つまり何か危機的な事が起こったとき、自分の力ではまったく立ちゆかない事態に陥ったとき、そんな時には「身を起こして頭を上げなさい。」つまり、ふさぎ込むのではなく気分を明るく保ち、これから良い事が起こると信じなさい、と主イエスは話されるのです。

またこの様に話されます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。:33  天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(ルカ福音書21:29−33)心を澄まして備えなさい、と主イエスは話されます。主イエスはイチジクの葉を譬えに使いますが、私たちに馴染みのある事柄だと、梅のつぼみが膨らんでくると、やっと長い冬が終わって春が来るのが分かる、という事です。神は私たちにまったく突然に危機を与えるのではなく、必ずその予兆を示して下さると話すのです。主イエスが伝道を始める前に洗礼者ヨハネが送られたように。またニネベの町が滅ぼされる前に預言者ヨナが遣わされたように、神はその前触れを表されます。だから私たちは心を鈍くすることなく、常に心を神に向け備えなさいと「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。」と話されるのです。そして主イエスは「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ福音書21:36)と話されます。いつでも主イエスの前に立つことが出来る様に備える。それが私たち信仰者の生き方なのです。

このアドベントの時に私たちは、自分自身の魂に主イエスを招くための準備をするのです。神の前に自らの罪を悔い改め、他者よりも自分を優先してしまう心のあり方を反省するのです。神の前に自分を晒すこと、自分の魂を再確認する作業は、正直、誰にとっても辛いことです。でも、主イエスは、私たちが悔い改めるなら赦して下さいます。そのために主イエスは私たちの罪を代わりに負って十字架に架かって下さり、その死によって罪を滅ぼされたのです。アドベントの準備として、共に心を静かにして、さらにはこの世の思い煩いに心を奪われることなく、心の耳を澄まして、時に備えましょう。それと、もう一つ私たちはこのクリスマスに於いて行うことがあります。それは、一人でも多くの方が本当のクリスマス、つまり礼拝を守る為に祈ることです。またその準備をする事です。どうしても私たちはこの世のクリスマスに商業主義だ、と批判してしまうのです。でも主イエスは御自分の名を使って悪霊を追い出している者の行いをうけいれられました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」(マルコ福音書9:39)と話すのです。全ての人がクリスマスを知っていること、主イエスの誕生を祝う事は良いことなのです。そして私たちはいつか全ての人が教会に来て礼拝を守るようになると、信じています。まだ日本の伝道は始まったばかりです。近代に入って以降、日本でのキリスト教伝道の歴史はまだ一〇〇年程だという事を忘れてはいけません。私たちはこれからも愚直に礼拝を守り続けること、全ての人がクリスマスを礼拝として守る日を望みつつ、滅入らず弛(たゆ)まず焦らず伝道を進めて行けば良いのです。