礼拝説教原稿

2018年12月

「約束は守られた」2018/12/9

ルカによる福音書4:14-21

この桑名の町では夕方の五時になりますと、時報チャイムが鳴ります。最近では各地域によって、様々に趣向を凝らしたメロディが使われることが多いのですが、桑名の市街地では、学校のチャイム(キンコンカンコン)と同じメロディが使われています。私は学生時代あまり真面目な方ではなかったので、このチャイムの音は福音を告げるメロディでした。もう静かにジッと机に座っていなくて良かったからです。
この「福音」という言葉、世間一般でも使われていますが、知っての通り元々は教会用語です。でもこの「福音」という言葉について私たちは、あまりハッキリとした理解をしていないのではないか、と思います。この言葉は新約聖書の中で七十六回使われています。ギリシャ語の「ユーアンゲリオン」の訳語です。元々の意味は「良い音信をもたらした者への報酬」です。そこから「良い知らせ」を意味する言葉になりました。ですから英語だとgospel(good spell)とかgood newsと訳される事になります。もう少しこの言葉を掘り下げてみますと、この「福音」という言葉の意味が旧約聖書で使われる場合、そのニュアンスは「解放の知らせ」となります。例えば敵の支配下に置かれ、奴隷として働かされていた者の所に味方の軍勢が詰めかけ、敵が打ち倒され勝利し自由にされる。その勝利の鬨(とき)の声、勝利の宣言・布告が「福音」なのです。
なぜ、この様な事を話したのかというと、それは先ほど読まれました御言葉にある、主イエスの聖書に記された最初の説教の言葉が、この福音を告げる言葉だったからです。それは預言者イザヤが神から託された約束の言葉、世の人々の解放を告げる宣言であり、主イエスはその福音が「今、成就した」と話されたのです。
主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、すぐに四十日間にわたって荒野で断食をし、その後にガリラヤで伝道を始められました。人々を教え導き癒やされましたのです。そして主イエスは生まれ故郷であるナザレの町に入られます。
さて、ナザレの町は主イエスが生まれ育った町です。ガリラヤの町々で主イエスが行われた様々な業を噂で聞いていたナザレの人たちは、主イエスに対して探るような目を向けていたのだと思います。なぜならこの町の人々は主イエスの事を、子供の頃から知っていたからです。主イエスの親戚もこの町に多く住んでいます。幼い主イエスが町中を駆けずり回っていた時の事を、誰もが見ています。ですから彼らは主イエスを、あの大工の息子、マリヤの子、としか見る事が出来なかったのだと思います。ガリラヤの方々の町や村で人々に聖書を解き明かし教え、預言者だと言われ、メシアの再臨、新しい王ともて囃されていても、彼らはその通りに主イエスを受け入れる事が出来ないのです。でもそれは当然のことでしょう。
そして安息日が来て主イエスはナザレの町の会堂に入ります。この当時のユダヤの町々にあって、エルサレム神殿で礼拝を献げる事ができない人たち(エルサレムの周辺の地区に住む者たち)は安息日にそれぞれの町の会堂に入り礼拝を捧げていました。この会堂(シナゴーグ)はユダヤの各地にあり、会堂長と呼ばれる人が礼拝の準備をします。書庫に備えられた聖書の御言葉が読まれ、その説き証しを聞き、詩編の歌を歌い、祈りを捧げる。今私たちが守っているこの礼拝の源が此処にあります。主イエスも幼い頃から、この会堂で礼拝を守ってきました。男子は十三歳になるとバル・ミツバと呼ばれる成人式を受け、この礼拝を守る一員として数えられる事となるからです。
さて主イエスは会堂に入り、人々の前で講壇に上がり、会堂長から手渡された聖書を講壇の上に広げます。
少々、この場面について言葉を加えます。主イエスにイザヤの巻物が渡されたと聖書には書かれています。でもスッと渡された訳ではありません。当時は現代の様な印刷技術がまだありませんので、御言葉は羊皮紙と呼ばれる羊の皮を鞣(なめ)した布に刻まれていました。その聖書に記された言葉は写本家が一字一句正確に書き写したモノです。そして何本かの巻物に分けられて保管されていました。この重量が一巻き二十㎏ほどあったと言われていますから、会堂長は巻物を抱きかかえるように持ち、主イエスに渡し、主イエスもその巻物を抱きかかえるように講壇の上に置いて広げた、という事になります。そして主イエスは開いた所に書かれていたイザヤ書の一節に目を留め、その箇所、イザヤ書六十一章一節から二節を読まれるのです。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18)
そして読み終えた後に、主イエスは会衆の座る席へと戻ります。でもしかし、会堂にいる者たちの視線は主イエスに向けられたままなのです。すべての者たちが固唾を吞んで主イエスが口を開くのを待っています。他の町々で聖書の解き明かしをした様に、このナザレでも同じように聖書の解き明かしをするのだろうか。この、大工ヨセフの息子はガリラヤの方々の町で何を話してきたのか、どんな事を話して、多くの人々の賞賛を得てきたのか。会堂に集まっている町のすべての者たちが、主イエスの言葉を待つのです。そして少々の沈黙の後に、主イエスは口を開きます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。
預言者イザヤは遡ること紀元前八世紀の人物です。つまり主イエスの読んだこの御言葉は七百年以上前に神から預言者イザヤに託された言葉という事になります。此処に書かれている油を注がれた者とは王の事です。(ダビデ王もサウル王もサムエルに油を注がれて王になりました)でも此処では特定の国の王ではなくこの世を全て支配する王、メシアを指し示しています。このメシアが貧しい人、打ち砕かれた人、囚われた人を自由にする、解放する。また「この恵みの年」とはヨベルの年のことです。律法にはヨベルの年が五十年毎に定められています。この年に全てのユダヤ人は全ての借金を帳消しにすると定められています。七の七倍で四十九の完全数の年、その次の年がヨベルの時、つまり神が完全にこの世を赦すとイザヤは話します。つまりイザヤは、神がいつかこの地上に救い主を使わしれ、赦しの時、救いの時が与えられると約束された、と此処で宣言しているのです。
このイザヤの言葉を受けて、主イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話されます。今、あなた方がこの言葉を聞いた時に、この約束は成就したと話したのです。
つまり主イエスは此処で自らがイザヤが話したメシアであると、この世を支配する王であると明らかにした、という事です。この言葉を聞いたナザレの人は、最初は「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」(ルカ4:22)と受け入れるのです。しかし話しを聞いていくうちに主イエスを許せなくなる。「あのヨセフの子のくせに」自分をこの世を支配する王だと話し、この世を救うメシアだと話している。何をなめたことを言っているのか。彼らは憤慨し始めるのです。しかも主イエスは彼らの心を見抜きます。あなたたちには何を話しても理解されない、と言い切ってしまう。ついにナザレの人々は、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとします。しかし主イエスは彼らの間をぬってその場を去るのです。
私たちは主イエスの最初の説教をこの御言葉の箇所から聞くことが出来ました。ここには主イエスの話された全ての言葉の根底にある一つの真実があります。それは、神は約束された言葉を守られた、という事です。神は主イエスがこの世に送る事によって約束を果たされたのです。ではその約束とは何か、それはこの世の全ての人を救う、という約束です。アダムの時に受けた罪に絡め取られ、罪の奴隷となっている全ての人を解放する、それが神の約束です。神はこの世の全ての人の代わりに罪を負い、その罪を十字架の死と共に滅ぼされました。私たちが主イエスを神の子と信じるとき、主イエスの言葉は神の言葉となります。そして主イエスは「神は愛だ」と話されました。つまり神は愛なのです。ですから私たちを愛して下さる神は、私たちを条件付きで愛する様な事をされません。律法を守ったから、良い行いをしたから、沢山奉仕したから、そんな条件を付けて愛する様な事はされないのです。そのままで神は私たちを受け入れてくださる。神は主イエスの十字架を通して、私たちを救われた、のです。
そして、その救いの出来事のスタートラインがこのクリスマスです。神は御子をこの世に遣わした。その御子はこの世の救いの光となるのです。
さて、私たちは主イエスによって既に救われています。もう全ての人は大丈夫なのです。でもなぜ私たちは、まだ足りない、救いをまだ受けていないと考えるのでしょうか。なぜならこの世の為政者たちは私たちが満たされていない方が都合が良いからです。例えば経済活動は人々の欲望がなければ成立しません。企業はメディアを通して「あなたは足りてない」と語りかけます。あなたは足りていない。その欠けを私が補おうと商品やサービスを売り込むのです。政治家は国民が毎日の生活に満足されると困ってしまいます。でも過度の不満も困る。適度な不満を持っている方がコントロールしやすいのです。
主イエスはなぜ、祭司たちに憎まれたのか、その原因の一旦も此処にあります。それは主イエスが「あなた方は幸いだ」と「あなた方は既に救われている」と人々に話したからです。祭司たちは人々に、律法を守らなければあなた方は救われないと話しました。礼拝を守らなければ救われない、神殿に捧げ物をしなければ救われない、私たちが話す言葉を聞かなければ救われない、と教えたのです。だから人々は救われる為に祭司たちに従いました。祭司たちは人々が救われたら困るのです。なぜなら自分たちの存在価値が無くなってしまう。ビジネスモデルが成り立たなくなるからです。
では私たちはどうでしょうか。私たちは「これから」救われる為に教会の礼拝を守っているのではありません。私たちはもう既に救われているからです。でも私たちはこの世の生活を通して誘惑を受けます「あなたは足りていない」と寝ても覚めても耳元で囁かれ誘惑に落ちてしまうのです。だから日曜日に教会に来て、主イエスの前に立って悔い改めるのです。そうして「私は足りている」「神の恵みは我に足れり」と我を取り戻すのです。パウロはこの様に話します「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。(2コリント12:09)
もし「あなたは足りていない」と語りかける人がいるならその人に付いて行ってはいけません。もし「自分は足りていない」と思えるのなら、教会に来て主イエスから十分に恵みを受けている事を確認しましょう。神は無条件に、対価なく誰にでも溢れるほどの恵みを与えて下さいます。でも、その恵みを独り占めしてはいけません。外に溢れさせれば良い。それが私たちの伝道です。

「耳を澄ませて備えなさい」2018/12/2

ルカによる福音書21:25-36

今朝の礼拝から教会の暦である教会暦はアドベントに入ります。この様に礼拝堂にクランツが吊され、玄関にはクリスマスツリーが飾られています。町中も、クリスマスのワクワクした雰囲気に包まれています。昨日用事があって桑名のニトリに言ってきたのですが、小学校低学年くらいの女の子が、クリスマスツリーの大きな箱を抱えて母親の後ろを歩いていました。とても嬉しそうでした。クリスマスという行事は日本の隅々まで広がりました。たぶんクリスマスの事を知らない、という人はいないと思います。ではクリスマスとは、楽しく嬉しいだけのイベント行事なのか、というと、それだけではない事を信仰者である私たちは知っています。なぜならクリスマス、救い主がこの世に来られたという出来事は、新しい時代の到来を意味し、同時に古い時代の終焉を意味するからです。つまり私たちがクリスマスに主イエスの誕生を自分自身の事として覚えると言うことは、古い自分が死んで新しい自分が生まれると言うことです。パウロはロマ書の中でこう書きます。「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(ロマ書7:06)神が主イエスとしてこの世に来られたという事は、神が目の前に来られたということです。つまり主イエスがこの世に現れたことによって私たちは、この世にあって本物の神を明らかにされたのです。だから私たちは、もう各種偶像を追いかけることが出来なくなる。その結果、地位も名誉も財産も知恵も技術(という偶像)も、全て無価値な塵芥に変わるのです。つまり私たちがクリスマスに主イエスの誕生を覚えて祝うという事は、この世の全ての価値観が逆転したとしても、それを受け入れ喜ぶ事なのです。

すこし、脅えさせてしまったかもしれません。でもこの危機的な変化は恐れだけではなく私たちにとって希望なのです。例えば私たちは高校の入学試験に合格して、入学を許され始めて教室に入った時の事を思い出して下さい。入社試験に合格して、始めて職場に入った時でも良いですが。その時、これから始まる新しい生活に期待するよりも、やはり不安をも抱いたのではないでしょうか。これからどうなるのか、仲間とうまくやっていけるのか、ついて行けるのか。今までの環境の方が良かったのでは、と思ったりするのです。でもこの危機を越えたとき、私たちは新しい歩みを与えられました。次に進むことができたのです。

しかも神は私たちを突然、何の準備なく谷底に突き落とす様な事はされません。準備の時を与えて下さいます。それがこのアドベントの期間です。アドベントとはラテン語で「到来する」という意味の言葉です。このアドベントの時に私たちは準備をするのです。当然それは、クリスマスツリーを飾るとか、リースを出すとか、そんな準備ではなく私たちの魂の準備です。主イエスを私たちそれぞれの魂に向かい入れる準備をする、それがこの四週、アドベントの時なのです。私たちが、この様にアドベントを捉えるなら、なぜ今朝の礼拝にこの御言葉が与えられたのか、腑に落ちるのだと思います。この御言葉は、主イエスの最後の説教の最後の言葉です。主イエスは過越の祭りの準備に湧くエルサレム神殿で、群衆を前に話されました。神に国について、復活について、神殿の権威について、そして最後の時について話すのです。いつか時が来たら今の世が終わり新しい世が来る。だからその時の事を覚えて、あなた方は備えていなさい、と主イエスは人々に話された言葉だからです。私たちがクリスマスを前にアドベントの時をどのような思いで過ごすのか、その仕方を私たちはこの聖書の箇所から聞くことが出来ます。

「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(ルカ福音書21:25 )神の子がこの世に来るとき、世界は大きく揺らぎ、天体すらも揺り動かされるほどの変化が起こる、そう主イエスは話されます。でも主イエスは、その変化によってあなた方はみんな滅ぼされる、とは話されないのです。そうではなく「身を起こして頭を上げなさい。」と話されるのです。地震が起こったとき、私たちはどうするのか、というと、頭を抱えてテーブルの下に隠れて小さくなるのです。恐怖に脅えて縮こまる、それは普通のあり方です。でも主イエスは身を起こして頭を上げるように、と話されます。それは身体的な事だけでなく、精神的なあり方をも言い表しています。つまり何か危機的な事が起こったとき、自分の力ではまったく立ちゆかない事態に陥ったとき、そんな時には「身を起こして頭を上げなさい。」つまり、ふさぎ込むのではなく気分を明るく保ち、これから良い事が起こると信じなさい、と主イエスは話されるのです。

またこの様に話されます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。:33  天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(ルカ福音書21:29−33)心を澄まして備えなさい、と主イエスは話されます。主イエスはイチジクの葉を譬えに使いますが、私たちに馴染みのある事柄だと、梅のつぼみが膨らんでくると、やっと長い冬が終わって春が来るのが分かる、という事です。神は私たちにまったく突然に危機を与えるのではなく、必ずその予兆を示して下さると話すのです。主イエスが伝道を始める前に洗礼者ヨハネが送られたように。またニネベの町が滅ぼされる前に預言者ヨナが遣わされたように、神はその前触れを表されます。だから私たちは心を鈍くすることなく、常に心を神に向け備えなさいと「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。」と話されるのです。そして主イエスは「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ福音書21:36)と話されます。いつでも主イエスの前に立つことが出来る様に備える。それが私たち信仰者の生き方なのです。

このアドベントの時に私たちは、自分自身の魂に主イエスを招くための準備をするのです。神の前に自らの罪を悔い改め、他者よりも自分を優先してしまう心のあり方を反省するのです。神の前に自分を晒すこと、自分の魂を再確認する作業は、正直、誰にとっても辛いことです。でも、主イエスは、私たちが悔い改めるなら赦して下さいます。そのために主イエスは私たちの罪を代わりに負って十字架に架かって下さり、その死によって罪を滅ぼされたのです。アドベントの準備として、共に心を静かにして、さらにはこの世の思い煩いに心を奪われることなく、心の耳を澄まして、時に備えましょう。それと、もう一つ私たちはこのクリスマスに於いて行うことがあります。それは、一人でも多くの方が本当のクリスマス、つまり礼拝を守る為に祈ることです。またその準備をする事です。どうしても私たちはこの世のクリスマスに商業主義だ、と批判してしまうのです。でも主イエスは御自分の名を使って悪霊を追い出している者の行いをうけいれられました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」(マルコ福音書9:39)と話すのです。全ての人がクリスマスを知っていること、主イエスの誕生を祝う事は良いことなのです。そして私たちはいつか全ての人が教会に来て礼拝を守るようになると、信じています。まだ日本の伝道は始まったばかりです。近代に入って以降、日本でのキリスト教伝道の歴史はまだ一〇〇年程だという事を忘れてはいけません。私たちはこれからも愚直に礼拝を守り続けること、全ての人がクリスマスを礼拝として守る日を望みつつ、滅入らず弛(たゆ)まず焦らず伝道を進めて行けば良いのです。