礼拝説教原稿

2018年11月

「楽園の所在」2018/11/25

ルカによる福音書23:35-43

先日、紅葉を見ようと近所の公園に行ってきました。少し肌寒くはありましたが、透き通るような秋の空が広がっていました。公園には平日であるのに結構多くの人が訪れていて、沢山の子どもたちが遊んでいました。公園の遊具に上り、滑り降り、周りを走り廻っていました。寒いのに元気だね、と思いつつ、その様子を眺めていると、一人の男子がかなり派手に転びました。海老の様に身体がくの字に曲が曲がりました。泣くかな、と。でも彼は泣きませんでした。起き上がって、手が擦りむいていないか見て、何もなかったかのように、また遊具に向かっていきました。大人だったら、あんな転び方をしたら確実に腰をやるな、と。でも大人の身体と違って子どもの身体は柔軟です。転んでも大丈夫なように出来ています。だから彼はすぐに立ち上がり何事もなかったかのように走り出したのです。これは読んだ話ですが、子どもは病気に対しても柔軟な耐性をもっているのだそうです。赤ちゃんは何でも口に入れますけど、ああやって雑菌を身体に取り込んで免疫力を付けていくのだそうです。大人のなると転んだとき、起き上がることが難しくなる。でもそれは身体的な場面だけで無く、精神的な場面にあっても同じです。一度失敗すると立ち直ることが難しくなる。それは心の柔軟性が失われているからかもしれません。大人になるならそれなりの経験が積み重ねられています。自分にとって得意な事、不得意なこと、好きな事、嫌いなことが解ってくる。それに有形、無形に関わらず手に入れた物も多くなります。それらを全てリセットして、つまるスタートラインに戻って一から始める、という事に、やはりかなりの覚悟を求められるのです。往々にして私たちは無駄に悩んだり、腐ったり、過去を引きずる、あの時、こうしていればと後悔するのです。子どもの様にすぐに立ち直って新しく与えられた場面を楽しむ事は中々できません。

でも信仰者には若干の有利さ(アドバンテージ)があります。それは私たちが神を知っている、という事です。神は私を愛して下さる。だから神は私に必要なモノを必要なだけ与えて下さる。そう知るならば、今、自分が手にしている全てに執着する必要がなくなるのです。今朝の礼拝を私たちは収穫感謝日の礼拝として守っています。目の前に沢山の野菜や果物が置かれていますが、この豊かな食べ物も、人の手で創造された訳ではなく、神が私たちの為に備えて下さったモノです。私たちは神が作られた恵みを収穫し、その命によって生かされているのです。本質的に神は必要な全てを備えて下さる。そして自分の命すらも神から貸し与えられているモノと知るなら、私の興味はそれをどのように大切に感謝して、有効に十分に使うかに向きます。それを失わないこと、維持するという方向には向かないのです。つまり信仰者は失敗しても、比較的早く立ち直ることが出来ます。全てを失っても、神さまは与えてくださる。失敗しても良い、逆に失敗こそ貴重な経験、次はもっと良く出来ると気持ちを切り替え事ができるのです。

それにもう一つ、信仰者のアドバンテージは、私たちは神が赦して下さる方であると知っている事です。私たちはたとえ大きな失敗をしても、心から悔い改めるなら、神は赦して下さる。それだけではなく神はもう一度立ち上がらせて下さいます。今朝私たちに与えられました御言葉、ルカ23章35節に描かれている、主イエスと共に十字架に掛けられている罪人、彼の姿の中に私たちは神の赦しと、信仰によって更新された新しい命を見る事ができます。この御言葉の場面は、この世にあって最悪な酷たらしい場所での出来事ですが、しかし神はその最底辺にあっても働かれるのです。

さて、主イエスは十字架に掛けられます。過越祭の夜にゲッセマネの園で祭司長たちの下役に囲まれ、しかし主イエスは抵抗することなく捕らえられます。そして次の日の午前中に裁判に立たされ、正午にはゴルゴダの丘で十字架に掛けられます。主イエスの両側には二人の罪人が、主イエスと同じように十字架に掛けられたと聖書には書かれています。その1ヶ月ほど前、主イエスがエルサレムに入城されたとき、人々は主イエスと弟子たちを、まるで戦いに勝利して凱旋した王の様に、歓迎し迎えたのです。人々は自分の上着を地面に敷き、ロバに乗って進む主イエスに向かって棕櫚の葉を振りました。しかし主イエスが祭司長たちに捕らえられ最高法院に引き出されると、人々は手のひらを返したように態度を変えます。彼らは失望し欺(だま)されたと感じ、主イエスを十字架に掛けよと、ローマ総督としてイスラエルに使わされていたピラトに申し出るのです。民衆を裏で煽って情報操作をした最高法院の議員たちでの思惑は成功します。それだけはなく、主イエスの弟子たちも散り散りにその場から逃げます。また主イエスを銀貨30枚で売ったイスカリオテのユダは後に自分の命を絶つことになるのです。世の中の全ての者たちが自分に敵対し、離反する中で主イエスは十字架に掛けられます。この十字架刑とは当時のローマにおいて、国家に背く政治犯に課せられた、様々な刑罰の中でも最も重いものです。罪人は手の甲と足の甲を十字架の柱と横木に打ち付けられ張り付けにされます。そして命が耐えるまでそのまま放置されるのです。この十字架刑の最も残忍な理由はここにあります。遺体は白骨化するまで放置されます。でも手の甲と足の甲で十字架に張り付けられているので、骨は十字架に架かったままになります。最後に骨と骨を繋ぐ筋が劣化して切れて骨はばらばらと地面に落ちますが、親族であってもその骨を拾うことは許されません。そのまま放置されるのです。なぜこの丘がゴルゴダ「されこうべ」と呼ばれていたのかというと、地面に転がった頭蓋骨がそのまま放置されていたからです。死んでから後、人々が行き交う通りに面した場所で自分の身体が放置され、劣化していく有様を晒される。人間にとって最もその尊厳を傷つけられる刑罰がこの十字架刑なのです。

主イエスは12時に十字架に掛けられ3時には息を引き取られました。それがあまりにも早かったので、脇腹を槍で突いて死んでいるか確認した、と聖書には書かれています、通常は何日か人々の目にさらされてから死んで行くものだからです。それともう一つ、主イエスが息を引き取った後、すぐにアリマタヤのヨセフがピラトに願い出て、主イエスの亡骸を十字架から下ろし墓に納めたと聖書には書かれています。それは本来の十字架刑の仕方とは違うものです。なぜこの様な事が許されたのか、というと、それはピラトは主イエスを罪人だとは考えてなかったからです。

主イエスがピラトの前に連れてこられたとき、ピラトは主イエスに全く罪を見いだすことはできませんでした。しかし主イエスを十字架に掛けなければ狡猾な祭司たちは民衆を扇動して暴動を起こすだろうと彼は読みます、そうなると駐屯しているローマ兵だけで対抗する事は難しい事となる。自分の部下が血を流すのは避けなければ為らないのです。では主イエスが無罪であると知りつつ十字架に掛けるのか、それは公明正大、何よりも正義を重んじるローマの精神に反することです。つまり狡猾なユダヤ人たちはピラトがどちらを選んでもピラトを嘲笑(馬鹿にして笑う)する為に、この罠を仕組んだと、主イエスはその罠の餌にされているだけだと、ピラトは気づいているのです。でも、この事に気づいているのはピラトだけではありません。たぶん、エルサレムに居る全ての人は漠然と気づいているのです。今、目の前で行われていることが茶番だと。主イエスには何の罪もないと、誰もが知っているのです。そして主イエスと共に十字架に掛けられた罪人たちも、主イエスに罪がないことを知っているのです。

ここまで背景をおさえて、先ほど読みました、御言葉に目を落とします。

「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。」(ルカ福音書23:34)この主イエスの言葉を、最も近くで聞いていたのは、主イエスと共に十字架に掛けられた二人の罪人です。彼らがどのような犯罪を犯したのかは聖書に書かれていないので解りませんが彼らはローマに逆らい十字架に掛けられた、ということは分かります。直接ローマに対して抵抗運動を組織したのか、それとも強盗した時にローマ市民権をもつものを殺したとか、ローマ軍人にケガを負わせたとか、少なくとも彼らは何らかの犯罪を犯した結果として、十字架に掛けられたのです。

「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」(ルカ福音書23:39)この世の最も低い場所にあって、一人の男は主イエスからかいます。もう自分には何にも希望がない。自分はしくじったけど運が悪かっただけだと、この男はまったく自らを省みることも、悔いあらためる事も無く、その心は混乱と恐れに満たされているのです。しかし、もう一人の男はその言葉をたしなめます。「『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。」(ルカ福音書23:40-42)彼は主イエスをちゃんと見るのです。彼は主イエスを前にして自分を見つめ直しそのあり方を悔い改めます。そして彼はこの場面において希望を与えられます。まだ終わりではないまだここからでも立ち上がる事ができると分かるのです。主イエスは彼に話します。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ福音書23:43)

この言葉について様々に解釈があります。でも私は「今、あなたは私と共に楽園にいる」だと読みます。後の世で楽園に入るということではなく、今、この世にあって最悪な場所があなたに取ってのこの世の楽園になったと主イエスは話されたのです。

ここで言う楽園とは、創世記に書かれているエデンの園のことです。つまり人が罪を負う前に神と共に居た場所、罪の束縛から解放された場所、自由だった場所に、今いると主イエスは彼に話したのです。悔い改めた者の罪を主イエスは拭い彼は赦されました。その時、誰もが忌み嫌い目を背けたくなるようなこの世の最も低い場所は、神の庭、最も高い場所に逆転したのです。躓きを与えられたとき、私たちは神をなじるのではなく、その躓きを与えて下さった神に感謝するのです。神はその躓きを通して、私たちの傲慢を砕き、何が自分の命にとって必要なモノなのかを明らかにして下さいます。その様にして心から素直に神に赦しを乞うたとき、神は私たちの罪を拭って下さいます。その時、私たちは楽園を、エデンを味わうことが出来るのです。

「神は生きておられる」2018/11/18

ルカによる福音書20:27-40

「習慣化する」という事には良い面と悪い面があります。例えば教会の牧師室の掃除という事について言えば、私は毎週火曜日の九時から一時間は掃除の時間と決めています。気分が乗らないとか乗るとかに関わらず掃除をするのです。結果として事務室は綺麗になりますし整頓されて仕事もしやすくなります。でもこの習慣化には悪い面もあります。それは掃除という作業が何かの手続きの様になってしまう事です。黙々と決められた一連の作業をして終わりとなる。そこには感動も感謝もありません。まあ机の上を拭く度に机に向かって「先週はよく働いてくれたね、今週もがんばってね」と声を掛けるのも、少々行きすぎかと思いますが、でも、一つ一つの作業に心を向けるなら、1時間は楽しい一時間になります。でも作業になるなら無味乾燥とした一時間となります。

礼拝についても同じ事が言えます。一年間に日曜日は五十一回ありますから礼拝も年間五十一回は守られます。しかも週に一度、定められた時間に必ず礼拝は行われます。ですから私たちはついつい礼拝を習慣化してしまう。淡々と心を動かすことなく何かの作業の様に礼拝を捧げてしまうのです。でもそれではダメなのです。なぜいけないのか。それは、先ほど読まれました御言葉にあるように「神は生きておられる」からです。この「生きている」とは心臓が動いている、という意味ではありません。相互の関わりに心が通っているということです。相手と自分とのお互いの思いをやり取りすること。その関係性の中にいるとき私たちは生きているのです。ですから生きていない偶像に習慣的に手を合わせるように、形式的に所作を流し儀式化してしまうなら、礼拝などする必要はないしそもそも神に対して失礼です。譬えとしては相応しくないかもしれませんが、わたしは度々、奥さんの言葉に生返事を返してして叱られます。心をそこに置かないという事は相手を不快にする、もしくは失礼なあり方です。どうすれば心を置くことができるのか。以前私が神学生だったときに、ある牧師が話した言葉を私は強く覚えています。「この礼拝が最後の礼拝になる人もいると心に刻んで説教をしなさい、礼拝を導きなさい」そう話された言葉です。幾らでも礼拝の機会が残っていると思うから疎(おろそ)かになる。でもこの礼拝をこの世での最後の礼拝だと思って捧げるなら。否が応でも常に心を動かして神に心を向けることになる。そしてそれは誤魔化しではありません。私たちの誰も明日がどうなるか知らないからです。礼拝を儀式化してしまう危うさについて、私たちは主イエスがサドカイ派の人たちに指摘した言葉を聞くことによって知る事が出来るのです。彼らは熱心に礼拝を捧げます。しかしその信仰は生きた信仰ではなく死んだ信仰になっていたのです。

さて、今朝与えられた御言葉に戻ります。主イエスの生きた当時ユダヤ教はサドカイ派とファリサイ派に分かれていました(他の派閥としてエッセネ派と熱心党がありましたが今日は取り上げません)。このサドカイの名前はダビデ・ソロモン時代の大祭司ザドクに由来すると言われています。また、ヘブル語のサディーク「正しい」に由来するという説もあります。彼らは少数ではありましたが、大祭司を輩出する家系として、また祭司貴族としてユダヤ教の政治的・宗教的支配者階層を形成していました。彼らの特徴的な考えは復活を信じていない、ということです。彼らは死者の復活、霊魂の不滅、天使や霊、未来(終わりの日)を否定していました。彼らは合理的で現世的な信仰を持っていたのです。それに対してファリサイ派(新約聖書には彼らの事が度々取り上げられますが)は復活を信じていました。なぜそうなったのかというと、サドカイ派は旧約聖書のモーセ五書のみに権威の所在を置いていたからです。ここでは直接的には復活が取り扱われていません。それに対してファリサイ派は復活を信じていました。彼らは五書だけではなく口伝律法も認めていたからです。もう一つの理由として、サドカイ派の人々はこの世にあって恵まれていた者たちだったから、と考えられます。彼らは後の世に期待しなくても良いのです。この世をこのままで安定させる事、既得権益を維持する事にサドカイ派の人々は熱心だったのです。逆にファリサイ派を支持する者たちは貧困層の者たちでした。だから彼らは後の世の希望、復活信仰を受け入れる事になるのです。

さて、その様な背景を踏まえて、今朝与えられました御言葉を読みます。サドカイ派が主イエスに質問した内容は、レビラート婚という風習についてです。長男が子どもを残さないで死んだ場合、弟がその妻をめとり、子を残して、死んだ兄の名を記憶に留めなければならない。そう決められていたのです。それは長男から生まれた最初の男の子が代々血族の命を継ぐと信じられていたからです。

例えばアブラハムは自分の初めての息子であるイサクを屠るように神から命じられたとき、深く悩み苦しむのです。なぜならそれはイサクが年老いてから与えられた、愛する一人息子だったから、だけではありません。アブラハムにとってイサクの命は自分の命と同等の価値を持つものだったからです。アブラハムにはこの時、復活という概念は無いのです。もし自分が死んでもイサクが自分の命を継いでくれる。でももしイサクが死んでしまうなら、自分の命もそこで消えてしまう。永遠の命が失われるのです。神から与えられた命を正しく繋げるためにレビラート婚が定められているのです。

「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」(ルカ福音書20:28-33)サドカイ派の人々は主イエスが復活について民衆に教える事を止めさせるために、ありそうもない難問を突きつけました。もし復活があるなら後の世でこの兄弟はみな姦淫の罪を負う事になる。それはレビ記(18:16)にも申命記にも記されている戒律に違反することだ、そんな事を神が赦されるわけはない。彼らはそう主張するのです。では主イエスはなんと答えられたのでしょうか。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。」後の世にあって人はもう死ぬ事が無い。だから子孫を残すための結婚する必要も無い。夫、妻という関係では無く、人は等しく神の子となる、そう話されるのです。

更に主イエスは答えられます。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」主イエスはサドカイ派の者たちが権威の所在を置いているモーセ五書、その中の出エジプト記の御言葉を用いて、復活を論証されます。神はモーセに自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神だと話します。神は生きている者の神ですから、この時、アブラハム・イサク・ヤコブは生きている、という事になります。つまりアブラハム・イサク・ヤコブは復活しているという事になる。主イエスはサドカイ派の者たちに口伝律法ではなくモーセ五書の言葉を用いて論証されたのです。ですから、この問答を聞いた律法学者の一人が「先生、立派なお答えです」と良い、もはや誰も何かを尋ねるものがいない、という事になるのです。サドカイ派の者たちは、なぜ、この様に神の言葉を誤って解釈してしまったのでしょうか。その根底には彼らの心の内が、自分たちの方だけに向いていて、神に向いていないことにあります。それだけではなく、彼らの心はこの世にも向いていないのです。

彼らが主イエスに向けた質問の内容、つまり長男に嫁いだ婦人が夫を失い、その後、弟たちの妻になるが次々に夫を失う、という話し。まるで一族の血を絶やさない為だけに存在する道具の様にこの婦人が扱われています。さらには次々に夫が死んでいくこの婦人の悲しみについて、サドカイ派の者たちはまったく思いを寄せていないのです。そこは議論の為の例話と言われるかもしれません。しかし、ここに彼らの本心が見えてくるのです。彼らの信仰は合理的で現世的と話しましたが、つまりが心は通っていないのです。それだけではなく彼らは神に対しても心を動かしてはいないのです。それ故に彼らの礼拝は儀式化し形骸化し、命を失ったのです。

現代にあって私たちも、このサドカイ派の人々と同様に神を見失う危うさをおっています。私たちも今の世に満足しています。食べる事に困窮しない、争いもない、医療も福祉も機能しています。格差は広がったり、いろいろ不満はありますが、でも直接命を脅かしてくるものではありません。この状態を維持すること変えないこと、経済を安定させること。そうしているうちに私たちの心は死んで行きます。動かなくなります。そうなると私たちは虚構にも欺瞞にも目をつぶるし耳をふさぐようになります。そして不都合な事実に関しては隠蔽しようとする。サドカイ派の者たちが率先して主イエスを十字架に掛けて殺したように、自分の目に見える場所から消し去ろうとするのです。その様にして私たちはもう一度主イエスを十字架に掛けてしまうのです。そうならない様にどうすれば良いのか。神は生きておられると、この魂の内におられると覚えるのです。「すべての人は、神によって生きているからである。」(ルカ福音書20:38)と主イエスは話されます。私たちの心臓が鼓動は神の鼓動です。そして私たちはその神との関わりの中に置かれた時に、生きる者となります。神は私たちに水の様に霊を注いで下さり、私たちはその霊によって魂をみずみずしい、生き生きとしたものとして保つ事ができます。神はいつでも十分すぎる霊を注いで下さるのです。私たちはそれを自分の内側に貯め込むのでは無く、外に流すのです。常に心を動かすこと。いつ天に召されても十分だと思える様に、全ての瞬間を大切に丁寧に生きること。それが私たちに預けられた命の扱い方なのです。日々喜びつつ共に歩みましょう。

「大地を踏みしめて」2018/11/11

ルカによる福音書3:1-14

誕生日というと、皆さんは何を思い浮かべますか。ケーキかな、それとも花束かな。でもやっぱりプレゼントだと思います。例えばお父さんお母さんからとか、友だちからとか、欲しかった物を買って貰う、それとも手作りのモノを貰う。それはとても嬉しい事です。私も子供の頃、誕生日は待ち遠しい日でした。誕生日だけは少々値段が高くても欲しい物を買ってもらえたからです。でも私は、大人になってからもっと嬉しい事があると知りました。それはプレゼントを渡すという事です。その楽しみは誕生日の随分前にプレゼントを用意する時から始まります。その人に何をあげれば喜ぶか、できるだけサプライズが良いので、それをじっくり探るのです。日頃の話しの内容とか、今興味があることとか、必要としている物を探って、で、気づかれないように買いに行きます。ちゃんとラッピングをして貰って、でバレないように家に持ち帰って隠しておくのです。そして誕生日の当日が来ます。プレゼントを渡すとき、その人の驚いた顔を見る事ができる。でも更にラッピングを明けて、その中身を見て喜んでくれたとき、喜ぶ笑顔を見る事ができるのです。自分が楽しいという事より誰かが楽しいと感じたり喜んでいる姿を見ることの方が楽しいことだと私は思います。プレゼントは貰うことも渡すことも楽しいのです。

さて、今日の礼拝を私たちは降誕前第7主日の礼拝として守っています。少し難しい言葉ですね。でも簡単にいうと「あと7回、礼拝を守るとクリスマスです。」という意味です。ではクリスマスってなんの日でしょうか。そう神さまの御子であるイエスさまの誕生日をお祝いする日です。イエスさまはお生まれになってから数日後に東の国から占星術の学者がやって来て、生まれたばかりのイエスさまに黄金、乳香、没薬を捧げたと、聖書には書かれています。私たちもこのクリスマスに3人の占星術の学者と同じようにイエスさまにプレゼントを捧げます。その私たちからのプレゼントがクリスマス礼拝です。私たちはそれぞれの心を神さまの前に差し出しクリスマス礼拝をイエスさまに捧げるのです。そのために私たちは試行錯誤して準備を進めています。教会学校ではクリスマスの祝会で演奏するためにハンドベルを練習しています。実は昨日の夕方にはクッキーの型枠の準備をしました。教会の玄関にクリスマスツリーを飾るのはアドベントが始まってからつまり十二月二日の日曜日からなのですが、その用意も始めています。さっき誕生日プレゼントの準備は楽しいと話しましたが、クリスマスは、だから楽しいのです。

でも、クリスマスには、私たちが捧げるだけではなく、私たちが与えられる喜びもあります。クリスマスに神さまは私たちに大切なプレゼントをくださいました。神さまは私たちを救う、救い主として、イエスさまをこの世に、そして私たち一人ひとりにプレゼントしてくださったのです。私たちはイエスさまを通して、神さまの思いを知ることができる様になりました。神さまは私たちを愛していると言うことが分かりました。それだけではなくイエスさまは私たちの心にへばり付いている(タールの様に)罪(悪い心)をきれいに拭き取って下さり、私たちは誰でも神さまの下に帰る事ができるように、してくださったのです。その様にして私たちを救われたのです。とはいえ、神さまがイエスさまをこの世界に住む全ての人にプレゼントされた、という事はそんなに簡単なことではありませんでした。そのために神さまは、長い時間を掛けて準備されたと聖書には書かれています。どの位の長い時間を掛けたのか、私たちがクリスマスの準備をするように1ヶ月とか、長くても二ヶ月とか、そんな短さではありません。二千年、もっと遡って神さまがこの世に人を創造された時から始まるのです。それは最初の人間として生まれたアダムとエバは神さまに嘘をついて、神さまの下から離れてしまった事に始まります。二人は神さまが食べてはいけないと話した木の実を食べてしまいます。そして神さまが作った楽園から放り出されます。でも神さまは、この二人を見棄てません。神さまはアダムとエバに向かって呼び続けます、さらにはその子孫たちつまり人間対して自分の下に帰ってくるように、声を掛け続けるのです。その神さまの声を伝える人の事を預言者と言います。神さまは何人も何人も、預言者をこの世に送りますが、でも、この世の人々は耳をふさぎます。神さまなんかいなくても、自分たちだけで生きられる、でもこの世はめちゃくちゃに混乱するのです。

そして、ついに神さまは最後の預言者をこの世に送ります。その人は洗礼者ヨハネと呼ばれる預言者です、その人の言葉が先ほど西澤先生が読んだ聖書に記されています。「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(ルカ福音書3:3)神さまの声に耳をふさぐ人たちは、この世の中を無茶苦茶に混乱させるのです。しかし、神さまは、そのデコボコになったこの世を平坦に均す仕事をヨハネに託します。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。:05  谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」(ルカ福音書3:4-5)

神さまは、この世の人が自分の下に戻ってくる事ができるように、最後の手段を取られました。そのために、もう言葉ではなく御自分の独り子であり御自分と等しい(同じ)存在であるイエスさまをこの世に送ろうとされたのです。でもその前に先ず洗礼者ヨハネという預言者をこの世に送って、人々の心を整えさせます。準備をされる。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と書かれている通りです。デコボコの地面って歩きにくいのです。足を挫いたり、転んだりする。でも地面の石を取って、均して平らにして道を作ると歩きやすくなります。同じように、洗礼者ヨハネは人々がイエスさまの言葉を聞きやすくする為に、人々の心の中のデコボコを均して平らにしたのです。そして人々はその道を踏みしめて、イエスさまの所に向かう事が出来る様になったのです。その様にしてこの世に送られたイエスさまは、私たちの代わりに罪を負われ十字架に付けられ死なれました。そうやって私たちの罪を神さまの前に帳消しにして下さったのです。でもそれだけではなくイエスさまは復活されました。神さまの前に悔い改めれば、まったく全てを手放しても神さまは新しい命をくださると、この復活を通して表されたのです。私たちはこのイエスさまに倣う事によって、救われるのです。この洗礼者ヨハネですが、ヨハネの母エリザベトはイエスさまの母マリアと親戚同士の関係です。そして洗礼者ヨハネはイエスさまが生まれる数ヶ月前に生まれるのです。こんな所からも神さまが十分に用意されて、イエスさまをこの世に送り出されたことが分かります。

さて、このクリスマスに私たちはイエスさまの誕生をお祝いします。でももう一つ、神さまが私たちにイエスさまをプレゼントして下さった事を「ありがとうございます」と感謝しましょう。このクリスマスの準備の時を共にそして神さまとも共に喜び会いましょう。

「あなたの心を照らす信仰」 2018/11/4

ルカによる福音書11:33:41

夜に海に行きますと、だいたい何処であっても、一つや二つの灯台の明かりを見る事が出来ます。この灯台の光ですが一つ一つの灯台で点滅する間隔が違うという事はご存じでしょうか。正確には一つ一つ、光の質や強さも変えてあるのです。ある漁師の方が話してくれたのですが、魚を穫る漁師は夜中の暗闇のなかで船を操るとき、遠くの幾つかの灯台の光の点滅する間隔を見るのだそうです。そしてそれが何処の灯台の光かを確認して自分の船の位置、つまり漁をする場所を決めるのです。最近はどんな小さな船にもGPSと魚探が積んであるそうですが、そんなものにあまり頼らないのだそうで、最新の機器よりも蓄積された経験と勘の方が当てになるのだそうです。大海に漂い真っ暗な夜の闇に包まれていても、あんな小さな光だけで自分のいる場所を確認する事ができるというのは、すごい事だと思います。

そして私たちにとっての信仰も、この灯台の光と同様に、自分が今どこにいるのか、を教えてくれる指標になります。つまり私たちが聖書を読んだり祈ったり、礼拝を捧げ、神を覚えるとき、私たちは神だけが万能で永遠で完全で良いのだと、気づかされるのです。となると自分自身が神の如く万能で永遠で、完全である必要がなくなります。つまり自分は出来ない事があり、欠けがあって、手にしている時間にも限りがあると気づかされる。限りがあるという事を覚えるなら、限界に対して自分が何処にいるのか、知る事が出来る、つまり自分のいる位置を知ることとなるのです。

今日、私たちはこの礼拝を召天者記念礼拝として守っています。この礼拝において私たちは天に召された方々を(神の如く)崇める、という事はしません。天に召されても人は何ら変わる事なく、神の前にあって私たちと同じ一つの存在だからです。でも私たちは、この礼拝において、先に天に召された方々を覚えることによって、自分自身の終わり、死を覚える事ができます。確かに主イエスは、私たちは死の後も命が続くと、自らの十字架の死と復活とをもって明らかにして下さいました。でもやはり、私たちは自分のこの世での命の時間には限度があります。私たちが信仰を持つのは、死んだ後の事が心配だからではありません、主イエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と話されました。自分の持っているこの世の命の終わりを知った私たちは、自分のいる場所を知ることが出来ます。だから後の残りの命を「良く」生きる事ができる。そのために信仰を持つのです。では、そんな有益で価値のある信仰を持つために、神を覚えるために、私たちはどうすれば良いのでしょうか。学べば信仰を得られるか、というとそんなことはありません。お金で買うことはできるのか、というとそれもむりです。修行の場に身を置き規則を遵守し禁欲的な生活をしても信仰は得られません。逆に離れていくのです。私たちが自分の力によって手に入れようとすればするほど、信仰は自分の手元から離れていきます。そうではなく受け入れる事、素直に受け止めることによって、私たちは信仰を与えられるのです。先ほど読みました御言葉は、その事を私たちに教えます。

さて、今朝与えられました御言葉を読み取る為に、私たちは少し前の箇所に目を留める必要があります。まず少し前の十一章の二十九節。「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。」とあります。主イエスの下に人が集まってきたと書かれている。ではなぜ多くの群衆が主イエスの下に集まって来たのか、というと、もう少し遡って十一章十四節にはこう書かれています。「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」主イエスは悪霊に取り憑かれている者を浄めます。そうして、その人は口が聞けるようになります。主イエスはその悪霊に取り憑かれた者を憐れまれ、その者を立ち上がらせるために手を差し伸べたのです。では、その様子を見た者たちはどうしたのか、というと、反応は真っ二つに分かれます。一方は主イエスに敵意を燃やして悪霊の頭ベルゼブルだと断罪します。悪霊の力によって悪霊を追い出しているのだと、彼らは主張するのです。もう一方の者たちは主イエスの下に詰め寄り「もっと奇蹟を見せてくれ」と迫ります。まるでマジシャンにそのトリックを教えてくれと迫り求める者たちの様に、彼らは主イエスにその手の内を明らかにさせようとするのです。なぜか、自分もその力が欲しいからです。つまりこの時、主イエスの下に集まって来た者たちは、主イエスの事も見ていないし、神も見ていない、癒やされた悪霊に取り憑かれていた男の事も見ていないのです。彼らはまったく自分の関心にしか興味がないのです。ですから主イエスは彼らを叱責します。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

ヨナのしるしとは、なにか、というと。それは旧約聖書のヨナ書に描かれています。

あるとき神は預言者ヨナに、悪に満たされた町ニネベに行けと命じます。しかしヨナはそれを断り「主の前からはなれ」船にのって反対方向に逃げます。しかし結局ヨナは船から海に放り出され、魚に飲み込まれ三日三晩過ごした後、その魚の腹の中で悔い改めます、神に赦しを乞うのです。そして魚に吐き出されるのですが、その吐き出された場所が神に行けと言われていたニネベの町でした。ヨナは町に入り人々に神の言葉を伝えます。すると、ヨナが考えていたのとは違い、人々は悔い改めるのです。まったく今までの生活を反省し、邪悪な習慣を断って、神に立ち戻るのです。そこで、神は下そうとしていた裁きを取りやめるのです。ニネベの人々は助かります。でもヨナは神に対して怒りをぶつけます。私はこんなに頑張って、命がけで神に言葉を伝えたのに、これでは私はまるで嘘つきではないか、と、そう憤るのです。これがヨナの物語です。では「ヨナのしるし」とはなにか、というと、ニネベの人々を滅ぼすために、神がニネベの町にめがけて天から火の玉を落として、跡形もなく消し去られるとか、疫病が起こして人々が死に絶えるとか、そんな目に見える事柄ではないのです。あれほど神に離反し邪悪だったニネベの人々が心から悔い改めたこと、まったく心を切り替えたこと、それが主イエスの話すヨナのしるし、です。主イエスは悪霊に取り憑かれた者を癒やし、彼は喋れるようになりました。人々はその目に見える事柄、つまり言葉を喋れるようになった、という目に見える事柄で主イエスを評価し、一方は拒否し一方はその力を欲しがるのです。でも主イエスは目に見えない本質に目を向けなさいと話されるのです。

ようやく今朝の御言葉に辿り着きました。そこで今朝の御言葉です。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」(ルカ福音書11:34)主イエスは「あなた方の目が澄んでいるなら」私の行う「しるし」を見る事ができる。と話されるのです。では「目が澄んでいる」とはどういう状態なのでしょうか。それは幼い子どもを見れば分かります。信頼している母の顔を見ているときは、その目はきらきらしています。でも他の人がその顔をのぞき込むと、その刹那に目は曇ります。疑っていない相手をみているとき、その目は澄むのです。心が素直なとき、その目は澄んでいます。

無垢である事、でも、大人になればなるほど、無垢である事は難しい事となります。なぜなら私たちは人生経験を経る度に欺(だま)され侮(あなど)られる経験を積むからです。何かを信じたなら食い物にされる。良いように操られる、そう知っているからです。全ての事に疑いを持つ事、それが賢いありかたなのです。でも、どうでしょうか。そんな賢い自分に満足しているとき、その目は輝いているでしょうか。そうではなく曇っているのです。どよんと陰っているのです。この世の事柄を疑うこと、それは大事な事だと思います、でも私たちは神を疑うべきではないのです。神の前には私たちは純朴であらねばならないのです。そして私たちが無垢に神を受け入れたとき、私たちはこの世の全ての事が、すべからく神の奇跡、つまり「しるし」である事に気づかされます。私たちが生きていること、呼吸していること、私たちの心が生き生きと呼吸していること、その全てが奇蹟であると気付かされるのです。その気づきと感謝は私たちの魂の内にあって光をとなります。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」(ルカ福音書11:35)私たちは自分の力で信仰を手に入れる事はできません。神に自分を差し出すことによって、神にまったく委ねる事によって、神を自分の魂に招き入れるのです。そうする事で私たちは信仰を与えられるのです。共に平安の内に歩みましょう。