礼拝説教原稿

2018年11月

「大地を踏みしめて」2018/11/11

ルカによる福音書3:1-14

誕生日というと、皆さんは何を思い浮かべますか。ケーキかな、それとも花束かな。でもやっぱりプレゼントだと思います。例えばお父さんお母さんからとか、友だちからとか、欲しかった物を買って貰う、それとも手作りのモノを貰う。それはとても嬉しい事です。私も子供の頃、誕生日は待ち遠しい日でした。誕生日だけは少々値段が高くても欲しい物を買ってもらえたからです。でも私は、大人になってからもっと嬉しい事があると知りました。それはプレゼントを渡すという事です。その楽しみは誕生日の随分前にプレゼントを用意する時から始まります。その人に何をあげれば喜ぶか、できるだけサプライズが良いので、それをじっくり探るのです。日頃の話しの内容とか、今興味があることとか、必要としている物を探って、で、気づかれないように買いに行きます。ちゃんとラッピングをして貰って、でバレないように家に持ち帰って隠しておくのです。そして誕生日の当日が来ます。プレゼントを渡すとき、その人の驚いた顔を見る事ができる。でも更にラッピングを明けて、その中身を見て喜んでくれたとき、喜ぶ笑顔を見る事ができるのです。自分が楽しいという事より誰かが楽しいと感じたり喜んでいる姿を見ることの方が楽しいことだと私は思います。プレゼントは貰うことも渡すことも楽しいのです。

さて、今日の礼拝を私たちは降誕前第7主日の礼拝として守っています。少し難しい言葉ですね。でも簡単にいうと「あと7回、礼拝を守るとクリスマスです。」という意味です。ではクリスマスってなんの日でしょうか。そう神さまの御子であるイエスさまの誕生日をお祝いする日です。イエスさまはお生まれになってから数日後に東の国から占星術の学者がやって来て、生まれたばかりのイエスさまに黄金、乳香、没薬を捧げたと、聖書には書かれています。私たちもこのクリスマスに3人の占星術の学者と同じようにイエスさまにプレゼントを捧げます。その私たちからのプレゼントがクリスマス礼拝です。私たちはそれぞれの心を神さまの前に差し出しクリスマス礼拝をイエスさまに捧げるのです。そのために私たちは試行錯誤して準備を進めています。教会学校ではクリスマスの祝会で演奏するためにハンドベルを練習しています。実は昨日の夕方にはクッキーの型枠の準備をしました。教会の玄関にクリスマスツリーを飾るのはアドベントが始まってからつまり十二月二日の日曜日からなのですが、その用意も始めています。さっき誕生日プレゼントの準備は楽しいと話しましたが、クリスマスは、だから楽しいのです。

でも、クリスマスには、私たちが捧げるだけではなく、私たちが与えられる喜びもあります。クリスマスに神さまは私たちに大切なプレゼントをくださいました。神さまは私たちを救う、救い主として、イエスさまをこの世に、そして私たち一人ひとりにプレゼントしてくださったのです。私たちはイエスさまを通して、神さまの思いを知ることができる様になりました。神さまは私たちを愛していると言うことが分かりました。それだけではなくイエスさまは私たちの心にへばり付いている(タールの様に)罪(悪い心)をきれいに拭き取って下さり、私たちは誰でも神さまの下に帰る事ができるように、してくださったのです。その様にして私たちを救われたのです。とはいえ、神さまがイエスさまをこの世界に住む全ての人にプレゼントされた、という事はそんなに簡単なことではありませんでした。そのために神さまは、長い時間を掛けて準備されたと聖書には書かれています。どの位の長い時間を掛けたのか、私たちがクリスマスの準備をするように1ヶ月とか、長くても二ヶ月とか、そんな短さではありません。二千年、もっと遡って神さまがこの世に人を創造された時から始まるのです。それは最初の人間として生まれたアダムとエバは神さまに嘘をついて、神さまの下から離れてしまった事に始まります。二人は神さまが食べてはいけないと話した木の実を食べてしまいます。そして神さまが作った楽園から放り出されます。でも神さまは、この二人を見棄てません。神さまはアダムとエバに向かって呼び続けます、さらにはその子孫たちつまり人間対して自分の下に帰ってくるように、声を掛け続けるのです。その神さまの声を伝える人の事を預言者と言います。神さまは何人も何人も、預言者をこの世に送りますが、でも、この世の人々は耳をふさぎます。神さまなんかいなくても、自分たちだけで生きられる、でもこの世はめちゃくちゃに混乱するのです。

そして、ついに神さまは最後の預言者をこの世に送ります。その人は洗礼者ヨハネと呼ばれる預言者です、その人の言葉が先ほど西澤先生が読んだ聖書に記されています。「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(ルカ福音書3:3)神さまの声に耳をふさぐ人たちは、この世の中を無茶苦茶に混乱させるのです。しかし、神さまは、そのデコボコになったこの世を平坦に均す仕事をヨハネに託します。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。:05  谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」(ルカ福音書3:4-5)

神さまは、この世の人が自分の下に戻ってくる事ができるように、最後の手段を取られました。そのために、もう言葉ではなく御自分の独り子であり御自分と等しい(同じ)存在であるイエスさまをこの世に送ろうとされたのです。でもその前に先ず洗礼者ヨハネという預言者をこの世に送って、人々の心を整えさせます。準備をされる。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と書かれている通りです。デコボコの地面って歩きにくいのです。足を挫いたり、転んだりする。でも地面の石を取って、均して平らにして道を作ると歩きやすくなります。同じように、洗礼者ヨハネは人々がイエスさまの言葉を聞きやすくする為に、人々の心の中のデコボコを均して平らにしたのです。そして人々はその道を踏みしめて、イエスさまの所に向かう事が出来る様になったのです。その様にしてこの世に送られたイエスさまは、私たちの代わりに罪を負われ十字架に付けられ死なれました。そうやって私たちの罪を神さまの前に帳消しにして下さったのです。でもそれだけではなくイエスさまは復活されました。神さまの前に悔い改めれば、まったく全てを手放しても神さまは新しい命をくださると、この復活を通して表されたのです。私たちはこのイエスさまに倣う事によって、救われるのです。この洗礼者ヨハネですが、ヨハネの母エリザベトはイエスさまの母マリアと親戚同士の関係です。そして洗礼者ヨハネはイエスさまが生まれる数ヶ月前に生まれるのです。こんな所からも神さまが十分に用意されて、イエスさまをこの世に送り出されたことが分かります。

さて、このクリスマスに私たちはイエスさまの誕生をお祝いします。でももう一つ、神さまが私たちにイエスさまをプレゼントして下さった事を「ありがとうございます」と感謝しましょう。このクリスマスの準備の時を共にそして神さまとも共に喜び会いましょう。

「あなたの心を照らす信仰」 2018/11/4

ルカによる福音書11:33:41

夜に海に行きますと、だいたい何処であっても、一つや二つの灯台の明かりを見る事が出来ます。この灯台の光ですが一つ一つの灯台で点滅する間隔が違うという事はご存じでしょうか。正確には一つ一つ、光の質や強さも変えてあるのです。ある漁師の方が話してくれたのですが、魚を穫る漁師は夜中の暗闇のなかで船を操るとき、遠くの幾つかの灯台の光の点滅する間隔を見るのだそうです。そしてそれが何処の灯台の光かを確認して自分の船の位置、つまり漁をする場所を決めるのです。最近はどんな小さな船にもGPSと魚探が積んであるそうですが、そんなものにあまり頼らないのだそうで、最新の機器よりも蓄積された経験と勘の方が当てになるのだそうです。大海に漂い真っ暗な夜の闇に包まれていても、あんな小さな光だけで自分のいる場所を確認する事ができるというのは、すごい事だと思います。

そして私たちにとっての信仰も、この灯台の光と同様に、自分が今どこにいるのか、を教えてくれる指標になります。つまり私たちが聖書を読んだり祈ったり、礼拝を捧げ、神を覚えるとき、私たちは神だけが万能で永遠で完全で良いのだと、気づかされるのです。となると自分自身が神の如く万能で永遠で、完全である必要がなくなります。つまり自分は出来ない事があり、欠けがあって、手にしている時間にも限りがあると気づかされる。限りがあるという事を覚えるなら、限界に対して自分が何処にいるのか、知る事が出来る、つまり自分のいる位置を知ることとなるのです。

今日、私たちはこの礼拝を召天者記念礼拝として守っています。この礼拝において私たちは天に召された方々を(神の如く)崇める、という事はしません。天に召されても人は何ら変わる事なく、神の前にあって私たちと同じ一つの存在だからです。でも私たちは、この礼拝において、先に天に召された方々を覚えることによって、自分自身の終わり、死を覚える事ができます。確かに主イエスは、私たちは死の後も命が続くと、自らの十字架の死と復活とをもって明らかにして下さいました。でもやはり、私たちは自分のこの世での命の時間には限度があります。私たちが信仰を持つのは、死んだ後の事が心配だからではありません、主イエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と話されました。自分の持っているこの世の命の終わりを知った私たちは、自分のいる場所を知ることが出来ます。だから後の残りの命を「良く」生きる事ができる。そのために信仰を持つのです。では、そんな有益で価値のある信仰を持つために、神を覚えるために、私たちはどうすれば良いのでしょうか。学べば信仰を得られるか、というとそんなことはありません。お金で買うことはできるのか、というとそれもむりです。修行の場に身を置き規則を遵守し禁欲的な生活をしても信仰は得られません。逆に離れていくのです。私たちが自分の力によって手に入れようとすればするほど、信仰は自分の手元から離れていきます。そうではなく受け入れる事、素直に受け止めることによって、私たちは信仰を与えられるのです。先ほど読みました御言葉は、その事を私たちに教えます。

さて、今朝与えられました御言葉を読み取る為に、私たちは少し前の箇所に目を留める必要があります。まず少し前の十一章の二十九節。「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。」とあります。主イエスの下に人が集まってきたと書かれている。ではなぜ多くの群衆が主イエスの下に集まって来たのか、というと、もう少し遡って十一章十四節にはこう書かれています。「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」主イエスは悪霊に取り憑かれている者を浄めます。そうして、その人は口が聞けるようになります。主イエスはその悪霊に取り憑かれた者を憐れまれ、その者を立ち上がらせるために手を差し伸べたのです。では、その様子を見た者たちはどうしたのか、というと、反応は真っ二つに分かれます。一方は主イエスに敵意を燃やして悪霊の頭ベルゼブルだと断罪します。悪霊の力によって悪霊を追い出しているのだと、彼らは主張するのです。もう一方の者たちは主イエスの下に詰め寄り「もっと奇蹟を見せてくれ」と迫ります。まるでマジシャンにそのトリックを教えてくれと迫り求める者たちの様に、彼らは主イエスにその手の内を明らかにさせようとするのです。なぜか、自分もその力が欲しいからです。つまりこの時、主イエスの下に集まって来た者たちは、主イエスの事も見ていないし、神も見ていない、癒やされた悪霊に取り憑かれていた男の事も見ていないのです。彼らはまったく自分の関心にしか興味がないのです。ですから主イエスは彼らを叱責します。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

ヨナのしるしとは、なにか、というと。それは旧約聖書のヨナ書に描かれています。

あるとき神は預言者ヨナに、悪に満たされた町ニネベに行けと命じます。しかしヨナはそれを断り「主の前からはなれ」船にのって反対方向に逃げます。しかし結局ヨナは船から海に放り出され、魚に飲み込まれ三日三晩過ごした後、その魚の腹の中で悔い改めます、神に赦しを乞うのです。そして魚に吐き出されるのですが、その吐き出された場所が神に行けと言われていたニネベの町でした。ヨナは町に入り人々に神の言葉を伝えます。すると、ヨナが考えていたのとは違い、人々は悔い改めるのです。まったく今までの生活を反省し、邪悪な習慣を断って、神に立ち戻るのです。そこで、神は下そうとしていた裁きを取りやめるのです。ニネベの人々は助かります。でもヨナは神に対して怒りをぶつけます。私はこんなに頑張って、命がけで神に言葉を伝えたのに、これでは私はまるで嘘つきではないか、と、そう憤るのです。これがヨナの物語です。では「ヨナのしるし」とはなにか、というと、ニネベの人々を滅ぼすために、神がニネベの町にめがけて天から火の玉を落として、跡形もなく消し去られるとか、疫病が起こして人々が死に絶えるとか、そんな目に見える事柄ではないのです。あれほど神に離反し邪悪だったニネベの人々が心から悔い改めたこと、まったく心を切り替えたこと、それが主イエスの話すヨナのしるし、です。主イエスは悪霊に取り憑かれた者を癒やし、彼は喋れるようになりました。人々はその目に見える事柄、つまり言葉を喋れるようになった、という目に見える事柄で主イエスを評価し、一方は拒否し一方はその力を欲しがるのです。でも主イエスは目に見えない本質に目を向けなさいと話されるのです。

ようやく今朝の御言葉に辿り着きました。そこで今朝の御言葉です。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」(ルカ福音書11:34)主イエスは「あなた方の目が澄んでいるなら」私の行う「しるし」を見る事ができる。と話されるのです。では「目が澄んでいる」とはどういう状態なのでしょうか。それは幼い子どもを見れば分かります。信頼している母の顔を見ているときは、その目はきらきらしています。でも他の人がその顔をのぞき込むと、その刹那に目は曇ります。疑っていない相手をみているとき、その目は澄むのです。心が素直なとき、その目は澄んでいます。

無垢である事、でも、大人になればなるほど、無垢である事は難しい事となります。なぜなら私たちは人生経験を経る度に欺(だま)され侮(あなど)られる経験を積むからです。何かを信じたなら食い物にされる。良いように操られる、そう知っているからです。全ての事に疑いを持つ事、それが賢いありかたなのです。でも、どうでしょうか。そんな賢い自分に満足しているとき、その目は輝いているでしょうか。そうではなく曇っているのです。どよんと陰っているのです。この世の事柄を疑うこと、それは大事な事だと思います、でも私たちは神を疑うべきではないのです。神の前には私たちは純朴であらねばならないのです。そして私たちが無垢に神を受け入れたとき、私たちはこの世の全ての事が、すべからく神の奇跡、つまり「しるし」である事に気づかされます。私たちが生きていること、呼吸していること、私たちの心が生き生きと呼吸していること、その全てが奇蹟であると気付かされるのです。その気づきと感謝は私たちの魂の内にあって光をとなります。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」(ルカ福音書11:35)私たちは自分の力で信仰を手に入れる事はできません。神に自分を差し出すことによって、神にまったく委ねる事によって、神を自分の魂に招き入れるのです。そうする事で私たちは信仰を与えられるのです。共に平安の内に歩みましょう。