礼拝説教原稿

2018年10月

「もう思い悩まない」2018/10/28

ルカによる福音書12:13-31

建築現場に組まれている足場に上るとき、必ず必要なモノはヘルメットと安全帯です。安全帯とは腰に巻く太いベルトの事で、そこにフックの付いた太いロープが繋がっています。このフック鉄パイプに引っかけてから、上っていくわけです。要するに足を滑らせても地面に落ちないようにする為の防具です。そうして安全帯を引っかけながら足場を上ると、たとえ高い所まで上っても足が竦(すく)む様な事はありません、たぶん安全帯に繋がっているロープは大人一人の体重を支えるにはギリギリの強度しかないのですし、足場だってそれほど頑丈なものではないのです。でも、その一本のロープが鉄パイプに繋がっているというだけで、手すりもない、足下も危うい高い所に立っても怖くない、安心なのです。

安心、私たちにとって日常的に覚えている安心とは、そんなものかもしれません。安全帯に繋がっているロープは絶対に切れないと信じるように、明日は今日と同じ一日であると私たちは信じています。では心から安心できているのか、というとそれは疑問です。なぜなら私たちは明日を知ることはできません。真っ暗闇の中を耳栓をして、手探りで歩いている、それが私たちの毎日だからです。ですから私たちは時々我に返って不安になるのです。そして自分を繋いでいるロープを太くしようと考えます。例えば貯蓄をする、資格を取り手に仕事を持つ、勉強して知識を身につける、地位を確立する、人間関係を広げる、宝くじを買う、私たちのそれぞれが様々な手段を画策し、実行します。では、それで万全かというと、そんな事はありません。ロープが太くなれば、取り回しが悪くなって動き辛くなります。つまり、ある程度の蓄積を手にすると逆にその蓄積を守る必要が生じるからです。一度手にした地位や生活習慣を手放したくないと望むようになる。それは年齢を重ねれば重ねるほど、手放すことが難しくなるのです。どんな過重が掛かっても切れない、しかもしなやかなロープを手に入れること。では、それが私たちを、毎日の不安を解消させる答なのでしょうか。でも、この世の中の何処を探しても、そんなものは存在しないのです。だから私たちは、「これはきっと切れないしなやかなロープだ」と自分を誤魔化し使い続けるしかないのです。そんな出来損ないの不完全なロープを、それでも奪い合って、生き続けている。それが私たちの現実なのです。でも神は、そんな私たちを見て、その悲惨から救いだされます。そもそも私たちが不安になる原因、つまり明日がどうなるか分からない、その事を解消されるのです。それはどの様な手段によってか、共に御言葉に聞いていきます。

さて、先ほど読みました御言葉は、ルカによる福音書十二章十三節以下です。この時、主イエスは大勢の群衆に囲まれ、足を踏み合うほどであった、と聖書には書かれています。その中の一人が主イエスに尋ねます。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」

この当時、ユダヤ社会にあって兄弟の中で長男の権限は絶対でした。親の財産はすべて長男に継がれ、弟たちは長男に従う事になります。創世記のヤコブに物語には、ヤコブの兄エサウがレンズ豆の煮物の代わりに長男の権利をエサウに譲り渡した場面が描かれています。聖書は「こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。」と、まるでエサウが重大な犯罪を犯した事の様に書くのですが、それは、それほどまでに長男の権威の維持が、絶対的な定めであったからです。理不尽な取り決めのようにも受け取れますが、これもユダヤ人の知恵で、彼らは兄弟同士の相続争いは他人同士の争いより凄惨(せいさん)な結果を生む事を彼らは知っていたので、この様な取り決めを戒律として定めたのです。とはいえ、そうは言っても長男は他の兄弟に財産を分配するのです。そうしなければ他の兄弟は生活できなくなる。現代のように職業選択の自由なんて権利はないので子は親の職業を継ぐしかない。兄弟が助け合って代々継いできた仕事を兄弟で力を合わせて切り盛りしていく。それがあるべき家族のあり方だからです。でもこの、主イエスに願い出た者の兄はそうしませんでした。長男は弟に財産を分け与えなかったのです。この様な問題について、解決の為の仲裁に入るのは、律法に精通している律法学者の仕事でした。兄弟の間に感情的な確執があったとしても、第三者であり権威ある学者の言葉には従わざるを得ない従わなければ神の命に背く者として、自分たちの住む周辺共同体から追い出されてしまうからです。でも、たぶんこの弟の兄は、律法学者の言葉にも耳を傾けなかったのだと思います。よほど確執の根が深かったのか、それは分かりません。だから弟は主イエスに願い出たのです。この人であるなら、何とかしてくれるのではないか。このままでは自分は野垂れ死んでしまうのです。彼はファリサイ派や律法学者を言い負かし、言葉に力のあるこの方なら、自分の問題を解決してくれるだろうと、そう考えるのです。

では、弟の言葉に対して、主イエスはなんと答えたのか、主イエスは「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と答えられるのです。なんか、とても冷たい言葉のようです。更に主イエスは、彼ではなく周りにいた人々に向かって「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」と話します。まるで、この弟が貪欲で在るかの様に非難する言葉のようにも、受け取れます。では主イエスは弟の必死な思いを蔑ろにされたでしょうか。そうではありません。原文を読むと少し印象が違うのです。聖書には、この返事の最初に「友よ」という呼びかけの言葉が入っています。つまり主イエスは「友よ、だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と話しているのです。つまり、今私があなた方に話しているこれらの言葉は、この世の人間関係に於けるトラブルについてではない、と。つまり裁判官や調停人によって解決されることではないと「友よ、ちゃんと私の話を聞きなさい」と話されているのです。

ではなぜ主イエスはこの様に話したのか、というと、主イエスは、目の前で話しを聞いている彼が、主イエスの話しを聞いているようで聴いていないことに気づいていたからです。彼は自分の抱えている問題、つまり、兄が財産を自分には分けてくれなかったこと、自分は明日から路頭に迷うことになること、たぶん彼の家族も生活に困窮する事に心を奪われている。明日からどうなるか分からない、そんな不安に心を奪われて、心ここにあらず、主イエスの言葉を聞いていない事に気づいているのです。この世の事情、つまり「貪欲」に心を奪われて、目の前の主イエスの言葉を聞くことが出来ない、神に目を向けることが出来ない、その事を主イエスは指摘するのです。主イエスは主イエスの周りに集まっている人々に話します。たぶん、この男も目の前に留まっています。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」(ルカ福音書12:16)この金持ちは、この世の財産を見て安心しているのです。これで自分の命が保たれると、もう大丈夫だと。でも彼の財産は彼の命を保証するものではないのです。財産によって命がわずかでの長らえる事はないのです。同じように、主イエスはこの弟にたいして、今聞くべき事を聞きなさいと、話されるのです。あなたの命を保証しないこの世の遺産ではなく、あなたの命を生かす目の前の、私の言葉を聞きなさい、と主イエスは話されるのです。

この世の何ものかを手にする事に依って、安心を得ることは出来ないのです。使い切ることの出来ない程の財産も、知識も地位も、それを手に握りしめる事によっても、私たちは安心する事はできないのです。逆にそれらを失う事を恐れて逆に不安になるのです。ではどうすれば良いのか、主イエスはなんと答えられるのか。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(ルカ福音書12:23−25)すべてを既に与えて下さり、これからも与えて下さる神に信頼し、自らを委ねなさい任せなさいと。その時あなたは本当の安心を手にすると、主イエスは話されるのです。

神はこの世の最初から最後まで、この世のすべてを創造される方です。その神が私たち一人ひとりを愛し生かされています。それも生半可な愛ではありません。自らの独り子を十字架に掛けて献げても貫かれた愛です。主イエスはこのように話します。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。」(マタイ福音書7:9)神の愛を疑い、神との関わりに反発するとき、私たちは不安を与えられるのです。逆に神との関係を回復すること、その愛に応じる事によって私たちは安心を得るのです。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」(ルカ福音書12:31)神との関係に立ち戻りなさい。そう主イエスは話されます。

私たちは思い悩みます。正直、これから様々な事についてどうなるか、不安を覚えるのです。そしてその不安を、自分の力で克服しようと頑張るのです。でも自分の力に頼っている限り、決して安心を得ることはできません。やればやるほど、不安は募り、やり残している事に更に不安をかき立てられるのです。でも、そんな時、私たちは今日の言葉を思い出すのです。「ただ、神の国を求めなさい。」最終的に神が為さるようになる。神が全ての事を用いて下さるのだから、私たちは安心して、今、やるべき事をすれば良いのです。神の前に忠実に、祈りつつ、聞きつつ行うなら、自分の思惑とは違う方向に進んでも、必ず良い実が結ばれるのです。

「あなたは幸いです」2018/10/21

マタイ福音書5:1-12

教会学校の夏期学校とかキャンプとか、子供を連れて野外に行くとき、看護師の資格を持っている方に同行していただくと、とても助かるのです。例えば子供が怪我をして泣いているとき、私が「そんなケガ大丈夫だよ」と言っても泣き止まないのですが、看護師が「大丈夫」というと、すぐに泣き止むのです。お腹が痛いとか気分が悪い、という症状についても看護師が「大丈夫」というと、その一言でたいてい治ります。下手な薬より効果があります。なにより子どもたちは安心した表情になるのです。この看護師の「大丈夫」に一言には力があると、何時も感心させられました。でも最近、医師は「大丈夫」とは言わないそうです。「大丈夫」と言った後に病状が悪化するなら責任問題になる、下手をすると訴えられるから、だ、そうです。学校の教師も同じく大丈夫だとは言わないそうです。「大丈夫」という言葉が生徒にプレッシャーを与えるから、だ、そうです。なんとも難しい世の中です。そもそも、人間関係においても「大丈夫」という言葉は使われなくなったように思います。

しかし教会は確信をもって「大丈夫」と言います。なぜなら教会のこの世での役割は、神の愛を宣言することだからです。「この世の何ものもあなたに大丈夫と言わなくても、神さまはあなたに大丈夫と言っています。」と、この世の全ての人に伝えること、それが私たちたち信仰者の伝道なのです。私も教会に尋ねて来られた方に「大丈夫」という言葉を使います。でもそれは私が相手の事を全て分かっているからではありません。いまどうなっていてこれからどうなるか、そんな事はわかりません。でも、神が私たちをそのままで大丈夫だと、自分の愛する幸いな子供だと、言っているのです。これ以上確かな事はないのです。神が太鼓判を押している私たちは何があっても大丈夫なのです。

さて、今朝、与えられましたマタイ福音書5章1節は「山上の説教と」よばれる御言葉です。たぶん多くの方は、この聖書の御言葉をお聞きになったことがあると、思います。この場面で主イエスは集まって来た民衆に「あなた方は幸いです」と話すのです。でもその言葉は、彼らがいままで聞いてきた預言者や祭司や、教師の役割を担っていたファリサイ派の人たちの言葉とはまったく違う言葉だったのです。

主イエスが多くの群衆を前にして、この御言葉をお話しになった場所は、カファルナウムから西へ300メートルほどいった小高い丘の中腹にあります。現在では山上の垂訓教会という教会が建てられています。この小高い丘の上に、息を切らせながら登るなら、眼下に広くガリラヤ湖を望むことが出来ます。また遠くにはティベリアの町が見えます。以前、私が行った時は乾期だったので、丘の上は一面、枯れた草に覆われていました。でもよく見ると、ただ枯れているだけではなく、花が咲いたまま乾燥して見事なドライフラワーになっていました。(ちなみに教会のHPに使われている花は、この場所に咲いていた花です。)この地域では、雨期は年間で2ヶ月ほどしかないのですが、一雨降った後には、この丘の上には色とりどりの花が一斉に咲くのだそうです。主イエスがなぜ、この場所に来られて人々に話されたのか、というと、ここには広い乾燥した平原が広がっていたからだと、気づかされます。狭い広場しかないガリラヤ湖岸と違い、ここは広くなだらかな傾斜のある場所です。数百人位の人たちが集まる事ができます。また勾配があり高い所に立つなら、丘の上から湖に吹く風を使って、多くの人に十分に声を届けることが出来るのです。でもなぜ、それほど多くの人々がこの場所に集まって来たのでしょうか。主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、四十日四十夜の誘惑を受けられ、その後にナザレで伝道をはじめられました。ゲネサレト湖畔で弟子をとられた後、ガリラヤ中の会堂で教え、ありとあらゆる病気を癒やされたと、聖書には書かれています。では人々は主イエスから病の癒しを受ける為に、この丘に集まって来たのでしょうか。でも、この場面で主イエスは何らかの奇蹟を行われたとは書かれていないのです。やはり人々は主イエスの言葉を聞くために、ここに集まったのです。

主イエスは集まって来た多くの人に向かって話されます。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ福音書5:3)でも、この箇所の原文を見てみると、主イエスはもう語調を強くして話している事がわかります。原文に近づけて訳すなら。「なんと幸いなのだろう、心の貧しい人は、神の国は彼らのものだ」主イエスは言葉の初めを先ず「幸いだ」と切り出します。その表情は喜びに満ちていたと思います。目の前に座っている人たちに対して、主イエスは、あなた方は幸いだ、大丈夫だと話したのです。

①「幸いだ、心の貧しい人は」、心が貧しいとは、心が豊かではないという事です。つまり心が満たされていない、余裕がないという意味です。その人は目の前の主イエスの言葉で、その欠落を補填させられるのです。それに対して心が豊かな人は心が本当は欠けているのに、その欠けをこの世のモノで補填しているので主イエスの言葉を頂くことが出来ない事になります。つまり主イエスの言葉が聞きたくて集まって来たあなた方は幸いです、天の国はあなた方と共にあります。そう、ここで話したのです。

②「幸いだ、悲しむ人々は、その人たちは慰められる。」私たちは悲しんでいる人にむかって「おめでとう」とは声を掛けません。でも主イエスはここで彼らに幸いだと話します。先ほどのケガをした子供ですが、どうして泣くのか、というと、目の前に人がいるからです。結構、誰も居ないところでは転んでも泣きません。つまり私たちは、悲しみを受け止めて心配してくれる相手がいるから、悲しむ事ができるのです。そして今、主イエスが目の前にいます。この世の何ものも寄り添ってくれなくても、これからは神が心に寄り添ってくれる、だからこれからは、安心して悲しむ事ができるのです。

③「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」柔和な人とは、イライラしない人、自己主張を抑える人のことです。でも、今の世の中を見回しても、イライラして主張して肩から割り込んでいく人の方がこの世の支配権を手にしています。彼らの方が地を受け継ぐ者だと思えるのです。でも主イエスはそうではないと話します。自己主張するこの世の権威を持つ者たちではなく、今、主イエスの言葉を静かに聞いている人、言葉を聞くことが出来る人に神は命を与え、この世の世継ぎとされると、話すのです。

④「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」この世は様々な正義に満ちています。この世の判断や評価を物差しにして、正しさを計るなら、自分の正しさと相手の正しさがぶつかり合い争うこととなるのです。ではどうすれば争いが終結するのかと言うなら、ただ一つの正しさを皆が受け入れれば良いのです。それは神の前に於ける正しさです。これを聖書では「義」と言います。そして今、ここで主イエスの言葉を聞いている人々は、確かな義を手に入れることができているのです。私たちは神の義を直接、知ることはできませんが、主イエスの言葉を通して神の義を間接的に知るのです。そこに幸いがあるのです。

⑤「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」憐れみとは自分を失っても相手を生かす愛の事です。同情とか不憫がられる事ではありません。愛を相手に捧げる事ができる人は、愛を受け取ることができる。愛とは相互関係だからです。そして神はこの世の人を憐れみ、この世に主イエスを遣わしたのです。私たちがその主イエスを愛する時、また私たちは神から愛される者となるのです。

⑥「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」心が清いとは、心が汚れていない、子どもの様に素直である事、雑念を持たず、信じる心を持っている者、その様な者は神を見るのです。つまり、彼らは主イエスの背後におられる神を見ることができた、だから主イエスに従い、ここに座っているのです。

⑦「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」平和とは戦争や争いがない状態を示す言葉ではありません。この世は争いに満ちています。その原因は一つです。お互いの利害の不一致によって争いは起こるのです。ですからこの世の力で平和を作り出すことはできません。どの様な手段を以てしてもその手段がこの世の利害になるからです。ではどうすれば良いのか、というと、この世の利害を超えた交わりをこの世に作り出す事です。この山上の説教を聞いている者たちも、自分の利害でここに来ているわけではないのです。ただ、主イエスを仰いでここにいる。つまり、この場において、彼らは神に属する者、神に帰属する存在なのです。

⑧「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」神の前の正しさ、つまり義を知った者は、この世にあっても義を証言する者となります。でもこの義はこの世からは疎まれるのです。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。」(マタイ福音書6:24)とあるように、私たちも二人の主人に仕えることはできないからです。しかしそれは迫害という結果に繋がるのです。しかし私たちが神の義をこの世に話すとき、私たちは天の国に属する者となるのです。

主イエスは御自分の下に集まって来た者たち一人ひとりに、あなたは幸いだと、宣言されました。これから大丈夫になる、ではありません。戒律を守れば大丈夫になるのでもない。今、この丘のこの草原に座って私の言葉を聞いているあなた方は幸いだ、と主イエスは話すのです。

私たちも同様です。私たちが今、この礼拝の場で主イエスの言葉を聞いているこの時に、私たちは神から太鼓判を押されています。私たちは「神が共にいるから大丈夫」なのです。

「それで良い」2018/10/14

マルコによる福音書14:66-72

鳥たちの声に起こされ新しい朝を迎える、というと、とても優雅な生活の様に思えます。私が去年まで住んでいた三宅島はバードアイランドと呼ばれ二五〇種以上の野鳥が生息していました。島には野鳥の天敵のヘビがいないので、卵が荒らされることがなく、鳥たちに取っては住みやすい環境なのです。特に春は早朝から鳥たちが鳴き始めます。でも、正直、美しい声というより、とても騒がしかったのです。まだ日も出ていない時間から何度も、半ば強制的に起こされました。そして鶏(にわとり)も、島では烏骨鶏を飼う農家が幾つかありました。まだ朝日が上るより随分早い時間に鳴き始めていました。一般的に鶏は日の出の二時間前、つまり大体四時頃鳴く鶏の声を一番鶏と呼ぶそうです。

さて、聖書の物語の中で「鶏」というと、今朝、与えられました御言葉が思い出されます。ペトロが主イエスに予見された通り、二度鶏が鳴く迄に三度主イエスの事を知らないと話した、あの記事です。尊敬し愛し、たとえ自らの命を投げ打ってでも、貴方に従うと言い切っていたペトロは、なぜ人々の前で「主イエスの事など知らない」と、主イエスを裏切る言葉を言い放ったのでしょうか。ペトロは薄情だったからなのか、それとも狡猾だったからか、まったくそうではないのです。彼は驚くことがあれば驚き、喜ぶことがあれば喜ぶ。自分の心に素直で感情をすぐに言葉に出す、漁師という職人気質、竹を割ったような性格です。そんな彼の純粋で単純な性格が聖書には描かれています。つまりペトロはイスカリオテのユダの様に主イエスを裏切った訳ではないのです。そうではなく、彼は主イエスから逃げたのです。自分の力ではどうしようも無くなって逃げ出したのです。それがペトロなのです。でも、だから彼は、主イエスが捕らえられた後、誰よりも苦しんだのだと思います。一番弟子として、誰よりも真っ直ぐに主イエスに従ってきたにも関わらず、いざ事が起こったときに、何も出来ない。だけではなく逃げてしまう。彼は自分の無力さ不甲斐なさに打ちひしがれるのです。

主イエスは過越祭の夜、エルサレムの市内で食事を取った後、オリーブ山の中腹にあるゲッセマネの園で祈りを捧げている間、何百人もの祭司長たちの下役が周りを囲まれ、まったく抵抗することもなく、捕らえられます。主イエスが捕らえられた時、弟子たちは、「イエスを見棄てて逃げてしまった」と聖書には書かれています。でも、その逃亡は非常に容易だったのだと、そう思えます。なぜなら祭司長、そして下役たちは、雑魚は放って置けば良いと考えていたからです。では、その場を逃げたペトロはどうしたのか、というと、どこか遠くに逃げ隠れたわけでは無いのです。深夜の暗闇に紛れて、彼は彼らを捕らえに来た下役たちの間に紛れるのです。イスカリオテのユダが主イエスに近づいて、その手に接吻をしなければ、その人が主イエスであると分からない程の暗闇です。それに弟子たちは相手にされていなかった。容易い事だったのです。そして、彼らは大祭司カイアファの屋敷に主イエスを連れて向かいます。このカイアファの屋敷はエルサレム市内の南西、丁度主イエスと弟子たちが過越の食事をした家から百五十メートルしか離れていない場所にあります。彼らはオリーブ山を下り、ケデロンの谷を渡り、住民を起こさないように黙ったまま暗闇の中をエルサレム市内に入るのです。ペトロは、わずか数時間前に主イエスと共に歩いた道を、今度は逆方向に歩くのです。さっきは過越の食事を腹一杯食べ葡萄酒を飲み上機嫌で歩いてきた道を、今度は、絶望と失意に心を押しつぶされながら、歩くのです。

カイアファの屋敷についた主イエスはすぐに最高法院の裁判に掛けられます。彼は七一名の議員の真ん中に立たされ尋問を受けるのです。でも主イエスはその場にあっても、まったく揺るがず毅然として立ち、ただ真実だけを話すのです。

一方ペトロは、カイアファの屋敷の中庭で、下役たちに紛れて彼らと共に、火にあたっています。まるで自分も主イエスを捕らえた下役の一人で在るかの様に、振る舞い、その場に溶け込んでいます。でもなぜ、ペトロは身の危険を冒してまで、カイアファの屋敷の中庭に居続けたのでしょうか。主イエスの事が心配だったからでしょうか。しかし、そうではない様に思えるのです。彼は自分の事、そして弟子たちのリーダーとしての責任から、他の弟子たちや仲間たちの事が心配したのではないか、裁判で自分たち弟子たちの罪過も取り上げられ、自分たちも追われ事になるかもしれない。その事を恐れているように思えるのです。ですからペトロは、自分の正体が大祭司の女中に知られたとき、即座に主イエスとの関係を否定するのです。「ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。」(マルコ福音書14:67-68)

私は主イエスとは関わりのない者だ。この時ペトロの心の目は、まったく主イエスには向けられていないのです。その目は完全に自分の身の安全に向いています。ペトロはたき火から離れて暗い出口の方に行きます、そこで一番鶏が鳴きます。徐々に空が白み始め、闇が明けてきます。女中は今度はしっかりペトロを見て、周りの人に「この人は、あの人たちの仲間です」と言い始めます。周りの人々の目がペトロに向かいます。ペトロは再びその言葉を打ち消すのです。しばらくして、別の人がペトロに向かって言います。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」この言葉にペトロはムキになって言い返します。「あなたたちの話しているそんな人を見たこともない、本当だ、もし嘘だったら、神に呪われてもいい。」この言葉をペトロが言い放ったとき、鶏が鳴きます。

この時、ペトロは主イエスの言葉を思い出すのです。

主イエスは過越の食事を終えた後、オリーブ山に向かう途中で、この様に話します。「するとペトロが、『たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』皆の者も同じように言った。」(マルコ福音書14:29-31)ペトロは、主イエスの言葉を思い出して愕然とします。主イエスは前から全てを知っていたのです。自分が今此処で主イエスを三度、否む事を。それだけではありません。主イエスはこの時のペトロの心のあり方まで、分かっていたとペトロは気づきます。つまり、最高法院の法廷で主イエスが戦っている時に、ペトロは自分の命の事を心配するだろうことを、主イエスは知っていたのです。

ペトロはいきなり泣き出したと、聖書には書かれています。ペトロは自分の心の弱さ、狡さを思い知らされて、悔しくて泣くのです。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』と誓った同じ口で、「あなたたちの話しているそんな人を見たこともない」と言い放った自分の無力さが悔しいのです。でも、ひとしきり泣いたあと、彼の涙は自分に対する悔しさの涙から、主イエスを慕(した)う涙に変わったのだと思います。主イエスはすべてを分かっていて、それでもまだ自分を弟子としてくれていた。すべてが分かっていて、それでも受け止めて下さり許して下さっていたと、気づかされたからです。ペトロはこの時、躓きと悔い改めを与えられるのです。完全に彼は砕かれます。そして、ペトロが聞いた一番鶏の鳴き声は朝の始まりを告げる声です。この鳴き声と共にペトロの新しい歩みが始まります。ペトロはこの出来事を通して、この後始まる十字架の出来事の意味を知る事となります。主イエスの十字架は失敗でも行き詰まりでもしくじりでも無く、神の救いの計画の内にあることだと。そして何よりも、その計画の動機が神の愛であると、ペトロは知る事となるのです。

主イエスがペトロの心の内をすべて知っていて、それでもペトロを愛されたように、主イエスは、私たちの心の奥底まで知っていて、それでも私たち一人ひとりを愛して下さいます。私たちが逃げようが背こうが拒もうが、それでも主イエスが私たちを自分の子として、守られ導かれるのです。私たちはその神の御腕に包まれています。

「底の底に神は下る」2018/10/7

マルコによる福音書14:53-65

ゲッセマネの園で主イエスは捕らえられます。祭司長たちに遣わされた何百人もの下役(今で言うところの警官)たちに囲まれ、まるで強盗が取り押さえられる様に、主イエスは取り押さえられます。下役の一人が剣で切りつけられ片耳を落とす、というアクシデントはありました、けど、主イエスは彼に、剣を納めるように促すのです。弟子たちやそこに集まっていた者たちは、暗がりに紛れてその場から逃げ出します。でも、彼らは、あっさりと逃げ出す事ができるのです。なぜなら捕らえに来た者たちの目は、ただ主イエスに注がれていたからです。下役たちは、弟子たちの事などまったく気にしていないのです。それほどまでに捕らえに来た者たちは主イエスを恐れていました。主イエスだけ取り押さえてしまえば残りの者たちは何もできない。ただの取り巻きに過ぎないと下役たち、そして彼らに命を下した祭司たちは、考えていたのです。では主イエスは、捕らえに来た下役たちに何らかの抵抗をしたのか、というとそうではないのです。主イエスは屠り場に引かれていく羊の様に縄を掛けられ、静かに連れて行かれます。自分を裏切った、目の前に立っているイスカリオテのユダに対して憤(いきどう)ることなく、弟子を嗾(けしか)けて戦わせる訳でもありません。さらには奇蹟的な業を用いて、つまり聖書に書かれている預言者たちがしたように、天から炎を降らせることも、大地を揺らすようなこともされません。なにも起こらず、静かに、事は終わるのです。

捕らえられた主イエスは大祭司カイアファの屋敷に連れて行かれます。そして、すぐに祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来て、最高法院が開かれます。真夜中、既に明け方に近い時間であるにも関わらず、すぐに議会は開かれます。大祭司カイアファについて、当時のユダヤにあって彼の政治的な権限はユダヤの王のそれよりも大きいものでした。大祭司はローマの総督によって任命され、最高法院の議長の役割を担います。この最高法院(サンヘドリン)は七十名の議員たち、祭司たち、長老、律法学者と議長である大祭司からなる、ユダヤに於ける最高裁判権をもった宗教的政治的組織です。それは今日の国会のようなものであり、裁判所のようなものとも言えます。彼らユダヤがローマの属国とされていたにも関わらず、死刑以外の判決を下すことが許されていました。その様な議会が、即座に招集されたのです。つまり主イエスを裁いて最高法院の議場で死刑の決定を下すというプランは、逮捕以前に既に組み上がっていたということです。この最高法院で死刑を確定し、ローマ総督のピラトの下に連れて行き、死刑を執行させること。しかも過越祭から続く除酵祭の祭りの中で、主イエスを、死刑を言い渡された罪人として町中を引き回すなら、圧倒的な神殿の権威の前に、もう誰も、主イエスを擁護する事など考えなくなる。最高法院に刃向かうこと、神殿の教えに背くことをしなくなる。今まで主イエスをメシアと言って持ち上げていた群衆も、逆に主イエスを憂さ晴らしの余興として侮蔑(ぶべつ)するようになる。彼らのプランは完璧なのです。そのために必要な事はなにか、というと、彼らが正当な手続きをとって、主イエスに死刑を求刑したという経過です。主イエスは正式に罪人として裁かれ、しかもユダヤの律法とローマ法の両方で裁かれるのです。主イエスは今、この社会を治めている権威に敵対する者であると、救い主ではなくただの犯罪者、つまりこの世界の平安を脅かすモノであると、公に示すことができるのです。では、彼らは主イエスを最高法院の議場に引き出して、七十一人で主イエス一人を取り囲んで、主イエスを裁くことができたのかというと、出来ないのです。彼らは主イエスを何百人もの下役たちを使って暴力的に捕らえ、リンチを加え、そのあと議場で取り囲みます。そうするなら主イエスは勝手に命乞いを始めると考えていたのです。彼らは、どんな強い人間であっても暴力と権力には屈すると、知っているのです。しかし主イエスは、議場に引き出されても萎縮することも、怖じ気づく事もなく、しかし何も話さないのです。

議員たちは主イエスのその様な態度に、逆に焦りを覚えます。主イエスが此処で発言するなら、煽(あお)って焚(た)きつける事ができる。そうすれば主イエスであっても、感情的になってボロを出すだろう、化けの皮が剥がれるだろうと、しかし彼らの目論見は外れるのです。でも彼らは主イエスを此処で断罪しなければ為らない。もともとこの裁判は出来レースです。主イエスを死刑にするというシナリオの途中でしか無いのです。そこで彼らは、次の手に切り替えます。用意していた証人に不利な証言をさせるのです。ユダヤの裁判では二人以上の証人の証言を以て正式な証言としていました。ですから、何人もの人が主イエスの罪過を語ることとなります。でも、そもそも存在しない罪過を証言したところで、話しが食い違うのは当然なのです。57節にこの様にあります。「すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。」(マルコ福音書14:57-59)でも、なぜ彼らはここまでして、主イエスを殺さなければならなかったのでしょうか。ここまで手の込んだ事をしなくても、よかったのではないか。しかし、彼らにとって最も気に障った言葉が、この「三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる」という主イエスの言葉だったのです。

主イエスは人々に、地上の権威ではなく、神を礼拝する事を教える為に、このように話したのです。目に見えない神殿を礼拝するのではなく、目に見えない、私たちを導き愛して下さる神を礼拝すること。エルサレム神殿は一時的な依り代に過ぎないし、礼拝の形式もこの世の伝統に過ぎない。その相対的な存在を絶対的な存在として崇めなら、それは神が禁じた偶像礼拝に過ぎないと、主イエスは話すのです。しかしそんな事、祭司たちも、最高法院の議員たちも理解しているのです。そもそも神殿について、最初の神殿(第一神殿)を作ったソロモン王は、その奉献式の祈りの中で、この様に話すのです。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(歴代誌下6:18)でも、彼らは人間の愚劣さを知っています。偶像であっても掲げれば民衆は安心する。モーセがシナイ山に上っている間にアロンは金の子牛を作って、それを礼拝します。その偶像に対して人々は喚起の声を上げたのです。それが神殿を偶像化して、それが偶像崇拝であったとしても、虚偽であったとしても、ペテンであっても、民衆が安心して社会の秩序が守られ、平和が維持できるのであるならそれを選ぶ。過去から大切に継承してきた伝統を守る事が何よりも優先するのです。彼は自分たちが手にしている既得権益を奪われたくないとか、彼らが手にしている地位や権威の座の留まっていたい、とか、その様な浅薄(せんぱく)な動機がまったく無かったのか、というと、それは分かりません。でも、彼らに取っての第一義は「変える事」ではなく「維持する事」です。しかし主イエスは神殿を壊す、つまり変える事、しかも礼拝を変えることを主張したのです。人は図星を刺されると激怒するものです。自分たちの礼拝が虚構であると理解しているが故に、主イエスを憎悪するのです。

そこで、ついに、大祭司カイアファは立ち上がり、真ん中に進み出て主イエスの前に立ちます。そして「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋ねます。モーセの十戒の第九戒にこうあります「隣人に関して偽証してはならない。」つまり主イエスはカイアファのこの質問に対して、偽証する事は出来ないのです。主イエスは「そのとおりです」と答えるしかない。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」と主イエスは答えます。カイアファは賢いのです。彼は主イエスがメシアであると気づいているのです。つまり主イエスはメシアであるから、偽証する事はできない。真実を証言するしかない。「自分がメシアだ、と答えるだろう」と彼は読んでいるのです。そして主イエスが真実を証言する、つまり「自分がメシアである」と言うなら、その発言はユダヤの律法で断罪する事ができます。「人が神を自称すること」は死罪に値するからです。カイアファは勝つことが出来るのです。「大祭司は、衣を引き裂きながら言った。『これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。』一同は、死刑にすべきだと決議した。」(マルコ福音書14:63)

カイアファに行動について私たちは、そんな事があって良いのか、と受け止めるかもしれません。そう、でも、私たちも彼とおなじなのです。神の存在よりも、この世のあり方を優先する、二の次にする。あたりまえに、それをしている。でも、こんなカイアファの行いよりも、驚愕するべきは、神の思いです。絶対的でこの世を創造し、命の源である神よりも、罪の内にある自分の方を優先する人の業によって十字架に掛けられるのです。あたりまえに考えるなら、もうこの世に絶望する、この世を滅ぼす、諦めるのが妥当です。でもしかし、神は、復活されるのです。それでもかえって来られる。赦されるのです。それが神の愛なのです。そして私たちが礼拝して追従する神なのです。主イエスは最高法院の議場に立って、真実を語るのです。それは自分がメシアであるという真実です。そして、この発言によって主イエスは十字架に掛けられ命を絶たれます。申命記には「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。」(申命記21:23)と書かれています。つまり主イエスは木に掛けられた者、つまり神から最も遠いところに置かれた者として、この世の命を終えるのです。

しかし主イエスがこの世の底の底、最底辺を味わわれた、という事は、神がこの世の底を自らを置かれた、という事です。この事実は私たちにとって救いです。 なぜなら私たちがどんなに苦しみの底に置かれたとしても、その更に下にも神がおられるということだからです。それだけではなく主イエスは復活されます。つまりこの世の底を光で照らされた。神の光が差さない場所、まったく希望が無い場所はこの地上に無いのです。