礼拝説教原稿

2018年7月

「祈りに依らなければ」2018/7/15

マルコによる福音書9:14-29

始めて自転車に乗れたときのことを、覚えてますか。私はハッキリと覚えています。団地広い道路で何度も何度も練習したのですが、どうしても乗れませんでした。そこに兄が帰ってきて、ひょいっと、私の乗っている自転車の後ろに乗りました。すると、不思議なことに自転車が倒れないのです。それは後ろに乗った兄が、左右のバランスを取ってくれたからです。私はスピードを上げて自転車を走らせました。が、そこからが兄の意地の悪いところで、兄はいつのまにかヒョイッと下りていたのです。私はその事に気づかずに自転車を漕いで「あれ、軽いな」と思って後ろを見ると兄がいないのです。私の乗っている自転車は転(こ)けました。短パンを履いていたので、激しく膝小僧をすりむきました。今でもうっすらとその傷が残っています。泣いている私に、兄は笑いながら「もう乗れるじゃん」と声を掛けます。確かにそれから一人で自転車に乗れるようになりました。

自分の力で、自分一人の力で何でもできる、何でもできるのは当たり前、という風潮があります、他人の手を煩わさないことが、なにか自立した個人であるかの様な、そんな雰囲気です。できるだけ誰とも話さずに、自分のやりたいことをやりたいようにやる。他人との間で交わされるのはお金だけで会話は一切ない。他人を煩わせない。でも、それが本当に私たちが望んでいた世界なのでしょうか。それぞれが自分の世界に引きこもった、孤独な色のない世界のように思えます。そもそも、人は、それぞれがそれぞれの能力を補い合って、助け合って生きて来たのです。言葉を交わし、共通の目標を確認し、必要な情報を交換して、そして作業が終わった後には共に達成感を味わったのです。でも、その機会は今の世にあって失われています。それだけではなく、神と私たちとの関係にあっても、私たちは、その繋がりを断ち切って、あたかも自分だけの力で生きているような錯覚の中で生きているのではないか、と思います。私の今手にしているモノはすべて、この肉体も借り物に過ぎないのに、あたかも全てを自分で作り出し、自分で制御している様に考えるのです。

今朝、私たちに与えられました御言葉に描かれている弟子も、神の存在を見失います。その結果、自分の力で危機的な状況を乗り越えようと頑張ることになるのです。

さて、この聖書の物語を見て行く前に、私たちは一つ前の場面に目を向けなければなりません。そこには一般に「山上の変容」と呼ばれる出来事が書かれています。

あるとき、主イエスは3人(ペトロ、ヨハネ、ヤコブ)の弟子だけを連れてカファルナウムの家を出て、内陸に三十㎞ほど進んだと場所にあるタボル山へと向かいます。ほぼ2日くらいの旅程です。そしてその山に登られます。夜が来て主イエスが山の頂で祈っていると、辺りが深い霧につつまれ、主イエスの衣が真っ白く輝きます。そして預言者エリヤと預言者モーセが天から現れて、主イエスと語り合い始めるのです。エリヤとモーセは二人とも既に天にある預言者です。その二人が主イエスの右と左に立たれるのです。その様子を見ていたペトロは居ても立ってもいられなくなり、口を挟みます。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」しかし彼は、彼らを覆っていた深い雲の中から響く声に叱られます「これはわたしの愛する子。これに聞け。」ペトロは口を出すな、と叱られるのです。

という物語、細かい内容や意味については、またいつか話します。というのは、今朝の御言葉を聞く上で大事なのは、この主イエスと三人の弟子のことではないからです。そうではなく、主イエスに山に連れて行ってもらえなかった弟子たち、つまりカファルナウム留守番している9人の弟子たちです。

彼らはどうしていたか、というと、カファルナウムでジッと主イエスとペトロ、ヨハネ、ヤコブを待っているのです。でも中々彼らは帰ってこない。ふらっと出て行ったきりです。そして彼らは少し不安になるのです。もしかしたら、先生たちは帰ってこないのではないか。残された9人の弟子たちは、主イエスが山に登る前に、弟子たちみんなに話した言葉を思い出します。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(マルコ福音書8:31)もしかしたら先生は、捕まるのが、怖くなって3人の弟子だけを連れて逃げたのではないか。まさかそんなことはない、と信じながらも、やはり不安を覚えるのです。そんなおりに、残された弟子たちの所に、一人の父親が自分の息子を連れてきます。「この子を癒やして下さい」と申し出るのです。その息子は、今で言うところの「てんかん」を煩っていました。彼は度々口からあわを吹いて歯ぎしりして強ばったり、突然倒れたりしていました。

弟子たちは早速、彼の病を癒やそうとします。でもできません。まったくなにをしても通じないのです。彼らは今まで、主イエスから方々の村に使わされ、そこで福音の伝え、病人に癒やしを行っていました。何人もの病人を立ち上がらせていたのです。でも、この時は何もできないのです。

その様子を見ていた人々が集まって来ます。そして、ざわつきます。さらにはファリサイ派の人たちが来ます。彼らはこの時ばかりと、弟子たちを責め立てます。「お前たちはイエスがいなければ何にもできない」「そう言えばお前たちの先生をこの二、三日見ていない。お前たちの先生は、ペテンがバレるのを恐れて、逃げたに違いない」しかし、騒いでいるのは彼らだけではないのです。カファルナウムの町の人々も、その様子をおもしろがってはやし立てるのです。カファルナウムの町は主イエスがこの町を拠点に伝道を始めた場所です。住民は主イエスの話しを聴き、癒やしの業を見て来ました。当然主イエスに対していつも敬意を払っていたのです。しかしこの数日主イエスを町で見かけない、もしかしたらファリサイ派の人々が言うように逃げたのかもしれない、という考えが頭によぎった瞬間から、彼らはファリサイ派と一緒に弟子をあざ笑い始めるのです。

そこに主イエスと3人の弟子たちが帰って来ます。聖書にはこの様に書かれています。「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。」群衆、つまりその彼らが、カファルナウムに帰ってきた主イエスの、その姿を見たとき、驚いたと書かれています。どんなに罰が悪かったか。でも彼らは、駆け寄ってきて笑顔で主イエスに挨拶をするのです。「先生、よくお帰り下さいました」「帰りが遅いから心配しましたよ」そんな声を掛けるのです。

でも主イエスは彼らに目を向けず、残した弟子たちの下に向かいます、そして尋ねます。「何を議論しているのか」群衆の中のある者が答えます。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」主イエスは答えます。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」そして、その息子が主イエスの元につれて来られると、息子はすぐに、引きつけをおこし地面に倒れ、転び回って泡を吹きます。そこで父親は主イエスに願うのです。「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは父親に話します。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫びます。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコ9:22-24)主イエスはこの息子を癒やされます。主イエスが彼の手を取ると彼は立ち上がるのです。

主イエスと弟子たちは共に家に帰ります。集まっていた人々も、それぞれ方々に散っていきます。そこで、弟子は密かに主イエスに尋ねます。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」なぜ、残された弟子たちは、癒やしを行うことができなかったのでしょうか。

それは彼らが主イエスに頼らず、自分たちの力だけで、癒しの業を行うことができると考えたからです。主イエスは彼らにこう答えます。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」祈りに依るとは、祈りに寄りかかることです。自分のすべてを神に委ね、神が働かれるその働きに従うこと、自分、という自意識はそこに必要無いと、そう話されるのです。主イエスは他の箇所でこの様に話されます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ福音書16:24)自分を捨てる。神に自分のすべてを明け渡すときに、私たちは、神の道具とされるのです。その時、神の業が与えられるのです。

自分の力で何でもできること、それはすばらしい事なのでしょうか。それよりも、お互いのできる事を集めて、言葉を交わし目線を交わし、作り上げていった方が、効率的ではないかもしれませんが、完全な結果を得られないかも知れませんが、良い物が作られると思います。更に、私たちは神と共にこの世にあって作り上げるのです。

さらに自分たちの傍らに主イエスがいて下さり、主イエスと共に私たちはこの世にあってすべてを作り上げていくのです。でも時々、私たちは主イエスの姿を見失い、すべて一人で為そうとしてしまうことがあります。その様な時、どうなるのか。「なんで私がこんなに頑張っているのに、誰も手伝ってくれない」「ここまで到達したいのに、たどり着けない」「仕えるヤツがいない」などという傲慢な言葉で頭の中か満たされます。今日の御言葉、居残りしている弟子たちと同じです。決して上手く行かない事になります。表面的には成果を得られるかもしれません、結果も出せるかもしれない。でも、それは人を生かし立ち上がらせる結果には繋がらないのです。

2018/7/8「ハッキリ見えていますか?」

(今日は三重地区講壇交換だったので、辻が松阪教会で話した説教を載せます。)

マルコ8:22-26

同じ景色を見ても、人によって見え方が違う。ということがあります。昨年まで私は三宅島という伊豆諸島の島で生活していました。この三宅島の唯一と言ってよい観光資源は釣りです。内地から沢山の釣り人が島に来ますし。島のほとんどの人は釣りをしています。そうなると、釣りのプロという人も、当然います。同じ職場の部長も、実はプロの釣り師でした。周りにはそれを隠していましたけど。彼の海に対する視点、つまり、その海の見方がまったく違う事に驚かされたことがあります。

彼は海の波や色、うねりを一目見ただけで海底の様子を読みますし、天気や気温、潮の流れから、島のどこら辺にどんな魚がいるか、分かるのです。私には見えていない物を彼は見る事ができるのです。そして、雑魚ではなく美味しい魚、しかも大物を釣り上げるのです。彼は、経験と勘と話しますが、それより何より、釣りが好きなんだろうな、と思わされました。

なぜ、この事を話したのか、というと、当然釣りの話しをしたいからではありません。「見る」という事について話したいからです。つまり、同じ「見る」という動作であっても、見ている対象を見抜くことができるか、それともただ漠然と見ているか、では全然違う、ということです。

つまり、私たちが与えられている信仰についても同じ事が言えるのです。私たちが信仰を与えられたとき。私たちはこの世を始めてぼんやりと見ることが出来る様になるのです。なぜなら、今まで自分中心の世界で、自分の視点でしか世界を眺める事しかできなかったのです。でも、信仰を与えられるなら、私たちはこの世界の中心に神はおられる事を知るのです。となると私たちはそれまでの主観的な視点だけでなく、客観的な視点を与えられます。つまりこの世界を社会を俯瞰から見れるようになるのです。

でもその先があります。パウロはロマ書の中でこの様に話します。「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、”霊”は義によって命となっています。」(ROM08:09)

「キリストがあなた方の内におられる」つまり信仰者は、この世を客観的に眺めるだけでなく、その次があるのです。「主イエスが内におられる」主イエスの視点が自分の視点となる。つまりそれは「主イエスならこの場合どうされるか」という視点が与えられる、ということです。

ただこの世を眺めるのではなく、積極的にこの世を見る目を、真理を見抜く目を信仰者は与えられるのです。この世をハッキリ見る目を与えられるのです。

同じ新聞のニュースを見ても、日常の生活にあっても、信仰者は、その一つ一つの事柄について「ここに主イエスがいたなら、どうされるか」と考える視点が与えられるのです。私たちは、その時、この世をハッキリ見る事ができるのです。

さて、この「ぼやっと見える」ところから「ハッキリ見える」への信仰の成長の流れが、今日与えられました御言葉の中には描かれています。

主イエスと弟子たちがベトサイダという村に入ったときの話しです。この村に住む者たちが一人の盲人の手を取って主イエスの下に連れてきます、そして、彼らは主イエスの前に差し出し「触れていただきたい」と願うのです。

でもこの時、主イエスはすぐに彼らの心を見抜かれます。彼らが主イエスを試す為に、この盲人を連れてきた事を、です。かれらは、ただ噂に聞いて主イエスの奇跡を見たいという好奇心から、村の門の前で物乞いをしていた盲人の腕を引っ張って、主イエスの下に連れてきたのです。では、主イエスは彼らにあきれて、いや、腹を立てて追い払ったのか、というと、そうはされないのです。主イエスはこの盲人だけを連れて村の外に出られます。そして人々から離れた場所に着くと、主イエスは主イエスは彼の目に唾をつけ両手を上に置き「何が見えるか」とお尋ねになるのです。

盲人は自分の目に光を感じます。うっすらと光と影が見えるのです。彼は主イエスに答えます。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」でも彼が見ているのは、人であったか、というと、そうとは考えづらいのです。そもそも、主イエスは彼を人気のない町外れに連れて行ったわけですし。彼の目の前には主イエスが立っているいるのです。

ではなぜ、彼はうっすらと見え始めた光と影を、人の歩いている姿だ、と話したのでしょうか。でも彼が嘘をついている訳ではありません。人は見たい物を見るのです。つまり彼見た景色は彼が最も見たかった景色だったのです。

目を患い見る事ができないこの男性は、とうぜん村で何らかの仕事に就いて働く事はできないのです。そして当時、彼の様に目の見えない者、身体に不自由があったり、重い病を負っている者は、門の前に座らされて、物乞いをさせられていました。いわば商売道具として使われていたのです。

彼も、ずっとベトサイダの村の門に座らされて、そこで物乞いをしていたのです。毎日毎日、彼の目の前には幾人もの人が行き来をしていました。その中には彼の前で立ち止まり、わずかな銅貨を彼の前に置いていった人もいますが、大抵の人は彼の目の前を行きすぎていったのです。その音を、彼は来る日も来る日も、目の前で歩いているだろう人の足音を聞き続けていたのです。そして彼は、いつか目の前を歩く人たちと同じように、この門を歩いて町に入りたいと、ずっと願っていたのだと思います。

彼がこの時見た光景は、彼がずっと見たかった光景でした。でも主イエスはここで手を止められないのです。主イエスは次に、彼の目に両手を当てられます。すると、彼の目は、ハッキリと見ることが出来るようになるのです。おぼろげに影が見えるのではなく、ハッキリと見る事が出来る様になるのです。この時、彼が最初に見たのは何か、というと、それは目の前に立っている主イエスの御顔です。やさしく微笑んで、自分を見ている主イエスを彼は見るのです。

そして主イエスは彼に「この村に入ってはいけない」話します。そして彼を家に帰らせるのです。

なぜ、主イエスは彼にベトサイダの村に入らないように、と話したのでしょうか。それは主イエスが、彼の望みを知っていたからです。彼がいつも座らされていた村の入り口の門を、自分の脚で歩いて入る事、そして村の人たちと一緒に村の人たちと同じような生活をする事、それが彼の望みだと知っていたからです。

しかし、このベトサイダの村の人たちは、不信仰で神をあざ笑う者たちだったのです。主イエスはマタイ福音書11章で、この様に話しています。「ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。」もし、この癒やされた盲人が、彼が今まで物乞いをしていた村の門から村の中に入ったとしても、村の人たちは彼をこころよく仲間として受け容れらはしないのです。逆に興味本位に彼を弄(もてあそ)び、嘘つき呼ばわりし、今までよりも悪い扱いを受ける事になると、主イエスには分かっていたのです。だから村に入るなと話されたのです。

でも、私は、この「家に帰された」という御言葉について、もう一つの意味があるように思えるのです。つまりこの家とはオイコスであり、共同体を意味する言葉だからです。ここで主イエスは、この目を開かれた男に、彼を連れてきた者たちの所に帰るのではなく、つまり「目が見えているけれど見えていない者」の所に帰るのではなく「ハッキリ見えている者の所」に帰りなさい、と話している様に思えるのです。

つまり「もう、あなたは見えているのだから、見えていない者たちの所に帰るのではなく、見えている者たちの所、新しい家に帰りなさい」と主イエスは彼に話しているのです。

主イエスは彼の目を開かれました。彼の目に光を与えられただけではなく、彼の心に信仰の光を与えたのです。彼は信仰の光によって、この世の事柄について「何でもはっきり見えるようになった。」つまり何が正しく何が間違いか、何が本物で何が偽物か分かるようになった、だから、今までいた場所に帰る必要はない。家族、つまり信仰共同体の下に向かいなさいと、そう話されるのです。

私たちは信仰によってこの世を見抜く視点が与えられています。この世をハッキリ見ることが出来ます。その視点とは何か、というと、それは主イエスのこの世で表された愛を基軸にした視点です。主イエスは自らが十字架へと向かう事を知りつつもこの世と関わられ、その十字架の上に於いても、神に取りなしの祈りを捧げるほどに、この世に生きる全ての者を愛されました。その愛を中心の軸にして、この世を見ること、それが信仰者の視点です。それは難しい事ではありません。この場面にもし主イエスがおられたら、どうされたかを考えれば良いのです。

つまり、この御言葉の最初の場面、ベトサイダの村の人たちが目の見えない男を主イエスの前に連れてきた場面を覚えれば良いのです。彼らは主イエスを試し、あざ笑う為に盲人を連れてきたのです。しかし、主イエスは憤りも腹を立てることも、彼らの信仰を嘆くこともされないのです。そんな所に主イエスは目を注がれません。主イエスの目はただ目の前の目の見えない男を見つめるのです。訳が分からず此処のつれて来られ、そこら辺に転がっている石ころの様に扱われているこの男に、主イエスの目は注がれるのです。そして主イエスは彼と関わられるのです。そして彼を愛し、彼と関わり、彼を再生し、もう一度新しい命を与え、立ち上がらせるのです。

雑多なものに気を取られるのでは無く核心に心を奪われ、思いを注ぎ生きる事、そこに私たち信仰者の歩みが在ります。祈ります。

2018/7/1「これくらいなら」

マルコによる福音書8:14-21

今朝私たちに与えられました御言葉の箇所は、いわゆる四千人の給食と呼ばれる主イエスの奇跡の物語に続く箇所です。この給食の奇跡、つまり主イエスが大勢の民衆にパンと食べ物を分け、彼らを満たされるという奇跡の出来事は、マタイとマルコによる福音書の両方に記されていますし、その前、マルコ福音書では六章ですが、五千人の給食と呼ばれる奇跡については四つの共観福音書全てで取り上げられています。

つまり、この給食の奇跡は主イエスの為された奇跡の中でも多くの者たちに知られた奇跡であり、この奇跡を通して、多くの人々が心を主イエスに向けるようになった、つまり主イエスの名を世間に広めた、という事が分かります。五つのパンと二匹の小魚を主イエスが分けると、その数が増え、そこに座っている五千人もの人たちがそれを食べて満足した。とても刺激的な事件です。それに、現代ではなく、それが二千年前のパレスチナでの出来事である事にも、私たちは目を向けなければなりません。つまり、現代の様な物流システムも食料の備蓄技術もない。農業も原始的でそれほどの生産高も上げられない時代だという事です。干ばつが起これば飢饉が始まり、多くの人が命を落とす事が当たり前の時代にあって、主イエスはパンと魚という食料を用意し、五千人もの空腹を癒やされたのです。

この奇跡が、なぜ主イエスの数ある奇跡の中で、これほどの関心を受けるのか、というと、それは、この奇跡が私たち人間の最も基本的な欲求、つまり食欲を刺激するからだと思います。私たち人は食べる、という事に関しては理性的ではいられなくなるのです。空腹になると人は感情的になりますし、満腹になると幸福感を覚えるのです。では主イエスは、この給食の奇跡を行うことによって、世間に自分の名を売ろうと、その様にお考えになったのか、というと、まったくそうではありません。主イエスは集まってくる人たちが、まるで「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれた、そして、彼らを空腹のまま返すなら途中で力尽きて倒れてしまうかもしれない、と心配された。ので、主イエスはここで彼らの空腹を癒やされたのです。それは純粋に神の憐れみでの結果なのです。神による食料の配給の出来事ではないのです。

神はこの世にあって立ち直れないほどに力尽き、座り込んでいる人に力を与え、彼をもう一度立ち上がらせる、つまり再生される方です。何度でも、何度でも、神は私たちにやり直す力を与えて下さる。私たちの魂に一滴の力も残っていない状況であっても、神はそこから水を湧きいでさせ泉を作られます。まったく光の届かない闇であっても、神は光を差し込ませるのです。「神は言われた『光あれ』こうして、光があった。」が無からの有を生み出される、つまり無からの創造が神の力の本質であり、神は、私たちに不足している物を、過不足なく整えて下さる方です。それがこの主イエスの奇跡の意味なのです。

この様な神のこの世に対する働きは、新約聖書だけではなく旧約聖書にも幾つも記されています。その中で最も一般的な物語は旧約聖書には神が備えられた食料として「マナ」です。モーセはエジプトから奴隷として扱われていたイスラエルの民を解放します。しかし彼らはカナンの地に辿り着くまでの荒野で、不満を言い始めるのです。それは、食料を十分に手に入れることが出来なくなったからです。彼らが留まっていた荒野は、灌木しかは言えていない日中は気温が四十度を超える土地です。そこに急に六十万三千五百五十人もの人、これは成人した男性の数ですから、その倍として百二十万人もの人々が生活する事となったのです。しかし、神はそのイスラエルの民の言葉を聞かれます。そして四十年に渡る期間、神は彼らに水と食料を与え続けるのです。彼らは乾くことも飢えることもなく、生き続けるのです。その食料として神が与えられたのがマナです。神は天から白いパンを地上に降らせ、イスラエルの民は、それを拾い集め食べるのです。主イエスが五千人の人たちの空腹を癒やされたのは「神は肉体も魂も飢え乾くものを、そのままにしておかない」からであり、神は私たちには思いも及ばない仕方で、私たちを守られる事を私たちはこの御言葉から聞く事が出来るのです。

さて、この主イエスの為された給食の奇跡について、その背後におられる神の姿を確認する事が出来ますと、今朝私たちに与えられました御言葉で、主イエスが何であれほど、弟子たちに対して落胆したのか、が見えてくるのです。

この四千人の奇跡を行った後、人々の主イエスを見る目は、変わります。今までの神から知恵の賜物をいただいた教師というイメージ、からパンと魚を幾らでも出してくれる奇跡を行う預言者、として見られる様になったのです。しかし、その様な主イエスに対する人々のイメージは、主イエスの行う伝道にとって妨げに為るばかりか、主イエスの言葉をも誤解させるものとなりました。それはパンと魚があまりにも、人々にとって身近だったからです。主イエスのもとに来る人々は、まず主イエスの言葉を聞く事よりも、先ず自分の空腹に目を向けるようになるのです。つまり主イエスの教えの言葉によって神の前に悔い改め、罪を赦され和解をして神との関係を取り戻す、のではなく、現実的な利害・利益に心が向く事になったのです。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」と主イエスはこの様に嘆かれたと聖書には書かれています。

さらに、主イエスを落胆させる出来事が続きます。それは、この後、主イエスは弟子たちと共に一つの舟に乗り、湖の向こう側に向かった時の事です。沖に船を出した後、弟子たちが、ざわつくのです。それは、船にパンを一つしか船に乗せていない事に気づいたからです。今日の食事をどうしようか、なぜ誰も気づかなかったのか、誰が優先して食べるのか、そんな事で言い争いを起こすのです。主イエスはそんな彼らを見て「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められます。つまり主イエスは弟子たちに、この世の食べものの事で言い争うのは辞めなさいと、戒められるのです。ファリサイ派の人々は自分の名声がこの世に大きく膨らむことを求めます。そして、このガリラヤ地方の領主ヘロデは自分の政治権力がこの世に大きく膨らむ事を求めるのです。彼らはこの世の多くモノを所有し、この世に大きな影響力を持つことに心を向けているのです。でも、主イエスは弟子たちに、そうではなく、神が十分に与えて下さる、時に増やしてモノに心を向けなさいと、神が既に与えて下さっている全てのモノ、これから与えて下さる素晴らしいモノに目を向けなさいと、話されるのです。

では、この主イエスの言葉を、弟子たちは、そのまま、幸いな言葉として聞いたのか、というと、そうではないのです。弟子たちは、それまでよりも激しく、「ほら、お前がパンを持って来なかったから、先生が怒り出した」とお互いに議論し始めたのです。弟子たちも、やはり主イエスに対して、その肉体の存在に目を奪われて、その背後におられる神の姿に目を向けることは出来なかったのです。目の前で主イエスが五千人の空腹を満たす、その姿を見ていながら、彼らも、その奇跡の本質について、理解出来ていなかったのです。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。:18  目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」更に、主イエスは「まだ悟らないのか」と弟子たちに対して嘆かれます。

主イエスはなぜ、人々から、そして弟子たちからも誤解を受けるリスクを冒してまで、五千人の人の空腹を満たされたのでしょうか。それは先ほど聞きましたように「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」たからです。本来このガリラヤの地方に生きる人々の魂を養い導くのはこの地方で働くファリサイ派の教師の仕事なのです。しかし彼らは自分の評価や名声、評判だけを求め、本来の仕事を放棄したのです。では、このガリラヤの地方に生きる人々の肉体を養うのは誰の仕事かというと、領主ヘロデの仕事です、しかし彼も、民衆を導くことなどにまったく関心を持たないのです。それだけではなく、彼らの無責任で利己的な欺瞞に満ちた言葉は民衆の心の中に小さな種として植えられ、その種は芽を出し育ち、人から人へ伝播し人々の心の中を失意と絶望で満たしたのです。世の中が無気力な、何をしてもダメだという雰囲気に塗り替えられた。ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によって腐敗は進んだのです。しかし、主イエスはその闇に御言葉という光の種を植えられました。その種、御言葉はそれぞれの魂の中で育ち、人々の魂を生かし、再生し、もう一度立ち上がらせる力を与えたのです。

今の時代に在っても、私たちはファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけなければなりません。為政者たちの小さな偽証や保身の言葉、侮りの言葉は私たちの心の中に植え付けられ、病原菌の様に広がります。そして私たちは「何を言っても無駄、何をやっても無駄」と無気力に陥るのです。この世の権威者が「これくらいなら」という安易さで語った虚偽によって世界は闇に落ちるのです。その小さなパン種はこの世で膨らみ全てを腐敗させるからです。しかし、私たちは、その力にあらがうのです。神に聴き、魂に光を受ける事。闇は決して光に勝つことはありません。

「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネ福音書1:5)

感謝しつつ。