礼拝説教原稿

2018年5月

2018/5/27「歩き出すために」

マルコによる福音書1章9-11節

今朝、私たちに与えられました御言葉は、マルコ福音書1章9節~11節です。ここには主イエスがこの世に福音を伝えた初めの場面が描かれています。しかし、それは私たちにとって、些か拍子抜けというか、あまり華々しいものではないのです。もし、小説家が物語の主人公の最初の登場シーンを描くとしたら、たぶん違う描き方をするのではないかと思います。でも、マルコ福音書に描かれている主イエスの登場シーンは、まるで質素なのです。9節の前に描かれている場面は、洗礼者ヨハネという預言者が、集まって来た多くの人に洗礼を授ける姿です。

この時「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」と書かれています。つまり多くの人が列を成して並び、一人ひとり、洗礼者ヨハネから洗礼を受けてたわけです。主イエスはどこにいるのか、というと、その列に並ばれています。主イエスだけ特別扱いで、順番を割り込ませるわけでもなく、多くの人に交ざって、ただひたすらに順番を待たれているのです。そして多くの人と同じように、順番が来て洗礼者ヨハネから洗礼を受けられるのです。

二つ、目を留める事があります。一つはマタイ福音書の並列記事です。そこでは、順番が来て前に進み出た主イエスを見て洗礼者ヨハネは少々動揺します。そして「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言って主イエスを思いとどまらせようとするのです。しかし、主イエスは「これは私とあなたにとって良いことなのです」と言い、洗礼をお受けになります。

しかしマルコ福音書の記者はその様な、洗礼者ヨハネと主イエスの関係については一切触れません。ではこの様な会話が在ったのか無かったのか、と言う事をついつい私たちは気にしてしまうのですが、でも気にするべきはソコではありません。マルコ福音書の記者が、書かない事によって書きたかったこと、は何か、というと、それは主イエスが全く普通の人と一緒に列に並び、普通の人と一緒に、同じように洗礼を受けたと言うことです。特に主イエスはこの時、「ナザレから来て」と書かれています。ナザレという表現は、今で言うところの僻地を言い表す言葉です。「ナザレから良いモノなど出るものか」と人々が言った言葉が聖書に記されています。つまりマルコ福音書の記者は主イエスを、みずぼらしい姿をした田舎者、大勢の中の一人、誰の目にも留められない者として描いているという事です。

そして二つ目、「天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」そして「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が天から聞こえた」という描写と言葉です。この光景は誰が見て、誰が聴いたのか。ですが、ここでは群衆がこの様な光景を見たとか、声を聞いたとは書かれていません。勿論洗礼者ヨハネも一緒に聞いたとは書かれていません。つまり主イエスだけがこの光景を見て、主イエスだけがこの言葉を聞いたという事です。考えられる事は、後に主イエスからこの時の事を聞いた者の言葉が、人から人へと伝えられて、マルコ福音書の記者はその言葉を書き残した、という事でしょう。

全く、誰にも知られていない一人の主イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた、つまり主イエスの福音伝道の初めは、この世の要請によって始められた事ではないということです。この世からの要求によって始まったのではなく、この世の誰にも明かされずに、ひっそりと始められた、この世からは隠されていた、ということです。

では、この世から隠されていた主イエスの洗礼の時の出来事「天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」そして「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が天から聞こえた」とは、どういうことでしょうか。

主イエスが水から上げられた時に見た景色、先ずこの「天が裂ける」ですが、これは激しい雨を降らせた後の雲、深く重く暗く天を覆う黒雲が徐々に裂けていき、その隙間から一条の光が地面に差し込む、その光景です。空から地上に光が降ってくる。今までの澱んだ、暗澹とした地上に希望の光が差し込む。天が開かれ、地上にいる者たちは神の姿を見ることは出来ないまでも、その明るい光を通してその存在を確認し、希望を与えられる。それが、この「天が裂ける」の意味です。

そして「”霊”が鳩のように」です。この鳩が中心的な役割を担う物語が聖書の中にあります。それはノアの物語です。40日40夜続いた雨は地上の全ての生き物を滅ぼし尽くします。その後150日に渡って水は増え続けますが、そしてノアと家族、全ての動物のつがいを乗せた箱船は生き残ります。そして船はアララト山の上に乗り上げます。ノアは40日後にカラスを放しますが、留まるところがなく、帰ってきます。その7日後に今度は鳩を放ちます、すると鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきます。ノアはこの鳩を見て、水が引いたことを知ります。旧約聖書にあって鳩は、純潔とか誠実とか、また新しい世界の始まりの象徴として用いられる動物です。主イエスがこの時、羽を広げた鳩が天から降ってくる姿を見た、という事は、新しい時が始まったと告げるしるしが与えられたという事です。

もう一つ、主イエスが聞いた言葉、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とは何か、です。この言葉を多くの神学者はイザヤ書42章に書かれている言葉と重ねて読みます。この「わたしの愛する子」とはイザヤ書にある「わたしの僕」の事だと、そう解釈するのです。

「:01  見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。:02  彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。:03  傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。(イザヤ書42:1-3)

神が主イエスに「あなたは私の愛する子」と声を掛けた、その言葉から私たちは、主イエスのこの世での伝道の内容を知ることが出来ます。主イエスはこの世の闇に光を差し込ませ、神の正義を明らかにする、そして「島々は彼の教えを待ち望む」と在りますが、これはユダヤ人だけでなく異邦人もこの主イエスによって、福音を与えられるという、意味の言葉です。

主イエスが洗礼を授けられた時、つまりヨルダン川の水の中から引き上げられた時、これほどの事が、が全くこの世に隠されたまま、密かに展開したのです。ここから神のこの世を救う準備は始められたのです。

では、この隠された計画はいつこの世に明らかにされたのか、というと、それは、使徒たちに聖霊が降ったペンテコステの時です。この時、使徒たちは聖霊に拠って主イエスが自分たちに語りかけていた言葉の意味、更に、十字架と復活の意味を明らかにされるのです。主イエスがヨルダン川で洗礼を受けた時に、天からの聖霊が主イエスの上に鳩の様に降ってきて留まった様に、ペンテコステの時に使徒たちの上には聖霊が炎の様な舌となり、別れ別れに使徒たちの上に留まるのです。この使徒たちが受けた主イエスからの洗礼によって、彼らは新しくされ、この世に希望の光が差し込み、この世は新しくされるのです。

主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたこと。について、私たちはそれを疑問に思うのです。洗礼者ヨハネが人々に授けた洗礼は、水に依る洗礼です。彼は人々に、後に来る方の前に立つことが出来る様に、その準備として罪を悔い改め、この世の汚れを清めさせるために、洗礼を授けていたのです。そして、この後に来る方とは主イエスのことです。では、なぜ罪や汚れを受けていない主イエスが清めの洗礼を洗礼者ヨハネから受けなければならなかったのでしょうか。それはこのヨハネの洗礼を通して、神が上から主イエスに触れられ、そこから神の救いの業が始められたからです。それはスタートの合図の号砲だったのです。この世の誰一人、その音を聞く事は出来ませんでしたが、しかしその音は全世界に響いたのです。

洗礼について、その洗礼を受けた私たちも、その意味を見失ってしまう事があります。洗礼はここで書かれている様に新しい時のスタートの合図です。つまり信仰的に完成されなければ洗礼を受けられないのではなく、スタートだという事です。

もう一つ、自分の意思で、つまり自分から神へのアプローチで洗礼を受けたのではありません。天から光が差し込む様に、炎が降るように聖霊がそれぞれに与えられたのです。自分の信仰が強いとか尊いから洗礼を与えられた訳ではないのです。

最後に、洗礼を受けたことによって私たちは変えられました。私たちは聖霊を受けたことによって、この世に何も恐れはなくなりました。なぜならこの世は、神が為さるように為る、という事をつまり真理を聖霊によって知らされたからです。この世のどんな権力も力も知恵も、私たちを縛る事はできません。私たちはただ主イエスに愛にのみ縛られているのです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ福音書10:28)と主イエスの話される通りです。

感謝して共に歩みを進めましょう。

2018/5/20「世界に告げよ」

使徒言行録2:1-11

今朝、私たちはこの礼拝をペンテコステを祝う礼拝として守っています。この礼拝を私たちは教会の誕生日として祝います。では、そもそもペンテコステとはなにか、というと、それは五旬節を祝うユダヤ教の祭りです。それは過越祭の50日後に祝われる祭日であり、春に得られる最初の収穫に感謝する農業祭です。各地に散らばって生活をしていた敬虔なユダヤ人たちは過越祭、五旬節、仮庵祭の三大祭には必ずエルサレムに上り礼拝を献げていました。

ではユダヤ教の祭りであるこの日が、なぜキリスト教の祝祭日になったのか、というと、それは、このペンテコステの祭りの最中に、使徒たちに聖霊が下り、その聖霊に促されて、福音伝道をする為に世界の隅々にまで送り出されたからです。その働きによって世界各地に教会が建てられ、その伝道の賜物として、2000年後の世界に生きる私たちの、この桑名教会も建てられました。ついつい私たちはこの桑名教会について、100年程度の福音継承の歴史として捉えてしまうのですが、この教会が背後には2000年を越える時の蓄積であり、更に、この世に救い主が与えられる事を望み続けたアブラハムからの歴史もそこに加味されます。この桑名教会が地上に建っているという現実の背後には、数え切れない信仰の先駆者達の闘いが在ります。と同時に幻を、希望と共の追い続けた歩みがあります。

彼らが自らの命を捧げることも惜しまないほどの情熱を注いだ伝道によって、私たちには主イエスの言葉が伝えられました。でも彼ら私たちに継いだモノは言葉だけではありません。もっと大事なもの、私たちは彼らから聖霊を継承しているのです。その聖霊は彼らも先達から受けた聖霊と、まったく同じ聖霊です。

キリストに従う者、つまり私たちも含めてキリスト者は、ただ一つの聖霊を受けています。聖霊は幾つもあるのではなく、ただ一つです。「ある」という言い方は正しくないのかもしれません、聖霊は「ある」のではなく「いる」存在だからです。しかもその聖霊は「キリストに従う」と自らの唇で告白した者に対価なく与えられる賜物です。逆に、自分の力や富や権力を以てしても、その賜物を得ることはできません。

私たち信仰者はこの一つの聖霊を受けて、一つとされます。それがペンテコステの出来事なのです。

この日、使徒たちはエルサレム市街にある一つの家の二階に集まっていました。主イエスは過越の祭りの最中に十字架につけられ殺され、しかし復活し、弟子たちに姿を見せます。でも40日の後に主イエスは天に帰られるのです。その時、主イエスは弟子たちにこの様に話します。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ福音書24:49)

それから十日間、弟子たちは部屋の窓を全て閉めて、昼間でも暗く閉ざされた部屋の中で、声を殺してただ祈り、待っているのです。主イエスが天に帰られたあと。では残された弟子たちの、この世での状況は好転したのかというとそうではありません。彼らはいつ捕らえられても不思議ではない状況のまま、取り残されているのです。ではなぜ彼らは、このエルサレムに留まったのか、直ぐに他の地方に逃げ出さなかったのか、というと、彼らは主イエスの約束を堅く信じていたからです。ただ、その言葉に一縷(いちる)の希望を託(たく)して、使徒たちはここに留まっていたのです。

しかし、十日という時間は彼らにとって長かったと、そう思います。しかも、エルサレムの町はペンテコステの祭りを祝うために、多くの巡礼者が集まってきました。窓の外の喧噪が徐々に大きくなる、その音を聞きながら、彼らはただ恐れ怯え、暗闇に身を寄せ縮こまっているのです。

そこに、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえます。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまります。すると彼らは聖霊に満たされる。彼らは、立ち上がります。閉じられた窓を開け、大きな音に驚いて集まって来た人たちの話しかけ始めるのです。

この場面の聖書の描写について、まるでハリウッド映画の特撮のように感じられるのです。でも、この描写は、私たちの関心を引くためのものではありません。私たちがこの意味を理解するためには、この描写を現象としてではなく、実現した結果から読んでいかなければならないのです

まず、激しい風が吹いてくるようなの音です。これはシンプルに考えて大きな音です。では使徒たちはその大きな音を聞いて、どうなったのでしょうか。例えば私たちが踏切の前に立って目の前を列車が通過していくとき、その大きな音に包まれた私たちはどうなるのか、というと、何も考える事ができなくなります。それが突然出来事であるならどうか。たぶん弟子たちの頭の中は真っ白になったのだと思います。何も考えられない。今まで悪い方に悪い方にと考えていた頭の中のモヤモヤが一気に吹き飛ばされたのです。

そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった、とあります。つまり一つの聖霊が枝分かれする様に分かれた、という事です。彼らが受けた聖霊はバラバラに離れているのではなく一つであったと、私たちはここに聞く事が出来るのです。

この炎のような、という表現にも、意味があります。洗礼者ヨハネは、自分の元に来て洗礼を授けてもらおうと集まって来た者たちに、この様に話します。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。:12  そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(マタイ福音書3:11)

つまり、ここで使徒たちが受けているのは、主イエスからの洗礼なのです。彼らは、ここで主イエスから聖霊を受け、その炎で古い自分を焼かれ、全く清められて、新しい命を受けました。今まで身を潜め、隠れていた彼らは、全く反対の方向に向きを変え、新しく歩き出しました。今まで彼らは主イエスから受けるだけだったのです。しかしこれから彼らは与える者に変えられたのです。これがペンテコステの出来事の意味です。

私たちはこの、弟子たちが受けた同じ聖霊を、洗礼を受けるという事を通して与えられます。私たちが洗礼を受けるという事は、「私はキリスト者としてこれから生きますよ」と自分の意思を表明することではありません。入学式の宣誓でもなければ、通過儀礼でもない。そうではなく、このペンテコステの時に弟子たちが受けた聖霊を、弟子たちが次の者たちに授け、その次の者たちが次の者に授けるという、連鎖の先に、私たちがいて、私たちも、弟子たちが受けた聖霊と同じ聖霊を受ける事なのです。

また、同じ聖霊を受けるという事は、私たちがその聖霊によって一つとされる、という事です。アダムの罪によって地上を放浪する事となり、バベルの塔を作ったことによって、地上に散らされた民が、もう一度、一つとされて、神の元に集められる、その神の救いの物語の只中に、わたしたちもいるのです。

バベルの塔の物語を覚えるなら、このペンテコステの出来事の中で、弟子たちが、なぜ海外の言葉を話す事ができる様になったのか、その意味も明らかになります。

バベルの塔の物語は創世記の10章にあります。洪水の後のノアの子孫のうち東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着きます。そして彼らはまた全地に散らされることのないよう、高い塔のある町を建て始めるのです。神は、その様子を見て、言われます「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」神は、彼らの言葉を混乱(バラル)させこの町の建設をやめさせるのです。

地上の民の言葉は混乱させられ、人々がこの地上に散らされました。しかし神はもう一度、人々をご自分の元に人々を集めるために、使徒たちに様々な民族の言葉を使って神の偉大な業を伝えさせたのです。

私たちが聖霊を受けることについて、このペンテコステの出来事の描写を読むなら、その激しさに気後れして、自らの信仰とは異なったものの様にも思えるのです。でも私たちは確かに、聖霊を受けています。聖霊を受けるなら、私たちは真理を見る目が与えられます。今まで必至に握りしめていたモノが全く無価値に感じられ、逆に今まで無価値に感じていたモノの価値を、見いだすのです。以前の礼拝の中でも話しましたが、聖霊とは私たちに真理を悟らせます。自分で見ているモノ聞いていることの本当の意味を教えてくださる、それが聖霊です。

私たちは洗礼を受ける事によって、教会が代々引き継いできたこの聖霊を受けます。その聖霊によって真理を知り、その真理によって自由を得ます。

私たちは外からの束縛もしくは内からの束縛によって縛られています。その様にして、この世に隷属させられている。しかし、聖霊によって私たちは奴隷である身分から解放されるのです。

2018/5/13「永遠の始まり」

ヨハネによる福音書17:1-13

今日の礼拝を私たちは復活節の最後の主日として守ります。そして来週のペンテコステ礼拝から教会の暦であります教会暦は聖霊降臨節に移ります。では、今朝与えられました御言葉のテーマはなにか、というと、それは「永遠の命」です。先ほど読まれました御言葉にこの様に書かれています。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」(ヨハネ福音書17:2)続けて主イエスは永遠の命について、こう説明します。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音書17:3)

「永遠の命」と聞きますと、私たちは自分が永遠に生き続ける姿を想像するのではないでしょうか。でも、そう考えるなら、私たちは逆に困惑してしまうのです。なぜなら、もし自分の命が永遠に続くとするなら、それは喜びより苦痛だと感じるからです。例えばマラソンも42.195㎞の先にゴールがあって、そのゴールに向かうから気持ちよく走り続けられるのです。でも、もしゴールがどこにもない、永遠に走り続けなければならないとすれば、それは拷問にも等しい苦痛となります。

そう考えてみますと、主イエスがここで話す命とは、私たちが考えている命と少し違うのかな、と思えてきます。ではここで主イエスが話す命とはどの様なものなのでしょうか。この命について考える時、私たちは先ず、神が人に命を与えた最初、つまり創世記に描かれているアダムの物語まで遡らなければなりません。

創世記の最初、神はこの世界を創造され、六日目に神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられます。人はこうして生きる者となるのです。

人は神の息を吹き入れられ、命を与えらました。そしてその命は神と共にある命ですから、永遠の命だったのです。しかし、アダムとエバはヘビの誘惑に惑わされ、エデンの園の中央に生えている木の実を食べてしまいます。その様にして彼らは神に離反しエデンの園から追放されます。その時から、つまり彼らが神と離れた時から、彼らの命に死が入り込み永遠ではなくなったのです。

つまり、人にとって死とは、神から引き離されることだと。逆に神と共にいるならば、人の命は永遠に神と共にあり続けると、そう聖書は書くのです。それが聖書の死生観、命の理解です。

そして、人が神から離れる事を聖書は「罪」と言い表します。この罪とは、ヘブライ語で「ハッタート」と言い「的外れ」という意味の言葉です。弓矢を引いて射られた矢が的から外れること。つまりは正しく神に向かっていない事を「罪」と言い表すのです。神以外の何かを神として崇める事も、人の罪です。偶像崇拝が聖書の中で強く禁じられるのも、そのためです。

余談ですが、この偶像崇拝とは、単に木で彫った偶像を拝むとか、鋳型に金属を流し込んだ像を拝む、ということがここで言われている偶像崇拝ではありません。心の中に偶像を作ること、その偶像を拝む事も、立派な偶像崇拝です。神以上に自分にとって「これが無ければ生きられない」と信奉するモノがあるなら、それは偶像崇拝をしている、という事なのです。

ついでにもう一つ余談ですが、ある神学者は「人にとっての罰とは神以外の何かを信奉する事だ」と話します。神以外の何かと神としてあがめなければらない。なぜ、それが人にとっての罰かというと、どんな厚く信仰し、自らの生活を摂生し心血を注いで磨き上げたとしても、その努力は全く無駄な努力になるからです。

さて、話しを戻します。このようにして、人は神から離れ罪を負い、その命に死が入り込むこととなりました。この時から人は神の下を離れ、いつかエデンに戻る日を願いながら、この世を彷徨(さまよ)う事になるのです。それはまさに旧約聖書に書かれているユダヤの民の姿、そのものです。アブラハムもイサクもヤコブもヨセフも、モーセに導かれたユダヤの民も自分たちの定住する土地を求めて荒野を彷徨います。ダビデ王とソロモン王の代々に、ようやくカナンに落ち着くのですが、しかしその後、バビロニアに滅ぼされ捕囚され散らされるのです。

死について、その様に理解しますと、先ほど主イエスが話した言葉の意味が分かります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音書17:3)

つまり唯一まことの神を知り、主イエスを知る事に拠って人は正しく神を知る者となるのです。正しく神を知るという事は、正しく的を得るということです。つまり的外れではなくなる、つまり罪から解放される事となります。そしてその人は本来在るべき場所に帰ることとなり、命に入り込んだ死は消し去られます。その命の事を主イエスは永遠の命と話しているのです。

パウロはローマの信徒への手紙の中で、アダムによって罪が世に入ったが主イエスによってその罪は拭われたと話します。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ロマ書5:12-14)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」(ロマ書5:17)

つまり、私たちが信仰を得るということ、主イエスを自分の救い主であると告白し、その主イエスの後に従う、つまり洗礼を受けるということによって私たちは正しく神の方に歩む者と変えられます。いままで進んでいた誤った方向から大きく舵を切り、正しい航路に戻ることが出来る。そして私たちは本来、自分自身が帰るべき場所に辿り着くことが出来る。私たちが本来帰属するべき場所に帰ることができる、もうこの世にあって彷徨わなくていいのです。それが私たちにとっての本当の救いなのです。

主イエスはこの言葉を、13章から続く、最後の晩餐の席上で弟子たちに話されました。その夜が終わり、その日の昼には主イエスは十字架につけられます。その席上で主イエスは弟子たちに最後の言葉を伝え、最後に、それまで弟子たちに向けていた目を天に向け、神に祈りのです。

この祈りの言葉は、古来から大祭司の祈りと言われている祈りの言葉です。主イエスは、最後の最後になってただひたすらに、神に願うのです。自分の愛した使徒たちが十字架に架かった後に、迷わず神の下に戻るように、必死に弟子たちの事を神に取りなすのです。「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。」(ヨハネ福音書17:9)

弟子たちはこの主イエスの取りなしの祈りによって、主イエスの十字架の死の後、一度はちりぢりに散らされながらも、もう一度集められ、復活された主イエスにもう一度出会うことになります。その様にして彼らは、主イエスに繋がれ、神と繋がれます。そして、今度は彼等自身が、聖霊を受け、この世の全ての人々を、神に立ち返らせるための神の業の内に用いられることとなるのです。

弟子たちだけでなく、私たちも、この主イエスの取りなしによって、神に繋がれています。それも、毎日、私たちが神に祈るとき、主イエスの取りなしを受けているのです。

私たちが祈り時、私たちはその祈りの最後に、「主イエスキリストの御名によって祈ります」という言葉を加えます。この言葉は単なる定型句ではありません。この言葉の意味は「私の祈りを主イエスに預けます」と言う意味です。

私たちは自分の事しか祈る事が出来ないのです。神の思いを知ることなく、傲慢で利己的にしか祈れない、でもそれは世界の一部しか見る事の出来ない私たちにとって致し方ない事です。しかし、主イエスは私たちの罪に満ちた祈りの言葉を、受け止めて下さり、その罪も含めて自らの言葉として神に捧げて下さるのです。私たちの罪を神に取りなして下さる。その主イエスの取りなしがあるから、私たちは祈り事ができるのです。

永遠の命について、私たちは共に御言葉に聴きました。永遠の命とは、神と共にある命です。私たちがこの世にあって主イエスの後を歩むとき、私たちの命は神と共にあるのです。その命に死は入り込むことができません。

何か私たちは、信仰について、ゴールに到達しなければ救いは得られない、と考えてしまうのです。学びの様に試験を受けて合格しなければ信仰は与えられないような誤解してしまう。でもそうではありません。永遠の命とはゴールまで行き着いたときに得られるメダルのようなもの、ではないのです。私たちは完全でなくて良いのです。どのみち神の様に全てを理解することなどできないのですから。そうではなく、ただ信じて主イエスの後に従って歩めば良いのです。その過程に救いはあります。

2018/5/6「聖霊について」

ヨハネによる福音書16:12-24

春になり、暖かい日が続くようになってきました。この3月まで私の住んでいた三宅島ではもう海に入る事のできる時期になります。

この海ですが、陸地から水面を眺めるなら、波立つ流れのない鈍重な水の溜まりのように見えるのです。でも水の中を潜ってみるなら、その内部を幾つもの細かい流れがある事がわかります。それは右から左ではなく上下にも、縦横無尽に幾つもの道が作られているのです。なぜその様な細かい海流が作られるのか、というと、それは地形や水温度差、潮の満ち引き、大きな海流の影響などによります。だから季節や時間によってその流れは変化します。この流れはカレントと呼ばれるのですが、潜っているとき、このカレントに乗るなら、何の力を加えなくても身体は進みますし、逆にこのカレントに逆らって進もうとするなら、大変な体力を使うこととなります。海流の流れは目で見ることは出来ませんが、水の中で自分の身体を動かすと、その動きに掛かる抗力によって流れを知ることができるのです。

なぜ、この様な事を話したのか、というと、それは私たちが聖霊を頭に思い描くための手引きになると考えたからです。聖霊という存在を私たちは見る事はできません、五感を以てしても確認する事はできません。では存在しないのか、というと、そうではありません。私たちがこの世にあって行動する時に聖霊は関わられています、そして私たちが後でその行動を振り返ったとき、そこに関われていた聖霊の存在を知ることになるのです。

主イエスはこの様に話します。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ福音書3:8)

そもそも「聖霊」はヘブライ語で「ルーアハ」という言葉です。この「ルーアハ」は「息」とか「風」という意味の言葉なのです。つまり木々の枝が風に吹かれて揺れる動きを見て、風の流れを知るように、人は目に見えない聖霊の存在をその働きによって知るということです。

しかし、聖霊の働き、というと私たちは何か身構えてしまうのです。なぜなら私たちは霊的なモノを感覚的に遠ざける傾向があるからです。それはたぶん、科学技術が万能であるかのように錯覚している世の雰囲気にあって、目に見えないこと、理解できないモノを怖がる傾向があるからではないかと、思います。疑心暗鬼という言葉の様に、私たちは闇を疑いの目で見るとき、その奥に鬼がいるように感じてしまうのです。もしくは営利目的で人の恐怖心を煽る詐欺的な行為も横行しているので、霊と聞くだけでいかがわしさを感じてしまう、という事もあるのかと、思います。

ではこの聖書に書かれている真理の霊、つまり聖霊は私たちにとって敬遠すべき存在なのか、というと、そうではありません。聖霊は私たちを良い方向へと導かれるからです。なぜ、良い方向なのかというと、聖霊とは神の霊であり主イエスの霊だからです。主イエスをご自分に従う弟子たちを牧者として導いた様に、私たちも聖霊によって青草の原、憩いのみぎわへと導かれます。そして主イエスが人々を罪の束縛から解放されたように、自由にされ、幸いを得たように、私たちも聖霊の導きによって救いへと導かれるのです。

そしてもう一つ、聖霊には大切な役割があります。それは私たちに真理を悟らせる、という役割です。今朝与えられました御言葉に、こうあります。

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ福音書16:12)

ここで主イエスは聖霊を「その方」と言い表します。「聖霊」の事を「彼」と訳す聖書もあります。それはなぜかというと、聖霊は私たち一人一人と一対一の関係を以て関わられるからです。主イエスがこの世の人、一人一人と関わられたように、いつも私の傍らにいて、私を招き、私を導かれると、そう、主イエスは話されているのです。

では、此処に書かれている「今、あなたがたには理解できない。」とはどういう意味なのでしょうか。

この言葉を主イエスが弟子たちに話したのは、主イエスが十字架に架かる前日の夕方です。この後、夜になり主イエスは捕らえられ、その日の昼間に十字架にかけら殺されます。(日が沈んだ時から一日が始まるので、その日となります。)主イエスは祭司たちの罠に架かり、その策略によって殺されるのです。それはこの世の目で見るなら完全な敗北です。その出来事にまったく意味など見いだす事はできない、完全な失敗なのです。しかし主イエスはその事態の意味を、自分がいなくなった後に遣わされる聖霊が明らかにして下さる、と、つまりその意味を悟らせて下さると、ここで話すのです。

しかし私たちにとって「その時、聖霊が真理を明らかにして下さる」という事は安易な事ではありません。なぜなら、それは私たちの忍耐が試される事だからです。私たちは聖霊によって真理が明らかにされるまで、苦しみの中に身を置き、そこで待ち続けなければならないのです。逃げ出す事も、妥協する事もなく、留まり続けなければならない。それは私たちにとって重い苦しみを伴うことです。

20節以下にこの様に書かれています。

「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」(ヨハネ福音書16:20)

主イエスの弟子たちはどうであったかというと、彼らも主イエスの十字架の後、苦しむのです。彼らは主イエスと捕らえに来た兵士たちを恐れその場を逃げます。そして主イエスが裁判にかけられている間は身を隠し、その後は自分たちも主イエスと同じように捕らえられるかもしれない、という危機的な状況に追い込まれます。でも、彼らが一番苦しんだのは、彼等自身の良心の呵責だったのだと思います。自分たちが主イエスを裏切ったという事実。あれほど従い続けますと誓ったのに、彼らはあっさり主イエスを裏切ったのです。

そして三日の後、主イエスは復活されます。では、この時、聖霊が彼らに真理を明らかにしたのか、というと、そうではありません。この復活によって弟子たちは主イエスの十字架に架かった意味を、神の御心を悟ったわけではありません。

トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ」復活を信じない、と話しました。マリアは復活した主イエスに出会ったとき、主イエスが生きていたのだと、勘違いして、主イエスに触れようとします。でも主イエスから「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」と諭(さと)されるのです。ペトロに至っては主イエスが復活した姿を見たにも関わらず、また漁をするために舟に乗り湖に網を投げるのです。誰も、主イエスが十字架に架かられた意味、また復活した意味を悟ってはいないのです。

しかし、主イエスが40日の後に天に帰られたその時、その代わりに聖霊がこの世に遣わされ、その聖霊の助けによって弟子たちは、この十字架の出来事の意味を悟る事になります。そして、彼らは聖霊を受けて真理を悟らせられ、喜びに満たされます。十字架と復活によって世の罪が滅ぼされたこと、この世に天からの光が差し込み、闇が消え去ったこと、そのために主イエスが十字架に架かりそして復活されたのだと、彼らは悟るのです。そして彼らは、その喜びを全世界へと伝えるために出かける事となるのです。

聖霊について、聖霊は神と主イエスと同格の存在です。教会用語ですが「三位一体」という言葉で言い表されます。つまり聖霊は、私たちそれぞれ一人一人の傍らに、今、寄り添っていて下さり、主イエスが弟子たちを支え導いた様に、私たちをも支え導いていて下さる、という事です。

そして聖霊は私たちが聖書を読むときに、その御言葉の背後にある深淵に光を当てて下さり、その意味を悟らせて下さいます。パウロはこの様に話します。

「また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(1コリント12:03)

私たちが「イエスは主である」と告白する時、私たちは自分の力で「イエスは主である」と確認し、信じ、告白したのではありません。聖霊が私に「イエスは主である」と真理を明らかにして下さり、その聖霊の導きを信じる事によって私たちは告白する事ができたのです。

私たちはこの世にあって幾つもの課題を与えられます。その時は聖霊の助けを信じ、祈り、聖書に聴きましょう。どこに行くべきか、忍耐を持った聖霊に聞き続けましょう。そうすれば、聖霊は行く道を示してくれます。それだけではなく、どんな苦難でも乗り越えられる力が与えてくださいます。なぜなら聖霊は、その苦難の先にある希望を悟らせてくれるからです。