礼拝説教原稿

2018年4月

2018/4/29「私に繋がっていなさい」

ヨハネ福音書15:1-11

努力が実を結ぶ、という事ほど嬉しい事はないと、そう思います。この4月に新しい学校で学び始めた人たち、新しい会社で働き始めた人たちを見ると、長い努力が実を結んだんだな、と他人事ながらに嬉しくなります。実を結ぶこと、それはある程度の時間を必要とするのです。また途中で挫折するとか、最後に実が落ちてしまうとか必ずしも全てが結果に到達する訳ではないのです。でも、だからこそ、ハードルが高ければ高いほど、実を結んだときの喜びは、大きくなるのだと思います。長い間かけてコツコツと積み重ねてきた努力が実を結ぶこと、それ以上に私たちにとっての喜びはないのです。

でも、今日与えられている御言葉には、少しばかり身が竦(すく)む言葉が書かれています。それは「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」という言葉です。私たちの信仰生活において、その信仰が実を結ばないのなら神は私たちを取り除いてしまう、そう聞く事ができるからです。

この御言葉を聞く度に、私は少々動揺するのです。いつも「私はちゃんと信仰の実を実らせているだろうか」と「信仰の実を結ばない、切り取られる側の枝になってはいないか」と、自問自答してしまうのです。でも、ここで正しく理解しなければならないのは、「信仰の実り」とはなにか、ということです。信仰の実りとは、例えば信仰者が伝道活動をした結果の事ではありません。「今週は5件訪問した、礼拝に新来会者が1人加えられた」と、ついつい、自らの活動の結果を、信仰の実りと勘違いしてしまいうのです。でも、それは間違いです。私たちの価値観が、この世の成果主義という論理に染められているからその様な誤解をしてしまうのです。もう一つ、こんな勘違いもあります。「私は自分の病気が治るように一生懸命に祈ったのだけど、神様は答えてくれない。実りは与えられない」信仰を持つ事の結果が自己利益の追求とか、欲求の充足に向いているなら、この様な誤解をしてしまう事になります。

では、ここで主イエスが話されている「実を結ぶ」とは、どういうことでしょうか。その実とは「愛」の事です。それは聖書に書かれた愛、主イエスがその十字架の姿を通して私たちに示した愛です。その人のために自らの命を断つことも厭(いと)わない愛。敵であろうが自分にとって都合の悪い相手であろうが関わり続ける愛。主イエスが最後の時に弟子たちに守る事を命じた掟「愛」が、私たちに与えられた信仰の結実した果実なのです。

その様に理解出来ると、この御言葉が決して、私たちを脅すために、主イエスが話された言葉なのではない、という事が分かります。愛とは最終的に誰かと関わり合う事です。つまり、人と人とは関わり合えば合うほど、その関わりは太くなります。逆に関わり合わない、声をかけない、その人の存在を黙殺する、となると、その関わりは細くなり、最終的には消滅してしまいます。

神は私たちに信仰の実としてこの世に愛を実らせなさい、多くの人と関わり、愛を基(もとい)とした関係を築きなさい、そうするなら、神はその関係をいよいよ豊かに実を結ぶように手入れされ、更なる恵みを与えて下さるのです。しかし逆に、私たちが自分に与えられた信仰を自分だけで味わう事に満足し、トナリビトとの関わりを蔑ろにするなら、神がせっかく与えて下さった信仰の実は枯れてしまう。そしてその枝は折られ、捨てられてしまうと、そう話されるのです。

では私たちは、この愛を、どうやって実現していけば良いのでしょか。それが、この5節の言葉、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」という言葉なのです。ここに答があります。

つまり、私たちは自分自身の能力や力、努力によって、この世に信仰の実、つまり愛を実らすのでは無いのです。葡萄の枝は途中で折れてしまえばすぐに枯れてしまいます。その枝は決して実を付けることはありません、逆に繋がっていれば、繋がっているだけでそこから栄養と水が送られてきて、実を付けることができるのです。同じように主イエスに繋がっている事、主イエスに繋がっていれば、そこから水と栄養が送られて来て、私たちは実を実らせる事ができるのです。

ヨハネによる福音書4章には、主イエスがサマリヤの地の井戸の側で休まれた場面が描かれています。そのヤコブの井戸と呼ばれる場所で主イエスはサマリヤの婦人と出会い、彼女に水をもらえないかと、願います。彼女との会話の中で主イエスはこの様に話します。

「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ04:14)

私たちがこの世にあって、私たちが愛を実現する、という事とは、私たちが自分の内に主イエスという泉を持つことです。その泉から水が湧き出すように、愛がわき出し、その愛を自分に関わっている人と分け合うとき、私とトナリビトとの関わりの中にあって、共に魂が潤されるということです。

でも、私たちは少々注意しなければならない事があります。それは私たちがこの神の恵みに対して、自分の努力とか能力を加えたとき、それらは、かえって水を濁らせる不純物になってしまう、ということです。

主イエスはご自分の元に幼い子ども連れてきた母親に対してこの様に話します。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:03)子どもは自分の力も努力もまた成果も求めないのです。なぜなら何も持っていないからです。しかしだからこそ、純粋に神の恵みをそのままに受け容れるしかない。そこに本当の愛が働くと、主イエスは話されるのです。

更に主イエスはこのように話されます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

主イエスに繋がっているなら、そこから水と養分が与えられ、私たちは豊かに実を結ぶことができる。自分の努力や試みの結果ではなく、繋がっているだけでいい。その恵みを素直に喜び、周りにいる者たちと分かち合う時、そこに愛の交わりが与えられ、その交わりは、更に豊かな恵みとなります。

ただ繋がっているだけでいい。でも、この繋がっている、という事が、とても難しい事も、主イエスは知っているのです。

主イエスはこの言葉を、ご自分が十字架にかけられる前の晩に、弟子たちに話されました。つまり、主イエスが自分たちの近くに居なくなった後に、弟子たちに、それでもこの場に留まっているようにと話されるのです。そして、この場つまりキリストに従う者たちの交わりである教会に留まっているなら、その交わりは愛の源泉となり、そこからわき出す水を飲むことに依ってあなた方は清められ、この世にあって実を結ぶ事ができる。その姿を通して、あなた方は神の栄光、つまり神がおられ、この世と関わられていることを表す者となると話されるのです。

では弟子たちは、主イエスが十字架に架かった時、主イエスにとどまったのか、というと、そうでは在りませんでした。彼らは逃げました。主イエスから離れたのです。しかし、それでも主イエスは復活されました。離れていった弟子たちの下に現れ、今度は主イエスの側から、彼らに手を伸ばし、弟子たちと繋がって下さったのです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」そして弟子たちは、主イエスに繋げられ、その実りをこの世の全ての人と分かち合う為に全世界に別れて伝道を始めるのです。

主イエスは復活を通して弟子たちに、彼らが帰属する場所を明らかにされました、それはこの地上ではなく天上にあると教えられたのです。

卒業クリスチャンという言葉があります。何年かは熱心に教会に行き、聖書を学び、奉仕をするけれど、次第に距離を置くようになり、教会から卒業してしまう人たちの事です。自分が必要な教養や理念、知恵、社会に対する啓蒙や活動について、聖書はこの世の利害の外からの正解を、私たちに教えてくれるからです。そして一定量学んだら満足してしまう。自分はもう全て分かったかのように考えてしまう。しかし、教会は聖書勉強会ではありません。教会とは、主イエスに従う者たちの集まりです。その中心には、泉があり、その泉からわき出す命の水を共にいただく場所なのです。私たちは学ぶために礼拝を守るのではなく、礼拝を通して、それぞれの魂に養分と水をいただき、この礼拝からこの世に送り出されて、そこで、実を付けるのです。つまり神の明らかにされた愛を実践していくのです。

今日私たちが聖書の御言葉に聴いたように、私たちは自分の努力や能力でそれを行うのではありません。そうではなく、私たちは私たちそれぞれがそれぞれの内に与えられている泉からわき出す水を、自分の周りに居る方々にも分け与え、共有するのです。主イエスは最後にこの様に話されます。

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」

私たちはこの喜びを、この世の全ての人たちを分かち合う。その様な生き方こそ、本当の実りのある人生、意味のある人生なのです。

2018/4/22「愛とは関わり続ける事」

ヨハネ福音書13:31-35

「栄光」という言葉について、聖書では度々この言葉が使われます。この栄光という言葉は、ラテン語のグロリアでありまして、この言葉も讃美歌やミサ曲などで多く用いられているので、お聞きになっている方も多いと思います。

でも聖書の御言葉の中で使われている「栄光」という言葉を読む度に、なにか違和感を感じられている方も居られるのではないかと思います。「栄光」という言葉について、国語辞典を引きますと「人が成功・勝利などによって他人から得る好意的な評価のこと。」とあります。つまり私たちが日本語として日常的に使う「栄光」とは、栄誉を受けるとか、名声を得るとか、要するに「褒め称えられる」という意味合いの言葉なのです。でも、御言葉の中で使われている栄光という言葉は少々意味合いが違う様に思えるのです。例えば、旧約聖書では「神殿を主の栄光が満たした」「主の栄光が彼らに向かって現れた」とか、新約聖書では「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」という使われ方をしているからです。

では、聖書で使われている栄光とは、どの様な意味の言葉か、と調べますと、そもそもの意味が違う、という事が分かります。この栄光という言葉はギリシャ語のドクサを訳したものです。そしてこのドクサとは、ヘブル語のカーボートを訳したものです。このカーボートの意味は「神の臨在の目に見える光」を意味する言葉なのです。

神の臨在の光とは、例えば、主イエスがペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登られた場面に描かれている光のことです。主イエスがモーセとエリヤに会われたとき「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」と書かれています。さらには、弟子たちは光り輝く雲に覆われた、と書かれています。この様に、神がこの世に臨在された、つまり神が直接この世に触れられた時に、人はそれを強い光のように感じる。その光を聖書では栄光という言葉で伝えているのです。

この栄光という言葉について、その意味を理解しますと、今日の御言葉の意味が腑に落ちるのではないか、と思います。逆に、この栄光という言葉を正しく捉えていないと、何が何だか理解しづらくなるのです。

主イエスが十字架に架かる前の日の晩、主イエスは弟子たちと共に過越の祭りの食事を取ります。そこで弟子の一人、イスカリオテのユダが自分を裏切る事を知り、ご自分が神の下に帰る時が近い事を悟られます。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。:02  夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」(ヨハネ13:01-2)

そしてイスカリオテのユダは主イエスを裏切るのです。彼は食事の席から一人立ち上がり、主イエスを銀貨十枚で売るために祭司の下に走るのです。

ここから、先ほど読みました御言葉となります。主イエスはこの様に話します。

「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」(ヨハネ13:31)

ユダが自分を裏切った事を知って、なぜ主イエスは自分が栄光を受けた、と話されたのでしょうか。普通に考えるなら、自分の愛した、信頼していた弟子の一人が自分を裏切ったと知るなら、悔しがるとか、苛立つとか、憤(いきどう)りを感じるとか、哀しむとか、そんな、感情を覚えるはずです。でも、ここで主イエスは「私は今、栄光を受けた」と、そう話すのです。栄光という言葉を、栄誉と捉えるなら、なんだか主イエスが取り乱された様に思えてしまう。これから始まる苦難と、十字架の死を主イエスが喜んでいる様に、受け取れてしまうのです。

でも、そうではありません、聖書の話す栄光とは、神がこの世に触れられた時に私たちが感じる光の事です。ここで主イエスは、ユダの裏切りに端を発した、これから始まる十字架の死と復活の出来事によって、神がこの世に触れられる。天と地の隔たりが崩され、神の光がこの世を照らすと、その様に話しているのです。

そして更に主イエスはこの様に話します。

「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」(ヨハネ13:33)

「私が行くところにあなた方は来る事ができない」これは主イエスが神殿の境内でファリサイ派の者たちに話した言葉です。そして、ここで更に、弟子たちにも、自分の行くところに来る事はできないと話すのです。では主イエスが天に昇られた後に、弟子たちは神の下に、天の国に行くことができないのか、というと、そうではありません。

主イエスが受ける栄光、つまり神がこの世を照らす光は、この世だけではなく、陰府までも照らすのです。つまり、主イエスは十字架に掛けられ死んで陰府に下り、その陰府を光で照らし、その暗闇をまったく無効にする、陰府は存在しなくなると、だからもう誰も陰府に下らなくて良くなる、もう行くことができないと、そう話されるのです。

エデンの園を追放されたアダムの罪に拠って神と人との間に生じた深い淵は、主イエスの十字架と復活によって取り払われたのです。パウロはこの様に話します。「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(1コリント15:22)

マタイによる福音書で、主イエスが十字架の上で息を引き取られる場面はこの様に描写されています。「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(マタイ27:50-53)

主イエスが復活した時にこの世に起こった出来事は、丁度お風呂の栓が抜かれた様なものなのです。主イエスが開いた所から、この世のすべてが神のもとへ流れ出したのです。それが、神がこの世に救い主を遣わし、その救い主によってこの世のすべての者が神の救いに入れられた、という事なのです。

主イエスの死と復活によって陰府は消え新しい世界が始まります。そして新しい世界には新しいルールが必要になります。新しい国が作られるとき、最初にその国の憲法が定められるように、です。そこで主イエスは弟子たちに話すのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

「互いに愛し合うこと」なぜこれが新しい掟なのか、というと、その前提として、旧約聖書のモーセ五書に記された、モーセが神から託された十戒、そして律法という掟の存在があります。神はユダヤの人々がこの世にあって迷わない様に、守る為に、モーセを通してこの掟を下さったのです。しかし、彼らはその掟を自分たちを守るためではなく、お互いに裁くために使う様になるのです。互いに互いを縛る道具として、この掟を用いるのです。なぜそうなってしまったのか、それは彼らが神との関係から離れたからです。関係が断絶したからです。

どんな良い言葉も、そこに相手を思う愛がなければ、ただの雑音なのです。同じようにどんなに正しい律法でも、そこに相手を自分自身の様に大切に思う愛がなければ、お互いにお互いを縛り合う頑丈なロープにしかならないのです。パウロはこの様に話します「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」(1コリント13:01)

だから主イエスは、神が先にモーセを通して与えた律法に、この新しい掟「互いに愛し合いなさい」を加える事によって完成させるのです。ご自分が弟子たちを愛されたように、この世のすべてのもの、ご自分に背き、ご自分を十字架に掛けた者たちとも最後の最後まで関わり続けられ、十字架上にあっても、彼らに赦しが与えられる事を神に願われた様に、主イエスはこの世に生きるすべての者を、愛し尽くされました。そして、その姿を私たちに示されたのです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)

そして主イエスは「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35)と話されます。つまり私たち信仰者は、愛によって補完された完成した言葉を用いなさい、と主イエスは促されているのです。完成された言葉とは、その人を愛し、その人を成長させ、その人を生かす言葉です。私たちは律法的な、相手を裁く言葉を使うのではなく、相手の言葉を塞ぐ様な言葉を用いるのではなく、相手を成長させる言葉、互いに命を分け合う言葉を使うのです。

互いに愛し合いましょう、互いに相手を成長させる言葉を用い合いましょう。

2018/4/15  ヨハネ福音書10:7-18

「あなたは守られています」

「私は良い羊飼いである。」この主イエスの御言葉は大変有名ですし、特になにか難しい事を話されている訳ではないと私たちは考えてしまいがちです。私自身も子供の頃から聞いている話でありますし「ああそうだなぁ」程度で読み飛ばしてしまいそうになるのです。でもやはり、そう簡単には読み飛ばせない大事な事をイエス様はここで話されています。

今朝私たちは、この御言葉から「私たちは神に守られている」という事について、共に聴いていきたいと思います。

先ず、この御言葉を読むにあたって、主イエスは誰どこを向いていたのか、という事を見ていきます。この御言葉の場面の前で主イエスは生まれつき目の見えない男の目を開かれるという奇跡を為されます。主イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその男の目に塗り「シロアムの池に行って洗いなさい」と話されるのです。彼が言われた通り、目についた土を池の水で洗うと、目が見える様になります。周りにた人々はこの男の目が開かれ、見える様になった事に驚きます。そして「これは座って物乞いをしていた男ではないか」「いや、似ているけれど違う」と言い合いになるのです。その真偽を明らかにするために、人々は彼をファリサイ派の人たちの所に連れて行きます。

この目を開かれた男はファリサイ派の人たちの前で、自分は物乞いをしていた目の見えない男、本人だと話します、そして自分の目が開いたのは主イエスであり、主イエスが自分の目を開いたのだと、話すのです。

しかし、ファリサイ派の人たちはこの男の言葉を信じないばかりか、彼を、そして主イエスを激しく非難しはじめるのです。

なぜ、ファリサイ派の人々が、この目を開かれた男の話を受け容れる事ができなかったのか、というと、それは、彼らにとって、この物乞いをしていた男は、神の救いの対象ではなかったからです。つまり、この男は救われてはいけない者、だったからです。

ファリサイ派と呼ばれる人たち。彼らはユダヤ社会にあって民衆の教師としての役割を与えられていた者たちでした。日々聖書を学び、聖書(旧約聖書です)の一文字一文字までも丹念に探り、仲間同士で議論をし、それだけではなく町に出て人々にモーセの律法を教え、その律法を守る生活の指導をしていました。勿論自分たちも、律法を厳格に守り、そこから逸れない生活を自分に強いていました。

彼らは人々に、律法を守るならば、あなた方は神に認められ、救いを得られると説いていました。自分たちの様に厳格に律法を守り神殿で捧げ物をし、礼拝を献げなさいと話していたのです。そうすればあなたたちは神の救いに与(あずか)る事ができると、教えていたのです。

ですから、この目を開かれた男の存在は、彼らにとって不都合だったのです。目を開かれたこの男は、それまで物乞いとして生活をしていました。当然、神殿に捧げ物をするはずもなく、律法に沿った厳格な生活など、できる筈もないのです。そもそも、ユダヤにあって障害を持った者は神殿に入るどころか、その庭に入ることもできませんでした。なぜならファリサイ派の人たちは、彼らが障害をもって生まれて来た理由について、彼らが罪深く、神の罰としてその様な障害を受けたのだ、と人々に説いていたからです。神に逆らうモノは神の罰を受ける。彼らにとって障害を与えられた者たちは格好の見せしめの材料だったのです。「自分たちに従わないなら、あなたも神に嫌われ罰を受ける」と人々を脅す事ができたからです。

ですから、この男の目が開かれたことについて、どんなに、この男が興奮して、喜んで主イエスの業(わざ)が実際にあったと説明しようとも、ファリサイ派の人たちはその言葉を受け容れる事ができないのです。もし本当に、主イエスが彼の目を開いた、というのであれば、主イエスが彼の罪を赦した、という事になります。でも神以外に人の罪を赦すことはできないのです。そして彼らにとって主イエスは人に過ぎない訳ですから、その奇跡を行った主イエスも彼らにとっては、在ってはいけない存在となるのです。

目が見えず、物乞いをして生活するしかなかった、この男の目が開かれたこと、喜び、躍り上がる姿を、ファリサイ派の人たちは一緒に喜ぶことができなかった。それだけではなく、彼らは自分たちの立場、威厳、メンツを守る為に、彼の言葉を否定し、そして主イエスを口汚く罵るのです。

そのファリサイ派の人たちの行いを聞いた主イエスの言葉、それが先ほど読まれた御言葉です。主イエスは彼らのあり方を見て「私は良い羊飼いである。」と話されます。主イエスがこの「羊飼い」という言葉を用いた事は、明らかにファリサイ派の人たちに対する当てつけです。なぜならファリサイ派の人たちは“自分たちこそ”ユダヤの人々を守る羊飼いだと自負していたからです。彼らはその事に誇りをもっていました。詩篇23篇にこの様にあります。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。:02 主はわたしを青草の原に休ませ、憩(いこ)いの水のほとりに伴い:03 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」(PSA023)

自分たちはここに書かれた羊飼いである、と。彼らは自分たちこそ神からの教師であり、ユダヤの人々の心を信仰に留め、彼らを罪の誘いから守る役割を負っていると考えていたのです。

しかし主イエスは、そうでは無い、逆に彼らは強盗であり盗人だと話すのです。

「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。:08  わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。:09  わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」

ファリサイ派の人たちは守るべき羊の事など考えてはいない。彼らが守っているのは羊ではなく、自分たちの自尊心であり、立場であり、権威だと。その様な、モノを守る為に、彼らは羊を傷つけ、殺している「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたり」している、と、そう話すのです。

そして主イエスは自分の事を「羊を守る為に命を捨てる良い羊飼い」だと話します。「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」と。それはこれから始まる十字架の出来事を覚えつつ話しているのだ、と思います。でも、それだけではないのです。

ファリサイ派の人たちは、自尊心やら、立場やら、権威などを守ろうとがんじがらめになり、心が動かなくなっていると主イエスは指摘します。彼らはこの世の命を守る事に固執し、この世に縛られて身動きできなくなっている、でも、私は自分の命に対しても自由だと、捨てても再び得られる、と話すのです。

「守る」という事について、いつの時代に在っても権力を手にした者たちは、この「守る」という言葉を好んで使います。でも「この国を守る」と言う者たちの多くは、自分が指導者の地位に居座れる社会構造、体制を守りたいだけなのです。では彼らが悪意や邪念、欲望に任せて行動しているのか、というと、そうではありません。彼らは真剣に、自分が指導者として立ち、体制を維持することがこの国に生きる人々の財産と平和を守る事だと信じています。そのために自分たちは努力し、苦労し、批判や無責任な発言、不愉快な思いに耐え、戦っていると考えている。そこに誇りを持っているのです。それは、聖書に描かれているファリサイ派の人たちとまったく同じあり方です。彼らは「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたり」しているのです。

人の歴史を眺めて見るなら、いつか国が滅びることは必然なのです。でも国は滅び、民族が土地を移っても、それでも人は生きる手段を模索します。私たちは実は与えられた環境に対してかなり柔軟に創られているのです。

では、この世にあって私たちが、本当に守るべきもの、とは何でしょうか。でも、私たちが守るべきモノなんて何かあるのでしょうか。よく考えてみるなら、何もない事に気づかされるのです。なぜなら、この世にあって私たちが手にしているモノはすべて、神から与えられたモノだからです。羊のとっての牧場の草と同じです。しかも神は代価なく、つまり無償ですべてを与えられるのです。神は与え神は奪う、です。

とは言え「今、自分が手にしている地位は自らの血のにじむような努力と、我慢によって得たものだ」と考えられる方も、いるかもしれません。でも、そうでしょうか。集中して物事と向き合える頭脳と、精神的余裕が保てる環境と、働ける肉体と勝負を賭けられる時機を与えて下さったのは神なのです。そもそも私たちのこの命を預けて下さっているのも神です。ヨブ記にこの様にあります。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(JOB01:21)

また主イエスはこの様に話します。

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(MAT06:26)

この神の存在を忘れたとき、自分が神に守られていること、すべてが与えられたモノだという事を忘れたとき、私たちは今、自分が手にしているモノを手放せなくなるのです。もう二度と手に入れることができないと考えてしまうからです。そしてそれを手に握ったまま手放せなくなる。自分の力で守らなければと考える様になる。そして手に入れたモノを守る為に、人を傷つけ、奪い、争うこととなる。

命についても同様です。主イエスが復活して弟子たちの前に現れました。その復活を通して神は私たちが命を手放しても新たに与えて下さると、知らせて下さったのです。だからそこに固執する必要はありません。

私たちは神に守られています。だから自分の力で守らなければならない事は、何もありません。その信仰を与えられた私たちは牧者である主イエスの声を聴き、その声の方に向かうのです。

2018/4/8「信じられる幸い」

ヨハネ福音書20:19-31

今朝、私たちに与えられた聖書の箇所、ヨハネ20章19節以下です。ここには主イエスの弟子の一人、トマスの物語が描かれています。このトマスを「うたぐり深いトマス」と覚えている方もおられるのではないでしょうか。

では、このトマスとはどういう人物なのか。彼は単に疑い深いだけだったのか、でも少し違う様に思えるのです。では一般的に言われている様に、彼は物事を論理的に、知的に見る現実主義者だったのか、というと、どうでしょうか。彼を知る上で、彼の言葉を残している聖書の箇所は3つあります。一つは今日の箇所ですので、他の二つを見て行きます。

一つ目。主イエスと弟子たちがユダヤ人たちに追われ、死海の辺りヨルダン川の向こうまで逃げていた時の事です。そこにベタニアに住むラザロが死にそうだと、連絡が入ります。しかし主イエスは連絡を受けても、すぐにその場を動かれませんでした。しかし、二日目になって急に「ベタニアに行こうと」弟子たちに告げられるのです。ベタニアという村はエルサレムから東に3㎞ほどの所にあります。つまり、そこに行くなら、彼らはユダヤ人たちの激しい迫害を受ける事となる。石を投げられ、大怪我を負う、下手をすると殺されるかもしれないのです。

弟子たちは主イエスに求めます。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」しかし、ユダヤに戻ろうとする主イエスの意思は堅いのです。そこで、このトマスは言います「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」この言葉はトマスの決意の言葉ではありません。主イエスが死ぬ時は自分も死ぬのだ、と、そうではなく単なる皮肉です。彼は主イエスに嫌味(いやみ)を言うのです。

二つ目、主イエスが十字架に掛けられる前の晩のことです。主イエスと弟子たちは過越の祭りの食事を共に取ります。そこでユダが主イエスを裏切りテーブルから離れ、祭司たちの下に向かうのです。

その後、主イエスは残った弟子たちに「自分がここから別の場所に行くと。」話します。

「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」

この時、主イエスが話した言葉は、誰が聞いても決別の言葉なのです。死地(しち)に赴く覚悟の言葉だと誰もが分かるのです。この言葉を聞いてペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」と、話します。「あなたが死ぬなら私も死にます」と。まるで任侠映画の場面の様です。しかし、その様な緊迫した場面の中で、トマスは一人、その場の空気を読まない発言をします。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

この二つの場面から見える事は、トマスと主イエスの関係性です。確かにトマスは主イエスを自分の教師として尊敬しているのです。弟子の一人として主イエスに従っている事からも、その事は揺るがないでしょう。でも、まったく無知蒙昧に主イエス信じているのかというと、そうではないのです。何処か外側から主イエスの行動と言葉を客観的に見ている、それがトマスなのです。つまりトマスは無条件に主イエスに心を開いるわけではない、のです。

なぜ彼は主イエスに心を開くことができないのでしょうか。人が相手に心を開くことができない理由はただ一つ、それは欺される事を恐れるからです。

自分自身の事を顧みると分かります。私たちは欺される、裏切られる経験を重ねるごとに、その心を閉ざすようになります。さらに馬鹿にされることを恐れて虚勢を張る。他人とできるだけ距離を取る、親しくなることを恐れる。そして徐々に自分の殻に閉じこもり、他人の言葉を疑うようになり、皮肉な言葉で受け答えをするようになる。希望や理想を疑い、現実的な見方や物言いをする様になります。まさに、ここに描かれているトマスそのものです。

きっとトマスは過去に幾度も信頼を裏切られる経験し、繊細な心に深い傷を負っていたのではないでしょうか。聖書には書かれていません。でも、彼の主イエスとの受け答えを見て、そう考えるのが自然だと、私には思えるのです。

そして、今日、私たちに与えられた御言葉の場面です。

主イエスが十字架に葬られ三日の後、マグダラのマリアは主イエスの納められた墓に向かいます。しかし、そこに主イエスの亡骸は無いのです。彼女は亡骸が墓から取り去られた事を弟子たちに告げます。ペトロとヨハネは、墓に行き、その事を確認するのですが、それ以上の事をしないのです。主イエスの亡骸を探すとか、持ち去ったのは誰か調べるとか、もう一度主イエスの亡骸を取り戻すとか、そんな行動を彼らは一切しません。なぜか、彼らは主イエスを十字架に掛けた人々が次に自分たちの命を狙おうとするだろうと考えたからです。主イエスを十字架に掛けただけでこの騒動は幕引きになるのではなく、今度は主イエスに仕えていた弟子たちに、つまり自分たちに矛先が向くに違いないと彼らは考えるのです。

そこで彼らはエルサレムで活動拠点としていた家の二階に閉じこもり、窓を閉め、真っ暗な場所で、息を殺し隠れます。そこに主イエスが現れます。彼らの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と話されるのです。主イエスが目の前に光り輝く姿で現れた時、彼らは主イエスが復活されたと知るのです。それだけではなく、主イエスは弟子たちに聖霊の息を吹きかけ「恐れることは無いと、私はあなた方を、復活の証人として世界に遣わすと」話されるのです。

でも、その場に、トマスはいないのです。

私は、この場面を読む度に、なぜイエス様はトマスにこんな意地の悪い事をするのか、と考えていました。なぜトマスだけがいない時に、弟子たちの前に復活した自分の姿をお見せになったのか、と。でも、もし、この場にトマスがいたとしたなら、どうでしょうか。トマスは復活した主イエスの姿を見ることができたのでしょうか。出来なかったのではないかと、そう思えるのです。

人は、聞きたい言葉しか聞く事は出来ないし、見たいモノしか見えないものです。トマスがそこにいたとしても、彼は復活された主イエスを錯覚とか奇術的な何かとか、彼の堅くなった心は目の前の事実を受け容れる事なく、跳ね返したのだと思えるのです。

さて、彼が部屋に帰ってきた時、彼は窓を開け放ち、興奮して喋っている弟子たちの姿を見るのです。その姿を見て、彼は他の弟子たちに嫉妬します。自分だけ、主イエスを見ることが出来なかった。自分だけ仲間はずれにされた、また裏切られた、と。彼の堅い心はもっと堅くなるのです。彼はこの様に話します。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」意固地です。まるで駄々っ子のようです。

では、主イエスは彼をそのままにされたのか、というと、そうはありません。主イエスは8日後に、今度はトマスも他の弟子たちと一緒にいるところに姿を現すのです。そしてトマスに話しかけます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」この言葉を聞いたトマスは、復活された主イエスの姿を見ます。確かに主イエスは復活されたと、彼の心は復活された主イエスを受け容れるのです。そして彼は「わたしの主、わたしの神よ」と告白するのです。

トマスは、どうして主イエスの姿を見る事ができたのでしょうか。トマスの心は堅くなっていたのです。でも、それは、もう二度と誰にも傷つけられたくない、と心が痛みを負っていたからです。しかし、主イエスはその傷を癒されました。どの様にしてか、それは主ご自身が先に、自らの傷を見せる事によって、です。主イエスがトマスに見せたのは肉体的な傷、つまり手に空けられた穴と、脇腹を割き貫かれた傷ではなく、主イエスご自身が受けた心の傷だったのです。

主イエスが十字架に架かるとき、それまで主イエスを褒め称えていた群衆は主イエスに罵声を浴びせかけます。主イエスを慕って従って来た弟子たちも逃げ去ります。弟子の一人であったユダは裏切り、銀貨30枚で主イエスを売るのです。その人々の姿を見て主イエスは傷つかなかったのか、というとそうでは無いのです。主イエスは心を痛めた、苦痛と空しさ、自らの無力さを味わわれるのです。その心の痛みを主イエスはすべてトマスの前に晒されたのです。

トマスを前に、先ず主イエスが先に自分をすべてさらけ出されたのです。徹底的に自分の負った傷を赤裸々晒されたのです。その主イエスを見てトマスの岩のように堅くなった心はほぐされるのです。

この世にあって私たちは、つい虚勢を張ってしまうのです。自分が見透かされないように、騙されない様に、嘲笑されないように、自尊心が保たれるように。何より裏切られてもその傷が浅いように。でも、その様な日々は幸いな日々ではありません。お互い壁越しに牽制し合う関係性は空虚です、そこからは何も生み出されません。

主イエスは神は愛であると話されました、愛とは関わる事です。相手が自分に敵対したとしても、それでも関わり続ける事、それが愛です。その愛を主イエスは私たちの前に実践されました。だからその主イエスの後に続く私たちは、主イエスに倣うのです。私たちはこの世にあって恐れず、自らを相手にさらけ出すことができます。それが出来るのは信仰者である私たちだけです。なぜなら私たちは、この世にあって塵芥に等しい自尊心を保たれなくても良いからです。馬鹿にされても、嘲笑されても、痛くもかゆくもない。それは、私たちを負っている罪も含めて、そのままで神が私を認めてくれていると知っているからです。「誇る者は主を誇れ」という言葉のままに私たちは生きるのです。

2018/4/1「決して望みは絶たれない」

ヨハネ福音書20:1-8

イースターおめでとうございます。主は復活されました。主は天国への扉を開いて下さいました。「私たちは」死の後も空しくされることなく、この主イエスの後に続き、主イエスと共に天の国に行くことを許されています。

ここで私は今「私たち」と言いました。この「私たち」とは、この礼拝に集う「私たち」の事ではありません。この「私たち」とは、この世に命を与えられ生きている者すべて、という意味です。それだけではなく、この世に生きる、生きた、そしてこの世に生まれ生きるだろう、この世のすべての命、という意味です。その命がすべて、主イエスの復活によって、この世の肉体の死の後、天の国に入ることを許されることとなったのです。この世にあって信仰を与えられ、生きる事を許された者も、信仰から顔を背け、神に背いて生きている者も、すべての者が、天の国に入る道筋を、主イエスは自らの復活を通して、開かれたのです

そう聞いて、少し残念に思われる方も、いるのではないか、と思います。「自分はこの世にあって、頑張って信仰に留まってきた、私こそが、天の国にふさわしいのだから、私だけが、神に招かれ、天の国に入れるのだ」と。

でも、その様な考えは、明らかに間違えであると、冷静に考えれば気づかされるのであります。そんな事を言ったなら、誰一人として、天国に入る事のできる人など、いなくなってしまう事は明白だからです。

この世に生きる私たちは一人残らずその肩に罪を負っています。

神の御心に背き、神を蔑ろにする。神以外の偶像を心の中に作り、その神を拝む。自らが神のごとく傲慢に他人を計り、見下し、評価し、批判し、非難する。神との関わりを断つようにトナリビトとの関わりを断ち、話し合うことも分け合うこともしない。神を求め祈る者を別の道に誘導する、その祈りをあざ笑う。生きるに必要なすべてが神によって備えられ、対価なく生かされているにもかかわらず、その恵みを当然の報酬のように感謝なく浪費する。その様な罪にまみれる私たちが、決して天の国になど入ることが許される訳はないのです。神と対面する事などできないのです。

にも関わらず、神はその様な私たちを憐れまれるのです。預言者エレミアが証す言葉に「神は自らの内蔵が引き千切れんばかりに私たちの命を憐れみ」とありますが、神は私たちを、それでもどうにかして救おうとされるのです。それはどの様にしてか。

私たちが神の下に行く為には、その罪を拭う必要があるのです。しかし、私たちには不可能なのです。幾ら拭いても洗い清めてもコールタールの様にベッタリとへばり付いた罪を拭うことなどできないのです。炎で完全に燃やされて地の塵に戻されてもまだ清められない、では神はどうされたのか。

この世にあって罪を負われていない方は、主イエスだだお一人です。この世が神に創造されてより現在まで、そしてこの世の終わりに至るまで、罪を負われていない方、それは神の御子であり、神ご自身として肉体を得てこの世に下られた主イエスです。その無垢な方が、私たち罪人の代わりに、十字架に架けられた。鞭で体中の皮膚を引き裂かれ、茨の冠を被らされ、手足を杭で打ち抜かれ、脇腹を槍で刺し抜かれ、血と汗を流し、痛みを負われる。しかも、犯罪者の一人としてその死を群衆の前に晒され、人々にあざけられ、あざ笑われ、唾を吐きかけられ、失笑を受けられました。そして死なれた。

本来、その痛みを負い死ななければならないのは、私たちであるのに、その私たちの身代わりの生け贄として、自らを献げられたのです。その主イエスの赦しの言葉と血の代価として、私たちは洗い清められ、赦され、天に帰る事のできる者とされた。私たちは神の前に立つことを赦される事となったのです。

その神の愛の姿を、最も的確で、美しく描いている聖書の場面が、先ほど司式者によって読まれた、今朝私たちに与えられた御言葉です。

主イエスが十字架に掛けられ、死んだ後、その亡骸はアリマタヤのヨセフによって引き下ろされ、自分の為に用意してあった、まだ誰も納められていない、真新しい墓に寝かされます。なぜ、命が絶たれたすぐ後に、墓に納められたのか、それは、十字架に掛けられた日が金曜日であり、その日没から、安息日が始まるからです。安息日に亡骸を墓に納める事はできない、それどころか、如何なる作業も行うことを許されてなかったからです。

そして安息日があけた日曜日の朝早く、空が白み始めると共に、マグダラのマリアは主イエスの納められた墓に向かいます。彼女は、主イエスが死んでしまったとしても、それが息をしてない亡骸だったとしても、側にいたかった。ただそれだけなのです。でも、このマリアの淡くも切なる望みは、断ち切られます。

マリアが、墓に行ってみると、墓を塞いでいた大きな石は取りのけられ、墓穴の横に転がされたいました。それだけではなく、墓穴の中に横たえられているはずの主イエスの亡骸がないのです。

マリアは取り乱しながら、主イエスの弟子たちの下に走って戻り、その事を伝えます。その言葉を聞いたペトロとヨハネは墓に向かい、確かに墓の中に主イエスの亡骸が置かれていない事を確認するのです。そこには主イエスの身体を包んでいた亜麻布と、頭を覆っていた覆いだけが残されていた、と聖書には書かれています。二人は、落胆し、もと来た道を家に帰ります。でも、マリアは一人、そこに残り、立ち尽くしたまま、ただ泣くのです。

誰が、愛する主イエスの亡骸を運び去ったのか。

あれほどまでに、人々の前に晒し者にされ、見世物のように処刑され命を奪われた愛する主イエス。もう、命を奪ったのだから、せめてその亡骸を辱(はずかし)める事などしなくて良いではないか、せめて静かに墓に寝かせておいても良いではないか。彼女は悔(くや)しさと怒りと、しかし自分には何もできない無力さに苛まれ、全くの絶望の中、身体を震わせながら泣くのです。

そのマリアに声が掛けられます。その人は、マリアに尋ねるのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、その人を園丁だと思って話しかけます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

その人は、マリアに「マリア」と語りかけます。その声を聞いたときマリアは、その人が主イエス本人である事に気づき、「ラボニ」先生と答えるのです。

主イエスはマリアの絶望と悲しみを拭われます。復活という、この世のどんな力を以てしても不可能な仕方で、無から有を生み出す神の業で、死という、人のとって乗り越える事のできない深い淵を乗り越えて、彼女の絶望を拭われるのです。

主イエスはこの後、弟子たちの間に何度も現れ、話し、教え、共の食事をとり、そして40日の後に弟子たちの下を聖霊の火で清め、天に帰られます。そして弟子たちは、聖霊を与えられ、この主イエスの復活を全世界に証しする神の業に用いられることとなります。この主イエスの復活の出来事が神の福音であり、この世にあって教会が告白する言葉なのです。

主イエスの復活によってこの世は変えられました。でも、その喜ばしい恵みを不都合に思う者たちも、この世には存在します。他人を支配し、他人を自分の利益の為に利用しようとする者たちは、自分に従わない者は天の国に入れない、と主張します。彼ら自分に従う者だけが天国に行けると、話します。また、自分が神と同様に何事もすべて分かっている、分かっていなければならない、と考える者たちも天の国、永遠の命を否定します。この世が絶望と憎しみ、不満と枯渇に満ちている方が利益となる者たちも、主イエスの復活を否定します。復活を受け容れる事のできない者たちは、この世で手に入れた物が死によって奪われる事をおそれ、握りしめ、人を害してでも守ろうとします。自由を奪われ、この世にあって奴隷として生きる事となります。

そもそも、愛する自分の子どもたちの中から、この子は天国に入れるけど、この子は入れない、なんて事を神がすると思いますか?自分の独り子を、自分自身を耐えがたい痛みに落としてまで、私たちを愛されている神がそんな、選別をするはずがないのです。でも、ここで大事なこと。私の敵も神は愛されている、神にとって大切な存在だという事です。

主イエスの復活を知り、死の後も、まだ命があることを教会に集う私たちは知っています。死は絶望ではなく、始まりだと知っている私たちは、この世にあってどんな絶望的な場面に出会うことがあっても、決して望みを失いません。この世にあって絶対的な絶望だと思える死であっても、その先に希望があることを私たちは知っているからです。でも、だからこそ私たちは、与えられたこの世の命を、十分に意味あるモノとして生かすのです。時が来て神の前に立ったとき、恥ずかしくないように、生きるのです。

でも、それだけではありません。主イエスが弟子たちを復活の証人として全世界に使わした様に、私たちも、この福音、良い知らせを、この世に伝える役割が与えられています。簡単なことです。職場、学校、近所の交わり、家族、すべての人に「大丈夫だよ、すべての人は神に愛されているのだから誰もが天国に行く事ができるんだよ」と、そう話せば良いだけです。それが私たちの、この福音を託された者の、この世での役割なのです。